2002年1月31日(木)

『花泥棒』

1>
 真夜中の花壇に花泥棒がやってくる。街灯に照らされて、巨人のような影がすっと芝生に伸びている。ゆっくり辺りを見回しているようだが顔は見えない。花壇の脇にそっとしゃがみこんだと思ったら、鞄から何やら取り出した。小さなシャベルだ。暗闇の中で一瞬それが銀色の光を発した。それをゆっくり花壇の柔らかな黒土にさしこんでいく。ぐっと力を入れると、すっかり眠りにあった花の株が一つ抵抗もできずに宙に浮いた。「グスッ」という土の音に、周りの仲間の花たちはただならぬことが起こったことを直感して目を覚ます。しかし、暗闇だから何も見えない。ただ身を震わせて恐れおののくだけなのだ。朝がやってきて、芝生が朝露で光出したとき、花壇の一角にいたはずの花の一つが消え去っていることに仲間の花たちは気付く。そこには鋭角にさしこまれたシャベルの跡がまるで傷跡のように残っているだけだった。

2>
 僕は駅横の写真屋さんで写真の焼き増しを頼んだ。この三年間でRが撮った写真のネガの中から、僕と特に関係ありそうなものを手当たり次第出してきたのだ。GWの松江への旅行、秋にRの実家の岩手に行ったときのもの、秋口に江ノ電に乗って海を見に行ったときのもの、井の頭公園に桜を見に行ったときのもの・・・。Rが写真整理中でテーブル周辺にほったらかしにしているのに乗じて勝手に中を検分して選んだのだ。仕事に相当疲れているものもあるものの、大概の写真は僕らの心が通じあっているように思える。知らない人が見て、「あー楽しそうですね、いいなぁ」と義理ながらも感想を言うような写真の類なのだ。そう確かに僕らは楽しかったし、心も通じ合っていたのだ。しかし今になってそれらを見ていると、僕はどうしても戸惑いを覚えてしまう。
 人は思い出や感動を記録したり記憶するために写真を撮るだろう。しかし一体”僕らの心が通じ合っていた”という今は亡き事実を記憶する必要がなぜあるのだろう。そう思いながらも、どうして、僕は今更のように写真屋さんに向かってしまうのだろう。
 数年後だか十年後だかに「あー、あのときは良かったなー」なんてアルバムを開いて感傷に浸るのだろうか。

3>

 僕のアルバムのある一頁に数年前に好きだった女の人の写真が数枚貼ってある。しかし、顔の輪郭さえ曖昧なピンボケのものとかひどい顔を(それもわざと)したものしかない。その人がいつも写真を撮られることを嫌がっていたのと、最後の最後にそうした思い出の品を分ける余裕がなかったためにだ。
 僕はたまにアルバムを開いて、それらをじっと見つめてみる。そうすると心の中にぽっかりと穴が開いたような気分になってしまう。ドーナツの穴とでもブラックホールとでも形容してもいい、ただ無となっているのだ。僕がその写真を撮ったときの気持ちというものが確かにその写真の中にはあるのに、それを見ている自分自身からその気持ちがそっくりどこかに持ち出されて空白になってしまっているのだ。きれいな花々の並んだ花壇に、誰かが花を持ち出した掘り返し跡を見たときのようなそんな気分になってしまうのだ。  


2002年1月30日(水)

川崎に帰ってきた。
そしてそのためにこの部屋に憎悪が生まれる。
醜い憎悪だ。罵りと中傷。
なんでお互いここまで傷つけあわなければならないのだろう。
どうしてかつて一番大事だったものの心を踏みにじりあわなければならないのだろう。 


2002年1月29日(火)

『大男の足音によって失われたもの』 
 
 僕は夢を見ていた。バーのカウンターのようなところで僕は文章を書いていた。こんなところまで来て僕は文章を書いているのかとちょっと苦笑いしたくなった。でもそれは、絶妙の焼き具合でパン釜からふっくらしたパンを取り出したパン職人の気持ちになれるくらい、いい出来だった。それで僕は満足してちょっと鉛筆を回してみたくらいだ。(実は僕は恥ずかしいことに鉛筆を巧く回せないはずなのだけど夢の中では回せるということになっていた。)それからしばらくして僕はそれが夢だということに改めて気付いた。バス停で来ないバスを待っていて「そうか今日は祝日かー」というあんな感じの気付き方である。・・・ということは目が覚めたら、今書き上げたばかりの文章は春先にふった雪のように跡形なく消えてしまっているのだろう。どうしよう、と思った。起きてすぐこれをメモすればいいんだ、と思った。「君にできるかい」「うん、大丈夫」映画の中のヒーローとヒロインでやりとりされるようなセリフが心の中でやりとりされた。
 そして僕は目覚めた。夢より意識的に出てきてしまったために睡眠時間は四時間半くらいしかとれてなかった。兎に角、時間のことよりメモだメモ、と僕は思った。そのとき、二階から(僕は一階の和室にいた)父が丸大ハンバーグのCMに出てきた大男のようにどしんどしんという派手な音を響かせて起きてきた。小さいときからあのCMのように「ワンパクでもいい、大きくなれよぉ」を言われ続けたのだが、幸か不幸かさほどワンパクでもなかったせいか、身長だけがひょろひょろ伸びたものの結局父より大きくもなれなかったわけだが・・・。父はあの頃と同じように多忙で今日は秋田だか大阪だか忘れたが飛び回らなければならないと昨夜つぶやいていたのを思い出した。「次は仙台で会おうな」と寝る前にそう声をかけてくれたわけだけど、早起きしたおかげで一応挨拶くらいはできそうだ。「さて」と思って僕は、今まさに食べようとしていたアイスクリームがコーンからはずれて道端に落下したときのような落胆を味わった。ああーー、すべて忘れ去っている、と。


2002年1月28日(月)

『変わらない風景の意味』 

 朝から雪が舞っていた。庭先にうっすらとつもった雪に感心して「雪がつもったね」と言うと、父はなぜそんな当たり前のことをと言うのかというような不可思議な顔をしてみせた。
 母が横浜に、妹が函館に行ってしまったので、代わりに犬の散歩をしなければいけなかった。飛行靴のようなすねまである厚い靴を履き、タートルネックの上にコートとマフラーと手袋を身に纏って家を出た。犬はエネルギーが有り余っているのか鉄砲玉のように坂道を下りていこうとする。僕も足元に気をつけながら彼のスピードに合わせる。灰色の寒空から相変わらずちらちらと雪がふり続いていた。そのまま、家から歩いて十数分くらいのダムに向かった。発電用の水を取水するためのダムのはずでそれほど大きいものではない。ダムの放水口から凍てついた空気を震わせながら凄まじい勢いで大量の水をはきだしていた。これほどの水が一体どこからやってきて、ここに出口を求めるのか不思議に思った。そんな光景をしばし眺めた後、下流にある橋を渡ってダムの対岸を歩いてみた。ダムの対岸には国立病院とその宿舎用の古いアパートが立ち並んでいる。さらにダム湖をまわっていくと、スプリンクラーのまわるイチゴ畑のある農家が数軒あって、その先はもう枯れた山になっている。しかし今は冬だ。イチゴもスプリンクラーも深い雪の下に隠れ、雪の上には枯れてところどころ折れているイタドリの茎やニセアカシアの棘のある枝がのぞいている。左に半分凍ったようなダム湖、右に雪原と森閑とした山、そんな静かな風景が広がっている。道路は除雪されておらず人一人分の歩いた踏み跡がうっすら積もった雪の下に見て取れる。そこを忠実にたどるような形で前に進んだ。時々、まるで古い床板を踏み抜いたかのように、雪の中に足をとられた。ダム湖の水は完全に滞流していて水音一つ立つことがなかった。代わりに山のどこかから小さな沢水のせせらぎがする。ダム湖の張り詰めたような水の上を五羽のカモが漂っている。僕は昔、鳥についてはかなり詳しかったのだが、残念なことにそれらの名前を忘れてしまっていた。忘れ去られたカモたちは僕と犬の姿をみると、一声上げてから少し上流側の水面に飛び移った。
 畑の脇に山葡萄の蔦の絡まった落葉針葉樹が幾本か並んで立っていた。僕は昔この木のことをよく見知っていたし、まつぼっくりを工作にだって使ったことがあるような気がする。僕はこの木の名前を数年ぶりに記憶のなかから取り出してみた。そして「カラマツ」と口に出してみた。間違いない、そういう名前だ。
 犬は雪の中を兎のように跳ね回っている。その後を追いかけて林道のはじまるところまでやってきた。観音沢沿いに砥石山まで続いている傾斜のある林道である。林道ゲートの脇には「水源かん養保安林」の看板の他に、驚いたことに「熊出没注意」まであった。ここ数年、札幌でも人家のそばまで熊が出没するようになったという話を聞いていた。僕の学生時代のゼミ仲間で、ヒグマの研究をしている男がいた(そして今もしているはずだ)が、彼がヒグマにとりつけたセンサーからわかった行動圏が案外人家のそばにもわたっていたことに驚いたことがある。だから僕はこの看板に驚いた一方で、確かにいるのだろうとは思った。しかし今は冬だ。イチゴやスプリンクラーのように、ヒグマもまたこの雪の下でいつ果てるともしれない長い夢の中にいるに違いない。
 林道を登っていくとダム湖を見下ろすことができる。観音沢の水は岩盤のある急傾斜地を下りてくるため、ナメ滝状になっていて、その沢音が崖下のほうから聞こえてくる。僕はここの風景がとても好きだ。大学の前期試験で不合格がわかった日も、後期試験をどうにか終えた日もここに来て、冷たく張り付いていたダム湖を眺めたのだ。あのときからここの風景は少しも変わることがない。人は時として全く変わることのない風景に、自分の心象を映そうとする。湖面には雑木林のまっすぐな細い幹と、白く朧気な太陽が映っていた。この風景の中では太陽までもが弱々しそうだった。
 ここに災害対策用として新たに舗装道路を通すという計画があるという。この静かな風景の代わりに僕らが手に入れるものって一体何なのだろう。
 僕はぼんやりと今来た雪道をたどった。犬ははしゃぎすぎて疲れたのか後ろのほうで座り込んで一向に歩き出そうとしなかった。乾いたカラマツの梢をエナガとシジュウカラの群れがわたっていた。


2002年1月27日(日)

 昨日は夕方から大学近くの飲み屋「なると」で、ワンゲルの同期の友人二人と会った。学生時代は毎週のように来ていただけに懐かしかった。ここの店のつくねは尋常じゃないほど大きい。すっかり満悦して、街中にあるワンゲルOBのやっている居酒屋「つる」に出向く。三年ぶりに来たというのに、店の主人は僕のことをしっかり覚えているだけでなく、近況まで知りえていた。世界は狭い。カウンターで三人並びながらちびちび飲んでいたら、僕が札幌にいることを聞きつけて、ワンゲルの先輩や他大学のワンゲル仲間たちが次々とやってくる。ほとんどの人が三年ぶりくらいだったのに話が弾んだ。そのままワンゲルの先輩で今はピアニストをされているAさんらの共同生活体にお邪魔する。僕は自分がこんなに明るい奴だったかと思うほど、ずーーっとしゃべっていた。アルマジロはずっと語る相手を探していたのかもしれない。朝ソファで目覚めると、一緒にやってきた奴らは消え去っていて、ただ喉の渇きを覚えた。置手紙を書いて、雪の街へ出る。饒舌な舌も脳の言語野もすべてが冷やされていく爽快感。このまま血も心臓も頭蓋骨もすべて凍ってしまえばいいと思った。珈琲を途中で飲んで、ポカリスエット500mlを駅の柱の横で一気に飲んで、バスステーションに向かった。実家は札幌から車で四、五十分ほどの山間にあるのだ。バス停で黒コートのきれいな女性がまだ硬い芽のやなぎの枝を包んでもっていた。僕は少し迷ったあと声を出さないで「きれいですね」とやなぎを誉めた。


2002年1月26日(土)

 札幌というところは僕の内部の世界にものすごく近い場所であるようだ。それは僕の内部の世界が構築された場所であるせいなのかもしれない。いろいろなことを感じたり、傷ついたり、思い悩んだり、壁をつくったり、壊してみたり、そういう繰り返しをしている中で、外部の空気を内部に閉じ込めてしまったのかもしれない。「ねぇ僕には雪がなくちゃ駄目なんだ」
 川崎のRの和テイストの畳の部屋では漱石だの鴎外だのを読むのに夢中になったが、札幌に帰ってからは海外文学やそれに近い日本文学を読みたい欲求が強くなっているような気がする。ここにはソファがある。僕はソファに深く座って、珈琲が冷めるのもいとわずに、本のページをめくるのが好きだ。ストーブ(いやストーブとはいわないな、ファンというのか)が振動する音、冷蔵庫のちりちりという音、飼い犬の寝言(寝吠え?)、眠っている飼い猫の鼻声、そんなものを聴いて、ぼんやりと内部の世界への梯子を一段ずつ下りていくのが好きだ。
 一人暮らしをまた始めるときがきたら、クリーム色のソファを買おう、時間なんて気にせずに図書館で借りてきた本を読もう、ビデオで古い映画をみよう、がたがたの中古車を買って雪道を走らせてウイスキーとチーズとナッツを買いに行こう、ビールとポテトチップスもなんなら買ってもいい、心をこめてまっさらな便箋に手紙を書こう、ミルをくるくる回して女の子と珈琲を飲もう、そうしてアルマジロを捕まえるための眠りにつこう、いつか・・・。
 「いつか」は、過去にあったこと、そして未来に起こること。

 読書記録によると1年半ぶり5回目だという「風の歌を聴け」を読んだ。何かが変わり、何も変わっちゃいない。


2002年1月25日(金)

 乾いた冬には煩悩が頭の中でとぐろを巻きだす。文学的に言えば、僕は何かを強く求めているんだということになる。ふへぇー参るよ。
 セーターの膨らみ、れいぞうこのうなり、ストーブの温もり、足元の毛布がまくれ、カーテンをとじる、手をのばし、指の先が感じる、上気した頬、幸福なため息、つばをそっと飲み込む音、細い首筋から、鎖骨をなぞって、指先はくぼみに落ちて、なめらかな背骨が美しくて、目をとじて、近づいて、うなじをみつけて、唇、それはくちびる、そっと、つかまえるよ、かかえるよ、さわるよ、えっ、とまらない、やめるよ、やめないで、そんな、いったい、ぼくは、あなたは、どこにいくの・・・
 真夜中の雪ふる動物園で、動物たちが逃げていく。ぼくはアルマジロ一匹すら捕まえることもできない。寝ている場合じゃないんだ、ねぇ動物たちが逃げ出したんだ。

 レイモンド・カーヴァーの「夜になると鮭は・・・・」を読んだ。微妙に残るしこりのような読後感がたまらない。


2002年1月24日(木)

 ジャン・ピエール・ジュネの「アメリ」を観てきた。実はこれまで再三渋谷まで行って観ようとしながら常に立ち見の盛況で観れなかったものだ。さすがに札幌だったら余裕だろうと思ったら甘かった。二十分前くらいでもう席はいっぱいだったのだから。それには理由があって今日木曜はレディースデイだったのだ。おかげで観客の9割5分は女性。あれだけ女の人ばかりだとさすがに恐縮してしまう。
 
 僕らの周りには物が常に過剰にあふれていて、プレゼントを贈ったり贈られたりするときに物を贈ったという行為だけで満足してしまい、気持ちを込めることがおざなりになったり、気持ちを込められたことに気付かないでいることが多いかもしれない。この映画の主人公アメリはその「気持ち」を丁寧に込めることのできる女の子だ。彼女は時に自分の存在までも打ち消して、人々が本当に必要としているものをさっと差し出すことができる。そうした本当に欲しいもの、それは物ではなくて空虚さを埋めるものだったり、現実世界で生きる上で自分と世界の間の架け橋になるようなものなのだが、それを与えられたとき、人々は生きる喜びに満ち溢れる。そしてその行為によって夢想家のアメリ自身も現実世界とうまく繋がりをもっていくことができるのだ。
 ジュネ作品らしく、ぎらつくほどの原色カラーが使われて、あまりにどぎつかったり、表現的に露骨な部分が見受けられるのだが、この作品が過去の「デリカテッセン」「ロスト・チルドレン」などと決定的に異なるのは、これが人を幸福にさせることができるという点なのではないかと思う。ジュネは前作「エイリアン4」の暗い色調に辟易して次は故国フランスに帰って人をハッピーにできる映画を撮ろうと思ったということを何かで読んだが、それはまさに大成功だったと思う。この映画を観た人は自分の身近にいる愛すべき人たちを幸せにしたいという気持ちを思い出したり再確認することができるだろう。


2002年1月23日(水)

『母親』

 母が「神々の指紋」という本を取りつかれたようにソファで読んでいる。時折、本を教科書のようにテーブルの上に載せて覗き込むようにしている。夕食の用意をしなければならない時間ぎりぎりまで本に向かっていて、「あともう少し大丈夫だわ」などと時計に独り言を言っている。よほど面白いのだろう、少し微笑ましい気分にもなった。
 夕食後の団欒で案の定、母はその本のことを話題にする。母が言うところのその本の内容とは、「エジプトやメソポタミヤ文明以前に人間が現在と同じくらいかそれ以上の文明を持ちえていたことが、様々な現象や遺跡などから明らかになっている」というもの。僕は眉に唾しながらもう少し詳細を訊いてみると、南極の凍土中から熱帯の高木やマンモスや哺乳動物が見つかったことや、地軸の傾きがある周期でずれてそれによって氷河期が一定周期で巡っていること、マヤ文明の遺跡の下からそれ以前の文明が発見されていること、ナスカの地上絵などについて、話の関連を気にせずに熱っぽく話してくれた。そこで僕は待ったをかけた。
 世界のある地域において人知れず高度な文明が生み出されて消滅したということはわかるけれど、それが現在の文明より高度なものであったと証明できるものは未だ何一つ見つかっていないのではないか。もし今よりも高度な文明があれば、飛行機やそれに代わる移動能力があったはずで、文明は世界中に広がっていたから、それが見つからないということはありえないのではないか。高度な文明とは今人間が持ちえていない能力、例えばテレパシーなどにとどまるものであって、現在のコンピュータのようなものはなかったのではないかと僕は反論してみた。
 母はそれに答えて、そうした文明は跡形もなく滅んだとか、全て海底に沈んだのだとか、まるで自分が筆者のように懸命に反証してみせた。僕はそうした可能性についても科学的な疑問点を細かく追及してみると、さすがに一読しただけの母にはそれを答える力はなかった。
 さらに僕はよせばいいのに諭すような口調で、「ある一面だけ見ればある結果は導き出せるけれど、もっとそれを広い視野から検討すると、結果はそれだけではない可能性があると思うよ。物事をより総合的に判断しなければ本当の結論を得ることはできないんじゃないかな」などと偉そうに言ってしまった。
 母は自分の熱中しているものをよりによって息子に否定されたような格好になり、諦めたように流しに立っていった。それから母はつまらないことで妹と少しいざこざを起こしていた。
 僕はそれを聞いて自分が母をやりこめてしまったことを後悔した。あんなふうに言うべきではなかったのだ。それから母は居間に戻ってきて再び本を広げて、「わたしには何か巧く説明できないのよね」と寂しそうに呟いた。


2002年1月22日(火)

 90年代の日本文学を評して、「ここがアメリカだ、ここで跳べ」という評論家の優れたフレーズがあったが、それは今の実家での生活に当てはまるような気もする。
 札幌の実家がアメリカ的だと思わせるのは何によるものなんだろうか。
@まず全てのものが大きいということなんじゃないだろうか。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、食器棚、トイレ、そして家自体も。僕は帰ってからまだ二階に足を踏み入れていないくらいだ。無論他の家に比べて大きいというのではなくて川崎の1Kに比べて広いというレベルの話なのだけど何故かそう感じる。
Aそして無尽蔵にものがあるような錯覚を抱かせる。食べ物は巨大な冷蔵庫にまるでスーパーマーケットの食料品売り場をそのままもってきたように物が詰まっているし、食事の度にスプーンやらフォークをたくさんぶら下げたものがテーブルの片隅に置かれる。妹はパンにマーガリンやピーナッツバターを過剰なほどにぬっている。どの部屋でも温風が四六時中出ている上に床暖がなされている。お風呂はお湯を温めなおせないこともあるが、常に入れ替えてしまう。
B周囲のものと距離がある。家のまわりが雪に閉ざされていることもあるが、近所が遠く感じる。全てが一定の距離をおいて建っていて、それらは意思を持たない限り、合い交わることはない。妹は二階の自室にこもってばかりいる。きっとテレビでも見ているのだ。
Cまわりが全て中流で収まっている。北海道は土地が安いせいもあってどんな職業の人もある程度堅実であれば郊外に家を建てることができる。バス運転手も教師も鉱山労働者も灯油配送業でもなんでも。(東京のサラリーマンはそういうことを聞かされると驚くのだと言う。確かに驚くと思う。)そして大概の家に車が数台あってそれを交通の足に使っている。

 これを川崎の町や1Kの部屋と比較してみよう。
@部屋の広さが限られているから家具の大きさも当然限られている。そして空間自体も余剰した部分がないように見える。
A冷蔵庫のものは食べればなくなるし、ストーブに当れば灯油はなくなるだろう。すべてが細かい部分まで利用されていくような気がする。
B壁をこえれば隣人がいる。引き戸を強く引いてしまえば階下の住人のことを思い出す。そして僕は常にRと顔を合わせている。
C(少なくとも僕の目から見て)中流以上が住んでいる町なのにそこに住んでいる人たちの豊かさをそれほど実感できない。壁を隔ててお隣さんのいるマンションに住み、狭い駐車場に四駆でも停めて、満員電車に揺れて行ったり来たりすることがいいとされているように思う。

 以上の推察はあまりにどこかに偏った見方であるに違いないが、そんなことないよと笑って済ませれないような何かがある。
 僕は幸せなのか不幸なのか知らないが札幌の郊外で育った人間であってそれが恐ろしいくらいに自分のどこかをなしえているような気がする。ここがアメリカだ、ここで跳べ。


2002年1月21日(月)

 人間とは忘却していく動物なのだ。何もかも嫌になっても、朝が来ればまた太陽は昇る。そして昨夜喉元に刃のように当てられていた切迫したものたちは夜露のようにどこかに消え去ってしまう。何か切迫したものがあったら兎に角眠ればいいのだろう。朝ほど偉大なものはない。

 朝から雨模様、羽田ではあまりの強風でしばしの間飛行機が飛べ立てなかったほどだ。さすがに故郷札幌は雪なのだろうと思いきや、厚い雲の中を派手に揺れながら降下していった先もやはり雨だった。滑走路のまわりには雪が残っているものの、滑走路自体は雨に濡れて、青い誘導灯が等間隔で光っていた。
 飛行機の中でもらった新聞の道内欄を何気に眺めていて、そこにもう何年も顔を見ていない高校時代のクラスの女の子の顔をみつける。正確に言えば名前があったから顔がわかったのだが。ミス札幌とそこには書いてあった。不思議な偶然。僕は一度学校の帰り、街の本屋の前で彼女とばったり会ったことがある。偶然だったが、それ以上何も起こることのない偶然もある。つまり僕はシャイだったということだ、そして今も変わらずそうなのだけど。
 空港からJRに乗り、その車窓からひたすら外の風景を眺める。深い雪の中では家も森も隔絶されていて、一つ一つのものがあまりに寡黙だった。まるで世界の終わりのようなところだ。客車は空港から人をたくさん詰めているにも関わらず誰も一声も発さない、ただただ静謐だ。客車の天井に落ちる雨音と、時折本か雑誌のページをめくる乾いた音がするだけ。
 僕はとても札幌が好きだ。この街の空気は僕に親和していく。僕はただただそこに身を委ねればいいのだから。


2002年1月20日(日)

「迷ってる」
「何を」
「ダイアリをこのまま書くかを」
「だって素直に書こうというコンセプトでうまくいってたじゃない」
「なんか疲れた、あんまし馬鹿正直すぎるのも」
「そうやって自己憐憫していてもいいことないよ」
「うるさい」
「またそうして引っ込もうとする。まぁ何でもかんでもやめたらいいさ。それが一番楽だからな」
「くそぉぉおおおおおお」
「あははは」
「兎に角もう眠る。また明日だ明日」
「明日になってこれ都合のいいようにまた書き換えるなよ、おい」
「わかってる、お前なんかどっかにいっちまえ」


2002年1月19日(土)

 Rと恵比寿から代官山を越えて渋谷まで散歩した。この二日で渋谷周辺を一周したことになる。
 恵比寿から代官山にかけては散歩コースとしてかなり優れていると思う。路地が細かく、それほど人がいないのに、センスのいい服屋や雑貨屋などが並んでいるからだ。それにしてもしばらく来ない間に大変貌していたのには驚いた。そして相変わらずここだけは不況などどこ吹く風の別世界だ。
 僕は就職活動で本命一社だけ受けたのだが、その帰りに会社のそばにあった丘を登ってみると、オープンカフェなどがある洗練された街路になっていて、桜の季節と相まって非常にいい印象をもった。それはそのまま自分の中の東京のイメージとなった。そう、その洗練された場所こそが代官山だったのだ。今ではそれが東京の全てではないことを僕は知っている。


2002年1月18日(金)

 デートはいつだって楽しい。昨夜はどきどきして眠りになかなかつけなかったなんてことはないよ。ほんとにありがとう。
 夜はワンゲル時代の友人と恵比寿で飲んだ。僕はカッコつけることなく随分素直に話すようになったみたいだ。


2002年1月17日(木)

『ひそかに、鉄筋が組み立てられていく』 

 渋谷に出て、用を一通り済ませて、スペイン坂の下にある建物の二階に炭火焙煎珈琲と書かれている喫茶店に入った。迷わず窓際の木の丸テーブルに座ってコートを脱いだ。夕暮れ時というのに、店内は頑固に笠付きの間接照明四つで粘っているから結構暗いが、その分通りの様子が手に取るようにわかる。客は僕一人、カウンターの中にピンク色の襟シャツに黒のチョッキ(セーターというのか?)を合わせた四、五十代の女性がいるだけでとても静かだった。それに比べて通りは人と音が無尽蔵に流れ続けている。この喫茶店はまるで奔流の中洲に取り残された流木のようじゃないかと思った。スペイン坂を下りた角に新しくビルが建つようで赤茶色の鉄筋が五階分まで伸びていて、そこに60段くらいの梯子がかかっているのが見える。その梯子を地味な灰色の作業服にヘルメットをすっぽりかぶった男がゆっくりと下りていく。通りからは人の背より高い仮囲いが覆っているためにその光景は誰からも目に入らないようだった。それにしても人の流れは絶えることがない。スーツ姿のサラリーマンは何かに憑かれたように迅速に歩いていく。女子高生は探し物があるかのようにあたりを見回しながら、一歩一歩確かめるように踵を落としていく。僕にはその脇の建築現場がこの人たちの誰かの脳の中なんだという想像がふと浮かんできた。それほどに表と裏の光景が完全に遮断されていたのだ。
 街頭に取り付けられたスピーカーからラブサイケデリコの最新アルバムがひっきりなしに流れ続けている。僕は決してこのグループが嫌いなわけではないし、むしろ好きと言っても差し支えないくらいだが、こう休まることなく強制的に聞かされるのもどうかと思った。ラブサイケデリコがもしサブリミナルのような映像効果のように音に何かを仕組んでいたらどうするのだろう。僕らは簡単に洗脳され尽くすのではないか。
 ふと僕はこの音楽が人々の鼓膜に吸い込まれていく度に彼らの脳の中でゆっくりと鉄筋が組み立てられていくのではないかと思った。そのせいで僕は今すぐにでもここから走り出て、工事現場の顔のない男の胸倉をつかんで「どうして鉄筋を組み立てているのか」と問いたくなった。


2002年1月16日(水)

 時間は22時。今夜はなんちゃって酢豚と三菜炊き込みごはんと白菜のお味噌汁なのに、Rがちっとも帰ってこない。今日はバイトだったか、銅版画の日だったっけ。空腹神経がさっきからウルトラマンの胸のライトのようにピコピコと作動しだしてる。うーん、おなかすいたよ。

 「偉大なるナルシスト」という本と「異世界」という本が本屋にあったとする。どちらのほうを人は先にとるでしょう、という命題を空腹をかき消すために考えてみる。「異世界ってなんかキリスト教関係ぽい名前じゃない。ほらカトリックの宣教師が南太平洋だかどこかの島に行ってカニバリズムの現場を見て驚愕するとか・・・そんなふうな話っぽいわね。いやカニバリズムだったら読んでみてもいいかな。なんか怖いものね。バイオハザードよりは怖くないかしら。えっそういう話じゃないの。ふーん、じゃあつまんなそうね・・・」「偉大なるナルシスト、何それって感じ。なんかナルシストになるための教本か何かなの?「3分スピーチで失敗しないために」とかそういう関係の?えっ違うの。どういう本なのかしら。なんか興味があるわね。でもちょっと恥ずかしいかも。本を手に持った瞬間、知ってる人にとんとんって背中叩かれて、「何、読んでるの」って言われて、はっとしそう。思わず本を後ろに隠して、「いえいえたいした本じゃないのよ。ところで○○ちゃんは何もってるの?」と話をはぐらかせたりしてね。それで相手のもってるのが「偉大なるナルシスト」だったら大笑いよね。

何書いてるんだか・・・。


2002年1月15日(火)

 横光利一の「雪解」(ゆきげ)が素晴らしい出来だった。年若い恋愛を扱ったものなのだが胸の痛くなるような繊細な気持ちが綴られている。こういうのを読むと制服着てた十年前くらいの気持ちがよみがえって動揺してしまう。

 ワンゲルの先輩から結婚式の招待状が来たこともあり、長らくほったらかしにしていたスーツを回収しにいった。僕の所持品はほとんどが今住んでいるところではなくて、東京は町田市のかなりはずれにある。空き家になっている祖父の家の昔オヤジが使ってた部屋に荷物をおかせてもらっているのだ。
 駅をおりると、短大でもそばにあるようで、二十歳くらいの女の子がぞろぞろ歩いていく。一見華やかなようだが、風景から女の子を除いてしまえば、駅のまわりにはほとんど何もない。コンビニがあって、どうしようもない飲み屋があって、長い駐輪所とススキ野原があるのみ。
 神社の脇を上がって目指す家まで。部屋は閉めきられていて黴くさい。部屋の中には僕のダンボール箱やら布団(もう使えないかもなぁ)やら自転車やらテレビ、コンポなどでごった返している。すべて僕の昔の生活の残骸たち。残骸といっても全く古いわけではない。君主が国を追われて、君主が旗揚げするまでの間他国で草の根をかじっている家臣のようなものである。「必ずやお家は復興いたしますぞ。」そんなのを合言葉にしてここで彼らは耐えているのである。君主が立ち寄れば、「殿、殿、いよいよ念願のお家復興でござりますか」と喉元まで声が出かかるも、「いや単に衣装をいくつか取りに参った次第よ」とのそっけない返事に失望を隠せない。
 まぁ兎に角ダンボールを片っ端から開けて、ネクタイを探す。タンスの前に一つ軽いダンボール発見。上にきちんと、「タイ、シャツ」などと書いてあるじゃないか。早速開封。僕はネクタイというものをこんなにもってたのかというくらい次々に出てくる出てくる。まだあのオフィスにいたら、綺麗な女の子も見れたものをあー不憫なやつらよ。茶色のタイと、濃紺のタイを掘り出して封印。

 北京に行く途中のミニバスでフェリーから一緒だったOさんに「仕事を辞めると、これまで一番身近だったものが一番邪魔になるんですね。スーツとかYシャツを前に途方にくれましたよ・・・」「なんかそれ小説の始まりみたいだなぁ」「そうですか」

 何かが始まったりするのだろうか。いや既にもう何かが始まっているんだろうか。何が?


2002年1月14日(月)

 Rに付き合ってもらって焼肉を食べにいった。満腹神経がかなり時間が立ってから動きだしたみたいでどんどん満腹度が高まりつつある。肉を食べると肉食獣のように何か貪欲になった気分がする。生きてやろうと意気が身体の底からふつふつと湧いてくるのだ。
 焼肉を食べながら欲望のうちでどれがもっとも快感かという話になった。例えば3日眠らせてもらえないで眠った場合と、3日食事をとることができずにようやく食べれたときとか。僕は眠りではないかと思うのだけどどうなのだろう。突発的な快感となるとまた違うのだろうけれど。

 横光利一全集を読み進めている。この人、作品ごとにテーマも文体も大きく変わって驚くばかりだ。なんでこんなに広範な物事をカバーできるのか不思議なくらい。書く前の資料集めなど結構やっていそうな感じだ。今日読んだ中では「春は馬車に乗って」というのがよかった。メルヘンチックな題名だが、中身は病で死を迎えようとする妻をみとる夫の話。妻への底知れぬ愛情を感じることのできる作品だ。


2002年1月13日(日)

「感傷に浸ってるでしょ」って言われてあーそうかもしれないなって思ってただぼんやり不透明なガラス窓眺めてた。呆れ顔のRが仕事に出てった後で小沢くんの「天使たちのシーン」をぼおっと聴いていた。確かに感傷に浸って寂しくなるのが好きなのに違いない。

 一日音楽聴きながらPCに向かっていた。サニーデイサービスを聴けば学生時代を思い出すし、くるりを聴けば去年の春先の仙台を思い出す。音楽ってそれをよく聴いていたときの記憶をよみがえらせる。
 たけのこと大根のマーボー豆腐に干ししいたけと白菜のスープつくりながらミーシャ。夕食食べながらブエナビスタのサントラ。Rが満腹で眠ってしまった後にバーボン飲みながらマイルス・デイビス。悪くない。


2002年1月12日(土)

 横光利一の「寝園」を読んだ。心理描写に素晴らしい切れ味を示していた。全集くらいでしか彼の作品を読めないのはもったいないと思った。

 夜、失望を味わう。気持ちが離れていくのを目の当たりにするのは寂しい。彗星は尾を引いて遠くへ去ろうとし、残された星は深い闇の続く宇宙にむかって小さくため息をついてみる。


2002年1月11日(金)

 太陽がゆっくりと空の中心へ昇っていく時間に眩しい陽光を浴びながら、保坂和志の「揺籃」を読んだ。日常の危うさを感覚的に巧く表現している。昨日読んだ「猫」も普段当たり前のように感じている身体感覚を猫のものとすることで再度洗いなおしてみたかったのに違いない。「猫」の中で足の先に生える触毛の働きにしきりに感嘆してみせたが、彼の文章は普通人がもっていない感覚器とも言える触毛をもっているという点が優れていると言える。

 昨日から突然絵画というものが見たくなって、渋谷でやってた「ウィーン分離派」展に行ってきた。クリムトやシーレの絵を中心とした展示だった。分離派は総合美術を模索したグループらしいのだが過去のモノクロ写真をみると確かに絵や彫刻を絡めた展示の仕方に面白さがあった。しかしどうしようもないけれど、それを今回再現できたわけじゃないから結局総合美術ではなく一つ一つの作品を見るような形だった。
 中目黒でのサラリーマン時代にランチによく通っていた魚料理の店があって、そこに大きなクリムトの絵があったと記憶している。てっきりそこにあったのと同じくらいの大きさの絵があると思ってたのだけど残念ながらそれはなかった。
 いいと思ったのは、点描の絵(作者忘れた)と別展示のビュッフェの版画。点描の絵は見ていると点1つ1つが心の中の気泡のようになって、すっと胸の中に入ってきた。素晴らしい。
 帰りに前から目をつけていた細身のパンツを二点買った。Mだろうと思って着てみれば「ちょっと余りますね」で結局S。Simple is best,Small is ...。半額になっていたのは嬉しかった。
 電車降りた後、衝動的に魚買って帰る。大根おろし添えて食べていてどうしてこれを買ったのだろうと考えてみて、しばらくして何が意識に働いたのかに思い当たった。そういえば「Art of hunger」っていうオースターの本があったな。あれは「空腹の芸術」ではなくて、「空腹の技法」と訳されていたのだけど。


2002年1月10日(木)

 漱石の「道草」を読んだ。留学から戻った彼を取り巻いて身内がお金目当てにやってくるという日常を書いたもの。奥さんとの性格の不一致による不和がもう一つの主題。テーマがテーマだけあって全体的に暗い。
 保坂和志の「明け方の猫」。当世の小説家はどういうものを書くのかと興味もってとった本だったが今一。猫の感覚になってみるというものなのだが、だからといって感覚が斬新なわけでもないし肝心の主題が何なのかさっぱり見えてこない。・・・ただ書くのは大変なんだろうけれど(一応弁護)。

 旅を続けている弟がイギリスからオーストラリアに飛ぶそうだ。長く旅を続けれるということも一種の才能だろう。一体ゴールはどこになるのだろう。


2002年1月9日(水)

 現時点の持ち金の総額を計算した。一応あと半年はやりくりできそうな気がする。半年がとりあえずのリミットということ。一日一日を無為に過ごさないよう気をつけなっきゃ。自分を律しないと、とことんまで怠惰になってしまう。怠惰になりたいためにこの生活を手に入れたんじゃないのだから、しっかりやろうね。


2002年1月8日(火)

 せっかく東京くんだりまで出てきたのだからということでもないけれど、始めて浅草に行ってみた。未来永劫にわたって金銭苦を知らないであろう大きな賽銭箱にお金を投げて祈った。いつもは「美味しいものが食べられますように」とか全く当たり障りのない祈りをしている僕も、さすがに有名どころなのだからということで一年分の希望を述べてきた。
 初詣さえ済ましてもう特にどこに行くつもりもなくなって、Rと珈琲など飲んでいれば、頭に漠然と巡るのは今日一日をどう過ごすかではなくて、これからをどう生きるのだろうということ。気付いたらテーブルに「直」という文字を一生懸命なぞってる。指摘されて自分でもなんでそんな文字書いてるんだろうといぶかしんでいるのだから世話がない。目の前でそんなことされてRも面白いわけがない。自然、機嫌斜め気味になるRを見て、慌てて未来から今に戻ってくるわけだ。
 それから風強き街路をたこ焼きなど頬張りながら上野まで歩く。Rはスニーカーが欲しいらしく、靴屋を五軒以上巡った。おかげで僕のほうで欲しい靴が見つかってしまったくらい。クリーム色のスニーカー、13800円、ネバダだか何だか何の脈絡もなさそうな名前がついていた。

 漱石「野分」読んだ。お金のあるものは、道を成して金をもったわけではないのだから偉そうにするのはおかしい、という論理はまぁわかるのだが、お金に対して目くじらを立てすぎている気もした。道を成すためには金は要らない、なんて決め付けるのではなくて、お金があることでより文化というものを知遇できるという効用についても考えていいのではないかと思うのだがどうなのだろう。お金を論じなければいけないというのは結局お金に囚われているからで、もしお金に余裕があればもっと高次な物事を論じることができると思うがこれいかに。

 夜、浅草で買ってきた和菓子を抹茶たてて食べる。Rが「あなたは足ることを知っているよね」と感心したように言う。確かに逆の生き方から決別して今に至っているのだからそうなるのだと説明する。そう僕は去年もうこれ以上何もいらないと書いた覚えがある。しかし今もっているものまでいらないと書いた覚えはない。


2002年1月7日(月)

 アラン・レネ監督の「二十四時間の情事」をDVDで見た。広島の原爆は自己体験にまで昇華しなければ理解できないということを語るフランス映画。切り口は面白いけれど、どうしても見ないといけない映画でもない。
 ガイ・リッチー監督の「スナッチ」をVIDEOで見た。出世作「ロック・ストック〜」のほうが個人的には好き。カッコいい映画に違いないが、ちょっと筋が込み入りすぎていて頭のほうの理解が追いつかない。もう少しシンプルでも良かったと思う。
 漱石の「二百十日読んだ。短編ながら会話の運びが、鮮やかなショットを連発させるプロの卓球のようだ。思想的に未熟と言うことでたいして有名でもないのだろうけれど、犬の遠吠え程度で終わらせるところが逆に押しきせがなくてよいとも思う。

 夜、年賀状がきてたことに気付いて一つ一つ見ていると、なんと学生時代の同居人が結婚していた。開いた口が塞がらなくなった。
 夕食後、哀切のあるキューバ音楽など聴いて珈琲など飲んで、この世界には無数の喜びと哀しみにあふれているのだなぁと頬杖ついて物思い。


2002年1月6日(日)

 昨夜眠る前にあまりに苦しんでいる僕を見て、「救急車呼んでもいいからね」とRが言ってくれた。それはジョークではなくて本当にそうなるかもしれないと思って寝床についたのだ。
 11時間もの長い睡眠の後、身体の異変は消え去っていった。まるで台風一過の早朝、縁側に立って雀のさえずりを聞いている気分だった。身体を覆っていた湿疹も腹部の鈍痛もほとんど消え去っていった。一体あれは何だったのだろう。・・・それにしても身体(特に胃腸)が弱い。これでも体育会系だったのに。
 兎に角、嬉しいことに思考能力が戻ってきた。そしてこの脳は言うのです。「健康を保てなければ何一つできないよ」と。いくら文才があっても梶井君のように身体が弱ければ消えてしまうし、芥川君のように精神薄弱で自殺してしまったら「はい、それまで」だもの。

 文章鍛錬の場としてザクロさんとつくった「transparent」がなかなかいい感じです。ちょっと打突の要領もわかってきたかなと少年剣士は思うのです。2002年の初稽古の具合をどうぞ見に来て下さい。


2002年1月5日(土)

 原因不明のアレルギーに加え腹痛がひどい。何にも集中できない。


2002年1月4日(金)

 「銀河鉄道の夜」始めて読んでみた。宮沢賢治は考えられないほどに純粋だ。僕の純粋さみたいなものは都会に出てすっかり失われてしまったと思う。 
 
 朝から突如アレルギーになってじんましんのようなものが出てきた。なって始めて他の人の痛みがわかる。というのは昔から妹も弟もさんざんアトピーに苦しめられて大変だったのだ。弟は手相がわからなくなるほどに手がひび割れていたし、妹は一時期外にも出ることができなくなるほどだった。
 Rが帰ってきた。12時間もかかったせいでやはりお疲れ気味。やり直せるのではないかという期待は期待で終わった。まぁこんなものさ。


2002年1月3日(木)

 「ミスター・ヴァーティゴ」読了。空を飛んだ男の一生を読み終える。人の一生とはいったい何なのか途方もない気がした。
 ロマン・ポランスキーの「ナインスゲート」をDVDで見た。ジョニー・デップが古書の謎を追うサスペンスもの。音楽や映像の効果がうまく、さすがポランスキーだと感心してしまった。
 そういえば今年になってからビデオ屋の店員さんとくらいしか話していない。実家の岩手に帰ったRがしきりに電話をかけてきて、元旦に家の屋根に雉が登ってそれを隣の人が捕りにきたとか、飼い犬が土管の中にもぐってなかなか出てこないとか、母親がトンビに餌付けしているとか、弟の部屋でH本を見つけたとか、鶏を絞めたつもりで毛をむしっているときに生き返ってそれから鶏肉が食べられない人の話とか、いろいろ話してくれる。田舎は話題が豊富だなとつくづく感心する。「そちらは何か変わりないの?」と聞いてくるから、本を読んでるとか、会話文の最後に句点がいらないことを始めて知ってショックだったとかそういう話をして、あと何もなく黙っていると、「じゃあ私が盲目の人だと思って君のまわりのものを描写してよ」なんて言ってくるから、「それは明日帰ってきて自分で確認すればいいでしょ」と突き放せば何か物足らない様子。田舎は面白いのか暇なのか、さっぱりわからない。


2002年1月2日(水)

 ひどく冷たい夜だ。誰かが間違って夜をそのまま冷凍庫の中に入れて忘れてしまったみたいだ。冷凍庫の底で風が時折うなりをあげている。達磨ストーブは後ろでヤカンを載せて機関車のような蒸気を吐いているのにもうそこから一歩も動けない
 部屋の隅でパキラが凋落しだしている。1週間前くらいまでずっと外においていたせいで完全に調子を崩してしまっているようだ。以前のような勢いはなくなり、葉は完全に萎れてしまっている。春がくればきっと元通りになるよ、ってそんなこと話してみる。


2002年1月1日(火)

 新しい一日。不安というものは少しもなく僕は漫然と起き上がる。シャワーを浴びて濡れたバスタオルを窓の外の光に当てる。窓を開けると町はおせちのかまぼこのように平穏だった。全てが世界の中にすっぽりと納まっていた。
 包丁を握って、椎茸と人参と小松菜を切った。骨の付いた鶏肉に鍋でぐつぐつ火を通して、平たき餅を焼いて、お雑煮をつくった。木のテーブルに熱い椀を一つおいて正月の気分を味わった。
 
 、好きでもない伊達巻をつまみながら、大好きなポール・オースターを読む。「ミスター・ヴァーティゴ」
 僕は本屋というものがかなり好きだ。渋谷のパルコブックセンターとかブックファーストで僕は気に入った本を取り出して、これは高いけれどいい本だな、とかそういうふうに迷ってるのが好きだ。本棚には僕の見知った作家や見知らぬ作家の本たちが手を取られるのを待っている。その向こうでは作家たちが焦げつける太陽の下で、それとも何もない寒い部屋で小さな灯り照らして、僕の行ったこともない見知らぬ町の見知らぬ部屋で、これを書いたんだ。そしてそこに紡ぎだされた世界。
 僕は大晦日の渋谷で、オースターの新作を買うという欲望に抗しきれなかった。まるでショーウインドウに置かれた美しい緻密な飛行機の模型を欲しくてしょうがないようなそばかすの少年の欲望と同じように、それはとても純粋なものなのだ。
 そして夢見がちに飛行機を組み立てるように、僕はページをめくる。その向こうでオースターが言葉を捻り出して、イマジネーションの世界の中に植えつけていくのだ。
 彼が思いもつかない東洋の国で、黒い瞳と切れ長の瞼をもった青年が温かな気持ちで本をめくっていることを彼はどう思うだろう。それは作家としてこの上なく幸せなことなのだと思う。

 朝食を食べたあと、小池昌代の新詩集「雨男、山男、豆をひく男」を読んだ。中身は言うまでもなく、表紙の藤川孝之という人による装画も素晴らしい。
 僕がこの詩人を知ったのは会社にいたときだ。会社では定期的に業務に関連する新聞記事を紹介していた。例えばライバル会社の新製品の開発とか、法制度や国家予算とか、社長のコメントだとかそういうもの。僕は特に何も考えることなくそういうものをPC上で閲覧していた。そして僕が目指そうとしていた記事の横に、この詩人がある賞を受賞したときのインタビュー記事が載っていたのだ。細かな内容は忘れてしまったが、それは何か僕の胸を打つものだった。僕は昼休みに繰り返しそのインタビュー記事を読んだものだ。
 そして実際にこの詩人の詩を読んだとき、自分の中の感覚が覚醒される気がしたのだ。この詩人の言葉は空間の中に手触りをもって存在している。僕はそのざらざらとした感触を確かに味わうことができる。
 この新しい詩集には川上弘美の「日常のものを、流さないで、まっすぐに見ている。生きる希望がわいてくる詩だ」という評がカバーについている。確かにこの詩人は僕らが置き去りにしている日常の感覚を今一度その掌で握ることができる。そして「ほら、こんなにざらざらしているよ」って僕らの前に広げてみせることができる。
 
 僕が文章を書いていきたいと思ったのには、オースターや小池昌代に出会ったということが多分にあるような気がする。だから僕は彼らが言葉をうみだすように、自分の言葉をうみだしてみたい。そうして誰かに、世界中の誰にだって、「ほら、こんな気持ち」っていうのを手のひら広げて見せることができたらってそう思う。
 そう、その手がかりを掴むことが僕の今年の目標なのです。