2001年11月30日(金)

文章を書くほうに力点をおいた日。三島を読んだあとで自分の文読み直すと貧弱極まりなく思えてくる。これじゃ栄養の行き届いていない薄っぺらい胸骨露わなガキでしかない。
ただコンビニのように消費されるものならば書く価値はないとも思っているのだけど、結局それを問うて世の中に認められる過程というのが既に消費社会の中の一環なわけで、認められようと考えること自体が既に矛盾なのかもしれない。平野啓一郎のように文学を芸術として捉えることのできる人、そしてそういう方向性を確固として打ち出すことのできる人は素晴らしいと思う。
消費文学でもなんでも兎に角認められなければ話にもならない。まぁそういうふうに思って卑小な自分を慰めたり励ましたりするわけです。

漱石の本など読んでいると盛んに草木の名前が出てくるのだけど、あまり具体的なイメージも湧かないから今更だけど樹木図鑑を買ってみた。しかしその本がビギナー用で野山の樹木を対象にしているせいか、庭木が紹介されていない。でも家の長い石段の脇で咲いている白い花が椿ではなくて、山茶花(さざんか)だということを始めて知った。これで造園専攻でしたなどとは言ったが最後切腹物なのかもしれないなぁ。
― 石段に山茶花ひらく日和かな(お粗末) ―
― 山茶花とともに落ちゆく命かな ―


2001年11月29日(木)

最近の日記は読書ノート化しだしている。漱石の硝子戸の中くらいに単純な(シンプルなといったほうがかっこいいか)生活なのだ。そんなこと言ったら熱烈な漱石ファンに怒られそうだが。が仕方ないのである。一日中、読むか書くかしかしていないのだから。今のところ、「読む」ほうが「書く」よりも、6:4くらいで好きかな。ということで4分の力で6分の力のことを記す次第。

十年振りくらいで三島由紀夫の「金閣寺」読んだ。この人の文章は、まわりの描写についても事細かに心理描写を重ねる。それが全く僕には思いつかないレベルの心理を創出させるのだからたまらない。凄いなと思う一方で、人の迷惑を顧みずに親切心を押し付けようとしてくる人のように多少うざったくなってしまう。もう少し、僕の方で考えさせる余地を残しておいてよ、君が凄いのはわかったからさ、と馬鹿者はこう思ったわけである。

「(前略)この世界を変貌させるのは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。(後略)」
意味の深い文だと思う。ちょっと考えさせられた。


2001年11月28日(水)

どうも3ヶ月半の日本での空白が自分の中の季節感を狂わせている。僕には何故かこれから春が到来するような気がしてならないのだ。先の土曜日に鍋会をしたときにも何気なく桜餅を買ってしまったのもそんな理由があるのかもしれない。冬を迎えるにあたって桜餅の香を楽しむとは季節に対する冒瀆なのかもしれない。
そういう理由もあって日の入りが早まっていることが不思議でならない。昼の間、本に没頭していようものならば、太陽は注視されていないことを幸いにして南中からの落下速度を早めて西の空の際にたどり着いている。
西の空を赤く染めて沈む太陽を見ていると、動物的本能が寂しさを喚起させる。動物たちの多くは太陽に従って、その行動をやめて姿を闇の中に消すしかないのだ。だから、どんなに高度な文明を築きあげたとしても、僕らは太陽の支配から逃れることはできないのだろう。


2001年11月27日(火)

彼女がKさんとともに出張に行ってしまったために今夜は一人だ。この部屋の中に、この頭蓋骨の中に脳が1つだけあって、それが他の有機物に影響されず、思考している。

封筒の中にずっと入れ忘れていた地方税の請求票の期限をみれば、今日の日付がついている。期限を越えるだけで千円くらいかかってしまうから、図書館行くついでに出掛ける。税務課に仕事以外で行くのは始めてだ。無所得の男は鞄から6桁分もの紙幣を差し出した。日本国民のアイデンティティを保つのは金のかかることなのだ。

戦後から現代の文学史をテーマごとに解説した「戦後文学を読む」(岩波新書)を読む。時代背景と作家の仕事、動機を解説してあるのだけど、読んでいて、僕が年齢的にかなり遅くまで理知的ではなく感覚的な読書習慣をもっていたことを改めて自覚した。どうも文章を読んでも、そこを掘ってみてそれが一体何を意味しているのかと考える力が極度に不足し続けていたように思える。シャベルだか熊手を持つようになったのもつい最近の話である。
この本で興味を持てた箇所は、やはり村上春樹や吉本ばなな、島田雅彦を解説している章。彼らの文章にはアメリカを意識している部分があるというのだけど、それは海の向こうから拾ってくるのではなくて、既に現代日本に深く根付いているというところ。”ここがアメリカだ、ここで跳べ”なんていう巧い表現を使っていた。
ただ最終的に現在の文学の行き着いている先が、「夢」であり「架空の世界」であるそうなのだが、それが何を意味しているのかがよくわからなかった。


2001年11月26日(月)

久しぶりに日記を書くのに一晩越えてしまった。というのも、彼女がイラスト関係の仕事でPCの前で夜を徹して追い込みにかかっていたので、到底ダイアリなんて言葉は口にも出せない状況だったからだ。逆に彼女が夜、他のバイトに行ってる間にスキャナーで絵を取り込むのを手伝ったくらい。一応、体裁はどうにか整えて朝出掛けていったのだけど、しばらくして電話がかかってきて「新幹線乗り間違えた。」なんていう心細そうな声。なんだか心配だな。

えっと昨日は何してたんだっけ。そうそう相変わらず読書人間してたんだ。藤村の「破戒」と鴎外の「ヰタ・セクスアリス」を読んだ。藤村の文章は高校時代に好んで読んでいたのだけど、久しぶりに読んで多少落胆もした。長野の風景描写が胸に迫ってこない。10年前はもっともっと感じ取る力が強かったのかな。内容は部落民問題扱っているわけだけど、現代では違う世界の話かと思うほどに実感が湧いてこない。一つには新しい街、札幌で育ったということもあるのかもしれない。最後に丑松のとったへりくだった行動には疑問残るけれど、自分がエタであることを告白するシーンは力強い。
「ヰタ・セクスアリス」は当時発表後発禁処分にされたといういわく付きの本なわけだけど、センセーションを巻き起こすほどの代物ではない。これは性欲の一代記というよりは、彼の生き方の一代記にすぎないものだから。内容はさして面白いとも思わないけれど、文体から多少インスピレーション受けた。


2001年11月25日(日)

渋谷のシネマライズで岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」観てきた。映像的効果、音楽的効果に非常に優れた作品だった。そしてこの映画の主題とも言うべき、中学生のイジメの提起から発展までの流れも悪くなかった。被害者がいつでも加害者になり代わる可能性がある点、そこに家庭の問題が根底にあること、教師は全く理解者とはなりえていないこと、ネットや音楽メディアの関わり方(癒しという言葉以上のものがあると言いながら癒し程度でしかないこと、お互いの痛みをネットの中ではわかりながらもリアルワールドまで発展しえないこと)、そうしたものがきちんと描かれていた。SWITCH11月号の岩井監督のインタビュー記事を読んでも、彼はその部分を過去の事件を調べていくことでリアリティをもたせたとしているが、それは成功している。
しかしながら、この映画の問題は、イジメという問題を掲げておきながら解決点をそこに見出せていないことである。岩井監督のインタビューを読んでみてもわかったけれども、彼はイジメという問題が起きる過程、中学生の置かれている立場を理解しようとはしていても、それをどのように解決していけばいいのかということを考える部分が欠落しているように思える。結局、問題を提起しておきながらその行き着く先は非常に安易である。彼は、解決策を人の死に求めている、もしくは死で全てを終わらせている。
死ではなく生という解決策を見いだせないのだから、この映画はよく出来た映像映画、月9のドラマ、もしくはミュージッククリップでしかない。青山真治の「ユリイカ」のように問題点をどんなに遅くてもいいから解決させようという力がこの映画に欲しかった。
僕がこう厳しく言ってしまうのも、この監督に多少期待している部分があるからに違いない。SWITCHで頁を割いてまで、あなたは自分の映画論を述べているくらいなのだから、もっとあなたは死というものを掘り下げてみるべきだと思う。あなたなりの解決点をきちんと示すべきだと思う。死は決してカッコいい美しい解決策ではないのだから。


2001年11月24日(土)

KさんとS君が我が家に遊びに来た。二人とも半分は例の小冊子の仕事がらみだ。
S君が先日新宿で撮ったという彼女とKさんの写真は、随分沢山あって、ゴダールの映画の一シーンを彷彿とさせるようなカッコいいものもあって感心した。僕も先週の写真を貰ってしまった。
まだ明るいうちから念願の鍋をして、それからKさんにお茶をたててもらった。流れるような手の動きに思わず見とれてしまった。日本の美というものも捨てたものじゃない。
そんなこんなで夜。楽しき一日は終わった。


2001年11月23日(金)

龍之介の「蜘蛛の糸・杜子春」読んだ。結構他愛のない話も多いなと思ったらどうやら児童文学向けに書いてる作品ばかりだったようだ。昔話からもってきた教訓話は苦手。むしろこの短編集で最も地味な部類に入る、横須賀からの電車での素朴な体験を綴った「蜜柑」のような短編のほうが好き。「続・檸檬」は書けないにしても「続・蜜柑」くらいだったら…。(だったら書けだよな、ほんとに)


2001年11月22日(木)

漱石の「行人」読了。本を途中から離すことが出来なくなる位面白かった。面白く思う自分を嬉しいとも思うけれど、反面自分がその世界にどんどん足を踏み入れることについて変な恐さと緊張感みたいなものがある。
小説を壊すことなく、漱石が自己の理知的探求の意味を追究していくところが凄い。主人公を自己の分身たる長男ではなくて、誰からも愛されるような性格をもつ次男に受け持たせたところが巧いし、それによって自己の苦悩を客観的に捉えることに成功している。
小説の最後で過度の理知的探求の余り周囲の人に受け容れてもらえなくなった、主人公の兄について、その友人が主人公にこう手紙で宛てる。
  ― 雲で包まれている太陽に、何故暖かい光を与えないかと逼るのは、逼る方が無理でしょう。(中略)貴方方も兄さんから暖かな光を望む前に、まず兄さんの頭を取り巻いている雲を散らして上げたら可いでしょう。 ―


2001年11月21日(水)

渋谷でコーエン兄弟の「オー・ブラザー」観てきた。脱獄囚3人組の珍道中を追った他愛もないストーリー。弥次喜多の膝栗毛みたいな面白さもあるのだが、むしろここに出てくる一風変わった癖のある人間たちのおかしみと哀しさを傍観しているところにこの映画の面白みがある。ほら、人間ってこんなに変わっている動物なんだよ、って彼らは何気に伝えたいわけである。

日本では個性のようなものを押し込めてかまぼこみたいに画一化する教育を得意としているから、このアメリカ映画ほどにはならないのだけどね。生きるということは個性というものを大切にすることこそ大事なんだと思うけれど、そんな教育施したら日本が立ち行かなくなっちゃうと文部省は危惧するわけなんだろう。
そんなこと考えたけれど、コーエン兄弟の作品としては、「ブラッドシンプル/ザ・スリラー」とか「ファーゴ」みたいなスリラーもののほうが好きかな。画面に緊張感があるから。

映画観たあと、いつものようにBookファーストに立ち寄った。平野啓一郎がNHKのトップランナーに登場したときの会話などをまとめた本があったので、棚にかじりついてずっと立ち読みしていた。彼は、「巷に出回っている書籍に毒にも薬にもならないものが多すぎる。読書体験というものは読者の何かを変えるようなものでなければ意味がない。」などと苦言呈しているのだけど、この辺のことはこの前の日曜日にS君が言ってたことでもあって改めてちょっと考えてしまった。
それから当時の司会者の大江千里氏が、「あなたの作品は難解で普通の人にとって取っ付き難いという面があるのでは?」というような問いかけを発していたのだけど、平野氏は「読書というのは多少困難を伴うものであったほうがいい。世界の名作と言われるものには必ず退屈な場面があるけれど、読後にはそれが意味をもってくるものだ。」などと発言していて、これも考えさせられた。家帰って、やや疲れた顔してイラスト描いてる彼女にそれを話したら、それを喩えて「登山のようなものだね。」と返って来て、いや違うだろうと言わんとしたけれど、そういうことなのかと逆に自問することになった。

本屋立ち寄った後、店で珈琲頼んで、映画の感想でもまとめてみようかと思ったら、ノートはあるけどペンがない。心の中で苦笑いして映画の音楽のこと考えてたら、先に邪魔するように出てきたのは、「タッタッタ、タッタッタタ、タッタッタ、タッタッタタ♪」のテンポのいいギター音。予告で流れていた、5年前位に撮ってようやく上映に辿り着いたというディカプリオ出演のモノクロ映画「あのころ僕らは」。この音楽、何故か脳裏に焼きついてしまって離れない。その後、しばし渋谷の人ごみ歩くも僕の頭の中はこの関係のないギター音に支配されていた。音楽もいいのだろうけど、予告編のつくり方も巧いということなのだろうな。

「タッタッタ、タッタッタタ、タッタッタ、タッタッタタ♪」どうする観に行く?


2001年11月20日(火)

安穏のうちに過ぎた一日。家の中に篭っていると、世界の出来事が全て遠く感じられてしまう。
それでいて小説読んでたりすると、むしろこの昔のフィクションのほうが命題になってしまうから不思議。


2001年11月19日(月)

東の空の雲間をよぎるように流星が1つ2つ流れていった。星の死する瞬間の光芒が僕の目を覚まさせ、僕の感覚器を震わせた。

お陰で思い切り朝寝坊。気が付くと部屋に一人きりで布団にくるまっていた。
懸案になってる旅行記のほうを打ち始める。旅は終わったが、旅行記はまだ出港したばかり。
現像された旅の写真を引き取ってくる。結構いい金額になってちょっと冷や汗。カラーで撮ったのより白黒のほうが情報量が少ない分、僕が感じたイメージをそこに上塗りしたりすることができる分いいような気もする。
現地でそれほど感銘を受けなかった建築物もラインのはっきりしているものは写真の緊張度を上げるみたいで、なかなかいい感じだ。逆に自分が感銘を受けた風景でも茫漠としたものは、写真としては緊張感に欠けて面白みがないようだ。写真の出来がそれをとっていた僕の感銘の度合いとは全く関係なくなることに不思議を覚える。結局、写真で伝えたかったことは撮った本人にしかわからないということなのか。

今年度の芥川賞受賞作、堀江敏幸氏の「熊の敷石」を読む。題名が最後まで話のキーワードとなる話口、話の展開、主題への到達の仕方などに巧さを感じる。なかなかやるなぁーと思わず唸ってしまったり。


2001年11月18日(日)

獅子座流星群というものが今夜見れるのだそうだ。ロマンチストでなくても「あ〜見てみたいな。お願いいっぱいして。」なんて思うのだろうが、流星を一番観測できるのが午前2時から午前4時という草木も眠っている時間に当るらしい。僕はそこまでロマンチストじゃないから遠慮して布団潜ろうと思うも、結局付き合わされる破目になるのだろうか。

隣で彼女がGIFアニメ作って一人悦に入って笑っている横で、森鴎外読んでる。「阿部一族」などに盛んに殉死としての切腹などが出てくるのだけど、読み応えある。この時代の人たちの価値観や美しい生き方というのは一様に決まっていて、そうしたものが複雑に煩雑になってしまった現代からすると案外幸せなことなのかもしれないと思った次第。


2001年11月17日(土)

Sくんと渋谷で落ち合って、秋空の下、青山墓地から麻布にかけて散歩した。雲は空高く群なして飛び、寒くもなく暑くもなく、歩くのが非常に心地よく思えた。映画の話やら本の話やら思い出したように訥々と話しつづけた。自分にそうした当たり前の日常のことを話し合うことのできる友達ができたことがなんだか照れくさく、嬉しかった。
彼はとても素直な人だと思う。持ち球をストレートに投げてくれるから、僕は言葉の裏を考える必要もない。そしたら僕も丁寧に球を投げ返そうと思うもの。
このダイアリについては4月くらいの以前のもののほうが面白いと彼は言った。
それはわかると僕は答えた。
感性のガラスを叩くものを言葉にすればそれは相手の心にも何らかの形で届くのだろう。でも頭の中で理性とか知性というようなものを介して練り上げた文章が届けられる場所は心ではないのだから。
……(考え中)。
考え込むな、まずは感じ取れということなのかな。

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中学生の頃、ある日、蝶の標本を作ってみようと思い立った。
美しいものを並べてみたいという欲望よりはむしろ生物地理学的に僕が住んでいた簾舞という土地にどのような蝶がいるのかを形として捉えたかったのだ。
ある早春の休日、ダム湖の北側にある山を、そこを源とする沢の林道伝いに登ってみた。捕虫網と虫を刺すピン、それに毒性の液体と注射針を携えた。あまり日の差し込まない斜面や林道の片隅には春になったことを忘れているかのように残雪があった。ところどころからフキノトウやフクジュソウという春を伝える草花が柔かな土の上に顔を出していたものの、まだ昆虫たちが生きていることを示す兆候はなかった。
幾分高みに登ったところに南向きの斜面があり、その周囲だけ春の進行が少し早いようだった。果たしてそこに僕の求める蝶が光に羽を差し出すかのようにして飛び回っていた。
シジミチョウの類だとカラー写真の入った図鑑の知識から見当をつけた。この周辺にはジョウザンシジミといこの地域にしかいない珍しい蝶がいた。その羽をピンに刺して、図鑑と見合わせたならそんなことも簡単にわかるだろうと僕は思った。
無我夢中で捕虫網を振り回し、ひらひらと逃げ回る蝶をその中に収めた。
網の中の蝶の身体を指で押さえ込み、僕は注射針をその身体に押し込めようとした。細かな鱗粉が押さえつけた羽から辺りに散った。まさにこの蝶の命を奪おうとしたとき、僕の指先は蝶の細かな胸毛の下にある心臓の鼓動を感じとった。小さな鼓動ではあったけれど、それはまさしく生きている証だった。僕の心臓が脈打つように、蝶の心臓は脈打っていたのだ。
そのとき、その小さな虫の命を奪うという行為がまるで人の首締めて殺めるのと同じくらいの意味をもって、僕に迫ってきた。
脈打つ鼓動が蝶のものなのか自分のものなのかわからなくなりそうだった。

僕はそうして蝶の標本つくりをあきらめた。
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感じ取るということを考えていたらそんなことを思い出した。


2001年11月16日(金)

光が部屋中に溢れているような素晴らしい朝だった。
高揚した気分のままに、電車で渋谷まで出掛けた。シネマライズで今日までの上映となっていたジュリアン・シュナーベル監督の「夜になる前に」を見ようと思ったからだ。映画館勤めにして映画好きのルルさんが一押ししてくれたのだ。キューバ出身でアメリカに亡命した作家のレイナルド・アレナスの原作をもとにして彼の波乱とも言える生涯を映画化したものだ。作家としての生き方に興味が持てたし、前半に流れていたキューバ音楽も温かく、なかなか良い小品だった。ただゲイの生き方というものに引いてしまうのも事実。どうも身近にないものにはどうしても深く理解しようとすることが難しく思われる。

森鴎外の「舞姫・うたかたの記」なぞ読んだ。半分古文調なので読み砕くのに結構苦労する。声に出してみると文章が非常に美しいことがよくわかる。そしてそれくらいのスピードで読んでいけば、どうにか読める文章なわけだ。双方の話とも哀しい結末が待っている。舞姫のほうは鴎外と思しき主人公が在独中の恋人を帰国時に捨てるという結構身勝手な話だったりする。結局彼はこうして小説としてその問題を顧みるしかなかったわけだ。


2001年11月15日(木)

普通に生きていたら行かないはずの場所に行った。
そこに行くにはまず武蔵新城という名のJR沿線駅の南口を出る。バス停の前でたむろっている高校生をよけて、銀行のある角を曲がって、小さな商店街をずんずん進んでいこう。古本屋とかコンビニ寄りたくなっても我慢してね。商店街が終わって住宅街に変わってもしばらくはそのまま歩くんだよ。なんなら小声で歌でも口ずさむといい。少し上空が開けてきて灰色の雲が見え出したらそろそろだ。ほら右側で暇を持て余したような男たちが行ったり来たりしているところがあるだろう。あっ、そこはよける必要はないんだよ。そうそう、そこの建物なんだ。
「初めてなんですがぁ…」っていう歯切れ悪い小さな声を出してしまうのは君だけじゃないから安心して。2つの紙切れに漏れなく記入して、それを紙箱に入れて名前が呼ばれるのを長椅子に座って待ってればいいんだよ。
まわりにいる人の多さに驚いちゃいけない。
当たり前だけど「みんな失業者なんだぁっ」って間違えても声に出しちゃいけないよ。

そう、ここはハローワーク、つまりは職業安定所ってわけだ。
ぴんと背筋張った高校生をやっていたときは学校のそばで見た「職安」の看板を全く自分の人生に関係ないものだと思い込んでいたのにね。
ここには鬱屈した空気が溜まっている。前の身体のか細いおばさんが係員に「ずっと身体が悪くて、ちょっと鬱病気味でぇ…」などと背骨曲げて話している。目の前を背中にキャラクターグッズをぶらぶらつけた子供顔の大人がずかずか歩いていく。
係員はその日何度も言ったであろう、いや毎日言いつづけているであろう決まったセリフを21世紀のロボットごとく棒読みで僕に話している。なんといってもこのロボットは口と手が同時に動きつづけている点がスバラシイ。「スベテモンダイアリマセン。キョウカライッシュウカンハ・・・・」
ため息色の建物出て、マフラー首にぐるぐるぐるぐる巻いて駅への道を戻ったよ。周りの風景は相変わらず地味で、そして自分を顧みたら、僕から地味の色がにじみでていて驚いたよ。誰かが絵を描いていたら僕のところを中心に地味色のチューブを使わなきゃならないだろうな。

帰り彼女と落ち合って小さな居酒屋で飲んでたよ。そうそうこの前ここに来たときは表が雪だらけだったんだよなぁ。君ったら僕に本気で雪ダマぶつけなかったけ。
僕らコロッケだの食べながら未来のこと話してる。そう未来の色はいつだって素敵な色なんだよ。パステルカラーの絵の具をもっと補充しておかなっきゃね。そうそうまっさらな画用紙もたくさんいるね。

自転車乗ってく彼女と一時的に別れて、一人電車乗り込んだ。折りしもスーツ姿の会社員たちがわんさか帰ってくる時間。
あ〜、君たちカッコいいよ。
あんまり無理するなよ。
身体大事にしろよ。
……
君たちカセグ。僕モラウ。
「スベテモンダイアリマセン」


2001年11月14日(水)

日がな一日、読書に高じていた。
「一月物語」の面白さに作家平野氏に興味が出てきて、HPだの見てまわり、彼のインタビュー記事が当たり前だけどダ・ヴィンチで過去掲載されていたのをつきとめ、暇に任せて夕闇が町を覆う時間に図書館まで行った。しかし、この小さな図書館には何故かダ・ヴィンチが置いていないようで(それとも決定的な見落としをしていたのか)、結局文芸誌をさらさら読んでいた。文芸誌などをまじめに広げてみるのは初めてだったけれど、固い文章がずらずら無味乾燥に並んでいるという先行イメージとは裏腹に割合楽しめるものだった。何でもその文芸誌で募集している新人賞の発表と表紙には太文字で書かれているのだけど、実際中を見てみれば、賞の最高位に当るらしい優秀賞が「該当作品なし」、佳作が一つというお寂しい結果になっていた。選考委員の評を読むと、どの応募作品もレベルが低いとばっさり切り捨ててあって、島田雅彦氏は「牛丼小説」などと下手をすると吉野家から苦情のくるような表現を使って、応募作品の凡庸さを嘆いていた。山田詠美氏も相変わらずクールな言葉で「コドモのくるところではない」、「10年早いざます」などと揶揄、こき下ろしていた。それで佳作なる作品の出だしを読んで見たのだが、確かにそこに読者を圧倒的に引き込むような言葉の力を感じない。(こんな偉そうなこと書いていいのかな。実際には全て読み通したわけでもないから分からないけれど。)島田氏や山田氏の評のほうがよっぽど面白いやなどと思ってしまったのでした。若手のための賞というのは、道場主に向かって「ややぁぁ!」などと声だけは威勢良く向かっていって、一太刀目であっ気なく討たれる若獅子のために用意された場所ということなんだろうなぁ。…ということでもう少し剣の道、追究せねば。

帰宅して相変わらずストーブのそばで、タブツキの「さかさまゲーム」なぞめくっている。いくつかの短編からなっていて、その全てに思いがけないエンディング(つまり、想像されるのとさかさまの結果が導き出される話)が用意されているのだけど、文章が回りくどくて読みずらい上に、オチのわからない話まであってちょっと参った。そこでタブツキが好きだという独白を一旦消してみることにした。


2001年11月13日(火)

夕の散歩時に酒屋で胚芽精米を買ったのに乗じて、Four Rosesを買った。その銘柄を選んだのは一番安価という簡単な理由からだ。ほとんどの場合において安価という理由が第一位にくるために、ウィスキー好きを自認しながらも本当の味を知らないとも言える。
ウィスキ-好きはダルマストーブにあたりながら小説の頁をめくりながら、自由が丘で買ってきたお気に入りの歪な形のグラスに冷凍庫に眠っていた幼児の拳くらいの氷を入れて、買ってきたばかりの液体を注いだ。2、3度軽く揺らして氷の感触をそれがガラスに触れる音の具合から確かめた。悪くない。そして唇をグラスの縁にそっとあてて琥珀の液体を喉に通した。素晴らしく甘美な味だった。この数ヶ月で飲んだアルコールの中で間違いなく一番の舌触り口触りだった。旅先で味わったエールビールの清涼さやウォッカの力強さは軽く下位に落ちていった。液体が喉を熱く通り抜けていった瞬間に、僕はウィスキーが好きであると太字で書いていいくらい、実感できたのだ。

酔わせることのできるアルコールは官能的だとさえ言える。それは美しいうなじを触ったり、鎖骨の窪みを確かめる行為と似ているのかもしれない。それが官能的であればあるほど心地よい奈落の底に滑り落ちていく。この滑り台のなんと恍惚なことか。

高校以来で森鴎外の「山椒大夫・高瀬舟」を読んだ。鴎外の哲学的思想の反映された前半の小品ははっきりいって小難しい。ハルトマンやらショーペンハウエルなぞの哲学者を挙げられたところで、哲学的教養が皆無に近い僕には何のことだかアタリもつかない。しかし、高校の教科書に載っていた「高瀬舟」、それに「二人の友」といったような小品は良かった。高瀬舟の構想力に舌を巻いたが、よくよく読めば「翁草」に出ていたものを直したものに過ぎないと言うではないか。それで凡俗たる僕はちょっと安心したりしているのである。
その後、ウィスキーの進むに任せて、森鴎外を尊敬する齢25、26の芥川賞作家、平野啓一郎氏の「一月物語」読み進めている。白状すると彼の第一作「日蝕」を僕はその表現の難解さなどもあって読むのを途中で諦めている。そのためニーチェか何かの難解極まりなさそうな哲学書を読むのと同じような心持ちで読み出したのだけど、これが存外面白い。言葉はやはりやたらと難しいものを使うのだけど、言葉が厚ぼったく黴臭い漢語の辞書の裏に舞い込むのではなくて、むしろ表現に奔放な生命を与えているように感じられた。漢語表現を選んでいるからこそ、その言葉自体に感触が得られるのだと思わしめた。僕はこの同年齢の天才とも称されるような作家に対して嫉妬よりもむしろ賞賛の気持ちが起こった。


2001年11月12日(月)

僕は控えめに言っても、寒さに弱い人間だと思う。女性並みの末端神経冷え性なのだ。寒くなると、手が石像か何かのそれのように肉体の一部とは思えないくらいに冷たくなる。
こんな人間が冬山をやっていたとしたら、その大変さは想像に難くないだろう。凄まじい吹雪や朝の冷気の中で、何度手先や足先の感覚がなくなりかけたことか。時々、足や手が取れてしまうのではないかと疑いなくなるくらい、感覚が消え失せたこともあった。
なぜそういう話を冒頭に書くかといえば、ここが室内であるにも関わらず冷気に満たされているからだ。ここは6畳くらいの居間と6畳くらいのキッチンから構成され、部屋の間をガラス戸で区切っている。僕が持参したPCはキッチン部屋のちょうどは0.5m四方くらいの玄関と冷蔵庫に挟まれた2段の食器棚の上に置かれている。キーボードを強く叩くと、グラスや皿が揺れる効果音まで付いてくる。
この家で唯一の暖房器具は居間にある黒きダルマストーブだ。そんなわけで隣の居間から温かそうな色合いの暖色光が漏れている中、僕は半分震える手でキーボード打ってる。(勿論、効果音をたてないように気をつけながらだ。)

暖色の居間では彼女(以下混同を避けるためRとする)がK(メイ)さんと共同でやっているミノムシ布団の会社の小冊子つくりに熱中している。小冊子は眠りについてのエッセイ本とそれに関係するような絵本の2つから成るらしい。エッセイはKさんが十数人の友人に依頼して書いてもらったものだ。出版関係に勤めていたKさんがエッセイの編集を担当し、Rが絵本を担当しているというわけだ。Rはデザイン関係に興味をもっていて、将来的にそちらの仕事をしたいと考えているから、今回の仕事は小さくはあるのだろうけれど、ちょっとしたステップアップになるのに違いない。将来の希望と誰にでもそうである迷路のような現実で小さくため息ついていたRが、小さな跳躍点をもてたことを僕は素直に喜んでいる。物音立てずにガラス戸の上からそっと居間の覗きこむと、手前の机で一心不乱に可愛らしげなイラストを書いている。そんなRを見ていると本当に微笑ましい気分になってくる。僕はときどきRの彼であり父親の立場を半分請け負っているのではないかと思うくらいだ。

・・・僕は今後このダイアリをオブラートに包まずに書いていこうと思う。僕は僕自身の状態についてできるだけありのまま書ければと思う。このHPを主宰しているパキラ☆という存在が僕から離れないように、僕自身であるように。

まずこの家は僕の家ではなくRの家だ。まだ家賃を少しも払ってさえいない(今後半分は払うつもりだけれど)。
僕の家でないから僕の荷物はほとんどない。ここ数日僕はRの服を借りて、生きてたわけだ。
家を出たときが夏の盛りだったから、冬服は全て東京のはずれにある祖父の空家の一室に他の荷物と一緒にダンボールに詰めて保管してある。
そこで今日は冬服を取りにいくという一見不思議な目的をもっていたわけだ。
3時頃、雨上がりの冷ややかな道を駅まで歩き、電車を乗り換え、東京とは思えないような田舎道を歩いて祖父宅まで。電気のブレーカーを上げず、敢えて夕刻の残光の力だけで目当てのダンボールを探し出す。コートにセーターにマフラーに手袋、そんなもの小さなザックに無理やり押し込んで再び元きた道を戻る。畑沿いの小道には駅近くというのに電灯がほとんどたっておらず、すれ違いに通る人の人相がわからないから少し恐い。そして本当に物の怪か何かがまだいる余地のある田舎なのである。しかし、恐がるのは僕ではなくて、僕と暗がりの中で擦れ違った若いOLであり女子高生のほうだったのかもしれない。熊は逃げるものに対しては追いかけるという、それならば恐がっているものに対しては心理学的にどういう行動をとってしまうものなのか。心理学的には、状況というものが行動の主因子になりえるのかもしれない。そんなことまで考える始末である。
そうして僕は今日の第一目的を達したわけだ。


2001年11月11日(日)

筒抜ける青空の下、図書館まで。
家帰って早速、辻仁成の「ここにいないあなたへ」を読む。半分詩のような平易な言葉で別れたであろう恋人に向けて、北海道の旅からのメッセージを綴った本。彼の魂はこの本に宿ってはいないが、ささやかな心は宿っている。だから親しい人から手紙をもらったような心地よさがあるし、何か優しく受け答えしたくなるような本だ。

夕食は白ワインと厚い牛肉を蕪をぐつぐつ2時間近くも煮込んでみた。たいしてお金かかってないのだけど、ワイングラス片手にナイフとフォーク動かしてるとちょっとばかし気位も高くなったかのような錯覚が起きる。そんなのも悪くないでしょ。


2001年11月10日(土)

Sくんが夕刻より遊びに来るということで、お昼すぎに夕食の材料買いに雨傘さして出掛ける。
傘の青色が道の水たまりに鮮明に投射されて、そんな小さな散歩が楽しくなる。
雨の美しさを知るようなそんな細かな仕掛けが昔の日本にはたくさんあったんじゃないのだろうか、とそんな話しながら歩く。

Sくんと会うのは今年の春先に三軒茶屋から下北沢を散歩して以来、2度目だ。
同じ大学であったにも関わらず上京した後この地で知り合うなんて、運命の糸というのは蜘蛛の糸ほどにはないにせよ、面白いものだとつくづく思う。
ケーキの後にすき焼きという変則的、プチブルジョワ的食事でSくんと彼女の誕生日を祝った。
Sくんは彼女のために、彼がタイで撮ってきたというモノクロの写真を2枚だてにして贈ってくれた。一つは上半身裸の男たちが調理場か何かのようなところにいるのを斜めに走った光の筋の間に捉えている写真。もう一つは湧き上がる雲を捉えた写真。非常に印象に残るもので、彼を赤面させるほど誉めずにはいられなかった。
その代わりといってはなんだけど、彼は僕の文章を超好意的に誉めてくれた。彼にHPのアドレスを教えてしまったので、僕はちょっと緊張せずにはいられない。
今後、少しずつ文章、UPさせますよ。


2001年11月9日(金)

家の前の黒く濡れた坂道に、雨雲が映っていた。
青ビニールの傘さしながら、買い物など出掛ける。
鯖に野菜をいくつか買って、千円札一枚渡してくる。

灯油ストーブの温もり感じながら、本をめくる。
気が付くと、部屋は暗くなっていて、僕はうたた寝していたことに気付く。
一瞬自分がどこにいるかわからない。ここはギリシャだったか、エジプトだったか?
自分の位置座標が想い出すのに数秒。記憶装置のはたらきが悪いね。

夕食の支度しなきゃって、慌てて台所にたってみる。
そして何から始めたらいいかわからなくなってる自分がいたりする。
主婦への道は遠いらしい。


2001年11月8日(木)

シャンパン飲んで祝う彼女の誕生日。もっともっと大事にしなきゃと心に誓いの十字架立てたり。

K(メイ)さんのHPにあった文章講座なるもの読んでみる。かなり身につまされる、夏の海岸に干された昆布くらいに。しかしあんまり文章の良し悪しばかり考えてもキーボードを打つ手が止まってしまうから、ちょっと難しいところだよな。天衣無縫に淀みなく、それでいて飛型点までいい文章書けたらよいのだろう。ジャンプ台で止まってしまうジャンパーはいないからね。

今回の旅で、そこにある自然と町や建物との関係や意味を推し量るという楽しみを知ったのだということを話したら、建築学修めた彼女が「集落の教え100」という本を薦めてくれた。原広司という建築家が世界各国を股にかけた長年のフィールドワークをもとに、各国の集落を例として場所における建物や集落の意味を解き明かしている。
カバーには大江健三郎がこんな言葉書いている。「原広司は、世界の集落を旅して老いた賢者のように短く語る。鋭く、深く、恐ろしいほど具体的な知恵もある。そして理論と経験に磨かれた建築家が明証する。教育は、このようになされたらいい。人間の根本の学はいま建築にあると想うほどだ」  …まぁちょっと誉めすぎのような気もするけど。
そういうわけでこの分野の本を今後いくつか読んでみようかと思う。旅先で石造りの塔や城壁が言葉を語りだしたら楽しいものね。次回の旅の行き先もこんなところから決まることだろう、きっと。


2001年11月7日(水)

3ヶ月半の旅を終え帰国。出国のときは悶えるような暑さだったのに、帰ってみればみんなマフラー首まき、猫のように身体縮めて歩いている。成田空港から渋谷までバスに乗ってまず思ったのは、なんてインフラの整備された国なんだっていうこと。初めて日本にきた東南アジアの人のように瞠目して沿道を眺めていた。
渋谷は相変わらず賑やかだったけれど、多摩川渡って、島田雅彦氏の言う「郊外」にやってくれば、地味な世界が広がっていた。その地味さ加減になんだか心が落ち着いてほのぼのとした。
久しぶりに会った彼女は会った瞬間からもう涙顔で胸がきゅんした。一緒に食べる日本食のなんて美味しいこと。豆腐やわかめ、山芋などを一口一口味を噛み締めながら食べる僕に、まるで無人島で数ヶ月暮らしてきた人みたいな食べ方するね、だって。