2002年10月31日(木)

『南方系、それとも北方系』
 
 BBSにルルさんが書いてくださったラテンアメリカ映画についてのコメント。
「暴力とか、情熱とか、欲望とか、鮮やかな太陽とか、それらに喚起されてくる幻想のようなイメージとか、たとえ深く理解が至らなくても圧倒的にダイレクトに心が動かされます。」

 これを読んでどうも人間には二種類いるような気がしてきた。それはよく言われることなのかもしれないけれど。つまりルルさんの感じるような南方系の人と、北方系の人。
 北方系の人というのは、閉ざされた暗い森や空を覆う雲、湖を覆う氷に静かに降り続ける雪・・・。抑えられてむしろ激しく高まる欲情とか、届くことの叶わない痛切なばかりの人への思いとか、寂寥感とか。そうしたものに心を動かされる。まるでそこに自分の心の中を見たような気持ちになる。そうした人は多分必然的にそうした光景のある(北欧やロシア、アイルランドあるいはアラスカなどの)映画や小説を見ると特に心を動かされるような気がする。

 ただ南方系、北方系というのは大雑把な色分けに過ぎないから、勿論人はどちらかの色ではなくて、基本的に2つの色をもっているのだと思う。ただそれが生まれ育った場所などによって、徐々にどちらかの色合いが濃くなったりするのだと思う。さて、あなたは南方系、それとも北方系?

 例えば、こんなことから考えてみたらいい。もしあなたが自分の一生を終えるんだったらどちらがいいかなんていうふうに。
「これまで随分寒い思いしてきたから、わしゃ最後くらい南に行きたいね」とか、そういう落語的なのはナシですよ。


2002年10月30日(水)

『ドストエフスキー攻略のために』
 
 帰りの路面電車で向かいに座っていた女性がおもむろに文庫本を取り出して読み始めた。おおお、表紙の深刻そうな顔はかのドストエフスキー?!興味深深でタイトルを読みとろうと試みる。背表紙が陰の中に入るからなかなかうまく読めない。そうしてやっと読めた。「虐げられた人々」・・・おおお。

 この人と友達になりたい!そうして僕も勿論影響を受けてしまって深刻顔のドストエフスキーを次から次へと読破して(実際には現時点で全然読んでない)、人生の奥深さについて、寒々としたロシアの大地について話をするのだ!やっぱりカフカの顔のほうが得だよね、ええ実際にカフカは女性にもてたらしいわよ、ええっそうなの!、なんて会話をするのだ!(妄想)・・・・・・・しかし問題がある、どうやって友達になればいいかってことだ。かなりの大問題。

 男、電車から降り、夜道で前の女に並んで声をかける。全く私は暴漢とか痴漢とかそういう大都市が抱える危ない人でなく、一介の太陽と文学を愛する純朴な青年なのです的な微笑を口もとに心がけて。
「あのー、さっきドストエフスキー読んでましたよね」
 女ははっと顔を上げ、少し身構える。「ええ、・・・お好きなんですか」
「ええと、そういうわけでもなくて、・・・読んでいる人に興味があるんですよ」
 って思い切り怪しい人だな。これじゃ島田雅彦の作品に出てくる変な青年だ。(実際に島田雅彦夫人によると島田氏は校門で待ち伏せしているような変な青年だったらしいが)
 うーむ、ちょっと考えておこう。もしかしたら、もう一回会えるかもしれないし・・・。こうなったら島田雅彦氏にメールを送ってご教授して頂こうかな。
 島田氏の予想される返事「無論、君、夜道で待ち伏せするのです。もしやあなたは私のポーレチカではありませんか?ってこう尋ねれば大丈夫。だってドストエフスキーを読むような女性なんですよ。・・・」・・・うむ、自分で考えたほうが良さそうだ。


2002年10月29日(火)

『違う世界』
 
 アラレだかヒョウだかが朝からふっていた。それはおっちょこちょいの天使が雲の窪みに足を引っ掛けてバケツに入っていた季節ものの天気を間違えてぶちまけてしまったようなふり方だった。地球の強い重力にひきつけられてまっすぐ垂直にふっていた。最近中学生に力について教えたせいか、これを数式で表せるんだろうかとそんなこと考えていた。物理学も案外面白いのかもしれないなぁ。
 それからバブルの落とし子ピチカートファイブを聴いていた。不景気なんてつまらないとか神様は不公平だなんて歌ってる。ソファを窓側に向けて、ガスストーブの温風に当たりながら、冷たそうな空をずっと絵でも見るように見上げていた。そうして眠くなってうつらうつらしてた。
 それから珈琲淹れて本を読んでた。「星の王子様」とか「カモメのジョナサン」みたいに最終的にはやや宗教的にもなってくるけれど、やっぱり示唆に富んだ物語だと思った。
 昔の自分のダイアリも読んでみた。こんな人と友達になりたいなって思ったけれど、よく考えてみればそれは僕の過去の幻影ってわけ。
 今日は結局小説に手をつけなかった。そのせいか、一日が異常に長い。外ではまた、重力に従って氷の粒がふっている。僕はまたピチカートファイブを聴いてみる。全てがどこか遠い世界の話みたいだ。全てがリアルじゃなくなっていく。


2002年10月28日(月)

『旅人のつながり』
 
 旅先で会った人たちとの繫がり。これまでの旅で僕はいろいろな人に会って意気投合して話をしていろいろな刺激を受けたりしたものだ。始めのメキシコ旅行のときに会った通訳をやっている女性からも思い出したようにメールを貰ったりする。この前はワールドカップのイタリアチームに随行しています、なんてメールがきて、テレビの映像のその先に彼女がいるのか、と思うと不思議な気分になったものだ。
 最近他の方からもメールを貰ったりする。ある方は再び旅に出て、ある方は日本で仕事をされている。みんなまたいつかは旅に出る予感みたいなものを胸の中にもっている。
 中国までのフェリーで会ったOさんは非常に気さくな方で、カタツムリだかヤドカリ気取りの僕みたいな人間には、誰でも引き込んでしまう突拍子もない明るさが眩しかった。一緒にいるとホント笑いが耐えなかった。もともとの性格もあるのだろうけど、人にさりげなく気遣うことができるからそうやって道化になれるのだとも思った。(この文章ももしかしたら読んでくださってるかも。えええ俺のことって(笑))。Oさんの名前を出したのは、今彼の勧めてくれた本を読んでいるからだ。パウロ・コエーリョの「アルケミスト」。世界中でベストセラーになった本ということだけど、内容が素晴らしい。神父になることを半ば運命づけられた少年が旅人になることを決意し、羊飼いを経て、旅に出るお話。
「・・・まだ若い頃は、すべてがはっきりしていて、すべてが可能だ。夢を見ることも、自分の人生に起こってほしいすべてのことにあこがれることも、怖れない。ところが、時がたつうちに、不思議な力が、自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ。その力は否定的なもののように見えるが、実際は、運命をどのように実現すべきかおまえに示してくれる。そしておまえの魂と意志を準備させる。この地上には一つの偉大な真実があるからだ。つまり、おまえが誰であろうと、何をしていようと、おまえが何かを本当にやりたいと思う時は、その望みは宇宙の魂から生まれたからなのだ。それが地球におけるお前の使命なのだよ。・・・お前が何かを望むときには、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれるのだよ」
 これは少年が旅の始まりに会うセイラムの王様の言。こんな感じで人生哲学みたいなものに満ちた言葉がたくさん綴ってあり、いろいろと考えさせられることも多い。文章も平易だから、みんなにも読んで欲しいな。


2002年10月27日(日)

『緑と赤と青』
 
 ジンジャーエール(って変換しようとしたら神社エールだって、なんのこっちゃ)とウォッカ混ぜて飲んでいる。巷ではウィルキンソン製が強力プッシュされているようだけど、僕の家の近くの酒屋ではサントリー製しかないから妥協。まぁサントリーの緑色の瓶のデザインもなかなかシンプルで洒落ていると思う。本当はトニックウォーターを買おうと思ったのだけど、近くの酒屋で二軒ともそれ自体が置いてなかった。札幌の人はトニックウォーターって飲まないのかしら??

 昨日から未だに頭痛が続いている。おかげで本のページ開いているだけでズキズキくる。勉強嫌いの小学生にでもなった気分。明日には治るかな。
 仕方ないからチャン・イーモウ監督の「紅いコーリャン」という映画を見た。コーリャンで作った紅い酒の色など紅い色が見事だった。色使い、それに空気の流れみたいなものが画面に充ちていて、それが中国に生きる人の力強さにもつながっていた。ただ大河ドラマのようでありながら、突然エンディングがやってきたという印象もぬぐえなかった。村上春樹のねじまき鳥に出てきたような皮剥ぎシーンが、ここでは日本軍が皮を剥ぐ側として再現されていて気持ち悪いことこの上なかった。ああやって殺されることだけは勘弁だな。

 夜、NHKの新日曜美術館でイブ・クラインを取り上げていた。「青の旅人」という副題がついていた。そんなタイトルつけられたら大人しくテレビのコンセント繋げてソファに座るしかない。青一色の絵は内面への探求を意味しているそうだ。それは20世紀の物質社会の中で外に広がろうとする流れとは逆に、自分の内面に潜っていこうという意志のようなものだ。まるでこのHPのトップに掲げているジャック・マイヨールの潜水の写真とも合い通じるところがあるよなとも思った。まさに青の世界の中に潜っていくということなのだから。
 イブ・クラインは三十数年のその生涯の中で、先人たちの既存技法を嫌って、様々な表現方法を自ら編み出していった人だったそうで、それは僕にとってもいい刺激だった。表現できるっていうことをまず感謝しなければいけないし、表現者たらんんとするならばもっとその先その先を見ていかなくてはいけない。そして彼のように、大いに楽しみながら進んでいかなくちゃいけないなと思った。ここ一、二週間、どうも僕は今やってることを闘いというふうに捉えていて勝手に窮窮としていたように思う。(頭痛もそこらへんに原因がありそう。)闘いは闘いでも、やっぱり自分が楽しめなっきゃ駄目なんだろうなって思うに至った。しかし、テレビ番組ひとつでこうも簡単に変われるなんて何て単純なんだろう。ゾウリムシ的な自分に万歳。


2002年10月26日(土)

『脳に最新バージョンのSPでもDLしたい』
 
 何だかヤドカリにでもなって隠れていたい気分だったのだけど、よく考えたらもう隠れる場所なんてないみたいだった。後ずさりしようとしたら、お尻が一番奥にぶつかったってわけ。
 ちょっといっぱいいっぱいだったかな。どうも処理能力をフルに使ってたのかもしれない。明日は何もないから少し脳の中を楽にしてあげよう。細かいtempファイルみたいな屑が溜まっているような感じもするもの。多分今の時代には流行らない旧式の脳なのかもしれない。CPUもメモリも容量も少なく、さらには頑丈じゃないときた。
 こういう夜は何も考えず放電するみたいに眠ればいいのに、本なんか読んでた。馬鹿につける薬はないってことなのかな。半分本能みたいなものだ。言葉を食べておかないと何かが維持できないのかもしれない。
 イアン・マキューアンの「愛の続き」。彼の最高傑作といわれるものだけあって読ませる。心理描写がかなり細かい。主人公の知力が高いため、これを書くにはかなり綿密な下調べと集めた情報を小説に加工する力が必要とされる。漱石を現代的に科学的にした感じと言えばわかるかな。(ただ小説家としては日本が誇る漱石のほうが上でしょう。)時折、冷静な語り口の中に、突拍子もなく可笑しい表現なんかもあった。(なかなかやるね。)
 ・・・・・・なんか日記書いてるだけで脳が消耗していく。古いナットが強い力に耐えられず、ぽんと弾きとんでいきそうな感じ。もう寝よう。スイッチ・オフにしないとフリーズしちゃいそう。


2002年10月25日(金)

『藪をこいで登る稜線もある』
 
 あああ、小説って難しいなぁ。書くほどに難しくなってきているように思う。目の前でもつれあっているものを兎に角今は一つ一つ、忍耐強い登山者のように、押し分けながら進むしかないのだろう。その一方でどんどんこの世界に立ち入って戻れなくなるのが正直怖くもある。退路のない道はない。しかし退路が絶たれたり消えていくことは往々にしてある。まぁ進むさ。強がって口笛なんて吹きながら。こういう人間なんだもの、仕方ないさ。


2002年10月23日(水)

『深まる秋、あるいは純文学を誰が読むのか』
 
 嵐のあとに散らばる楓 踏みよけながら駅まで急ぐ
 坂道を下り降りてすぐに 汗をかいた額打つ風
 ・・・
 霜の降りた朝街を歩く 恰好つけずにいようとちょっと思う
 木洩れ陽が織りを返す小径 その先に僅かに見えるね
       Kenji Ozawa 「夢が夢なら」♪

 秋がやってきた。鴉が鳴いている。ガスストーブが小動物みたいに小さくうなっている。
 実家のまわりは全てが色づいていた。ナナカマドの実は赤く、ヤドリギの実は黄色や橙色になって澄んだ空気に冴えている。札幌岳(僕が6月に山頂でテントポールを紛失した山)にはなんと雪がうっすらとかかっている。やがて里にも雪雲が舞い降りてくることだろう。
 
 母親にtransparenceに出す原稿を読ませた。原稿を打ち出して持ち歩いているなんて実は今回が初めてだったわけで、結局そのあたりに僕のこの文章への熱意ともどかしさみたいなのもわかると思うのだが、母親は一読して「こういう主婦も夫もあまりいないんじゃないか」なんて意見してくれる。「専業主婦が暗くなるまで夕食の支度もしないで緊張感もなく眠りこけていることは考えられないし、旦那が帰ってきて夕食を作るなんて包容力をもてるなんて到底ありえない」というわけだ。それを言われて、僕は思わず「んんん」と考え込んでしまった。それから母親の話すことと言えば、近所の家のこと。普通主婦はお金がなくて60過ぎるまでパートに出ている云々、癌でなくなった人たちのこと(結構多い)、家庭がうまくいってない人たちのこと・・・。しかしそれを聞いて逆に恵まれすぎの僕には現時点でその重さややりきれなさを書ききることはできないのではないか、とさらにうなる破目になった。
 翌朝(つまり今朝)、母親が僕の本棚から江國香織の「きらきらひかる」を出してきて読み始めている。そうして言うことには「この設定は普通ありえない。これは普通の人の暮らしじゃないし、普通の人の抱えている問題じゃない」と。(*この本には主に医者を職業とする人たちの生活が描かれている。)つまり、普通の人が抱えているのは、日々の経済状態のことなどであり、こうした性の問題を問題と考えているのは豊かな人(インテリ)だということらしい。
 そうして話をしたんだけど、小説(俗に純文学)を読む人というのは、日々の生活に追われている人ではなくて、余裕のある人たちなんじゃないの、ということ。余裕のない人は小説など手に取る気もしないから、結局小説というものも日々の経済状態のことなんかよりももう少し高次のテーマ(やや余裕のある人がもつ問題)というものを浚うものなんじゃないの、っていう話。
 村上春樹、吉本ばなな・・・とまあ誰でもいいけれど、結局現代の(僕が読んできた)人気作家と呼ばれる人たちが描くのはあるレベルに達した人たちの世界のことで、日々の暮らしににっちもさっちもいかない人たちのことなんて確かに書いてないよなって思う。僕も宮本輝のようなやや泥臭い話には全然馴染めなかったなんて思った次第。人は自分の靴下の穴でも見せつけるような小説など大体読みたがらないものだと思う。
 まぁ結局は僕の守備範囲で書いていくしかないのかもしれない。泥臭さのある川には近寄らないという書き方もどこかで変わるのかもしれないけれど、今はそれに近寄れないというのが一種の強みであり持ち味なのかなとも思う。


2002年10月21日(月)

『アルコール(失敗)遍歴』
 
 冷凍庫で仮死状態くらいにまで冷やされたウオッカの最後の残りと栓を開けて気の抜けたトニックウォーター、氷三個に梶井くんの知らないポッカの檸檬果汁を合わせて飲んだ。たった一杯でもう酔っている。控え目に言って、かなりかなりお酒に弱くなったようだ。体育会系出身なんてもはや誰も(自分も)信じられないだろう。ふむ。キーボードを叩いている指先にもまるで麻酔にかけられたようにアルコールが回っているのがわかる。それともウォッカの瓶の下はアルコール度が高くなってしまうのかな。
 僕が今まで一番酔っ払ったのは学生時代、いつも一緒だった女の人ともうどうにもならなくなったとき。どうにもならないってわかって飲み会に行って、ストレートで工業アルコールと変わらない悪評高き焼酎を次々ストレートで飲んだとき。やけ飲みとも言いますが。同期に担がれてご帰宅だった。
 次に酔ったのは会社に入ったときの歓迎会。若い社員にワインを大量に飲まされてあえなく昇天。朝が来ても記憶すら戻らなかった。
 次は院生時代に研究室で。そこでもワインを飲んで昇天。後輩に助けれられて家に帰ろうとしたけれど自転車すらうまくのれなかった。平衡感覚がなくなってた。
 次はえっと大学一年のときかな。他の大学の女の子と飲んでいて気付いたら朝だったって話。
 ・・・さすがに、あとは教えない。
 人は失敗を重ねて知ることも多いようで。


2002年10月20日(日)

『インディアンの青年』
 
 なぜかなかなか寝付けなかった。小説のストーリーが頭の中でぐるぐる回っていて、誰かが僕の頭の中で喋っているせいだ。仕方なく起き上がる。時計を見たら四時近くだった(やれやれ)。グラスに氷を二、三個入れてウイスキーを注いだ。それから本を読んでいた。秋は夜が長いらしい。
 起きれば澄んだ秋の空が広がっている。着替えて外に出る。胸に焦げ茶色の皮が張り付けてある黒のセーターを着て外にでる。これを着ると、地平線しか見えないような平原で馬を操っていたインディアンを思い出す。それにしても広くて高い空。そのまま大気圏を越えて宇宙の孤独感すら伝わってきそうだ。秋はだからいつだって寂しい。世界の終りでは金色の毛並みの獣たちが時折哀しげな鳴き声でもあげているに違いない。こんな街中じゃなかったらどこかの石に腰掛けてずっと泣いていたかったくらいだ。
 図書館の南側の窓際にある椅子に腰掛けて本をめくる。陽だまりが心地いい。まるで女の人と身体をまじわせているような感覚。はじめ乾いていて徐々に温かく安心していける感じ。全てが一体になっていく感覚。
 そのまま眠ってしまいたい。こんな乾いた秋の日には。涙の跡だってやがて乾いていくだろう。そして平原で馬を駆る夢でも見ていたらいいのだ。


2002年10月19日(土)

『雑文、あるいはカードをめくれ』
 
 玄関と部屋の間に曇りガラスをはめこんだドアがある。ドアの向こうがオレンジ色に光っていて、その向こうからお湯が迸る音が聴こえる。なんのことはない、お風呂にお湯が入るのを待っているってわけ。
 最近、ダイアリ書くのが停滞気味だ。なぜだろう。多分、八月から始めた生活も一応歯車のように回りだして、僕はそれをただこなしながら生活しているからなのかもしれない。そして案外その歯車を回すだけで、そのほかにイマジネーションが働いていないのかもしれない。例えば、「今日何かいいことあった?」って友達に聞かれるとする。咄嗟に思いつかない。ところてんみたいにするする出てくるものだったら、僕はきっとダイアリを綴っているんだろうと思う。そうして結局こんなふうに僕はところてんを無理やり出している。ところてんが味気ないのなら、生クリームだっていい。・・・そうしておもむろに鞄にMORINAGAの白いダースが入っていることを思い出して食べてみたり。寒い日に温かい部屋で食べるチョコレートも悪くない。連想ゲームやってる場合じゃないか。
 ダイアリが毎日つけられない理由はもう一つある。週に二日は家庭教師をするついでに実家のベッドで眠っているってわけだ。朝散歩から帰ってきた犬が勢いよくベッドに潜り込んでくる。そういうのって結構幸せだったりする。
 僕は相変わらず毎日読み書き、不安と希望を抱えて生きてるみたいだ。「楽しい」と書かれたカードの裏を見ればそこには「苦しい」なんて書いてある。ふむ、トランプの神経衰弱をやるときのために覚えておこう。
 それから「結婚」なんてカードの裏もついでにめくっちゃえ。あら、テーブルに張り付いて取れないよ。まぁ意味はわかってるさ。
 それからまだまだカードはいっぱいあるよ。どれにしよっかな。・・・「えっ、見れるのはあと一枚だって・・・それを早く言ってよ!」
 じゃあ「将来」というカードをめくってみようかな。ちょっとドキドキしながら。なんて書いてあったと思う?ちょっと考えてみてよ。それは僕じゃなくて、これを読んでくれている(奇特な)あなたの将来でもいいよ。 じゃあ、チクタクチクタクチクタク・・・と。
 はい、タイム・アップ。
 さあ、めくっちゃうよ。時間いっぱい、待ったなし、行司は式守伊之助(こんな名前だっけ?)。
 何か書いてあった?どう?僕のカードには何にも書いてないみたいだよ。真っ白で何にもないんだから。神様が書き忘れちゃったかな。どういう意味なんだろう。うーん・・・。誰も見ていないみたいだし、好きなこと書いちゃって(それも油性ペンで!)こっそり元に戻しておこうかな。スラスラスイスイっと。こりゃいいや。・・・あなたも油性ペン使いたいって?えー、どうしようかなぁ(意地悪)。


2002年10月18日(金)

『人に薦めたい本』
 
 E・アニー・プルーの「港湾ニュース(シッピング・ニュース)」を読んでる。きっと春先に公開されたラッセ・ハルストレムの映画を観た人も多いと思う。僕もご多分に漏れず、映画館にいってニューファンドランド島の海岸の厳しい自然にためいきをついたひとりだ。最近、読書の傾向が春樹氏、オースター(ほとんど読んでしまった)などから翻訳文学のほうへ向かい出して、個人の書評サイトなどでネットの恩恵に与るようになった。「シッピング・ニュース」はそうしたサイトでも評価が高かった。そして今読んでるわけだけど、かなり文章が自分にフィットしてくる感覚を味わえる。作者の雑誌記者歴が長いせいなのか、文章に無駄がないし、なんといっても読みやすい。そして骨太のあるストーリーは既に映画のほうでお墨付きときているから、これは最近のヒットといって差し支えないと思う。この本は恐らく書くにあたって入念な下調べがあったと思う。ニューファンドランド島の風土や船の細かい仕組みがきちんと描かれているからこそ、ストーリーがきちんと地についた印象を受けるのだ。それから本の表紙の青刷りの版画もいい。タイプライターの文字調で左上に小さく題名を入れるなんて、この装丁を作った人のセンスも素晴らしい。好きな人に贈りたくなるような本だと思う。


2002年10月15日(火)

『朝日とともに』
 
 目が覚めたら部屋の中が暗かった。カーテンの間から射してくるはずの光もない。よっぽど寝過ごして太陽が東の空から中空に流れていって光が当たらないせいなのか、あるいは曇天なのかな、と思った。布団の横に誰かが眠っているような気もしたけれど手を伸ばしても誰もいやしない。そう僕はひとりで眠っていたのだから。兎に角、カーテンを開けてみる。東の空が水を多く含み過ぎた水彩絵の具のオレンジ色みたいになっている。誰か(天使?)が東の空に慌てて色を塗ったみたいにも思えた。そう、まだ日の出前ってわけだ。
 オレンジ色の太陽が目の前の洋館の鬱蒼とした木立の間から昇ってくるのを眺める。その熱が街を、部屋を、身体を温めていくのがわかる。朝日に素直に感動するなんて中村一義みたいじゃないか、なんて思ってみる。まぁ素直に感動してみる。生きてるっていいものだななんて思ってみたりもする。
 シャワーから出てみれば、太陽は東の空によぎっていた雲の中に隠れてしまっているけど、気分は相変わらずいい。パン(ポンと飛び出るトースター欲しい)と目玉焼きとソーセージとレタスと南瓜スープ(小型ミキサー欲しい)食べる。思わず二枚もパン食べちゃう。健康でよろし。それから昨日スタバ(なんであんなに愛想がいいんだろう)で買ったパナマの豆(ミル欲しい)で珈琲淹れる。悪くない朝の始まり。

*****

『過去を掘りたがる人たち』

 グレアム・スウィフトの「この世界を逃れて」を読んだ。同じ作家のものを立て続けに読むと、大体その作家の書き方とか興味みたいなものが見えてくる。後書きにも書いてあるが、カバー写真の笑い顔がなかなかチャーミングだと女の人が言いそうなルックスをもつこの作家の興味は、過去を掘っていくことにあるようだ。訳者が言うには、現在の多くのイギリス人作家たちの興味は過去にある、というのが一つの定説であり流れらしい。まぁ勿論流れには例外もあるからそこからはみ出す奔流もあるわけだけど・・・。
 日本の作家を鑑みると、ここまで過去に興味のある人っていないんじゃないかなって思う。ちょっと僕には思いつけない。忘れやすい日本人にとっては、過去というのは消滅していくものでしかないのかもしれない。ここで言う過去とはその作家の生い立ちとかそういうものではなくて、例えば日本の20世紀を振り返ってそれを現在の自分まで線をひっぱってストーリーを編み出す人がいないんじゃないかなって思う。あるいは日本人にとって20世紀はずっと発展中の看板を背負っていたから過去など振り返る暇などなかったのかもしれない。(逆説的に考えると21世紀は没落していく中で過去を振り返る作品が多くなるかもしれない・・・。)
 日本人のお家芸は(僕は文学論にとことん疎いけど)島崎藤村あたりの流れを組む私小説、−現在の自分の状況を克明に綴っていき、その超個人的なものが普遍的なものになりえると胸を張る小説形態 −であって、今の自分たちを大きな歴史の流れにおいて考えることが(今のところ)できていないように思う。それが、結局は過去の過ちは都合よく忘れて、いとも簡単に血が騒ぐままに右に片寄っていく国民の特性なのかもしれない。・・・そう考えるとドイツ人はどうなの?とも思ってしまうのだけど。イタリアでは右翼台頭でタブツキが「供述によるとペレイラは・・・」という素晴らしい作品を書いてその危険性を呼びかけたりしたのだけど。日本では逆に右寄り政治家にして文学者である誰かが逆の意味の作品を書くかもしれないなぁ。
 まぁ日本人のことではどうでもいい。イギリス人が過去を掘り下げたがるのには理由がある。多分、彼らは認めないけれど、イギリスは過去の栄光に比べれば萎んだ国だからじゃないのかなって思う。それが結局彼らの気質を過去に向かわせて、今の自分がイギリスの過去の栄光から諸戦争を経て萎んでいく歴史の中でどう形作られていったのかということに興味をもっているのだと思う。
 スウィフトの小説手法は面白いと思う。まず登場人物をまっさらなまま登場させて、それぞれ自分の足元を掘らせてみる。彼らは足元を掘っていって過去を見ていく。個人的な過去とイギリスの過去みたいなものを交錯させながら、登場人物の過去が混じ合っていく。多分、彼の代表作といわれる「ウォーターランド」(未読)もそういう話なのではないかと思う。掘っていくうちに、堀り手たちの過去の穴が交錯する瞬間がこの作家の作品を読んでいて面白い瞬間だと思う。掘り手たちの現在は全て過去を経由して始めて成り立っているものだとその瞬間に理解できる。
 さて随分長くなったけど(文学部の学生はこんな感じでレポート書いて良だの可だの貰うのかな?えっ、そんなに甘くない!って(笑))、この作品は堀り手たちの最初の距離があまりに遠すぎて、穴が交錯するのに時間がかかりすぎてしまっている。そこに至るまでに読者に我慢を強いらせてしまうところがこの作品の失敗点であり、世間で前作「ウォーターランド」のように受け容れられなかった理由じゃないかな。誰も固そうな地盤に繫がるのかわからない穴など一生懸命掘りたくないのです。この作品に比べると、「ラスト・オーダー」のほうが掘り手たちの距離が近く、わかりやすかったし、(飽き易い僕には)ずっと面白かった。


2002年10月14日(月)

『また決意あらたに』
 
 ああ、今日もいい天気。
 朝から次回のtransparenceのテーマ「キャンプ」(23日にUP予定)を書き綴っていた。今回は短編ではなくて、100枚程度の中編の最初の章という捉え方で書こうと思う。まだ初日だけど、これまでで一番いい仕上がりになりそうな予感がある。(とはいつも思うことだなぁ・・・。)野放図に伸びている茂みのようになってしまった「クリスマス・ストーリー」の剪定ならぬ推敲と合わせて、こちらも進めるつもり。多分いいものが書けると思うし、もう書かなければいけないと思う。正攻法の純文学ぽい作品に仕上げる予定。賞がとれるくらいの水準を目指すつもり。まぁがんばってみます。とりあえずは23日にUPするものを読んでみて下さいね。


2002年10月13日(日)

『さあ、おはじきゲームでもはじめようか』
 
 つかめるだけのおはじきをテーブルにぶちまけてみる。おはじきは始めそれぞれ違う色をもって光っていて、他のおはじきとは何の関係もないような顔をしている。
 グレアム・スウィフトの「ラスト・オーダー」の始まりをたとえるならそんな感じだ。居酒屋に次々と人が集まってくる。読んでいる僕はこりゃ大変だってことで、ドストエフスキーでも読むように人物相関図をつくっていかなっきゃいけなくなる。語り手は次々とバトンを渡されていく。そうして語り手ひとりひとりが自分の世界を物語はじめる。他の人にとって、「あいつはいいよ」という人も、本人の口からはそうではないことが吐露されていく。ひとりひとりが決して楽しくないことを抱えて右往左往していたりする。そうして少しずつこの世界の様相がわかってくる。テーブルの上のおはじきがそれぞれ関係し合いだすのだ。そうして少しずつ各人の過去を見ていくうちに、読み手はその世界のことをわかっていくわけだ、各人が必ずしも知っていない関係ですらも。
 語り手が次々に変わっていくのは面白いけれど、えてして話がばらばらになって繫がりに欠く危険性がある。スウィフトはそのぎりぎりのところで物語を進めていく。一人の友人の灰を海に撒きにいくという現在進行形のストーリーに過去を拾い上げながら。これはじっくり一人でソファにでも座って読む本みたいだ。一人で読むとこの作品の良さが否応なくわかる。しかし、電車の中で読んだりすると話が込み入ってるから全然わからなくなってしまう。大事に読まなくてはいけない。そして僕には大事に読んで然るべきべき作品だと思えた。

 本を読み終えてから市電に乗ってプールに向かう。中村一義の「100S」をMDで聴きながら。こんな曲(キャノンボールは特に)がいいなって思っている時点で、こんなふうに歩きながら聴いてる時点で、ああ全く学生のときみたいじゃないって思う。進歩がないのか、いいものはいいのか、よくわからないけれど相変わらず僕は僕みたいだ。僕と9日違い生まれの中村一義は「僕は死ぬように生きていたくはない♪」と歌っている。ああそのとおり。
 結局僕は喫茶店で珈琲を飲んで読書して帰ってくることになる。プールが何かの大会でお休みだったから。そこで30代の女の人ふたりがずっとしゃべっている。それが凄い札幌という土地を意識させた。東京ではああいうふうに人は話したりしない。うまく説明できないけれど、この大きな島からもう出て行く気などないのです、というような会話口調だった。そう私たちはこの島で十分、この街の中で楽しくやりましょうよってな感じの。
 僕は珈琲カップを置いて出る。6時なのにもう夜がやってきて、街の光が闇にきらきらと輝いている。まるでエドワード・ヤンの「カップルズ」で観た街の光の輝きみたいだった。いやあんなにぎらぎらしていなかったから、王家衛の映画の光だろうか?兎に角、僕はその街の輝きをスクリーンで見たことがあった。僕はスクリーンの中の人物のように、おはじきの一つみたいにそこにいた。そこを歩いていた。


2002年10月12日(土)

『終わってみればひとり』
 
 秋晴れの空の下、家からロープウェー乗り場を越えて西側の丘陵に向かって歩く。からからに乾いた枯葉の音が心地よい。道はカーブを描きながらどんどん上っていく。背中から太陽の日差しを受けているせいもあって、次第に身体が火照ってくる。この道は僕の通っていた高校へと向かう道だ。高校は坂道のちょうど一番上にある。生徒たちは三年間この校舎に登り下りしているうちに足腰が鍛え上げられる。高校時代、部活で夏場このアップダウンの道5キロメートルほどをランニングしていた僕は、大学で山を始めてからもトレーニングなどする必要もなかったくらいだ。
 高校の脇をすり抜けて、札幌を一望できる旭山公園に出る。ここに来るのも彼是4、5年ぶりくらいだろうか。家族連れの姿が目立ったが、石段に腰掛けてみると、聴こえるのは噴水の音と遠くの空をよぎっていく眠たくなるようなヘリコプターの回転音くらいのもの。僕はずっと眼下に広がる街を眺めている。高校時代のことをいくつか思い出す。それも全て10年も前のことなのだから不思議だ。そうして思い出す人たちも今や散り散りでもう会うことすらないかもしれない。
 MDでサニーデイ・サービスを聴く。こんな天気のいい日には、伸びやかな声が似合う。青空に吸い込まれるか、白雲にのって遠くまで飛んでいけそうな気分だ。
 アルバム一つ分を聴いてから、立ち上がってまた再び家まで歩く。なんだか随分歩いた気がしたし、実際歩いたのだろう。ボイルのホタテを買ってきてシーフード・カレーをつくる。時折なぜかこういうものを無性に食べたくなったりする。
 一人で「山の郵便配達」という中国映画を観る。「萌の朱雀」を思わず思い出してしまったが、違うのはややこの中国映画のほうが教訓めいていて、全てを言葉で説明し過ぎてしまっているところ(惜しい)。共通しているのは田舎の人の触れ合いとそれへの郷愁。現代の物質文化によってやがては失われていくもの、あるいは失われて既にないもの。
 見終わって、それを話す人もなく、声なき外部に書いている自分。まるで他の星との引力関係にないで独立して存在している星になった気分だ。光ってみようとしなければ誰にも気付かれることもない星。これじゃいけないかな、と思いながらもなかなか行動に出ようとしない星。


2002年10月11日(金)

『こんな気持ちのいい朝』
 
 晴れた日の朝には君を誘って
 どこかへ行きたくなるような気分になったりする
 誰かと話したくて僕は外へ出るんだ
 住みたくなるような街へ出てみるんだ
 ・・・
 
 羽を広げた空を切り取るような雲ひとつ
 ゆっくりと流れて心を切り刻む
  朝に目覚めた風は君に届いただろうか
 その髪を風にまかせ君は僕を待つんだ
 ・・・
 (♪サニーデイ・サービス「恋に落ちたら」)

 秋晴れの空の下、朝からそんな歌口ずさんで歩いてる。ああ、気持ちいい。


2002年10月9日(水)

『汝、外向きの力を忘れることなかれ』
 
 週明け小トンネルに入った感じで周りが見えなくなりそうだったのだけど、実家帰って、母親の旅行の話など半ば強制的に聞かされ、新聞など読んで世界の動きに目をやっているうちに、トンネルを抜けていた。
 一人で生活して塾(それも中学生)ぐらいでしか世間と接点をもっていないで、残りの時間の多くをカキモノや読書といった個人的な時間に当てていると、世界がどうしても閉鎖系になってきてしまうようだ。書くという行為は確かに自分を掘り下げていくもので、開放→閉鎖に傾いていくのはさほど悪いことではないのだけど、ある程度人との対等なコミュニケーションみたいなものをもって、世界を鳥瞰していないと、どんどん自分の世界に入っていって危険だなと思った。普段生活するときには敢えて見ようとしていない淀みや暗闇のようなものに足を捉われると、自己否定にまで傾きかねないから気をつけないといけないようだ。
 ネットはそういう意味ではコミュニケーションに限界がある。全く違う空間同士を繋ぐコミュニケーションも悪くはないし、僕は確かにこうやって今もそこに向かって書いているわけだけど(そこに向かって書くことで自分に再度投影し直しているわけだけど)、やっぱり肌身のコミュニケーションがなければ人間は駄目になってしまうような気がする。それも心を打ち解けるような人とのコミュニケーションが必要なんだと改めて思った。
 自分の状態がどうかということを客観的に判断するものとして、僕はどれだけ世界に対して関心がもてているかということが大事なのかもしれないなと思っている。例えば、今の日本の経済の舵取りが竹中氏によってどう進んでいくのか。イラク情勢がどうなりつつあるのか。そういう単純なことをきちんと真面目に考えられるくらいに外向きじゃないと駄目なような気がする。
 僕は社会人として出て行ったときに、ああ社会人になるってことは外向きになるってことなんだ、と自覚した。学生時代、スピッツを聴いたり(特に「うめぼし」とか「猫になりたい」なんて曲)あるいは村上春樹氏の作品を読んでいたとき、僕はどんどん内向きに沈んでいって、それが心地良かったりした。自分の内部に下りていけば、周りからの圧力から護られて生きていくことができたから。一方、外向きの力は、社会に対して関心をもち、人とのコミュニケーションを自ら求めていく力で、社会で働くには到底それがなくては無理だと思う。
 今僕がやろうとしているモノを書いて表現することには、外向きの力も多少必要だけど、むしろ内向きのかなり強い力が求められているような気がする。自分の中を掘り下げて潜っていかないと到底いいものは書けないような気がする。しかし、内向きに進んでいく余り、外向きの力を忘れていくようではいけない。自分で内向きに掘り込んであるいは潜り込んでいく過程が逃避や厭世観や自己否定につながらないように、常に外向きに力を張っておかなければならないと思う。潜りすぎて、海面に上がれなくなれば、潜っていく意味がないのだということを肝に銘じよう。


2002年10月6日(日)

『食べ物が人の心を揺るがす話、二題』
 
 ハルストレムの「ショコラ」をようやく観た。この作品、ハルストレムにとっては「サイダーハウスルール」と「シッピング・ニュース」の間に撮った作品なのだが、両作品が生きることの痛みと喜びを丁寧に撮った作品である一方で、この作品は寓話的でメルヘンチックな作品だ。これまで観た寓話的な作品で僕は心惹かれたものがほとんどないような気がするのだけど(まぁ「アメリ」はよかったか)、この作品もどうももう一つのような気がした。それは僕が寓話というものをあまり信用してないからなのかもしれない。寓話というのは全ては愛で救えるみたいな結構安易な流れがすることが多いような気がするのだけど、どうもそういうのに馴染めないのかもしれない。
 この作品のテーマはいかにして自分の考えの違う人を受け容れることができるかどうかという点にあったと思う。多分原作はそこが主軸になっているのだと思う。ただこの作品ではチョコレートが人の心をも変えていくという過程と、ジョニー・デップとジュリエット・ビノシュの簡単なロマンスみたいなところを散らしていくので、主題が見えにくいし、それを語る若手牧師の最後の言葉もいまひとつ重みがない。その結果、作品としてもなんか今ひとつ消化不足のような気がしてしまう。無理やりチョコレートで胸の奥に流し込められたような感覚に近いものがある。
 ふんだんに甘いものだらけのこの映画は女性を喜ばし、さらには製菓メーカーを喜ばしたんじゃないかな。でも僕としてはやっぱりハルストレムにはこの前後の作品のような人生の機微を捉えた作品のほうが合っていると思う。ただこの作品の選択自体は間違ってない。結局、これは世間では成功作して考えられているはずだから。そう考えると、ハルストレムの原作を選ぶ眼力もかなりいいのかもしれないなぁなどとも思えてしまう。

 それから今日はイサク・ディーネセンの「バベットの晩餐会」を読んだ。これは映画のほうが有名なはずで、僕も2回観たことがあるのだけど、通しでは観ていないはずだ。ストーリー展開は面白いことに「ショコラ」とやや似ていて、キリスト教の厳格な宗派が崇められているノルウェーの寒村が舞台。そこにフランスで料理人をやっていた女性が流れていき、その村の中で慎ましく生きていく中で、突然宝くじに当たって、その賞金で村人たちに豪勢な料理をふるまうという話。(ちなみに「ショコラ」はフランスのあるキリスト教宗派の街にチョコレート職人がやってくるという展開。)本の主題がキリスト教信仰と芸術観を軸にしてそれが今ひとつまとめきれていないのに対して、映画では純粋に料理人の女性の思いのようなものが料理にこめられていく様が描かれていて、多分映画のほうがよくできている稀な例なのではないかと思う。映画ではノルウェーの寒村の自然の厳しさや人々の侘しさというのがよく感じ取ることができ、そのお陰でその料理の贅沢さ(人の心を開くという真の意味での贅沢さ)がよく伝わってきたように思う。貧しい人たちが料理を食べているうちに幸せになっていく様がなんといってもよかった。・・・といっても通しで観ていないのでもう一度きちんと観たくもなってきた。


2002年10月5日(土)

『お金を貰って文章力をつけよう』 

 水曜、金曜と塾で国語の教科書にあった辻仁成の「新聞少年の歌」というのを解説した。読書量を増やしたり物事を考えたりすることによってではなくて、単に問題パターンのようなものを覚えてテストで良い点をとることが中学生たちの将来まで視野に入れた場合に良いのか悪いのか、恥ずかしながらわからないのだけれど、兎に角教えていた。
 そうして先ほど何気なくこのHPにある言葉の遍歴に春先にUPした文章を読んでみた。辻仁成の文章を各文の前後関係などについて細かく読んだせいなのか知らないけれど、自分の文章が随分お粗末に見えた。まあ主題のようなものは別に悪くはない。問題は文章のつながり。ひどくつっかかるし、余分なところ、足りないところが結構あるのだ。
 僕は思った。まだ研鑽を積む必要があるって。しかし、一方ではそれを悟れるだけ一応は進歩はしてるんだろうとも思う。UPしたときはそれほどおかしいなんて思っていなかったはずだから。この先、時間があれば、以前書いたものをもう一度書き直すという作業をやってみるといいのかもしれない。(その前に書きたいものがたくさんあって、次は俺だの私よだの叫んでいるんだけれど。)
 それで考えてみると、モノを書く力って、何を書くかよりもまず文章力のほうに重きをおかれるんだろうと思う。文章力さえあれば最初の壁なりハードルは越えていくことができるのだと思う。ただし文章力だけで書きたいものがなければ長く続けることはできないし、読者をひきつけることもできないと思う。逆に書きたいものがたくさんあって、それにたとえ意味があるとしても、文章力がなければ最初のハードルで転倒して、はいおしまいってことになる。
 僕は辻仁成の文章を細かく解読することによって自分の文章の粗末さを改めて知ることができた。塾で国語を教えることは、もしかして中学生たちよりもこの僕のほうに意味があることなのかもしれない。


2002年10月4日(金)

『気を抜いてあげること、元通りにすること』 

 家庭教師ついでに実家に帰った。二週間家を開けてフランスを旅行していた親が帰ってきていて、家の秩序が戻っていた。やっぱり人のいる家というものは温かいものだ。夕食にハンバーグを作ってもらって食べた。母親の作ってくれるものは美味しいし、ありがたい。
 久し振りに新聞の記事を読み込んで世間で起こっている細かい事項をチェックして、母親と話す。北朝鮮について、メディアと世論について、アメリカの共和党政権について、日本経済の建て直し策への展望、高齢者や農民と自民党の結びつきについて、年金問題について・・・。どうやら僕は話す相手に飢えていたようだ。僕が急進的な意見を言うと、母は顔をしかめて心情的な意見に終始する。いつもそんな感じだ。
  
 朝、雷の音で目覚める。今にも落ちてくるんじゃないかっていうくらいの凄まじい音。それですっかり眠れなくなって、お風呂に湯を張ってずっと浸かり続ける。そうしてリラックスする。知らず知らずのうちに気が張っていたのもかなり消えたような気がする。

「一時期痩せ細ってどうなるかと思ったけれど元に戻ってきたみたいね」と母は言う。「顔色もよくなってきたし・・・」僕もそう思う。自分の体調が元通りになってきたような気がする。この前の研究室の飲み会も三年振りなのに全然違和感なかったもの。二年も東京にいたのが嘘みたいに思えたくらい。


2002年10月1日(火)

 さて十月になってしまった。今月の終わりまでに連載中の「クリスマス・ストーリー」を書き終えて推敲重ねて投稿したいのだけど、間に合うかな。現在8回まで書いていて、あと残り3回分くらいでめでたくエンディングの予定。毎回毎回書いていくと筋があちこちに飛んで目まぐるしいにもほどがあるような気もするけれど。そういうものが受け容れられるかどうかは受け手の判断ということで、僕は精度を高めるために最善を尽くさなければ。兎に角、集中力高めて事に当たろう。そうじゃないと進歩しない。


『中学生について思うところ』

 朝布団の中でまどろみながら考えていたことをここに少し書いておこうと思う。
 最近読んだ村上春樹の「海辺のカフカ」と、去年暮れに読んだ村上龍の「希望の国のエクソダス」をふたつ並べて中学生について考えていた。(未読の方はここでストップ!)
 二人が中学生を取り上げたのには昨今新聞を賑わせている事件がある程度背景にあるだろう。それぞれの切り口で今の中学生の考えていること、彼らの行き場所などを考えてみたに違いない。「海辺のカフカ」では春樹氏が思慮深い中学生を主人公として旅形式で話を進めていき、「エクソダス」では不振にある日本経済を立て直す救世主として中学生がネットを使って登場する。双方の中学生に共通しているのが、クールだということではないかと思う。世間で起きていること、あるいは日常のことに対して、一線をおいている。春樹氏の作品の中学生カフカ君は学校というものに意味をおかず自ら図書館などに通ったり、大人(それもインテリといわれる人たち)と会話を重ねて自分の力で生きるための糧を得ようとする。龍氏の作品では、中学生自身がネットという方法を使って世界に発信してビジネスまで取り仕切って、与えられている教育の場を放棄して、自分たちで学ぶための場を建設していこうとする。それぞれ大人から見て非常に賢い中学生であり、頼もしい限りである。中学生たちは今の不況下で喘いでいる大人たちを自分たちの目標におこうと考えず、自分たちの力で新世界を切り拓こうとしている。それができれば素晴らしい。何も言うことはない。
 しかし、だ。僕が思うに、状況は逆の方向に向かっている。中学生は、春樹氏と龍氏が考えるほどにはオトナではない。彼らの時代より、そして僕の時代よりも、さらに幼稚化しだしているような気がする。大体、二人の小説を読める中学生がこの世の中にいるだろうか。(龍氏のほうはほとんどエンターティメントという印象だからそれなりに楽しんで読むことのできる中学生はいるだろうが、小説内のムーブメントを自分に当てはめていこうと考える中学生などいないのではないか?)結局、二つの小説はオトナのための中学生・疑似体験小説にすぎないような気がする。勿論、それはそれで意味はあると思う。まだ完全に教育というものが施されていないまっさらな頭をもつ中学生に戻って物事を考えることができるというのはオトナにとって意味がある。
 だけど、中学生がこの小説をわからないレベルにある以上、多分これまで起こってきた(そしてこれからも起こるだろう)少年犯罪などを解いていく糸口になんかならないんじゃないんだろうか。仮に小説を読んだとして、カフカ君のように自分の力で物を考えていこうと考える少年、あるいは龍氏の小説のように既成社会を越えるような力が自分にはあると自覚(錯覚)できる少年は、始めからほとんど問題ないような気がする。そういう少年達は多分、一時的な怒りに任せて親をバットで殴ったり、ホームレスの人たちを暴行したり、仮想世界と混同して小学生の首を切ったりしないはずだ。
 昨今の事件を起こしている中学生は小説では解けないほどにある意味幼稚だと思う。ほとんどモンキー・レベルといっても差し支えないような気がする。僕が塾講師をやってみて思ったのはそういうこと。中学生のレベルでは自分でものを考えていこうなんてする子はほんのほんの一握りだと思う。そして考えない子ほど刹那の感情で行動を起こそうとする。それを自分に与えられた権利のように思って。
 そうやって考えてみると、岩井俊二の「リリィ・シュシュのすべて」は割と今の中学生の幼稚さというものを描けていたんじゃないかと思う。彼らの背景には、父親の見舞われる不況があり、ネットや音楽といった閉塞的な空間でしか自分を表現できないこと、人の痛みを自分に還元して考えられないこと、親や教師が全く見当違いのことを考えていること、受験神話は崩れているのに未だにそれにこだわっている世界のほころびを知っていること、などなど問題の根底はうまく引き出すことができていたのではないかと思う。ただ岩井俊二に欠けていたのは彼自身に解決能力がないことだ。あれだけ見ると、彼は考えているフリをする映像作家にすぎないという感想しかもてないもの。
 解決という方向性を打ち出せる表現者としては「ユリイカ」の青山真治あたりが期待できるかもしれない。あの映画は中学生犯罪も扱っているけれど、中学生が犯罪を犯してしまうのはもっと深いところに原因がある。凶悪犯罪と呼ばれるものは結局あのような深い原因があるのかもしれない。全部ひっくるまて同じ解決法を考えていくことなどできないから個別に当たっていくしかないのかもしれない。まぁ難しい問題だ。難しいから表現者は考えていかなければならないわけだが。
 兎に角、広範な中学生の問題にあたるには、社会的な機構とか教育というものを掘り下げて、それを考えていくしか他にないような気がする。彼らが本を読まない以上(大体、村上春樹や村上龍の名前からして知らないんじゃないかな)、直接的に彼らに訴える手段としての小説の力は言葉の力は非常に弱いと言わざるえない気がするが、さてどんなものだろう。