「dollsの感想」   *ネタバレ注意。

 北野武の「dolls」を観た。もともと公開前から興味があったのだが実際観にいくかどうかは微妙だった。北野武の映画を見て損をすることはないが、自分が変わるほどの感銘を受けるということはないような気がしていたからだ。(勿論これまでも彼の映画で好きな映画はある。「キッズリターン」も「HANABI」も好きな映画だ。)僕が今回劇場に足を運んだのはナオさんのダイアリの評価も一因だったと思う。観終わったあとの買い物で買ったものをレジに忘れるくらいに映画が後に尾を引いた、と彼女は書いていた。そして僕もまたこの映画を観終わった後、しばらく口がきけなかった。一緒に観ていた人に話そうとしても、どもってしまうほどにこの映画は僕に訴えてくるものがあった。映画の主題が僕の中で飽和してしまって、それを解決するために、脳の言語野の活動まで中止しなくてはいけなかったからだ。
 まず先に言っておくとこの映画は普通に面白い映画ではない。ストーリーはめちゃくちゃだし、設定もかなり甘いし(ex.出世のための結婚をはじめ男がとるところ)、ところどころ見るのが耐えられなくなるような場面(ex.弁当をもって公園のベンチに現れる女性-病気なのか正常なのか今ひとつはっきりしない-、悪趣味な色使いの車や蝶、ゴミの溜まった車-自己犠牲と汚さということを混同してはいけないと僕は思う-・・・)がある。映画としては間違いなく破綻している。そうして実際途中まで観ていて、これは北野武が以前(敢えて?)やってしまったような駄作だろうと見当をつけていた。しかし、それが途中で引っくり返った。
 この映画には強烈なメッセージが込められていた。それは「過去の過ちに対して自己犠牲をしてまで贖罪したときに果たしてその罪は許されるか」ということだ。途中まで僕は贖罪をすることで人が再生していく物語なのだと勝手に思い込んでいた。青山真治が「ユリイカ」で暴力の傷からの再生を描いていたのと同じように、北野武なりのスタンスで再生を描いていくものだと思っていた。しかし、北野武はそんな再生には興味がないようだった。彼は人を救うという道筋よりも、犯した罪に対して人は救われるものなのか?ということに興味があるらしい。
 この映画では3つの人間関係が描かれている。1つは菅野美穂(対極の演技が素晴らしい!彼女の演技力がなければ失敗作だったかもしれない)演じる女性サワコが西島秀俊演じる男性マツモトに裏切られて自殺をはかり、その結果精神に異常をきたし、それをマツモトが全て(仕事、親、社会的地位)を捨て自己犠牲をして救おうとするというもの。1つは暴力団長をつとめる男がかつて捨てた恋人のもとを尋ねる話。もう1つは深田恭子演じるアイドルに傾倒する余り、深田の不慮の事故に対して、自分の目を潰して尽くしてみようとするファンの話。
 全てが形は違うけれど、自己犠牲を伴う贖罪によって相手を救おうとするものだ(勿論程度の差はある)。そうしてこれらの3つの全てが全て悲劇で幕を閉じる。つまり罪を償おうとする者の死によって話が終わる。
 北野監督は、贖罪は死という最大の自己犠牲をもったものでしか行われない、いや死をもってしても贖罪などなされない、というメッセージをここに叩きつけている。一体、なぜ彼がこれまで切ったりしなかったカード(テーマ)をこの映画に込めてきたのかにも興味はあるが、問題はこのメッセージの強さだ。一体彼は何を抱えているのだろうかと少し空恐ろしくなった。こういう主題を挙げるからには、彼もしくは周りの人間が何か大きな過ちを犯してことがあり、それは永劫に許されるものではないのだという意味で捉えられてもおかしくないのではないか。
 この映画は、主題を押し出すことに全神経が集中されていて、興行成績など無視しているようにも思う。実際北野監督くらいの作り手ならば、もっと普通の客を呼べるような仕掛けだってつくれたはずなのだ。それがこの映画でのサービスといったら日本の四季の美しさと山本耀司が担当した衣装くらいのものだ。(実際宣伝で何度も繰り返されるのはその部分についてなんじゃないのかな)。彼は多分興行成績を無視してでも、これを作らなければならなかったのかもしれない。凄まじい強さで押し出されてくるこの映画の主題。まさにこれこそ表現なのだと思う。北野監督は冒険をしたと言ってもいいけれど、むしろ冒険以上にこれは捨て身くらいの意気込みでつくられた映画だったように思う。確かに死による自己犠牲という主題の大きさを考えれば、失敗など恐れるにたるやという感じだったのかもしれない。僕はこの映画から表現の底深さ、表現者の姿勢というものをつくづく考えさせられたし、それに対して僕は幕が上がった後も心の整理ができずに動揺したままだった。