2002年5月31日(金) |
『昇った陽が落ちないために』
|
2002年5月30日(木) |
『フーリガンの襲来と僕らの研ぎ澄まされた武器』
|
2002年5月29日(水) |
□今回の旅について
|
2002年5月5日(日) |
もうかなりネムネムです。ほとんど用意は済んだと思ってたけれど、MDだの、充電池だの、文庫本だの選んでたらあっという間に遅くなっちゃった。脳の中が四川省の山水みたいに朦朧としているんだけれど、ダイアリも当分書けないから少し書いておこうと思う。もしかしたら雨季のはじまりで雨に流れてきた地雷がこともあろうに足元で爆発して帰ってこれないかもしれないものね。あるいはメコン川を行くボートが転覆してワニだかナマズだかに食べられて骨だけがあの濁流の底に沈んでしまうかもしれないし。そういうところはなるようにしかならないといつも思っている。そしてそれなりにここまでの人生については満足している。上出来だと思う。・・・って別に戦場に行くんじゃないんだから。しかし、眠いと何を書き出すかわからないな。
|
2002年5月4日(土) |
『春だから?遠足気分』
|
2002年5月3日(金) |
「すべて結果がわかっているのなら、家で本でも読んでいるほうがましだ」
|
2002年5月2日(木) |
「ユニクロとオリジナリティ」
|
2002年5月1日(水) |
山小屋に行ったおかげで完全に早寝早起き生活になってきた。21:30でもう完全に眠い。街に出てアレハンドロ・アメナーバルの「アザーズ」観たし、図書館行って画集も見たし、犬の散歩でかなり遠出してしまったし、ご飯いっぱい食べてお風呂も入ったし、もう眠い条件は完全に揃っているのです。手持ちのカードは十分なわけです。しかし、持っているカードすら確認できないほどにまぶたが重い。もう駄目・・・。 |
2002年4月30日(火) |
『客観的な価値観に捉われる馬鹿らしさ、加えて読書体験の意味』
|
2002年4月29日(月) |
「山小屋へ」
|
2002年4月27日(土) | ||
「公園とアートが恋に落ちたら」
| ||
|
|
|
2002年4月26日(金) |
「キラキラヒカルオンナハナイタ」
|
2002年4月25日(木) |
最近、僕が見るテレビと言えば、サッカー中継と新日曜美術館くらいのものなのだが、今日は先週のカンディンスキーの特集を録画したのを見た。コンポジションZというカンディンスキーの抽象画の究極形となった絵からのイメージを歌人、音楽家(久石氏)、画家の三人が自由に表現するという構成でなかなか興味深かった。さすがに難解と言われる絵だけあって、受け止め方も様々だった。あれだけ実体のわからない抽象的な絵だと、ある程度人の見方や、画家本人の絵への取り組み方というものを知っておくほうがより絵を深く見れるような気がした。予備知識なしにもし美術館に行ったら、果たしてどれだけその絵に感動できるだろうか、とも思った。よく表現できる人は、きっとよく受け止めることができるのかもしれない。
|
2002年4月24日(水) |
闇とともに雨が降り出して、今も雨垂れが続いている。部屋の中はひんやりしてきて、たまらずヒーターなどつけてみたりする。
|
2002年4月23日(火) |
美術館行って、北欧の風景画展見てきた。風景画といっても、スケールの大きなフィヨルドなど自然を写実的に描いたものから、抽象画のようなものもあって楽しめた。中でも、ブルーばかりを使ったもの(画家の名前忘れた)や点描、それに一点だけのムンクの絵が気に入った。どれももっと見てみたくなった。特にムンク、絵の中から石やら家やら不気味に浮かび上がってきてよかった。はぁぁぁぁ、北欧行きたし。今年行くとキリギリスになっちゃう可能性大だから来年かなぁ。
|
2002年4月22日(月) |
うららかな春の空のもと、犬と散歩。birdの「散歩しよう」なんか鼻歌で歌ってそれはそれは幸せ。
|
2002年4月21日(日) |
ティム・オブライエンの「僕が戦場で死んだら」を読んだ。オブライエンはMさんに強烈に勧められた経緯があってようやく手に取った。彼の処女作ということでほとんどノンフィクションに近いようだ。ベトナム戦争の生々しさよりもむしろインテリで戦争に懐疑的である青年が戦場に放り出される葛藤や、冷静に自分の立場や戦争、勇気というものについて哲学的な考察を加えていくところに読み応えを感じる。しかし、全体的に話を順番に並べている節があり、ストーリー性が低く、そこに処女作らしさを感じてしまう。彼の代表作をさらに読んでみれば、彼がこの後、戦争体験をどのように文学的に昇華したのかがわかるのだろうと思う。 |
2002年4月20日(土) |
大学のワンゲルのときの友達と飲み。もう何年も前になってしまった山での出来事を喜々として話す。多分、十年後も二十年後もこうやって同じ話をしていたりするのだろうと思うとおかしくなった。気付けば終バスが過ぎ去った後だったので、同期でまだ大学の博士課程に残っているSHくんのところに泊まってきた。SHくんの本棚は学生時代のときのまま、村上春樹や吉本ばななが並んでいる。「最近は前ほど時間がなくて、ねじまき鳥で止まっている」と言うので、スプートニクを勧めておいた。 |
2002年4月19日(金) |
スティーブン・キングの「小説作法」読んだ。これまで読んだ小説の書き方的な本の中で間違いなく一番素晴らしい本だった。これを読めば、修辞法などの解説に拘泥、終始する文章読本の類は僕にはもう必要ないような気がする。スティーブン・キングはまさにこの僕のためにこの本を書いたのではないかと錯覚できるほど意味のある本だったように思う。もし小説を書こうと考えている人がいれば迷うことなく勧めることのできる本だ。(そして実を言えば僕もザクロさんの勧めでこの本を読んだわけだが・・・。)
|
2002年4月18日(木) |
祖母が今日明日とうちに泊まるということで最近使っていた一階の和室を追い出されて二階の父の書斎に移って来た。壁二面をびっしりと本が埋め、残り二面を窓と画集と化学系の本(父の大学時代の専門)が埋めている。書斎の机の雑誌の類をよけてノートパソコンを置いて、ふっと横を見ると、「文藝春秋」を見つけた。今年の三月号で芥川賞発表の字が踊っている。最近Aさんから頂いたメールに今年度の芥川賞をとった長嶋有氏の作品「猛スピードで母は」について触られていて、ちょうど読みたいなと思っていたところだったからタイミングがよかった。
|
2002年4月17日(水) |
朝、家から歩いて20分くらいのところにある北大の実験林に母と犬と出掛ける。母の目当ては、まだ出たばかりのエビソウだ。雪が解けると、雑木林の湿った林床にはフクジュソウやエンレイソウ、エゾエンゴサク、ニリンソウなどの草花が生えてくる。その中に混じって生えるエビソウは柔らかな緑色の巻き葉を掲げている。エビソウは湯がいておひたしにすると甘みがあって美味しい。まだ出始めでたくさんはとれなかったけれど、夕食で舌鼓打てるていどは採れた。ついでにエゾエンゴサクも少し採る。おひたしにしても味は淡白きわまりないが、なんといっても青い花が彩りになる。そんなわけでまだ芽吹く直前の明るい林で、幸せな時間を過ごしたのでした。犬は泥だらけになって遊び、春の鳥たちは梢で高らかに囀っていた。
|
2002年4月16日(火) |
平野啓一郎は、彼の文体というものが漢字だらけの懐古調で、「どうしてもっと読者に読みやすく書かないのか?」と問われて、「どんな文学でも必ず読者に我慢や努力を強いるような退屈な場面がある。しかしそうした退屈な場面もあとで必ず意味があるのだ」と受け答えしていたように、僕は記憶している。
|
2002年4月15日(月) |
ようやくアンナ・カレーニナ読み終えた。一体何日かかったことか。最後の最後は神(キリスト教)への信仰というものに流れていったのにはちょっと驚いた。確かに神というものを心に抱けば、暮らしも平安なものになっていくのだろう。
|
2002年4月14日(日) |
「JAZZライヴ」
|
2002年4月13日(土) |
今とっても眠くなってきている。頭の中のスイッチがパチパチ消されていってる。まるで停電になって端っこから次々と暗くなっていく町みたいな感じだ。そうなったらロウソクに火でも灯して、寝室まで行ってベッドに潜りこむのが正しいやり方です。
|
2002年4月12日(金) |
「堀江敏幸の小説作法 −その煙の巻き方−」
|
2002年4月11日(木) |
「若者の特権」
|
2002年4月10日(水) |
現代人の三種の神器のひとつ、ケータイ。
|
2002年4月9日(火) |
やあやあ、今日は街に出て本屋に入ったんだ。それで文芸誌を読んだよ。こっそりチェックというわけさ。年末に送った新人賞の途中経過が書いてあったからね。女の子の膝小僧見るみたいに何気なーくそこを見たのさ、まぁだけど何度も見たくなるようなものじゃなかったな。だって僕の名前はどこにもないんだもの。やっぱりね。なんて口に出しそうになったくらいさ。それで思ったよ、僕は決して天才ではないんだな、ってさ。僕は空から落ちてきた王子様なんかじゃなくて、泥だらけの野良犬なんだよ。ちょっと特別なつもりなんだけどさ、誰が見てもまぁ野良犬なんだな。
|
2002年4月8日(月) |
「とんとんとん」とんとんとんとんとんとん
|
2002年4月7日(日) |
いまだに読んでいる「アンナ・カレーニナ」について。ようやく上巻、中巻まで読みおえたので、下巻をどこかで手に入れる必要性が出てきた。下巻って古本屋行ってもないんだよね。きっとみんな途中で放棄してしまうのだろうと思う。これを全部読むのにはそれなりにまとまった時間が必要なのだと思う。
|
2002年4月6日(土) |
夕方から集中して文章書いてたのでちょっと目がぱちくり状態。ちょっとトランスしてたような感じがある。(この前、書く時にトランスすることを否定していたばかりなのに嘘つきっ。)今、激しくムンクの本物の絵が見たい。あの「思春期」の女の子と対峙したいし、何よりあの「裸婦」が見たい。それにしても一体あの無防備な様子は一体なんなのだろう。
|
2002年4月5日(金) |
「春の叙情」
|
2002年4月4日(木) |
「治療を施す」
|
2002年4月3日(水) |
「不治の病」
|
2002年4月2日(火) |
「失われる風景」 犬の散歩でダム湖にいった。春の日差しがさんさんと降り注いでいて、木々の芽はどんどん膨らんでいた。薄着で風を浴びてるのが気持ちいい最高の散歩日和。ダム湖まで出てみれば相変わらず人の姿がない。バードウォッチングの女性一人とすれ違ったくらいのものだ。この辺りは斜面が南側にあたるせいか、ふつうの場所よりも春が早くやってくる。雪はほとんど融けて、病院関係者用のアパートの敷地からはクロッカスの小さな芽が無数に顔を覗かせていた。左側のフェンス越しには陽光にきらきらとダム湖の水面が輝いているのが見えた。さらにカーブに沿って歩いていくと、道路は未舗装道路となり、右側にはイチゴ畑が広がってくる。いや正確に言うと、かつてのイチゴ畑だ。僕はてっきり昔のようにそこにイチゴ畑が広がっているのだと思いこんでいたのだけど、畑のあったところには隣接する山から飛んできた種子などが定着したものなのか1mくらいの若木がひょろひょろと伸びていた。ここが畑じゃなくなったのはいつからなのだろう。僕が小学生の頃には確かにここで真っ赤なイチゴがなっていて、スプリンクラーが水を跳ね飛ばしていたのに。イチゴ畑の奥には古い農家の家屋があるのだが、もう誰も住んでいないのだろう、母屋に隣接する納屋は倒壊していた。恐らく手入れが入っていないために、冬の雪の重みか何かで潰れてしまったのだろう。イチゴ畑もこうして徐々に忘れ去られていく風景になるのだな、と思った。
|
2002年4月1日(月) |
「Laundry」を観てきた。これを観たのはひとえに、「GO」で好演した窪塚くんがどういう演技をするかに興味があったからだ。しかし、僕が思うにこの映画は、監督・脚本・原作をやった森淳一に力不足の感があって、役者の演技を見るにはわかりにくい映画だった。「ダンスダンスダンス」の五反田くんの出た映画とまでいかないが、ここ最近、脚本の優れた映画をいくつか観ていたせいか、(僕には)不満が残った。少なくともこの映画で窪塚くんが評価されることはないと思う。彼の魅力は「GO」で見せたような荒々しさにあって、この映画のような中途半端なセンチメンタルではないような気もした。やっぱり彼には見たこともないような強いピースマークを突き出して「俺はやるのだ(だっけ?)」とかなんとか呟いたり叫んだりして欲しいのだ。ということで、今度は青山真治とか北野武あたりの映画に是非出て欲しいなぁ。
|