2002年2月28日(木)

 雨上がりの道を仙台駅まで歩いて、地下鉄乗ってプールに行った。地下鉄で目の前に座っていた茶髪の女の子がごそごそ鞄の中から何かを取り出そうとしていて、それを何の気なしに見ていたら、そこから出てきたのはなんとスヌーピーのぬいぐるみだった。思わず笑ってしまいそうになった。スヌーピーには勿論罪はない。
 泳いだ後、プールの近くの映画館でデイヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」観た。リンチらしい、不安を呼び覚ますようなミステリアスな映像手法とストーリー展開。疲れで重くなりつつある瞼の下の瞳孔を思わず見開きつづけていた。
 駅からバス乗ろうとしたらすんでのところで逃してしまったので、再びおぼろげな月の下歩く。ライトアップされた昔の城跡など眺めつつ帰宅。今日はかなり太腿から臀部を苛め抜いてしまった。


2002年2月27日(水)

「Soulful & Spiritual LIFE」 

 小沢健二の新譜「Eclectic」を買って来た。詩を楽曲としてアレンジしたもののようなイメージだ。そう聴いてみて耳の中に残るのはメロディー以上に、言葉だ。半分、詩の朗読の延長にあるような気もする。eclecticは、@取捨選択する、A折衷主義の、という意味だが彼はどう考えてこれをつくったのだろう。ジャケットのつくりは非常にシンプルで、歌詞はタイプライターで打ったような明朝フォントの文字がただ並んでいるだけだ。詩をまっすぐに届けたいというのであれば、これを手書きにしてくれたら嬉しかったのになぁと思った。 
 そして詩(詞)だけれど、僕はとても好きだけれど、それは誰か好きな人から出てきた言葉をもはや嫌いになれないように好きだけれど、僕が思ったのは、これは僕でもつぶやける言葉なのではないか、と。それは僕が小沢くんの影響を受けていたのか、それとも何か方向性というものに似ているものがあったからだろうか。・・・あーでも何かが違う、言葉ひとつひとつに何かを通過してきた力強さみたいなものを感じる。海面から海底に伸びていく光のようなイメージだ。

 HMV出てサンドイッチ屋で時間をつぶした後、図書館へ。誰のか忘れたけれど写真集みていたら、まるでオースターの「偶然の音楽」を思わせるような、積み上げられた石の写真があって、それを見ていたら「重い」というのが伝わってきて驚いた。それから血だらけの死んだ鮭か鱒の写真。それはまさに「痛い」だった。
 そうして川沿いの遊歩道を自転車で走っていたら、小さな小石の粒がタイヤに次々に踏み砕かれていって、それになぜか感動した。その音を聴いてたら涙が出てきそうになったくらいだ。感情を抑制するのはよくない、感情は放出してあげないといけないのだと今は思う。

 村上春樹さんが以前何かに書かれていた、精神的にも肉体的にも健全な状態でないと闇というものを書くことはできない、と。闇の前に僕には言葉そのものが書けなくなるような気がする。言葉は感性が震えることによってできる音のようなものだから、僕にとって感性が死ぬことは全てがストップしてしまうことに繋がる。
 精神的にも肉体的にも常に身体にみなぎるものがなくてはいけないと思う。魂と言い換えてもいいと思う。・・・そう思ってアルバムを聴いていると、ここにはそれがあるんだなと思う。


2002年2月26日(火)

 ショーペンハウアーの人生論を読んでいる。100円で拾ってきたものとは思えないくらい、素晴らしく示唆に富んでいる。19世紀のものだけにやや現代には合わないところもあるけれど幸福とか人生についてはそう変わらないというのが感想だ。精神が優れていれば自分以外の人間に重きをおかなくていいから孤独でも何ら問題に思わなくていいはずとか、人が本来有しているものにこそ幸福の源泉があるとか、健康が何よりも重要なことだとか、今の自分には一々耳に痛い話でもあった。読んでいて自分の未熟さ加減にげんなりしてしまったくらいだ。自分は未熟だと悟れることはある意味幸せなことかもしれない。

 僕という存在がここにあるのだから、もうそれ以上は考えないようにしよう。僕の存在は人がつくるものなのではなくて、僕自身がつくればいいものなのだから。

 あー、珈琲が美味しい。そんな夜。


2002年2月25日(月)

 何かがせめぎ合ってる、みたいだ。


2002年2月24日(日)

 感受性ゼロの一日をおくってしまったような気がする。それも、天気のいい日曜日に。


2002年2月23日(土)

 ヨーグルトとお茶とグレープフルーツジュースだけで過ごす一日。昨日食べたものは真夜中と明け方に全部嘔吐してしまった。いったいどういうことなのだろう。シリカゲルでも誤って食べてしまったような気持ち悪さだ。夜中に便器を前にしているときほど惨めな瞬間はないと思う。


2002年2月22日(金)

 なんかダイアリ書いて読み返したら言葉が自分に跳ね返ってきた。お風呂入って気を静めようとしたら突然吐き気がして・・・。だからキース・ジャレット聴く。逃避行動。


2002年2月21日(木)

 こんな一日。

 9時起床。目の下にはクマ2つ。トースト2枚と目玉焼きとサラダとコーヒー1杯の朝食を済ませてエリクソンの「Xのアーチ」を4分の1ほどソファで読む。きなこ餅3個を胃におさめてからペダルこいで図書館へ。3Fでアメリカ文学を2冊、フランス文学を1冊借りる。7Fでオスカー・ピーターソンのCDを返して溝口健二の映画を借りる。2Fで文芸誌の川上弘美と長嶋有の対談に目を通す。再び3Fでクリムトの画集広げて「キス」と「ダナエ」を確認し、ついでにワイエスとホッパーも手にとってみる。6等分にしてもらったイギリスパン241円也を手に帰宅。オリーブオイルにサーモン、いんげん、エノキをからめたパスタ作って食べて皿洗い。ビール1缶空ける。ネットに繋ぎANAの前売り21できっかり21日後のフライト予約。父、飲み会より帰還。聞き覚えのある店名に「みんな着物きてたでしょ?」と当てずっぽうを装って聞いてみる。チョコレート1かけにお茶2杯飲んでBSのインタビュー番組を一緒に見る。スケートのショートトラックとブッシュの訪韓について意見交換。程なくして父就寝。オースターの「空腹の技法」を6ページだけ読む。時計を見上げれば1時すぎ、何も書いていないことに思わず嘆息してダイアリだけつける。2時就寝。


2002年2月20日(水)

『MDプレーヤー』

 誕生日プレゼントにMDを貰った。今まで名前も聞いたこともないアーティストのものだった。残念なことに僕のコンポは東京のはずれの部屋のダンボールの中にあり、MDプレーヤーは先の旅で壊れてしまっていた。順番が逆のような気もしたけれど、僕は店頭に並んでいた一番安いMDプレーヤーを買った。
 早速MDを聴いてみて懐かしい感覚が蘇ってくる思いがした。音楽が懐かしいのではなくて、新しい曲を聴くという感覚が懐かしかったのだ。それは好意をもっている知り合ったばかりの女の子の部屋で、その人のお気に入りのCDを聴いたりする感覚に近かったのだ。音楽はまだ身体に馴染んではこないのだけど、自分の中にその音楽に馴染もうとする心があること。その人が好きだというものを受け入れようとする気持ち。そしていつかはそうしたものが身体に馴染んでいくのではないかという予感のようなものを感じとることができたのだ。

 父がようやくこの家に戻ってきて晩御飯でもどうかと言うので夕刻中心街まで歩いていった。最初はバスに乗ろうとも思ったのだけど、家から下り坂の途中にあるバス停で慣性と感性に従って身体はそのまま歩いていくことを選んだ。買ったばかりのMDプレーヤーのイヤフォンを中学生のように不器用に耳に当ててm-floなど聴く。音楽は僕自身の身体を外界から浮き立たせ、その間に溝をつくっていく。その溝を音が流れていくのだ。そうして僕は学生のときのことを思い出した。
 学生の時分、毎朝、僕はMDを聴きながら、冬道を歩いたり、夏の風の中を自転車に乗ったりして、学校や研究所に向かったものだ。音楽は外界が直接僕に働きかけてくることを拒んだ。それは外界に対して過度に無防備だった当時の僕にとってはまるで城を囲む外堀のような意味合いをもっていたように思う。一時期は机で論文を読んだり、コンピュータ上で分析をしているときにまで絶えずイヤフォンを当てていた。そうやってまもられていることは居心地がよかった、少なくともイヤフォンをつけている間は誰の手も伸びてこない自分だけの世界が広がっていた。井戸に潜るようにその中で僕は僕自身だけのことを考えることができたのだ、全く外界など気にかけずに。
 そうしてイヤフォンを当てて街を歩いていると、物事は全て直接的に僕の身体には入ってこなかった。人の話し声も川の流れも全ては、溝の向こうにあった。途中で同じくらいの年齢のダウン症のような男の人とすれ違った。彼は僕の肉体には全く触れず、溝の向こうを歩いていた。
 そうして僕はイヤフォンをとってみた。街の音が空気が窮屈なほどに直接的に僕に迫ってきた。


2002年2月19日(火)

『引用する』

 1924年にチョモランマ初登頂を目指している途中で命を絶ったジョージ・マロリーはなぜ山に登るのかと尋ねられて「そこに山があるからだ」と答えた。1999年に彼は高度8290メートル地点でスエードの背広に酸素マスクなしという現代登山では考えられない姿で発見された。身体は岩のように凍りついていたに違いないが彼の精神は死ぬことはなかったろう。心に登山家の言う「山」のようなものをもてる人生は幸せだ。「山」の存在がその人の生き方を昇華させていくことができるからだ。

 
これは今日アクセントのように途中に入れてみた一節。一応骨格はできたので(300枚)これから削ったり、付け足したり、組み替えたり、そんな作業。
 それから詩集めくっていてみつけた詩。とても残酷。(無断引用)
 
「旅のおわり」 小池昌代
 旅から戻ると
 あのひとは
 何かが終わった顔をしていた
 確かに旅は
 終わったのだったが
 旅の終わりに侵食されて
 そのほかのさまざまなものまでもが
 いくつもの終わりを迎えたかのようであった
 また旅をしよう、
 イタリアへ来よう、と
 旅の終わりには語りあったばかりなのに
 どこか測れないほどの深いところで
 わたしたちのなにかもすでに終わっていた
 それからも長いあいだ終わりの中にいたが
 ある日突然彼がきりだした
 ぼくたちは別れなければならないとおもう
 その表現に
 初めての違和感がわたしに生じた
 わたしもまた
 長い長い終わりの中にいたのだったが
 しかしこの終わりを終えてしまえば
 このひととの
 新しい始まりもあるはずだと
 そう考えていた
 終わりのときであった
 わたしたちの終わりに侵食されて
 周囲のものまでが次々にほろびた
 オーブンが 電話機が 冷蔵庫が プリンターが
 こっぷも割れたし 窓ガラスも割れ
 あらゆることの終わりは続いた
 みずみずしいばかりに
 あらゆる終わりが
 わたしの周囲に雪のように降り積もった


2002年2月18日(月)

『記号的な』

 セリーヌの「夜の果ての旅」という何とも手に取りたくなるような題名の本がある。僕はこれを読んだことがない。アテネのアナベルホテルという貧乏旅行者の集まるユースより安いホテルで知り合った男の子がベッドの上に放り出してあったのを見ただけだ。彼はギリシア好きで普通行かないような南部地方などを時間をかけて回ってきた後で、このままギリシアに居つきたいなどと言い出して、僕が帰国するときにはホテルの従業員になってしまっていた。今頃、あの狭苦しいロビーかカウンターかわからない台で寝ずの番でもしているかもしれない。彼は古い橋とかパン屋が好きだと言って僕に写真や絵葉書など見せてくれた。僕はその中でも石塔とか石造りの建物になぜかひかれた。
 堀江敏幸の「子午線を求めて」では、「夜の果ての旅」について章を割いていた。その小説は高速道路の高架やら高層団地やら大型スーパーから成りたつパリ郊外の、北アフリカからの移民者や軽犯罪や貧困で息のつまるような空間を舞台にしたもので、小説としても高く認められているのだと言う。パリ郊外のやるせなさを綴った小説は何匹目かのどしょうを狙って同工異曲的に次々と発表されたらしいのだけれど、セリーヌが彼らと違って秀でているのは都市と郊外の間に冥界に似た救済的な空間を創出したからなのだと言う。それで僕は思わず日本が誇る郊外作家、島田雅彦氏のことを考えていた。一体僕はなぜあれほど島田氏の作品に熱中していたのかを。
 ゴダールの「男性・女性」を見た。意味の繋がりはわからないけれども、記号にあふれた映像に面白さを感じる。信号は青だったらわたるという意味を知っているけれど、この映画で使われている記号はひどく難解で、映画論のような授業でも聞かなければ僕には理解不能だ。だけど信号を送られると脳が活性化しだして目は見開かれるからそういう意味で楽しいのだ。今僕はウイスキーを飲んでいる。ウイスキーに意味はない、ただ気持ちいい、それだけでいいわけだ。


2002年2月17日(日)

『孤独な作業のために』

 17日ぶりにネットに繋がった。こんな書き方をすると、水平線しか見えない舟で通信機器が壊れてただ波に弄ばれてしまっている漂流者みたいだ。そして僕はこの漂流の間、いくぶん寂しかったようだ。
 あまりに集団の中で生きすぎて、集団を離れたあとは二人暮らしなどしていて、本当にひとりという経験をしたことがこれまで少なかったように思う。一人旅をしていても、旅は道連れみたいな感覚で誰かに知り合って行動を共にしていたもの。前の旅では唯一、イスタンブールからギリシアまでの間に何度か完全なひとりというのを体験した。イスタンブールで3ヶ月半一緒に旅した弟と別れて、「長い間ありがとう」とようやく素直な言葉を掛け合ってバスに乗り込んでから、僕は泣きそうになった。いや正直に言おう、ひとりで泊まったホテルで心細くなって涙の蛇口がとうとう壊れてしまった。一人旅はいいぞ、なんて偉そうなことは金輪際言ってはいけないとそのとき思った。
 学生時代の同居人は一人で真冬の日高山脈縦走に出た。当たり前だが1ヶ月もの間、誰にも会わなかったそうだ。すごい孤独感だったろうと思う。ただ鋭い雪の稜線だけが果てしなく続いている無人の世界。
 書くことは孤独な作業だと言う。確かに自分の心の言葉に耳を澄ますことはひとりだけの行為だ。言ってみれば、孤独に耐えられない人には向いていないともいえるのかもしれない。ああ、口を一文字にして雪の峰を歩いていくことに慣れなっきゃ。寂しいという気持ちをコントロールできるようにならなければ。


2002年2月16日(土)

『古い晩秋の記憶 −小石の感触−』 

 図書館の検索用のコンピュータで調べて貸し出しカウンターの奥にある書庫から本を出してもらった。レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役にたつこと」。本棚に並べれば借りようと思う人もいるだろうに、どうしてわざわざ書庫に隠されているのかという疑問は、15分後に本を手渡されたときに明らかになった。この本はかなり傷んでいるのだ。どうやらかなり以前からあった本らしく、図書館では現在全ての本がバーコードを付けられてコンピュータ処理で管理されているのにも関わらず、この本にも勿論バーコードはあるのだけれど、本の一番後ろには小学校の図書室で見かけたような貸し出しカード用の薄い紙袋がついているのだ。そしてその脇についた紙切れにはその当時の貸し借りの日付スタンプが残っている。一番最初の日付はなんと平成元年八月だ。当時、僕はえっとまだ中学生なわけだけど、僕よりずっと歳をとっている人の中にはついこないだのことじゃないかなんていう人がいるかもしれない。しかし本というものにとって、特に絶えず人の手にとられて様々な災難にあう可能性をもつものにとって、それは長い年月と言わざるえないだろう。誰かは珈琲をこぼしてしまうかもしれない、あるいはチョコレートのかけらをぼろぼろと落とすかもしれない。あるいは鞄の中で鉛筆や辞書にもまれて黒くなったり擦れてしまうかもしれない。長時間日差しの中にさらされるかもしれないし、お風呂で読まれてそのまま置きっぱなしにされるかもしれない。そうした数々の災難をくぐり抜けてこの本はここに残っているのだ。本の背表紙は既にがたが来ているし紙自体も決してきれいとは言えない、誰かが思いっきり広げたのか自然に開いてしまうページもある。けれどもそれは僕の手の中にこよなくなじんだ。本屋さんで新品のまっさらな紙に包まれた本も悪くはないけれど、今の僕にとってはこの本のもつ古さというものに本以上の何かを感じ取ることができた。
 もし、この本がただの古い本だったならば僕はここには書かなかったかもしれない。しかしこの本は古い以上に中身が本当に素晴らしかった。カーヴァーの魅力を挙げるならば、それは心のしこりというものをうまくつかまえて言葉にすることができることだ、と言うことができる。僕らが何気なく生活している中で、ふと何かに引っ掛かってしまうことがあるのだけれど、例えば隣人への羨望だとか小さなコンプレックスのような押し殺しているけれどしこりのようにもっているもの、普通の人が流してしまう(無論それに踏みとどまりつづければ生活は立ち行かなくなると思う)そんなものを、カーヴァーは晩秋の川の流れの中を飽きずに覗きこむクマのようにそっとすくいだしてみせることができるのだ。そうして僕らはその言葉を読んで、それを心の中にしこりとして残すことができるのだ。晩秋の寂しい川原に残された小石のように。


2002年2月15日(金)

 家から東北大学の構内を突っ切って美術館へ行く。こんな気軽に絵を見に行けるなんてとても素敵だ。平日のそれも常設展だったからほとんど人がいなかった。絵の横に座っている畏まった女の人たちも随分と暇そうだった。おかげで他の人を気にすることなく、ひとつひとつ丹念に絵に向かい合うことができた。が、残念ながら畑の境に杭を打ち込む音のように僕に響いてくる絵はなかった。クレーの版画と日本人画家の松島の風景画が少し印象に残ったくらいである。
 おととい図書館でSWITCHの一月号に載っていた旅についてのコラムを読んだ。その中で谷川俊太郎の「旅」(結構、欲しい詩集だ)の別冊の文章が紹介されていた。
+++++++++++++++++++++++
「フェルメール」
 本物を見るとは恐ろしい事だ。何故ともなく私はそう思った。本物のもつこの輝くようなプレザンス、これは一体どこから来るのだろう。絵の中のプレザンスを言うのではない。一枚の絵がここに在る、そのプレザンスを言うのだ。これに出会うだけで、旅に出た甲斐があると私は思った。
+++++++++++++++++++++++++

 そのせいか僕はそうした絵を見ているうちに無性に「フェルメール」を見たくなった。


2002年2月14日(木)

『パラドックス』

 誕生日以降、なぜかすんなり眠れなくなっている。なんとなく見ていた深夜のオリンピック中継に事を発するのだが、二時過ぎにフトンの中に入っても一向に寝付けないのだ。二日連続で朝の新聞配達のバイクの音やらカラスの鳴き声やらを聞いてしまった。それを温かい寝床の中であー来ちゃったなぁなんて思うのだ。
 眠れないから、帰国してこの3ヶ月のことをずっと考えている。ものごとには因果というものが絶対にあるはずだ。今というのは過去の時間の連鎖、累積にすぎない。だからその連鎖をたどっていけばなぜ今があるのかわかるのではないかと思ったのだ。しかし、わからない。僕は今までの生きてきた中で上出来とも思えるくらいに誠実な役柄をきちんと演じたようにも思うのだが。
 ふらふらとあちらこちらに動いているものに対しては、それを自分のもとに向かせようということに人は躍起となるけれど、いったん自分のものになってお地蔵さんのように動かなくなると、興味というのは失われていくものなのだろうか。「わざわざ帰国したのがよくなかったんだよ。ほっておいたほうがよかったんだよ。帰ってきても、心ここにあらずみたいな感じがいいんだよ」「まさか、そんなことがあるものか」「ほかに説明できるかい」「いや・・・」
 そうやって考えているうちにまた朝がやってくる。カァカァ。


2002年2月13日(水)

『真っ直ぐに、彫り刻む』

 ケヤキ並木の通りの南側に面するビルの二階にある喫茶店に入る。入ってカウンターに腰掛けて、横の窓に目をやって驚いてしまった。窓はちょうどケヤキ並木の上部と下部をカットして映画のスクリーンのように真ん中だけを切り取っている。ケヤキの中央部のなめらかな幹と枝が緊張感をもってそして存在感をもって窓に迫っている。それはまるでキャンバスからはみ出さんばかりに描かれた樹木群を想起させた。新体操選手のボールへ伸ばした腕のように主幹の中ほどよりしなやかに伸びていく枝をじっと見ていると、それはキャンバスに描かれた絵というよりも石版画といったほうが妥当なようにも思えた。そう思ってしまうのはあるいは喫茶店に入る直前までいた図書館で何気なく開いたベルナール・ビュッフェの画集のせいのかもしれない。真っ直ぐな線が精緻に組み合わさった静物画や風景画。まるでテトリスのブロックさながらに心に間隙なく組み込まれていく感じ。
 石版画のイメージは珈琲を飲み終えて再び通りに出た後も離れることがなかった。歩道の方形に組み込まれた石の模様、空を翼竜のように翼を広げて舞う数十羽にもなるトビの群れ、大学の敷地の端に植栽された針葉樹の羅列。まるで誰かが彫刻刀をまっすぐにあてがって冬の風景の中にはっきりとした陰影を刻み込んでいるのだ。僕の目に映る冬の風景はいまや全てが彫り刻まれているのだ。そうしてはっと気付いた。彫刻刀があてがわれているのは、僕の見ている風景ではなくて、僕そのものなのではないか、と。


2002年2月12日(火)

『冷気に掌握されたこと』 

 

 窓の外では昨日に引き続き雪がちらついている。寒気が入って冷え込んでいるのか、粉砂糖をふりかけられたように木々にうっすらと雪が貼りついている。そう雪は積もらずに貼りついているのだ。木々の幹は屋外に置かれて無用の唇を開いた石像のように頑なに無言を貫いている。
 コートにマフラーをまいて、パリ郊外を歩く堀江氏のように冬の散歩者を気取ってみようと思う。家から十メートルくらい歩いたところで思いなおして一旦もどって自転車にまたがる。どうも一度自転車というもののスピード感を知ってしまうと歩行するということが少し馬鹿らしくなってしまうようだ。路面はちらつく雪のせいか黒く濡れている。木々より路面の方が幾分熱をもっているということなのだろう。いつものように曖昧にブレーキをかけながら坂道を下りていくが、風の冷たさは尋常じゃない。耳が冷たいのはもちろん、鼓膜の中まで冷たくなってしまいにはこめかみに痛みを感じる。手袋をはいているのにも関わらず、指先の感覚が遠のいていって、満足にハンドルをつかむことすらできない。美術館をいつもまっすぐに下りるところを、今日は左手に曲がってみた。高校のグランド脇を抜けると、いつも渡っている橋のちょうど一つ上流側の小さな橋に出た。冷たい空気の中で木々も川の水もぐっと身を縮めている。すべてのものが凍りついた空気の中で、モノクロ写真に焼き付けられた風景のように身じろぎもせず何かに耐えているのだ。ここでは札幌のように「もの」が雪や風と一体化してしまわずに分離しているようにも思えた。雪や風は「もの」をその掌中にねじ込もうとするし、「もの」はそれに抗しようとしている。そのために水際の激しい攻防が強力な冷気と服従をきらう「もの」の間で起きているのだ。風景はそのために激しい緊張感を有している。
 精神修養にも近い冬の自転車のりから冷えた頭蓋骨をもって帰ってきて、ストーブの前に腰掛ける。温かいコーヒーとドーナツを頬張りながら、アーヴィングの「ピギー・スニードを救う話」を読む。ピギーは風のない冷気が身にしみる夜に、熱気で睫毛が縮れるような炎の中でブタとともに焼け死ぬ。この体験によって作家になることを決意したアーヴィングは、哀れなピギーに何度も火をつけたり助けたりすることこそが作家の仕事なのだと言う。
 それから僕は本を閉じて、冷気にやられて鋭い痛みすら感じるこめかみを抑えてしばし呆然としていた。


2002年2月11日(月)

 雪のない裸の大地やアスファルトにちらちらと雪のふっていく光景ほど寒々しいものはない。ふり続く雪を眺めがなら一日家にいた。

 夜、「アメリカン・ヒストリー X」を観た。エドワード・ノートンがネオナチのような人種偏見者から更正していく青年を演じ、エドワード・ファーロングが兄に感化される弟を演じている。非常に示唆に富んだ映画だったと思う。人種問題や暴力、連鎖的に繋がる憎しみといったものが生まれる環境や社会的背景だけではなくて、それに対する解決の糸口を示すことのできる映画だったと思う。怒りでは人は幸せにはならない、という力強いセリフが快かった。暴力というものへの対応という点について僕も自分の芯の部分が多少揺さぶられたような気がした。しかし実際に暴力というものが逆戻りできずにふるわれた場合に両の頬を差し出すことなどできるのか、という疑問は解けないし、この映画でも逆説的なエンディングの中で「理想」というものを語らせるのにとどまっていて、さああなたは踏みとどまって隣人を愛することができるかというのを問いかけて終わらせている。その点、映画づくりの面ではあざといような気もするけれど、やはり結局はそうした問題に立ちあうのは映画の中以上に我々なのだし、製作者の力量からもまた一般的にも究極的な結論というものを提示することもできなかったのだろうと思う。


2002年2月10日(日)

『携帯電話の意味』
 
 現代人の三種の神器のひとつ、携帯電話を半年振りにもってみた。ちょっと嬉しくなって親にかけてみる。「お誕生日おめでとう、昨日電話しようと思ったんだけどあなたのところに電話がなくて・・・」それから付け足すように「あなたのほうはいいんだけど、T(弟)のほうと最近連絡がとれなくて・・・。生きているかどうかだけでもどうにか確認お願いね」確かに音信不通、住所不定でうわてをいく人間が身近にいたわけだ。
 携帯電話というものは不思議なものだと所持して最初の一日で思う。世界との糸口であるこの小さな軽量の物体に、僕は誰かから電話がかかってくることを期待してしまう。無論、誰にも電話番号を教えたわけでもないのに、世界のどこかで誰かが僕を必要としてくれるんじゃないかと期待してしまう何かがあるのだ。この物体は僕らに何かに繋がっているという期待と何にも繋がっていないという落胆を同時に味わさせるためのものなのかもしれない。


2002年2月9日(土)  My 27's Birthday 

 窓を開けると鼻腔を刺さってくるような冷たい風が我先に舞い込んでくる。慌てて窓を閉めて、護られた空間のストーブの温もりの中で、風に弄ばれる裏山の木々の梢を眺める。結局、嵐の海に漁師が舟を出さないように、僕は自転車を出さないばかりか一歩も外に出なかった。おかげでムンクの叫びのような風の激しい唸り声は聴いたものの、人の声というものを一日全く聞かなかった。人と会話をしない誕生日というのは初めてのことだと思う。本当は誰かに電話でもして、「よかったら理由をきかないで、おめでとうって言って」と頼んだっていいのかもしれない。だけどこれは半分自業自得的なところがあるから、海岸で絡んだ網の目をほどく皺だらけの老練な漁師のように黙っているしかないのだと思う。(というよりはこの寒風の中、大学キャンパスの中にぽつねんとある公衆電話まで行くのが面倒というのもあるのだけれど)
 果たして、ひとりぼっちの誕生日とひとりぼっちのクリスマスはどちらが寂しいかという命題について考えつつあったのだが、堀江敏幸の「郊外へ」という趣味のいい作品を手に取っているうちにそんな甘っちょろい気分を思わず恥じた。この人はとてもオトナな人だと思う。なんといっても下手な感傷などに流されない。底のないような知識の豊富さや語彙力もさることながら、人生というものをよく知っていると思う。生き方というものをよく知り抜いていると思う。彼が異国の街パリにおいて肌で感じたことは彼の机上での知識をますます深いものにする。知識があるから体験が生きるし、体験をするから知識も生きてくるという両作用が彼の中では起こっている。まるで年老いた哲学者の回想記のようなものを書くのだけど、この人僕より十ばかり歳が上にすぎない。こういうカッコいいオトナになれたらと思う。
 夜、好きな映画ガタカ」を観直してみる。素晴らしい。間違いなく最も好きな映画の一つだと思う。才能というものは先天的なものではなくて、努力や強い意志があればどんなものにでもなりえる、という事実が心を動かしてやまない。そうした下手をすると演歌調の汗臭くもなりえそうなストーリーを完全にスタイリッシュに仕立てている点もかっこいい。そしてイーサン・ホークの演技と、マイケル・ナイマンの音楽も非常にいいと思う。ユマ・サーマンも役どころに非常に合っていると思う。ただジュード・ロウを最後に殺す一シーンだけが今ひとつ腑に落ちない。あるいはそれを理解するレベルに僕がないということなのだろうか。原作のほうも読んでみたいなと強く思った。

 夜十時をまわってからシチューが突然食べたくなって、牛乳を買いに外に出た。ポストを覗いたら驚いたことに誕生日プレゼントが届いていた。嬉しくて嬉しくて足取りが軽くなってそのまま夜空まで駆け上がれそうだった。ありがとう。


2002年2月8日(金)

 誰かと話がしたいなぁ。いつからこんなに寂しがりやになってしまったんだろう。
 二階の窓を開けて、夜の冷気に沈む家々の光を頬杖つきながら眺める。目の前の道路に電灯がちらりちらりと光っている。路の向こうから誰かがやってきたりするだろうか。「待ったー?」って言われたら、「ちょっと待ったよ」と笑ってみせようか。しかし一体誰が来るというのだ。


2002年2月7日(木)

『切ないこと』

 待ち合わせの13時が近くなるにつれて、なぜか僕の身体は眠りを要求し出した。時間つぶしに大雪山系の写真集やら、日本庭園の本やらぱらぱら読んでいると、脳の中の小人たちは視覚的情報を読み込むのをさぼって柔らかな長いすで太陽の温かな光でも浴びながらうつらうつらと眠ったらどんなに気持ちいいだろうと考え出していた。僕は本をパタンと閉じて、窓の外のケヤキ並木の放恣な裸の枝先を眺めていた。

 13時、僕は一階におりて、待ち合わせをしている相手を探していた。でもよくよく考えると、僕は一度しか会ったことのない彼女の顔をうまく思い出せない。もしここで警察に引っ張られて、さぁ彼女の絵を描いてごらんと言われたら、両の手を挙げて困り果てただろう、きっと。そんなわけで、僕は周りの女の人をひとりひとり注意深く観察する破目になった。「この人じゃない」「あの人でもない」本当にこんなんで会うことができるのだろうかという疑問符を小人たちは掲げ始めた。
 でも目が合った瞬間すぐにわかった。これまでの不安なんかすべてなくなって「やあ」なんて言っている。こいつはお調子者だと小人たちはささやきあっていたに違いない。
 数時間後、日は暮れて、風も強くなって、僕は家に帰ってきた。ストーブをつけて本を読もうとしたら、小人たちは仕事などやめてくーすか、くーすか。僕は魂が抜き取られたようにソファの前に突っ伏していたわけ。
 そうして思い出したようにむっくり起き上がって、ぼんやりと今日のことを思い返している。そうして彼女の顔を思い出そうとしてうまく思い出せないから、小人たちは呆れ返ってくすくす笑っている。そういうのって、かなり切ないと思う。


2002年2月6日(水)

『哀しい夜には、泣いてみればいいのさ』 

 ジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」を読んでしばらく動けなくなってしまった。破局寸前の若い夫婦が微かな光明を手がかりにしようとするが既に歯車は噛みちがえてしまっている。心に粗塩を直接すり込まれたような痛さ。

 21時の公衆電話で僕は留守電の音に仕方なく受話器を置いて、夜空を眺めた。どこかで見たオリオン座。そしてここはいったいどこなんだ。

 Rから来た手紙の最後。「君の引出をのぞいたら、ラベンダーの匂い袋だけぽつんとありました」


2002年2月5日(火)

『舞台的装置』 

 今から数年前、僕が院生をやっていた時分、ある月曜日の朝のことだった。助手に「おいT、教授が呼んでるぞ」と言われ、戦々恐々として教授の部屋に向かった。本棚から本が今にも崩れ落ちそうな暗い部屋で、教授は僕の顔を見て、思い出したように厚い本を2冊手渡してくれた。「これを次のゼミまでに読んで発表するように」「金曜日のゼミのことですか?」「そう。わたしが学生の頃は講義の度にこれくらい本を読んで準備したものだよ・・・」
 なるほど教授が若かった頃はさぞ勉強されたことだろう、しかしこの本の厚さ。僕にも予定というものがある。間に合うか・・・いや間に合わせよう、そう思いつつ早速本と向かいあった。景観学についての総論を扱った本であった。発表ということさえなければ、もともと興味があってやっている分野の本だったからそれほど苦痛ではなかった。
 連続的な景観を扱った章の中で寺社についての記載があったと記憶している。寺社の石段というものはずっと足元を注視して登っていかなければならないが、最後の段に上がると足元に対して注意を払う必要がなくなる。その瞬間、人が目を上げると、すべてのものが印象的に視界の中に飛び込んでくるという効果があるというのだ。それが寺社の舞台的な装置であるというのだ。

 今日は歩いて五分もかからないところにある亀岡八幡宮にいった。寺社特有の鬱蒼とした木々の間を石段が何百段か続いている。特に整備もしていないのか石段によっては飛び出していたり、斜めになって今にも崩れそうだったりする。ひとけのない境内は人に畏れを抱かせるような厳粛した雰囲気があった。林の中には北海道では見かけない緑を帯びた滑らかな樹皮をもつ常緑樹がところどころ見えた。それが僕には一種得体の知れないもののようにも見えた。石段の切れるところを見上げてみると、シーザーのような獣とちょうど目が合う格好になった。まさか本物の獣ではあるまい、あれは石でできているものだ、というふうに思うものの、今にも動き出しそうで恐かった。そうして息を少し乱して石段をすべて上りきったときに視界が開け本堂がぱっと目に入った。アプローチの長さに比べると本堂自体は随分とこじんまりしたものだとも言えたけれど。獣に見えたものはやはり石でできていて、近くまで寄ってみれば、畏れるに足らない代物だった。
 ふぅっと白い息を吐いて、振り返ってみると、眼下に仙台の街並みが静かに広がっていた。アカゲラのキョッ、キョッという鳴き声が冷たい空気を震わせていた。


2002年2月4日(月)

『好きな言葉のかたち』

 詩人、小池昌代のエッセイ「屋上への誘惑」を読む。この人の文章はまるでやりかけの生け花のようだと思う。硬いつぼみのついた枝を挿し、花を挿し、よく切れる鋏で容赦なく裁断している途中に誰かに呼び出されて中途のままになっている生け花。まだ全体の流れとして手を加えるべきところがあるように思えてしまうのだけど、切り口が無防備なまでにさらけ出されていて、それが僕の感覚を驚かせる。そう、言葉ひとつひとつの感覚が非常に研ぎ澄まされているのだ。それは言葉だけの力ではなくて、無論それを裁断する人の感性の力なのだ。
 「冬の樹木みたいなうつくしい手」
 「あるときは又、森の中を歩いていた。声がするのに鳥の姿が見えない。文章にうまく打たれた句読点のようだ。その存在を主張せず、活かし、溶け込んで隠れている。」
 「むさぼるように蟹を食べながら、私はこんなふうに、ものを食べたのは久しぶりだ、と思った。征服者のような食べ方だと思った。」

 この人の表現力は詩的な美しさで終わることなく、むしろ対象に対してその五感を残酷なまでに働かせている。言葉が表面上だけを流れずに、まるで猛禽類の鉤爪のように深々とものを捉えているのだ。

 話は変わる。家から一番近い本屋を見つけた。それほど書籍の数は多くない、駅前の小さな本屋さんレベルだ。その本屋さんとは東北大学の購買だ。家の前が東北大学だからそのままずかずか入っていて学生と混じって雑誌など立ち読みする。音楽雑誌を何気なく手に取ってみたのだが、僕の好きな小沢健二さんが新しいアルバムを今月末に発表するという記事が載っていた。R&Bだかソウルに近いもので、またこれまでの作風とは違うのだと言う。そして楽曲だけでなく、そのフレーズが素晴らしいとそこでは紹介されていた。例をあげたいのだけど、すっかり僕の記憶は曖昧で、曖昧な形で書くくらいなら書かないほうがいいのだろうと思う。聴いてみればいい話なのだから。こういうものを聴けるというのもまた生きている喜びなんだろうなと思う。

 僕は最近「ファンレター」なる題名のメールをもらった。
「(略)・・・・・・自分の心の原色の感情を、ただなんとか素直に、そのまま、言葉に焼付けようとするのではなく、白い雪を被った深い森、脛まである重い靴で軋む雪を踏み込めていく様、冷蔵庫がブーンと唸る音・・・そんな心ないモノたちに仮託して、綴っていくほうがいいのだろうなって・・・」
 僕には自分の文章以上に実はその人の文章のほうが好きなくらいだということをことわっておくが、確かにその人の言うとおり僕の文章に良さがあるとすればそうした風景描写に心象風景を重ねることなのかもしれないと思う。そうして書いた文章に僕は読む人の心がシンクロしてくれる瞬間というものがあることをとても嬉しく思う。
 僕はこうした文章を書く大家として志賀直哉の名前を挙げることができる。彼の文章は素晴らしい。淡々と周りの物事を綴っているようなのに、いつの間にか彼の感情というものが読んでいる自分の胸の中に届いてくるからだ。
 風景描写についてはザクロさんにもそのようなことを言われた記憶がある。きっとそういうことなんだろうと思う。
 あー、がんばろうと思う、いいものがつくれるように、世界と心がシンクロできるように。


2002年2月3日(日)

『そして車輪は回る』

 川崎からこちらに分解した上で梱包して送ったマウンテンバイクを組み立てた。サドルやらチェーンをいじっているうちにすっかり手は油まみれで黒くなってしまった。手をさっと拭いてから、昨日買って来たばかりの空気入れでタイヤにしっかり空気を注入した。自転車に乗るのは旅に出る前以来だからかれこれ半年ぶりくらいである。
 タイヤがアスファルトを捉えきれていない感覚がして、始めのうちは走っては停めてタイヤの様子など見ていたけれど途中から慣れてきて颯爽と走ることができた。昨日足を棒にして歩いた道も自転車だとなんのその、美術館の横の坂を快調に下って、広瀬川をわたる。なぜかドビュッシーの「月の光」が頭の中を流れ出す。ペダルの踏み心地が軽い、風景がスクリーンのように流れていく。まるで岩井俊二の映画みたいな気分だ。今を走っているはずなのにすべてがいつの間にか記憶に変わってしまうようなそんな気持ち。何かが始まって、何かが終わっていく。
 半年前に住んでいたあたりまで北上して、今度は駅まで南下する。途中で自転車のオイルとケッパーとフランスパンとアンナ・カレー二ナの古本を買う。
 帰りはやや傾斜のある坂道を登ることになる。筋肉が微弱になってしまった脛や腿が少し驚いている。
 家に戻って、昨日図書館で借りてきたレイモンド・カーヴァーの「必要になったら電話をかけて」を読む。赤いハードカバーを手にしていると、いつの間にかうとうと。そうして僕はまたペダルを踏み出すのだ、どこまでも。


2002年2月2日(土)

『ぼくは、ひとり、ひとりごといっても、ひとり』

 朝起きて前日送った荷物を受け取る。兎に角散歩だ、ということで家を出る。神社の長い階段(この次上ろう)を横目に見て、美術館(今度入ろう)の脇を通って橋を渡る。耳元ではサニーデイサービスの曲が控えめに鳴り響いていた、つまりとても気分がよかった。そのまま歩いていくと街中。自転車の空気入れと便箋を買う。自転車に空気を入れて、手紙を書くためにだ、実にわかりやすい。
 サンマルクカフェであんぱんをかじっていたら、横の集団が女言葉であることに気付く。どうやらゲイのようだ。でも全然いやらしさもなく、逆に心使いがきめ細やかそうで、友達になってもいいなぁと思った。ピクニックに行ってビールを飲んだり、たまにみんなで料理を持ち寄ってパーティーをするのだ。そしてとうとう迫られて「ごめんその気がないから」「そう、残念ね」とか言って笑いあったりするのだ。でも本当に酔っ払ったら間違いをおこしたりするのかもなぁ。・・・でも声をかけることができなかったから、間違いを起こしようもなかった。「残念!」
 メディアテークに行く。市民図書館や文化的な催しのできるスペースが入っている、七階立てくらいの全面ガラス張りの新しい建築物だ。何某という有名な建築家が建てたということだ。僕はここが仙台の中で今のところ一番好きだと思う。今にもピチカートの野宮さんとかテイトウワ(よく知らないけど)とか「ガタカ」のイーサン・ホークやユマ・サーマンなんかとエスカレーターですれ違いそうな感じがしてくる。つまり、無機的な現代ぽさがある。何がいいんだろう。冷たい感じのする中で、図書館にぬくもりのようなものを感じるからだろうか。ひとりひとりが距離をおくことのできる空間だからだろうか。・・・うまく説明できないな。
 本を選んでいると、友達になりたくなるような人がいっぱいいる。特に自分と似たような傾向をもつような本を選んでいる人に対して。自分の感情を電光掲示板のようなもので頭の上に「トモダチ二ナリマセンカ」なんて表示できたら、あるいは「アメリ」のように身体が透過してハート型の心臓がドキドキと動いてくれたら分かり合えるのかもしれないのにね。こういうことをぱっと口にできる人は羨ましいと思う。僕はそういう言葉が出ていこうとすると、そこに門番が立っていて、「それは風紀的によくない」だの、「軽はずみ」だの言って、通してくれないのだ。本当に。そういう言葉を軽く出すためにはアルコールの力を借りなくてはいけない。門番が空いた酒瓶の横で気持ちよく眠り出したとき、僕は馬を駆って城門を飛び出して、月夜にダンスするのだ。とっても気持ちのいいダンスをするのだ。
 だけどアルコールを入れて、図書館には行けない。だから図書館では門番はいつもきっちり目を開けているからどうしようもないのだ。うん、どうしようもない。
 仕方なく、僕はお城の中でひとり本を読むしかない。東の森の果てにいる眠れる美女の話とか、西の湖の底で龍神に魔法をかけられて凍ったままになっている勇者の話を読むのだ。本当なのか嘘なのかは城門を出ない限りわからないことだ。このお城の中には僕の他に門番しかいないから、たまに門番と話してみてもいいかなんて最近考えている。門番と今年の小麦の収穫状況だとか東の空に去っていた羊雲についてお茶でも飲みながら話をするのだ。だけど僕はそれにさえ二の足を踏んでいる。なぜだろう。


2002年2月1日(金)

 久しぶりの仙台。東京以西の人にとっては北国だが、雪に埋もれた札幌を見てしまうと、さほど北にいる感じがしない。街には雪がほとんどない、陽の目を見ない建物の陰などに雪のかけらが残っているだけである。自転車で走るまわることも十分できそうだ。
 去年仙台にいたときは長期出張の身であり、街の中心のほうに勝手にマンスリー・マンションを借りて住んだので都会的な生活だったが、これから住むところは街からややはずれの丘の上にある。はずれといっても三十分くらい歩けば仙台駅まで辿りついちゃうんだけど。目の前には東北大のテニスコートがある。僕が通っていた大学と違って、東北大はキャンパスが分散しているようで、去年住んでたマンションの前には農学部が、ここの前には理学部系(だと思う←実は文系学部だった、後日判明)の学部がある。偶然ながら面白いことだ。
 バスを駅から十分ほどの「半導体研究所」前で下りる。辺りはもうすっかり暗くなっていて、一瞬自分が全然見当違いの場所でおりたような気までしてくる。林の奥に半導体研究所の建物がある。半導体というのは今をときめく研究対象でないのかどうか知らないけれど、なんか鄙びた温泉宿のように外観がぱっとしない。しかしここには日本が誇る頭脳がいるらしいのだと先日父が言っていた。頭脳の良さは外からじゃわからないわけだ。
 錆びたチェーンをカラカラいわせて自転車で通りかかるのは皆東北大生のようだ。白衣着て夜遅くまでわけの分からない光線を放射させて、「うううむ」とか唸っていそうな人たちである。彼らの目は世界にありながら、実はリアルワールドそのものはとても狭いようなそんな印象を受けた。(あくまで印象)
 さて家について中に入ると寒い寒い。すごく底冷えする。まるで部屋と極点がどこかで繋がってしまったかのような寒さである。一階の廊下などスケートリンク並みの冷たさである。北海道の家のように、床暖房でも二重サッシでもなく、部屋は密閉できずどこかしらから冷気が漏れているので寒いのは当たり前といえば当たり前である。
 二階のテレビのある部屋を今晩の居場所と決めてそこだけ暖かくする。テレビをずっと見ていなかったせいか、折角テレビをつけてもよくわからない。まるで「テレビピープル」のテレビみたいだ。何が面白いのかがよくわからない。それでもしばしつけていると笑うタイミングのようなものがわかってくる。テレビというものを見るとき、僕らは笑いというものを、開店前のお店が陳列棚に商品を並べておくように、準備しているのではないかとなんとなく思った。
 暖かくなった部屋にいると、無性にビールが飲みたくなった。冷蔵庫を覗いてみるとそんな気の利いたものは入っていない。(父はアルコールを飲まないのだろうか?ちなみにここは父の仙台で仕事をするときの家で今は京都だか広島だかに出張中だ)コンビニを探しに家を出る。周りには大学の他に博物館やら美術館やらスポーツセンターやら国際会議場といった公共施設ばかりがあることを知ったが、店というものが見あたらない。誰かがトラックに積んでもっていってしまったのだろうか。どこに?広瀬川をわたってようやくコンビニを発見、ビールも購入。そのまま気の赴くままに街の中心のアーケードを数ヶ月ぶりに歩いてから家に帰った。しかし、ビールを飲みたい気持ちは冷たい夜風か橋上から眺めた川の流れか、あるいはトラックに積まれてもっていかれてしまっていた。しかし、兎に角プルタブをパチンと開けてみた。