2001年3月31日(土)

さて上京してきます。
パーカーにジャケット重ねて、手提げかばんにオースターぽんと入れて、さぁいざ桜前線に会いに南下しよう。…聞くところによると、東京はミゾレ模様らしいけど。

東京の街には太陽と雨が降って
流れるメロディーがぼくを旅へと誘う♪
(by Sunny Day Service)


2001年3月30日(金)

遠く山形。蕎麦食べてにんまり。
あまりに果てしのない一日に沈。


2001年3月29日(木)

年度末、明日の納品の準備で結局遅くまで。
システムの機能もなかなかいいもの新たにつくれたし、データもMOとCDにラベルつけて焼きつけたし、綺麗に製本してマニュアルもつくったし、打ち合わせ用のレジメもちゃんと用意したし、万端でしょう。
こういうこと一つ一つ丁寧にこなせば、先輩や客先の信頼も得られるしね。
そんなわけでそれなりに楽しくある。というか多分会社入って今が仕事、一番楽しいよ。
よいことだと思う。
でももう少し早く帰れるならなぁ。
日付変わって、一つ上の先輩が車で送ってくれたのだけど、先輩の口からは「今日は結構早いなぁ」だって。
「世間の人たちは彼女と夕食食べて、家まで送って、家帰って、下手するともう眠っていますよ。もう凄い差ですよ」って返してあげた。
たとえ牢屋でも強制収容所でも悲壮感なく冗談でも言えれば、さほど苦にはならないという例。


2001年3月28日(水)

同期のシステムの女の子からメールきて退職するとのこと。彼女、仕事忙しくて入院までしたりしたから、つくづく嫌になったみたい。後ろ髪引かれる様子も全くなくて、もうさばさばした感じ。
うちの会社は入社して5年間で大体半分になるという。確かにそうかもしれないなって今は思える。

今週末は上京することにした。1ヵ月も会ってない友達にようやく会えるんだ。そしたらいろんな気持ちをまた手にとることができるでしょ。


2001年3月27日(火)

家帰ってきてテレビつけたら、イタリア語講座の最終回。春先は欠かさず見てたからけっこう懐かしかった。奈々子さんはいよいよ初めてのイタリアということでヴェネツィアにジローラモさんと訪れていた。
奈々子さんときたら、完全に高揚しっぱなしで覚えたイタリア語もなかなかうまく使えなくて、いろんな勘違いに思わず微笑ましくて笑っちゃった。それにしてもコミュニケーションって、まず言葉ありきではなくて、実は笑顔や表情こそが重要なんだなって思えたよ。
まぁあれくらい可愛い女の子にイタリア人たるもの不親切にはなりえないだろうけど。
ぼくもまたいつかイタリアいきたいなぁ。向日葵畑とオリーブの丘陵つづく中部を小さな車とばして気ままに旅でもしたら楽しいだろうね。


2001年3月26日(月)

昨日は自分の脳を使った気がしたけれど、今日は対比的に自分の脳が使われていたような気がする。結局仕事ってこういうものなんだよなぁ。仕事自体はなかなか好調でなかなかいいものつくれたんだけどね。でもこうやって自分の脳が何を考えていたか思い出そうとしても記憶喪失の人みたいに頭抱えるだけなんだよね。
仕方なく白壁見上げてウイスキー飲み続ける。


2001年3月25日(日)

朝4:30に鳴る目覚し時計に一体何が起こったかわからないくらいだった。
そうだサッカーだって布団はねのけて、テレビのチャンネル回すけれど、やってないし、やる気配もない。ひたすら天気予報がラヴ・サイケデリコなんかかけ続けているだけ。
新聞をとっていないとこういうとき不便。
仕方ないからネットつなげて調べてみたら、試合開始は4:30なんだけど、テレビ放映は7:30から。
しょうがないから、オースターの「リヴァイアサン」のページめくってる。
この本、かなりの傑作の予感。
話の筋が綿密で、それもストーリー的に分けたら数冊本が書けそうな内容。オースターは自分の文章のことを作品中で「〜言葉と物は〜百もの違った方向に飛び散ってしまう。執筆時間の大半、私はそれらの断片を拾い上げ、くっつけて元に戻す作業に費やす。」と表現している。オースターはストーリーだけじゃなくて、一つ一つの文についてまで、妥協を許せないのだ。自分の手で落ち葉をしっかり選りすぐらなければ彼は前に進まないのだ。
そしてストーリーの巧みさ。彼が全て体験したかのように書かれているのだけど、果たしてどこが境界線なのか全くわからないのだ。

ベッドの中で読書に夢中になってたせいで今度はサッカーを見逃しそうになる。危ない、危ない。
フランス対日本なわけだけど、思った以上にフランスの壁は高かった。
去年のモロッコでの試合(2-2引き分け)のようにはいかず、フランスの試合巧者ぶり、個人個人の差が5-0もの大差を生み出した。
日本は組織力やスピードというものを売りにしているはずだが、その組織のほころびを見逃さないで的確に捉えられたらたまらないということだろう。
日本は中田ひとりが気を吐いていた。
日本選手を越えて彼は世界レベルの選手なわけだ。
プレーヤーひとりひとりが中田のように存在感見せないと世界のトップレベルにはいけないということだろう。

朝ご飯食べてから、一泳ぎ。
筋力がない前に肺活量がピグミーチンパンジー並みにしかないことを悟ってしまった。

お昼からメディアテークで雑誌とか写真集なんか目通したあと、広瀬川沿いを散歩した。

川の流れがなんとなく見てみたかったからだ。
水は街を縦に蛇行しながら流れている、決して淀むことなく。

帰りに寄った喫茶店の窓際で本読んでたら、後ろの席に高校生とその叔父らしき人が座っていて進路について話し合っている。高校生には朧気な夢があるようだが現実を知らず、叔父は現実を知ってるが故に10代の描ける夢というものに理解が届いていないようだった。
僕はといえば現実の中に落ちている夢を氷の粒つまもうとしているにすぎない。

他の人にはそれがつまみ出せるものかどうか知らないし、僕だってどうやってつまむべきなのか知らない。
うまくつまみ出せるんだろうか。掌を開いたら、氷水が漏れていったりするんだろうか、ねぇ。

喫茶店でて、家のまわりを散歩。気付かないうちに梅の白い花が民家の庭や公園の木立の中に咲きはじめていた。夕刻は世界に薄紅色のフィルターをとおしてくれる。道の脇にさいていた赤き椿が美しかった。
それから一度もはいったことのなかった東北大農学部の構内を歩いてみる。
一瞬見咎められるんじゃないかなんて思ったけれど、よく考えれば僕も学生みたいなもんだ。
学校残ってたらD2だったんだな。
奥のほうに実験用の温室があって、バイテクか何か知らないけれど、青々とした緑の稲に人工的な光線があてられていたりした。
日曜だというのに、白衣の学生(多分院生だろう)が温室のまわりを立ち回っていた。
変わっちゃいない。なんだか懐かしい光景だった。

温室の脇には畜舎があって、羊が20匹くらいいて、山羊のような声をあげていた。
春樹さんの小説の挿絵にあるような手(蹄)と耳の黒い羊もいた。全く僕のことには無関心でただ草を食みつづけていた。
畜舎の脇には小さな牧草地があって、30歳くらいの男の人がサッカーボールを一人で不器用に蹴飛ばしていた。
もう僕はこの世界とは縁もなくなるんだろうか。
大丈夫?、牧草地のその先に道はちゃんとあるのかい。
僕の追いかけているサッカーボールはいったい何かわかっているのかい。

なんだか涙が出そうになったけれど、きっとそれはこの春の曖昧な空気のせいなんだよ。

家に戻ってひとりで(今日はずっとひとりだったけれど)スピッツのファーストアルバムを久しぶりに聴いてみる。

*************
今日は一日が長かったのでさらにつける。
夜、缶詰の鰯とにんにく、唐辛子をオリーブオイル熱して、そこにケッパ-とみょうがを混ぜてパスタ。
アンチョビのパスタという感じだけど、アンチョビって何の魚なんだろう。(大体、魚だったかどうかも自信なくなってきた。)
地中海の漁港になった胃に珈琲いれて落ち着かせる。
カップもちながら、パトリス・ルコントの「橋の上の娘」。ダニエル・オートゥイユとバネッサ・パラディーの二人が命をかけたナイフ投げをするというストーリー。
ナイフが顔すれすれを飛んできて、すぐ横に突き刺さる快感。
リスクを背負った快感というものが僕にもちらと感じることができた。
リスクの大きさが生きている瞬間瞬間を大きくし、二人の絆を強くするのだ。

僕は思ったのだけど結局人生もそういうことじゃないだろうか。
あるリスクを背負ってもそれを超えていくことは何にも替え難いような喜びであり、それに賭けてみる価値はあるんだ。
オートゥイユはこう話す。「運とは結局見る人によって違うのだ」と。
あるとき、もう片方がよく見えても結局大差はないかもしれないし、それを決めるのは客観的なものより主観的なものなんだ。(…ってこのへんはカミュとか春樹さんと同じこと)

安穏と腹膨らませて余興にナイフ投げ見てる人間よりも、ナイフ投げをやっている人間のほうが真に生きる喜びの大きさを感じることができるのかもしれない。
体に突き刺さったときはそのときだ、きっと僕には運がある。


2001年3月24日(土)

春の空気が余すことなくこの街を満たしていること感じられるような日。
途中サンドイッチ屋寄ってから、会社でことこと。
暗くなる前に大体自分の仕事はめどついたんだけど、前の先輩に「何か手伝いましょうか」って言ってもらった65枚の画像ファイルの変換という単純連続作業でぐうの音。
すっかり体こわばっちゃって、冬の雨に打たれた鴉のようにくったりしちゃった。
明朝のサッカー見たいから、早寝しよっと。


2001年3月23日(金)

家帰ってテレビつけたら、カンボジアのポルポトについてのフランスのドキュメンタリーやってたんで思わず見てしまった。国そのものが疲弊してしまうほどの虐殺とはすごいよな。それもつい最近のことだ。
それもこの独裁は国民の支持を得て成り立ったものなんだから。
おととしの夏にメコン川で見た奇態の人のことを少し思い出した。あれはベトナム戦争の禍根なんだろうが…。
歴史はしっかりと深爪を残していく。
そういう国を旅するとき、深すぎる必要はないけれど、空気の淀みを感じる必要はあると思う。
歴史から学ぶことができなければ、再び同じように歴史を繰り返しかないのだから。

「エグザイルス」読了。全て作者を肯定するつもりはないけれど、世界を常に広く捉えようとする生き方には共感覚えた。


2001年3月22日(木)

いなすつもりがあえなく風邪に土俵際まで追い込まれてしまった。
それでOLや学生たちが帰る時間にさっさと店じまいして帰ってきた。
薬屋寄れば、よっぽど暇なのか30代くらいの店員が風邪の予防についてはりきって説明しだそうとするんだけど、そこまでと制して、タカタカと家路急いだ。
今夜は小学生低学年並みに布団にもぐりこもう。


2001年3月21日(水)

耳腔が急に痛くなり、乾いた喉から発する声が無音のテレビの音のようになりだして、風邪になったことを自覚した。
美味しいものでもいっぱい食べて、七つの海を巡る夢見るほどに睡眠とれば、きっと良くなるような現金な風邪のような気もするのだけど、そうもいかずPCの前でカチカチやってるのだった。

同期の奴が、仕事のこと忘れて旅にでも出たいよ、なんてしみじみ煙草の煙吐き出しながら話してる。
みんな家に帰ってからも仕事のことが頭から離れず、夢にまで出てくるそうだ。
…不思議なことに僕は社会に出てから公私が完全に切り離され、仕事の夢などほとんど見たことない。
隣の席の先輩にあるときそのこと話したら、妙に醒めてぽつりと一言、それは会社への忠誠心の度合いなんだよ、って。
は〜なるほどね。大体、組合にすら入ってないんだもんなぁ。

学生の頃は、サークルで長い休み期間の大きな山行のリーダーをやることになると、もうその1ヶ月前からずっとそのことばかり頭が離れなかったものだ。
長良川でラフティング要素の強い川旅をやったときも、大体の瀬や落ち込みのイメージみたいなものが現物を見る前からしっかり頭の中に刻印されていたものなぁ。
修論のときだって、最後はひたすらそのことばかり考えてたような気がする。

多分今の僕の脳は二重構造に違いない。システマティックな表層を平日は使いこなしてるわけだ。


2001年3月20日(火)

春分の日。外に出れば、ほんとに温か。みんな軽い服装で颯爽と春の風きってる。
僕は会社でカタカタ。
休日だから適当なところで切り上げた。
最後にもう一度退職届けメールしておいた。
少しは血でもみることになるのかな、よくわからないけれど。

帰りに本屋で数冊買いこんできた。
それで今はロバート・ハリスという人の「エグザイルス」という本読んでる。
副題が、すべての旅は自分へとつながっている。 大学卒業後、世界中を放浪した人らしく、面白そうだし、詰まった感覚がふっきれそう。


2001年3月19日(月)

山形の雪深く残る田園地帯までいってシステム納品。まずはひとつ終わったねってちょっと笑顔。

とっぷり暮れた仙台に戻り、今度は来週末の準備。CADのデータまで扱うようになって、少しずつ知識が蓄積されていくのがわかる。多分世界の人間の99%までもが知らないで死ぬような内容のことなんだけどさ。1%になっちゃいましたね、なんて無駄口叩いている。

先週東京での課長との面談の返信がメールで来た。辞める理由とその後の進路が明確ではないため、君の申し出は認められないとのこと。なんという管理社会。入社した瞬間に僕は既に社有物になって、社員番号を機械の製造番号のように押されているわけだ。
このままでは誰かが傷つかなくてはならない結果になってしまいます、ともあった。
できれば犬は殺したくないな。全く同意見さ。


2001年3月18日(日)

昨夜、夢に落ちるぎりぎりまでオースターの「偶然の音楽」を読み進めていたから、思わず目を覚ました後も読みつづけて一挙にエンディング。面白かったです。
カーテンの外はすっかりお昼。

TVで早稲田大の山岳部の未踏峰チョン・ムスターグ(多分崑崙山脈のあたりにある山だと思う)への登頂ドキュメンタリーやっていて、思わず見てしまった。中央アジアの果てしなく続く草原の風景、地を割って流れていく雪解けの川。そしてキャラバンの旅の果てにあった未踏峰の白き峰々。
もうどうしようも惹かれてしまってしょうがなかった。
僕はあの白き頂を極めたいという気持ちはわかるのだけど、むしろあのような何も無いような広い草原地帯を旅することのほうに魅力感じた。
中央アジア行ってみたくなった。そして今は多分行くことになるだろうと予感している。

そしてミケランジェロ・アントニオーニの「さすらいの二人」。彼の最高傑作だそうだけど、どうかなぁ。
確かに彼の思考の延長上にこの映画があるのだけど、それは彼の自己解決であって僕の自己解決を促すものではないといったそんな感じ。

夜、オースター熱醒めずに彼の初監督作品「ルル・オン・ザ・ブリッジ」観た。洒落ていて、多少哲学的でもあり面白い!もう彼の才能に完全に脱帽なわけです。


2001年3月17日(土)

今週はよく働いたよ。馬車馬が偉いかといえばそんなことはないのだけど、とりあえず月曜に納めるシステムの用意はできてまずはほっ。

錯綜する毛糸から出てきた答えは、このままでいて。今週は女心に翻弄されたよ。とにかくもとの鞘に戻ればほっ。
火は何もないところから起こるわけは無く、もっと僕は人の心をすくい取らなければいけないのだというメッセージにほかならない。


2001年3月16日(金)

色鉛筆のカメの絵。ただ放心。


2001年3月15日(木)

仕事のほう、いよいよ忙しくなってきた。
今週は東京いったこともあり、木曜日で既に体と脳のキレが落ちてきているような気がする。
それでも小さな工場のように機械は動かさないといけないのだ。

実体が遠いにも関わらず立ち現れた別れ話。
近くにいたときに「離れたくなかったもの」がどうして遠くになったとき「離れたいもの」に変わっていくのかがわからない。
誰かが僕の身にはさみをやたら滅法にいれて裁断していくようなそんな気分だ。
とりあえず眠ろう。


2001年3月14日(水)

夕食後、システムの背景図に使う地形図をスキャナーでとりこんでた。最上川の上流にある例の村の地図だ。
学生時代、ワンゲルで地図ばかり見てたせいか、こうした地形図を読むのがけっこう楽しい。
この等高線が急なところにはきっと滝があるなとか、この沢の水量は豊かそうだとか。この峰の名前がなんか気になるなとかね。人の名前が沢の名前に冠されていると、昔その沢を鹿や兎を求めて駆け回った猟師とか、壮絶な最後をとげた武士の姿なんかが思い起こせてしまうのものね。
想像力がわき立てられるのって何だかいいものだ。
だから多分突撃隊のこと笑えないし、もしかしたら同種なのかなぁとも思ってしまうわけだ。


2001年3月13日(火)

東京往復。
喫茶店で課長とみっちし話したよ。
ぼくのやりたいこと大体話したけれど、やっぱり手放したくはないとかそういうことでずっと平行線。
ぼくのプラン自体が全く具体性もってないからそのへん突っ込まれて確かに何も決めてもいないよなって苦笑い。

せっかく東京いったけれど友達とも会えず、新幹線乗る前に電話したら、
強烈なしっぺがえし。まぁ予想はできてたんだけど、つらいな。
ちょっと考えられないよな。考えたくないよな。
新幹線の窓みながら孤独というものを自分でおびき寄せているのではないかと考える。
オースターの言葉ひとつひとつに没頭して空間移動の長さを忘れる。

家ついて、どうしようもなく松江の弟に電話。
卒論も終わって、秋にカナダにいくためのバイトの日々らしい。
いつのまにできたのか、彼女の話もきかせてもらう。
微笑ましい。

7月から3ヶ月間くらいでシルクロード越えてトルコくらいまでいこうと思うんだよ。一緒にどう?
…本当にいくかもしれない。


2001年3月12日(月)

夢の話だ。
気が付くと川の中を流されていた。とうとうと流れるような水かさの多い中下流域をだ。
昆布のような水草がゆらゆらと流れ、川面の上をどこから迷ってしまったのか葉の舟で流れていくノコギリクワガタもいた。
「あ〜このまま流されちゃ駄目だ」って思って、すこし流れの上の中洲状地形を目指して泳ぐ。
まるで足ひれがあるような感覚で流れをいとともせず前に進める。
ぼくは昔川下りをよくやってたから川の流れの速さや淀みのような流相をみることが得意だ。
だからそんなもの巧く利用したら、思いのほか楽に岸にあがれた。
岸を登ると、ちょっとした坂道があって、呑気な民家のひさしが道路と平行に連なって見えた。
少し登ったところにほこらがあって、その下に木箱のようなものがあって、覗いてみるとブルドッグの子犬が数匹入っていた。「あ〜捨てられたのだな」って。その横にはついでとばかりによろよろとした子猫もいた。ブルドッグは獰猛だから飼えなくなったのだろうけれど、子犬はとても可愛かった。
どういうものも初めは可愛いのだなぁと妙に感心した。
さてどうしたものか…と考えているところで目が覚めた。時計を見て飛び起きた。既に寝過ごして危険な時間帯に入っていたから…。
夢はいくじのないカセットテープが切れるように容赦なく切れたから、その結果僕はその断面をはっきりと記憶してしまったのだ。
夢診断しようと思えばできないこともないだろう、フロイトでなくても、夢使い殿でなくても。

会社のPC立ち上げればメールがけっこうきてる。
ひとつは客先から阿修羅の怒り面に切り替わりそうな勢いのメール。先輩の協力もあってどうにか面の切り替わりは防げた。ほっ。

ひとつは東京からのメール。君がやめたいと言い出すわけもよくわかる、しかし君は仲間であり大事な人材の一人だから性急に答えを出すのはやめたほうがいい、明日東京に来て君の言い分を聞こう。
そんな内容、大変有り難くもある一方で、予想どおりの回答だねって冷めた奴らが脳で囁いている。
しかしもう水晶のように結晶化したこの考えを変えるのは並大抵ではないと思うよ、残念ながら。
そういうわけで明日は上京しましょ。
オースターくんも一緒にいきたいかい?


2001年3月11日(日)

今日も相変わらず冷たそうな雪の断片がひらひらと窓の外を落ちていく。
ストーブもしっかり稼動させて、「がんばっていきまっしょい」観た。
愛媛県の瀬戸内海沿いにある高校の女子ボート部のはなし。田中麗奈のデビュー作ということだ。
海面をすべっていくボートの映像はきれいだったし、田中麗奈のひたむきさをもった演技も好感もてた。これをやるんだって決めたら強情なまでにそれに想いつめていくところなんかよかったと思うよ。
朝早く家でて夜死んだように帰ってくる都会のサラリーマンにはこのひたむきさはわからないでしょう。

金曜に出したメールのこと少しは自分の中で後悔するのかと思ったら全然しない。
逆に翼をかえしてもらった堕天使くらいに開放されていく感覚がある。
この先きっと生活自体は窮乏するのかもしれないけれど、だから辞めなければよかったとは決して思わないだろうなと確信できる。

夕方から雪のやんだ街を散歩して、ついでにクラピッシュの最新作「パリの確率」みてくる。「ガッチョディーロ」のロマン・ドュリスが主人公。前半は話の展開のさせかたも音楽の使い方も巧みで結構面白いけれど、途中からストーリーにまとまりがなくなってくる。撮影の後半でクラピッシュが息切れでも起こしたような感じで、指揮ふれなくなって調和のとれなくなったオーケストラのようにエンディング。もったいない。「猫が行方不明」で最後に閉塞していた女主人公が笑って走り出したような突き抜けた感覚が欲しかった。

週末も珈琲の香りとオースターの「偶然の音楽」少し手にかけておしまい。
また明日から脳のロボット回路ONにしてそれはそれで働こう。
「がんばって〜いきまっしょい。」「しょいっ。」  ・・・っていうことで。


2001年3月10日(土)

土曜は泳いでサンドイッチ屋行きがお決まりコースになってきそう。
サンドイッチが美味しいというのはハードボイルドワンダーランドじゃなくても嬉しいことなんだ。

ビデオ借りてパゾリーニの「ソドムの市」見たのだけど、キューブリックの「時計仕掛け」みたときのような不快感残った。恐らくファシズムとかそういうものを皮肉っているのだけど、この時代に見るにはちょっと耐えがたい。センセーショナルは決して面白いということにはつながらない。

夕食は蓮根、茗荷、オクラ、長芋なんか雪舞う中買ってきて、いそいそキッチンに向かってた。自分で包丁握ると生活も丁寧になってくるような気がしていいね

食後、ずっとみたかった「ナヴィーの恋」。赤いブーゲンビリアと青い南国の空の対比の美しい伸びやかな映画だった。赤ワンピの西田尚美もよかったね。誰かさんにもあれを着て欲しくなっちゃった。
夏の太陽浴びに南の島行きたくなったよ。


2001年3月9日(金)

今週は結局全部遅かった。今月末までに納めるシステムが3つ。そのうち2つは手付けてないわけで来週もフル稼働でやらなっきゃいけなさそう・・・。忙しくても何かものができていく喜びのようなものは十分感じ取れる。それに仙台にきてストレスというものが極めてなくなったからね。

今夜は帰る間際、東京にあるものをメールした。
うん、退社届けのメールだ。
月曜に書いたけど、2年間お世話になった課長の顔を思い出すとどうしても送れなくてさ。
送信のボタンを押すことにこんなにためらったことなかった。

会社をでたら、満月が上空に静かに輝いていた。
3月の夜気を肩でそっと呼吸してみる。
終電の地下鉄の駅出て、もう一度月を見ようと思った。
でも周りを囲む高いマンション群に隠されてもう姿は見えないようだった。
もしやと思って額をもっと上に傾けたら、思っていた以上に高いところで月は雲の流れを裂きながら輝きつづけていた。


2001年3月8日(木)

自己愛の坂道、奇麗ごとの言葉。

相変わらず楽な坂道を下ることにばかり興味があるけれど、言葉は徐々に自分のものになりつつあるけれどどうだろう。
宮廷の庭で修飾語を火にくべたら、ものを透過できるような錯覚も一緒に燃えるのだろう。
でもその錯覚自体が既に僕の感覚器であったなら、もう世界に対して憎しみと厭世感と露骨さしか表現できなくなったりするのだろうか。それを貧困と呼ぶのだろう。


2001年3月7日(水)

PCの画面見すぎて、ちょっと休憩って席立って、渡り廊下に出る。四角い空がとても透き通ったブルーをしていて、それを見ていると無性に文章が書きたくなってきた。スモーカーたちが思わずポケットの中にシガレットを探すのと同じように。回型の建物が空を切り取るように、ぼくも大雑把な事象というものを切り取りたくなるのだ。そのとき僕には何故か「性欲」というものについて、鋭い刃先で発砲スチロールを切り取るように、言葉でうまく捉えれそうなそんな気がした。だけどPCの前に戻ったら、やっぱり感覚のスイッチを入れ替えて仕事していた。そりゃね。

午後からは東京の部署からまわってきた報告書の作成。去年の夏からやっていた土地利用の集計解析についてのものだ。もうほとんどできかかっているのだけど、言葉の定義づけがやたらと複雑。まるで卒論に向かって、つじつまの合わない言葉たちを封じ込めようとする学生みたいな感覚だ。

夕食にいつもの喫茶店でカレー。そして「龍」を読む。主人公はいよいよ航空会社の代表にまで上がる。これを読むと目見開いて、やってやろうという意欲がふつふつと湧き上がってくる。


2001年3月6日(火)

早く帰って、本でも読みたいなぁなんて思って仕事してたせいか、ファイル処理途中で何度か躓いて結局遅くまで。

それでもバスにつかりながら、短編ひとつ。嘔吐の話。春樹さんの短編で何が好き?って言われてこれをあげる人って結構いたように覚えているけれど、なんでなんだろう。
人それぞれということかな。


2001年3月5日(月)

午前中は割と暇な日かな〜なんて思ってたら、午後になって東京から仕事舞い込んできて、初心者のロッククライマーよろしく机にかじりついてた。気付けば終電!ってなわけでマフラー巻く時間惜しんで走る走る。あの地下街のレコード塗り替えはしなかったけれど、今年のベスト10くらいには入ったかもしれない。そうやって僕は一日分の運動なんかしてるわけ(したいわけじゃないけれど)。

夜の時間は過ぎるのが勿体無くて、ゆっくりバスの湯の中潜水して、20世紀が発明した人工的氷蔵から大粒氷ひとつ摘まんで、コトンとグラスにいれるわけ。きれいなロックアイス見ると嬉しくないですか。恵比寿の珈琲店でとてもきれいな氷出す店あった。それはグラスの中覗いているとどんどん氷に吸い込まれるような気になってくるくらい。そこでふっと顔あげて、付き合ってくれる?なんて聞いたら、やっぱりびっくりするんだろうか。


2001年3月4日(日)

プールでちょっと往復しているうちにあっという間、朝食べたヨーグルトのカロリーを消費。体重計のったら、2,3kg減っている。学生のときから8kg減なわけで、ちょっとしたダイエット経験だよ。仙台来てから、毎週牛タン食べたりしてるのにおかしいよなぁ。

3月の雨の中ジーンズを少し濡らしながら、メディアテークまでお散歩。メディアテーク内の図書館でヘンリー・ミラーの小説、午睡をとらずにいられない人たちの間にちょこんと座って読んでた。結局200頁読んで本とじる。僕の中ではそれほどのものではない、少なくとも今の時点では。

食材とビールかいこんできて、断熱皿もあることだしグラタンでも作ってみようなんて思って支度とりかかろうとしたら、僕がオーブンレンジだと思ってた文明器具は単なる電子レンジであること判明。仕方ないから野菜ぐつぐつ煮込んでスープにした。それでもミーシャにビールで幸せ指数はこよなく高い。

高校生以来の「回転木馬デッド・ヒート」、ごろりベットで読み耽る。小説のはじまりで春樹氏はこんなことを言いきる。
---  人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない  ---


2001年3月3日(土)

仙台に住む父親と牡蠣鍋食べにいく。
ぼくが今のある意味安定した生活やめて、もっと違うことしようと思うんだ、なんて言っても、「それがいい、それがいい、お前の好きなように生きればいいさ」なんて親父も歳をとったね。
親孝行ででかけたつもりなのに、結局まだ僕はこどもなのかもしれない。

この前、弟と電話したとき、「お兄ちゃんだったらきっと何だってできるよ」なんてそんな言葉に、何でお前はそんなに絶対的に言い切れるのだって、ちょっと笑って、でも本当に嬉しくて。将来お前がやりたいという農業(!)とやらを手伝ってやってもいいかななんて思ったくらいだ。

ネズミ捕りにひっかっかるネズミのようにぼくは不器用なのかもしれないけれど、大丈夫前に進めるってそんなとき思える。

*ショコラさんの「ノーザンライツ」とリンクしました!

2001年3月2日(金)

ひとりで琥珀色の液体と角張った氷2つばかり入れたグラスくるくるまわしてみるような金曜の夜も悪くない。
最近このダイアリ、よく書き込んでいるけれどそれがなぜだかわかるかい。
実は東京に比べて夜の時間が長いんだ。
それは仙台という土地が雰囲気がのびのびとしているという感覚的なものからだけではなくて、実際のところ仕事自体の手綱も随分と弱くなってるんだ。
なんといっても3ヶ月期間限定のレンタル移籍だから、仕事も割と細かなものが中心なわけだ。
先月の労働時間計算したら、向かいの席の先輩より80時間も少なかった。残業時間も半分に減ったしね。

得た結論はこうだ。お金よりも時間。勤勉よりもゆとり。会社よりも自分。
最低限生きていけるだけの仕事こなして、あとは本読んだり料理したり人と話したり物思い耽ったり、そんな生活でいいよな気してる。スポーツカーも豪奢な持ち家もてなくても、この自分が自分でいられるということが何より重要なことなんだと思う。


2001年3月1日(木)

真夜中に食べる伊予柑。
なめらかな厚いオレンジ色の皮に爪を当てる瞬間が好きだ。
空気中に蜜柑の目に見えない小さな小さな粒子が空気中にはじけていく。
その甘酸っぱい香りが好きだ。
水分のびっしりと詰まったその身体に歯をそっとあててみる瞬間も。

いつか蜜柑畑が段々畑状に連なるような海辺の町で暮らしてみたい。
蜜柑畑に上って、まぶしく光る海など眺めたらきっと蒸気船が水平線を動いていくのが見えたりするんだろう。

蜜柑はそしてとても文学的だ。
同じようにテーブルの上に添えたとしても蜜柑ほどに何かを訴えかけてきたりするだろうか。少なくとも林檎や葡萄やメロンでは力不足も甚だしいような気がする。梶井基次郎は果たして林檎を本の上に立てる気になったかどうか?酸っぱければ酸っぱいほど果物は文学的たりえるようだ。
夏の太陽と海から吹き抜ける風こそが彼らの命。緑葉に直射日光さしゆく真夏の午後、かれらの身体の中にしっかりと甘酸っぱい果汁が溜め込まれていくのだ。

もうひとつ伊予柑食べたし、そんな夜。


2001年2月28日(水)

もし誰にも認められないとしたらそれはきついことだろう。
どうも僕には人に認められたいという欲望が人よりも強いような気がしている。
人に認められるということで自我を形成してきたんだろう、きっと。
親に教師に友人に恋人に認められることで自分の土台を確固としたものにできる。
そんなことが完全に振舞えたのが高校時代だった。
それが初めて崩れたのが大学生のときだった。
ただ笑いかけたり、まっすぐ目見てるだけでは、世界を航行することが難しくなったからだ。世界はあらゆる面から点数をつけようとするから。

そうだ思い出した。大学受験に失敗した夜のことだ。
「あなたは鼻っぱしばかりが強いから、少しは折れてよかったのだと思う」
母親の言葉だ。
果たして僕もそう思った。
そう思ってること自体が既に鼻っぱしが強いわけだけど。

認められようとすることは、時に自分を人形化することにつながる。
ここで笑わなきゃ、ここで優しい言葉を、ここで誉めなきゃって。
自分の中の自分が操り人形を懸命に動かすのだ。

明日から人形じゃない生き方しよう、なんてそんなこと言いたいわけじゃない。
結局人形使いたる自分が既に自分の一部なわけだから。

ぼくは今日ある時点で認められて、きっと鼻が伸びていったんだろう。
陰はみるみるうちに消えて、自信ありげに笑って、仕事してた。
陽のバロメータが上がってくると僕は笑って世界に手を差し出すだろう。
それは悪いことではない。むしろよいことだ。
だけど…、とも思うそんな夜。
(もし陰ばかりがこの先かさんだら僕は果たして生き残れるのだろうか。)

もしかしたら陽の部分が強い人って、案外陰の部分もまた濃く深いのではないかと最近そう思う。
浦沢直樹の「Monster」に出てきた、さわやかな笑いのうらに冷たい笑い潜めていたあの金髪の青年思い出した。もう2年間も(つまり学生時代から)読んでないけど、どういう展開になったんだろう。
なんか気になってきた。


2001年2月27日(火)

本屋の小さな青い袋に、水色タイル状の便箋と、星釣る男の子の切手、1973年のピンボール入れて、でかけた。
お弁当を食べながら、宛名をかいて、切手を丁寧に貼った。
おうちに帰ってきて、鉛筆もって僕はかく。
消しゴムがないからさ。書くのは一回きりだよ。

ぼくはいつだって渇望してばかりで欲しい欲しいばかりだけれど、
ほんとは抱えきれないほどいいものをいっぱいもってるんだよ。

そんなことに感謝してぼくは明日の朝、ポストに向かうのだろう。


2001年2月26日(月)

朝から頭の中をくるりの「ワンダーフォーゲル」が流れつづける。
とっても調子がよすぎてあきれるくらい。
仕事だってどんどん進んでいたのに、夕刻を迎えたとき突如音楽はなりやんだ。
パーティーは終りさ。って勝手に小人たちが帰る用意しだして、気付いたら仕事がう〜んてな感じで滞りだす。
外出て冷たい空気に深呼吸してみてもたいして効果ないから、出すものだけ出して、たったと帰ってきた。

家帰っても、脳の回転はさらにスローテンポ。
あまりにスローすぎてダンス踊ろうとしても足がもつれてきそうなくらい。
だから床に倒れて虚空でも見上げることにした。


2001年2月25日(日)

午前7時(?)に東北地方に地震あり。
地上が揺らぐと一瞬の間に死というものを覚悟してみたりする。
おかげでしっかりと目覚めてしまって、さっとカーテン引くと、部屋の中が朝の光であふれかえった。

歩いて5分のところにミニシアターがあるのってとってもよくない?
玄関の扉あけて10分後にはスクリーン前にして座っていた。
パトリス・ルコントの「サン・ピエールの生命」
お洒落で官能的な映画づくりという印象のあったルコントだけれど、ここでは随分と骨太な仕上がり。ジュリエット・ビノシュやクストリッツァやダニエル・オートゥイユといった面々の演技力が光る。
クストリッツァは「黒猫白猫」とか「アンダーグラウンド」撮った監督なのだけど、これがなんと初出演らしい。
全てを失ったとしても、愛を貫けるというのはすごいと思う。

映画館出て、メディアテークで雑誌読んで、HMVで新譜買いこんでの散歩コース。
くるりにAJIKOにSweetBoxをゲット。くるり、日比谷で聴いたときはたいして関心しなかったけど、今回のは身の丈サイズになってきた感じでなかなかいい。「ワンダーフォーゲル」なんか聴いてると、貧乏学生に戻りたくなる(笑)
それから今日のメインイベントとして、真っ白な珈琲ポットとフィルターのせるやつ(はてなんていう名前なんだろう?)を買ってきた。ついでに真っ白な珈琲カップも。
それからBodyShopも発見!だけど愛用のバストニックは限定品だからもうないとか。はにゃ。
それにTKのセーターに・・・・・。ふむ、いっぱい買ったね〜。
さあ、そろばんの珠をはじいてみよう。・・・あははのははは。


2001年2月24日(土)

久しぶりのプール。身体に血が巡るというよりも身体の酸素を使いこなしたって感じ。
ちょっと泳いで宇宙基地並みに酸素が足りなくなってきておしまい。

外でて、ちょっと気になってたサンドイッチ屋はいる。
焼きトーストの中に、詰め込めるだけ詰め込めれたといった感じのトマトにレタスにキュウリにポテトサラダ。また、いいところ発見してしまった、にこり。

夜、国分町で松屋さんとご対面。
いやぁーイメージと違ってたよ。
ここ一年くらい見た人の中で一番といっていいほど健康そうな人だった。

(飲酒量と健康が反比例するというのは嘘ですね。)
ぼくの血にシベリア的な血球が混ざっているとすると、松屋さんは南国の果て的血球が混じっているよ、きっと。
(烏龍茶一杯だけで!)次々と繰りだされるオーバーアクションに、初めてテレビを見たシベリア人みたいに見とれてしまったよ。
こんな溌剌とした人がいる世界にもびっくりしたけど、もしかして普通の世界がそうなのかもしれないな。少なくとも彼女の目から見える世界はそうなんだろう。
仙台的カルチャーショック。


2001年2月23日(金)

仙台にいる同期3人で国分町へ。
業務はコンサルにデータ整備にシステムと違うのだけど、抱えてるものは似たり寄ったりでなかなか話せたよ。ブレードランナーさながら、小雨の中、ラーメン食べて帰ってくる。


2001年2月22日(木)

豪雪によって函状になった道ゆき、最上川のほとりにあるとある村へ。
役場の担当者はちょっとお目にかかれないような秋葉原系。リナックスのサーバ組んだというのには驚いた。どうしてこんな人が片田舎の役場なんかにいるのか世の中不思議なものです。
社内戻って、今までたいしてやってこなかったAccessやる。傍らに入門書、ちょこちょこやってれば使いこなせそう。ここにきて仕事が面白くなってきた。自分の技術力が少しずつ上がるのもわかるし、業務が任せられるので、裁量しだいでどうにでもなるところがいいんだと思う。もし、このまま仙台おいてもらえるんなら、石飛ぶの伸ばしても…う〜ん迷うね。


2001年2月21日(水)

ちょっと早く帰ってこれたから、家のまわりをてかてか歩く。
まず国分町の手前まで行って、それから今度は北側へ。
途中でごはん食べたけれど、ぼくの舌にまるで合わなくて、食べた瞬間に箸おいてもよかったのだけど、栗田さんに泣かれると困るので山岡は我慢。これだと思う店を見つけるのはなかなか難しいことです。うん。

珈琲飲みたくなったけれど、喫茶店なんかあってもこんな時間にはやってないしな、と思えばモス発見。ちょっと和むテイクアウト用の珈琲もってさらに歩き回る。東北大学のまわりはもったいないことに2mくらいの塀で囲まれている。外から侵入することはできないけれど、また内から魂は解放されないのではないかとちと思った。なぁんか暗い印象を受けてしまうのはぼくだけじゃないはずだ。これで研究行き詰まったら苦しいんじゃないか?せっかくの農学部なんだからもっと楽しく開放的にすればよいのにね。って景観学もちょこりかじる私は思ったのでした。

あまりに殺風景なもの見すぎて、誰かと珈琲でも飲みながら時間を共有したいけど、こんな生活してたらなかなか友達もできないんだよね。このネットの世界もどこでもドアみたいに「やぁ来たよ」なんて笑い合えたらもっと楽しいのにね。


2001年2月20日(火)

12時まわってから洗濯機まわすなんて、ちょっとひどいんじゃない。
ニュースもみなければ、新聞もとってないということで、この世界で何が起きているか、この数年間で一番捉えてないんじゃないだろうか。
時事問題とか出されたら、受験生はおろか下手すると中学生にも負けるかも…なはっ。

HP冒頭の谷川さんの詩、なんだか今のぼくにぴったりだ。
僕の世界の中で小人たちが綱引きをしては勝っただの負けただの言い合っている。
夕刻仕事が面白くなってきて、「あ〜勝ったよ」って一方の小人たちが囁きあい、晩に自分の仕事に与えられたお金の範囲内で仕事できているかを考え出して「少し負けだして」、ぼくが帰京したがっていないことが偉い人たちの会議で話題になったときいてヤジロベエ感覚で将来のことちらりと考えて「負けたみたい」。
というものの、もう一方の小人たちは握りこぶしあげてガッツポーズ。ぼくもシャンパンもってどちらに歩み寄ればいいのかよくわからない。
小人たちが明日もね、なんて言ってるから、ぼくも芝の斜面におしりつけて頬杖ついて彼らの遊びを眺めつづけるのだろう。


2001年2月19日(月)

冷えに冷えた夜。
頭蓋骨がかたくなな二枚貝のようにぎゅっと縮むものだから、脳がキリキリする。
会社にマフラー忘れたおかげで、羊毛を刈られたばかりの羊のように首すくめるしかない。

家帰ったら早速バスに熱いお湯を入れる。
ボディーショップのバストニックがブルーの泡をたてる。
夢見ごこち。目を閉じて、群青色の海の底に落ちていく自分をイメージする。
ワジを潤す雨季の水のように、血が身体のすみずみに流れ出す。
指先も頬も今はもう温かい。
心なる臓器から送り出された血流が脳に届けば、ぼくは優しく世界のことを考えることができるはず。


2001年2月18日(日)

金曜の夜の新幹線とびのって東京へ。丸の内線に都市疲労の臭い、追い打つように靴踏みあうほどに込み合う車両、もう「参ったね」って手を上げたわけ。

リチャード・パワーズの「舞踏会へ向かう三人の農夫」。アメリカ文学の俊英といわれる訳がわかる。百科事典的な知識の言い回しにウィット。知識階級なる人たちをうならせるのだろうけれども、ストーリー運びの面白さは低いのではないかと、その階級を上にかざす僕は思う。最後まで読めるかどうかわからない。

土曜、うららかな日差し浴びて駒場まで行って、研修会。お昼になんと会社から呼び出し、「仕事しにきて」だそうだ。仕方なく会社に久しぶりに行って、PCカタカタ打ってた。一体なんのために上京したのやら?。夜、課の飲み会行って、ぼくが東京で抱えていたストレスの根源が何かわかったような気もした。人を踏みつけて上にのし上がらないといけない風潮、どうも人の顔色で何を期待しているかがわかってしまう(気のしている)僕には胃の痛い競争世界さ。
母親が「東京は生き馬の目を抜くようなところよ」なんて昔言ってたのを何を大げさななんて思ったけれど、這い上がるには人の眼孔を尖ったスプーンですくうしかないのだろ。お前らそんなにそれが楽しいか。
もう東京のここで働くことはないだろう。と帰りの電車でそう思った。

日曜、散歩。もう梅の花が咲き始めている。土の匂いと花の香りが鼻腔をくすぐって、穏やか極まりない。ずっとこんな世界の中で安寧に暮らせたらと思う。
将来のこと話す。ぼくは人のこと何だかんだ言うくせに、自分のこととなると読みや決断が鈍ってしまう。人とコミットしあうことでようやく自分の位置を把握できた。多分、もう決断は下せると思う。
受動的に決断せざるえないところにくるまで僕は待っていようとしすぎ。
「笠原さんやサワラさんだったら、明日から!ってきっとそう思うはずだよ」
桜の咲く季節には僕も今の石から思い切って次の石に跳ぶことにする。

遅い新幹線で仙台へ。
村上龍の「69」。これは制服でも着てたときに読んで、鎧着ることの是非についてでも考えて、空にでも唾吐くための本だ。唾を吐けない高校生は、血管の硬直した大人にでもなって、通勤電車の吊り輪につかまってるしかないわけ。
とにかく彼の血のありかがわかったような気がする。
村上龍には佐世保の血が流れ、僕には札幌の血が流れている。
そういうことなのだ。


2001年2月15日(木)

気付いたら終電前。ベネックスの映画みたいに地下道ダッシュしたわけ。
といっても東京に比べて、ダメージというものがほとんどない。
終電ですら、この地では汚くないから。

仙台の地下鉄の駅では、職員に優雅な人でもいるのか、大概クラシック音楽がかかっている。
クラシック音楽の中で、喧嘩したり、飛び込んだりする人って普通いないわけで、なんだか平安極まりないのだ。
東京でクラシックなんかかけたら、「おいおい忙しいときにのんびりやってるんじゃないよ」なんてお叱り受けるんだろうな。駅員の仕事のテンポだって合わないのかもしれない。

東京から部長がやってきて、「どうだ、仙台にずっといたくなったか?」なんて聞かれて、
「はい・・・、と言いたくなるほどいいところです」とかなんとか答えればいいのに、「はい」のあとが続かない。肯定以外のなんでもない。

今週末は上京。(出張から一応帰宅ということにもなるんだな)。土曜に研修受けたらあとは自由なので渋谷でもふらふらしようかな。「ダンサー〜」じゃないビョークの映画も観たいし、美味しいパスタも食べたし。


2001年2月14日(水)

バレンタインデーという聖なる夜に手ぶらで帰ってきたりして。
冷蔵庫に貯めて、白い目で見られる心配もないわけだ。

朝早くに仙台出て、1つ上の先輩とともにバスで山形へ。山形で支店の人に車で拾ってもらって、さらに奥地へ。会社入った年目は皆違うのだけど、実は3人とも同世代であること判明。
支店の人のスタンスが、貪欲に遊ぶというところにあって、この会社にしては非常に新鮮だった。仕事ができる人より、遊びができるという人の方が俺は尊敬できるね。なんてハンドル握りながら言ってたけど、確かにそうだ、うんうん。

今日は客先でシステムを見てもらったのだけど、説明とかどうもまだ下手。東京じゃ、ほとんど客先出て説明することなんかなかったものなぁ。先輩と比較して自分のどこが足りないかも十分わかったし、それでこそ目的意識もでるというもの。


2001年2月13日(火)

会社のビルは建ぺい率のためにかなり変わった形をしている。ビルの外観は普通のビルと同じなのだけど、なんと真中がすっぽり空洞になっているのだ。
だからトイレや自販機にいくにしても、いったん内側たる外に出なければならない。
月夜の日なんかは井戸の中から見上げるように白い月なんか眺められて風流といえば風流。
でもこんな寒い日にはブルルと震えとまらなかったりする。

明日は初めての山形県。仙台でずっと作ってきたシステムの途中経過をお客さんに見せてくるわけ。


2001年2月12日(月)

最初マンスリーマンションに住むわけだから、3ヶ月間外食&コンビニ生活でいいやなどと考えてたわけだけど、舌もそろそろコンビニの科学調味料が嫌になってきたなんて言うので、冷たい外気の中、てくてくとスーパーまで。お米やらお味噌やらいくつかの調味料買ってくる。早速、最近欠乏気味だった大豆製品を徹底的にとる。ゲージの目盛りが思い出したようにカタカタ上がった。
おととい散歩途中に確認した、家から徒歩5分程度のスポーツクラブに行ってみる。身体の中に血流まぐらさなきゃというわけ。だけど月の会費が10,000円だってさ。これはちと考えようということで踵返して帰ってきた。どうせプールしか使わないものなぁ、う〜ん。しょうがないから、友達がうちに置きっぱなしにしていった「KIREI」なる雑誌のストレッチを全部やってみた。


2001年2月11日(日)

北野武の「BROTHER」観てきた。ちょっと人を殺すシーンや残酷シーンは多いものの、緊張した画面づくりが終始なされていて、この監督の力量にうなる。きっとこの人は、強烈な反骨心のようなものを胸に抱えて生きている人なのかもしれない。映画としてはやっぱり「キッズリターン」のようなつくりのほうが随分と好感もてると思う。たけしはさることながら、弟役なる真木蔵人がけっこう良かったかな。最初のちんぴらから段々と風格もっていく過程なんかね。しかしながら、兄弟愛というよりほとんどドンパチの任侠の世界しか描いてないわけで、結局主題がはっきりしていなかったような気もした。
北野武には時代劇ものをいつか撮って欲しいと思うのだけどどうだろう。たんなるチャンバラじゃなくてさ、刀剣が不気味に光る様とか戦場のシーンとか、緊張感にあふれた今まで観たこともないようなシーンを撮れると思うのだけど。例の「御法度」も切れ味のなくなった(?)大島渚じゃなくて彼に撮らせたら、もっと面白いものがつくれたと思うんだけどなぁ。寺島進の侍姿なんか合いそうな気もするけれど、どうでしょう。

今年の誕生日、プレゼントをひとつ頂いた。
この前でた「中谷美紀」の写真集。
はぁ〜みーはー。
でも欲しくなっちゃう気持ちもわかるでしょ。うんうん。


2001年2月10日(土)

おうちから仙台駅まで3駅分、往復のお散歩。
途中、スズキのランチ食べて、仙台メディアテーク廻ったり、1000円もする珈琲飲んだり、居酒屋でめいいっぱい飲んだり…、そんなうちに街は夜になってた。
メディアテークはガラス張りの建築雑誌の表紙を飾るような未来的建物。中は美術展示とか図書館とかそんあものが入っている。冬の太陽の光がふんだんにはいってくる建物の中で窓の外のケヤキ並木目にしながら、うとうとお昼寝。なんだかいいところ発見してしまった。
仙台は長いアーケード街があるのだけど、アーケードに面した建物の2階あたりにけっこう喫茶店が入ってるわけ。きっとお茶片手に話するのが好きな人が多いんだろうね。
友達が「東京にいたときは随分と閉じ込められていたんだね」なんて言うのだけど、確かにここに来て前向きに自由にやっていけてるような気がする。
ランチ食べにいっても、居酒屋入っても、店の人が気軽に話し掛けてくれる。こんなこと東京じゃ、あんまし無かったよ。街と人とコミュニケーションがとれるのってなかなか悪くないと思う。


2001年2月9日(金) My 26's BirthDay 

26回目のBirthDay。
自分のことが心から好きになれるような、世界が心から好きになれるような、そんな26年目にしたい。
土から出てきて脱皮したばかりの透き通った青羽のセミのように、新しい僕になれるように。
そして新しい世界に飛び立てるように。


2001年2月8日(木)

仙台にきてから仕事の遅い日は、みんなで近くの漫画喫茶に行くようになった。
ここでカレーやらスパゲッティやら食べたりする。東京で多少は鍛えられた舌のせいかどうかわからないけれど、スパゲッティ-はいまいち馴染めない。が、珈琲はいける。(まぁ喫茶店なんだからね)

「龍」(確かこんな名前)という漫画を少しずつ読み進めているのだけど、これが結構面白い。設定は1900年代はじめの京都。主人公の生き方が大きくなってきて、そろそろ舞台も中国にも広がりそうな勢い(現在6巻読み中)。
社会人になって漫画読まなくなって、初めてのとき「漫画読むのひさしぶりだなぁ」と感慨気に独り言いったら、マスターからも先輩達からも白い目されちゃったけれど、まぁ汚名返上できるよう精進します(笑)

仕事のほうも地図システムづくりやってるのだけど、この言語も少しずつ詳しくなってきて、プログラミングも楽しかったりする。
せっかくだからいいもの作りたいよ。


2001年2月7日(水)

家ついて、コートもスーツもタイもとっちゃって、冷蔵庫からビール出してプルダブぱちりっと開けてうっとり。ミーシャが歌ってくれて、きっと踊ってくれて、ぼくは緊張解いてにこりと笑ってみる。
ここでキッチン立って、ニンニクとベーコン刻んでオリーブオイル温めて、その横でアルデンテ♪の掛け声でパスタ茹でたら楽しいんだろうけど、未だここのキッチンに立ったことなかったりする。
大体コンロのタブ回してもいないのだから。

一度会社の人と週末にバーベキューしたことあった。
僕が包丁で野菜コツコツと切ってたら、皆に驚かれた。
包丁なんて握ったことないよ、の声に僕が逆に驚いた。
プログラムやシステム構築が天才的にできても、林檎の皮がむけなきゃどうしようもないんじゃないか?なんて疑問もったけれど、確かにとうとう包丁すら手にもたない日々だよ。
(ここがとても便利なところだってこともあるけどさ。)

「ユリイカ」で役所広司が朝のお味噌汁を作ってるシーンがあったのだけど、それがなんだかとても美味しそうで、そういえば朝の温かいお味噌汁とご飯なんて定番、長いこと食べてないよと思ったんだよね。お味噌汁シンドローム。


2001年2月6日(火)

昼のほとぼりから醒め、今は身体を樹のように休め、心の海の波をおさめるとき。
月の光に身を洗ってみるとき。
ピアノの旋律と底深いうなりが身体のすみずみに、そう、月の光のように沁み込んでいくのがわかる。


2001年2月5日(月)

何年かぶりにコンタクトはめてみる。
PC凝視したあと窓の外見ると、安野光雅の不思議な絵本みたいに遠近法が変になる。
目が悪いとあんまり得することない。
もともと悪かったわけではない。中学生の頃は教室の窓から遠くの方に見える水田の稲穂が見えたくらいだったから。
高校の頃、剣道をやりだして、面の隙間から見える相手の目の動きから隙探すのが好きだった。だけど、ある時点から相手の目に焦点が合わなくなった。それはそれで相手が僕の目の動きに戸惑ってしまうという効果も生み出したのだが。
部活で帰りが遅いとそれから机に向かって眠気の来る寸前に細かい文字を機械のように読んでいたことが目にとても悪かったのだと思う。(あの当時は愚鈍な子狸のように要領も悪かった。)朝、バス降りて学校まで30分の道のりを歩いていると、目の玉がライターでかざされたように熱くて、いつも目の玉を外して、冷たい谷川のせせらぎの中に置いておけないものかとそんなことばかり考えていた。校門の前の桜の樹がまるでゴッホの油絵のように見えてくる始末だった。世界は日々虚構的になっていったのだ。
大学に入って山に通うようになって、初めての合宿から帰って、出来上がった山の写真を見たとき、ぼくは悟った。「眼鏡しなければならない」って。驚いたことに僕が山でみたスカイライン成す山の形状と写真のそれが違っていたから。

「ガタカ」の未来世界の中では、視力の悪さというものが人間としての欠陥としてみなされていた。目の良さといった形質を有する良い遺伝子をもつものだけが選民的に選ばれた職業につくことができる世界になっていた。イーサン・ホーク扮する主人公は自分の夢(宇宙飛行士)のために目が悪いことを隠し、コンタクトをはめていた。イーサン・ホークがユマ・サーマン演じる会社の同僚と出掛けたときに一緒に高速道路を渡ることになるが、不運にもその寸前にコンタクトレンズを落としてしまう。コンタクトを失った彼には高速道路の車の動きが捉えることができない。それを渡ることは自殺行為に匹敵したが、そこで自己の遺伝子の劣等を明かすことはすなわち夢そのものをあきらめることにつながるのだ。そしてイーサンは渡るのだ。
話が天声人語(君は一体何が言いたいわけ?とか、たまに突っ込んであげたくなるよね。)並みにかなりそれてきたけど、もともと主題があったわけでもないのでいいや。僕はあのイーサンの感情を懸命に押し殺そうとするような、それでいて救いを求めるあの視線が好きなんだ。一時期あのイーサンの表情の入った映画のちらしを部屋にはってあった。イーサンはこんなに頑張ってるんだぜって何だかささやかに励まされた。

後天的に得てしまった遺伝的欠陥、(他にもいっぱいあるのだけど)、欠陥の中に閉じこもっている限り進歩はないのかもしれないけれど、イーサンのようにそれを超越できればどんな人をも納得させることができる。そうした姿は美しいから。

僕もイーサンのように美しく生きれるだろうか。……(どうにか着地だけまとめたスキージャンプみたいな終わり方だ(苦笑))


2001年2月4日(日)

暇にまかせて青山真治の「ユリイカ」観てきた。3時間半もの長編なわけだけど、時間の長さというものをあまり感じさせなかった。モノクロの映像が写真のように美しかった。
バスジャックによって生まれたトラウマの克服、再生がテーマなわけなのだけど、ストーリーの骨もしっかり作り上げられている。暴力によって生まれた傷というものは、心の奥まで深く届き、それが特に若い人たちにとっては取り返しのつかないことになることを示唆していた。そして本当の理解者というものが現れなければ、コントロール機能そのものが欠落することになってしまうのだ。
10代が何を考えているかわからないなどと報じる時代だけど、それを解く手がかりを青山監督は与えてくれたと思う。兎に角、傑作であることは間違いないと思う。
*「夢使い講座 中級編 其の一」UP。夢使いさんありがとう。


2001年2月3日(土)

遅い目覚め。休日の窓からは横なぐりの細かな雪が舞っているのが見えた。
熟達した住人たちはこんな天気の中あえて外に出たりしないのだろうが、まだ仙台はひよこ程度にしか物わからぬ僕は外に出る。
無邪気なひよこを刺す2月の外気なわけだ。

マンションの横に大学があるせいか、小さな路地にも日の当らないようなマイナーな店があったりするのだけど、今日はお弁当屋を発見。
「いつもつぶれそうになるまでサービスしちゃうのよね・・・」なんて気さくに話し掛けてくる奥のおばさんに500円渡す。家ついて早速お弁当広げるのだけど、学生向けなのかなんなのか知らないけれど、量が多くて、途中で胃の消化酵素を使い果たしたくらいだ。
お腹いっぱいでもう何する気も起きなくなりそうだったけれど、気力(?)で再びコート着て、仙台駅目指す。
リチャード・パワーズ(表紙に3人の男の写真を配した本)かポール・オースターの本がむしょうに欲しかったのだけど、大きな本屋がどこにあるか全然わからないので手当たりしだい建物めぐる。
タイだのシャツだのCDだの買ってなぜか荷物を増やしたあとに発見。
なんと本をじっくり読めるようにテーブルが本棚の横に備わっているような図書館的な本屋だった。
こりゃいい。(3人の農夫はいなかったけれど)
こんなふうにして街はちょっとづつ僕のものになるんだろう。


2001年2月2日(金)

夜タカタカPC叩いてたら、同期から内線あって、飲みいこうよというわけで、またもや街に繰り出したわけでした。(それにしても飲むこと多し)
今回は同年代の人たちとわいわいがやがや。
会社というよりほとんど大学のサークル状態。
仙台の女の子は東京より何だか庶民的と思ってしまった次第。
2時過ぎの街は雪のベールに覆われていて、こうでなくちゃと思うわけ。


2001年2月1日(木)

まわりの人に見習って、手ぶらで会社にいくことにした。
東京のときは考えられなかったことだけど、何だか自由人気分でなかなかよい。
スーツ着てなかったら、遊びにいくとしか思えないもの。

会社できゅっきゅっと頭のねじをまいて、ちょっと疲れてもすんなり家に帰れる。
誰かに電車の中で押されることも、汚いものも見る必要がないのだから。

東京の週末は常に内向きで街歩きばかりしていたけれども、仙台の街は東京ほど面白みがない分、やはり目は外向きになるんだろう。外向きになっても十分全てが足の届く範囲内にあるから。
ここに一年住んでいたら、きっと車でも買って、週末になれば釣りしたり山登ったりスキーしたりするんだろう。それでこそ釣り合いがとれた健全的生活がおくれるというものさ。
帰京したい気分は既に失せ気味なわけなんだ。


2001年1月31日(水)

夜がゆっくりと過ぎていくって素敵だ。
身体にはくぐもった窓ガラスのような感覚が残っているのだけど。
そんなものを丁寧に指でふきとる。
そしたら外界がぼくの目にも見えてくるんだ。
いい感じ、今夜はワルツ・フォー・デビーをきちんと聴いてみるんだ。
そしたら白い毛皮を着た眠りの国の女王が鈴の音響かせて馬車かけてやってくるんだろ。
馬の白い吐息が暗闇の中で尾を引くんだ
白い街灯の下に馬車がゆっくりととまった。
もう迷うことなく僕は彼女の横にそっと座ってもたれかかるんだろう。


2001年1月30日(火)

今日は随分と遅くまで仕事してた。
バスつかってたら、そのまま眠りに落ちて、危うく三途の川も渡っちゃうところだった。
ねむねむ。


2001年1月29日(月)

僕と入れ替わりに東京に行った方が顔を出されたので一緒に国分町へ。
「東京は息がつまる」などと僕がここに来て話したことと逆のこと言ってた。
見たこともないような大きな魚の一片を焼いたもの食べていれば、上の人たちの会話に。
僕も早く役にたつようにならないとなぁ。ここではまだただ飯食いの様相だもの。
でも仕事であてられたプログラムもちょこちょこわかって面白くなってきたし、これから。

明日は福島へ。ここからなら割合近そう。


2001年1月28日(日)

仙台に住む親父と妹に会って来た。去年の正月以来のことだ。
会った瞬間、「痩せたな〜、大丈夫か」だもの、ちょっと気滅入る。
車でお城やらお寺やら案内してもらって、おみくじ引けば、吉と小吉だもの、参るよな(苦笑)
親父の家はこじんまりとした一軒家なのだけど、壁薄くて寒い。末端冷え性のため、ずっと鳥肌立ててた。鍋囲んで、酒など飲めば、親父も嬉しそう。ちょっとした親孝行になったかな。

家帰ってきて、乳白色の熱いバスつかれば、ようやく身体の小さな動脈にも血がドクドクと通いだす。
ピアノの旋律揺れる暖かい部屋の中で、深紅のハードカバーに手をかける。


2001年1月27日(土)

仙台駅越えて長町という駅まで南下して、FrancFranc入ってるようなショッピングモールで、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ようやく観てきた。東京ならば30分待ちでも立ち見になりかねなかったのに、ここでは客数少なく真中の席で観てしまった。ど真ん中ってもしかしたら初めてかもしれない(笑)。この映画、ビョークが素晴らしい。僕はラース・フォン・トリア監督の作品、前に一度観たことあって、その映画の色調が結構暗くてちょっと苦手かななんて思ったのだけど、この映画も結構暗い。暗い色調なのになぜかそこをミュージカルに変えてしまうことができるというのがビョークの天才的なところなのだろう。他の監督と引き合わせた方が、う〜ん例えば「ピアノレッスン」のジェーン・カンピオンとかさ、出来合いは僕好みになったかもしれない。ビョークという人は感性というものを空気を震かんさせるほどにもってるような気がするのだが、やはり少々そうした感性の迸りに痛々しさを感じてしまったことも確か。それは例えばCoccoが内から溢れ出しそうな感性の塊を耐え切れず空気握って歌うスタイルとかに似るものなのだが。
次回はアイルランドにある「世界の涯て」あたりで歓喜に震えるビョークの姿を映画にして欲しいなぁ。CG使って、上空の雲をダイナミックに変容させてさ。どうでしょう。


2001年1月26日(金)

男、歓迎会なる催しのために国分町なるところに行きけり
男、純粋培養を自認すればこそトリガーが植物細胞を動物的細胞に豹変させることを畏れ、驚くのみ。


2001年1月25日(木)

問題解決。なんと新しい電話回線がデジタルじゃなくてアナログだったみたいだ。一応これで世界の扉もまた開いたわけだ。ほっ。

今日は何だかすごい久しぶりに仕事が面白いと感じた。東京のときは警察の大きなシステムづくりの単なる下っ端、機械のねじかなんかのような感覚で仕事してたけれど、仙台はシステム担当が3人ということもあってけっこう任せてもらえるんだ。今は山形のとある都市の水田を管理する地図システム(8割方できているのだけどね)の残りの部分やり始めて、自分の創意工夫でどうとでもなりそうで非常に面白みがある。
会社の中もすごくおおらかでのんびりとしていて、随分と庶民的というかなんというか。ランチの後に寒風の中、宝くじ(1000円当ってトントン)買ったり、夕食に近くの漫画喫茶的なとこ入ったりなんてね。場所が変わるとこうも変わるのかと新鮮な驚き。楽しくやっていけそうだ。


2001年1月24日(水)

今日もネットにつながるべく色々努力してみたのだけど結局駄目。設定もモデムもおかしくないから、もしかしたら電話回線自体に問題あるのかなぁ。ショックだけど仕方ない。

今夜はちょっと早めに切り上げて、途中で外食して胃を満たし、一人マフラーまいてマンションなんかに帰ってきた。マンションのドア開くとき、これって都会の一人くらしってやつだななんて思った次第。東京のときはどこ向いても人がいるような状態だったし、友達とも頻繁に行き交っていたから、全然孤独というもの感じなかったけれど、地方都市はやっぱり違うね。サラリーマンが飲みに行きたくなる理由もちらっとわかったというものさ。

仙台にきて少しずつ何かに解放され始めているような気がしている。東京ほどは人との距離というものを考えないでもうまく生きていけるような場所のような気もしている。誰かとゆっくり話しがしたい、そんあ稀有な欲求まで生まれてきたような気がするよ。


2001年1月23日(火)

HP立ち上げ1周年記念ということでパチパチ…。でもいまだにネットにつながらない。電話回線はつながったのだけど、どうも設定うまくいかない。職業柄こういうことにさじ投げてはいけないんだろうけれど、???状態。
心だけはどこかでつながるように僕は一人の部屋で思い馳せる。


2001年1月22日(月)

仙台初出社日。自分のPCの環境設定とかそれくらいで終わってしまう。
帰りに支社の同期とさしで飲む。彼は随分と仕事任されてるようで何だか大変そうであった。まぁ彼が充実してるならそれでいいのだとは思うのだけど。身体大事にねなんて思ったわけ。彼は早く結婚して子供欲しいなんてスゴイこと言ってたけれど、それはきっと価値観の転換が社会生活の上で余儀なくされてるんだろうなぁと推測させた。自分の車輪が完全に廻りきってしまうと車輪自体には他に何かしようという余裕(欲望と言い換えてもいい)がなくなってきて、そこに何かを載せることに思いを馳せるしかないのかなと。つまり車輪は自己が回転していることを上に大切なものを載せているからとそう理由づけることができるから。献身とか犠牲とかいうのは皮肉的ぽく聞こえるけれども美しいわけさ。
彼はちょうど廻り始めるのに良い年齢だよね的なことを言うわけだけど、僕なんか唇の端っこに笑い浮かべて、うんともすんともつかない顔してる。

「社会のつまはじきものになるかもしれない」なんて入部用のパンフに書いてるようなワンゲルという共同体が僕に与えた影響ははかりしれないのかもしれない。僕は恐らく一般人にはわからないような価値基準をもってるに違いない。年をとればとるほど会社的な教育を施しにくいというのはよく聞く言葉だけど、そんな教育施されてたまるかって。

どうも最近、バーベルほどではないにせよ、国語辞典くらいに文章が重いこと多いかな。葛藤的生活おくってるわけなんでしょう。葛と藤的色合いの生活のことだよって言えたら嬉しいんだけどね。
*トップの谷川氏の詩を交換しました、なんとなく今の心情に合う詩なわけです。といっても電話線に乗って世界に送り出されるのは明日以降なのだけど。


2001年1月21日(日)

ヤッホーということで、仙台にやってきました。
東京駅から1時間40分、オースターの言葉と居眠りのうちに仙台。
そのあと家の鍵もらって、昨日送った荷物を受け取って整理して、今は風呂上りにビールなんか飲んでる。
新しいおうちの周りは札幌の学生時代の後半を思い出すような感じのところ。
表通りは夜になると車がビュンビュンとばすような道路、札幌時代の大学前の通りと似た趣。
その通りからちょっとひっこんだところにある。目の前に東北大の農学部があるんだけれど、明るいキャンパスというよりもちょっと暗めの老朽化した実験棟の趣。表の門のところに農学研究科入学試験会場とかなんとか書いてあったから、やっぱり大学院関係の建物群なんだろうと思う。羊博士とかがどこかにいるかもしれない。こういうところで研究する人はノルウェイの森なんか読んだりして胸を傷めたりするんだろう、きっと(笑)
さっき買ってきた情報誌によると徒歩圏に「Party7」やってるようなミニシアターもあるみたいでちょっと嬉し。なんだか札幌に帰ってきたみたいだな。多分この街気に入ると思うと確信できる。
部屋は白壁、川崎の部屋より綺麗でキッチンと玄関が広い。ただ部屋のど真ん中にベットがどかんと存在を示しているのと、電話線の口がキッチンにあるのと、窓からの景色が極めて殺風景なのが難。まぁ2日前に決めたところにしては上出来だし、不満はないのだけどね。あんまりIFの仮定文重ねたら欲の皮が厚くなるからやめとこ。
なんかこうやって生活感の種を植え付けたばかりの部屋でキーボード叩いていると、なぜかこれはどこかで経験したことあるぞって記憶中枢が訴えてくるのだけど、それがいつのことかどこのことか全く思い起こせない。デジャビュー。実体験の記憶じゃなくて、もしかしたら映画か本の記憶なんだろうか。それとも「世界の終り〜」みたいに脳の裏側で見た記憶だったりして…。

新しい物語の予感って素敵だと思う。
もしかしたら導かれてこの街に来たのかもしれない。
ほらこの本のページをめくってごらん。樅の木の下から毛糸の帽子をかぶったウサギがぼくのそばに走り寄ってきて、「物語がはじまるよっ」ってそう言うんだ。


2001年1月19日(金)

ようやく住む家を決めた。ネットで探し回ったから、わりと条件のいいものが選べたと思う。
今日決まって、あさってから住むというのはなんだかすごいことのような気もするが。

家というのは精神的な支柱になるような場所だから、決まっただけでちょっと足元が固まったような気がして、どんとこいという気分にもなってきた。
最初、支社のほうで探してもらったときには、お薦めリストの中の物件が、バスで地下鉄駅まで20分とか隣の市だったりとか、あまりに不便なもの多くて、暗澹たる気分になったけれど、やっぱり自分で探せば、条件のいいものは見つかるものだ。
そういうきっかけって大事だ。何だか重くのしかかりだしてた仙台行きも楽しみになってくるというものさ。向こうにいったら、早速地図でも買って、週末あたり、せっせと歩き回ろうかな。

 

さて今日をもって一時期更新が途絶える可能性あります。
明朝このPCも仙台に送っちゃうわけです。
電話回線も引けることになったので、早ければ日曜には新しい仙台の生活を綴ることができそう。


2001年1月18日(木)

いったいどこへいくのだろう。

なぜだか言葉がでてこない。うまく心の中に手をつっこんで何かを引き出すことがうまくできないのだ。
負け犬でいいから無為にしか思えないこの果てしのないレースから脱落したい。

きっと配線が混濁しているんだ。つなぎかえるのにあせってるんだ。だから訳のわからないことしか言えないんだ。あせってやってるうちにショートさせて発火させたりしてね。
明日の朝には口聞かぬロボットが手足ちぎれて道端に捨てられているのかもしれない。
そしたら役立たずって思い切り蹴飛ばしてくれたらいいんだ。


2001年1月17日(水)

お昼によく通う魚料理屋へ。当分、来ることもないのかななんて思うとちょっと感慨深かったり。
食後に出てきた珈琲飲んで、「仙台だったらスキーにいけるね」なんて言われるけど、多分行かないだろうな。
まだ残務こなす日々。大波小波。波間の小舟には波がどれだけ続くかも海原の広さもわからないのだけど、波があれば越えていくしかないんだ。


2001年1月16日(火)

考えてもしょうがないのかもしれないけれど、やっぱり将来のこととか考えてしまって、小刻みに心揺れてる。なかなか水平につりあわない目盛りみたいに上に下に。
何の加護もないような道をひとりだけで踏み出すのが内心恐いんだよ。どこかに救いがないかな、逃げ道はないかなって。
強くなりたい。


2001年1月14日(日)

冷えに冷え切った一日。虚無に放り出された宇宙飛行士のように、マフラー、コート、手袋、タートルネックの完全装備で出るけれども、外気は否応なしに身体を冷やしていく。
友達の家のダルマストーブの前で手を擦りながら、一週間後は仙台なんだね、なんて。東北行ったときに駅で見つけた「仙台にいこう」だかのキャッチコピーのちらし見て、ヴァージンがここにあってスタバもあったりするんだなんてやっている。
*リンクに笠原メイさんの「une face」等を追加。


2001年1月13日(土)

自由が丘へ。平日明けはよく肉体と精神が分離したような感覚に陥り、相変わらず「何か疲れてるみたいだね」なんて言われてしまうけれども、お札を4枚も使う買い物すれば、なんだか濃霧抜けて、自分の手が自分の手として認識できるようになる。女の人みたいで笑っちゃう。
センスのいい雑貨屋ばかりのこの街。いろいろ見てまわるうちに、僕が家で使ってるウイスキー用のグラスとか名刺入れとか見つけてしまっては、自分はこの街の一部を生活に取り入れているわけだなと感慨耽る。
街の奥に潜む小さな神社で初詣。50円玉投げて、いつもの10倍くらいお祈りしてみた。神様も「ちょっと欲張りな子だね」なんて思ったかもしれない。まぁたまにはいいじゃない。


2001年1月12日(金)

シンプルに考えることにした。物事の良い面を見て、クールにやっていけばいいのさ。
ボールをすべてしっかりジャストミートさせて、ゴールの隅にただ綺麗にいれていくように。

課長もなんだか恐縮するくらい信頼と期待と愛情をもってくれているみたいだし、それをひねくりまわして考えないことにした。だからもう不平は金輪際言わない。マイナスをすべてプラスにするような変換装置を備えればいいのさ。


2001年1月11日(木)

今日は大ニュース。朝、課長が「ちょっと来て」って、ミーティング・ルームに連れて行かれて、言われたのは、「再来週くらいから3ヶ月くらい長期出張扱いで仙台に行って下さい」。言われた瞬間思ったのは、「今のコートじゃ寒いかな」なんてこと。当たり前のように「わかりました」なんて言ったから、課長もちょっと拍子抜けしたんじゃないかな。

でもよく考えたら再来週って再来週だよ。住む家に引越しに仕事の引継ぎに生活に関するあらゆること、どうしろっていうんだよなぁ、ほんとに。会社という組織から見たら僕ごときは単に機械回すねじか何かみたいなもので、物としか見られていないんだろうなぁ。使い捨ての物。使えるだけ使ってやればいいんだっていう考えしか、そこには見えない。
春先には辞表出すつもりだったわけだけど、何だか先手打たれて、ぐうのねもでない感じ。
…ということで慌しい日々になりそう。


2001年1月10日(水)

枕に嘔吐する夢みてベッドから身を起こす。ひどい目覚め方だ。

福島での作業は夕方には終わるはずだったのに、ネットワーク上でのファイルコピーに時間を思い切り食って、結局ぎりぎりに。最後は走りに走って(エスカレーターを一段抜かしするくらい)、どうにか最終の東京行きの新幹線に滑り込む。酸欠気味でくらくらになった脳ではもう駅弁の味もうまく感知できない。

帰り、再びオースターを手にとる。彼はものごとを前から後ろから透かすように仔細に眺めて文章を書く。そしてそこから物の真理を読み取る。
ギルモアの「心臓を貫かれて」ほどではないけれど、彼の体内を流れる血の系譜に話がゆく。
僕ははたと本を閉じ、自分の血というものについても思い巡らさざるえないのだった。


2001年1月9日(火)

夕刻までは早めに終りそうだなんて思ってた。昨日、親が送ってくれた荷物に入っていた賞味期限の迫った数の子を食べなきゃなんて、既に夕食のことで頭いっぱい。
なぜかそこで急旋回、尾翼がきゅるきゅる鳴って、明日は福島にいってねとのこと。
送致書の出力部分のマクロつくり始めればうまい具合に終電前にはできあがる。小さくやったねなんて小人がガッツポーズ。休み明けだからまだ身体は大丈夫。一緒に帰った一年目の子は最近出ずっぱりでひどく消耗しきっていて、痛々しかったけれど。
家つけば、友達がボディーショップの新製品なるブルーのバストニックをプレゼントとしてテーブルの上に置いてくれていた。ブルーのバスつかり、キース聴けば、ぼくはこよなく世界を愛することができるのだ。


2001年1月8日(月)

やけに冷える夜だ。空腹感まで宙に浮いた月のように浮かび上がりそうだ。
今夜はエビと挽肉とコリアンダーのスープでもつくろうかな。
ビールにもあいそうだし…。

渋谷出て、コートにシャツを買ったり、お茶したり、CD見てまわったりの一日。
非常に東京的な一日。
休日はやりたいことが多くて

、それが僕の前をスゥーっと流れるように飛んでいく。
ぼくは手を伸ばしてそんなものたちをずっと追いつづけている。

おととい見た「死刑台のエレベータ」。
ルイ・マルというフランス人監督の作品だったわけです。
実は僕が映画というものになんともしれない魅力を感じるようになったのはこのルイ・マルからなのかもしれない。
ルイ・マル特集というのが大学4年のときだったかな(?)近くの映画館でやっていて、いくつか立て続けに見たわけなんだけど、そのなかで「好奇心」というフィルムが心に残ってね。母親との近親相姦というのもテーマに含んでいるにも関わらず、重くない内容だった。映画の内容はほとんど覚えていないのだけど、最後のシーンで朝帰りの主人公の男の子を朝食中の家族が見つけて、和やかに笑ってエンドなわけだったけれどそのシーンがとっても良くってね。解き明かせないものが世の中に満ちていて迷路のように感じてても、ある時点で何かわかりあえるような気がするんだよね。
まぁそういう思い出あるのだけれども、実は「死刑台〜」がルイ・マルが25才のときに撮った作品であることが判明。25才にしてこのクールな映画つくり。参ったね、参った。今、自分の感覚器埋めてしまってはいけない、ルイ・マルにはなれなくとも、自分の感覚で物事を形作れるはず。

今日、読み始めたポール・オースターの「孤独の発明」の冒頭にこんな文がある。

〜「習慣は何よりも感覚を鈍らせる」とベケットの作中人物のひとりは言う。そして、物理的現象に反応できないのなら、感情的な現象に直面したとき、精神はいったいどうするのだろう。〜
案外、深いよななんて思ってしまった次第。
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夜、部屋の灯り消してレオス・カラックスの「ボーイ・ミーツ・ガール」観る。
意味を具有させた画像のつなぎ合わせ。ストーリー性よりもむしろイメージの想起を促すようなフィルムだ。
最初何の気なしにみてたのだけど、終盤なぜか自分の中のイメージのようなものに点火し、井戸からあふれでてきそうなイメージの渦に驚いた。そして、こんな映画が面白いと思う自分に驚いた。


2001年1月7日(日)

徹夜やると脳の奥でミミズが這いずり回ってる感覚。どうも苦手だ。実は人生の中でも夜を徹したのって両手で数えるくらいしかないのだから。

昼にはベッドに潜り夕に目覚めれば、東京にも初雪。
世界の汚れが全て清められたような神聖な気分になれる。


2001年1月6日(土)

「死刑台のエレベータ」観た。モノクロ画面にジャズ音、なかなかクラシックでよろし。
でもどうして殺人したあとにフィルムの現像なんかしてしまうのか謎。
ストーリー的にそこに無理があり穴があるような気もしたが。

これから夜勤(21:00〜9:00)ということで出掛けてきます。


2001年1月5日(金)

新幹線に乗ってほどなく眠りの中に落ちる。
「トンネルを抜けると…」ではないけれど、深い眠りから覚めるとそこは雪国だった。
雪道を歩くのは久しぶりだ、足指に神経を集中させる歩き方がなんだか懐かしい。
クリスマスにもらった青ナイルのような水色マフラーをくるくる首にまきつけゆく。
福島の街はこじんまりとしていていい感じだ。
東京のような人いきればかりの街より、一面に落ちゆく雪の花びらが沁みていくようなこんな街のほうがいい。


2001年1月4日(木)

カミュの「幸福な死」読了。カミュという人は自分の哲学観にのっとって文章を書く。
そしてその文章ひとつひとつが感性を搾り取ったように詩的だ。
そして驚くべきことにぼくらは、その文章が労して紡ぎだされたものではなくて、それが彼の中で普通に出てくるものだということを知る。
春樹氏は文章を書くことによって自らを模索する。一方、カミュは自分の哲学観を文章に書く。
春樹氏は文章のテンポと流れをよくするために言葉をひねり、カミュはひねられた言葉自体が既に何のろ過装置も必要としない自分の言葉なのだ。
しかしカミュの哲学観は一度読んだだけではすべてを理解しきるのは無理というものだ。彼がその哲学観を持つに至った過程をそこに書き綴っているからだ。だから春樹氏を現在進行形、カミュを過去進行形というふうに言い換えることもできるかもしれない。
そしてもうひとつ気付いた点。それは自然というものがカミュにとって、自分の血や肉のように身近な存在であることだ。太陽や土、風そんなものは当たり前のように彼を焼き、刺し、穿ちつづけているのだ。彼は確かに生きるということをよく理解していた人だったのだろう。僕にもいつか彼のような自然ときっちり対峙して表現できるような哲学観と言葉が宿ってくれたら嬉しい。

12時間、本社で電話対応。お昼は隣にあるベーグル屋でランチプレートなんか頬張ってる。
なぜか正月らしいことは何一つしていないのに、正月ぼけのようにぼぉっとしてる。まだ慌しくなければそれはそれで一日は過ぎる。
明日は福島へ。なんと警察のメインサーバで作業することになりそうだ。
壊さないように気をつけなきゃ。


2001年1月3日(水)

お休みなのに、家からほとんど出ずじまい。
まぁ自宅待機だから、中流家庭の玄関横の犬みたいにどこもいくことはできないのだけど。
こういう生活すると、都会のワンルームも一人きりのロケットも大差ないのかもしれないね。


 

2001年1月2日(火)

今日は本社出勤。一日中、管理人と僕のたった二人だけのビル暮らし。
システム問い合わせの電話対応だったのだけど、全くかかってもこない。
しょうがないからひねもすネットサーフィン。こんなんで給料もらってよいのかしら。
デザインに優れたページをいろいろ見てまわった。
さすがにイラストレーター名乗る人たちはデザインも秀逸。
僕くらいの歳で自分の表現力だけで突き進む人たちを羨ましくも思った。
アイコンやら壁紙なんかも入れ替えてるうちに、NTがMACのようになっちゃった。
これで仕事も楽しめるかな。


 

2001年1月1日(月)21世紀!

世紀はじめに椎名林檎もどうかと思って、「天使たちのシーン」を聴きつつ、朝の用意。暗闇を溶かして真新しい朝の光が静かにやってくる。
流石に電車もがらがら。朝の太陽が満ちてくれば、車両の中も笑顔で満ちてくる。そんな中で恋人たちが手をふりあって、またね、なんてしているのもよい。
多摩川の向こうに白くたおやかな富士が見える。穏やかそうではあるが、実際には突風が雪稜を駆け抜け、登頂を許すこともないのだろう。それでも果敢な登山者は21世紀の始まりの太陽を見ることができただろうか。

本日は海浜幕張で電話対応。実際には電話の99%が本部のほうにいって、暇暇なわけだった。途中から一緒にいた課長も本部行ってしまって、こっそりネットサーフィンしてた。
21時になればもう帰ってもよいということで帰ろうと思えど、よく考えればこのハイテク・ビルには管理人と僕しかいないわけだ。出口探して地下を右往左往。「黒い家」の大竹しのぶがボーリング球投げてやってきたらどうしようなんて、ちょっとわなないてみたり。

帰りの電車でカミュの「幸福な死」紐解く。かなり面白くて、完全にのめりこんでた。
高校時代に読んだときも随分と引き込まれたけれど、今はリアルな形で進行しているから本の中に釘付けにされてしまうのです。