2002年3月31日(日)

 NHKの村上隆と奈良美智の再放送の番組を見た。昨夏、ふたりの展示は東京圏で大々的に行われて、本当はそのとき見に行けばよかったのだが、結局見逃して(居逃して?)しまって、今頃になってテレビなんかで見ているわけだ。
 奈良さんの作品の中では頭でっかちで感受性の強そうな子どもの絵のモチーフが再三使われているが、まずあれが僕の幼少時代にとても似ていることから始めから何となく親しみをもっていた。僕も小さいときあんなふうに、頭でっかちで目が大きくて、まわりのものに対する感受性というものがとても強かったのだ。そのため外面に過度の感受性をもち、それでいて内面から裸のままの感情が表出している子どもの絵が、非常に心を惹く。最近、非常に興味をもっているアーティストのひとりだ。
 番組の中では奈良さんの作品の製作過程も取り上げていた。奈良さんはまず真っ白なキャンパスの前に立って、そのとき湧き上がってくるイメージをキャンバスの中に自由に描きこんでいく。始めから明確なイメージがあるわけではなく、一種のインスピレーションを待ちながら、少しずつ輪郭を形成していくのである。そうして10時間もたった頃にようやく全体的な輪郭が浮かび上がってきていた。アーティストというのはあーいうふうに描いていくのが普通なのかもしれないが、僕の目から見て非常に感覚的なものだという感想を得た。論理的に構築していくわけではなくて、自分を過度に対象に集中させることで一種のトリップした状態をつくりだして、自分の内面とキャンバスというものを直接的に繋げる作業なのだと思った。奈良さんの友人に吉本ばななという作家がいるのだが、彼女の作品はまさにそれを文学的に体現したものであるのだなと改めて思った。
 ただ僕自身はそうしたトリップ状態から感覚的に表現するという手法には今のところ懐疑的である。懐疑的というのは否定という意味ではなくて、単に感覚に委ねすぎないで論理的に文章を書きたいという気持ちが現時点では強いのだ。というのは、感覚というものには自分の思考というものが反映しにくいからだ。僕にとって今のところは自分の思考を体現・模索することが中心で、感覚的な表現というものはそれを補うための二次的的なものという捉え方をしている。

 ただ僕の目指すやり方とは別に、やはりアートとして奈良さんの作品は素晴らしいと思う。受け手の心の中にきちんと入っていく作品というものは本当に素晴らしいと思う。あーいう人が身近にいたりすると、ものすごく刺激を受けるのだろうなと思う。だから、吉本ばななとの交友関係なんかは羨ましい。
 それから奈良さんと村上さんの妥協のない製作風景、集中力というものは見ていて驚いた。やはり表現者たるもの、完全にそこに没頭し、作品に対して妥協しないというのは大事だと思った。
 今回のインタビューはピアニストの中村幸代さんがされていたが、表現というものを生業としているふたりのやり取りは非常に興味深かった。やはりインタビューというものは相手から一方的に何かを引き出そうとただ力を入れるのではなくて、相手に対して尊敬の念をもち、互いにインスピレーションを与え合うようなものであるとき、非常に面白いものになるのではないかと思った。

 ・・・とまとまらぬまま色々書いたが、兎に角刺激を受けたのでした。


2002年3月30日(土)

 昨夜は父親が残業、母親と妹が飲み会に出掛けて、ずっと僕一人だった。一番社会に接点をもって遊びまわってもいい歳である僕が家に残って犬や猫の面倒を見ているのは不思議な気もした。結局、夜遅くまで起きていたにも関わらず父と妹の帰宅に立ち会えれず、逆に朝起きると皆またそそくさと仕事に出掛けてしまった。
 そうして夕方になって、母と妹の会話。
「あなたは朝まで誰と遊んでたの?」
「ともだちー」
「ともだちの誰?」
「誰だっていいでしょ」
(以下聞き苦しいので再録しないけれど)
 まぁ妹も最近信用が日本の国債くらいに落ちつつあるから追及されるのも仕方ないわけだけど。こういう口喧嘩を耳にすると、あー僕も家族と生活しているんだなと思ってしまう。・・・それより君、家ばっかりいないで誰かと遊びにでも出掛けたら。・・・うーん四月になったらそうしようかな。

・・・原稿チェックやってたら日曜日の朝になっちゃった。なんかこれって状況が修士論文のときと似ている。
それにしても長編のほう、見直す度に誤りが出てくる。文章もちょっと付け足していると、あっという間に5枚10枚増えちゃうし。もう少しチェックの仕方考えてやればよかった。大反省。封筒に入れたから、あとはバスに乗って大きな郵便局に行けばOKのはず。


2002年3月29日(金)

 一日中、家でパソコン向かってた。残り3日、見直しするよりも、新しい文章を書きたい欲望が大きい。はっきり言って見直しするのはかなり面倒くさい。ものをつくる人が細かなヤスリをつかって微妙な凹凸をなくすような作業だからかな。今見直しているのは長編の青春小説と、メルヘン的なイチゴの話(HPにUPしてるもの)の2つ。長編のほうは原稿用紙330枚くらいあって一読するだけで大変。最初は純粋な青春小説にしようと思ったのだけど、面白いと思った始めのテンポも長く続くと緩慢になってきてしまって結局恋愛の要素を入れざるえなかった。恋愛というのは随分と流れが変わって話も面白くなるけれど、最初考えてた主題からややずれてしまった気がする。そのうち100%恋愛小説みたいなのも書いてみたいな。とりあえず来月はパラレルに進行させるようなファンタジー小説を書くつもり、楽しみ。イチゴの話を母親に読ませたせたことによるサブリミナル効果か何かわからないけれど、連日のように母親がイチゴを買ってくる。本当に美味しいですね。


2002年3月28日(木)

 深夜にサッカーの日本VSポーランド戦を観た。最後まで観ると2時をまわっていて、試合後にトルシエ監督が「こんな遅くまで試合を見てくれた日本人の皆さんに感謝する」だの言ってって、そうか普通のサラリーマンはこれを観ている訳にいかないんだと改めて気付いた次第。そういえば1年前までは深夜のサッカーはビデオに録って朝早く起きて観たりしてたんだっけとなんだか懐かしくなってしまった。
 この試合では海外チームにいる選手が招集されて活躍したわけだが、彼らの顔を見ると海外でひとつひとつのハードルを越えていっている自信のようなものが感じられてよかった。あーいうふうに筋肉質に生きていくのも悪くないんだろうな。


2002年3月27日(水)

「手相占いというものについての個人的見解」 

 

 積み木を積むように過ぎた何の変哲もない一日だからというわけでもないけれど、今日は手相についての話題。
 僕はこれまで生きてきた中で手相を見られることが割合多かったような気がする。僕から行くのではなくて、向こうから彼らは現れて「手相をみせてくれ」と言うわけだ。無論、それを職業としていて潤っているような人も、趣味でやってる人も、全く知識もなく当てずっぽうで言ってる人もいろいろといるわけだが。
 ただそうして見てもらってわかったことは、結構手相というものから、健康の具合、仕事の具合、恋愛の具合、性格などを読み取ることは可能であるということだ。だからと言って、僕はそれほど手相には興味はない。勉強したところで僕には読み取る力は備わらない、ということを言いたいのではなくて、手相読みから得られる結果というものが自分という人間を越えることが決してないからだ。
 もっと詳しく説明してみよう。例えば、旅から帰ってきてRが教えてくれたことには、僕の手に「旅人の相」がはっきりと浮かんでいるということだった。さて、それを聞いた時、僕は旅から帰ってきたばかりだから当たり前だと思った一方で、今後も旅に関わるような生き方ができるのではないかと喜んでみたりした。このとき、よく考えて見なければいけないのは、「旅人の相」があるから僕は旅に関わるわけではなくて、もともと僕が旅というものに関わり続けたいからそういう手相が表出するのではないかということだ。
 つまり、僕が言いたいのは、手相は先天的なものではなくて、むしろその人の心情などを反映した後天的なものだということではないかということだ。不健康な手相の人は不健康な暮らしをしているために相にも異常をきたしてしまうのだろうし、金銭を得ようと努力している人には必然的に金銭的な線がよい兆候を示し出すのだろう。旅が好きな人に、旅人の相が強くなってくるのと同様に。
 すなわち手相師はその人の現在の状況を見ているにすぎない。さらに現状を鑑みて将来を予測するにすぎない。それはなんら経済学者と変わるところがない。不良債権の処理がもたついて構造改革が進まなければ、この先景気が回復することなどないと予測することは簡単だからだ。
 僕は深夜のカイロ空港でギリシア人の裕福な手相占い師に会った。彼はこれからモロッコへ行くところで僕は帰国途中でお互いに暇で、世間話の延長からじゃあ手相でも見て下さいということになったのだ。そこで、いろいろ予言されてショックを受けたりもしたのだが、今考えればそれは僕が生きようと思っている道に対して延長線を引いたにすぎなかったのだろう。彼は、今の恋愛は終わるだの、金には困らないだろうだの、結局孤独のままで生きていくだの、今あなたが描こうとしている幸せは手に入らないだの、あなたは怒るとき人を嫌いになっていくだろうだのいいことも悪いことも織り交ぜて好き勝手に予測をしていった。それに対して喜んだり哀しんだりするのは意味がない。それは始めから僕という人間に備わっていたものだったのだから。
 だから僕は手相占いを信じるけれど、それを重大視することはこの先ないと思う。僕の生き方や考え方が変われば手相なんてものは変わってしまうものだから。


2002年3月26日(火)

 木田金次郎展を美術館まで観にいってきた。木田金次郎という人は北海道の岩内という漁村で漁師として生まれ画家を志した人だ。ぼくはこの人の名前を知っていてその作品をずっと見てみたいと思っていたのだが、美術に造詣も深くない僕がどうして彼の名を知っていたのだろうと内心不思議に思ってもいた。多分、街中でアンケートしたら10人に1人くらいしか知らない知名度の低い画家だと思うからだ。
 展示を見て、その疑問がとけた。有島武郎の「生まれいずる悩み」のモデルになった画家だったのだ。僕はこの作品を10代の頃に読んだと思うのだがそのときの記憶がしっかりと残っていたようだった。木田氏は結構太い筆づかいをするひとで、タッチが力強く、特に波や岩崖といった自然の風物を描くときにそれがよく現れていた。羊蹄山など北海道の山の絵もなかなかよかった。彼も画家としては最初から順風満帆(どうでもいいけど、マンポだとずっと思ってた、マンパンね。はぁ、またショック。。)ではなくて、画家に専念するようになったのは30歳をすぎ、有島氏が亡くなったときだったそうだ。そして60歳のときには台風による火事でほとんど全ての作品が灰燼に帰してしまったらしい。そのときに彼は「これまでの作品はどうせ習作だ。これからが本番だ」と言ったらしい。すごいなぁ、この生き様。

 川上弘美(作家)と小池昌代(詩人)という素晴らしい取り合わせの短い対談を発見しました。書けてしまうことの危うさ、について語っているところが僕的には面白かったです。本質があれば器はどんなものだって選ぶことができる一方で、器がどんなに魅力的でも本質のないものには意味はない、そういうことだと思います。
→WEB新潮・波2002年1月号


2002年3月25日(月)

 仙台の家が引き上げということになって、向こうの荷物がどっとやってきたせいで家中すごいことになってる。電化製品とか全て二揃いあったりする。大きな冷蔵庫が二つ並んでいるのとか若貴並ぶ花田家みたいで結構壮観。夕方になっても荷物が片付かず、母親は半分さじを投げ出したいような顔をしてみせる。折角、父親も休みをとっているから、回る寿司でも食べて気分転換でもしたらとその気にさせて、連れてってもらった。回る寿司も札幌のは東京と違って美味しいのです。そして僕はほたてが好きなのであります。はー、幸せ。


2002年3月24日(日)

 NHKで江國さんをゲストにしてモネ展の様子を紹介していた。睡蓮池という対象を突き詰めていくというモネの観察眼に驚いたし、それに比べて自分の観察眼というもののおざなりさを恥じ入った。始めから自分の脳に蔓延っている常識というものに捉われて、こういうものだという風に決め付けてはいけないし、どんなときでも対象への観察眼を緩めてはいけないのだと思った。対象と厳しく向かい合ったときに始めていろいろなことがわかってくるような気もした。晩年の作品では睡蓮池にモネの心情が投影されるという、いわゆる心象風景的な絵画になったのだという。結局、ほとんどの風景画家(表現者)というものはそういうものなんじゃないかなと思う。
 江國さんは非常に感覚的な意見を言っていた。しかし、この人って結構落ち着きのない人なんだなぁと思った。自分の意見を言ったあとできょろきょろまわりを見渡しているし・・・。時折見せる笑顔は、とても素敵だ。今井美樹の笑顔も好きだけどこの人の笑顔も好きだなあと思った。何かまもってあげたいという気持ちがこちらに起きてしまう。それはこの人の作品にも共通していることなのかもしれないが。それにしても売れっ子の作家というのは大変だと思う。あらゆる文芸誌への投稿にインタビュー、それに畑違いの分野でのテレビ出演などこなしていたら本当に身がもたないんじゃないかなんて思ってしまう。確かにこうしてテレビに出てくれば、読者は彼女の興味のもつものを共有したいと思うから世界も広がるだろうけれど、本当は本業にじっくり取り組めるような環境にしてあげたほうがいいのだろうと思う。
 来週は奈良美智さんと村上さんを取り上げる(以前の再放送だと思う)そうなので楽しみ。最近、奈良さんの展覧会に行きたい願望が強まってるんだよね。多分かぐや姫が月に帰りたいと思う気持ちより強いかもしれない。巡回している展覧会(今は確か芦屋)がいずれ旭川にもやってくるというから見に行かなっきゃ。

 ・・・その一方で、最近僕の中で道祖神がわめきだし始めています。かなりまずい傾向だと思います。世界地図広げて、どこに行こうなどと考え出している。どどど、どうしよう。


2002年3月23日(土)

 Lauryn Hillの古いアルバムなんか聴きながら文章打っていた。なんか文章のリズムまで変わってしまいそうだ。昔買った時はさほどいいように思わなかったのだけど、今はこのリズム感やソウルフルな感覚がとても気持ちがいい。この系統の音楽、全然詳しくないのだけど、誰か詳しい人いないかな。CDとか貸してくれないかな。

 ジャズ・ピアニストの先輩の小さな車で一緒に山小屋に行ったことがある。車の中にかかっていたのはジャズ。それまで車の中では普通のポップスしか聴いてこなかった僕にとって、とても斬新で不思議な感覚がした。でもそういう新しい感覚というのは大事だと思った。
 グルジアの乗り合いバスでカズベギという、ロシア国境(チェチェン)に近いカフカス山中の村を訪ねたことがある。これまでお目にかかったこともないようなスケールの違う山が広がっていて、まるで自分が小人になってしまったような気がした。村に入ったときに車から流れていたのはエニグマ的な(エニグマだったかもしれない)音楽だった。あれほど音楽がぴったりと来た瞬間はなかった。間違いなく先の旅行で僕の最も感動した瞬間のひとつだった。

 あーなんか誰もいないどこまでも続く雪原か荒野を車で走りたくなってきちゃった。エンジンとか故障しちゃったら、もう誰も助けてくれそうもないようなそんなところがいい。もう極限的に自分と大地しかないようなそんなところがいい。僕には、ここには何もない、というのは、そこには自分しかない、ということと同義だと思えてしまう。そういうのってスバラシイと思う。


2002年3月22日(金)

 夕方、犬と散歩をしていて、突如自分が27才であることを知る。
 僕は自分の価値観をもって、ここにいる。
 だけどそれは普通の人の価値観とは見合わないものに違いない。

 ときどき僕を気に入ってくれる人がいる。
 17才の僕は気に入ってもらえることが当たり前だと思っていた。
 27才の僕は気に入ってもらえることが当たり前だと思ったりしない。

 ときどき僕は人のことを気に入る。
 17才の僕は人のことを気に入ることが当たり前だと思っていた。
 27才の僕は人のことを気に入ることが当たり前だと思ったりしない。

 人は成長していく。
 そして少しずつひとりの意味を知るようになる。
 27才は僕に与えられた称号などではなくて僕そのもの。


2002年3月21日(木)

 祖父の友人のお孫さんが僕の母校(大学)に合格されたそうで非常におめでたいのだが、なぜか家探しを手伝う羽目になった。普通、本人なり親なりが来て家探しするものだと思うのだが、例外もあるというわけだ。朝9時に祖父が車で迎えにやってきて一緒に大学に向かう。大学生協の家探しコーナーで紹介されたマンションを2つ見て、そこから決めた。立地条件はすこぶる良い、なんといっても大学の正門前。部屋の窓からは大学構内が良く見渡せる。横断歩道の信号のタイミングさえ合えば1分以内で構内に入れる。さらに札幌駅まで歩いて2分くらい。横が東横イン、裏にも違うホテル。さらに徒歩一分のところにミニシアターあり。これ以上いい条件があるだろうか。家賃管理費込みで5万5千円。東京と比較すると格段に安いが、札幌では高い部類だ。こんな部屋に住んでたら帰省とかしたくなくなるだろうね、と祖父と話す。しかし、自分の住む家まで見知らぬ他人任せじゃ、お坊ちゃんのままだよなとは思う。生協の受付の女の人も、血縁関係にもない人が家探しをしていることにびっくりしていたもの。待ってる間、その女の人になんとなく好意をもって、ケータイ聞かれたのにフケータイで番号すら覚えていなくて少しお馬鹿さんだった。
 家探しには祖父の昔の学友?も一緒だった。この方も僕と同じ大学同じ学部の出身者なのだ。目が見えないということだったが一般の人とほとんど変わらなかった。森鴎外の孫の話やら、大学構内に鮭が上がってきた話やらいろいろ拝聴する。昔の人らしく非常に学問を積まれたということが話の端々から伺えて面白かったが、普段話す相手に飢えているような印象も受けた。「朝起きると、まだ生きていることに毎日感謝するよ」という言葉がなぜか心に残った。
 夜、三谷幸喜という喜劇作家にスポットを当てて、舞台を演出していく過程から、彼という人間を裸にしようという番組があった。喜劇作家であるがために、取材のカメラが回っている間も機知でウィットに富んだ人間であるかのように見せていたようとしていた彼も、舞台の初日が迫ってくるにつれて、そうした余裕がなくなってむしろ彼の人間らしさ、舞台への切実な思いというものが表出してきたところが興味深かった。人間というのは、追い込まれていくことでより才能というものが鋭く発揮されていくこともあるのだ。


2002年3月20日(水)

 小さいときからまわりに人がいたりテレビがついても問題なく勉強することができたし、今だって同じように文章を書いたりすることができるのだが、どうも自分の集中力というものが思っている以上に低くなってしまうようだ。明らかにまわりでガチャガチャ物音がして、誰かがすぐ話しかけてくるようなところでは、文章(思考)そのものが深いところまで下りずに表層をさらうようなものにしかなっていない気がする。さらにイメージの喚起も僕の場合、ぼんやり頭を空白にしている状態からとめどもなく湧いてくることが多いのだが、その状態になかなかなれない。当たり前のことをいまさらながら確認。・・・そして家の中で居場所さがし。


2002年3月19日(火)

 妹が始めての海外旅行から帰って来て、さらに家の中が賑やかになる。なんか女の人って死ぬまでずっと機関銃のようにしゃべり続けることができるんだなと感心。妹と祖母をテーブルの対面にして二人の話(スペインの話と僕の知らないどこかのお年寄りの話)をひたすら聞く。数年前まではこうした話も半分馬鹿にしたようなところがあって聞く耳ももたなかったのだけど、・・・少しは僕も成長しているようだ。


2002年3月18日(月)

 街に出てみることにした。バスで30分揺られて最寄の地下鉄駅まで出てさらに20分かかるから大体1時間500円程度の行程である。要するにうちは札幌市という名前を冠しながら田舎なのだ。帰るにはいいところなのだが、出ようと思うと不便きわまりないところ、それが田舎だ。
 地下鉄駅のそばの区役所で諸手続きを済ませて、札幌駅のそばで安いA4プリンターを買った。プリンターの入った箱をぶら下げた瞬間、もうどこにも立ち寄ることができなくなってしまった。(順番を考えて買い物するんだった!)そのまま駅からバスで帰る。バスの後ろに卒業旅行か何か知らないけれどハタチくらいの女の子の集団が陣取っている。それもこてこて関西弁。それを聞いていると、学生時代に戻ったような気がしてくる。関西人の友達が結構いたし、何より関西人と共同生活もしてたから。最初のうちはがやがやしてた女の子たちも、ローカルバスの暖房と長さに音を上げて、戦時中の買出し列車の人たちのようにいつの間にか眠り込んでいた。

 僕はもともと文系人間じゃないこともあって世界文学というものをこれまで意識して読んでこなかった。罪と罰、カラ兄、戦争と平和、南回帰線、赤と黒、白鯨、死せる魂、武器よさらば、女の一生、八月の光、魔の山、城・・・全て読んでない。ということで少しはその牙城を崩そうと思って、「アンナ・カレーニナ」に着手。400ページ超の上中下巻にやや恐れをなしていたのだが、読み出してみると案外面白い。こんなことなら、もっと早く読んでおくんだった。まぁとにかく当分はアンナ・カレーニナとともに生きることになりそう。よろしくアンナさん、お手柔らかに。


2002年3月17日(日)

 朝六時半に起きて犬の散歩に行く。昨夜からの雪で世界は白銀の世界になっている。木々の枝先には雪が凍てつき、山々は白く輝いている。とても同じ国のどこかで桜が咲いたり梅が咲いているなんてことが想像すらできなくなる。僕らの前をふさふさした尾をもつエゾリスが走っていく。林の奥からはアカゲラやヤマゲラの声が聞こえてくる。ヤマゲラというのは青緑色をしたキツツキで本州にいるアオゲラの亜種なのだ。鳴き声はまるで貴婦人の甲高い笑い声といった趣。言葉にすると「ホォッ、ホホホホホホ<デクレッシェンドする>」というふうになるかな。小学生のときから慣れ親しんだ鳴き声なのだけど、なんかすごい久しぶりに聴いた気がした。そうこうしているうちに冷気が工具のノミのようにして頭蓋骨の隙間から入りこんできたのか、こめかみに鋭い痛みを感じた。
 トゥーサンの「カメラ」という小品を読んだ。散文調なのだけど、フランス人らしいエスプリが随所に散りばめられているのかなと思いきやそうでもない。単に日常の描写に終始する。しかし、何か捉えどころのないものが残っていく。そして流れがあまりに単調なのに何かが奥でさらりと述べられているから、読んでいて全然関係ないイメージが湧いてきてそれが気になって途中から本を読んだりイメージをメモったりということになってしまった。ただ現時点では完全に理解しえない。気軽に読める本だからまたいずれ読み直してみたい。


2002年3月16日(土)

 実家に住むのは大学2年以来だから、ちょうど7年ぶりである。だから、常に家族がいて、犬やら猫やらがそばに寄ってくる環境というのがこれから当分続くことは不思議な気さえする。
 うちはずっと所謂核家族で、親戚縁者の住むという九州からも関東からも離れた札幌という土地に長らく住んできたため、ずっと親戚との交流というものをしたことがなかった。祖父祖母との交流も元旦にお年玉が送られてきて電話で年始の挨拶をして、数年に1回顔を会わせる程度だった。そして7年前に僕がこの家を出たのと入れ替えに、父方の祖父と祖母がわざわざ東京からこちらに引っ越してきた(だから東京に空き家があって利用することができるのだ)。ここ数日は祖父が出掛けてしまったので、祖母が家に泊まっている。こうして長いときを経てようやく今になって、僕は祖母と一日中顔を合わせて交流をはかることになっている。とはいえ、共通の話題というものがかなり少ない上に、祖母の耳が遠いこともあり、一方的な聞き役だ。祖母の記憶にある僕の面影は幼少のものや、ときたま会ったときのものしかないわけだから、それを何度も語りかけてきたり(が、よくわからない。まるで知らない人のことを話されているよう)、戦後の物不足の話や(神妙に聞く)、近所の高齢者の話(うんうん聞く)、健康食品の話(なんとなく聞く)、僕の知らない姪っ子の家族の話(ただ聞く)などが繰り返される。祖母はよほど話し相手というものに飢えていたのかどうか知らないけれど、朝起きてから寝るまでほとんどずっと話している。それを僕と母親二人でひたすら聞く。
 そうして話から一旦下りて、パソコンをいじったり、サッカー中継を見ていたりすると、やっぱり若い人は違うねということになる。
 なんだか僕にとってはこういう生活が不思議でならない。三世代家族というものはこういうものなのだろうか。そうしてソファに座ってノートPCを膝におくと、犬が寄ってきて、母親が新聞を横でめくりだすという生活から考えると、先月のほとんど誰とも話さない生活のほうが実は得がたいものだったんじゃないかとも思えてくる。


2002年3月15日(金)

 デビット・ゾペティの「いちげんさん」を読んだ。そう言ったら、くくくっ、と誰かは笑うんだろうか、僕だってこういう風の吹き回しになるなんて思ってなかった。古本屋で見つけて解説を見たら、この作品がある新人文学賞の過去の受賞作品であることが記載されていて、どれくらいのもので目の前の壁を越えていけるのか、それをちょっと確かめてみたくもなったのだと思う。
 この人の文章の魅力は、日本人でもなかなか書けなくなってきた日本的な文章にあると思う。和的な官能を描く部分は素晴らしいと思う。一方で、この人の文章はかなり村上春樹の影響を受けている。(春樹氏はもともと英語からこの文体を見つけたはずで、それを日本語を母国語としない人間が取り入れたことは何か不思議なものも感じる。)文中、面白いレトリックも使ってくるが、やや舌足らず的な印象も受ける。そうしたレトリックなしにも、この作品は十分に成り立つし、案外ないほうがすっきりしていいような気もしてくる。どちらにせよ文章そのものは、もっと練ることができるかなとは思った。(僕には無論言う資格はないけど)
 内容は、京都への憧れをもってやってきた主人公が、外面的な差異のせいで京都(日本)の閉鎖的な社会に受け入れられない日々と、その一方で彼を視覚的に認識できない盲目の女性との恋愛を対比的に描きだしている。そうして結局彼は街に受け入れられないことに諦めて、世界に見切りをつけて恋人すら捨てて出ていこうとするのだが、ややその部分に未熟さを感じられないこともない。コミットできないことを、外部のせいにしてそこからただ立ち去っていくだけでは進歩はないと思うからだ。どんなものだって捨て去ることは簡単なのだから。彼は文中一度も表題のいちげんさんという言葉を使わない。しかし、結局全ての結論として、自分がいちげんさんにすぎないことを認めてしまっているのだ。そして、自分でいちげんさんということを認めたが最後、それは相互理解の道を完全に絶つことを意味してしまうのではないかと思った。 


2002年3月14日(木)

「世界で一番好きな土地」

 上京して3年、川崎と仙台を行ったり来たりして、とうとう札幌に戻ってきた。
 今年の2月1日に梅咲く川崎から裸の木々のうなる仙台にきた。そして仙台にようやく梅の花が咲き出した今日、さらに北を目指したわけだ。予想していたとおり、飛行機の上から見る大地はところどころ枯れ草が覗いているものの雪で覆われ、白く凍りついていた。地平線は冷気のせいで霞んで見えず、そのまま空との境界もなく雲となっていた。雲の上に光るのは半分凍ったような太陽。はりつめた冷気の中で太陽は抵抗しつづけ、冷たい橙色の光を放っている。太陽から飛行機の窓への直線上にあたる大地に光が反射している。
 空はあまりに広すぎて、どんなに叫んだところで誰に届くこともない。大地はただただ凍りついて、人々の希望もその中に封じ込まれてしまいそうだ。だけど僕はどうしようもないくらいにここが好きなのだ。


2002年3月13日(水)

「グレイス・ペイリーを読んで考えたこと」

 本屋さんにはそれこそたくさんの書籍、小説が並んでいる。どの小説家も誰かに認めれて本を並べることができるようになる。人に認められるといっても、自分のまわりの数人とかそういうレベルではなくて、全人口の100人に1人か、1000人に1人かそこのところの確率は知らないけれど、大多数の人に認められる必要が出てくる。そうでないと商業的価値という網の目からは落ちてしまう。商業的価値はないけれど文学的価値があるという作品は本当にごく一握りだし、そういう本は売れないから広い本屋の本棚の隅っこに意味もなく置いてあって意味もない埃をかぶっているに違いない。
 僕は、今日中にどうしても今読んでいる本を読み終えて図書館に返却しに行かなくてはならなくて(明日この街を出るからだ、多分永久に)、朝からグレイス・ペイリーの短編集に取り掛かってお昼前に読み終えた。しかし、この本は僕の趣味に全く合わなかったし、こういう短編を書くくらいならばたとえ世に認められるとしても、僕だったら書かないほうがましだなと思った。(理由はあとで話す)
 たとえば、この短編集の中の1つでもこっそり新人向けの文学賞に送ったとき、果たしてこれは認められるのだろうか、と僕は疑問に思った。きちんと最終選考の場に残った5つなり10なりの作品群に混じることができて、世の中で小説家と呼ばれる人たちが読んで「面白いなぁこれ」って呟いてめでたく受賞して出版されたりするのだろうか。どんなものだろう。小説(artと言い換えてもいい)というのは棒高跳びとかスピードスケートとかとは違って客観的な評価のための尺度というものを有していない。だけどそこに評価を下すためには、結局それを読んだ人にとって意味があるかどうか(またはもう少し押し広げて、他の人が読んだら意味がありそうかどうか)というかなり主観的な評価をせざるえない。そうしてその主観的尺度はその人の育った環境とか社会にある程度は規定されていることは間違いないだろう。(例えば、イスラム世界で、キリスト教についての賛辞を書いたものはそれがどんなに素晴らしいとしても受け入れられるものではないだろう。)
 そうしてグレイス・ペイリーという人を考えたとき、この人はある特定の思想をもつ人たちの中でしか支持されないものじゃないかと思うのだ。具体的に言えば、既存社会に対して抗議することに意味を感じている人たちだ。例えば、フェミニスト、環境保護論者、人権保護論者、反戦論者に反核論者、・・・(これは偏見ではない、僕はそういう人たちの必要性もよくわかっているつもりだ、身を投じるつもりはないけれど)。彼女はアメリカのある特定の人たちからは熱烈な支持を受けているという。つまり、そういうことなんじゃないかな。
 僕はこの人の作品を読んでみて、(あくまで個人的な感想で誰にも押し付けるものではないけれど、とまず断っておくが、)この人の書き方というのが、何か自分の気に食わないことが起こると、それを全て他のもののせいにして、自分自身にどういう問題があるかについて把握することをしていないように思った。僕はなんか生理的にも受け付けなくて読むのに難儀したのだけれど、「父親のとの会話」という短編は割と面白かった。この短編は、高齢でベッドに倒れている父親と娘(作者)の対話から、彼女の持つ問題点というものが、彼女の小説の書き方から明らかになっていくという話だ。そこでは彼女自身が抱えているものを父親の指摘という形で見直そうとする姿勢を見せるからだ(結局はフタをしてしまうが)。
 訳者・村上春樹氏は(当たり前だが)好意的に書いている。彼女が素晴らしい文章家であることに触れた上で、― この世界とこの文章が、誰にでもすらりと受け入れられるとは思わないが、受け入れることのできる読者には、きっと強く深く受け入れられることだろう。 ― と述べている。(僕は村上春樹という作家がなぜこれを訳す必要性を感じたのか不思議に思いもした。彼の小説世界とは全く異質のものだと思うのだが・・・。)・・・勿論、この小説の意味を否定するつもりはないし、ある人にとってはものすごく意味があるということもなんとなくわかるような気もする。結局、受け手いかんなのかもしれない。僕がオザケンやサニーデイが好きな一方で、中島みゆきや長渕や矢沢やらがどうしても受け入れることができないのと同じように。
 そうして僕は受け入れる、受け入れない、価値がある、価値がないというものが、一体どこから生まれてくるものか、どういう意味をもつのか、考えざるをえなくなったのだった。


2002年3月12日(火)

 この前、本屋で日本映画雑誌を立ち読みしていたら、映画評論家による昨年度の邦画ランキングが載っていて、そこに「ユリイカ」と互角に競い合って高い評価を得ていた作品があった。金城一紀・原作(直木賞受賞作品)、行定勲監督の「GO」だった。そして今日、ようやく見に行ってきた。結論から先に言うと、かなり面白い、間違いなく僕の今年見る映画の5本指に入ることになると思う。在日朝鮮人についての映画なのだが、民族問題を越えてむしろ自我というものがどうあるべきかというところまで踏み込んでいる映画だ。自分というものが何者なのか、そして社会の中でどう生きるべきなのかを逃げることなく捉えた作品に仕上がっている。原作、監督、脚本の良さもあるだろうが、それを演じている窪塚洋介が素晴らしかった。端正な顔立ちではあるが、彼の良さは外面に備えられているものよりも内面にあるように思った。非常に骨があり、芯というものがある。そこに呼吸をする魂のようなものを感じる。家に帰ってから、SWITCHの2001年11月号に載っている彼の言葉を読み直してさらにそれを確信してしまった。彼は、普段誰もがどうでもいいよなんていうふうに流し去ってしまう価値観というものを一つ一つ見直して、そこから自我を探求しようとしている。そうした作業は、現代の中では実はとてもカッコ悪いことのように思われている。しかし、そんなことに耳も貸さずに、そして外面というものに安住せずに、敢えてカッコ悪いことをしようとする姿に、僕は快いほどのカッコよさを感じた。彼が自分のスタンスを崩さずに今後どのように自我を探求し続けていくのか非常に興味があるし、見続けていきたいと思う。兎に角、若手アクターの中で最も期待できる人間だと思う。
 映画のほうは、冒頭の疾走感のあるコマ撮りなどが非常にいい効果を上げていた。行定監督の作品は始めて見たが画面にスピード感や緊迫感、力強さを与えるのが非常に巧いように感じられた。
 原作のほうは窪塚くんが演じた主人公の描写が良かったし、在日朝鮮文学というものの枠を完全に打ち破った面で評価できると思う。ただ、柴咲コウさんの演じた女性の描写が弱いかなぁ。それは作者が男というところで仕方ないところもあるのだろうし、それならどうしたらいいかと言われたら僕もよくわからないけれど。柴咲さんはどうにか恋人役を演じていた。実はあそこの役がこの映画の穴にもなりそうなところだったし、演じた柴咲さん自体がリアルな感じがしないほどに綺麗な人だということもあって、そこから全てが崩れる可能性というものがあったが巧いこと映画の中にはめ込むことができていた。しかし、あまりに綺麗だと、根底に流れている映画の根幹が相対的に弱くなってしまう可能性があるのだなと思った。二人きりのシーンとか、もう少しUPとか使って、画面を意識的にざらつかせて汚くしてもよかったかなと思う。どんなものだろう。
 とにかく、お勧め。

 メディアテークで以前僕の心を捉えた写真集をもう一度開いてみる。畑になぜか置き去りになっているソファ、何もない雪道、狭い二階建ての家の窓に並んでいる顔・・・、見ているだけで自分の中にイメージが植えつけられて僕の中のイメージと相まって膨れていきそうな感覚がある。これ「Northern」という写真集(写真家はさっきまで覚えてたのにまた忘れちった)。写真の強力なイメージがいとも簡単に僕の中に受け入れられていくのかが不思議だったのだけど、後ろのほうの荒木氏との対談を読んでみて理由が少しわかった。この写真、どうやら北海道で撮ったものなのだ。そして冒頭のほうの川の写真に懐かしさを感じるなと思っていたら、その川は僕が学生時代よく川下りに通った空知川(富良野市周辺を流れる河川)だったのだ。写真家はどうやら北海道育ちらしく、そのために彼が何かを感じる風景というものは、同じような環境の育ってきた僕の胸にも何かを感じさせてしまうようだった。

 今日はそんなこんなで表現というものの奥深さをいろいろと考えさせられた一日だった。


2002年3月11日(月)

 最近、僕は米というものを食べていないことに気付いた。食べているのは朝と昼がサンドイッチ、あるいはうどん、夜がパスタ。そして珈琲をたくさん。合間にクッキーや伊予柑。そんな感じなのである。
 マスタードをきかせて、パリッとしたレタスとキュウリにチーズを挟んだサンドイッチが美味しい。パリパリパリ。そうして珈琲をごくり。
 夜はバターでしめじと椎茸と冷凍庫で凍りっぱなしになっていた鶏肉を炒めて、そこに賞味期限の二日過ぎた牛乳と余った粉チーズを入れて粒胡椒をよくきかせて、ホワイトソースのスパゲティ。かなり適当に作った割に美味しい。そしてこういう濃くてくせのある味には、珈琲があう。
 それにしても何か料理というものを基本から習いたいなぁ。NHKの料理番組で「はいあなた、これ切って」とかいいようにおばちゃんからこき使われる男性役をやりたい。・・・とか書いて、「明日からどうですか」なんてNHKから依頼の電話がきたらどうしよー・・・・・・。大丈夫、絶対来ないから。

 風が強くて一日中家の中で、ものを書いたり、グレイス・ペイリー(村上春樹・訳)の「最後の瞬間のすごく大きな変化」を読んでみたり。短編小説集なのだが、うーんどうかなぁー。まだ全部読んでないけれど、話の軸がしっかりしていないような気がするし、何かおばさん的視点のこせこせした人間描写が多すぎるような気がするなぁ。あんまり言えた分際ではないんだけれど・・・。


2002年3月10日(日)

 夜、NHKでパウル・クレーの絵の魅力を谷川俊太郎が解説していた。クレーは、物事のありのままの姿ではなくて、その裏に潜む本質を描こうとした画家だということだった。(確かワイエスも同じようなこと言ってたような気がする。結局絵というものは表面だけをなぞるものではないのだろう。)谷川さんはクレーの絵の詩画集も出されているから、特にクレーに対する思いいれも強いのだろう。ひとつひとつの絵に対して、的確な言葉で感想を述べられていて、表現の深さと彼自身の観察眼に驚いてしまった。最後にクレーの絵から想起したという「青」についての詩を朗読されていたが、それも素晴らしかった。
 しかし表現というのは奥が深いと思った。アートは別世界というふうに認識しないほうがいいと思った。言葉による表現も絵画による表現も根底ではそれほど大きな違いがないのかもしれない。僕はなんだかとてつもなく大きな世界に向かおうとしているのだなぁと見終わったあとでため息まで出てしまった。アートに対して、表現というものに対して常に敏感でありたい。


2002年3月9日(土)

『パラレルワールド』 
 
 目覚めてしばらく布団の中でまどろんでいたら、ある確かなイメージがいきなり下りてきて、それが頭の中に住みついてしまった。それはまるで山の向こうからある日やってきたクマのように、僕の頭の中で川で魚をとったり苔の匂いを嗅いだりしている。いや正直に言ってしまえば、それは確かにクマなのだ。仕方なく僕はgoogleでヒグマをキーワードにして検索をかけてみた。そうして僕が2月末に帰ったときにダムのそばにあったクマ出没の看板が多分立てられる契機となった11月のクマ出没についての情報までみつけてしまった。
 そんなふうに朝から僕の頭の中ではもう一つの世界がパラレルワールドして進行しだしていて、そこにはクマがいたり、市役所の税務課に勤める地味な青年がいたりするのだ。僕は珈琲を飲みながらパラレルワールドのことを思い出している。いやパラレルワールドの想像が珈琲を飲ませるのだろうか。・・・そんなことはどうでもいいから、さっさとこれを物語にして吐き出そうっと。
 最近、頭の中が二重構造になってきたような気がする。まるでナルニア物語とか、ツバメ号の冒険だのに夢中になって空想ばかりに身を委ねていた少年時代に戻りつつあるのかな。
 スティーブ・エリクソンの「Xのアーチ」をようやく読み終えた。途中で他の本を読んだりしたから随分と時間がかかった。最近のアメリカ文学というのは虚構世界の構築というのがひとつの流れなのか何か知らないけれど、訳者の柴田元幸氏の言葉を借りれば、超誇大妄想的な話だった。多分作者の狙いなのだろうが、虚構世界とリアルワールドの境がこれを読んでいると確かに曖昧になっていく。それは面白いのだけど、やっぱりストーリーとして長すぎるし妄想的すぎると思った。僕はカーヴァーのようなもっと身近な話のほうが好きだなと思った。


2002年3月8日(金)

 朝から路面を濡らす程度の雪がふりつづいて、やむのを待っているうちに暗くなってしまった。仕方ないから市川崑の「黒い十人の女」を見た。ピチカートの小西氏が「僕は市川崑を発見した」と言うが、僕は発見できなかった。シニカルな復讐劇に徹するならそうするべきで最後に社会システムを持ち出されてもちょっと困るという感じ。結局ストーリーが主人公の男のようにどっちつかずで流れてしまっていたような気がした。
 ボンゴレ用にアサリを凄まじく濃い食塩水の中につけておいたのだけど、さて料理始めようかと思ってボールを覗いてみればアサリたちが触手を伸ばして健気に呼吸を繰り返していた。前世で生き別れた妻がもしアサリに身をやつしていたらどうしようと思ってしまった。結局、食べちゃったけれど。そういえば志賀直哉の作品で生まれ変わるときにはオシドリになろうと示し合わせたのにも関わらず、妻が間違ってキツネになってしまい、オシドリになった夫から叱られているうちに、本能で夫を食べてしまうという話があったな。

 

2002年3月7日(木)

 朝からハローワークへ。ようやく失業保険がおりるようになった。これから90日間。1日あたり7,000円。単純に計算してちょっと驚いてしまった。シルクロードにもう一度行っても余っちゃうんだなぁ。働いてしまうと給付がストップしてしまうのでまだしばらくは下等遊民を続ける予定。
 泳いでからパスタを買いに行った。最近、夕食の主食がパスタになっていて、しばらく食べ続けているうちにもっとパスタの製造先にもこだわったほうがいいのではないかと思ったからだ。それで安いのではなくて、イタリアから輸入したような高いものを買ってみた。その8時間後にキッチンで結果が出た。格段に味が違う。輸入パスタは小麦の芳醇さみたいなものがするし、麺にこしのようなものを感じる。なんで、こうも違うものなのだろう。それからピクルスを初めて買ってみた。これって結構くせになる。あーピクルス狂になったらいやだなあ。始めて恋人の部屋を訪ねて、棚にいろんなピクルスが並んでたら幻滅するでしょ。・・・いや、しないかな。皿をきれいに洗って、それから珈琲落とせば、とても幸せ。下等遊民的幸福。一生こんな感じでいいなぁ。


2002年3月6日(水)

『スキーのモーグルとエアリアル』

 短編小説はスキーのエアリアル競技に似ていると思う。勢いをつける程度の滑走から、思いもよらぬジャンプや回転、ひねりを見せるところが。
 長編小説はそれと比較すればモーグルといったところだ。スタートからの長い瘤斜面をリズミカルにテンポよくつぶしていき、途中二回ほどのジャンプで回転とひねりをみせて、うまく着地させていく。瘤斜面とジャンプは一連の流れの中にあって始めて双方が意味をもつ。奇をてらったジャンプを見せても瘤斜面を制することができなければ意味がないし、逆に瘤斜面を順調にこなしてもジャンプが単調なものであれば意味がない。
 今考えているのは、もしかしたらエアリアルをいくつか繋げることでモーグル並みの長さをつくることができるのではないかということ。ただジャンプがあまりに大きいからジャンプ間の整合をとるのが難しいのと全体として大味になる可能性があるかなとも思う。でもそういうのもありだな。まだ考えているだけの段階だけど。
 オリンピック見てそんなこと考えた人ってあんまりいないんだろうなぁ。・・・というか考えるほうが変なわけだけど。


2002年3月5日(火)

『寂しさの構図って多分こういうこと』

 寂しそうな人、あるいは繊細な人を想像してみて、と言われたら例えばどんな感じの人をイメージするだろうか。きっと漠然と頭の中に浮かんでくるのは、華奢でどこか頼りなさそうでサナトリウムの病室の窓際にでも立っていそうな弱々しげな人なんじゃないだろうか。間違っても、プロレスラー(寂しいプロレスラーと言われると究極的に寂しいような感じもするがそれは逆説的な使い方だと思う)とか力士とかプロ野球選手のような日々筋肉を鍛錬しているような人たちは浮かんでこないんじゃないだろうか。
 うちの弟は一緒にシルクロードの旅に出て現在はシドニー郊外の養鶏場で不法労働していているから出国して彼是8ヶ月になる。彼には日本に彼女を残していて寂しさというものが半端じゃないんじゃないだろうかと思うのだけど、僕はきっとこいつは内心本当は寂しいに違いないと確信していたのだけれど、今となって考えると彼の寂しさの度合いって普通の人間に比べて低いんじゃないかなと思う。弟は「身体だけで生きていくのが目標」というだけあって、細身ながら筋肉質の身体をしている。温泉とか一緒にいって思わず相手が驚いてしまう筋肉の質だと思う。
 今日、僕が思ったこと。それは寂しさの度合いと筋肉というものは反比例しているのではないかということ。僕は3月になってから生活を変えて(まだ2回だけども)泳いだりするようにしたせいか、胸のあたりの筋肉が絶えず張っているような感覚がある。(そんな簡単に運動が筋肉になるものか、と人は疑うだろうけれども遺伝子的には筋肉が付きやすいのだと思う。それで筋肉がないというのは逆にどれだけ運動していなかったかということを反証してしまうことにも繋がるのだが・・・)そうして筋肉の張りと共に、僕をこの1ヶ月苦しめていた寂しさや孤独感というものがきれいに消えてしまったことに気付いた。僕は今(それがどれだけ続くかが僕のこの理論の確かさにも繋がるわけだが・・・)全然寂しさを感じていない。身体というものにつられて精神がかなり能動的になってきて、受動的ではなくなりつつあるからだ。多分、寂しさというものは受動的なものなんじゃないのだろうか。
 そう思って、弟のことを考えたりしたのだけど、これって科学的にも証明できるのじゃないかな。ちなみに弟はそろそろニュージーランドに渡るそうだ。彼のような人間を本当の旅人というのかもしれない。僕はそれに比べると、ひよこみたいなものだ。そうして、ひよこはひよこらしく遥かな旅をしているつもりでいるのだ。


2002年3月4日(月)

『カロリー消費とロシア遠征』

 プールで泳いでいて思ったこと。それは僕の身体は運動に対してのカロリー消費の割合が極端に大きいということ。僕は栄養士でもなんでもないからよくわからないけれど、普通、人間の身体には日常的に使うカロリーのもとともなるもの(炭水化物とか脂肪)が用意されていて、それを使い果たしてしまったときに体内に蓄積されている脂肪のようなものを使うことになっているはずだ。それは例えれば、キッチンの棚にある常用の米と、蔵の中にしまって貯蔵してある米の違いのようなものだと思う。
 僕の身体は、普段キッチンに置いてある元々のお米の量が少ないか、もしくは身体の中に穀潰しでもしかねないような燃費率の悪い大食漢の若者を養っているのだと思う。水をかいて、腿の筋肉を張って、水中を進むと、あっという間にキッチンの米は底をついて、僕は予備用の蔵からえっちらおっちら米を運び出さなければならなくなる。米を運び出そうとすると、蔵の番人がまたかという顔をしてみせる。僕はどうしようもないんだよって手を広げてみせるしかない。それは毎度のことなのだ。そうして蔵の中の米は米騒動の後のように綺麗さっぱりなくなってしまう。蔵の番人はいつも無力感に苛まれている。
 
 少し泳いだだけで肩で息をしている僕の横をお年寄りが全く疲れもみせずに延々と泳ぎ続けている。いや、正確に言うとお年寄りだと知ったのはプールから上がった後の話だ。服を着替えて、空になった蔵にわずかながらオレンジジュースを補給していたときに、隣の椅子に座ったからわかったのだ。プールで見たときはまるで体力に底のないような人に見えたのに、プールから上がった姿は囲碁と盆栽を楽しみにしてのんびり余生を楽しんでいるお年寄りにしか見えなかったのだから開いた口が塞がらなかった。そうして自分の不甲斐なさを情けなく思った。

 もし戦争というものが起きて、赤紙一枚で万歳斉唱の後に徴兵されて、ナポレオンが固い黒パンをかじって空腹を満たしたロシア遠征のような過酷な戦いに連れていかれたとする。僕は間違いなくあのロシアの冷たい凍土の上に横たわる屍のひとつになるだろうと思う。それも敵の銃弾にやられるのでも、怜悧なサーベルに貫かれるのでもなくて、きっとひもじさのために蔵の番人ともども倒れるのだろうと思う。そうして敗北の色は濃くなり始め、ナポレオンがいくら声を張り上げてももはや勝負は決してしまっているかに見えた。
 しかし、そのときであった、屍の上を重き銃身をもって疲れも見せずに駆け抜けていく者がいる。そう、それは、とても戦場では役に立たないと思われていたあの囲碁好きの老兵だったのだ。


2002年3月3日(日)

 週末、お台場までワンゲル時代の先輩の結婚式に参加してきた。懐かしき面々が久しぶりに集まって非常に楽しい二日間だった。僕は、谷川俊太郎の「旅」の詩画集と北海道の山の画集と奈良美智の画集をプレゼントした。僕の欲しいと思うものだったから少しは気に入ってもらえたんじゃないかな。
 ワンゲルの仲間も今は日本中ちりぢりで職業も様々なのだけど、「いざ、お台場」という感じで集まってきた。僕は二月中、父とMさんと(それも数時間)会っただけで人と接していなかったので(多分そういうことはもう一生ないと思う)、はじめ人との距離というものをとるのが驚くほど下手になっていたが、時間の立つうちに馴染めてきていつもの調子が戻った。ワンゲル時代の友人たちは狭いテントの中で労苦を分かち合って、良いところも悪いところもお互いに知る仲なので、心を割って話すことができて本当によかった。明け方まで話して、さらに仮眠をとったあとも、時間のブランクがなかったように喫茶店でおしゃべりが続いた。ここのところワンゲルの仲間の結婚ラッシュになっているのだけど、もうショベルカーでもっていけるだけ根こそぎもっていっちゃえばいい、という半分負け惜しみのような一先輩の発言が面白かった。時間が立つにつれて一人また一人と去っていき、最後は新幹線組と東京駅で大きく手を振って別れた。Good Bye! また会う日まで。


2002年3月1日(金)

 3月になった。昨夜、2月という月をどのように送ったか考えてみた。仙台にやってきて、ずっと寂しくて、最後は精神的に破綻していた。自分の中が汚れているのに、それを全て人のせいにしていた。僕の心を支配しているのは憎悪ばかりで、人の親切とか愛情のようなものを全く理解できるレベルになかった。そしてそれは自分の書いている文章にも大きく影響を与えてしまっていたように思う。人にも随分迷惑をかけたと思う(特にNさん)。そうして自分に対して本当に愛想が尽きた。

 3月になった。心を入れ替えようと思う。すべてを入れ替えようと思う。
今月の目標
・規則正しい生活をおくる。世間の人と変わらない生活にする。
・3日に一度くらいはしっかり筋肉を酷使するような運動をする。
・金輪際、人のことを揶揄しないようにする。深い愛情というものをまわりに向けられるようにする。そしてもっと世界に対してコミットするよう心がける。
・今月書き上げるはずだった文章を、悔いのないように、しっかり書く。