2002年5月31日(金)

『昇った陽が落ちないために』

 いよいよワールドカップ開幕。最初に日韓共催が決まったときは「えー、韓国とー」と何か腑に落ちないようなものを感じたが、今はむしろそれを喜ばしいことではないかなとも思っている。過去の歴史のために長い間随分ぎくしゃくとしていたようだけれど、そうしたものが今新しく変わりつつあるように思う。
 これまで旅先において韓国人の旅行者と会って時間を過ごすことも多かった。彼らは日本人より自己主張や自我が強いといった側面をもつけれど、彼らの日本人に対する友好度の大きさは、日本人の彼らに対するものよりずっと大きい。(勿論、一部から見て全てを判断することは危険なのだけど、これはある程度全体的なもののように僕には思える。)彼らの親切など受けていると、僕らの間の垣根というものはほとんどなくなりつつあるようにさえ錯覚する。
 日本もより韓国と友好的になっていく必要があると思う。それは個人レベルの人の交流だけではなくて、経済的、政治的協力関係を含めてのことだ。日本の国債の格付けが今日また二段階落ちて、国際援助を行っているチリやボツアナ以下になったとニュースでやっていたが、どう考えても日本が未来永劫にわたって世界の上位、あるいはアジアのトップに居座り続けることは非常に難しくなりつつあるように思う。アジアでは、人口と土地が無尽蔵にあって資源まである中国が必要とあらば日本の戦争責任なども掲げながら、様々な分野においてますます日本の脅威になっていくと思う。日本が世界に対して経済的な優位性を保つには、韓国と同じ舟に乗っていくような心積もりも必要なんじゃないかなとも思う。それがお互いの発展のために欠かすことができないのではないかとも思う。そういう意味において、ワールドカップを契機に2つの国の関係性が強まることは本当に重要なことだと個人的に思っている。


2002年5月30日(木)

『フーリガンの襲来と僕らの研ぎ澄まされた武器』

 いよいよ明日よりワールドカップ開幕である。札幌では6月7日にイングランドVSアルゼンチンという因縁の好カードが組まれている。試合も楽しみなのだが、札幌人は地平線から空を覆い出した暗い雲を見たときのような嫌な予感に苛まれている。そう、フーリガンだ。

「ハサミだけは家に持って帰っておこうと思ってるんですよ」僕と同じ歳の可愛らしい美容師さんは言った。
――やっぱりフーリガンは危険だからなぁ。護身用にハサミかぁ。
 美容師さんは言葉を重ねた。「ほらここガラス窓でしょ。ガラスって結構簡単に割られちゃうんですよ」
 僕はようやく理解した。護身用ではなくて、盗難を防ぐために美容師さんは家にハサミを持って帰ろうというのだ。
「それって高いんですか?」軽快なハサミの音を耳にしながら僕は訊いた。
「これは6万くらいかなぁ」
「ふへえ。60,000!・・・もしかして自分で買ったんですか?」
「そうですよー」彼女はさも当然と言った表情を対面のガラスに浮かべてみせる。「ドライヤー以外は全部自分で買ったものですよ」彼女はなんと4本のマイ・ハサミをもっているのだそうだ。「これとか買うために最初の頃はすごく貧乏になりましたよ」

 僕の商売道具にあたるものはマチガイなくペンということになるのだろう。(正確に言えば、ペンではなくてキーボードなのだけどね。)僕のペンは鋭く一瞬にして世界を切り取ることができるだろうか。空を描写すれば、それは空以上に空であって、人の人生を描写すればそれは人生以上に人生で、哀しみや喜びを描けばそれは現実以上の深みをもつことができるだろうか。
 ああ、大いにやってみよう。可愛い美容師さんに小さな象のお土産をあげて、ガラス戸出て薫風の中、そんなことを考えた。


2002年5月29日(水)

□今回の旅について 
 帰国。朝、関空での乗り換え時、スタバの前の長いすに座っていたら、忙しそうにスーツを着たサラリーマンたちが行き交っていた。段々彼らの世界とも離れていくなぁとメコン色に日焼けした青年は思っていた。
 今回の旅はアンコール・ワットがメインでそれ以降については具体的に考えていなかったのだけど、結局カンボジアをまわった後、ラオス北部、タイ北部を巡った。去年の夏のシルクロードの旅は自分の人生のターニング・ポイントとという捉え方をしていたし、そのために風景を見ても何かが自分の心へ強烈に訴えかけてきたりしたのだが、今回はそれが非常に少なかったように思う。また旅自体も身体的不良(強烈な嘔吐や下痢)や騙されたり嫌な思いをしたりすることが少なく、結果的に旅そのものを楽しむことができた。
 それから前回は日本で待っている人がいるという意識が常に自分の中にあって旅の終わりはその人のもとへ戻るという決意のようなものが強かった。今回は後ろ髪引かれるような思いというものもなく、日本のことを忘れて、ただ自分の旅のことだけを考えていればよかった。ネットカフェに入ることも前回に比べると格段に少なかったようにも思う。僕はほとんど残してきた日本のことを考える必要がなかったし、実際それほど何かを残してきたつもりもなかった。

□自分の性格をもつくった街、札幌の気質と海外の街との関係
 旅に出るときはちょうど桜が満開だった札幌の街は、戻ってくるときらめくような新緑にあふれていた。本当に美しい街だと思った。
 飛行機の窓から見える北海道の大地は畑も牧草地も整形的な幾何学模様を成していて、それらが空間的な広がりをもっていた。それぞれの物が独立して存在して、あまり他に依存することのない北海道の気質、それは上空から見える風景の中にも記号のように表れているのだ。ある意味冷たく疎外感があり、ある意味他の干渉を受けることのなく自分の裁量で生きていける土地。
 そしてそうした街を眺めているうちに、実は僕はこの札幌という街を価値基準として海外の街を見てきていたことに気付いた。僕はそうした札幌気質が身体に染み付いているために、例えば去年の旅のときに立ち寄ったカザフスタンのアルマティのような整形的でどこか疎外感を感じさせるような街が好きなようだ。僕はあまり他に干渉もしたくないし干渉されたくもないのだ。一人になりたくなれば、そこでは青い芝生と深い緑の木陰があって、その中に隠れて息を潜めることができる。
 その点、東南アジアの街は雑踏や混乱の中にある街が多く、それらは寄り合いのような集合体をなしている。それらは皮膚と皮膚を交えることによって成立している。そのために僕にはうざったく思えてならないのだと思う。肌を接近させてくるものに対しては逃げたくなるし、余計な交わりなどもちたくもないのだ。

・・・久しぶりにダイアリ書くと、うまく絞って書けないな。言いたいことがありすぎるのだと思う。本当に書きたいことはまだいっぱいあるような気がするもの。(いずれ少しずつ書いていくことにするよ、旅日記のほうも今回はちゃんとまとめて整理してみよう。)


2002年5月5日(日)

 もうかなりネムネムです。ほとんど用意は済んだと思ってたけれど、MDだの、充電池だの、文庫本だの選んでたらあっという間に遅くなっちゃった。脳の中が四川省の山水みたいに朦朧としているんだけれど、ダイアリも当分書けないから少し書いておこうと思う。もしかしたら雨季のはじまりで雨に流れてきた地雷がこともあろうに足元で爆発して帰ってこれないかもしれないものね。あるいはメコン川を行くボートが転覆してワニだかナマズだかに食べられて骨だけがあの濁流の底に沈んでしまうかもしれないし。そういうところはなるようにしかならないといつも思っている。そしてそれなりにここまでの人生については満足している。上出来だと思う。・・・って別に戦場に行くんじゃないんだから。しかし、眠いと何を書き出すかわからないな。
 今日は大学のそばにある山道具屋に行ってきて、ザックカバーとシンプルなアーミー・ナイフを買ってきました。ほらカンボジアの泥って何だか強力そうじゃない。白い頭蓋骨までメコン色に染まりそうなくらいじゃない。だからザックも保護してあげないとね。それからナイフは果物食べるときに重要だからね。ついでに店内の山道具をひとつひとつ見て回った。もともと山男だったのでそういう陳列棚眺めているのも楽しいんです。「これは何に使うの?」「へぇ、こんな便利なものあるんだ!」とか一々驚いてみせたりするわけ。デートか何かで自由が丘や代官山の雑貨屋見て回ってるのと似てなくもない。学生時代、山道具は「安いが強し」という某レンタカーのコピーのような安易な選び方をしていたのだけど、さすがにあれから年月を経るとデザインに目がいってしまう。ザックは一通り見たのだけど、Millet(ミレー)のデザインがクールでいいですね。ちなみに今回の旅で新調したサイドバックもミレー製です。今年は山にもまた通うつもりなので少しずつ道具も揃えていくつもり。誰か一緒に行きます?
 山道具屋から出て、「ガープの世界」の下巻を探しに古本屋など寄ったりしてぶらぶらしていたら、なんと偶然にも大学の研究室の1つ上の先輩と遭った。三年ぶりくらいでさすがに、おおおっ、と驚く。一緒にランチ食べて話したのだけど、彼はまだ学生で最近、博士を取得したばかりなのだそうだ。「あんまり苦労しなかった」と彼は言うわけですが、そんなことないことを僕は知っています。やぁ本当にめでたいし、よかったと思う。自分のことのように嬉しくなってしまったくらい。それから研究室の動向など教えてもらったのだけど、聞かないほうがよかった話も混じってて複雑だった。知らないほうが幸せな事実もあるんだね、この世界には。
 さてこんなところで・・・。他にも書きたいこと(書いて自分の中で纏めてみたかったこと)あったのだけど、おしまいにしよう。帰国して覚えていたら書こうっと。


2002年5月4日(土)

『春だから?遠足気分』 

 朝から降り続いていた雨も昼過ぎにはやんで、雲間から僕らを外に誘うかのようにお日様が顔の覗かせていた。僕は旅行用ノートに奈良美智さんの作品でアヒル型のオマルに黒猫のきぐるみを着た子どもがのっている絵(Harmless Kitty)を貼り付けていたりした。この坊やが今回の旅のイメージ・キャラクターなわけだ。そうして僕がハサミやらセロハンテープをもちだしてチョキチョキやっている脇に犬がやってきて、大きな瞳でじっとこちらを見つめている。散歩に行こうよ、という犬なりの催促の仕方らしい。
 仕方なく犬をつれて外に出る。今日はダムの注いでいる支流の上流方面に行った。ずっと登り坂なのだけど、犬は身体も大きくないくせに(シーズー犬)懸命に駆けて行く。犬に合わせて僕も走る。ここのところ毎日一時間超は散歩しているから僕の身体も徐々に長い散歩仕様になってきたようだ。道はやや広い一本道で、草野球の野球場、北大の実験林、果樹園や畑の脇を抜けてどんどん奥に進む。徐々に人家も少なくなって、まわりには熊が徘徊していてもおかしくないような森や林が広がっている。(実際最近はこんな人家のそばでも熊が出没するようになったそうだ。)ちょうど木々も芽吹き出しているところで、森が萌黄色、黄色、赤、桜色、コブシの白色などのパステルカラーで美しい。新芽の色というのは、これまでよく観察したことがなかったのだが、随分と様々な色合いになるのだ。必ずしも緑系の色だけではないところが面白い。今日は雨上がりの上、光の加減がよく、森が淡く輝いていた。後ろの山々が霞んでいるのに、前景の林には光が当っているので、そこだけが風景の中に浮かび上がってくる感覚がある。クールベやミレーだってこんな綺麗に絵はかけないだろうと思えるくらい美しかった。道の脇には小川などあって、心地よい水音をたてていた。はぁはぁ息をあげている犬に「ほら、ここの水はきれいだよ」って教えてあげて、せせらぎに顔をつっこむ犬の脇で、スミレやらタンポポ、イチリンソウなどの春の花々を目にしていると穏やかな気分になる。本当にステキな季節だ。
 今、アーヴィングの「ガープの世界」という本を読んでいるのだけど、これが意外(といったら失礼だな)なことに自分にしっくりきはじめているようだ。アーヴィングの世界というものは、かなり身体に密接に迫ってくるものなのだけど、それがそんなにうざったくないし、むしろ何か心地よさも感じてしまう。彼の小説はややくどいけれど、読み手をぐいぐい引き込むような書き方をする。そんなわけで、ぶらぶら歩きながらアーヴィングのことを考えていたら、ちょっとしたアイディアが湧いてきた。古い動かなくなったバスを改造して住んでいる男の話。そのバスは洪水が起きて最後には流されてしまうの。それだけのイメージ。いつか書いてみようっと。
 散歩から戻ってきて、旅の準備の続き。今回は前回の反省を活かし、できるだけ軽量にして機動力のある旅にしようと考えている。25リットルの小さなザック(というよりナップサックに近い)と、綺麗なブルーのサイドバックの二つでいこうと思っている。大体の荷物を詰め込んで、旅行用に買った服(ユニクロ)に着替えてザック背負って居間を得意げに歩きまわっていると、母親が「楽しみなんでしょ」なんて声かけてくる。まるで初めての遠足を前にした小学生みたいだと自分で笑ってしまう。そういう無邪気なところは自分のことながら結構好き。


2002年5月3日(金)

「すべて結果がわかっているのなら、家で本でも読んでいるほうがましだ」 

 旅の情報をネットで調べていて、ホテル・食事・交通などについてガイドブック以上に詳しいページを見つけた。はじめはそれが目的だったから願ったりかなったりだなんて思っていたけれど、調べていくうちに違う感情が湧き上がってきた。
 それはパズルをやってみて、自分が埋めたいと思っていたところが全て埋め尽くされている感覚と似ているもののような気がした。すべてが完全に綿密に調べ上げられてしまっている世界には新しい気持ちを植えつける余地がないような気がしてしまうのだ。それも世界の中では辺境とまでいかなくてもそれに近い土地なのに。細かいバスの時刻だのホテルの広さや清潔さといった事項をこれでもかと見せつけられると、世界の全てはもう知り尽くされているような気がしてくる、勿論本当はそうではないはずのに。そうするとパズルのピースをもったまま途方もない気持ちになる。まるで空襲のときに皆が収まるべき防空壕に入って、自分だけがどこに潜ればいいのかわからず爆撃機のやってくる地上でうろうろとしている感覚。そうなのだ、僕といえば自分の心の中ですらまだ知り尽くすこともできないでいるのだ。

 誰も自分の歩いている道の行き先に何があるかなんて、興味はあるけれど、本当は詳しく教えてもらいたくはない。もしそうじゃなかったら学生時代、未知のものを求めて、川を下って海を目指したり、海岸を歩いて岬を目指したり、遠くの山を目指して稜線を伝ったりしなかっただろう。誰が全て結果のわかっている旅をしようとなど思うだろう。
 それは人生についても言える。誰も十年後に自分が何をしているかについて事細かに教えて欲しくなんかないだろう。あなたは、こんな人と恋愛して結婚して、こんな子どもをもうけて、こんな仕事をして、こんなことで悩んでいます、なんて言われたら、僕じゃなくても「余計なお節介だ」と言いたくなるだろう。

 僕はガイドブックに書いてある感動を強制するような言葉が嫌いだ。
「ここで血塗られた歴史に想いを馳せてみよう」だとか「雄大な自然が深い感動を呼び覚ますだろう」とか。
いい加減にしてくれ、とカーヴァーの小説の主人公だったら言うのかもしれない。
「いい加減にしてくれ」

 そういうわけで僕はもうこれ以上調べるのをやめることにした。もう普通に旅するレベルまでは調べたから、残りは風まかせにしよう。ぼられたらぼられたでいいや、バスがなくて待合室で延々本を読むことになってもいいや、朝起きたらシャワーが止まっててもいいや。・・・とは言いつつ。

-----
*ダイアリ書いてて思ったけれど、○○は△△だ的な断言のようなかたちで書いたものはうまくまとめにくいような気がする。ここのところ断言形のものをいくつか書いたが、断言するにはその根拠が必要なわけで、根拠が薄弱だと文章が弱い地盤に建てられたビルのように揺らいでしまうようだ。それから断言されると、書いてる人のエゴみたいなものが見えてきて、読者はあんまりいい気がしないものかもしれないなぁ。別にタカ派政治家や宗教家や政治評論家を目指すわけでもないんだし。しかし、内角をずばりつくような勝負球がなければ文章というのはふわふわ浮かんでいるだけで終わってしまう可能性もあるんだよね。


2002年5月2日(木)

「ユニクロとオリジナリティ」 
 
 迫ってきた旅の用意のために買い物DAYとなった。駅周辺のお店をぐるぐる回って、カメラ備品、服、雑貨、ドル紙幣と旅に必要なものを一挙に揃えてきた。服は、帽子をちょっと高いの買ったけれど、ジーンズ、半袖×2、長袖、サンダル、短パンをユニクロで買い込んだ。総価格が今着ているパーカーよりもジーンズよりも安い。それでいてそこに大きな違いは存在しない。ユニクロが成長する理由がよくわかった。安いし、質もいいし、シンプルだしね。ただ問題といえば、あまりに大衆化してしまってオリジナリティに欠けてしまうところかな。ユニクロを愛用している同士だとお互い相手の服のことがわかるらしいね。それはユニクロじゃなくて、プラダでもポール・スミスでもイッセイ・ミヤケでも、あるいは代官山だか原宿にしかないようなショップでも何でもそうなんだろうけれど。ユニクロは大衆性というオリジナリティの対極にあるようなレッテルを貼られている分、損なわけだろうな。こうなるとオリジナリティじゃなくて見栄ということも関係しそうだな。見栄というのは何か嫌な言葉だな。嫌だと思うのは、この僕の中にもそれが存在しているからなんだろうな。見栄、つまりはかっこつけるということは、自分の資質以上のものを見せようとするための言葉なんだと思うのだけど、別に弊害ばかりではなく、逆に外から自分の資質を高める役割もあるような気がする。見栄のおかげで、ある人から誤解されていれば、その誤解の大きさをできるだけ小さくするために人というものは努力するものだと思うから。自然体というのは楽だしいいのだけれど、その人の努力というものが案外少ないのかもしれないな。そうやって言っておいてから、「あなたは見栄派(かっこつけ派)、それとも自然体派?」って訊かれたらちょと悩むのかもね。(このへんの議論はもう少し深めれそうだな。)
 話を戻そう。オリジナリティのこと。それを言い出すと、どんなブランドで服を買い揃えたとしても、全てはコピーに過ぎないと思う。結局、本当のオリジナリティを出すとしたら、その人の予算の中での組み合わせ(着こなし)ということになってくるんだろうね。(しかしお金があれば着こなしだってデザイナーあるいは店員が考えてくれる。)究極的にオリジナリティを出すとしたら、服は自分でつくればいいのだろうな。今年は無地のTシャツに写真なりなんなりを貼り付けてオリジナルTシャツなど作れないかななどと考えたりもしているけれど・・・、それ以上ではないな。その点、自分で鞄だのスカートだの作っちゃう女性(男の人でそういう人に会ったことない)はすごいなぁと思う。結局僕は完全自作する気合いもないし、店頭で見かけた好きな服を手当たり次第購入できるほどの資金力も勿論ないから、おおかたの服をバーゲンで選んで、ときたま大枚を叩いてお気に入りを買うくらいのものなんだろうなぁ。「皆さんはどういうふうに服を選んでますか?」と試しに質問してみたり。「俺は中身で勝負さ」っていうのも勿論アリだと思う。でも人を思うとき、服装がその人のイメージの一部をつくっているのもまた事実。


2002年5月1日(水)

 山小屋に行ったおかげで完全に早寝早起き生活になってきた。21:30でもう完全に眠い。街に出てアレハンドロ・アメナーバルの「アザーズ」観たし、図書館行って画集も見たし、犬の散歩でかなり遠出してしまったし、ご飯いっぱい食べてお風呂も入ったし、もう眠い条件は完全に揃っているのです。手持ちのカードは十分なわけです。しかし、持っているカードすら確認できないほどにまぶたが重い。もう駄目・・・。


2002年4月30日(火)

『客観的な価値観に捉われる馬鹿らしさ、加えて読書体験の意味』 

 どうでもいいような小説を十冊読むくらいなら、優れた小説を十回読み返すほうがましだ。カミュの「異邦人」を再読して、そう思った。

 前回は2000年11月、ちょうど社会人二年目の多忙な時期に読んだ。そのときは世間の論理感や価値観にただ即すのではなく、自分の意志や感情、価値観に従って行動する(=不条理な)主人公ムルソーの姿に感銘した。それは当時の僕が世間の(→客観的な)価値観というものに自分の(→主観的な)価値観を見出せなく苦しんでいたからだ。それから1年数ヶ月経ち、客観的な価値観からはかなり脱線しまったけれど、主観的な価値観に基づいてどうにかだけど生きている僕にとって、この小説は以前考えたことを発展させてくれるものだった。
 
 さて今回読んでみて新たに考えたことがある。ムルソーは主観的な価値観を身につけているのだから、わざわざ自分から客観的な価値観に捉われたり悲観したり逃げたりすることも必要ないのではないかということ。彼の行動はあまりにも受動的であるようにも思う。始めから客観的な価値観の下位に主観的な価値観をもってきているように思う。そこに上位性や下位性を認めてはいけないのだ。そこにはそんな順序など存在しないはずだからだ。
 だから(文中ではメカニックな、と称される)客観的な価値観に捉われる世界から死によってのみ自分は解放されるのだと追い込む必要も、客観的な価値観をしたり顔で有して「死人のような生き方をしている」神父の胸倉を掴んで相手の生き方を否定して怒鳴る必要もなかったはずだ。それともカミュの時代には客観的な価値観というものは完全に世界を凝り固まらせるほどに閉塞感をもたらしていたのだろうか。
 ・・・しかし、少なくとも今を生きる僕にとっては、客観的な価値観がこの世界を支配していることに不満などもつ必要はないのだろう。客観的な価値観を僕に強制するほどの拘束力は今の時代にないからだ。僕は、半ば自己中心的にでも世界や他人のことを否定、落胆したりせずに、主観的な価値観に沿って生きていけばいいだけなのだから。少なくとも世界のルールさえ守れば、誰も文句は言わないだろう。
 
 カミュの小説は僕にとって意味がある。「巷に出回っている書籍に毒にも薬にもならないものが多すぎる。読書体験というものは読者の何かを変えるようなものでなければ意味がない。」とは平野啓一郎の言葉。

-----------------
*今日の日記、(特に「異邦人」を未読の人には)抽象的でわかりにくい内容だったかも、というかわからないよね。公開してるんだからもっとわかりやすいように書かないとダメですね。本とか映画の感想ってどこまで書けばいいか案外難しい。ふむ。
 僕の場合、文章を書いているうちにある事柄について自分の中で考えがまとまっていくことが多い。上の文章の場合、まだその思考過程にあるような気がする。なんとなく見えてきたような気はするのだけど、うっすらと霧がかかって確かではない感じ。そのために言葉の使い方がおかしいような気がする。「主観的」とか「客観的」という言葉も完全に噛み砕けていない気がする。
 昔、あのインテリボーイのオザケンが、「難しいことを言う人は、頭がいいのではなくて、その逆なのだということがわかった」というようなことを言っていたのだけどそういうことだと思う。完全に自分の中で理論なり学説なりなんでもいいけど咀嚼し切れている場合は、それがどんなに難しいものでも簡単に説明することができるはずだ。もし小学生が遊びにやってきて、これは君達にはわからないよ、などと偉そうに言う人がいたらそれはその人自身が完全に消化できていないと言っているようなものなのかもしれない。そう考えると、上の文章はサイアクということになる。要するに僕は自分の思考を噛み砕いて咀嚼して消化できていないのだ。それにしても平野氏の言ってることは素晴らしいと思う。トリュフォーも映画に関して同じようなことを言ってたっけ。結局、アートはそういうものなのかもしれない。
 僕ももっともっと進歩していかなっきゃ。そういえば山小屋ノートに昔書いた文章があって、それがあまりに幼稚で恥ずかしかったのだけど、逆に自分が人間的にも文章の技巧にも進歩していることがわかって嬉しくもあったよ。僕は背が伸びるのも、性的目覚めも、自分の価値観がつくられていくのも、全て遅かった。だからまだ成長過程だと思う。まだほんの出たばかりの芽にすぎないから。もっとぐんぐん伸びて、いつか雲の上まで届くようになるから。


2002年4月29日(月)

「山小屋へ」 

 学生時代よく通っていた山小屋に四年振りに泊りがけで行ってきた。山小屋は札幌でも指折りのゲレンデをもつ国際スキー場そばの道路から徒歩で二時間から三時間の山奥にある。途中まで林道がついているが、あとは小さな沢ぞいをたどる小道があるだけで、普通の人にはほとんど知られていない。まだ雪残る今のような季節にはその小道すら隠れてしまって、地図を詳細に見てコンパスを使わない限り、知らない人が山小屋まで到達することはできない。もともと国鉄が札幌近郊の山々を巡る山スキーツアーの中継点として建て、そのあと僕の母校の大学のワンゲルで修築など加えて管理することになったらしい。
 山小屋へはワンゲル時代の友人つながり総勢7名で行った。途中でアイヌ葱というニラのような山菜を夕食用に摘みながらのんびり歩いた。沢は雪解けで増水し、幾度となく渡渉場所を探さなければならなかった。ただし、特に危険ということはなく、むしろスリルがあって楽しいくらいだった。(Yさんはバランスを崩して転んでびちょぬれになっていたが・・・)。沢をつめていくに従って、山々は堅い残雪に覆われていた。雲ひとつない空のおかげで、太陽の光が雪面から容赦なく照り返してきてまぶしかった。斜面のシラカバ林と雪、それに空の青さのコントラストがこの上なく美しかった。太い針葉樹を小鳥たちが飛び回り、雪上を吹き抜ける涼風が気持ちよかった。
 小屋では現役部員のまだ十代の小屋番さんが僕らを歓迎してくれた。石炭ストーブを囲んでのんびり。皆でご飯食べて、昔の山の話やら共通の知人の話題やら。僕はSHくんとひたすらウイスキーを回し飲みして、ストーブに手を当てたりしていた。心おきなく話せる友人のありがたさ。
 昔行った山の話などを繰り返しするから、山小屋は過去を追憶する空間になる。下界での雑念を全て忘れ去り、ただ過去の記憶を掘り起こす。そうして思い起こす友人や山での出来事の数々、もう関係の変わってしまった人たち。たまらなくなって、三階に上がって僕はひとりシュラフに潜り込む。階下から、石炭ストーブの唸り声と友人たちの談笑が聴こえてくる。僕はランプの炎見つめながら、好きだったものや人のこと、そして自分の心のことをぼんやり考える。


2002年4月27日(土)

「公園とアートが恋に落ちたら」 

 イサム・ノグチ
によって設計されたモエレ沼公園というところにいってきた。確か僕が大学生くらいのときにできた比較的新しい公園で、本来ならば緑地計画学専攻の学生時分に是が非でも見ておくべき公園だったのだが、当時はさほどデザインというものに興味がなかったために後回しにしてしまっていたのだ。
 モエレ沼はもともと札幌のゴミ埋立地だったはずで、そのせいか札幌でもかなり東の果てのようなところにあり、周囲には玉ねぎ畑くらいしかない。兎に角土地だけは果てしなくあるようなところにつくられた公園なのだ。今日はゴールデンウィーク初日ということで、果てにあるにも関わらず結構人が入っていた。バスでここまで来ようと思うのは僕くらいのもので、9割がたは道民の足たるマイカーでやってきていた。
 公園の設計のどこまでをイサム・ノグチがやったのかは知らないが、かなり整形的、幾何学的な公園だった。公園には丘があるのだが、ここから見渡すと園路や広場は言うに及ばず、植栽まで全てそんなあんばいなのだ。芝生がどこまでも広がっている公園は、土地の狭い日本では普通考えられず、むしろ欧米型の公園に近いものがある。芝生の端はきれいに直線や曲線を描いているのだが、上から見ると、この緊張感のある幾何学形に人や犬やボールといったものが動きを与えていて、それが面白かった。幾何学形というのはどこか人工的で冷たい感じのするものなのだけど、それが存分に利用されると全体が野暮ったくなく洗練された印象を与えるのだ。それは例えば、新宿のオペラシティーとか都庁とか、あるいは表参道の国連大学の凸型ビル、あるいは仙台のメディアテークなどにも共通する。そういったものは人がいるからこそ面白みが出てくるものなのだ。
 この公園の中の遊具もかなり整形的にデザインされている。シャープで空間に緊張感を与えるようなものばかりだ。こうした遊具で遊べる子どもは幸せなんじゃないだろうか。子どもはどれだけアーティストの想像力というものに影響されるものなんだろう。
 アートが生活と一体化している一つの例をこの公園に見た気がした。

丘に上がると札幌の街が一望できる 滑り台です。オトナも遊んでた。 ピラミッド型のトイレ。・・・ミイラも財宝もありません。

2002年4月26日(金)

「キラキラヒカルオンナハナイタ」 

 江國香織の「きらきらひかる」再読。まるで絞り器にかけられたオレンジみたいに心がキュッと締まった。素晴らしかった。これで読むのは3回目なのだが、今回が多分一番感動したと思う。それは描かれている人物の気持ちのようなものが随分汲み取れるようになったからなのかもしれない。
 実は江國香織の小説家としての評価が僕の中ではこのところ低かったのだが、美術番組での彼女の発言など聞くに及び、自分の中で再評価の機運が勝手に高まって今回手にするに至った。彼女の文体は非常にわかりやすいし文学的技法に凝っているわけでもない。それが多分批評家の中の共通のイメージで、そのせいで彼女は文学的に評価されることが少ないようなのだけど、物事の『器と本質』について自分の中でまとまってくるにつけ、もし江國さんの本質というものが非常に意味があるのなら、器にけちをつける批評家の見方こそおかしいのではないかと思ったのだ。
 そしてもう一つ、最近Rと電話してたときに、この小説の睦月という人間が僕に似ていると指摘されたからだ。指摘されたのは今回が始めてではなく、指摘される度に考えてみるのだけど、彼のような潔癖症ではないというあたりで思考が止まってしまっていた(・・・なんて表面的な!)ような気がする。
 今回読み直して、どこが似ているかについて少しわかったような気がする。睦月はゲイなのだが、形だけの結婚をした妻の笑子に対して、彼女が精神不安定ということも幾分あるのだろうが、常に優しい人として描かれている。しかし、この優しさに笑子は不満に思っていたりもする。なぜ不満かと言うと、この優しさというものが、常に社会の常識のレベルの中での優しさだからだ。睦月の優しさは歪んでいるものを正すものであって、歪みをつくるものではないのだ。つまり自分の立場というものを壊してまで、重力をゆがめてまで、優しさをみせることがないのだ。彼は自分の世界の枠を超えて、何かに手を差し伸ばそうとしないし、枠の外で起こることに無頓着なのだ。そのために笑子はときたま彼のことを鈍感だと感じるし、不満も抱えてしまうのだ。
 僕が睦月と似ているとしたら多分そこなのだろう。僕は自分の手の届く範囲内で、そして常識の範囲内で人に優しいだろう。だけど、僕はそれをある範囲を超えたところまでに敷衍させようとはしない。そのために本当に僕の助けが必要な人がいても、僕が社会常識を捨ててまでそこへ下りていかないから、結局僕の優しさというものが単に表面を上滑りしかしていない可能性があるように思う。そうなったら僕の優しさなど意味がないということになるのだと思う。僕には人を救うふりはできても、救えない。僕は優しいふりはできるけれど、優しくない。結局そういうことなのだ。
 それにしてもこの小説は軽い器をもちながら結構深いような気がする。人の気持ちというものがしっかり深くまで汲み取れているような気がする。ふぅ、江國さん、素晴らしいよ。それにしても文庫本の後ろについてる今江氏の解説は余計だ、この人何もわかってないんじゃないかとまで思えてしまう。


2002年4月25日(木)

 最近、僕が見るテレビと言えば、サッカー中継と新日曜美術館くらいのものなのだが、今日は先週のカンディンスキーの特集を録画したのを見た。コンポジションZというカンディンスキーの抽象画の究極形となった絵からのイメージを歌人、音楽家(久石氏)、画家の三人が自由に表現するという構成でなかなか興味深かった。さすがに難解と言われる絵だけあって、受け止め方も様々だった。あれだけ実体のわからない抽象的な絵だと、ある程度人の見方や、画家本人の絵への取り組み方というものを知っておくほうがより絵を深く見れるような気がした。予備知識なしにもし美術館に行ったら、果たしてどれだけその絵に感動できるだろうか、とも思った。よく表現できる人は、きっとよく受け止めることができるのかもしれない。
 番組の中では、同じコンポジションという題で、カンディンスキーのように色彩や形や構成を複雑にするのではなくて、より単純にシンプルに表現しているモンドリアン(だっけ?)にもちらと触れていた。僕はどちらかというと、シンプルなほうが好きかもしれない。実物を見てみたい。谷川俊太郎が言うところの「一枚の絵がここにあるというプレザンス」、そうした実体験に敵うものはない。


2002年4月24日(水)

 闇とともに雨が降り出して、今も雨垂れが続いている。部屋の中はひんやりしてきて、たまらずヒーターなどつけてみたりする。
 雨音の中で思考をしていると、雨滴が僕の頭蓋の中に溜まっていきそうな気がする。そう、昨日は身体がほてって「クールダウン、クールダウン」なんて唱えたりしたんだっけ。そして美術館で見た花瓶の器に水を注ぎ込んでみるところを想像してみたんだ。だけど今頃になって、この頭蓋が水で溢れても困ってしまう。
 ここのところ、実は僕は文章をさほど書いていない。一時期、富国強兵の旗印のもとで動く官営八幡製鉄所みたいに、短編小説を増産する態勢に入っていたのだけど、9日に少し気をそがれてそのままになってしまっている。そしてあれから二週間もたったのに、未だにこの工場の機械は小気味よい音などたてて動こうとしないのだ。そろそろ油を差して、動かさなっきゃね。
 使わなければ、手入れをしなければ、どんなものだって錆びついてしまうだろう。ましてや、雨の降る夜には。


2002年4月23日(火)

 美術館行って、北欧の風景画展見てきた。風景画といっても、スケールの大きなフィヨルドなど自然を写実的に描いたものから、抽象画のようなものもあって楽しめた。中でも、ブルーばかりを使ったもの(画家の名前忘れた)や点描、それに一点だけのムンクの絵が気に入った。どれももっと見てみたくなった。特にムンク、絵の中から石やら家やら不気味に浮かび上がってきてよかった。はぁぁぁぁ、北欧行きたし。今年行くとキリギリスになっちゃう可能性大だから来年かなぁ。
 絵を見ると、感覚器が鋭敏になる。木々の梢や風の匂いに一々感動する始末。さらには身体が火照ってきて大変だった。札幌の女の子はとても可愛い。やたらと目が合うから恥ずかしくなった。身体の中も外もすべて春だ。


2002年4月22日(月)

 うららかな春の空のもと、犬と散歩。birdの「散歩しよう」なんか鼻歌で歌ってそれはそれは幸せ。
 ジャック・レダ(堀江敏幸訳)の「パリの廃墟」読む。美しい流れるような散文。まるでさらさらとこぼれていくような白砂でも手に取ったみたい。−まるで走りやすいようにとスカートの裾をたくしあげた少女みたいに、たっぷりとした驟雨は屋根をまたいで郊外に移動し続けている−。こんな美しい比喩の連続。堀江敏幸のさらさら流れる文体もこの辺りの影響をかなり受けているようだ。


2002年4月21日(日)

 ティム・オブライエンの「僕が戦場で死んだら」を読んだ。オブライエンはMさんに強烈に勧められた経緯があってようやく手に取った。彼の処女作ということでほとんどノンフィクションに近いようだ。ベトナム戦争の生々しさよりもむしろインテリで戦争に懐疑的である青年が戦場に放り出される葛藤や、冷静に自分の立場や戦争、勇気というものについて哲学的な考察を加えていくところに読み応えを感じる。しかし、全体的に話を順番に並べている節があり、ストーリー性が低く、そこに処女作らしさを感じてしまう。彼の代表作をさらに読んでみれば、彼がこの後、戦争体験をどのように文学的に昇華したのかがわかるのだろうと思う。


2002年4月20日(土)

 大学のワンゲルのときの友達と飲み。もう何年も前になってしまった山での出来事を喜々として話す。多分、十年後も二十年後もこうやって同じ話をしていたりするのだろうと思うとおかしくなった。気付けば終バスが過ぎ去った後だったので、同期でまだ大学の博士課程に残っているSHくんのところに泊まってきた。SHくんの本棚は学生時代のときのまま、村上春樹や吉本ばななが並んでいる。「最近は前ほど時間がなくて、ねじまき鳥で止まっている」と言うので、スプートニクを勧めておいた。


2002年4月19日(金)

 スティーブン・キングの「小説作法」読んだ。これまで読んだ小説の書き方的な本の中で間違いなく一番素晴らしい本だった。これを読めば、修辞法などの解説に拘泥、終始する文章読本の類は僕にはもう必要ないような気がする。スティーブン・キングはまさにこの僕のためにこの本を書いたのではないかと錯覚できるほど意味のある本だったように思う。もし小説を書こうと考えている人がいれば迷うことなく勧めることのできる本だ。(そして実を言えば僕もザクロさんの勧めでこの本を読んだわけだが・・・。)

 以下、抜粋。
+++文体の模倣について
 模倣の寄せ集めは自分の文体を作るために欠くことのできない過程だが、無手勝流でどうにかなるものではない。数多く読んで、絶えず自分の作品に手を加える努力が独自の文体を生むのである。

+++才能と練習の喜び
 才能は練習の概念を骨抜きにする。何事であれ、自分に才能があるとなれば、人は指先に血が滲み、目の球が抜け落ちそうになるまでそのことにのめり込むはずである。誰からも相手にされないにしても、行為それ自体が絢爛たる演奏に等しい。表現者は満足を覚える。それ以上に、陶酔感に入ることさえしばしばだろう。ことは楽器の演奏や、野球の打撃やフルマラソンの完走ばかりではない。本を読み、物を書くについてもまた同じである。私は作家志望者に、毎日、四時間から六時間を読み書きに充てることを勧めるが、かなり厳しく思えるかもしれないこの日課も、資質があって歓びを感じるなら、およそ苦にはならない。

+++書く場所
 作家の仕事場は質素で構わない、というより、むしろ質素な方がいい。ただ一つ、必要なのはドアを閉じて外部と隔絶することだ。閉じたドアは、人はもちろん、自身に対しても、覚悟の表明である。書くことによって、作家は言いたいように言い、行きたいところに行く。それがドアを閉じるということである。

+++小説の要素
 私の場合、短編であれ、長編であれ、小説の要素は三つである。話をA地点からB地点、そして大団円のZ地点に運ぶ叙述。読者に実感を与える描写。登場人物を血の通った存在にする会話。この三つで小説は成り立っている。

+++作品の成長
 作品は自立的に成長するというのが私の基本的な考え方である。

+++作品の構想
 構想は優れた作家にとって無用の長物であり、無能な作家が真っ先に頼る常套手段である。構想に寄りかかった作品は、いかにも不自然で重ったるい。

+++はじめにあるもの
 はじめに情況ありきである。そこへまだ個性も陰翳もない人物が登場する。こうして設定が固まったところから、私は叙述にとりかかる。すでに結末が見えている場合もあるが、私の思惑で人物を行動させたことはただの一度もない。何を考え、どう行動するかはまったく登場人物に任せきりである。

+++二稿の役割
 二稿の担う働きは二つ、シンボリズムの増幅と主題の補強である。

+++主題
 疑問や主題の論議から小説を書き起こすのは本末転倒である。優れた小説は必ず、物語にはじまって主題に辿り着く。

+++第二稿
 公式。第二稿=初稿−10%。・・・作品の本筋と味わいを損なわずに十パーセントの削除が不可能だとしたら、努力が足りないのである。

 などなど。ちなみに、この本の帯には川上弘美が言葉を寄せている。
− 私はこの本を読んでたいそう感心した。けれど同時にものすごく悲観した。私は一生キングにはなれないと痛感してしまったから −


2002年4月18日(木)

 祖母が今日明日とうちに泊まるということで最近使っていた一階の和室を追い出されて二階の父の書斎に移って来た。壁二面をびっしりと本が埋め、残り二面を窓と画集と化学系の本(父の大学時代の専門)が埋めている。書斎の机の雑誌の類をよけてノートパソコンを置いて、ふっと横を見ると、「文藝春秋」を見つけた。今年の三月号で芥川賞発表の字が踊っている。最近Aさんから頂いたメールに今年度の芥川賞をとった長嶋有氏の作品「猛スピードで母は」について触られていて、ちょうど読みたいなと思っていたところだったからタイミングがよかった。
 彼の文章は全然大げさなところがなく、かなり淡々としている。彼の文章を、とても適当に書いていてその適当さがいい、と誰かが評していたが、適当というよりは余計な装飾がなくて自然といったほうが的確だ。少年の目を通して片親である母の姿が見たままありのままに描かれていて、それがとてもかっこいいし清清しい。変な誇張やうざったい言い回しがないから、感情がストレートに胸に届いてくる。最後のほうで母が四階立てのマンションの外付けの梯子を登っていくところ、ラストでフォルクスワーゲンをごぼう抜きにする場面は素晴らしい。金城武がトンネルの中をバイクで蛇行して走って「only you」のかかるウォン・カーウァイの「天使の涙」のラストに匹敵する。
 僕は最近、感情(特に優しさ、もどかしさとか裸の感情)を率直に書くということに、方向性を定めようかと考えていたのだが、まさにその目標線上に長嶋さんのこの作品を見た気がした。僕には現時点で、淡々とした日常でありながらこんなに感情の届いてくるものが書けないような気がする。この人の作品を読んでもっと読みたいという感情が素直に湧いてきたし、僕もそういうものがいつか書けたらと思っている。

*長嶋さんのHP発見http://www.ne.jp/asahi/nagashima/kenko/index.html 俳句とかあって面白いです。あまり言葉遊び的なのもどうかなとは思うけれど、言葉の世界は広がります。

 うーん、なんか彼の世界入っていくうちに、彼の言葉というのが、随分お遊びのような気がしてきた。うーん、ちょっとがっかり。


2002年4月17日(水)

 朝、家から歩いて20分くらいのところにある北大の実験林に母と犬と出掛ける。母の目当ては、まだ出たばかりのエビソウだ。雪が解けると、雑木林の湿った林床にはフクジュソウやエンレイソウ、エゾエンゴサク、ニリンソウなどの草花が生えてくる。その中に混じって生えるエビソウは柔らかな緑色の巻き葉を掲げている。エビソウは湯がいておひたしにすると甘みがあって美味しい。まだ出始めでたくさんはとれなかったけれど、夕食で舌鼓打てるていどは採れた。ついでにエゾエンゴサクも少し採る。おひたしにしても味は淡白きわまりないが、なんといっても青い花が彩りになる。そんなわけでまだ芽吹く直前の明るい林で、幸せな時間を過ごしたのでした。犬は泥だらけになって遊び、春の鳥たちは梢で高らかに囀っていた。
 午後、街に出て帰省中のザクロさんに会う。transparenceをやっているせいで、久しぶりという感じがしないが、実は4ヶ月ぶりくらいである。大体ふたりきりで会うのも始めてだった。ただ話していてもそういう違和感がないところが不思議なところか。「ビューティフル・マインド」見て、アカデミー賞とは何かとか脚本が云々話したり、他に文学関係の話を結構みっちりした。みっちりしたのはまぁ僕のほうなのだけど。そういう話を直に聞いてくれる人に飢えていたので、随分と話した。とてもいい友達にして話し相手だと思う。ありがとう。


2002年4月16日(火)

 平野啓一郎は、彼の文体というものが漢字だらけの懐古調で、「どうしてもっと読者に読みやすく書かないのか?」と問われて、「どんな文学でも必ず読者に我慢や努力を強いるような退屈な場面がある。しかしそうした退屈な場面もあとで必ず意味があるのだ」と受け答えしていたように、僕は記憶している。
 小島信夫と保坂和志の書簡集「小説修業」を読み終えてその言葉を思い出した。この本は二人の作家が書簡という形をとって、小説や文学について語り合うという形をとっている。しかし、このやり取りはなかなか息が合わないし、第三者にとってはなかなか理解しにくい。というのも、二人の作家は互いに宛てているために、それを第三者に見せることを想定しながらも、第三者の理解よりもお互いの相互理解を優先させようとするからである。そのため、お互いの著作(中には絶版したものも含む)の話などしたりする。さらには書簡でありながら、お互いの言葉を素直に受け入れようと意識が低く、前に相手が書いたことを引用して、「○○についてはあなたは△△のことを意味して言ったのだと思うが・・・」的な文が随所に見られる。つまり互いの理解というよりも、自己の主観的な理解を相手に押し付けるところが多いのだ。そういうわけで読み手は、まるで高慢な大学教官の授業を拝聴する学生たちのように、少しでも彼らに近づく努力をしなければ、睡魔にやられてしまう。そうして僕もいい加減読むのに疲れて、昼寝などしていたくらいだった。起きると、外はどんより曇って暗くなり始めていた。そうして僕は軽くお茶を飲んでから気を取り直して本にとりかかった。
 この本の中のトルストイとカフカについての話はなかなか面白い。トルストイは世界ぜんたいというものを眺望することのできた最後の文学者として、カフカは現実よりもリアリティのあるものを書く文学者として分析されていた。僕はアンナカレーニナを読んだばっかりだったからトルストイについては理解できた。カフカについても、村上春樹の「ダンスダンスダンス」で原宿だか青山の留置所で文学なる刑事がまるでフランツ・カフカ的に取り調べをした云々の話が出てくるのだけど、今頃になってようやくその意味がわかったくらいだ。(ちなみに僕はカフカは数作しか読んでない)
 この本は最後のほうになって突然面白くなってくる。というのも保坂和志が、はぐらかしの巧い小島信夫を半分置き去って、自分にとっての文学の意味を包み隠さず吐露し出すからだ。彼は自分の文学の意味が、科学の進歩によって手に取ることのできなくなったものと、僕らの身体を繋ぐためのものとしてあるのだと言い出す。僕はこれくらい正直に文学の葛藤のようなものを吐露した現代作家をあまり知らないような気がする。保坂和志という人は本当に文学というものにかけている正直な文学者なのだと僕は思った。そして小島信夫も引っ張られるような形になる。その結果、最後のほうは引き込まれるし、もう一度読んでみたいと思わせてしまうくらいなのだ。


2002年4月15日(月)

 ようやくアンナ・カレーニナ読み終えた。一体何日かかったことか。最後の最後は神(キリスト教)への信仰というものに流れていったのにはちょっと驚いた。確かに神というものを心に抱けば、暮らしも平安なものになっていくのだろう。
 星野智幸の「最後の吐息」。島田雅彦が絶賛して数年前の文藝賞を取った作品だけど、僕には理解しがたし。文体は島田雅彦の文章を濃密にしてばらばらと花粉のようにして空中分解させた感じ。島田氏がいなかったら、これ選ばれていないかもしれないなぁ、と不遜にも思ってしまったのでした。ただ文章が手先だけではなく、身体とそれを取り巻く空気から出されたような新鮮な感覚はした。


2002年4月14日(日)

「JAZZライヴ」

 帰札してから親友たちに挨拶もしていなかったので、休日ということで会いに行ってみた。3つ上の先輩でジャズピアニストのAさんとその彼女のYさんと2つ上の先輩で大学4年のときの同居人Kさんと4つ下の後輩のMくんが住む共同生活体にお邪魔した。昼過ぎだというのに皆眠っていて、Yさんが家の横の空き地で何かを燃やしている。その燃えかす(昔の手帳?)を一緒につつきながら皆が起きてくるのを待つ。しばらくすると大学3年生のときの同居人Hくんが突然やってくる。「おっ久しぶり」ってなわけ。彼は家の横の空き地を利用してタイヤ交換などを始める。そこに眠っていた人たちが起きてきて、Kさんが岩登りから帰って来て、さらに4つ上の先輩のSさんやHの彼女Nさんも突然やってきて賑やかになる。
 そこの家の時間の流れ方は驚くほどにゆるやかだった。誰もせかせかとしていないし、日はのぼるに、暮れるに任せるという感じ。確かに僕も学生時代そうした緩やかな空気の中にいたような気がした。とても懐かしかったし、そうした緩やかな空気の中にいると自分の見落としていたものが見えてくるような気もした。
 夜はAさんのライヴがあるというのでHの車で会場の小さな喫茶店(バー?)に行く。僕は実はジャズの生演奏を聴いたことって数えたくらいしかなかったのが、これが素晴らしかった。ピアノ、ギター、トランペット、バスの4つの楽器それぞれが自分の音というものを出していた。CDで聴く音は混じり合っているものだからそんなことからしてもう新鮮だった。そして音というものは耳からではなく、骨に直接伝わってくるような気がした。聴き終えた後も身体に余韻が残って、音が骨の中で反響しているような感覚があった。
 Aさんに「どうだった?」と訊かれて「大変よかったです。音に温かみがあるように思いました」と答えると、それはそこが木造のせいなのだと教えてくれた。それから演奏は全て即興なのだということを教えてくれて、「いつもまた聴いてみたいと思わせるような演奏をしようと思ってるんだ」と話してくれた。
 ・・・今僕はもう一度聴いてみたい、あの音を感じたいと強く思っている。音はまだ僕の骨の中に微かに残り、疼きのようなものに変わり始めている。


2002年4月13日(土)

 今とっても眠くなってきている。頭の中のスイッチがパチパチ消されていってる。まるで停電になって端っこから次々と暗くなっていく町みたいな感じだ。そうなったらロウソクに火でも灯して、寝室まで行ってベッドに潜りこむのが正しいやり方です。
 僕が小学生の頃はよく停電というのがあって、冬とかだと寒いからずっとお布団の中にもぐって、母親にお話を読んでもらったような覚えがある。なんかそういうのって悪くなかったなと思う。停電についてはジュンパ・ラヒリの「停電の夜」でも読んでもらえればよいと思う。
 もう駄目。ねむねむだもの。お休みなさい。


2002年4月12日(金)

「堀江敏幸の小説作法 −その煙の巻き方−」 

 バスに30分も揺られて札幌で一番大きな図書館まで行った。札幌における仙台のメディアテークにあたるものだ。それで久しぶりに本を選んだり、雑誌を斜め読みする幸せを味わった。夏くらいになったら図書館のそばにアパートでも探して住もうかななどと本気で考えている。図書館の前には路面電車があって、それで街まで出掛けることだってできるわけだ。路面電車を毎日の交通の便にするのは、ちょっと優雅で感傷的でいいかななんて思う。そうした路面電車のような緩慢な乗り物に憧れたりするのは、まるで堀江敏幸みたいだなとも思う。
 そして、これから書くのは堀江敏幸の話である。堀江敏幸氏は最近芥川賞を取った30代後半の作家(でありフランス文学者)である。僕は雑誌で読んだ書評から興味をもって彼の本に触手を伸ばして、彼の作品だけでなく、作品に表れる彼の物事への価値観や考え方というものに惹かれ、今では愛読者の一人となってしまった。(ちなみに始めて読む人には「熊の敷石」、「いつか王子駅で」をお勧めします。図書館に行けば人気があるわけでもないので多分借りることができるハズです。)
 「群像」という文芸誌では、僕の好きな翻訳家・柴田元幸氏が彼の作品を誉めていて僕も思うところあったわけだが、今書きたいのは「新潮」という文芸誌に載っていた作家・小島信夫との「われらが小説手法」と題された対談についてである。僕は恥ずかしながら小島氏の作品はあまり読んだことがないのだが、愛読者でもあったRの話など総合すれば、ストーリーに突然ぬっと何かが顔を出し、それが不思議なことにストーリーとなりゆくような話を書くような作家らしい。(読んでない故、詳しいことはわからないが・・・。)そういうこともあり、散文調とも言える堀江氏とは「われらが・・・」と題をつけたくなるくらい、共通点や共鳴するところがあったようである。

 僕はこの対談で驚いたことが2つあった。
@
 堀江氏の小説の中では文学作品が多く引用され、それがエッセイ風に進んでいく物語にいつの間にか関わってくるという展開が多い。これに関して、(誰でもそうだろうが)僕もかなり綿密に伏線のようなものを張り巡らせて、まるで建築家のように細かいディーテールを配慮して、作品をつくっていくのだとばかり思っていた。しかし、どうやらそうではないらしいのだ。彼は無計画的に書き綴って、飛び石的に話を進めて、作品をつくりあげる作家のようなのだ。場当たり的に話を進めているとも言えるわけだ。小島氏はそれについて、「計画的にやったらその部分で詰まってやる気しなくなるもの」と同意を示しているわけだ。
 堀江氏の作品中には、主人公がやってきたバスに別にそこに行く予定もないのに思わず飛び乗ったり、あるいは飛び降りたりする場面が多い。実際僕が思ったのは、これは主人公の行動だけにとどまらず、実は堀江氏の書き方そのものだということ。脇道があったらとりあえず入ってみる、喫茶店があったらとりあえず寄ってみる、古本を思わず買ってみる、とか全てそういう調子が、彼の書き方だったのだ。
 確かにストーリーをがちがちに決めると話が硬直してしまって予定調和的に先が見えてしまって面白くない。それに比べて堀江氏のような行き会ったりばったり的な書き方は作者がその先どこにいくかがわからないがゆえに、読者はますますもって煙にまかれ続けるしかないのだ。そしてそれが彼の作品の魅力の一つなのだ。
 そうは行っても、そうやって書いてしまうと普通ストーリーは広がるだけ広がって、さらには脇道に入り込んだりして抜け出せなくなって、収拾がつかなくなる可能性が高い。それをきちんと最後は収束させて余韻までつけてしまうことのできる点がこの作家の力量なのだろう。
A
 彼の作品はエッセイ風であり、大抵主人公は街の散歩者となり、いろいろなところを歩きまわって、そこで何らかの体験をする。僕は彼がそこの場所を実際に歩いてそして体験したものを、小説化したのだろうと信じて疑ってなかったのだが、どうやら彼はそこを歩いていない場合もあるらしいのである。彼の言葉によれば、「行ったことがない町についても頭の中で想像しながら書きますから、嘘と言われれば全部嘘なんです。」ということだ。
 彼は日常生活までをも想像して書ける稀有な作家だったのだ。確かにエッセイだとは堀江氏は一言も言ってないけれど、そこに行けばそれがあり、その人がいると思ってしまうではないか。一体彼の作品中の事物のどれが本物でどれが嘘なのか見分けがつかなくなってくる。

 僕らは現実にあった体験としてのストーリー展開に煙に巻かれ(@)、さらにはその体験自体が嘘かもしれないと言われて完全に足元を見失う(A)わけである。そうして迷った子羊のような読者を、作家は悠然と笑っていたりするのである。そして彼も言うのだ。「僕はいつも書く題材がないんです。今まで書いてきた本は全て苦し紛れで、最初に言葉をいくつか置いてみてスタートする」と。ワンダホ、全ては煙に巻かれたわけである。


2002年4月11日(木)

「若者の特権」 

 人は陸から海を見るときその果てしなさに幕末の志士のように目を輝かせて考えることがある。

「俺もいつかこの海の向こうに行ってやるぞ」 と。

 若者はひとり海に漕ぎ出てみて、海の向こうには何もないということを悟り始める。
「海の向こうには海しかないかもしれない」

 そうして漕ぐ手を休めて空を仰ぐ。塩辛い汗が筋肉の出てきた背中を伝っていく。
 今となっては四方は水平線となってしまい、漕いでも漕がなくてもどちらでも同じと言えば同じだった。
「いや、きっと漕ぐという行為にこそ意味があるのだ」
 そう思って若者は再び漕ぎ始める。

 ときどき若者は考える。
「俺は島影を追いかけて、逆に島から離れてしまったのではないだろうか」


2002年4月10日(水)

 現代人の三種の神器のひとつ、ケータイ。
 この10日間の僕の総料金は40円。47秒也。
 普通の人はどれくらいしゃべってるんだろう。
 僕もひとときは随分としゃべったよね。
 毎月一万円は払ってたものね。
 僕らはそうして理解し合おうとしたのかな。
 誤解をたくさん積み重ねてさ。
 今となっては全て忘れてしまったこと。

 例えば、47秒で何を理解できるのかなんて考えてみたり。
 47秒しかなかったらもう何もしゃべらないかもな。
 お互いに息を潜めて相手のことを考えてるっていうので充分なんだよ。きっと。


2002年4月9日(火)

 やあやあ、今日は街に出て本屋に入ったんだ。それで文芸誌を読んだよ。こっそりチェックというわけさ。年末に送った新人賞の途中経過が書いてあったからね。女の子の膝小僧見るみたいに何気なーくそこを見たのさ、まぁだけど何度も見たくなるようなものじゃなかったな。だって僕の名前はどこにもないんだもの。やっぱりね。なんて口に出しそうになったくらいさ。それで思ったよ、僕は決して天才ではないんだな、ってさ。僕は空から落ちてきた王子様なんかじゃなくて、泥だらけの野良犬なんだよ。ちょっと特別なつもりなんだけどさ、誰が見てもまぁ野良犬なんだな。
 島田雅彦という自称王子様と平野啓一郎というこれも王子様の対談があってさ。王子様がふたり集まると何を話すかと思えばシモネタなわけだ。野良犬はシモネタなんて話さないけれどね。シモネタ話さないと王子様になれないんだったら王子様にならなくたって平気さ。
 「シッピング・ニュース」っていう映画を観たんだな。ラッセ・ハルストレムの映画さ。舌をかみそうな名前だけど僕は続けざまに10回くらいだって言えるんだ。だって好きな女の子の名前だったら絶対間違えたりしないだろう。それとおんなじこと。これはちょっと骨太い映画だよ。「ヒマラヤスギに降る雪」を思い出しちゃったのはどうしてだろう。
 広告批評という雑誌を買ったよ。「十代のコトバ」というテーマで作家というよりアイドルってかんじの綿谷さんとかがインタビューされてた。彼女たちは才能あふれるお姫様って感じなんだよな。お姫様。
 ワンワンワン。ワンワンワン。ワンワンワン。
「何て言ったか?」って。それは内緒。


2002年4月8日(月)

「とんとんとん」

 

とんとんとん

とんとんとん
春のくるおと、とんとんとん
あの子のあしおと、とんとんとん

にわさきさいたちゅーりっぷ
きみのほおよりあかいかな

むらさきいろはくろっかす
ぼくのなみだ☆のあとみたい

とんとんとん
とんとんとん

まだ見ぬきみのあしおとが
きこえてくるってしんじてる

とんとんとん

とんとんとん
とおい空から、とんとんとん
あの子のあしおと、とんとんとん


2002年4月7日(日)

 いまだに読んでいる「アンナ・カレーニナ」について。ようやく上巻、中巻まで読みおえたので、下巻をどこかで手に入れる必要性が出てきた。下巻って古本屋行ってもないんだよね。きっとみんな途中で放棄してしまうのだろうと思う。これを全部読むのにはそれなりにまとまった時間が必要なのだと思う。
 トルストイの恋愛、結婚、仕事、死、芸術などの全ての人生哲学がこの本の中に入っている。人間というものは時代が変わってもそれほど変わるものではないし、良く生きるための哲学というものも不変のものだ。トルストイはこの大作を書いてから虚脱状態に陥って、自殺願望が強まってしまって大変だったという。彼は自分がもぬけの殻になってしまうほどに自分の内部にあったものを全てこの本の中に込めたのだろう。ここまで書いてみせる小説家というものは本当に一握りだし、だからこそ文豪と呼ばれるのだと思う。

・・・・・
・・・今書こうとしてる長いやつ、一旦放棄しようかな。今書きたいのは長いファンタジーではないような気がしてきた。うん、とりあえず今月末は見送ろう。どうせ制約も誓約もないんだから。漫然と書いていても仕方がない。うん。


2002年4月6日(土)

 夕方から集中して文章書いてたのでちょっと目がぱちくり状態。ちょっとトランスしてたような感じがある。(この前、書く時にトランスすることを否定していたばかりなのに嘘つきっ。)今、激しくムンクの本物の絵が見たい。あの「思春期」の女の子と対峙したいし、何よりあの「裸婦」が見たい。それにしても一体あの無防備な様子は一体なんなのだろう。
 実は北欧に最近かなり行ってみたいのです。ムンクの暗いノルウェー、リンドグレーンの温かなスウェーデン、(一作しか観たことないけど)アキ・カウリスマキのハードボイルドでシュールなフィンランド。北欧って日本並みに物価高いんだよね。そして僕には贅沢旅行する余裕など懐のどこを切り取ってもない。この二律背反をかいくぐって、今年中にでも北欧に行けるだろうか。というか行っちゃうんだろうか、わたし?みたいな。


2002年4月5日(金)

「春の叙情」

「春というのは、もどかしくて、切なくて、一番好きな季節だな」
 これは僕が今日書いた短編の冒頭の文だ。そして、この一文に関して言えば、まさに僕の思っていることに他ならない。
 夕刻になってもまだ日差しが満ち溢れているのを見るにつけ、ひかれるようにして外に出た。一応、犬の散歩という大義名分もある。このところの晴天続きで道路の雪は融け、アスファルトが乾ききって、歩くのにも申し分なかった。ダム湖では支流との合流点で竿を振っている若い男がいた。よほどの釣り好きなのだろう。だってまだ雪が融けたばかりじゃないか。でもその居ても立ってもいられない焦燥は理解できるような気がした。彼は飽きることなく、静かな水面にルアーを投げ入れていた。
 他には人などいない。相変わらず静かだ。未舗装のでこぼこ道、使われなくなったイチゴ畑、倒壊している納屋、まだ芽吹きを迎えていない裸の山々。静かな水面とそこを漂うカモの類、濡れた岩の上で水を覗き込む小さなカワガラス。
 帰りにダムの下流の橋から見た、水の放水。ただどっと流れ出す水の迸り。橋の端で携帯電話をもって話しこむ綺麗な春色コートの女の子。
 それが僕が見た全て。僕の感じた全て。春の叙情は感じることはできるけれど、解くことはできない。だから、もどかしくて、切ない。


2002年4月4日(木)

「治療を施す」

 病が治らないので治療法(昨日の日記参照)1と2を実行してみた。3は来月、施すことにした。
 ということで、アンコールワット(カンボジア)に行ってしまうつもり。他の旅行者から散々良いと聞かされているから非常に楽しみ。GW明けに出国して、ワールドカップ・サッカーの前には帰国するつもり。しかし、こんなに遊んでばかりいいものかな。
 そのためにも5月中はしっかり集中して書こうと思う、300枚以上ということだから気合いれなっきゃ。これぞ飴と鞭。将来、書く→旅に出る→書く→旅に出る、というリズムがうまくいくようになるといいのだけれど。
 それから昨日の病について究極的な治療法を思いついた。お金があって時間があるという状況下で、もしこの病が発症したときにかなり効果的な手なのだと思う。ヒント、それは4文字、はじめは「れ」、他の病とも言える。さて、なんでしょう?
・・・・・・
*答えがわかっても景品はありません。


2002年4月3日(水)

「不治の病」

 僕はこれまで重病というものを患ったことがない。湿布の匂いがこもり、ナースが慌しく駆け回る病院というところに入院したことがない。
 それはこれまでの話だ。僕はどうやら病にかかってしまったらしい。これは、かなり重度の病かもしれない。病院にすら入院を拒否されるかもしれない。
「病名は何なの?」

「別に秘密にしていないから言ったっていいよ」
「じゃあこっそり教えてよ」
「でも、やっぱり気が進まないなぁ」
「絶対誰にも言わないから、大丈夫、わたしはあなたを理解することができるから」
「そうまで言われたら言うしかないのかな」
「そうよ。病を一緒に克服しましょう」
「じゃあ(相手の耳のそばで)ごにょごにょ・・・」

「えっ、あなた、そんな病気もちだったの?ショックだわ。そんなの裏切りだわ」
「だって君が一緒に乗り越えようと言うから・・・」
「それとこれとは話が別よ」
「そ、そんな・・・」

・・・なんてことにはならないけどさ。
 僕の患った病名を言おう。

 病名は「旅に出たい症候群」という。

 シルクロードの旅から帰ってきたあと、僕は確かに「もう当分旅はいいや」なんて言ってたはずだ。メールで「旅好きなんですね」と話題を合わせてくれる人に向かって、「いや、それほど旅好きではないのかもしれない」などと曖昧な言葉を返したりしていたはずだ。それもつい最近まで。
 それがどういうことだ。ここ数日、無性に旅に出たくなってきた。つまり、「旅に出たい症候群」が発症してしまったようだ。「旅に出たい症候群」にかかるとこんな症状をおこすことになる。
1.夜寝る前、暇な時間など世界地図を広げだして、仮想の旅を始める。
2.家にあるガイドブック等の写真をしげしげと見つめてため息をついたりしてみる。
3.用もないのに旅行人のHPのスレッドを読んだりプリントアウトしたり、格安航空券の値段など調べ始めたりする。
4.どうしてもある場所に行かないともう駄目なような気がしてくる。
 こうした症状に対しての治療には時間とお金が少しばかり必要です。ただし、治療法は簡単であります。
1.航空券を買ってみる。
2.ガイドブックを買ってくる。
3.実際に行ってしまう。
 

 ・・・仕方ない、病が起きたら治療するしか仕方あるまい。

*備考:一度治療を施しても、対症療法でしかなく、病はある潜伏期間を経て再度発症する可能性が高いと言えます。つまりある意味、不治の病になる可能性があります。


2002年4月2日(火)

「失われる風景」 

 犬の散歩でダム湖にいった。春の日差しがさんさんと降り注いでいて、木々の芽はどんどん膨らんでいた。薄着で風を浴びてるのが気持ちいい最高の散歩日和。ダム湖まで出てみれば相変わらず人の姿がない。バードウォッチングの女性一人とすれ違ったくらいのものだ。この辺りは斜面が南側にあたるせいか、ふつうの場所よりも春が早くやってくる。雪はほとんど融けて、病院関係者用のアパートの敷地からはクロッカスの小さな芽が無数に顔を覗かせていた。左側のフェンス越しには陽光にきらきらとダム湖の水面が輝いているのが見えた。さらにカーブに沿って歩いていくと、道路は未舗装道路となり、右側にはイチゴ畑が広がってくる。いや正確に言うと、かつてのイチゴ畑だ。僕はてっきり昔のようにそこにイチゴ畑が広がっているのだと思いこんでいたのだけど、畑のあったところには隣接する山から飛んできた種子などが定着したものなのか1mくらいの若木がひょろひょろと伸びていた。ここが畑じゃなくなったのはいつからなのだろう。僕が小学生の頃には確かにここで真っ赤なイチゴがなっていて、スプリンクラーが水を跳ね飛ばしていたのに。イチゴ畑の奥には古い農家の家屋があるのだが、もう誰も住んでいないのだろう、母屋に隣接する納屋は倒壊していた。恐らく手入れが入っていないために、冬の雪の重みか何かで潰れてしまったのだろう。イチゴ畑もこうして徐々に忘れ去られていく風景になるのだな、と思った。
 僕のイメージの中には確かにイチゴ畑があって、それを使って僕はストーリーをつくった。僕は忘れられた風景を見ながら、古い農家の家屋に住んでいたおじいさんとか小さな女の子のことに思いをよせた。いや、しかし、それは僕の中だけのストーリーなのか?始めからそんなものはなかったのか。あー、僕にはよくわからなくなる。
 ヒグマ出没注意の看板を全く気にすることなく、林道ゲートから深い森の中に入る。谷の底のほうからは雪解け水が激しく迸って流れているのが見える。林道を少し上った所は高台のようになっていて湖が見渡せるのだが、湖岸の上流沿いではブルドーザーが土を掘り起こして整地を始めていた。とうとう本格的に道路建設が始まるようだ。数年後には、このダムの周辺にも舗装道路ができて、トラックが我が物顔で走るようになるのだろう。
 僕が見た風景は、いつか完全に忘れ去られていくのだろうか。

 長靴をはいた女の子が泥をはねとばしながら小道を走っていく。おじいさんが畑の向こうから手を振っている。プウさんが湖面を見つめてひとり静かに釣り糸を垂れている。

 そんな風景を見たなんて言っても、もう誰も信じてくれたりしなくなるのだろうか。


2002年4月1日(月)

 「Laundry」を観てきた。これを観たのはひとえに、「GO」で好演した窪塚くんがどういう演技をするかに興味があったからだ。しかし、僕が思うにこの映画は、監督・脚本・原作をやった森淳一に力不足の感があって、役者の演技を見るにはわかりにくい映画だった。「ダンスダンスダンス」の五反田くんの出た映画とまでいかないが、ここ最近、脚本の優れた映画をいくつか観ていたせいか、(僕には)不満が残った。少なくともこの映画で窪塚くんが評価されることはないと思う。彼の魅力は「GO」で見せたような荒々しさにあって、この映画のような中途半端なセンチメンタルではないような気もした。やっぱり彼には見たこともないような強いピースマークを突き出して「俺はやるのだ(だっけ?)」とかなんとか呟いたり叫んだりして欲しいのだ。ということで、今度は青山真治とか北野武あたりの映画に是非出て欲しいなぁ。
 どうしてこの作品に不満が残ったか少し書く必要はあるだろう。まず人物設定が結構甘い。特に小雪の演じたヒロインのトラウマが単に失恋というのは解せない。失恋だけで精神的に立ち行かなくなって軽犯罪を起こす人なんていないんじゃない?ストーリー展開も甘いと思う。細かいところあげるときりがないのだけど、やっぱり最後まで誰も何も解決が与えられていないというのは考えものじゃないかな。ヒロインは、水たまりを越えるという隠喩を使っておきながら、再びはまったり、結局軽犯罪を起こして、もとの木阿弥に戻ってしまったりとはっきりしない。ヒロインは主人公と出会ったり他の人間とあうことで何を学べたのか、何を感じ取ることができたのかが結局わからないのだ。そして自分でそれを不安に思い続けているのもどうかなと思ってしまう。そういうわけでスタートから誰も一歩も進まずにゴールを迎えてしまっているように思う。確かに経済的な自立とかはできるようにはなるのだけど、扱わなければならないのは精神的な自立のはずでそこがはっきりしない以上、駄目を押されても仕方ないと思う。
 映像は面白いのもいくつかあったが、他の監督の作品と比べると劣ってしまうのではないかと思う。タンクが不安を象徴するという比喩は、「黒い家」の背景の煙突とか、「フェリシアの旅」の石油タンクと同様に面白いものだけれど、エンディングまで引き摺らせてしまっては何のための比喩なのかがよくわからない。
 そういうことで僕はこの映画の評価低いです、残念ながら。でも友達と行ったら、こんなことはっきりとは言わないです、当たり前だけど。もし、僕の評で気を悪くする人がいたら、エイプリルフールということで許して下さいな。