2003年4月30日(水)

「春の夕暮れの心」

 夕方5時になぜかすきっ腹になっていて、早めの夕食食べた。たっぷりのサラダとペンネ。それから胃を休めるための珈琲。そうして居間(=僕の部屋)の窓を開けてまだほの明るい夕刻の空気を感じてみた。とても素敵な季節だ。それだけは間違いない。図書館から借りてきたオスカー・ピーターソンのピアノ音は音符形の分子になって低く垂れ込めた雲の向こうに放たれていく。

 
 川上弘美の「センセイの鞄」読んだ。ずっと読みたかったのだが人気の本だけに図書館ではなかなかめぐり合うことがなかったのだ。まさに、ようやく会えたね、っていう嬉しさがあった。
 川上弘美というと「蛇を踏む」のように現実と架空の世界が半分入り混じったような雰囲気を当たり前のように描く作家というイメージがあって、どうもそれが苦手でもあったのだけど、この本は現実世界のほうにぐぐいのぐいと近づいていて肌に合った。この人はどうやら世界一般の価値感に戸惑わされず、自分の見方で世界を切り取っていくことができる稀有な作家のようだ。だからこそ、奥さんに逃げられ老いを迎えたセンセイと、30代後半にして独身のツキコさんの居酒屋やらパチンコ屋やらを舞台にした緩やかな恋愛を描くことができるのだろう。そこには否定的な見方がなく、すべてが心地よく仕上がっている。こうした本を読むことが、自分の世界を大事に生きようと思っている人にとってどれだけ勇気づけられることか。自分の価値感をしっかりもって、自分の好きなものは断固として好きと言っていれば、どれだけ世界は違って見えることだろう。

 
 アキ・カウリスマキの「浮き雲」を観た。職を失って、落ちるところまで落ちた夫婦が最後の最後で逆転ホームランというストーリー。カティ・オウティネンの格好よさに痺れた。前進する意志と鋭い知性を失わない限り、ゼロからだって這い上がっていくことはできるという強烈なメッセージ。のっぴきならないところまで落ちたときの夫婦の愛情の強さもいいし、そこから協力し合っていくところもいい。カウリスマキのベストなんじゃないかな。映画の主題、構成だけじゃなく、撮影(冒頭のレストランの厨房のシーンなど起きている部分をわざと隠してしまうところ)、美術(原色の使い方)も冴えている。こうなったら新作観にいかないと。


2003年4月29日(火)

「ポルトガル語からやってきた日本食」

 天麩羅づくり。学生時代にはつくったこともあったけれど、ここ最近では久し振り。油がぱちぱちいう音がたまらなくいい。ビールを飲んで、一皿すべて平らげる。満足。

 
 パスカル・キニャール「シャンボールの階段」。これは自分と相容れない。文章に入れない、かといって文章の奥に何かがあるようでもなし。100ページ読んでさようなら。

 
 宮崎駿の「千と千尋の神隠し」を今頃になって観る。どうも話題作というので逆に敬遠していたかもしれない。僕が言うのもなんだけど、割といい作品に仕上がっていたと思う。イメージの豊かな喚起力には驚かされた。
 この映画は小説に近いかな、という印象もあった。表面的な活劇的なストーリーだけでなく、一つ一つのキャラクターに意味を背負わせているところがね。
 (以下、ネタバレあり)
 舞台はバブル崩壊とともに閉鎖に追い込まれた中国の町を模ったようなテーマパーク。そこに迷い込んだ主人公の女の子が、現実世界の裏側にある土着の神々の世界を垣間見るというストーリー。設定としてはなかなか面白い。有り余る金だけで作ったような町に、神々が利用する湯屋をつくるなんていうところが。ただ設定はいいのだけど、ひとつひとつの意味づけが弱いような気もした。
 この映画の狙いは、金銭によって古来の自然を壊して何でもかんでもつくっていこうという風潮の終焉の示唆、そしてそこから省みた将来への僕らのありかた、を提示したかったのではないかと思う。この映画の中では度々、お金と労働ということの意味を考えさせている。お金の欲にかられる人、欲を利用して人心を操ろうとする人(神)も、結局のところ幸せというものが用意されていない。主人公は金を必要としないからこそ、全てを打開できたわけだ。そして湯屋において、働かないものは動物になってしまうという設定もそれを暗示している。ただ金銭的な欲を追い求めるのではなくて、毎日毎日を労働にあててこつこつと生きていくことこそが大事なのだということだ。また自然についても、これまで散々痛めつけれてきた日本古来からの川や森というものをその土着神を湯屋に登場させる(湯屋は回復の象徴だろう)ことで再生への望みを託しているように思えた。
 不満なのは、物語上大きな意味をもっているハクという若者の設定。(魔術を学びたいといった意味からしてわからない。)それと湯屋で働いていた人たちが一体何者なのか(人でも神でもない)という説明ができていないところ。もう少し、そのあたりを詰めていったほうが作品的な意味がわかりやすくなったんじゃないかな。とはいえ、これは宮崎氏を否定するものではなく、むしろ肯定に基づいた注文みたいなもの。


2003年4月28日(月)

「世間知らずの坊ちゃん」

 面接。札幌出身という専務のおじさんは履歴書をざっと見て、「今すぐ採用してもいいんだけど、・・・」と口火を切ったが、「だけど君にはここは向かないし、入っても仕事が面白くないと思う。でもまたなんでこんなところにやってきたの?」なんてつぶやく。それから中小企業の大変さやサービス残業の多さやらいろいろと言われたわけ。「まぁ悪いことは言わないから、もっとじっくり考えて探しなさい。もっといいところがあるはずだよ」って何か親のセリフみたいだ。結局、履歴書もってすたすた帰ってきた。
 始めはバイトでいいやから始まって、どうせなら事務員くらい、いやもう少し格上の事務員と変わっていって、いったいどこにいくのやら。家に帰って、再び履歴書と今度は職務経歴書まで書いて、そろそろプチ本気モード。


2003年4月27日(日)

「ルーレットを回せ」

 いつものように図書館へ。自転車に乗っていくと大体15分くらいのもの、天気がいいと気持ちがいい。ずらり並ぶ本棚には読むべき本、読みたい本がいっぱいあって嬉しいような困ってしまうような。
 夜、明日のために履歴書を書く。ネットで調べてみると割とやりがいのある仕事のようだ。面白そうだけど、あくまで専門外。もし自分が面接官だったら、こんな人間採用したいと思うだろうか、なんてことぼんやり考えていた。しかし、一方でそこに採用されることは未だ可塑的な僕という人間の形を微妙に変えていくことになりそうだ。次の仕事を何にするかで人生ゲームの止まるマス目が違ってくる。さらにはその先のゲーム展開まで変わってくる。兎に角、今は、ルーレットを回してみるのだ。

 
 岡崎祥久の「南へ下る道」を読んだ。ある夫婦についての二話構成で、一話目では夫の学友である醜男が北からハーレーでやってくるのと時を同じくして日常生活を失っていく(失職する)様を描き、二話目では旅という非日常に身を委ねていく様を描いている。文学というのは表面的なストーリー展開と同時に底部を流れる意味が大事なのだと思っているが、ややそれが全体的に弱いような気もする。かと言ってエンターテイメントではなく、やはり二話目でいえば彼らの旅の様子(順番に国道を1号から3号までたどって目的地まで行こうとしても所々で道を見失ってしまうところ、など)をその生き方を映す鏡として利用している。肩の力を抜いたような人の良さそうな語り口で何となく読み進めることができるけれど、この夫婦と旅を終えた時点で読者自身の何かが変わっているかと言えば、何も変わってない。結局、そういった、「ありのままでいいんだよ、気楽にいこうよ」的な作品なのだ(厳しくいえば、でしかないのだ)と思う。芥川賞の選考にあがったらしいが、これではちょっと苦しいかなという気もした。


2003年4月26日(土)

「夕暮れを感じること」

 静かな週末。横浜にある叔母の家から一時間半かけて帰ってきて、あとはのんびり過ごした。思えば、僕にとってはこの一ヶ月はまるまる週末だったような気もする。土曜の終りを告げるうっすら染まった夕刻の空気の色に、この週末の終りが近いことをそれとなく感じてみたりする。

 
 ナボコフの「ベンドシニスター」を読んだ。全体的に回りくどく、ファシズム下におかれた世界を描いているだけに色調も暗く、読みにくい。しかし、ラストに向かうにつれて、それまで冷静沈着だった主人公が自己の思想を捨ててまでも子供への愛だけしか考えられなくなっていくところは素晴らしいし、読み応えがある。そうして全てが終われば、それまでほとんど読み流していたともいえる文章を改めて読み直したくなるから不思議だ。
  
 
 「ロボット」という言葉の語源になったカレル・チャペックの「ロボット」を読んだ。チャペックはある日、電車に乗っていて、機械からロボットについて思い馳せたということだった。人間はロボットを大量生産して人の代わりに賦役(robota)にあたらせていくのだが、やがてロボットが反乱を起こしていくというストーリー。「ターミネーター」なども言ってみれば同じ筋書きだけど、これを1920年に発想したチャペックという人はただものじゃない。
 最後には人間は一人のみが残され、ロボット生産の技術が立ち枯れて、人間もロボットも絶滅するしかない状態になっていく。しかし、ここからが面白い。二体のロボットがそれまで与えられていた痛みから心を発生させ愛を生み出していくのだ。ここで最後の人間によって聖書の言葉が紐解かれる。「そして神は人間を自らの姿に似せて作られた」と。
 僕ら人間がロボットと決定的に違うのは、心(愛情)をもつことにあり、もしその垣根がなくなってしまえば、それは新種の人間ということになるのかもしれない。このあたりについては、パワーズの「ガラテイア2.2」やディック?原作の「ブレードランナー」などでも取り上げられていたが、実際に僕ら人間は今まさにこの心の構造を解明し、更には作り出そうとしている最中であり、いずれある一線を越えるという予感をもっている。僕らはこの先、ロボットの反乱か、心についての倫理的な問題のどちらかに直面することになるのだろう。


2003年4月25日(金)

 従兄が仕事で行けなくなったピンチヒッターとして叔母と一緒に横浜球場で横浜と巨人のゲームを観た。くぐもった小雨の球場で、不思議な現実感の中に僕はいた。


2003年4月24日(木)

「さてどう生きようか、なんて考えてみたり」

 面接してもらった会社から電話があった。結果:不採用。もう採用されると思いこんでいたから普通に驚いた。母に電話したら、あまり長くやるつもりがなさそうだからじゃないの?、なんて言われてしまったが。求人はまだたくさんあるからとりあえず次にいこう。それでこの機会に改めて考えた。仕事はどうでもいいのではなくて、ある程度やりがいのあるものを選ぼうというふうに。確かに小説は書いていきたいのだけど、二十代のこの終りに多少でも小さなキャリアになるようなものをやっておかないと、将来が逆に不鮮明になるような気がするからだ。仕事もやるし、小説も書く、それでいいんじゃないかと思う。来週は新宿周辺の会社をいくつか受けてみるつもりだ。
 夜、コンサルの先輩(例の件は断った)から電話があった。電話した後思ったのだけど、人間って若い頃はすごい棘(個性とか夢のかたまり)があって、それがいろいろなところでぶつかったり、もがいたりしているうちに丸くなっていくんじゃないかなってこと。鋭い棘をもつことができたら幸せだ。それを一生もつことができたら幸せだ。だけど、もし棘がなくなったとしても幸せは違う形でやってくるのだと思う。
   
 本読みがここ数日停滞。ショウペンハウエルの「読書について」を読んだ。表紙にはこう書いてある。
<<「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」>>こんなこと書かれたら読むしかない。ショウペンハウエルは一流の哲学者だ。才能なき人々の著書などへの辛辣な言葉を綴れるのも、自分に自信があるからこそだ。3篇からなるうち、2篇目はやや人への攻撃ばかりが目に付いてあまりいい気がしないが、1、3篇は読む価値がある。彼だったら、「価値がある本は長く残るものだ、そしてそういう本こそ読まれなければならない」と平然と答えるのかもしれないが。


2003年4月23日(水)

「凝り性」

 少し前にプルーストの例の世界最長ともいえる小説についてネットで調べていたら読破したという主婦のページを見つけた。その方が「ホームページを始めて、家事をする時間が少なくなったように思う」的なことを書かれていて、そんなものかなぁと苦笑いしたのだけど、まぁ僕も同じようなものなのかもしれない。どうも熱中し過ぎてしまうみたいだ。今日は画像処理であ〜でもない、こ〜でもないなんてやってた。ウェブデザイナーを目指すわけじゃないのだからほどほどにしなければ。逆に言えば、僕にとってこれを仕事にすることは危険な気がする。夢中になりすぎるのだ。そう、認めよう、どうも僕は凝り性らしい。
 一方で、いろいろなHPを見ると、CGIつくりやらイラストつくり、フォントつくりに凝っている人もいる。こうやって好きが高じて、人は専門家になっていくのだろうと思う。世の中で認められている人というのは、大概、その専門馬鹿であることが多い。多分野に渉って、技能を発揮できる人は少なくともこの国においては煙たがられることが多いような気がする。
 どちらにせよ、ある道を究めたかったらそれに凝り性を発揮しなければいけないだろう。寝食を忘れるくらいでないといけないのだろう。春樹さんも小説を書いているとご飯を食べることを忘れると昔書いていたような気がする。一方、僕ときたら小説を書いていると(血糖値を上げる必要を身体が感じるからなのだろうけど)すぐお腹がすいて戸棚をがらがら引っかきまわしたりする破目になる。


2003年4月22日(火)

「消えるものと、再び現れるもの」

 こうやってHPをこつこつ作る時間があるのだから、世界の中でも相当暇な人間の部類に入るのだろう。大方はできたので、明日から他のことにもきちんと時間を回そう。今夜から再公開ということで、こうやって文章を綴っていても指先に神経が行き渡っていることがわかる。世界と繫がっているというのはそういうことなのかもしれない。
 午後から風が強かった。一階でPCに向かっていたら、上のベランダから野良猫が暴れているような音が時折聞えてきた。暮れなずんでからベランダに干しておいた洗濯物を取り込もうとしたらお気に入りのシャツがハンガーだけ残してどこかへ消えてしまっていた。暗くなった庭を探してみたけれど見つからない。天上の春風小僧が得意になって今頃着ているかもしれない。下界には小さな喪失感。


2003年4月21日(月)

「ブロードバンドと面接」

 ADSL導入。実はブロードバンド使うの始めてだったりする。始めて新幹線に乗ったときくらいの驚きがあった。新しいページは急ピッチ作成中。CSSを使いこなせなくって、時間をくっちゃう。
 面接。小さな会社なのに一人の枠に希望者の数がニ十人はいるような気がした。まるで入試の後期日程みたいな倍率だ。「なんで君は研究者にならないんだ?」とかなんとか社長らしき人から訊かれて苦笑い。割と条件のいい会社なので入れるといいな。


2003年4月20日(日)

「そろそろ復活の呪文となえようかな」

 明日から面倒なダイアルアップからADSLに移行できる運びとなったのでサイトのほうも数日のうちに再開しようかなと考えている。夕方からご飯のことも忘れて、ずっとトップページつくってた。こういうのを始めると止まらなくなる。クールかつシンプルなデザインにしようと思う。


2003年4月19日(土)

 ・・・いろいろわからない部分があるけれど、それを突き詰めるよりもむしろサイコロを振り直してしまうほうがよいのかもしれない、そんなことを思ってみる。サボテンの葉の調子もおかしくなり始めている。陽をあてたり、水をあげたりしてみたけれど、逆効果。
 
 
 河瀬直美の「につつまれて」をビデオで観た。彼女は両親が幼い頃に別れて、養母に育てられたそうだ。この映画は彼女の父親さがし、自分さがしがテーマになっている。この人にとって映画とは(少なくとも初期作品においては)ストーリーによって表現していくものではなく、むしろ写真家にとっての写真に近いような気がする。8mmをとおして、世界を切り取り、そこに自分の意味を探そうとする。レンズは世界の視野を狭め、狭小的な自分だけの世界をつくりあげる。その中で彼女は自分に問いかけていくのだ。手持ちで撮った映像は彼女の感情とともに揺れたり、焦点がぶれたりする。彼女はずっと裸の心のままであり、だからこそ父親との初めての電話のときには、あふれだした気持ちが画面を飛び越えて、観ている人の涙腺まで壊してしまうのだ。

 
 ウラジーミル・ナボコフの「ディフェンス」を読んだ。若くしてチェスの名手となったロシア人を主人公にした物語だが、読む上では一筋縄ではいかない。この小説自体が既にチェスそのものを奥に潜めているからだ。ナボコフと同様、チェスを愛する訳者の若島正にはたまらない小説なのだろうが、チェス・プロブレム(将棋の詰め将棋にあたる)をよく知らない人にとっては、話の奥にあるはずの構造が読みきれない。二度、三度読むことで、チェスの巧妙な手のようなストーリーの微細な部分を読み取ることができるのだろうが、この小説は今すぐに再読しようとは思えなかった。ただ、こうした小説の構造というのには結構惹かれるものがあるし、書く上でも大きなヒントを与えてくれるような気がする。


2003年4月18日(金)

「再会や新しい出会い」

 渋谷へ向かう京王線の中で、すごい偶然で、前の会社で一番お世話になっていた先輩と会った。先輩は連日の仕事疲れでたまたま寝坊してしまったと言っていたから、この再会はほとんど運命的といってもいいくらいだ。同じ電車の同じ客車の向かいの席に座るなんてそうざらにある出来事ではない。先輩と話していて、僕はこの先輩のことをかなり尊敬していたのだなということが改めて実感できた。
  *
 K大生三人と知り合った。はじめはM2さんと一緒だったのだけど、交友が広いのかあちこちから電話がかかってきて、あっという間二人増えた。皆、四年生で就職活動真っ最中。文系の学生というのは、ここまでしんどい活動をしなければいけないのかと話を聞いて驚いたのだが、一番刺激的だったのは彼らがとても高い目標をもっているということだ。自己を最大限引き出すような仕事を探していることだ。確かに就職活動は大変だろうけど、彼らはきっと自分の道を切り拓くのだろうな、ということが傍目から見てもわかったような気がする。希望のあるところに道はできるからだ。
 今日会ったばかりの僕を簡単に仲間内に入れてくれて、そういうことが嬉しくもあり、知的な高揚を少し味わうことができた。僕も自分の可能性を最大限追及したしたいし(今は小説だね!)、そうすればこちらからも何らかの刺激を与えることができるし、いい友達にもなれるのではないかと思った。


2003年4月17日(木)

「かんがえちゅう」

 朝、ワンゲルの先輩から電話を貰った。うちの会社をちょっと見に来ないか、ということだった。僕が何もせずに在京していることを知った上での電話だった。この誘いの言下には恐らく「何かうちでやれる仕事を探さないか?」というありがたい意味が含まれている。先輩の経歴を考えれば、恐らく地質系のコンサルティング会社のはずだ。
 朝、メールボックスを開いてワンゲル時代の同期の友人からのメールを読む。いつもの砕けた調子がなく、存外まじめな書き方に思わず姿勢を正してしまう。将来に控える結婚のこと、転職(仕事)のこと、そんなことが並べられている。彼は大学をきちんと四年間で終えて、その間英語もマスターして、一早く社会に出たから結構社会人歴も長くなっている。そこには社会人としての生き方が綴られているようで、いや普通の人間としての生き方が綴られているような気がして、思わずう〜んと考え込んでしまった。彼は、僕の挑戦も知っていて応援していくれていたのだけど、その上で僕が再び社会人として生きることを見越していたようにも思う。それからある女の子の結婚の話、もう子供までいるのだという。時間は流れている。たとえ、昨日読んだ本の中で<言葉>としてそれが想起されているとしても、時間は流れている。僕は決して軽々しくも、楽観的な<言葉>によって自分の感情を表現できたりやしない。僕が選んだ<言葉>はまさに「時間は流れている」という実感を喚起させるものでしかないのではないか。
 きっと再び僕は何気なく歩いてきて、ターニング・ポイントらしきところにいるようだ。社会に出るという何気ない一歩が、きっと未来予想図を変えてしまうのかもしれない。ここで出ないという選択もあるじゃないか、と誰かは言ってくれるかもしれない、しかしやはり霞を食べて生きていくわけにはいかないのだ。何かはしなければいけない。もし先輩の会社のある新宿まで出てもよいとすると・・・・、僕はネットの仕事検索に「新宿」という言葉を叩き込んでみた。結果、仕事はぞろぞろ。以前の知識が役立ちそうな仕事も、出版系も、環境系も・・・。先輩の会社には来週中に伺う段取りをつけた。それまでに頭の中をもっと整理しておかなければ、アピールだってできやしない。・・・だから、かんがえている。

 
 村上龍のエッセイ「恋愛の格差」を読んだ。恋愛というものはどうやったとしてもお金のかかるものであり、お金をもてない人たち(フリーター)が増えていて、かつ男女の経済的な差がなくなっている今、恋愛というものが難しくなっているのではないかというところを投げかけている。帯には、――競争社会の敗者には恋愛は可能なのか――、という挑発的な言葉が付されている。しかし、ここで龍氏が言いたいのは、お金のない奴は恋愛するなとか、フリーターなどの問題を容認している社会がおかしいとかそういう話ではないのだ。彼が言っているのは、いつまでも何かに甘えたり、何かのせいにするのではなくて、恋愛くらい自由にできるくらいの経済力をもてるようになりなさい、ということなのだ。経済力をもつためには、自分の力を磨いて社会に飛び込んでいかなければいけないのだよ、という親心的な語りかけなのだ。そうした各個人が自由な恋愛できるとき、社会もまた活性していくだろうということ。


2003年4月16日(水)

「下調べ」

 あさってM2さんと表参道から千駄ヶ谷に散歩する約束をしたので、ネットでちょこまか調べていた。千駄ヶ谷といえば春樹さんということで、調べたら彼が若いときに営んでいたジャズ喫茶の場所もわかった。そうして実はそこの前を以前Rと歩いたことに思い当たった。「多分このあたりだったんじゃないの?」といったまさにその建物だったという不思議。

 
「過去は言葉によって表出する」 

 中島義道の「時間を哲学する」(講談社現代新書)を読んだ。時間についての彼なりの考え方がわかりやすく紹介されていた。過去というものを考えるとき、僕らはそれが何かのものとして大脳の中に保存されていて、それを時折呼び戻しているかのように感じている。しかし、そういった想起という行為が実は言葉を介在としていることを中島氏は強調する。<<つまり、想起とはこうした「現に知覚した」という直観を伴って、かつての体験を文章的に思い浮かべることなのです。>>僕らは、言葉によって表すことで、あたかもそれを知覚したかのように感じるというのだ。大森荘蔵の言葉を使えば、<<過去とはわれわれが言語的に製作したものだ。>><<つまり、想起とは過去の原体験とはまったく異なった体験であり、いわば過去形の原体験だというわけです。>>確かに、僕らは過去を思い浮かぶとき、それが映像であるときも文章的な映像として思い起こしてはいないだろうか。つまり、僕らは現在の中から過去のあるものだけを言葉として抽出して、その他に対して<<不在の態度>>を示しているということになるのだ。過去はだから今ここにあるということになる。そして<今>も過去との対比によってそれが定義されるのだという。言ってみるなら、過去の束を僕らはテーブルにでも広げてその過去に対して<今>というものを実感しているに過ぎないということになるのではないだろうか。それから未来。<<われわれは未来自体を見ることも、開くことも、触れることも、考えることもできない、未来について考えているように見えることは、じつは未来自体についての考えではなく、未来に起こることだろうと<今>考えていること、つまり現在の心の状態にすぎない。>>つまり未来は形としては無なのだ。
 その時間論を踏まえることで生きるということはどう変わっていくのか。幼少のときから死というものを真剣に考え怯えていた中島氏はこうした時間論を会得することが、<<客観的時間がフィクションらしいという一縷の望みをもっており、それを全身で実感したとき「死ぬ」ことが恐怖ではなくなると思っているのです。>>しかし、本当に死が恐怖でなくなることなんてあるのだろうか。
 僕は死よりも(それはまだ若輩者だからかもしれないが)過去を言葉によって感覚に置き換えているらしいというところが純粋に面白いと思った。そうならば、言葉を豊かに扱える人は、言葉によって豊かなストーリーを生み出すことのできる人は、過去というものがより多彩で多重的なものになるのではないかなとも思った。悲しみも喜びも含めた過去をより多くもっていることが、案外その人の人間としての深みにもつながるのかもしれない。


2003年4月15日(火)

「雨はふったりやんだり」

 ネットで仕事さがし。自分はどういう仕事をしたいのだろう、とそこで高校生のように立ち止まる。僕はきっと仕事をするための仕事を探すだろう、とも思う。検索システムでリターンキーを押すための言葉の選択。履歴書にアピール文も書いたのに、やっぱりこの仕事はいやかもなんて。最優先事項はいったい何だ。お金でもやりがいでもないみたいだ。やりたいことは他にあるのだろう?迷っているのか、考えているのか。ぽつりぽつりと雨が屋根瓦を叩いて、ひとつひとつの雨粒はあっという間に人の記憶から消えてしまうように、僕が生きていたこともこうやって考えていることも希望や夢らしきものもいつかはこの星の記憶からは消えてしまうのだろうとも思ってみたり。

 
 野矢茂樹の「哲学の謎」(講談社現代新書)を読んだ。この本は、哲学の恐らく一番根源的な問いをとにかく発してみようという試みから書かれたもののようだ。だから、問いかけはあって、そこで考えてみるのだけど、明確な答で用意されていない。それが何か物足りなくも思うし、一方でそういう問題をあ〜でもないこ〜でもないと考えることこそが哲学なのだ、ということを示しているともいえる。答のない問題に、答をみつける道筋を示してみることが哲学という学問なのだろう。


2003年4月14日(月)

「ドルフィンが呼び覚ます夏の夜」

 いつもとは逆側に向かって電車に乗った。H市、思っていた以上に大きな街で驚いた。駅前から道路が放射状に伸びていて、たくさんの看板がそこに突き出していた。駅の裏側(南)は何か見たことのある風景だなと思ったら、どうやら何年か前の花火大会だということが、ドルフィンホテルという記号から思い出した。僕らは花火大会に向かう途中に思わず微笑したのだった。
 
 
 奥泉光の「浪漫的な行軍の記録」を読んだ。思っていた以上にずっと面白く刺激的な小説だった。第二次世界大戦終戦間際、敗戦の色濃い中で南の島に展開している日本軍の行軍を追った物語。ただ時間軸は二次大戦からNYテロや湾岸戦争といった現在まで突然引き戻されたりする。それは結局のところ、どんな大義に則った戦争においても兵士のレベルでは上からの命令に即している以上、その思考の中身は大して変わらないからだとも言える。彼らは行軍するが、そこに意味が段々なくなってくるために、目的というものを見失う。ただ考えていることといえば、睡眠のことであり、食糧のことなのだから。<<彼らは思考することをやめ、ただひたすら死に向かいつつあるからこそ、生きているんです。>>彼らは歩きながら眠ったりするわけだが、その眠りこそがつまりは無意識を象徴するものになっている。ただ命令されているから歩き、戦い、休むといった半ばロボットと化したような様子が描かれている。
 日本で天皇というものが大戦までは絶対的であったように、NYテロなどにおいては宗教がその絶対的な玉座に納まっているにすぎないと見ることもできる。行軍する兵士のことをうたた寝で夢見てしまう作家に対して緑川という男は言う。「あれでしょう?ニューヨークの貿易センタービルに特攻したのも先生たちなんでしょう?・・・」と。この他愛無い言葉は他愛無いだけに緊張させるものだ。何だかぞっとするものがある。実は、NYのテロで僕らにとって訳のわからないものでしかないイスラム教原理主義者も、二次大戦で天皇を掲げて竹槍やら零戦で特攻する日本人兵士と大して変わるところがないのだ。ほとんど鏡像といってもいいくらいだ。
 一方で、大戦後、平和の蜜の中でのうのうと生きる日本人のことを死人とも揶揄してみる。もはや僕らには盲目的に掲げるものは全てなくなり、気ままに生きられることになった。そこには苦しみはないがゆえに死人と呼称する。<<苦しむってのは、つまり生きてるってことです。>>この物語の行軍の最終的な行き先が靖国神社だと言われても、僕らにとってははぁあんなところとしか捉えようがない。死体を栄養として育った桜を見て風流を楽しむのもまた死人という諧謔的なおかしみ。
 しかし、この小説の完成度はすごい高い。僕がこのレベルに到達するには多大な時間のうねりと思考の積み重ねが必要な気がする。率直に言ってちょっと歯が立たない。僕はもっとゆっくり掘っていくしかないような気がする。一度掘った畝を何度も掘り返すようなそういった作業が必要なのだと思う。無意味とも思えるくらいに掘らないといけないのだと思う。ある意味、この作品中の兵士の行軍と同じことだ。金銭や仕事というものから、いったん小説を切り離して、あくまで芸術として取り組んでいかなければいけないと最近考えている。一生に一作品とまではいかなくても、やっぱりそれに近いところまで深いものでなければいけないのだと思っている。


2003年4月13日(日)

「図書館通」

 隣町の図書館の図書整理が終わったということで、早速行ってみた。今日は初夏のような陽射しで自転車をこいでいると身体が火照った。
 図書館は以前書いたように、駅前のデパート的な建物の最上階にある。すぐ下のフロアが飲食店街になっているので珈琲を飲みながら休憩することもできる。ここは東京都ではなくて神奈川県になってしまうので、図書カードを新たにつくったのだが最高6冊までなら自由に借りられるということだった。つまり僕は少なくとも東京の今住んでる市で10冊、神奈川県で6冊、計16冊も本を借りられることになったのだ。とっても嬉しい。ここの図書館はどうやら去年あたりにできたばかりらしく、本が全て新しい!新書が揃っている!映画のビデオ・DVD、CDも借りられる!ということでかなり楽しめそう。仙台市のメディア・テークに劣らずといったところかもしれない。それにしても僕はコレクターかと思えるくらい、図書館貸し出しカードの持ち主になりつつある。川崎、仙台、札幌、そして・・・。

 
 ジョン・アーヴィングの「オウエンのために祈りを」読了。アーヴィングらしく上下巻にわたる長い作品だ。生まれたときから小人でありながらも、それに全く屈することなく(この本は小人という身体障害を乗り越えるという話ではない、あくまでそれは身体的特徴といった見方を本人も周りもしている)、自分が神の使命を受けて生きているのだと感じて命を全うするオウエンを、その友人のジョンの目を通して描いている。幼少のときは身体的な差が大きいのだが、不思議なことにハイスクールぐらいまで成長していくと、身体がどんどん成長しているジョンのほうが、オウエンよりも人間的には小さく見えてしまう。ジョンはオウエンに頼りっぱなしだし、実際オウエンはジョンの生きる道筋を見つけてあげているという感がある。
 背景の一テーマとしてはキリスト教の信仰が挙げられる。カトリック、会衆派、監督教会を取り上げている。こうした信仰が生活に結びついている点はアメリカならではなのかもしれない。そして信仰や神というものがどういうものなのかをアーヴィングがこの本の中で考えている節がある。
 他の背景としては、戦争や政治がある。ベトナム戦争を通してアメリカ人の典型的な考え方を描いている。<<「この国はどうなってしまったのだ?」(略)「ばかげた『報復』の精神――サディスティックな怒りが蔓延している」>>とオウエンに言わせる。さらにその後のイランとニカラグアに対するレーガン政権についても取り上げる。そこではアメリカ人はそこから一旦出てみない限り、自分たちのことがわからないのだというようなことを語り手のジョンに言わせる。実際、ジョンは最後にカナダ人になってしまうくらいなのだ。
 本の主軸に居座るテーマは「欠如」ということに対して人間はどう生きるのかということなのだと思う。人はそれぞれ様々な欠如をもって生きていて、それを不安に思ったり、不公平に思ったりしている。人として生きるということが既になんらかの欠如をもって生きているともいえる。オウエンの身体はその顕著な例だし、語り手ジョンにしても父親が誰かはじめ知らないし、途中で美しい母親もなくしてしまう。欠如をどう自分の中で受け止めて生きていけばいいのかということをオウエンは見せてくれる。それは自分が神からの使命によって生きていることを感じ取るということだ。すべては――欠如ですらも――神はなんらかの意味をもたせているのだということを悟るということ、それが大事なのだろう。
 しかし、僕には一方でアーヴィングの最高作とまでは思えなかった。この作品よりも「ガープの世界」や「ホテル・ニューハンプシャー」、「サイダーハウス・ルール」のほうが好きだ。それは、・・・考えてみたのだけど、恐らく主人公の成長の軌跡を見てみたいというところにあるのかもしれない。「サイダーハウス・ルール」までは主人公が成長していく姿が描かれていたと思う。悲しみや痛みを経験していくことによって人間味が深まり、困難な状況をうまく打開して生きていく力のようなものを備わっていくのが感じ取れとれた。しかし、この作品のジョン、それからこの後の「未亡人の一年」ではそこが感じ取れない。無気力とまではいかなくても、事件の前と後でさほどの精神的成長が感じ取れないのだ。それは何かアーヴィングに意図があるのかどうか。あるいはあくまで語り手だからいいという考えなのだろうか。


2003年4月12日(土)

「珈琲党から紅茶党へ一時的な移譲」

 江國さんの本読んでから紅茶党になりつつある。マーマレード入れてみたり、ブランデーを垂らしてみたり。
 本ばかり読んでいる優雅な毎日だけど、そろそろ仕事探しもはじめるつもり。
 
 
 アキ・カウリスマキの「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」を観た。これまで観てきたカウリスマキの作品の中ではかなり異色。前髪をウッドペッカーのようにはねあげ、ブーツの先も同じようにはねあげた十人ほどの音楽グループがロシアからアメリカへ渡るというストーリー。アメリカでロック、カントリーなどの洗礼を浴びながら一路南下メキシコを目指すわけだ。これまで観てきた映画のような極限というものはここには存在しない。すべてを風刺して不思議な可笑しみに片付けようとする。カウリスマキが肩の力を抜いてつくったという印象を受けた。


2003年4月11日(金)

「都心は遠く」

 免許の住所変更で警察署にいく。同じ市なのに駅で6つもある。駅前は大きくて、札幌の中心街に近いものがある。こういうところに生活圏をおくと、渋谷や新宿、銀座が遠くなっていくような気がする。まぁ行く必要がなければ行かなければいいわけだけど。春物のシャツが欲しくって駅前のマルイを物色していたのだけど、結局そういう金銭的余裕があるのかどうか疑問になってやめてしまった。

 
 夜、アキ・カウリスマキの「コントラクト・キラー」を観た。この映画も悪くない。職を失って自殺すら上手くできない主人公(ジャン=ピエール・レオ)が、女と出会うことで人生に光明を見つけていくのだが、はじめに契約してしまった(自分を殺すための)殺人鬼に追われるという話。極限まで追い詰められたときに人は自分にとって大切なものを見つけるし、そこにこそ生きていく力や喜びがあるというのが、カウリスマキの根底にあるテーマなのだと思う。映像の原色使いはここでも冴えるし、殺人者がバスの後ろの席にいるところを新聞紙を映すだけで知らしめるなど無駄なショットを省いているところもいい。ただ煙草がかなり使われていて映像的にはいいんだけど、今にも煙がこちらにも漂ってきそうで思わず(嫌煙者は)咳き込みそうだった。

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「迷い」

 なんかなぁ。うまくいかないかもなぁ。キモチというものが相互交換されているような気がしないんだもの。真意がつかめないんだもの。あまりに表面的すぎるんだもの。確かに忙しいっていうのはわかるんだけど・・・。分からない部分が多すぎて・・・。少しずつ兵なりキモチなりを引いたほうがいいのかな。


2003年4月10日(木)

「戦争収束へ」

 バクダットがほぼ米軍によって鎮圧されたようだ。細かな抵抗はあるみたいだが、イラク側の崩壊してしまった指揮系統が立て直されない限りはもう終結に向かっていると考えてよいのだろう。既に、米英は戦後に向かって動き出している。テレビでちらと見たブレア首相の明るい表情が印象的だった。
 日経社説では、<<米国は、その強さゆえ、戦争に至る過程で世界規模の反戦・反米運動に直面した。それはいまも続いている。運動を盛り上げた直接的な原因は数年来の反グローバル化運動との連動であり・・・>>という書き方をしている。日経は今回の戦争にも小泉首相の言動にも理解を示してきた。恐らく、この新聞は、世界経済において、あるいは日本経済において経済的に良い効果をもたらすものが良いという見地に立っているからなのかもしれない。ただ、やはりグローバル化への警戒が反戦運動と関係していたと片付けられてしまうと何だか納得しきれない気もしてくる。反面、確かにそういうことも言えるとは思うけれど。グローバル化の波が中東の所謂ナラズモノ国家を飲み込み、さらに他の抗う国に波頭を掲げて、やがて全ては静まっていくのだろうか。

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「声を伝えよう」

 この家にもともとあった古い固定電話器がダイアル式&モジュラージャック不対応だったため、楽天のオークションで新たに中古の電話器をゲットした。シンプルな黒いコードレスフォン。京都の大学生の女の子から早速送られてきたわけだけど、その子も他のオークションでゲットしたらしいから回りまわって僕の手元に来たことになる。電話器の数奇な運命。


2003年4月9日(水)

 朝、洗濯機ぐるぐる回して、ベランダに干して、日当たりの良い窓ぎわで本を読んでいた。昼にサンドイッチつくって珈琲いれてまだ本を読んでいた。夕方がやってきて乾いた洗濯物とりこんで、三つ葉と鶏肉のパスタをつくってサパー。平穏きわまりない一日。

 
 夜、アキ・カウリスマキの「パラダイスの夕暮れ」を観た。この作品でも金銭や生活というものを極限まで切り詰めていく。その中で、何が大切なのかを問いただしている。そうしたハードボイルド的な状況において、人は自分の生きる道を見定めていけるものなのだ。それにしても、社会の上層にいない人たちを、なんて恰好よく描きだしていることだろう。素晴らしい。映像も原色のコントラストを用いて緊張感を創出していて上手い。


2003年4月8日(火)

「心に残るしこり」

 レイモンド・カーヴァー全集第3巻の「大聖堂」を読んでいる。心に響いてくるものがあれば、そうでないものもある。この中では「熱」という作品がいい。出て行った妻への想いを断ち切れないまま日々を過ごしている美術教師の話。雇った歳のいったベビーシッターが新しい人生に踏み出そうとすることで、彼もまた過去を整理していこうとする。読んでいて、他の作品も思い出したりもした。どうもカーヴァーの作品というのは心に残るしこりのようなものを描いているせいか、読んだ後も心のどこかに消えずに残ってしまうようだ。
 カーヴァーの小説を読んでいて触発されて、僕も短編をひとつ途中まで書いてみた。そのストーリー中で解き明かすことのできないしこりが何かを見極めようとする過程、それが書くことのような気もする。僕は書いて、自分の中で解ききれていないものを解体していく。最後にしこりが残る。決して、消えないようなしこりがね。
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 夕刻、久し振りにMさんと会った。表現といったことについて話せる友達ってありがたい。楽しかった。


2003年4月7日(月)

「春は少し物哀しいくらいがいい」

 年末に出した文學界ダメだった。本屋さんでぱっと開いて、「あっないかっ」て、もう痛いほど落胆するわけでもない。だからと言って、諦めたわけでもない。一応、年2回の文學界の応募だけは続けていこうと思う。次はもっといいものを書くよ。うん。
 お日様がさんさんと降り注ぐような一日。自転車に乗って隣町まで回ってきた。桜があちこちに咲いていて、気持ちのよい風が吹いている。サニーデイ・サービスの「花咲くころ」が頭の中をめぐっている。何かが始まっていく予感がする。だから、ずっとこのままでいい。


2003年4月6日(日)

「花見」

 横浜に住む叔母と祖母と従兄と花見に行った。鎌倉まで車でぐるっと回って、いくつも桜並木を見てきた。見事だった。帰りには従兄の新居を見せてもらってから、叔母の家に行って夕食をご馳走になった。そんな日曜日。


2003年4月4日(金)

「ひとり、雨の夜」

 雨の夜だ。ひとりの雨の夜だ。僕は小説を書いたり、読んだりしている。僕は片方に飽きると、その作業を入れ替えているわけだ。小説はしかし完成するのかどうか、まだ道は長い。やはり期限を決めてやらないと、どうもずるずるやってしまう傾向にある。小説自体はかなり面白い線に進んでいる、しかし問題はそれをきちんと書き切れるかどうかということだ。やはり僕には、この背中に向かって、「早く書け、読ませてくれ、これじゃいけない、これなら面白い・・・」とかなんとか言ってくれる人が必要なのかもしれない。せめて一日時間を決めて机に向かったほうがいいのかもしれない。

 
「小説世界における構築という行為」 
 
 スティーブン・ミルハウザーの「マーティン・ドレスラーの夢」を読んでいる。煙草屋の息子がホテルマンを経てカフェを経営し、大立者に登りつめていくという話。ミルハウザーらしく、細かい設定や描写に余念がない。まるで彼が体験した人生を読ませているようにすら思えてくる。恐らく、これまでの彼の作品中のベストのような気もする。物語自体が、これまで扱った人形師とかアニメなどといったある意味狭小な世界から一挙に都市を世界を掌握せんという野望をもつ男の話に広がっているのだから。話が大きくなったのに、粗がないというところが彼の凄さだ。
 さてこれを読んで思ったのは、主人公マーティンの物をつくる方法だ。前半ではカフェチェーンをつくっていく様子が描かれている。細かい部分をおろそかにせず、人の心地良い空間をつくりだそうとする姿、さらにある時点で満足せずすべてを高め、新しいものを掌握せずにはいられないというのは、実はミルハウザーその人の小説の書き方なのかもしれないということだ。そうして思い巡らすと、「国境の南、太陽の西」で春樹氏がハジメ君につくらせたバーも随分とこだわりをもっていたことに気付く。春樹氏の小説空間の心地よさはこのバーの心地よさと同質のものだ。自分だけの空間がそこにあるという気にさせる。ミルハウザーのつくる小説空間は増殖するカフェや近代的に変貌させられるホテルと同じように、常に前進して獲得することによって成り立っているわけだ。ではオースターはと考えれば、例えば「偶然の音楽」の中でつくらせた石積みの塀のことを思い出す。オースターは一見価値のない、ただ重いだけの石(つまり言葉だ)を積むことによって小説世界をつくりあげているとも考えられる。これは恐らくすべての小説家(例えば、アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」、パワーズの「ガラティア2.2」の人工知能・・・)に当てはまるのでないかと思う。
 では僕は?残念ながら僕は小説世界の中で何かを作り上げるシーンを書いたことがないような気がする。もしかしたら、それが僕の弱点なのかもしれない。例えば、イチゴ畑のシーンを単調に描いたりしてしまうところが、あるいはショートケーキを作るシーン・・・。ああいうところこそ、きちんと描かなければいけなかったのかもしれない。破壊するという行為は派手さもあってわかりやすいがそれは一時的なもので終わってしまう。構築という行為をもう少し取り入れていくことを考えたほうがいいかもしれない。そこに作風が如実に表れてくることが大事なのかもしれない。


2003年4月3日(木)

「太陽に左右されない生活」

 祝ボイラー復活。タービンが凝り固まって回っていないのが原因だった。
 今は温かいシャワーも浴びて、庭を眺めながら、ゲッツ/ジルベルトのボサノバなんか聴いているのです。ああ心地よい快い。
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 午後、一番近くの図書館へ出かける。学生時代に使っていたサイクリング自転車に空気を入れて久しぶりにのってみる。風を切って車輪は回る。自転車にのるのってなんて素敵なことだろう。図書館は10冊も本を借りれるとのことだったけれど、これまで札幌4冊制度に慣らされた僕には貧乏根性みたいなものが植えつけられてしまってたくさん借りることに引け目を感じてしまう。それでも、札幌では結局借りることのできなかった本をいくつかゲット。幸せな気分。
 
 宇佐美圭司の「20世紀美術」(岩波新書)を読んだ。僕はこういった画家や芸術家による作品論みたいなものが割と好きだ。そこでは、例えば現代アートの道筋を追っていく中で、作者自身がそれをどのように捉え、咀嚼してきたか、そうしてどこに向かおうかということについて、率直に書かれているからだ。すべては明解に記述されるけれど、その過程には「これでいいのか?いやそうじゃない」といった葛藤のようなものが見え隠れする。
 この本では、作家ミラン・クンデラの「不滅」(未読)という作品が引用され、その登場人物がNY近代美術館を訪れて、ピカソやブラックやマチスらの画風に強烈な印象を与えられた一方で、それ以降のポロックやロスコといった所謂ニューヨーク派の画家たちの抽象的な絵画に落胆する様子を紹介する。それらの作品が現実から遊離してまるで<砂漠のまっただ中>のようだと形容している記述に、宇佐美氏は理解を示す。
 究極的に抽象化に向かってしまって、残るはサブライムとして肥大するくらいの道に向かっていったり、オリジナリティーの重視から受けの良い作品をつくる傾向があることに疑問を呈してみせる。それらがアメリカという風土で育ったが故(→サブライムやオリジナリティの重視)の現代絵画の問題なのだということを示してみせる。
 宇佐美氏は冒頭、マチスが抽象画において表現として具象を残して足踏みを重ねたりしていたことに着目したり、現代アートの中で自己の表現の仕方を模索したポロックやクレーなどの足跡を追ってみた後、自分の表現のありかたを‘ホリゾント‘(場)においていくと宣言する。ホリゾントというのは、竜安寺の借景に見られるような場の階層性のことをここでは指しているようだった。究極まで単純化された現代アートにはそうした階層性のようなものがなく、見た目にも作家性としても均質化されてしまって、新たな意味合いの創出がはかれない。そうした文脈からホリゾントの創出によって新たな切り口を見せることができるのではないかというのが宇佐美氏の葛藤の末の終着駅というわけである。
 宇佐美氏のいうとおり、20世紀の美術は、テクノロジーの極度の発展に追随しなければいけない使命感のようなものをもちすぎて、行くところまで行ってしまったように思える。その過程においては古きを見返すやり方と、テクノロジーに迎合していくやり方の二方向から行き着いてしまったと彼は言う。発展していく過程において多種多様に文節した芸術も、結局は廃れていくものや伸び悩むものが生れていくのだろうと思う。(事実、抽象化やサブライムといった手法ではもう限界なのだ。)その中でやがては主幹(あるいはそれに近いもの)を成していくものが表れるということになるのだろう。21世紀に入って、ストリームははっきりしてくるだろう。そして廃れた枝も含めて、それが新たな芸術をつくっていくのだろう。・・・って何か偉そうだな。


2003年4月2日(水)

「太陽に左右される生活」

 この家、ソーラーで給湯をある程度まかなえるのはいいのだけど、太陽が出ないとお湯が出てこない。本当はソーラーとガス(ボイラー)の切り替えるようにできるはずなのだけど、@切り替えが壊れている、Aボイラーも壊れている、ということで今日は@をソーラーの会社に直してもらった。明日はA。お金は祖父が出すと言っているものの、やっぱり金銭が絡んでくるのは頭が痛いな。今日は曇のち小雨ということで、お湯が使えなかった。そろそろ、たっぷり湯の張ったバスにつかりたいな。
 江國香織の「ホリー・ガーデン」では主人公の果歩が「温かいお湯の出るシャワーがあれば、どこでも生きていける」というようなことを言う。僕も同じだよ。しかし、一方でシャワーなど絶対に望めない長い山旅を繰返したり、シャワーの壊れたホテルを回るような過酷な旅をしてきたこともあったりする。それに比べれば、全然たいしたことないか。今、お湯に窮乏していてもいったん当たり前に使えるようになれば、イーサン・ケイニンが書いていたとおり、贅沢に人はすぐ慣れてしまう、のだろうな。
 「ホリー・ガーデン」は僕と同じくらいの歳の二人の女性のやりとりがうまい。既に自分というものがある程度確立していて、恋愛や仕事などでもそうは大きく揺れ動いたりしない年頃、それでいて近い過去というものに慈しみを覚えるような年頃がうまく描かれていた。尾形亀之助の詩が多用されていたのには驚いた。思わず、昨日並べたばかりの本の中から詩集を取り出して、ぱらぱらとめくってみたり。
  
 
 夜、アキ・カウリスマキの「マッチ工場の少女」を観た。とことん不幸な少女が復讐によって身を消滅させるというストーリーとくれば、面白そうに聞こえないのだけど、これが面白い。感情といったものがむやみに吐露されずに、孤独すぎる心の中に隠されていて、ときに期待を抱かせるようなことがあるとそれがちらっと浮き上がり、それが裏切られると沈んでいくため、それを見届けずにはいられなくなるからだろう。なんてクールで、ハードボイルドなんだろう。映像は、フィンランドらしい、水色がかった青色の使い方が好き。


2003年4月1日(火)

「エイプリル・フール?」

 嘘をつく日だということをすっかり忘れていた。友達がそれをケータイ・メールで教えてくれたけれど、その後書いてあった「ジンを飲みすぎたょ」というのが本当なのかどうなのか。僕はアルコールではなくて、なぜか牛乳なんて飲んでる。なんて健康的なんだろう。
 引越し荷物が届いて、一日中、居間を自分の部屋にしていた。結果、ふつうに僕の部屋になった。いい感じだ。