2001年12月31日(月)

 シルクロードの旅の途中、僕はずっと何かまとまったものを書けるのだろうかと考えていた。僕はまだ何も書いたこともなかったし、書いているのはせいぜいダイアリくらいのものだった。鍵穴があってそこに合うような鍵を作ってみますと言ったものの、まず鍵自体を作れるかどうかに漠然とした不安があった。鍵が鍵穴に合うかはその次の問題だった。旅を3ヶ月も続けたとき、そろそろ僕は鍵をつくるために帰国しなければという思いが少しずつ強くなっていた。

 渋谷郵便局に行って始めての「鍵」を出してきた。2週間でつくった鍵ゆえに粗もあるだろう。でも僕は「鍵」をつくれたことに小さな安堵と喜びを感じている。そしてもっともっといい「鍵」をつくりたい、色々なドアを開くことのできる「鍵」をつくりたいと思うのだ。 

・・・
 それにしても今年は転換の年だった。
 元旦の仕事に始まり、仙台への長期出張、退職、シルクロード、新しい道への第一歩。僕はようやく新しいスタートラインから一歩踏み出そうとしている。来年はあせることなく少しずつ軌跡を伸ばしていくことができたらと思う。

・・・
 殊勝にもこれを読んでくださっている皆さん。今年一年本当にありがとう。BBSやメール、そして生活の中で、いろいろな言葉やまなざしがどんなに僕の力になったかわかりません。来年もどうぞよろしく。
 皆さんがいい一年を送ることができることを心から祈ってます。


2001年12月30日(日)

『早朝の風の音に』

 Rが暗いうちから起き出して、用意を済ませると寝ぼけ眼のまま家を飛び出していった。七時過ぎの新幹線に乗って岩手に帰省するのだ。まだ闇の色の濃い石段を駆け足で降りていくのが小さく開いた窓の隙間から見えた。
 僕は夜の間ずっと達磨ストーブを横において、パソコンに向かってキーボードを叩いていた。なかなか思うとおりにならない文章に四苦八苦しながら。
 東の空が白み始めたのと時を同じくして、突然、風が吹き荒れ出した。南西側の窓の上にかけてある物干し竿が風に揉まれガタッガタッと必要以上に音を立てて揺れている。取り込み忘れている洗濯物が勢いよく窓ガラスにぶつかっている。僕は心臓をびくつかせて驚いてみる。それはまるで冬の山で迎える朝を思い起こさせる。

 耳元で小さくアラームが鳴り、シュラフの中で目覚める。冷涼な朝の空気がシュラフの穴から覗かせた顔にひんやりとあたっている。頭の脇に置いてあったヘッドランプを点灯し、白い息を吐きながら時間を確認する。横を見れば仲間たちが各々のシュラフの中で静かな寝息をたてている。まるで冷凍されて永遠の眠りの中にいるようにも見える。
 風がテントの布をばさばさと揺らしている。まるで風がその両手で故意に揺らしているかのようにも思えてしまう。今更ながら細いポールが頼りなく思える。外の硬い雪面に突きつけておいたスキーの裏面で、つけっ放しのシールが風にあおられている。そのせいでバタバタバタバタという張り詰めたような小刻みの音がやまないのだ。そして遠くからは沢から尾根へと吹き上げる風のせいで、意地の悪い悪魔が頬を緊張させて出したようなグォーーッという音が絶えないのだ。それらの音が目覚めたばかりの耳を極度に緊張させる。
 凍ったテントのチャックを開き、霜がついて硬くなった布をめくり上げ、隙間から外を覗くと、まだ世界は闇夜の中にあり上空では無数の星が瞬いている。空気は澄み切っているがとてつもなく冷たい。
 テントのチャックを閉めて、一度シュラフの温もりの中で冷たくなった手を温める。それからまだ夢見心地の仲間たちに「キショー」と声をかけようかしばし躊躇している。安らかな眠りに終止符を打たせ、この世界に呼び出そうかどうかで迷っているのだ。

 僕はそれから洗濯物を取り込み、ストーブを切って、パソコンの電源を切り、布団を頭からかぶって目をつぶった。


2001年12月29日(土)

ナオさんのダイアリに見習って今年見た映画5選(含ビデオ)


1.ユリイカ(青山真治監督)
2.花様年華(王家衛監督)
3.橋の上の娘(パトリス・ルコント監督)
4.ボーイ・ミーツ・ガール(レオス・カラックス監督)
5.キリング・フィールド(ローランド・ジョフェ監督)

続けて本10選

・最後の物たちの国で
・孤独の発明
・偶然の音楽
・リヴァイアサン(以上ポール・オースター)
・インド夜想曲(アントニオ・タブッキ)
・暗夜行路(志賀直哉)
・一月物語(平野啓一郎)
・行人(夏目漱石)
・熊の敷石(堀江敏幸)
・ラブ&フリー(高橋歩)
 ということでポール・オースターの圧勝。

 こうやって映画や読書を振り返ると随分実りのある一年だったなとつくづく思う。

 ロンドンだかパリだかにいる弟からメールが来た。僕のHPの「山女」という文章を読んで、自分の記憶が蘇り、感動を覚えたとのこと。心から嬉しく思った。


2001年12月28日(金)

  まずみじん切りにした玉ねぎとにんにくを炒め、そこに油をきったツナ缶と筋をしっかり取ったスナックエンドウを入れて更に炒める。大鍋でアルデンテまで茹でたスパゲッティーをそこに加え、ひとかけらバターを上から落として、溶けたところで皿に盛る。・・・これはレシピメモだ。
 それに大根とハムのさっぱりしたサラダをボールいっぱい添える。うちの親のイタリア土産なる白のキャンティ・ワインを、ワイングラスに注いでみる。いかほどのものかは知らねど、口当たりはとてもいい。
 決して高価なものではないけれど、贅沢な食事。こういうのがとっても好き。最後はワインの酔いに任せて一眠り。


2001年12月27日(木)

  5年前の春、僕は卒論をどうにか提出した。悔しいことにそれには屑程度の価値もなかった。修士論文は何が何でもいいものを書きたいという思いを強くさせるものだった。
 そこで敢えて大学の枠を出て、最新の分析機器が揃っている道立の研究所の戸を叩いてそこの研究補助員にして頂いた。データや機器は自由に使っていい代わりに、研究と平行して北海道の仕事をこなすというのが条件だった。人不足の道側の思惑と、学校の設備に不満を抱いていた僕の思惑が一致したわけだ。
 当時博士1年だったSSさんもちょうど僕と同時期に研究所の戸を叩き、程なくして僕らは知り合った。それから2年間、専門は僕が都市の緑地評価、彼がインドネシアの泥炭地分析と異なっていたが、まだ研究ツールとしてはメジャーではなかった地理情報システム(GIS)の分析手法などを試行錯誤しながら協力しあい、友人付き合いもさせて頂いた。
 僕がGISを扱う会社に入ってからも、SSさんは講習会などで来社することがあったが、変わらず師弟関係が続いた。そう、ちょうど1年前には会社の中をいろいろ案内したりもしたのだ。
 その後、僕が会社を辞めて針路変更した一方で、SSさんは順調に博士を取得し、今や東京農大の助手のポジションを得ている。

 夕刻、用賀からバスに乗って、農大の研究室にお邪魔した。広くて新しい研究室には十分に分析機器が揃っていて羨ましいくらいだった。
 それから近くへ飲みに行った。当時、僕らを引っ張ってくれた研究所の課長さんが自主退職されて、環境NGOを立ち上げたこと。研究所の後輩諸氏が学生の身分のままに会社を立ち上げたこと。女の敵と言われ続けた先輩が東大卒のスーパーウーマンと結婚したこと。それを歯ぎしりする研究所の年上の女性の話。そんなことを話して、話し足りなくて結局町田にあるSSさんの家まで押しかけて泊まってきた。

 その頃知り合った仲間たちの動静に、僕が違った選択をした場合の人生を朧気に物語っている気がして不思議な気がした。


2001年12月26日(水)

 人に必要とされていると感じることは大事なことだと思います。旅先で知らない街をひとりで歩いていたときそんなこと考えました。


2001年12月25日(火)

 下北沢でエドワード・ヤン監督の「ヤンヤン夏の想い出」見てくる。席はガラガラというか僕とRの二人しかいない。ホームシアターみたいな感じだったが、こんなんで経営は大丈夫なのかしら。映画のほうは映像はいいものがあったが、なんか全体の統一感がとれていない感じがした。この監督は先に映像が浮かんでそれをつないでいくような人なのだと思った。

 この先、居場所がなくなりそうな予感。どの場所にでも行けるようにかなり本気モードでやる必要が出てきた。結果が出るように頑張らないと。まずは年末まで疾走しよう。


2001年12月24日(月)

 『リセットボタン、あるいは砂の城について』

 先週末あたりから生活が夜型に進行しつつある。夜、書き物(打ち物)をしている上に昨夜はなかなか寝つけなくて、どうも朝がきても爽快な気分に欠ける。まるで庭の日陰に咲く露草のような気分だ。
 
 彼女改め同居人Rとチキンにスープにサラダ用意してシャンパンでメリー・クリスマスした。雪の深々とふり続く札幌のホワイト・クリスマスを知る身にとっては何か物足らなくもあるのだけど、クリスマスはやっぱりいいものだ。おしまいに、珈琲、その後に緑茶を飲んで甘いケーキを食べる。間接光の中を湯呑みからゆらゆらと立ち上っていく煙がとても素敵だった。

 2年半もつきあって、そして終わりを迎えて、ふと一体その間に理解しようとしあったものは何だったのか、疑問に思っている。恋愛というものは始めの期間を過ぎれば、お互いの欠点も足りない点もわかってくるものだけど、それを理解し合っていく過程こそが重要なのだと信じて疑わなかった。だからそういうものを簡単に放棄できるということがいまだによくわからない。
 放棄するのは楽だけれども、そこからまた新しい相手との間に積み上げていくのは0からしなければいけない。理解し合えるということの保障もない。・・といっても今回も理解し合えていないからこそ、もどかしい気分になるのだろうけど。そしてその事実がさらにもどかしくさせるのだけれど。
 結局、僕の役割は終わりということなのだろう。最近、たくさんのリセットボタンを押している気がするのだが、さらにリセットボタンを押してしまったわけだ。
 この先にあるのかどうか知らないけれど、また新しい女の人が現れて、珈琲を飲んだり散歩をしたりして好きな本とかについて話したりするのだろう。そして胸が少し痛くなったり、手をつないでみたりするのだろう。雨の日に音楽を聴いたり、海を見に行ったり、料理を作ったり・・・。泣いたり、笑ったり、怒ったり・・・。それに途方もない気がしているのは僕だけなんだろうか。

 ・・・少年は砂浜で城をつくっていた。足が痺れるくらいの間ずっとお天と様の下で砂をこねていただけあって、城はとてもいい出来ばえに仕上がっていた。少年は満足そうに息をついて額の汗を砂粒だらけの手でぬぐったりもした。そしてまた一心に砂をこねたり掘ったりしていた。砂浜を散歩していく人たちがこちらを見て、感心したような表情を浮かべていたりもした。
 そうだ城の脇に塔もつけてみよう。そうやって横から砂の塊を載せようとしていた。 そこに突如、大きな波がやってきた。少年がついていた膝の上にもしぶきが跳ね上がった。砂をさらう音がして波が引いていくと、全てが跡形もなく消え去っていた。少年はちょっと空をあおいでみたりした。真っ青な空を白いカモメがゆっくりと飛んでいた。
 少年は軽くため息をついて、再びゆっくりと砂を掘って新しい城をつくりはじめた。

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『硝子戸の隙間』 

 夜12時を過ぎて僕は年末に出そうと思っている文章をノートPCで打っている。ガラス戸の隙間が小さく開いていて、Rが台所の隅においてあるPCに向かっている後ろ姿が見える。Rはみのむしの残った仕事を片付けると言いながら、実はさっきからメールを見続けているようだ。そうして小さくため息を繰り返したりしている。僕はそういう彼女の姿を見て心配になる。あーやって威勢のいいことを言って別れ話をつきつけておきながら、実際にはうまくやれるのだろうかと。今日は散歩の途中に昔お金を騙されたときの話なぞしていたし・・・。一体この先ちゃんとやれるだけの自信があるのだろうか。もう僕の管轄外だし、余計なお世話なのかもしれないが、やはり彼女のことが心配になる。なんだかんだ言ってもやはりRが幸せになることを僕は願わずにはいられないのだ。ため息なんてつかないで、得意気に振舞ってればいいのにと思ってしまうのだ。僕くらい、いや僕以上に大事にしてくれる人間がちゃんとそこにはいるんだよね、大丈夫だよね。


2001年12月23日(日)

 夕刻、彼女が夕陽を見に行こうと言い出して、マフラーを首にくるくる巻いて、コートのポケットに手を突っ込んで外に出た。公園の雑木林を歩くと枯葉が乾いた音を立てた。カサカサという寂しい音を。台地へ上ると、ちょうど太陽が西の空を赤く染めて落ちていくところだった。
 胸に沁みる光景だった。そして、あの太陽と一緒に僕の一番大切にしていた感情というものが一つ落ちていったのだと思った。僕は最後までそれをみとどけた。
「さようなら、さようなら。」

 見上げると中空に冷たい月が一つ浮かんでいた。


2001年12月22日(土)

『喪失序奏』 
 

 22日22時、震度7の地震。

 昔、好きだった女の人が言った。
「T君のてのひらでは私の気持ちはこぼれ落ちてしまうの。」
「大丈夫、全て包み込むことができるよ。」
 そしたら哀しそうに笑っていたっけ。

 すべては失われていくから美しい。


2001年12月21日(金)

 昨夜寝る前にメールでザクロさんが教えてくれたサイトで性格診断テストなるものをやってみた。
(ちなみにサイトへはKさんのダイアリから行けるはずです。)
40個の問いを選択形式で答えるだけのものなので気軽にやったら、出てきた回答が見事に突いているし、というより突き過ぎていて、しばらくう〜んと唸って考える破目になってしまった。以下その診断結果。

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・性格
なかなか優しく思い遣りの深い性格ですが、無闇矢鱈に優しいのでは無く、或る程度合理的な計算の上に立った優しさの持ち主なのです。現実に即した冷静な分析判断が得意で、どんな場面に遭遇しても、我を忘れて激昂するような事は、滅多にありません。それは計算された理性から来るものも少なくないのですが、それよりも、元々、喜怒哀楽の落差が殆ど無いと云う感受性不足の面から来るものも、決して少なく有りません。

・恋愛・結婚
慎重に相手を選ぶ冷静な目と、矢鱈に相手の欠点を煎じ詰めない気持ちの余裕が有りますので、恋愛や結婚は纏まり易いでしょう。我慢強い上に思い遣りが有り、生活態度も合理的なので、性格的には最も離婚率の低いタイプの一つに属するでしょう。

・職業適性
表現力や想像力に欠けるので、芸能、芸術方面には不向きです。思い遣りや同情心が高いからと云って、宗教家やカウンセラーなどにも不向きです。何故なら、或る目的に沿って人々を扇動して行くような作業は性格的に苦手だからです。最も適している仕事は、高い判断力と人当たりの良さを活かして、指揮官を補佐するブレーンのような仕事とか、営業マン、秘書、風俗営業従業者、美容師などの仕事が、性格的には最適でしょう。

・対人関係
人付き合いの面で、道を誤る様な事は余り無いでしょうが、相手と場所によっては、時々羽目を外す様な事も貴方には必要でしょう。と云いますのは、貴方の全体的印象と云うものが、何処となく沈欝なものを相手に与えるタイプに属しているからです。
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僕はこれを始め公開したくなかった。だけどメーリングリストの残り5人は既に公開済みだったから致し方なく公開したわけだ。
このダイアリに書くことも間違えてるんだろうけど、自分としての分析過程を記しておきたいから敢えて書くのだ。

・「性格」はまさにこの通りかもしれない。感受性の不足というよりは理性が全てをコントロールしている向きがあり、むしろその下に隠されてるといったほうが正しいのかも。(それを感受性の不足というのかもしれないが。)感受性があまりに強くて一時期おかしくなりそうだったから、それを守るために今の性格ができ、社会に出てなおさら完全に板についたような気がする。今は理性の仮面を取り払うことが逆に少しずつ難しくなっているようにも感じる。
・「恋愛・結婚」もこの通り。誰とでも恋愛でも結婚でもできそうというのが根底にあるような気がする。そういうのってあまり良くないのだろうけど。
・「職業適性」はショックだった。最適と言われる職業は確かに風俗も含めて巧くやれそうな気がする。しかし・・・。
・「対人関係」はこんなものだろうか。しかし僕はそんなに沈欝だろうか。(そういうことを考えるのが沈欝と言うのだろうけど。)結構付き合いにくい人間には付き合いにくいんだろうなぁ。確かに会社の大勢の飲み会の雰囲気とか全然溶け込めなかったし好きじゃなかったものね。


2001年12月20日(木)

 S君から借りた丸谷才一の「文章読本」を読んでいるのだけど、どうも面白くない。丸谷氏が力説するには古典の名文に当たれということなのだが、これが書かれた当時は兎も角、今では時代遅れじゃないかなと思ってしまう、少なくともそれが絶対条件ではないはず。そしてこの本自体が窮屈で面白くないのに、その人の言うことを聞いて果たして面白い文章が書けるものなのかと疑問に思ってしまった。大体、丸谷才一ってそんな立派な文章家なのかどうか僕は知らない。
 それで安岡章太郎編の「私の文章作法」を手に取ってみれば、こちらからは何か安心感を貰える。彼と同時代の有名どころが、各々の文章の書き方を綴ってるわけだけど、力を抜いて書いているせいなのか別段名文でもなんでもないところがいい。ここにKさんあたりの文章があっても全然違和感がないし、むしろこの本の水準が上がりそうな気もする。
 結局好きなように書いていれば問題がないように思えた。

 夕刻、マフラー巻いて散歩に出る。この辺りは小刻みな沢地形と丘陵地が続いていて、昔はきっと狐と鉄砲撃ちしかいなかったようなところに、住宅が並んでいる。今日は丘を一つ越えて、身代わり地蔵まで行った。途中見晴らしのきくところがあって新宿の高層ビル群まで見渡せた。それを越えていくと、くすんだ葉をつけた大根や人参をつくっているような小さくて侘しい畑があって、そこでしばらくぼんやり物思いに耽っていた。こういう侘しい気分を写真にしてみると面白いのかもしれないなとも思った。身代わり地蔵までくれば西のたなびく雲の合間で太陽が溶かれた絵の具のようになっていた。身代わり地蔵で何か祈ろうかと思ったけれど、何か身代わりになってもらうような祈りの文句も思いつけず結局道を引き返した。
 ここで余計なオチをつけるのだけど、身代わり地蔵の横にはアパートがあって、その名も「身代わり台ハイツ」っていうの。多分水木しげるとか京極夏彦とか貴志祐介とかそういう人たちが住んでるんだろうな。奇奇怪怪な世界なわけです。(注:もし本当にそこに住んでいらっしゃる方がいればお詫びします。悪気はありません。)


2001年12月19日(水)

 堀江敏幸の「いつか王子駅で」を読了。非常に洗練された文章が素晴らしい。そしてこの人は決して普遍的な物事の価値観に迷わされることなく、本当に価値のあるものを知っているのだと思う。淡々とした生活の中で交わる人々や出来事を綴ったエッセイの延長線的な小説なのだが、自然に書いているようでまとめるところはまとめてくるし、人の心に訴えるものをもっている。
 それから村上龍の「希望の国のエクソダス」を読んでる。こちらは時事テーマを取材して、反芻、解釈して、小説の形にしたもの。書いてあることはストレートだから、考える必要もなくどんどん読み進めていける。僕はどうも村上龍という人の作品があまりに自我肯定と過剰の自信に溢れていてずっと苦手だったのだが、これはこれまで読んだ中で一番読みやすく、こういう小説もありだと思った。

 シルクロードの写真で現像しきれていなかったフィルムを現像して受け取ってきた。敦煌、烏魯木斉、吐魯番の写真なのだが、一つ一つの写真の中に写る地平線や風の動き、雲の動き、弟の表情などから、それを撮ったときの自分の気持ちや感覚が微かながら去来して、その中に心を委ねることができた。技巧も何もない写真ではあるが技巧や芸術性とは違う面から、僕は何かを、そう心の形のようなものを感じ取ることができたのだ。
 僕が思うにそうやって写真を一枚ずつじっくりと鑑賞できるのは余裕のなせる技なのではないかと思う。ポール・オースターの「スモーク」の中でタバコ屋の店主が毎朝同じ時間に同じ街角で1枚ずつ写真を撮っているという話があった。客がその膨大な量の写真を見せてもらったときにパラパラと手っ取り早く見ようとするのを、「1枚ずつ丁寧に見るんだよ」という店主のアドバイスに従って見たときに、その写真の素晴らしさがわかりだしたという話があった。どんなに素晴らしいものも表面だけ見ようとしてはいつまでたってもその真価はわからないということなのかもしれない。
 絵や写真、文章などにあたるときは何かを感じようという心をもって、丁寧にあたっていかなければ、それ自体も心を開いてくれないのかもしれない。いや絵や写真に限ったことではないのかもしれない。結局、丁寧に生活することによって始めて、物事の本当の価値や意味を知ることができるということだろう。


2001年12月18日(火)

『焦燥の形』


 ストーブの横でキーボードを打っている。しかしそこに生み出された言葉は死んで、だらしなく横たわっている。まるで窓際で死んだ蝶をピンセットでつまみあげているような気分だ。

 公園の雑木林の乾いた落ち葉の匂いをかぎながら図書館へ。カラカラに乾いた枯葉が幾重にも積もって柔らかい腐葉土を覆い、それを足裏に感じ取ることができる。梢の間から射し込んでくる中天にかかる太陽の光が心地いい。シジュウカラが梢の枝先を渡っていく。
 本棚で本を選ぶ心持。読まれることを待つ本たち。数々の人々の手にとられ、チョコレートの染みがついたり、強い陽に焼かれたり、珈琲をこぼされたり、それでも言葉の価値は変わらない。常に言葉たちは人の心の中に放たれる時を待っている。棚の隅で埃を被った手垢だらけの老いた本も、新刊コーナーで生まれたばかりのまっさらな本も。
 図書館から出て一人帰途につく。あれほど光を投げかけていた太陽は雲に隠れ、ただ寒々しく風が吹きぬける。薄暗くなった林間を早足で急ぐ。首筋で結ぶマフラーの匂い。

 感性を無防備にして涙がこぼれるくらい、胸が痛くなるくらい感じ取らなければ。裸の心を放って、物たちの輝く刹那を切り取らなければ。そして蝶の飛翔のように淀みなく言葉を生み出さなければ。僕はすなわちそこに焦燥を感じている。


2001年12月17日(月)

 平野啓一郎の「日蝕」を読了。実は以前読もうとしながら、その難解さから途中で敗退したのだが、今回は意外なことにすらすらと読めた。15世紀のフランスを舞台にある修道士が遭遇する異端審問(魔女狩り)についての話である。終盤、魔女狩りに話が転ずるあたりから空想物の小説に急変していく。そこがこの小説の山場である一方で、思想を追求していく宗教の徒の話としてはかなり逸脱してしまっている感がある。この人の小説は古きを尋ねようとしている一方で、実は現代の小説の特徴(虚構の世界を重んじる点)をかなり具有しているのではないかと思った次第。それがなぜか僕には残念に思えてしまった。


2001年12月16日(日)

 S君、Zさん、A君、Kさん、彼女、そして僕の6人でgood-morningというメーリングリストをやっている。そのgood-morningの仲間と土曜日の晩にうちで鍋会を開いた。S君以外は泊まりこみで、お酒飲みながら、音楽聴いたり、話したりと何だか学生に戻った感があった。僕は久しぶりに学生時代に使っていた寝袋で眠った。
 翌朝、S君、Kさん、彼女と僕の4人で世田谷のボロ市を見に行く。狭い商店街の前に猫も杓子もといった感じでわんさかと出店している。人もどっと繰り出していて、僕でも何か売ってみたら商売になりそうな雰囲気であった。Kさんは盆栽の鉢など古風な趣味のものをしきりと買い求めていた。僕は切手と傘だけ買って、帰りはKさんが道端で購入したカポックという観葉植物の大きな鉢をもって世田谷線沿いを三軒茶屋まで歩いた。S君と「三四郎」の台詞を茶化して、「あれは椎、あれは山茶花」などとやっている。珈琲飲んで皆と別れると、日曜日はもう儚い残光になっていた。


2001年12月14日(金)

 日がな旅行記の文章打ってた。そのついでにフリーセルの腕も上がってしまった。フリーセルは兎も角、文章書いてるとあっという間に時間がたってしまう。書きたいものが他にいっぱいあるのにな。時間は無尽蔵ではないのだ。もう少し緊張感もって事にあたらねば。


2001年12月13日(木)

 Zさんと互いの文章鍛錬の場をつくろうということで動き出している。同じテーマで定期的に文章を書き、それに対して闊達な意見交換を行おうというものだ。それで今日は雨中わざわざZさんがうちにきてくれて、それの道場ともなるべきHPなどについて詰めていった。開設はクリスマスイブになる見込み。これからSimple is bestを旗印につくっていく予定。
 
 最近JazzPianoをよく聴いてる。今いいと思うのがOsker Petersonトリオ。鍵盤のタッチは時に軽快で時に繊細。流れる旋律聴きながら珈琲飲んで、読書に興じることができることをとても幸せに思う。
「もう何もいらないんです」樅の木の下でトナカイ走らせる男に会ったら、にっこり笑ってそう言おう。


2001年12月12日(水)

 漱石の「虞美人草」を読了。その前に読んだ「三四郎」が平坦な戦場だとしたら、これは城攻めに近いくらい容易には読ませてもらえない。漱石の知が織り成す修辞表現が外堀のように取り囲んでいて、始めはなかなか前に進めない。ただ外堀の細かいところを気にせずに突っ切ってしまえば、小説のストーリー、主題として十分に面白いから一挙に本丸まで行けてしまう。タランティーノもフィッツジェラルドも驚く手際の良さでエンディングをまとめていく。最後に自己のエゴと打算だけで他人を弄ぼうとした人間に天罰が下り、道義の道が開かれる。それまで迷っていた人間がいとも簡単に考え方を翻すところや、天罰を下させること自体がエゴではないのか?など多少疑問は残るけれど、やはり読ませるし、考えさせる。現代ではこの小説の道義自体(恩師の娘を妻にしなければならないetc)がほとんど消えうせているため、逆にエゴの手綱を締めるべき大義がなくなっているようにも思える。それにしても漱石を超えるような作家は未来永劫現れないのではないかと思った。多分百年後にも同僚たちが忘れられていく中でも彼だけは本屋の棚の片隅に残り続ける違いない。


2001年12月11日(火)

 久しぶりに日本経済に貢献してみた。小泉首相も少しは笑顔を見せてくれるかもしれない。2年前に買ったsimplemの半額程度の値段。これもIT革命の一環なのかデフレのせいなのか知る由もないが兎に角、安いことはいいこと。…そう、ノートPCを買ったのだ。もう瞳孔をいつもの二倍くらいにして、ちょっと興奮気味。PCでこれなのだから家か車を買うようになったら卒倒するかもしれない。柔らかいキーボードタッチが心地いい。これで寒い台所の隅から脱出して、炎揺らめく達磨ストーブの近くで身も心も暖かく文章が打てるとてっきり思いこんでいた。しかし、ストーブが突然、そうつい十分ほど前に最後の灯油の炎を上げた後、完全に事切れてしまったのだ。札幌で大雪を降らせた寒気がこの部屋をその掌中に治めるのも時間の問題なのかもしれない。


2001年12月10日(月)

 著作権というものをそろそろ直視しようかと思ってる。自分のHPに書く文章を転用禁止としているのに、自分だけが人の音楽なり写真なりを無許可に使っているのはまずいだろうという話。どうせ小さなHPで商業的なものでもないからと理由をかこつけていたけれど、自分がやられて嫌なことはやるべきではないよね。ということで無音化して、更にTOPの写真も今年中には降板させようと思う。

 始めての文章の応募。練習がてらということはあったのだけど、いざプリントアウトして体裁整えて封筒入れてみると、妙に緊張する。隣駅のそばにある郵便局まで木枯しに吹かれて冷たき裸の手でもつ薄き封筒の重み。自分の放とうとする言葉がこんなに重みをもつとは思わなかった。もっといいものを書かなければとただただ思うのみ。


2001年12月9日(日)

 Kさんが仕事をしにやってきて気をきかせたつもりで渋谷をぶらりしてあちこち冷やかしていた。大好きなポール・オースターのインタビュー記事の載ってる本を立ち読み。この人、まるで彼の作中の主人公のように苦労を重ねてきている。買うかどうかかなり迷ってやめたのに、HMVで思わずJAZZの古いCDもってレジ並んでいるし・・・。
 家帰ったらちょうど仕事が終わりかけだったので勇んで夕食つくる。仲良く食べる。山小屋の良き生活といった趣。


2001年12月8日(土)

 S君がやってきてしゃぶしゃぶをつっついた。まるで旧友と会ったような懐かしさがある。満たされている喜び。


2001年12月7日(金)

 漱石門下に入りたくなるほど、「三四郎」にはまった。小説として人を楽しませる技法はもとより、知性から汲み出される理念のようなものを追求していけるところがすごいと思う。高校、大学で読んだはずなのだけど、同内容であるにも関わらず断然今回が面白かった。
 最近木の洞で冬眠している虫のような生活になっていたので、今日は思い切って外に出る。まず上野で「MOMA展」を見てきた。作品数は少ないものの、20世紀の一通りの代表的な画家の作品が見れるので、まぁ僕のような絵に疎い人間には便利。中でもルソーの「夢」という絵に惹かれた。アフリカのジャングルを質量感豊かに描いたもので、こんな夢ならば見てみたいと思った。ルソーという画家、恥ずかしながら始めて僕の脳細胞に焼き付けられた。あとジャズ演奏をしている絵(手法の名前がよくわからないが、銅版画のようにキコキコやって描いたような絵)がよかったが名前を忘れた。・・・ってこれじゃ小学生の感想だなぁ。その他には当たり前ながらセザンヌ、ゴッホ、シャガール。ピカソは前見たときほどに惹かれなかったし、マチスは理解不能。その他の絵もあ〜芸術的だな程度の感想。もう少し審美眼を養いましょう。
 美術館出てきたら、射し込んでくる光の渦が木々を浮き立たせていて、世界が美しくなっていて驚いた。絵画によってどこかの感覚細胞がきちんと疼いたのだと思う。素晴らしい。
 そのまま風吹く葦原に光が透過する、絵画のような不忍池を歩き、東大に抜け、学生に混じって安くてボリュームのあるランチ食べて、三四郎池見てきた。特に風景自体に感慨を覚えないが、風景が歴史を伴っていることに感慨を覚える。更に適当に歩いてたら、小石川の東大植物園まで来たから、ついでに中入って、乾いた落ち葉踏みしめて雑木林をねり歩く。ほとんどの木にご丁寧にプレートがついているので、樹木に微熱ながら関心持つ僕には格好の勉強場所だった。最後にカリンの実を3つ拾って帰ってきた。


2001年12月6日(木)

『フロフキ大根事件』

 本当ならば今頃僕は柔かいフロフキ大根を食べているはずだった。味噌味のたれをかけて、白髪葱をかけた、ほくほくの美味しい物を。だけど、それはもうここには存在していない。存在しているのは空腹な胃だけだ。
 彼女は毎朝、研究所へ8時半くらいに家を出る。ほとんど遅刻ぎりぎりのようなのだが、たいしてあせっているような素振りを見せたためしがない。台所と僕が眠っている畳の部屋を行ったり来たりしている。僕はそうした出掛けの光景をいつも薄目を開けて、みのむし布団から眺めている。みのむし布団というのは最近うちに導入された布団で、簡単に言うと大きな寝袋のような布団だ。いろいろな工夫が処されているということで寝心地もとてもいい。その布団の顔穴のところから、ぼんやりと朝の光景を見ているのだ。僕の寝ぼけ眼のみのむし姿がおかしいらしくいつも笑われて、「あ〜おはよう」って挨拶するかしないかのうちに、彼女は玄関から出ていく。それから僕はみのむし布団から這い出して一日をスタートするのだ。
 時々寝坊して僕一人しかいない部屋の中に目覚めることがある。そういうときは世界の動きから外されているような気がして無性に寂しさを感じる。特に今朝のような曇った小雨の日はそうだ。みんな働いているというのにこのぐうたらぶりはなんだろうと、みのむしの中で切ない気分になるのだ。
 起きて台所に向かえば、彼女との共同ノート(まだ僕は書いたこともないのだが)に今夜の夕食の献立まで載っている。じぃーんと胸の中に温かいものがあふれる。そして読んでみれば、「フロフキ大根を煮ているので10時くらいに消して下さい」とある。そのとき何時だったかは(そこまで辱めを受けたくないと僕の心が申しますので)まぁ言いません。はっと振り返ると、右端のコンロの火がつきっぱなしになっていて、その上ではうるさく換気扇が回っている。とりあえず換気扇を止めて、火も止めて鍋の蓋をとってみれば・・・。
 僕はそのとき鍋の中のものが「ヤキイモ」なんだとてっきり思ったし、一瞬納得しそうになった。アルミホイルの落し蓋の下にあったのはほとんど炭化したような乾いたものが並んでいただけだったから。それから彼らの正体がダイコンであることが僕にも見え出したのである。
「ホームズ、これは一体何なのだね。わたしにはヤキイモにしか見えないが・・・。」「ワトソン君、ここを見たまえ、多少ここに筋があるだろう、これはね炭化したダイコンなのだよ。」「まさか・・・。」
 ・・・なんて探偵を呼ばなくてもわかる、うん十分わかるよ。

 そこで炭になったのは、ダイコンというよりはむしろ、彼女の親切心だったのだよ。わかるかね、ホームズ君。


2001年12月5日(水)

『ネコガミ様』

 僕がまだサラリーマンをしていて毎晩遅くまで仕事をしていたときの話だ。彼女が僕のマンションのそばにアパートを借りて住み出したので、よく家を行き来した。アパートはその辺りの住宅街と比べると、造りもたいして良くなく、外観もぱっとしなかったが、長い石段を登って更にアパートの2階にある彼女の部屋に入るとどういうわけか居心地がよかった。それはアパートが高台にあり、南側の窓から遠くまで見通せることが特に大きな要因だったように思う。
 東側に面している台所には、流し台の上部に細長く窓がついていた。窓を開けると柑橘の実がたわわになっている家主の家の庭が見えた。窓の桟には、いくつかの瓶や植木鉢がずらりと並んでいた。あるカップには歯ブラシの類、あるグラスには箸や絵筆、その他に黄色で塗ったイタリアンパセリの鉢やサボテンなどがある。その中に彼女が「ネコガミ様」と呼ぶ焼き物の皿の残骸があった。焼き物の皿は以前僕がイタリアのアッシジでお土産として買ったものであったが、しばらく使っているうちに割ってしまったのである。「ネコガミ様」というのはしかしこの皿のことではなくて、皿の上にちょこんと載せてあった苔のことなのであった。
 「ネコガミ様」という何か宮崎駿のアニメにでも出てきそうなユニークな名前はなかなか面白く感じられたが、なぜ今にも枯れそうな小さな苔が神様と言われるのかが始めよくわからなかった。彼女といえば、毎朝それに水を欠かさずにあげたりして有り難がっているのである。
 僕が「なぜ?」と聞くと、彼女は少し腹を立てたような顔をして、「一緒に取ったじゃん」と切り返すのである。それでも不思議そうな顔する僕に説明するには、以前一緒に自由が丘のはずれにある熊野神社に行ったときに、その苔を取ったのだという。
 確かに僕はその神社にも一緒に行ったし、苔も多少神前で悪いと思いながら取ったなぁと思い返したが、まだネーミングの理由がわからない。そしてふと神社の暗い光景を思い出したとき理由がわかったのだ。神社はどこでもそうではあるが、特にそこは怪しげな神社であった。なぜか境内の道の脇にパンダか何かの動物の遊具が置いてあったりするようなところだった。そして、そこにはやたらと猫がいたのである。やはり神前ということで近所の人たちが遠慮するうちに猫のほうが増えてしまったようだった。しかし可愛いというよりかはそこの暗い雰囲気が相まって、何か不気味さまで感じてしまうような猫だったと記憶している。

 更に彼女が付け足すには、苔を採取するために苔の生えている神木ごと剥がしたのだが、その形が猫に似ていたということだった。
 「ネコガミ様」にはいつも水やりを欠かさなかったのだが、ここにちょっとした問題があった。やたらとこの苔に小さな羽虫がわくのだ。まるであの神社にいた猫のように。それを彼女はよくピンセットでつまんで掃除をしていた。それが猿の身ずくろいを想起させて可笑しみを感じた。
 ある朝、いつものように植物に水をあげていた彼女が突如悲鳴を上げた。すわ、ゴキブリでも出たかと思って、恐いものみたさにそちらに駆け寄ってみた。彼女は興奮さめやらぬ表情で、ネコガミ様を指していた。そこにいたのは巨大なムカデだった。僕は北海道育ちということもあって、そんな大きなムカデを見たことがなかったし、ムカデがそんなに大きなものだということ自体に驚いた。兎に角、退治せねばと思い、ここは男の腕の見せ所と思うも、どうも手に負えなさそうな敵なのである。彼女に手伝ってもらって、まずそのムカデを流し台に落とし、僕がそれに向けて蛇口の水を最大限にまわして、ダムの放水も驚くような強力な水を噴射した。が、敵もさるもの、水ごときには屈せず、流しの穴の縁にへばりついて、逆に身体を仰け反らせて怒り狂って、逆にこちらに飛び掛らんばかりの勢いなのである。
「ネコガミ様がお怒りになっている」と敬虔的な畏怖心が突如こみあげてきた瞬間、「これで流して」と彼女が風呂場から洗面器いっぱいに水を汲んで勢いよくやってきた。その勢いのまま、大量の水をネコガミ様目掛けて流し込むと、まるでハリウッド映画の悪役の最期のように彼は流しの穴に水の渦とともに消えていったのだった。
 しばらく喜びと安堵がこみあげたが、実は僕らが流してしまったのは「ネコガミ様」という神様だったのではないかという疑心に苛まれ始めた。神様がムカデに姿を変えてお出でになったのかもしれなかったのだ。
 彼女は平然と言う。「神様といってもムカデじゃ飼いきれないよ」と。しかし畏れ多いことをしたのは間違いない。この出来事のせいかどうかはわからないが、しばらくして神様のいなくなった苔は乾いて死に絶えてしまった。
 なぜこの話をするかと言えば、今日Kさんが彼女に苔を新たにプレゼントしてくれたのだ。Kさんがこの苔をどこで採取したのかはよくわからないが随分と量があり、ネコガミ様の皿には再びこんもりと苔が置かれている。今、これをネコガミ様と呼ぶかどうかで僕らは迷っているところだ。


2001年12月4日(火)

朝方は雨が少し降っていたようだ。いつものように身体を洗って湿っぽくなったバスタオルを窓の上に引っ掛けてある物干しにかけた。外の空気自体が湿っぽく、だいぶ冷ややかだったから到底これでは乾くまいとは思った。
志賀直哉の後期の短編を読んだり、キーボード叩いて文章綴ってみたり、その合間にご飯を食べたりとなんだか慎ましやかな一日だった。ご飯も高野豆腐やらひじきなどの所謂粗食を食べているのだからこれもまた慎ましい。
志賀直哉の文章はここ1ヶ月ばかりの間読んだものの中で最も素晴らしいと思う。彼の小説のあり方はただ何となく日常を綴るという情感小説なのだが、その日常の風景描写が見事に彼の心理描写をなしているところが素晴らしい。僕にとって、今のところ一番の目標と言っても差し支えないかもしれない。

彼の文章を発奮材料として午後はPCに向かっていた。しかし、小説の神様と称されるこの作家から感化されたといってはあまりにお粗末なものができてしまい、しばらく嘆息していた。気が付くと、外は暗くなっており、今日はお休みだった彼女は隣の暗い部屋で毛布にくるまって丸くなって眠っていた。ダルマストーブの炎がやわらかかった。


2001年12月3日(月)

『命日』

 鴎外の「青年」を読み終えて、その文庫本を漆塗りのテーブルの上に置いたまま、僕は少し放心していた。しばらくしてから押し入れの中から地図を引き出して、このあたりに寺か神社はないかと調べてみた。身代わり観音などという少し有名な神社が徒歩15分ほどのところにあるのだけど、今日の僕の目的にはちょっとそぐわない気がして、身代わり観音から逆側にあった平凡な名前の寺を自分の目的地とした。あまりに平凡な名前だったのか、たいして名前と言うものに興味がないのか、僕は今既にその名前を忘れてしまっている。

 秋の落ち葉をからからと乾かすような温かい日差しが黒いコートの上に感じられた。ただ枝だけを野放図に広げている欅並木沿いに坂を登っていった。途中、左側のマンションの庭の落葉した高木から啄木鳥のドラミングの音が聞こえたように思えて、そちらを見たけれど見つけることができなかった。スーパーの脇から今度は坂を下っていった。この道は何度か来たことがあるから、心細くもない。上京して始めてこの町にきたとき、駅から家までの見取り図を見違えて、全く方向違いのこの坂の周辺で迷っていたこともあったが、あれももう3年前くらいの話である。途中、小さな女の子をつれて若い女性を抜いて、ただ足の赴くまま坂を下っていった。
 坂を下ると少し大きめの通りにでる。信号を待ってから通りを渡り、今度は再び坂を上った。ゴルフの練習場の高い緑のネットの脇を歩いていった。平日というのにゴルフクラブをもって、ネット目掛けて淡々と小さなボールを打ち続ける人たちの姿が見えた。あの人たちからも暇そうな青年がぼんやりと歩き去っていくのが見えたに違いない。村上春樹の小説で、ゴルフ場のそばに名もない双子と暮らす話があったことを思い出していた。あの結末はどうなるんだったけ、そんなことを考えていると少し寂しくなった。葉が全て落ちきった柿の木があって、忘れられたかのようにして残っている柿の実がいくつか枝にしがみついているのが見えた。
 そのまま小道を歩くと、目指していたお寺が左側に見えてきた。平日の午後、予想していたことだが、寺の中には誰一人としていなかった。ここを目的地としていなかったらわざわざ入ってみることもなかっただろう。しかし兎に角入ってみた。そこにはこれまで見たこともないくらいの大きな大きな銀杏の木が一本立っていた。まるでいくつかの木が長い年月の間に一つになったかと思うくらいに大きな銀杏だった。梢のほうには黄葉した銀杏の葉が風のざわめきの中に揺れていた。しかし、おおかたの葉は既に落ちきっているようであり、また落ち葉自体も焚き火にでもくべられてしまったのかたいしてなかった。
 中央に木の賽銭箱があった。こういう場合にお金を入れるべきなのかよくわからなかったが、兎に角入れる分には問題はないだろうと思っていつもの癖で5円玉を一つ入れた。そして手を合わせ目をつぶることにした。平日の午後はお寺といえども祈るという行為自体が普通ではないような気も始めしていたが、しばらく目をつぶっていると心が落ち着いてきた。

 それから銀杏の木の脇まで歩いていって、その梢をひとりでずっと見上げていた。見飽きるまでずっと見上げていた。
 ―俺はまだ生きているようだ、生きながらえているようだ― 
とただそう思った。

 あの頃僕らは19才だった。弱かった僕だけが26歳となってまだここにいる。


2001年12月2日(日)

S君と渋谷から表参道を歩く。表参道の大坊珈琲店とそのそばのパン屋で休憩しつつ歩きつつ訥々と話した。
旅での話もしたが、途中から踏み込んで暴力について、そして真の豊かさについて僕らは話した。

暴力はこの世界に溢れているにも関わらずとても難しい問題だ。
暴力は外の世界に、時折僕の肌のすぐそばに存在する。
そして恐ろしいことに僕自身の中にもそれは獣のような欲望として身を潜めている。
僕はどうにかして暴力というものを排除しその傷跡を再生することのできるような道を見つけたいと思う。
「書く」という行為を通して僕はその道筋を示すことができるかもしれないし、僕なりのアプローチができるのかもしれない。

豊かさについてはある程度、既に僕なりの回答を持ち合わせている。
これは彼女が指摘していたことでもあるのだが、「木を植えた男」という外国アニメ映画の中で、
木を植えた男について、作者はナレーションの声を通して、黙々と荒地に木を植え続けていた男のことを
”本当の豊かさを知っていた”というような言葉で形容していた。
そういうことって素晴らしいよねってそのとき彼女は言った。
豊かさというのは決して物質に溢れていることではないんだ。
僕がそのことを話すとS君は「豊かさっていうのは丁寧に生活することだ」とも言った。

僕はS君との話の中にお互い合い通じるものを感じ取ることができ、その中で正しい物事の見方を再認識することができる。
そうした友達がいることを非常に嬉しく思う。共感できることを嬉しく思う。

僕は旅を終えて、少しずつ物事の核に迫っていると思う。
今回の旅は思っていた以上に自分の余計な部分を洗い出し、物事を見る眼を養わせたようだ。
この世の中で本当に大事なもの、そして解決をしていかなければならないものが少しずつ見えてきている。
僕は「それ」を書きたいと思うし、書けるのだと思う、きっと。
この前のエッセイを読んでS君は僕に質問した。「拾うってなんですか?」と。

じゃあ答えるよ。
今僕にとって「拾う」ということは「それ」を「書く」ことを意味するのだと。


2001年12月1日(土)

今日は神楽坂で素晴らしい出会いがあった。A君とS君とKさんとZさんとそして僕の彼女で散歩して、珈琲飲んだり、蕎麦食べたり、飲んだり。僕は神様に感謝したくらいだった。
しかし僕がここに書きたいのはそのことではない。

僕は一瞬書きかけたのだけど、…やはりまだ世界に希望をもちたいと思う。だから今夜は口をつぐむことにする。