2002年6月30日(日)

『六月の終わり、そして一年の折り返し』

 バス乗って郵便局まで行って、時間外の窓口で、メロンの箱抱えた夫婦の後ろに並んで、封筒を出してきた。どこまでも澄み渡る初夏の日差し浴びながら家に帰って睡眠不足を補うべく昼寝。transparensのザクロさんの文章に感嘆しつつ、UPの用意。そしてワールドカップの決勝戦。
 まるで六月にやっていたことが一斉に終わりを告げたような気がしてくる。明日からしばらく小説のことを考えなくてよくて、サッカーのテレビ中継の時間も確認する必要もないことが不思議なくらいだ。
 この半年の間に僕は三つの都市に住んで、それぞれの図書館に通い、物を書き、合間には旅もした。残り半年はどんなふうになるんだろう。きっと相変わらず図書館に通い、物を書き、合間には旅もするのだろう。そこは変わらない、きっと。そしてバイトでも始めて小銭を稼ぎ、一人暮らしも始めて、あるいは新しい彼女だってできるのかもしれない。あー今の僕には希望だらけだ。僕は僕の道をきっちり歩いている。ときどき休みながら、ときどき歌いながら、ときどき思いに耽ったりしながら。これは僕の道。僕の選んだ道なんだ。


2002年6月29日(土)

『目指せ!ファースト・ファール・フライ』

 6月末日消印有効で小説をひとつ出そうと思っていて、ちょっと焦り始めている。焦っていても、集中力が自分の中に津波のようにやってこないと進まないので、まぁこんなふうにダイアリつけたり、transparenceの短編(今日〆切)を読み直したりしている。
 今回出そうと思ってる文学賞は、日本の純文学を背負っていると自負する文芸誌の主催するもので、入賞→作家(書くチャンスが何度か与えられる)というのもある程度約束されているから、応募数も1500は下らないというかなり正統派&ハイレベルの賞だといえる。競争のレベルが高いから残るのは難しいし、さらに最後の1つか2つになるというのは至難の業といえばいえなくもない。(本当に突出した作品ならば、どんな審査でも関係ないという話もあるけれど)
 昨年末に寒いキッチンの達磨ストーブの横で震えながら書いた処女作もこの文学賞に出したのだけど、そのときは1次選考にすら残らなかった。完全な空振りだった。実力がないってことは半分わかっていながらもやっぱり現実を知ったときは多少は落ち込みもした。(全く落ち込まない人はいないと思う。)
 さて今回はどうだろう。中学生が主人公で話もポップな仕上がりなのだけれど、前回の作品よりはずっと進歩したような気がしている。前回は自分のそのときの状況がかなり小説にも反映してしまって登場人物は現実にのっぴきならない状況になっていて一番まともなのが幽霊という始末だった。そして結局のところ自分のための救済小説になってしまった感があった。今回は自分の内面に下りて変なものに絡まれることなくストーリーを拾いあげていけたし、話のテンポなども悪くないと思う。割と読んだ人に楽しんでもらえるんじゃないかなという手応えもある。だから、どうにかバットに当たって、ファースト後方のファール・フライくらいにはなってくれるんじゃないかと期待してるんだけど・・・。まぁとりあえず今は見直ししなきゃ。打席に立たなければ何も始まらないものね。


2002年6月28日(金)

『可愛いいということ』

 うちで飼っているシーズー犬を見るたび、可愛いということは得なことだ、ということがよくわかる。家族だけではなく、散歩に連れて行く度に、いろいろな人から「あー可愛い犬だこと」と言われては撫でられている。犬は7才、そして僕は7年間実家から離れていたということもあって、実は近所では僕なんかよりずっと犬のほうが有名だ。小学生は「ニルス(うちの犬の名前)だぁ」と駆け寄ってくる。全く見も知らぬ人たち(近所にいる95%の人)から「あーTさんちの犬かい、可愛いね」という具合だ。ひどい人になってくると、飼い主の僕に挨拶しないで、犬に挨拶していく。「こんにちは、ニルスちゃん」「またねー」。飼い主の立場がないというものだ。
 そうして犬を顧みたとき、多分この無垢な可愛さのようなものが人の心を完全に捉えてしまっているのだろうと思う。多分、この犬は好かれるということしか知らないのだと思う。きっと彼に辞書があったとしたら、そこに「憎悪」だの「嫌悪」だのといった単語は絶対に含まれないし、その概念自体も理解できないのではないかと思う。
 そうして人について考えたとき、可愛いということが(女の子の場合)どれほど有利なことかと思えてしまう。確かにちやほやされたり甘やかされたりすることで性格が歪になってしまう可能性はあるのかもしれない。しかし、どう考えても常に好意をもたれた場合に、その好意がプラスの方向に働くことは間違いないし、さらにそれが相乗効果となってその子を可愛くさせてしまうのも間違いないことだろうと思う。この議論はもうこれ以上発展の余地はない。可愛いということはそれほどに絶対的なような気がする。


2002年6月27日(木)

『簡単に手に入るものは簡単になくなる』

 輝くばかりの初夏の日差しが心地よい。西日は窓から居間の中を駆け抜けていって、テーブルの下に柔らかな陽だまりをつくっている。陽だまりのプールには、窓際のナツツバキがその分身を投影している。それは小川に映った緑陰のようにゆらゆらと動いている。庭ではナナカマドの幾重にもわたる細かな葉が、モクレンの厚ぼったそうな葉が、同じように風や光の中に身を委ねている。母親が庭の土にスコップをさす音が聴こえてくる。きっと今日買って来たばかりのラベンダーの苗でも植えているのだろう。遠くからヒヨドリの囀りが聴こえ、もっと遠く、きっと中学校のグラウンドからだろう、野球だかサッカーのボールを追い回す少年たちの威勢のいい声が聴こえてくる。北国の初夏は誰にでも優しい。僕は光を感じ、風を感じ、ただあるがままに任せる。素晴らしい季節になったものだ。
 スティーブン・ミルハウザーの「三つの小さな王国」には、もっと素敵な田舎暮らしの様子が再三描かれている。黒々と葉を茂らせた楓の木だの、川面にゆらゆら揺れる光の筋だの・・・レモネードやピクニックやワインのような愛すべき単語たち。ミルハウザーは「イン・ザ・ペニーアーケード」に続き、僕にとってこれが二冊目だ。彼の作品は精巧な手動機械を思わせる。この作品ではアニメに没頭していく男の姿が描かれている。アニメといっても一枚一枚を丹念に描いていく、宮崎方式のあのアニメーションのことである。男は新聞社の仕事から美しい田舎にある家に帰ると、毎晩毎晩、塔に閉じこもって、その豊かなイマジネーションで途方もない膨大な量のアニメーションをつくっていくのだ。丹念に丹念に。その精緻さはミルハウザーの本領といったところだ。細微に入るほど彼はこだわりを見せる、まるで登場する主人公そのもののように。読み手はただ彼の世界の中で息を呑み陶酔するしかないのだ。
 文中にこんなセリフがあった。――簡単に手に入るものは簡単になくなる――。僕らがオートメーションの中に、利便性の中に忘却されていったものたちを、ミルハウザーは丹念に拾い上げる。それは決して簡単で楽な作業ではない。しかし、簡単になくなってしまうものではない素晴らしいものなのだ。
 物を書くという行為も、インクやペンの匂い、紙の手触りを味わうといった中から少しずつ作り上げていくことが本当は大事なのだろう。僕もせめてキーボードの柔らかさ、タッチの軽妙さ、漢字変換のリズム、言葉が打ち込まれていくときの喜び・・・そうしたことを愛していかなければいけないのだと思う。


2002年6月26日(水)

『テレビピープル』

 ワールドカップの準決勝、ブラジルがトルコを下して決勝進出。決勝はドイツVSブラジルってことで順当といえば順当。韓国とトルコの勢いもここまで。最後はやっぱり技量、経験値とも高い二国が残るんだね。
 六月中はワールドカップを見ると決めて一ヶ月過ごしたわけだけど、テレビ放映した八割ぐらいのゲームを連日カバーしてしまったので、実にテレビを見る時間がいつもの月の十倍以上になってしまったような気がする。多分ここまでワールドカップを観戦することは今後ないような気がする。
 それにしても今さらだけど、やっぱりサッカーを見すぎた。もっとやるべきことがたくさんあったような気がする。この時間を読書や物を書く時間に充ててたら、もっと自分の資質というものを高めることができたかもしれないもの。そうして今は資質を高めることができるときだもの。もっと集中していかなければ。・・・なんか高校生みたいな日記だな、今日は。


2002年6月25日(火)

『図書館渉猟』

 広がる青空の下、図書館へ行った。図書館に入ると僕は熟練した狩人のようにまず英米文学の棚に向かう。他に狩人がたくさんいてもあせることはない、獲物はたんまりあるのだ。英米文学の棚、獲物の宝庫、まさに垂涎ものだ。まずは「あ」からだ。今日はアーヴィングが上下巻で控えているな。ちょっと舌なめずり。今夜持ち帰りたかったカズオ・イシグロも揃ってるじゃないか、さてどの本がいいって奴は言ってたっけ。未だに狙ったことのないヴァージニア・ウルフ。一体どんなもんだろう。おっと下を見れば、オースターの「ミスターヴァーティゴ」。はは、既においらは半年前に仕留めちまったから今日は用はないな、ふふっ。カーヴァーはほとんど狩られちまってるじゃないか、まぁいいさ、前回いい獲物に巡りあえたしな。ああ、向こうの棚には期待の星スウィフトに、堅実なミルハウザー、Hなヘンリー・ミラー。迷うな、これは。それから未だ味も知らないダグラス・ダンに大いなる獲物ピンチョンに謎のクッツェー・・・。ふへぇ。
 さてさてまだ二つ目三つ目の山が残っている。スペイン語文学、アレナスの「めくるめく世界」はさすがにないか。ガルシア・マルケス「百年の孤独」もないのか。ここは随分荒れているなぁ。次にイタリア文学。久しぶりにタブッキでもいってみるのも悪くないな。最高の獲物は「インド夜想曲」じゃなくて「供述によると・・・」らしいしな。それからロシア文学は寒そうだからパス。フランス文学も今日はいいや。文庫本コーナーの山を見ると、うわぁいきなりオブライエンの「ニュークリアエイジ」があったりするわけだもんなぁ。ひゃー。
 それから愛する同僚たちの山でも冷やかしに、なんなんだここは、相変わらず長嶋有も川上弘美も江國香織も狩られちまってるじゃないか。キャッチ・アンド・リリースの精神を忘れてるぜ、みんな。

 狩人はそれから今日の猟を終えて家に帰ってきた。今日も素晴らしい猟だったに違いない。そうさ、こうやって、ほくほく顔でソファに腰掛けているんだから。


2002年6月24日(月)

『捜索打ち切り』

 6月20日に札幌岳頂上付近で行方不明になっていたテント・ポールは、今日24日、持ち主のP氏及びその母親によって捜索が行われたが、発見されず捜索は打ち切りとなった。
 捜索は蚊さえいないような低温の中、昼過ぎより行われたが、頂上付近には痕跡ひとつ見つけることもできず、P氏は「誰か、余計なことをする何処かのおじさんに持っていかれて、今頃インゲン豆の蔓用の竿代わりになっているのではないか」というコメントを発表した。P氏は「買いなおしたらいくらするだろう」と落胆の様子を隠しきれなかったが、P氏の母は十数年振りの山登りとあって、一瞬雲の間から望むことのできた街並みに捜索のことを忘れて小学生のように喜んでいた模様だ。
 札幌では6月20日以降、雨天が続いていたが、登山届け小屋の統計から、22日、23日の週末には悪天にめげず、数人の奇特な登山者が登ったことが確認された。これら奇特な登山者がP氏の指摘する余計な行為をとった可能性は否定できないが、一方で「P氏の散らかった部屋のどこかに落ちているのではないか」という見方もある。P氏は「そんなことはない」と否定しながらも、捜索打ち切り後、未練がましくベッドの下など覗いていたとのことだ。
 P氏は今期、四年振りに山登りを再開した直後だっただけに、宿泊道具の紛失は今後の山行計画に大きく影響することが考えられる。ただしP氏の山への熱意は衰えるわけがないという見方もあり、ポールを再購入することによってP氏の経済力がますます低下することを懸念する声もある。


2002年6月23日(日)

『そういうものだ So it goes.』

 カート・ヴォネガット・ジュニアの「スローターハウス5」を読んでいる。本当なら全部読み終えてその感想を今日は書こうと思ってたのだけど、夕刻の犬の散歩で雨に打たれて、身体の調子が今ひとつになっちゃって寝込んでたのでそれは敵わなかった。今はAさんに教えてもらった生姜と蜂蜜をお湯に混ぜた飲み物を飲んで身体を温めているところ。
 話をもとに戻そう。カート・ヴォネガットの本は、去年「母なる夜」を読んで僕にとっては二冊目だ。「母なる夜」は第二次世界大戦のスパイの話だったが、この「スローターハウス5」もまた大戦の話が織り込まれている。戦争が絡んでくるから勿論人がたくさん死んでいくのだけど、主人公ビリーはそうしたものに立ち会っても「そういうものだ(So it goes.)」という妙な割り切り方をする。なぜ主人公がそんな達観したような人生観をもっているかといえば、なんと彼は時空(過去と未来)を行ったり来たりして生きることになってしまうからだ。例えば1944年にドイツ軍の捕虜になっていた状態から突然1967年に既に財をなして地方の名士となっている状態へ飛んだりするわけだ。だから彼は、常にある人といても、その人がいつ死ぬかということを知ってしまっているわけなのだ。こうした着想はなかなか面白く、悲惨な戦争や人生の悲哀のようなものも、全て自分に起きているのになぜか客観視することができるわけだ。何が起きても、「そういうものだ」と済ますことができるのだ。逆に言えば、そうでもしなければ、戦争というものをうまく描くことができなかったのかもしれない。
 この本には、村上春樹氏の処女作「風の歌を聴け」との文体での類似性を認めることができる。「風の歌を聴け」の始まりは、僕は○○から書くための技術の全てを学んだ、とかなんとかそういうふうだったと記憶している。○○というのは実際にはいない架空のSF作家だったはずだけど、もしかしたら○○に入る作家というのがヴォネガットだったのかもしれないと思わせるくらい同じような空気を感じとることができる。小説としては流れが悪くボツボツと切れていく感じ、登場人物の感情の吐露というものが少なく、「そういうものだ」的に流してしまうところ。それでいてなぜか感傷的なところ。
 そうしてよくよく考えてみれば、春樹氏が群像新人賞をとったときに、丸谷才一が「これは海外文学の影響を多分に受けている」というようなことをコメントしていて、その中にヴォネガットの名前を挙げていたような気がするのだ。
 そしてもう一つ。この本のなるようにしかならない的なドライな感覚は、ハードボイルドタッチのアキ・カウリスマキを思い起こさせる。カウリスマキの作品の中でも、どうしようもならないフィンランドの暗い現状を、「そういうものなのだ」的に主人公は受け入れるしかなかった。

 「そういうものだ」と自分の感情を対象に入れこまずに運命として突き放すことは、実は乾いた痛みを呼ぶもののような気がしている。ときどきそうした痛み(春樹氏の小説の中では喪失感のようなもの)が胸のうちから湧いてきても、それさえも「そういうものだ」とぐっと我慢して平然を装う。あーなんて痛いんだろう。そして僕はこうしたものがなぜか好きみたいだ。


2002年6月22日(土)

『標高1293メートルの忘れ物』

 部屋にこの前の山道具を広げっぱなしだったのでさすがに片付けようと思って、整理をしていたのだけど、・・・そのとき、重要なものがないことに気付いた。行きにザックの横につけておいたテントポールがどこにも見当たらないのだ。そうして記憶の糸をたどってみた。確か札幌岳のピークで朝、テントを畳んで、ポールも畳んでポール袋に入れた。朝だというのに蚊が寄ってきてうざったかった。ポール袋を脇に置いて、蚊を払って、それから・・・それから・・・そのままみたいだ。
 ふぅーーーーーーっ(マリアナ海溝よりも深い溜息)。さすがに買い直すとなると高いものなぁ。またあそこに僕は登るのか?登るのか?登らなければいけないのだろうなぁ。札幌岳へのリターンマッチ。山登りも人生も一筋縄ではいかないって。


2002年6月21日(金)

『二つの世界が繋がるとき』

 ネットの世界からリアルワールドへ出て行くことにずっと怖気ついていた。この世界の中では僕にはいかにも翼があるように見えていたけれども、リアルワールドでは重い足枷をつけていて疲れていたから。リアルワールドで重くなればなるほど、ネットの世界では軽くなっていった。実際のところ自分というものの均衡を図るために僕はネットの世界を形作っていったと思う。
 あるときから離れてしまった二つの世界をできる限り、近づけようと思った。それはリアルワールドの生き方の大転換が契機となった。面白いことだけど、実際にその転換を押し進めることができたのはネットの世界のおかげだった。多分それがなかったら僕は未だに迷路の中をネズミのように走り回っていただろう。しかし、その作業は皮肉なことにそれまで構築した幻想のようなものを壊すことにも繋がって、なかなか理解は得られなかったし、離れていく人も多かった。
 今ようやく二つの世界はほぼ一つの世界になってきたように思う。今の僕は、ここに書かれているとおりのほぼ等身大で、これ以上でもこれ以下でもないと断言することができる。
 来月はじめ、僕はこの身体で世界を繋ぐための西方への旅(というほどのものでもないか、国内なんだもの)に出るだろう。西と東の文化を融合させたアレキサンダーの東方遠征のように、僕にとって二つの世界を繋げるための旅になるのかもしれないと考えている。今、僕はその旅から何かが得られることしか考えていない。失うなんてことは考えていないけれど、もし失うことになればそれはそれで仕方がないのだろう。
 結局、世界を知るには、島田雅彦じゃないけれど、自分の脚(身体)を使うしかないのだ。僕は自分の身体でこそ世界を知ることもできるし、世界を広げることもできるのだと思う。


2002年6月20日(木)

『空沼岳〜札幌岳縦走』

 何事もステップアップ、ということで前回の近郊の日帰り登山(夏道)で復帰第一戦を飾った僕は、新たなるステップ(札幌近郊の夏道単独縦走)にトライしてみた。ヒグマに遭遇することもなく、問題なく帰ってこれたので、日高以外の道内の山であればとりあえずどこへでも夏道はひとりで行けるような自信はついたと思う。あとは意欲と時間次第かな。

 今回この山を選んだのは
・手軽な感覚で登れる。
・家から近く、交通の便が割合良い。
・7年前の冬にワンゲルの友達と縦走したことがある。
 という3つが主な理由かな。ワールドカップのゲームの空白日を利用してLet's Go!


<行動概略>
6月19日 10:00空沼二股―10:45登山届け小屋―12:10万計沼―13:00真簾沼-13:50空沼岳―17:15札幌岳C1
6月20日 6:45C1―7:45冷水小屋―9:00下山


 休日ならば登山口までバスが走っているのだけど、平日だったために手前で下ろされる。てくてく歩いて登山口。平日だからてっきり他に登山者がいないかと思ったらそんなことはなくて、登山口には数台車が並んでいた。途中で会った人たちに「いつも一人で登っているの?」と訊かれたけれど、そんなことはなくて実は二度目(一度目は冬の旭岳。transparenceの覚醒にそのときのこと、ちらっと書いた)で泊りがけは初めてだ。
 登山道をひとり歩いていると、草枕(だっけ?)じゃないけれど取り留めなく色んなことが頭に浮かぶ。登山はまるで人生みたいだと思う。普通に考えればとても苦しいし難行に近いものがあるけれど、考えようによって楽しいものになってしまうという点で。あるいは人と歩いていれば、自ずからその人のペースに合わせるけれど、一人だと無我夢中で登ってしまってペースが乱れてしまう点で。
 空沼岳の山容はあまり魅力があるものとはいえないのだが、それでも札幌近郊の中で割と登山者の人気を集めるのは、登山路中に二つの静かな沼を抱えているためだとある本に書いてあった。一つ目の沼が万計(バンケイ)沼。沼のほとりに赤屋根と青屋根の二つの山小屋が建っていて、登山者がのんびりと小屋の前の丸太などに座って談笑しているような小さな沼だ。沼を覗くと、小さな魚が冷たい水の中で泳いでいる。二つ目の沼が真簾(マミス)沼。こちらはやや広めで、本当に静かな沼だ。ひとりで沈思するには最適な沼だ。沼のまわりからは鶯を始めとする小鳥たちの澄んだ鳴き声が響いていた。
 空沼岳ピークからは天気もよく、羊蹄山やら支笏湖などが見渡せた。おむすびを頬張りながら満足することしきり。小さなシマリスが手の届くところまでやってきて、昼ごはんの余り物を欲しがる。ピーク手前の登山道で追い抜いたおばさん二人組が登ってきて、景色の見事さに歓声を上げている。おばさんたちから、お煎餅やらおにぎりを頂く。どうも僕は昔から年上の女の人から気に入られたり、物を貰ったりことが多いような気がする。得と言えば得なんだけど・・・。
 空沼岳から見る札幌岳はかなり遠方にある。ちょっと意欲が喪失してきそうな距離だ。さらに追い討ちをかけるようにこの間の縦走路の整備状況が悪すぎ。というか誰も整備していないようで、倒木はあちこち転がっているは、笹薮が路を覆っているは、足場が非常に悪いはで結構大変だった。軟弱な身体は完全に悪路に翻弄されて、腕の筋肉をひねるは、足をくじくはで満身創痍だった。甘く見ていた僕も悪いけれど。縦走路のちょうど左側からはガマ沢という沢が札幌岳に突き上げている。ここの沢、9年前に沢登りしたことあるんだけど、その名のとおり蚋や蚊の類が多い(足元にぶつかってくるくらい魚影も濃かった)ところで、縦走路もそのとばっちりを受けて飛ぶ虫が多かった。虫除けスプレーなどものともせずにたかってきて、本当にうざったかった。そして最後の札幌岳の急登はもう一挙に登ることもできなくて、休み休み登るしかなかった。
 札幌岳ピークの展望は言うことなし。誰もいないピークにテント張って、夕食食べながら夕陽を眺め、昇る月を眺め、夜景を眺め、満天の星空を眺めた。天の川までくっきりと見えるような見事な星空で素晴らしかった。目覚めれば、今度は雲海の向こうから昇ってくる朝陽。エネルギーあふれる朝の始まりに、試合から一夜明けたボクシング選手のような身体の節々への痛みも忘れて、東の空を眺めた。本当にフルコースを味わったという感じだった。
 山登りは人生みたいだという言葉は、前日の縦走路のひどさを味わっているときは「これが俺の人生か」と悲観しそうになったけれど、ピークでの素晴らしい光景を味わった後は「僕の人生ったら、こんなものかしら」などとひとり戯れる始末。朝陽が昇っていく中、てくてく下山。

どうやって注意すればいいのか悩む 万計沼 鳥の鳴き声だけが澄んだ空気に響く、真簾沼
札幌岳ピークで夕陽 陽が沈めば月が昇る 雲海より昇る朝陽
桜の開花前線がまだこんなところに 路、どこまで続くのやら うたたね、ですね。


2002年6月18日(火)

『日本、トルコに敗れて』

 今、日本中で悔しいと思う気持ちを集めてエネルギーに転換したら、トルコ・ゴールは落とせなかったけれど、西の山際でぼんやりとしている太陽だったら落とせるかもしれない。それほど見ていて、追いつくことができそうでできない歯がゆい試合展開だった。結局、ヨーロッパで活躍するプレーヤーを多く抱えたトルコの個々の経験値が日本の地力を上回ったということなのかもしれない。勝利を収めることがどんなに難しいかを痛感させられるゲームだった。
 しかし、これほど日本の国に熱気があったことは、東京オリンピックを知らない僕としては初めてだった。Jリーグ以前の黎明期の間「たかがサッカー」としか見られなかったのに、いつの間にか日本の中に定着して多くの人の関心を集めるようになったし、今回の大会はさらに新たな起爆剤ともなるものだったように思う。恐らく、この大会のあと、ワールドカップでうまくアピールできた日本人プレーヤーの海外移籍が進むのだろう。そうしてプレーヤー各自の経験値を上げることで、また四年後のサッカーが面白くなることだろう。次回は再び予選から韓国や中東の国々などと出場枠を争わなくてはいけないが、また再び日本中が熱くなれる瞬間がやってくることを楽しみにしている。
 試合が終わって一時間もたたないうちに、早くも近所の子どもたちはサッカーボールを抱えて外を走り回っている。自国開催でやっているワールドカップを見て、影響を受けない子どもはいないのに違いない。夕方、犬の散歩に出掛ける度に見たのは、僕が小さい頃のようにグローブにお気に入りの野球帽を深くかぶる少年たちではなくて、サッカーボールを追いかける子どもたちの姿だった。プロ野球は(このままだと)間違いなく廃れて、いずれサッカーがその座と完全に入れ替わることだろう。野球のことなど全く興味のなくなった僕にとってもそれは歓迎すべきことに違いない。「プロ野球がテレビで毎晩やっていたんだよ」「サッカーの試合がない日の話でしょ?」「いやいや、毎晩七時からお決まりのようにあって高視聴率を稼いでいたんだよ」「へぇー、そんな時代がほんとうにあったの?」そんな会話もなされるようになるんだろうか。


2002年6月17日(月)

『しっくりくること』

 レイモンド・カーヴァーの「頼むから静かにしてくれ」を読んでいる。この題名、かなりセンスがいいと思う。原題は「Will You Please Be Quiet, Please?」だ。直訳すればもう少し丁寧なニュアンスのような気もするけれど、村上春樹氏が訳したこの題名はしっくりくる。まるでカーヴァーの小説そのものみたいに。この本は、22の短編から成り立っている。帯によれば、――世界対する深い絶望感から 鉄の楔のように鋭く重く 既成の文学シーンに打ち込まれた 粗削りだがオリジナルな処女短編集――とある。この中の短編は他の傑作選集で既に読んだものも多くあったが、彼の小説に関して言えば、読めば読むほどに身体に馴染んでくるように思う。そうして前回読んだときにはわからなかった部分が自分の中で少しずつ理解できるようになっているみたいだ。
 始めて村上春樹氏による彼の傑作集「カーヴァーズ ダズン」を読んだとき、はっきりいってこの小説群の良さというものがわからなかった。だけど今は手に取るようにその良さがわかる。カーヴァーが書いたもどかしさややりきれなさというものをしっかりと感じ取ることができる。僕は彼の小説がこよなく好きだ。


2002年6月16日(日)

『浮気について』

 ドストエフスキーの「永遠の夫」を読んだ。実はドストエフスキーって新潮文庫の装丁のあの深刻そうな男の顔(ドストエフスキーの顔なんだろうね、勿論)が読む気を起こさせないこともあって読みきったことがなかった。家の本棚を物色していたときに、沈鬱そうな彼の顔を見つけて、「そろそろ読まねばならないだろう」という半ば義務感(まるで水道代とか電気代を振り込みにいくような感覚)に後押しされて手に取ったわけだ。本自体は弟が古本屋で買って来たもののようだ。(実際、読んだのかしら?)
 内容は、浮気を重ねる妻にくっついている夫の小物ぶりを馬鹿にしたような作品になっている。装丁も一役買っているのだろうけれど、読んでいて爽快になる作品ではなく、むしろ苦虫をつぶしたような、あるいは胆液に墨汁を注ぎ込んだような作品だ。読み終わったことに解放感を感じ取ることができるくらいなのだから。
 読んでみて思ったのは、夫婦生活というものはどちらかが一方的によりかかって相手をただ崇拝するようになってしまうと、半分破綻を招いてしまうということだ。多分相手が自分を高みに運んでくれる人間ではなく(残酷だな、そう思ってしまうこと自体)、自分にぶらさがっているだけの存在だったりすると、そりゃ確かに浮気してもおかしくないのかな。清廉潔白という美徳なり宗教観なり倫理なりで生きていくことができなければ、何かを他の人に求める(=浮気)ことだってありえるのだろうね。生きるということが既に自分というものを進歩させていこうという行為なわけだし。
 夫婦というものは、お互いに自立して、お互いを尊敬しあえるくらいが一番うまくいくのかな。僕は(なんだか最近結婚という文字は渋谷の夜空の星みたいになってしまっているけれど)まあそうするつもり。


2002年6月15日(土)

『雲の向こうへ突き抜けましたか?』

 たとえばね たとえばの話
 暇だってことにして
 飛行機に飛び乗って
 離陸を第九で飾って
 白一面を赤が突き抜けた

 これはボニーピンクの曲「たとえばの話」。白と赤のコントラストがさっと浮かぶ色彩感覚も見事。
 午後、制空権握る低い雲と緑濃くなってきた山並みを眺めながら、彼女の歌を久しぶりに聴いてみた。そこにものすごい感受性の迸りを感じ取ることができるけれど、それは知性のようなもので抑え込まれてしまっている。だから彼女の歌を聴くといつも胸が痛くなる。
 Coccoというアーティストも異常なほどの感受性に富んでいる人だった。歌っているときに、彼女の両の拳は強く握られ、まるで魂が身体から離れてしまいそうなのを抑えているような気がしたものだ。
 ボニーピンクは同じくらいの感受性をもっているのにCoccoのようにそれを極限まで飛ばすことのできない人だった。彼女の感受性は常に雲にはばまれ、出口を失って、再び彼女自身に跳ねかえっていた。彼女はいつも世界を背負って変革しなければいけないのだというような使命をもっていたような気がする。
 結局彼女は「たとえば」という仮定形でしか雲の向こうに行くことができない。たとえば、速く飛べるかも、たとえば伝説になれるかも、たとえば上手く書けるかも、たとえば誰かを救えるかも、たとえば強くなれるかも、たとえば真実になれるかも・・・。
 僕は彼女の歌の中では、この「たとえばの話」が一番好きだ。たとえばの話ではあるけれど、ようやく彼女は踏ん切りをつけて雲の向こうに突き抜けようとするから。僕はこの歌を聴いていて、そしてアルバムの中の思いつめたような表情をしたショッキング・ピンクの髪の彼女を見るたびに、こちらから手を差し伸ばしたくなる。ほら、たとえばの話なんてことにしないくていいんだよ、君には飛ぶ力があるんだよって。
 このアルバムももう数年前のもの。あれからCD屋には新作が何度か並んだことだろう。僕は今の彼女を知らない。東京にいた頃、雑誌の中で彼女が喫茶店を紹介している記事をみつけた。僕は、今年の春先、たまたまそこで珈琲を飲んだ。彼女がカウンターで珈琲を飲んでたら素敵だったけれど、そんなことはなかったよ、さすがに。
 そして今、彼女はその感受性の力のままに雲を突き抜けることができたんだろうか、と考えている。
 まだ彼女と友達になりたいっていう気持ちはある。多分、そうやって雲を突き抜けたいっていう気持ちをもってる人に底知れない魅力を感じてしまうからなのだと思う。


2002年6月14日(金)

『決勝トーナメント進出』

 日本−チュニジア戦、会場は完全にブルーの海になって北アフリカの乾燥帯からやってきたチュニジアを覆ってしまった。昨日のNHKニュースによると、会場で応援歌として使われているのはヴェルディーのオペラ「アイーダ」の凱旋の行進曲なのだそうだ。ニュースの中ではオペラの舞台も一瞬映していたが、その舞台装置が素晴らしくて是非観たくなった。あんな曲がかかる中でブルーの海に包まれたら鳥肌が立つくらいの戦慄覚えるんだろうね。すごいナショナリズムの高揚。一種の戦場といった気もしてしまう。地元の利というのはありすぎだろう。地をも揺るがす歓声と日本の纏わりつくような湿潤気候。
 試合は下馬評どおり日本優勢で結果もそのようになった。グループリーグトップの通過は非常に評価できるし、トルシエ株を大いにあげるものだろうと思う。選手を頭ごなしに抑え付けたり、鼓舞したり、あるいは人間的成長を求めていくというやり方も、彼のとったフラット3という戦術も、うまく成果を得たということになるのだろう。事実、試合後のインタビューでは、選手達はそれを本職とするインタビューア(酷いインタビューだったねテレビ朝日は・・・)なんかよりも冷静だったし、数段オトナだった。
 さて次はトルコ戦。トルコという国はサッカーでは最近になってガラタサライというチームがチャンピオンズ・リーグだかで活躍するようになったヨーロッパの中の新興国で、やっぱり強いと思う。今回の大会では先行投資にぬかりのなかったスカパー(投資のせいで実は赤字)のおかげでゲームを観ていないのだけど、旅行中にバクーのホテルで見た予選のゲームから考えると、実力は向こうのほうが少し上のような気がする。Jリーグじゃお目にかかったことのないような素晴らしいプレーを見せていたからね。そしてトルコのサッカーキチガイ的な盛り上がり。(日本の比じゃないです。)しかし、日本にはホームの利があるから互角のゲームになるんじゃないかな。とったりとられたりみたいな。今から楽しみです。頑張れ日本、頑張れトルコ。
 それから今20時なのだけど、これから韓国対ポルトガル戦。ポルトガルが圧倒的に力が上のような気がするけれど(あの美しいパス回し!)韓国には何が何でも頑張ってもらわなくちゃね。日本人はこの試合に関して、ポルトガルにも決勝トーナメントに進んで欲しいなど訳のわからない声も多く聞くけれど、共同開催なのだから迷うことなく何が何でも韓国の肩をもたなくちゃいけないと思う。頑張れ、韓国!


2002年6月13日(木)

『仮題「さようなら」』

「例えば誰かが困っているとしてその人を助けることができた?」
 主人公の中学生が先生にそう尋ねると、先生はしばし何と答えようかと考えていた。いや、考えていたのは僕だ。そこで僕はキーボードを叩くのをやめて席をたって、犬の散歩へ出掛けた。
 少しずつ月末に向けて小説の形ができ始めている。話が進むにつれて登場人物の輪郭がはっきりしだして、彼らは喜んだり哀しんだり悩んだりしている。僕は粘土細工の職人のようにその形をきれいに出して、彼らが自由に動けるように舞台をつくっている。そう書くと、スティーブン・ミルハウザーの人形使いの話を思い出した。あー、あれにはそういう意味もあったのかな。
 しかし、この作品ではある一線を越えるのはムリかもしれないと何となく思っている。やや児童文学的で恐らく手ぬるいと思われるのではないかと。
 僕はこの小説の仮題を「さようなら」として書いている。恐らく最後に名前を変えるのだろうけれど、多分この小説は何かとの決別が最後にあるはずだと思っている。それがどんな別れになるのか、それもゆっくり考えている。まるでウイスキーグラスの氷をまわすように。
 僕は旅に出る前に50枚ほど(規定枚数の半分)書いておいた。旅から帰って、出発前に感じていた純粋で優しい気持ちよりも、嫉妬だか怒りだかそういう気持ちを書きたいような気もしていた。だけど仮題「さようなら」の前半の50枚を読み直して、不思議なことだけど面白さを感じた。自分で書いたものを面白いと言うのは変だしやめたほうがいいと思うんだけど。兎に角今はこの調子で残り50枚を書くことに決めて実際に書いている。自分の中でもっともっと反問を重ねていいものに書き上げることができたらって思ってる。絶対にいいものにしよう。
 それにしても「さようなら」って素敵な言葉だ。


2002年6月12日(水)

『知性だけでコントロールなどできやしない』

 シリ・ハストヴェットの「目かくし」を読んだ。彼女は作家ポール・オースターの妻ということでも知られた人だ。作品を読むときにその夫が誰であるかということは本来ならば関係ないのだろうが、この人の文章を読んでいるとむしろポール・オースターを思い起こさずにはいられなくなってしまう。オースターが好みそうな(「ムーンパレス」にあったような)貧乏加減、彷徨、肉体的な自虐といったものがそこに描かれているからだ。ただしオースターほどの緻密さは認められない。その代わりに彼女はそこを鋭い感受性というもので補っているように感じる。ただ時として感受性がほとばしるあまり、読んでいて痛々しいものもあった。特に精神を病んで入院生活を送る場面は読むのに骨が折れた。
 ひとつ読んでいて思ったのは、自我を捨てるような彷徨や感受性の爆発したような奇異な行動は実はあまりに横溢してしまう知性の反動なのではないかということ。あまりに頭の中に物を詰め込みすぎて、生きるということを思考や知性だけに頼ろうとする余り、身体がそれからの解放を求めて、人から異常と思われるような行動をとるのではないかということ。生きるという行為は決して脳の中だけで自己完結できるようなしろものではないのだ。


2002年6月11日(火)

『研ぎ澄まされる感覚』

 道立美術館のそばにある三岸好太郎美術館に出掛けた。これまでその存在を何となくは知っていたもののなかなか足を運ばなかった美術館だ。ちょうど北海道出身の洋画家を六人(居串佳一、三岸、中村善策、松島正幸、木田金次郎、国松登)紹介するような展示になっていた。よかったのは国松登の「眼のない魚」という絵。クレーのようなシンプルで色使いのいい絵だった。眼がないからこそ、全てのものが感覚的に抽象的図形として捉えられているようだった。自分の部屋に飾ることができたらいいだろうなと思った。もう一ついいなと思ったのは、展示の一番最初にあった三岸好太郎の「大通公園」という絵。キャンバスの上半分は大きな白い雲の流れる灰色の空になっていて、そこに塔が直立していて緊張感のある絵に仕上がっている。題からいくと、その塔はテレビ塔・・・いや違うな1932年に描かれているからあれっ何だろう?んんん。
 美術館は公園のような広さをもつ知事公館の一角にあり、街中なのに緑に囲まれて静かな空間になっている。展示を見て外に出ると、敷地内の白樺の木が油絵のように見える。あのバターナイフのような画具ですっと直線を入れたような印象。
 絵をひとしきり見ると、感覚器が研ぎ澄まされて、世界がまるで絵の一部になってしまったかのように錯覚できる。その瞬間、世界は新鮮な驚きに包まれる。いや世界は始めから驚きに満ちていて、単に僕がその色を形を時々感じ取りやすくなるという話なのかもしれない。


2002年6月10日(月)

『楽観論者につける薬はない』

 以前書いた短編小説を見直していて、自分に描写力が少しずつ備わってきているような気がした。これが通信添削講座だったら、描写力2→3にUPなどと評価されるかもしれない。描写というものは、たとえそれがフィクションだとしてもあたかも自分がそこに立ち会っているように、現実よりも現実らしく書く必要があるということをようやく悟ってきたように思う。頭の中だけじゃなくて書いているときの身体感覚としてね。自分をその場所においてみて、音を、匂いを、肌なでる風を、空気の色彩を感じ取らなくちゃいけないわけなんだ。
 そしてもう一つ少しずつ力がついてきているように思うのが、会話文の呼吸のようなもの。これは多分アメリカ文学の翻訳文の文章にすごく学ぶところが多いみたいで、読んでいる最中に「なるほどこうやるのか」とかなんとか唸っているうちに少しずつ自分の中に取り込まれつつあるようだ。
 ・・・まぁそんなわけで少しずつ進歩しているんだと誤解でもいいから思えることは大事だと思う。眠い夜にもこうやって踏ん張ってダイアリ書いているのも考えている以上に意味があるのかもしれない。さぁ月末に向けて、そろそろエンジンかけて書き出そう。自分に発破。


2002年6月9日(日)

『神威岳登山』

「かつて自分のそばにあり今はないもの、なぁーんだ?」こんな質問を藪から棒にされたら、人はちょっと思いをめぐらしてみるだろう。それは若さかもしれないし、夢かもしれないし、あるいは恋人かもしれない。
 かつて僕を悩ませるほどに嫌になるくらいそばにあって今はないもの、その一つの答えは「山」だ。それを聞いたら人は「なぁーんだ」と言うかもしれない。でも年間百日くらい山に行ってたんだよ、って言ったらどうだろう。「そりゃすごいかも・・・」そんなふうに思うかもしれない。僕は学生時代、年間百日は山にこもり、下界に下りても毎晩毎晩ワンゲルで出される山行の審議に付き合って、仲間の山行の進め方、天気判断、遭難対策・・・を論議した。だから僕の昔の脳を解剖したら間違いなく山の等高線やら天気図の等圧線などでいっぱいだと思う。
 三年前札幌を去る寸前にワンゲルの同期の奴と登ったのが札幌近郊の山だった。二月ということもあってピークに張ったテントには冷気が満ちて、寒さのためになかなか眠ることができなかった。
 それから上京して僕は山登りなどする時間と体力的な余裕がなくなってやめてしまった。しかし札幌に戻ってくれば、以前の山仲間たちが放っておいてくれるわけがない。GWに山小屋へ行って、僕の復活は間近だった。インドシナの旅から戻ってくればメールが来て「どう、山に行かない?」と早速お誘いが。もう迷う必要もない。時間も(筋力も体重も落ちたものの)体力だってあるだろう。さあ、行ってみよう。
 今回行ったのは札幌近郊の山、神威(カムイ)岳。学生時代は沢登りか冬山といったスタイルで登り続けていたため、実は普通の夏道歩きというものをあまりしたことがなかったので、ただ道沿いをたどればピークに着くという登り方は新鮮でもあった。カムイとはアイヌ語で確か神を意味していたと記憶している。山頂部が岩崖で囲まれていてまるで小要塞のような山容をしている。
 朝から晴れ渡り、仲間とのんびり歩を進めた。眼下には静かな水面をたたえるダム湖をのぞめた。細い山道をてくてく登って二時間半でピーク。見晴らしは想像以上によく、周囲の山々や札幌の街並みを望むことができた。帰りは最後の林道に出たところで雨に摑まったがそれさえ楽しく思えた。こんなのんびりした山歩きも悪くないと思えた。そうして復帰第一戦は終わった。さて次はどこに行こうか。

樹林内から見た神威岳。よくわからないですね。 なんとなく空など撮ってみたり

2002年6月8日(土)

『Striking colors make me be at a loss』

 窓を開ければ涼しげな風。しかし、昼の間、家の外壁を塗っていたこともあってペンキ臭がひどい。身体にいいとは言えないような匂いだ。
 外壁は白から黄色になった。この配色は僕の趣味ではない。シンプルでややもすると淡白とか怜悧だとか揶揄されそうな色彩や配色が好きな僕にとって、かなりのインパクトを与えるような黄色とこげ茶色(屋根)の配色はどう考えても受け入れがたい。「僕の趣味ではないけれど、お金を出すのは僕じゃないから」意見を訊かれる度に僕はそう答えたために、両親もなんとなく引っ掛かっていたようには感じる。ただ両親の配色の好みは僕とは明らかに違って、割合自己主張の強いものを好んでいる。家の中の家具の選び方など見るとそれは一目瞭然なのである。色をつかさどる遺伝子はきっと親から子に受け継がれていくものではないのだろう。
 夕刻、犬の散歩に出て家に戻ってくると、ちょうど家の前に両親が出てきたところだった。そうして家の色を眺めて、何か言葉を発せないようだった。さすがにこれだけのインパクトのある色は両親にとってもその想像を超えてしまっていたのだろうか。例えば、寵愛してきた娘が連れてきた男が今ひとつ自分の意にそわないような人だったときに、それをどうにか受け入れようとする気持ち。そんなものが感じ取れた。ただし、恐らく今は違和感がある配色もあっという間に受け入れていくことができるのだろう、少なくとも両親にとっては。
「国道の坂を下る途中に手打ち蕎麦屋があるから、そこを右折して住宅街に入ってまっすぐきてね。少し入ったところに黄色の消化栓をもった黄色の家があるから。それがうち」
「いや絶対わかるよ。明らかに目立つ家だから」


2002年6月7日(金)

『私的ワールドカップ景気』

 税務署に確定申告の修正を求められて久しぶりにバスに乗って街の中心へと向かう。ハンコ押せば「4万円ほどお返し致します」だって。わおっ!
 大通り公園周辺は外人だらけ。そう今日はイングランドとアルゼンチンの一戦が夜に札幌のドームで行われるのだ。外人の数と比例曲線を描いて多いのが警官。あらゆるところに警官が並んでいる。街の通りに地下街、地下鉄、トイレの入り口、そして地下鉄車両には私服警官が無線で何やらやり合っている。どうやら北海道中の警官が札幌に集結しているらしい。これなら問題も起きなさそうだが、逆に旭川や函館あたりは警官が少なくてかなり手薄になっているんじゃないかなと思う。賢い金庫破りはこの日を狙って地方都市でしかけるでしょう。と言っても、「オーシャンズ11」のクルーニやブラピやらをはじめとする集団がここにいるような気もしないし、大体不況のどん底のこの島にお金はないのかもしれないけれど。
 僕もお金はないのだけど、臨時収入の勢いで、靴とローリンヒルの新譜買っちゃった。そうして今聴いているところ。すごい親近感の湧くアルバムに仕上がっている。全てローリンのギターひとつの弾き語りで、曲間には彼女が語りかけてくれているんだから。だけど英語・・・そろそろ打開しなっきゃね。


2002年6月6日(木)

『革命と社会主義のキューバ』

 遠くカリブ海にあるカストロの社会主義国家、アメリカにとっての目の上のたんこぶ、そんなイメージしか持ち合わせていなかったキューバについて、映画、音楽、文学などが紹介されるようになったのはつい最近のことである。冷戦構造の崩壊ととも黒いベールのかかっていたものにようやく陽の目が届くようになったのだろう。
 二年前の冬、渋谷で『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』というライ・クーダのキューバ音楽探訪(うっタンポウじゃなくてタンボウだったんだぁ・・・)の旅についての記録的映画を観たのが僕にとってキューバへの初めの一歩だった。それから映画のサントラ版を夕食のときに好んでかけたりするようになってキューバ音楽への愛着が高まった。そして去年の晩秋にルルさんに勧められて観た作家レイナルド・アレナスの自伝的映画『夜になる前に』。映画の出来はよかったのだけど、ゲイについての余りにオープンな描写が僕には受け入れ難く、映画の感想もそれに準じたものになった。しかしそれが作家の表現というものへの興味を押しとどめるものではなかった。
 本屋ではよく見かけていた彼の本を図書館の棚に見つけたとき、それを借りるのを躊躇う理由などなかった。その本、レイナルド・アレナスの『ハバナへの旅』は全く内容も文体も異なる三つの短編から成っている。
 一つ目の話は革命後に社会主義が浸透し始め、混乱していく国の中で服に全てをかける夫婦の話。これは僕にとっては読むのに努力を要するような話で暇じゃなかったら多分途中で投げ出していただろう。僕は多分この話を深く読めなかったのだとも思う。
 二つ目の話はキューバからアメリカに亡命したプレイボーイの青年が魔性のような女と出会い、身を滅ぼしていく様を描いたものだ。この話は僕にとってはかなり面白いものだった。というのは、魔性のような女というのが、ダ・ヴィンチの「モナリザ」の中から抜け出してきた女だったのだ。一月前くらいに僕はムンクの絵の女を題材に短編を書いてみたけれど、それと対比させることによって、否応なくこの作家の力量というものを知ることができた。しかしモナリザが夜毎に美術館を抜け出して淫奔な性交にふけっているなどという想像力は一体どこから生まれてくるものなのか。そうして勿論それは芸術と人という構図だけではなくて、国を失った者(亡命者)と何か(何だろう・・・ああ、そこまで深く読めていない。何だろう?)を対比させているのだろう。
 三つ目の話は性犯罪によって追放させられて結果的にニューヨークで暮らす男が、社会主義下で閉塞してしまったキューバへ観光旅行という形で訪れる話である。この話、ほとんど改行されずに書かれているものだから息をつけなくて読みにくいったりゃありゃしないのだけど、この話こそキューバの抱えていた社会的な問題がすんなりわかってくるものだった。そして文学的テーマにも富んでいてなかなか読ませる。アイデンティティを失い更には自分というものを見失って生きる主人公が再び目にした祖国は完全な社会主義の管理下にあって、記憶に刻まれていた祖国とは全く異なるものであり、彼は落胆を隠せない。しかしそこで会った美しい若者との性行為から若き日の自分を取り戻すことができるのだ。最後にはオチもつくこの話は非常に読み応えがあった。主人公は若者と身体を重ねた後に悟る。生きている実感とは、危険のない安寧した生活から生まれるのでなく、危険極まりない冒険から生まれるものだと。


2002年6月5日(水)

『甘い夜のために』

 ローリンヒル聴きながら、ウイスキーのロックを飲みながら、夜
 とても懐かしくて大好きな時間
 今にも夜の中にこの身体はとけていきそうだ
 そして甘い音楽になって世界を喜びで満たすのだ

 アフリカの奇妙な太鼓の音
 切ないアルゼンチンタンゴ
 あるいはゴスペルやソウル
 夜のリズムをつくる素敵な音たち

 ほら目を閉じて
 僕が連れて行ってあげるから
 ほらその手を差し出して
 僕が夢の世界まで案内するから

 音楽が聴こえだしたら
 ゆっくり手を広げてみるんだ
 それから微笑んでみて
 世界はいつだってこんな形、こんな空気、こんな音


2002年6月4日(火)

『ふわふわと浮いているだけで、どこにも行けない』

 カチアートを読んだ後、角田光代の「東京ゲスト・ハウス」を手に取った。旅から帰ったばかりということもあって、題名に何ともいえない魅力を感じて借りてきた本だ。作者は大学の文芸科などという作家の育成コースを経ている僕より八つ上の女性だ。
 読み始めて、いきなりその文体と描写の軽さにとまどう。ベトナムからパリへの旅の中にのめりこんでいた身体から突然重力が失われて、足が地を捉えることができなくなったように感じた。それはテーマが突然戦争問題から漫然と生きている日本の若者の問題へと転換したためなのだろう。そうして少ししらけたような気になってページをめくっていたのだが、そのうちに実はこの本を覆う軽さというものが実は僕にとってはベトナムの重さよりも重要な問題のように思われてきた。
  この本では、アジアの安宿(ゲストハウス)を巡っていたようなバックパッカーたちが、帰国しても東京という場所に安宿のような空間を再現してしまうことによる倦怠感と閉塞感を描いている。旅から帰ったはずなのに、相変わらず帰ることのできていないような生活を続けているために、日本における目標や将来というものさえあやふやになってきてしまうのだ。そうして考えてみれば、何もそれはバックパッカーだけではなく、実はそれ以外の目的意識の不明確な日本の若者に敷衍できる問題なのである。
 しかし、それは軽さ自体を問題としているために、問題に深く切り込めば切り込もうとするほど、小説自体もふわふわと足場を失って浮いてしまって空中分解してしまう危険性を孕んでいる。問題が小説そのものを飲み込んでしまう可能性があると言えばわかりやすいだろうか。軽いものは問題であって、小説が軽いと言われては元も子もないからだ。角田さんはそこをどうにか浮かしすぎないように小説を進めていくのだけど(まぁそれが作家というものの力なんだろう)、結局それは着地する方法も見出せず浮いたままで終わってしまう。エンディングで主人公が流されずに踏ん張ろうとするけれど、それは踏ん張ったほうがいいのか?という自問くらいで終わってしまうのだから。結局、全てはふわふわと浮きっぱなしなのだ。ふわふわと浮いていること、それが日本の若者の切実な問題なのだ。そんなことティム・オブライエンが聞いたら冗談だと思うかもしれない。


2002年6月3日(月)

『小説世界が広がっていくこと』

 ティム・オブライエンの「カチアートを追跡して」を読んでいる。ティム・オブライエンは彼の処女作である「僕が戦場で死んだら」を以前読んだのだが、三作目となるこの作品では小説世界に大きな広がりを感じる。処女作では、彼がベトナム戦争の中で感じたことを哲学的に考察していくという内容だったが、読者のことよりも自分の中で戦争をどう消化すればいいのかというところに焦点が強すぎたきらいがあったように感じた。それがこの作品では戦争体験をしっかり噛み砕いた上に、まるでファンタジーのようなストーリー性に富んだものに仕上がっている。この作品は1978年同年にアメリカで発表されたジョン・アーヴィングの「ガープの世界」を抑えて全米図書賞を受賞したというが確かに同じように(どちらがとってもおかしくない気はするけど)優れたものだと思う。
 この作品、実は舞台がベトナムだけにとどまらない。ベトナムからラオス、ビルマ、インド、アフガニスタン・・・そして最後は多分パリまでの冒険小説のエッセンスが入っている。戦場であるベトナムからどんどん離れてしまうことで、戦争とは直接関係しない価値観の中に身をおいていくことによって、むしろ戦争の意味が多角的に理解することができるように感じた。例えば、脱走兵カチアートを追ってきた兵士たちがテヘランで会う現地の軍人に対して戦争の目的(大義)と兵士の意識を論じているところなんか面白かったけれど、これがベトナムだけが舞台だったら、対話方式にはできないから同じものを一人称で述べたりすると独善的なものにしかならなかったと思う。
 また、ストーリー性だけではなく、情景描写が巧いし読ませると思う。ティム・オブライエンという人はベトナム戦争というものを経由したために戦争が主題になるのであって、もしそうした経験がなければまた違うもので書くことができたのではないかと思う。そして処女作によってベトナム戦争文学のような分類箱に押し込まれそうになったところを、溢れるようなイマジネーションで自らその箱自体を思いもかけぬ方法で広げたことは素晴らしいことだし評価できると思う。


2002年6月2日(日)

『ワールドカップ中毒』

 今回のワールドカップはもう嫌になるくらいまで試合を観ようと心に決めて、ひたすら見まくっている。今日は後半からものもあるけれど、三試合チェックした。今まで観た中ではアルゼンチンの戦力が一番充実しているような気がする。それぞれのプレーヤーに力があるし、それがチームとして有機的に組み合わさっているように思えるからだ。バティ、オルテガ、シメオネ、ベロン・・・。サビオラに出番が与えられないほどの戦力ってすごいと思う。やっぱり優勝候補に違いない。
 イングランドはどうかなぁ。なんか今ひとつエンジンがフル回転していないような気もするけれど。そうして観ていても何だか応援する気にならないんだよなぁ。なぜかスウェーデンのほうを応援したくなるから不思議。
 ドイツはすさまじく強かったね。ドイツってゲルマン魂だけの老いた集団なのかと思ったら、結構戦力も若いし十分上位を狙えそうな布陣だね。それにしてもサウジアラビア。あんな点差になったらちょっと哀しいよね。歴史的大敗だものなぁ。これで他のチームにも大差で負けたら間違いなくアジアの次回出場枠は一つ減らされるんじゃないだろうか。
 ということで本命アルゼンチン、それを堅実すぎるイタリア、人材の宝庫ブラジル、勢いに乗ってドイツあたりの争いになると見たけどどうだろう。それからトルコが結構上位に食い込むんじゃないかと思うんだけれどどうだろう。日本は地元の利で決勝トーナメントまで這い上がってブラジルに1-0くらいで負けて、「惜敗」とかなんとか新聞に書かれておしまいじゃないかな。


 

2002年6月1日(土)

『自画像』

 僕が旅に出た翌日から家のリフォームが始まって帰ってくるとかなり終わりかけのところだった。その間、家の中は随分と混乱を極めたみたい。「お兄ちゃんはずるい」とは妹の弁。僕もずるいと思う。リフォームに合わせて、とっておいた物の整理も始まって、今日はなんと高校の美術の時間に描いた油絵が出てきた。それも自画像ときたものだ。もう十年以上も前の話だけど、僕はその絵を描いた当時、自分を描くということに照れというものがなかったように記憶している。あの頃は自信に満ち溢れていたし、自分のことをある意味、高貴な生きもののようにも感じていたように思う。夜、勉強机に向かいながら窓にうつった自分の顔によく微笑みかけたくらいだ。
 今、改めて僕は自分の自画像を描けるかというと、描けるだろうが気が進まないというのが本音だ。写実的に描くなんて気もおきず、適当に抽象化して誤魔化しちゃうかもなぁ。
 久しぶりに陽を当てられた高校時代の僕の自画像はしかしながらどことなく暗い。バックは黒と青だ。肌には不安気な緑色がところどころに滲んでいる。僕はいつも明るかったと思うけれど、それはその歳くらいの人はみんなそうなのだろうけれど、やっぱり不安の錯綜する中でもがいてもいたんだろう。
 僕は抽象化して誤魔化すことを覚えた。それが生きてく中で得た僕なりのやり方なのかもしれない。