2003年8月31日(日)

「川上弘美の作品 日常からの逃避」

 三茶で朗読会のようなものを聴いてきた。川上弘美の作品を小島聖と緒川たまきが舞台上につくった方形の水面のまわりで読み上げるといった形式。普段文字として入ってくるものが音として入ってきたときに、物語はどのように変わるのだろうかというところに興味があった。僕が思うに、朗読はただ聴いているだけではさほど何か驚きがあるわけでもないということ。(多少僕の身体の受容性が落ちていて、音をそのまま心までもっていけなかったこともある。)途中からなぜか自分が読みたいような気がしてならなかった。
 取り上げていた川上さんの作品は3つあったのだけど、全て逃避がキーワードになっていた。この人の作品って結構対人的に近すぎるような印象を僕は受ける。(たとえば村上春樹が1.5の距離だとすれば、川上さんのは0.7くらいか)。特に皮膚感覚というものを強く感じる。ただしそれは辺見庸や今村昌平のような粘着感のあるものではなくて、そのまま身体が消えていくような類のものなのだ。「愛欲」という言葉を使ってもその行為自体は何かを強く求めるというよりは、むしろ何かから逃げるための手段になっているような気がするわけだ。彼女の作品って閉塞感を感じたり、息が詰まるような日常からの逃避をテーマにしているのかもしれない。読者は彼女の作品によって擬似的な逃避を体験していくのではないか。しかし、一方で彼女の作品を求める人は逃避ができないから読むのであって、逃避できるっていうわけではないんじゃないのかな。そうやって考えていくと、センセイの鞄のセンセイも、主人公にとって逃避させてくれる相手だったのだと思う。逃避させてくれる相手というのは、つまりは日常的であってはならない。どこか非日常的な一風変わった(あるいはずれた)人間でなくてはいけないってわけなんだ。彼女の作品中に、表面的な人物描写がなかったり、あるいは動物を出してみたりというのも、つまりは日常というものを感じさせないためなんだと思う。
 とここまでまとめてみると、こうしたリーディング劇にも演出の仕方というものがあるだろう。僕が演出するならストーリーの流れによって、日常を逸脱させるようなものにしていくかもしれない。単なる朗読だとしても、そうしたイメージを強く喚起させるようなイメージを背景に投げかけるなりするかもしれない。今回の舞台上は一貫して水面を用いたことによって空間を切り取る鋭さと冷たさ、クールさを想起させたけれど、果たしてそれが題材とあっていたかどうかということになると疑問かなぁ。(以上、あくまで素人目で考えてみたってわけ。。)


2003年8月30日(土)

「雑多な一日」

 割り当てられている仕事の量がどうも多すぎるような気がする。片付けても片付けても次から次にあってぜんぜん終わらないんだもの。まぁ土曜ってことでやってくる学生さんとトークできるのは楽しいけれど。「わたしも大学職員になりたいなぁ」なんて呑気に言ってくる子もいて笑えた。
 家を二度目の下見。初回のときはいいところばかり目に付いたけど、二回目はこっちもチェック態勢で臨んでいるので細かいところによく気付く。希望と妥協のラインを探りつつ、決めた。お金もさっさと払って、来週末には引越しするよ。
 夜、気分転換かねて髪を1cmだけカット。美容師さんが僕の仕事を当てるんだとか言ってその回答に絶句。「パチプロじゃないですか。今夜はちょっと飽きてきて家に帰る途中とか?」・・・どうやったらそんなふうに見えるわけ? 正解教えたら、「案外やらしいんですね」ときたものだ。


2003年8月29日(金)

「世界という座標系の中で僕らは」 

 運命の糸っておもしろい。夜十時過ぎのM駅で、僕はエスカレターを昇っていたのだけど、ここで大学ワンゲル時代の後輩H君と擦れ違う。お互い、なんでこんなところで!という感じで目を丸くする。なんでも彼はここに住んでいるんだそうだ。これから彼女(この子も後輩)を向かえに行くんだそうだ。彼の話だとP先輩もこのすぐそばに住んでいるとかなんとか。帰りの電車待ちながら思ったよ、場所と時間はX軸とY軸の関係みたいなもので、僕たちはそこに点を打ったり線をつなげたりしているだけなんじゃないかってね。数学者だったら、この邂逅を確率式に表せるのかもしれない。


2003年8月28日(木)

 いろいろなものを軌道にのせながら星は宇宙をまわっていくのでしょう。


2003年8月27日(水)

「試される楽観主義」

 ドラえもんに、ふりかけると3分ごとに二倍になっていく薬が出てきたが、今の僕の仕事もそんな感じ。ミーティングする度に増えていく。こういうのが増えていくと相当のプレッシャーになって仕事の夢を見たりする人もいるそうだけど、その点、僕はお気楽にできあがっているおかげで変な夢を見ることもない。
 タブッキ、悪くない。謎を追っていくミステリー風仕立てだけど、ここにはやっぱり「インド夜想曲」のようなエッセンスが入っている。インド夜想曲では失踪した友人探し=自分探しだったけれど、この作品でも恐らく、殺人事件の謎を追うことが自分を探し当てることに繫がっていくのではないかと思う。会話の中には既にカフカやらフローベルを引用して、明らかにどこかに僕らを引き込んでしまうような仕掛けが施されている。あるいは「供述によるとペレイラは・・・・」で見せたようなファシズムへの反旗をここでも翻すのかもしれない。確かにその予兆があるのだ。ただそんな予感を抱きながらページをめくっていく。


2003年8月26日(火)

「僕は僕らしくね」

 仕事に出て三日目で予想したとおり山となる。書類の山という表現があるけど、事務系の仕事は仕事の量が目の前に山となって出現するから面白い。横のできる先輩は不思議なことに机の上に何にも置いてないのだけど、今朝はエッフェル塔のように局地的に積み上げていて、他の机に雪崩を起こしていた。山をこなしていくに際して、僕が一番不得意となのは人にまわすということ。前の会社では自分が下っ端役だったせいもあって、どうも自分が砂時計の上の砂をばらまく装置になりきれていないような気がする。そして装置としての機能性をあげるにはどうしても業務についての勉強が必要だと痛感している。来月は僕がチーフになって大きな仕事があるので、半ば無理やり勉強することになるんだろうけど。実は引越しを急いでいるのにもそんな理由があったりするわけだ。機能的になるには、物理的な障害はできるだけ取り除いておいたほうがいいってことなんだ。
 ここで日記を終わらせてしまえば、標題の僕らしくってそれはつまり仕事のことなのかい?って呆れ顔の突っ込みが入りそうだけど、うんにゃそういうわけではないのだ。機能的であることと、その逆であること、そのニ方向性のバランスをとる必要があるってことなんだ。
 帰りの電車でタブッキの「ダマセーノ・モンティロの失われた首」を読んでいた。そうしたら久し振りに本が僕に語りかけてくる気分を味わえたんだよ。実際、この本が面白いのかどうかはまだ読み始めたばかりだからわからない。だけど、確かに本の向こうに作者の思考の流れと息遣いを感じ取ることができたんだ。今は全ての時間をそうした扉の向こうに、思考や感情の川の流れに委ねることはできない。だけど、一日の一瞬の時間でもそちらの世界に心を繋げることはできるんだな、と思ったよ。まるで表玄関に対する裏口みたいなものなんだよ。どんなときでも、僕はそっと裏口から外界と接しなっきゃダメなんだ。詰まるところ、それが僕らしくってことなんだ。


2003年8月25日(月)

 ふと気付くとやらなっきゃいけない紙片片手にうつらうつら。


2003年8月24日(日)

 六本木のアークヒルズまで出て、日本フィルの公演聴いてきた。ヘンデルの「水上の音楽」が素敵だった。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲はこの前買った諏訪内晶子さん+チェコ・フィルのCDのほうがいいような気がした。生演奏よりCDのほうがいいというのも変な感じだけど。実は会場できちんと演目を見るまでなぜこのチケットを購入したのか自分でよくわかってなかったのだけど、まぁおわかりのとおり「北京ヴァイオリン」の影響なんでしょうね。しかし弾くのならやっぱり命がぶっとぶくらいに魂が浮かび上がるくらいまでやって欲しいです。このヴァイオリン協奏曲(特に第3楽章)について言えば、鳥肌が立つくらいじゃないと聴いた気にならないです。
 指揮者を務めた小林研一郎という人が結構茶目っ気のある人で、演奏の合間に観客に軽くトークしてみせたり、ピアノでさっとドビュッシーだのムソルグスキーだの弾いてみせたりする。チャイコフスキーの「1812年」では客席にトランペットとトロンボーン奏者を増やしたり、アンコールの曲では演奏者たちに傘の花を咲かせたりさせる演出まであって、何だか憎めなくってにんまりしちゃった。今後もクラシックは少しずつ聴いてくつもり。
 帰り、家探し。そうして、結構いい条件のを見つけて仮押さえした。駅(歩15min)と大学(歩15min)のちょうど中間くらいにあって、1K(6+4)、3F、南向き日当たり良、緑がたくさん、ガスコンロ、フローリング、ベランダということで予算内だったからいいかななんて。あんまり即断するのはよくないと思って、来週もう一度見るんだけどね。僕の生活の場合、駅までの距離がつまり遊びやすさ、学校までの距離が仕事のしやすさに直結するんだよね。一応若干駅に近いかなという感じです。しかし、以前書いた小説の中で独歩君を登場させたのにもどこかで運命の糸か意図があるのかなんて思いたくなったりもして。


2003年8月23日(土)

 「my life as a dog」という映画があったけれど、それを掛けて僕の生活を形容したら一体何て言ったらいいんだろう。as a messとかas a chaosとかそんな感じなのかもしれない。それで、今chaosの綴りがあっているのか不安になってPCの中に入ってる辞書を見たら、chaosの反意語はcosmosだって言うんだものね。cosmos・宇宙を彷徨える犬のほうがまだシンプルな生き方をしているのかもしれない。僕も人との接触が深くなくて、擦れ違いもままあるときているわけだけど、この粗雑な生活の中で孤独なんだよね。あるいはそれを孤独なんて人は呼ばないのかもしれないけれど。本当はこの映画なり、あるいはそれの延長上にある「スプートニクの恋人」でもじっくりと読んで考えなければいけないのかもしれない。
 chaosたる僕の一日。布団と洗濯物ベランダに干してから午前中は習い事、午後はM市(結構便利な街だと思う。)をぶらついて携帯解約してから新しい携帯(解約したJ-phoneを再度新規契約)を買ったりしたわけ。その合間に雑誌ぱらぱらめくって引越しのことを考え始めているわけなんだもの。今の生活を機能的に動かさなければいけない割に、住んでいるところがとんでもなく不便なところなので、もう少しコンパクトにシンプルに機能的な生活をしたいなっていうわけなのです。しかしそのせいもあって、足が地についていないような気もする。全てを追いかけて生活を送っているような気がする。
 chaosたる僕といえば、思考のあり方もよろしくない。全ての思考が極めて浅い。シャベルで土を掴まえるに至ってない。表層にある雑草と戯れているに過ぎない。機能的に生きるということは、無駄なものを捨てているということに違いないわけだけど、実のところ無駄なものとして捨てているものにこそ大事なものが含まれているんだよね。1年半前ほどに、僕はある人と話をしていて、丁寧に生活を送ることこそ大事なんだよね、って結論を得て快哉を叫んだわけなのに、今は全く違った暮らしをしているような気がするわけだ。今回は旅先でとある女性と知り合って、夜お酒飲みながら、本当は丁寧な生活をすることが大事なんだよと力説したのだけど、その人ときたらとんとわかってくれなくって、こりゃダメだななんて思ったわけ。(既に自分がダメなわけなんだけどさ。)今は純粋に丁寧な生活を送ることができる人に何となく憧れをもっているかもしれないな。本当はそういう人とさ(別に男だっていいんだよ)、深いところに降りてじっくり話したりしなっきゃいけないんだよね。
 夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった、という谷川さんの詩のフレーズをつかって僕は一月前くらいにある人に手紙を書いたのだけど、本当にわかりあいたかったんだと思うよ。そんなこと考えていると、ちょっと涙が出てきたりするんだよね。 


2003年8月22日(金)

 私服にいつもの手提げ鞄という恰好で学校まで行けるから改まって仕事と気を張り詰める必要もなくてちょうどいい感じだ。そして週末。


2003年8月21日(木)

 ただいまっ。暑いヨーロッパから帰ってきました。これを読んで下さっている皆様、お変わりありませんか? 
 家の中は締め切っていたせいでひどい匂い。網戸にして、買ったばかりの空気清浄機をターボでかけています。最近、何だか匂いに敏感なのです。今、お風呂のお湯入れてるところ。旅の余韻に浸りたいところだけど明日から仕事!まぁ湯船くらいには浸るけど。
 今回の旅で失ったもの。ケータイ(全メモリと気に入っていたストラップ含む)。picnicオフのハサミ。
 今回の旅で得たもの。何人かの友達。思い出。予定外の日焼け。若干ながらのアルコール耐性度。
 旅日記、そのうちUPします。


2003年8月9日(土)

 台風ついて夏休み前にひとがんばり。やりかけの仕事が終わらなくて、整理がつくどころか、毛糸玉をほぐしてしまって「あああ」ってな感じ。この前の4年生の子がやってきてすごく眠そうな顔しているから、どうしたのって訊いたら、「睡眠実験なんです」だって。一瞬ひいてしまって用意してあった言葉も言わずじまい、言わずじまい。
 英文のカリキュラム編成で相手役だった教員から電話が来て、ワードの使い方がわからないとかななんとか。この人、フィッツジェラルドの文庫の解説書いてたりするわけで、・・・書いてたりするわけで(笑)
 ようやく仕事終えて、一挙に感覚器を解放したら風景が僕の中に飛びこんできて、涙が出そうになったわけで、出そうになったわけで。
 夜は弟と飲みにいって、飲んで食べて食べて、安いなこの店、なんて半年前には払えなかったお金をぽんと財布から出してるわけで、出しているわけで。
 成田から飛ぶ前にもうちょっと東京で遊びたいななんて思ってたり。だけどパッキングはしなっきゃいけないわけで、いけないわけで。じゃあまたね、なんて言うわけで。


2003年8月8日(金)

 スクーリングの学生さんたちに混じって登校。私服だとほとんど同化状態という感じ。そしてあっというまの一日。
 梅原猛の「日本文化論」。二十数年前の本ということで考え方としては古いし甘い。戦争で自信をなくした日本人へ日本の時代が来たのだと高らかに宣言してるわけだけど、今や斜陽なわけで。


2003年8月6日(水)

 夏休みだから大学まで私服で行く。それだけで随分と解放されたような気分がする。学生にも一歩こちらから階段を降りたような感覚になる。教室を借りにきた4年生の子とも結構しゃべった。普通に可愛かったということもあるかもしれないけれど。僕、実は今白紙状態なんだよね。まぁそういうわけでいろいろと考えちゃうわけです。


2003年8月4日(月)

 朝の6時に弟がやってきた。相変わらず日焼けして元気そう。一週間は一緒に暮らすことになる。
 カズオ・イシグロの「浮世の画家」読了。彼らしく、この主人公もまた独善的なところがあるが、それを一言も主人公に自覚させず、周りの人たちの境遇の変化などから読ませていく。・・・もう少し書きたいとこだけど、眠くって勘弁。


2003年8月3日(日)

  世間のニュースについて話す機会があったのだけど、よくわかってないことだらけで参っちゃった。SOFAなんて聞いて一体何?って感じだものね。(今もよくわかってなかったりするんだけど)。)少しは新聞も読まないといけないかも。仕事を始めてから少し視野が狭くなってしまってる気もする。
 やっぱり休日が一日だともの足りない気がする。映画か絵でも見たかったなぁ、誰かとお茶したかったなぁ。
 最近、物を買うのもわざわざ出歩いて袋抱えて帰ってくるのが大変だからネット購入が多くなりつつある。それでparis matchのセカンドやらCDを一挙にHMVのオンラインショップで買って今聴いているってわけ。
 ベランダに干してたお布団を取り込むときに上空に光る月がきれいだった。そういう場面で小さな感動を共有できる人がいたら楽しいんだろうけど。


2003年8月2日(土)

  研修2日目。十数人程度に別れて行った同業務同士の話し合いでは司会をやる破目になって、人の意見を集約していったり、話の展開を滞らせたりしないように気を配ったり、発言していない人にふってみたり、・・・と普段使わないような脳の多重的な動きで疲れちゃった。人の意見をまとめるのは大変ということがしみじみとわかったよ。
 夜コンパ。モーションかけたりかけられたり、天秤かけたりかけられたりって感じ。学生みたいなんて言ってないで、天秤をどうするかちょいと考えなっきゃ。


2003年8月1日(金)

 白山まで行って職員研修。職歴3年未満対象ということで新卒者が多くてフレッシュだった。話し合いをすると主導権を握るのが、転職者だというのも面白いところ。夜はコンパ的飲みで楽し。


2003年7月31日(木)

 焼肉食べに行っておなかいっぱい。ネムネムであります。


2003年7月30日(水)

 妹に紹介したいなぁって思うんだよね、なんて言われて照れてみたり。そうやって言われて僕はいったいどういう人がいいんだろうなんて思ってみたり。日曜の午後に紅茶でも飲みながらずっと話していたくなるような相手がいいなぁ、ってのが得た結論。
 旅の計画も少しずつ。今回はチェコがメイン。小さな町もいくつか回ろうかなって考え中。
 今夜もキキョウの花は優しくて、ボサノバ聴いてりらっくす。


2003年7月29日(火)

 試験監督なんてやった。大教室で女子学生100人に注意事項話して答案配って、というのは微妙に緊張するものがあった。机の上の学生証確かめながら一人一人チェックしていくわけだけど、さすがに100人もいると女の子の見本市って感じ。しかし、どうして自分はこんなところで試験監督なんぞやっているのだろうと不思議に思えることしきり。


2003年7月28日(月)

 乗り換えで30分も待っちゃったよ。おかげで読書は進んだけど。ああ、キキョウのなんて優しいこと。


2003年7月27日(日)

「talking with strangers on Sunday」

 スーツを買いに出かけて、「ズボンの裾をいつも踏んじゃって穴開けちゃうんですよ」。ベルトをついでに買って、「引越ししてるとこういうものってなくなっちゃいますよね?」
 ご飯を食べていて、ラオスのガイドブック広げてる子と話す。15万円あれば足りますか?そりゃ勿論。
 空気清浄機が欲しいなんて思って、デザインでシャープと思いきや、背後から、ダイキンのほうがいいですよ。私使ってますからなんて。そりゃ説得力あるなぁ。
 帰りにキキョウとリンドウ買ってきて、なんて会話するんだろうね。それは秘密。


2003年7月26日(土)

 夏の旅、二週間前にして格安航空券ゲット。マレーシア航空ほど取りにくいものはない、なんていつも使ってる旅行代理店から聞いてたのだけど、なぜか蓋をあけたらマレーシア航空でとれたってわけ。旅行代理店によって提携する航空会社が違うってことなんだろうけど。今回は、ウィーンinでプラハ経由してフランクフルトoutと12日間で3カ国まわる予定。ほんとに楽しみ。
 この前のTOEICの出来が思ったよりよかった。小確喜。


2003年7月25日(金)

「少しずつビジネス的思考へと」 

 溜まっていた仕事を一挙にふりわけた。「スケジューリングから何から全てお任せしますね」って感じで。同じセクション内だと仕事の進め方に共通認識があるからやりやすい。それから仕事のふり方として具体的な事柄をやってもらうより、過程を任せてゴールだけ決めておくだけのほうがやっていく方にとってもプラスになるんじゃないかなって思う。やらされているというより、やっているという感覚がそこに生まれるだろうし、そういうことが企画力や思考力というものに繫がるだろうし。それに対して、認識にどうしてもずれが生じてくる他課との仕事は先回りでシナリオ考えておいて独走的にやっちゃおうかなんて考えてる。最後までやれるかどうかはちょっとわからないけれど。
 そういえばN社のシステムのプレゼン受けたのだけどこれが酷かった。理念として結構いいこと言ってたから期待してたら、内容もプレゼンも今一で、ずっと腕をつねって眠気と格闘していた。相手に眠気を引き起こすようなプレゼンは失敗ですよ、ほんとに。N社は論外でしょうというのが課内の暗黙の了解になりそう。
 ・・・しかし、まだ二ヶ月もたっていないのに随分偉そうだな。仕事に関しては隣の席の先輩の影響をとことん受けているような気がする。謙虚になったほうがいい、なんて言ってくれる人ももういないし、このまま行っちゃうよ。


2003年7月24日(木)

 他課との仕事が難航。完全に資料を準備して有無を言わさぬくらいの展開でやっていかないとダメみたい。意見を聞きだすと逆に纏まらないから、こうしかならないのです的な論理の鎧を先に着ておいたほうがいいみたい。
 日本語が達者なはずのO先生から電話がきて、冒頭から終始英語で調べ物の依頼。「すべて英語を使って下さい」なんてトレーニングさせてくれたりするのがいかにも教師ぽくて面白い。
 隣の席の先輩がかなり評価してくれているみたいだ。そういうのがちょっと嬉しい。この二ヶ月で自分も随分進歩したように思う。ビジネスの世界ならどこでも通用する人間になりたいな、肩の力は抜いたままでさ。


2003年7月23日(水)

  書類の山がたまっていくという意味が最近実感できるようになってきた。自分のところに滞留させずに、人のところにふることも覚えなくては、いずれ山に埋もれちまうな。
 もしかしてお坊ちゃん育ちじゃないですか?、人見知りとかしないんじゃないですか?、ずばり結婚考えてる相手とかいます?、そんなこと派遣の女性から言われた。
 熟れたプラムが美味しい。それにしても脈絡のない日記だな。さて眠ろうっと。


2003年7月22日(火)

  他の課の人たちと一緒の仕事がひとつ始まった。チーフなので夕方途中経過についてプレゼンなどやったわけだけど、思ったより受けがよかったみたい。☆。
 お昼休み、派遣の女性が四国のガイドブック広げていて、四国談義で盛り上がる。そのときだけ今日は僕だった。あとはくるくる目玉になっちゃうくらい目まぐるしかった。


2003年7月21日(月)

  自分に投資することにした。何を始めたかはそのうちおいおい書くけどね。テストで全く緊張しなかったせいか、最初このくらいのレベルが目標と指差したクラスのひとつ上のクラスに勝手にされちゃった。楽しみだけど、来週からてんてこ舞いの予感。


2003年7月20日(日)

  渋谷でチェン・カイコーの「北京ヴァイオリン」観てきた。少しあざとさも感じるくらいのストーリーだったが、落としどころというものをこの監督はよく知っている。少年の感情がほとばしるラストのシーンは圧巻、気がつけば涙がほろりと頬伝っていた。ヴァイオリンの音色はほんとうに素晴らしかった。機会をみつけてヴァイオリンのコンサートにも行ってみたくなったよ。
 パルコブックセンターとブックファースト覗いてきたのだけど、読みたい本は減るどころか増えている気がする。本棚眺めてたら、横から手が伸びてきてプルーストもっていっちゃうものだから、驚いたよ。思わず声かけそうになったし。(まぁ今度は声かけてみてもいいかもしれないな。)
 帰り、電車の窓から花火が多摩川に上がっていた。ときどきそういうのってしんみりしちゃうよね。自分はひとりでそこを傍観者として通過していくだけっていうのがさ。(なんかこの口調、春樹訳のライ麦に似ているな。)
 それにしても家が遠くって、渋谷に30分圏内ぐらいじゃないとこうやって毎日出かけるのはちときつい。夜になれば庭から虫の音も聞こえてきていいところなんだけど、ここに住んでいるメリットがかなり小さくなってしまっているのは間違いない。早くお金ためて引っ越したい。


2003年7月19日(土)

  世の中には僕に融かせないものもあることを知る。ただそれをぐいっと受け止めて、そうして終っていく。始まりがないのなら終りなどないのだとも思う。しかし、逆に全てを終らせなければ、次の始まりだってないのだとも思う。孤独という暗い淵がぽっかり開いていて、そこに落ちないように気をつけながら、再び歩くしかないのだ。誰かが暗闇の中から温かな手を伸ばしてくれるときまで。

 *
 銀座で「夏休みのレモネード」。マット・デイモンが企画した脚本コンテストのグランプリ作品というだけあって、ストーリーがよく練られて、新人監督の技術的な部分を覆い隠している。
 この映画では、<両親が家にいて一緒に夕食を食べ>、という当たり前だけど、現代社会では稀な二つの家庭を描いている。古き良きアメリカの家庭ということだ。親と子供がときにぶつかり、最後には理解しあっていくという基盤が家庭から欠けてしまったら、人間味とか相互の理解や優しさというものが欠けてしまったりするんじゃないだろうか。現代の(少なくとも日本の)システムはまったく<温かな家庭>というものに関与していないことを残念に思う。

*
 阿部謹也「学問と「世間」」(岩波新書)。個人に重きをおく欧米と違って日本では、寄り集まった生活世界「世間」を気にかける風潮が現在まで蔓延っていると言う。その「世間」の切り口から、教育を考えたときに、それが各学問分野の派閥化のようなものを呼び込むために、枠組みに縛られない学問にとって障害になっていることを明らかにしていく。また逆に、そうしたことを自覚することにより、世間を学問の中に呼び込んでいくことで、生涯教育的な学問ができるのではないかと期待する。やや論旨としては弱いような気もするけれど、切り口としては面白い。


2003年7月18日(金)

  ひとつ仕事を終えて、次の仕事へレッツゴーと行きたいところだけど、そう簡単に問屋は卸さない。秋の履修と四月の新入生向けのガイダンス検討というのが次の大きな仕事なんだけど、「スケジュールも、人員配置も好きなようにやっていい」と言われてもまだ何が何だかわからない状況。常に土俵際いっぱいいっぱい。
 とにかく、そんな僕でも三連休。さぁて、どうしようかなぁ。


2003年7月17日(木)

「夢見がち坊や、仕事に情熱の巻」 

  いきなり寝坊。やっちまったーって感じ。身体の信号かもしれないので睡眠はしっかりとるように心がけるべし。
 仕事がおもしろい。この一ヶ月やってきた仕事が明日終結するわけだけど、一種自分が一国の主にでもなった気分になれる。うまく人と協力して、ある目的をなしえていく。綿密にプランを練って、しかるべきところに力を注ぐ。大国に結果を納得させ、折衝を乗り切るなんていうところが。今は教室AV機器の今期の計画をやってるわけだけど、ブロードバンド化やらマルチメディア化だのといった社会動向を読んだり、数百人いる教員にアンケートやったり、多面的な分析を行ったりなんていうのが全部僕の裁量でやれちゃうんだよね。仕事って耐えるっていうイメージがこれまで先行してたから、ちょっと幸せかも。


2003年7月16日(水)

  やらなっきゃいけないこと積もってるのに、一日次から次にミーティングこなしているうちに帰る時間。仕方ないからこのバイオで書類準備してた。明日、あさっては山。手抜かりなく越えるのだ。


2003年7月15日(火)

  仕事をやってるときは脳がひとつのところにとまっていないから周りの風景は電車の車窓から見たように、あっという間に消えていく。一人になって忘れかけたようにぼんやりと周りを眺めたとき、女の子ばかりだという事実に驚いたり、感心したりする。五千人の女の子。


2003年7月14日(月)

「そこに意味があるから」 

  「バースデイ・ストーリーズ」読了。ラストに添えられた訳者・春樹氏の「バースデイ・ガール」も悪くない。何も起こらないと思われた二十歳の誕生日にふと起こった(いや起こらなかった?)できごと。そこには確かに何かの意味があったと彼女は後に思う。それは春樹氏の作品を読んで誰もが思うことと同じことなのだ。


2003年7月13日(日)

「新宿→渋谷の日曜日」 

  オペラシティでピアノ・コンサート聴いてきた。最初はうまく音が入ってこないから、思わず漱石の「それから」に出ていた高等遊民の目から見た労働者のことを思い出してしまった。感覚がにぶっているんじゃないかと。終盤に近づくにつれ、演奏も熱を帯びる。アンコール曲は5曲。横に座っていたスーツ姿の男性がその隣の奥さんに言うには「これは一種の営業だな」。まぁ確かにそういうことだろうけど、複雑な「ポロネーズ」の後に、哀しげな「月の光」なんかやってくれるんだから、日本人的によかったなぁという感じ。こうして誰もが満足してあの高天井の会場を後にしたのでした。
 そのあとは渋谷に出て、お買い物。この街が僕にとって一番使い勝手がいい。雨が降ると東南アジアの街っぽくもなる。そういうわけでシンガポールの子となぜかご飯食べてたり。


2003年7月12日(土)

「喪失と再生、それからよじれた愛情」 

 ペドロ・アルモドバルの「トーク・トゥー・ハー」を観てきた。前作の「オール・アバウト・マイ・マザー」と同じく喪失(→孤独)と再生を扱った作品に仕上がっている。しかし、スペイン人はそれを単純に切り取っていくわけではない。恐らく、これを日本人がつくれば、例えば「幻の光」のように、喪失の大きさが画面全体を灰色雲のように覆っていき、どうにかそこに一筋の光を見つけていくことを再生とするだろう。だけど、この映画では喪失は始まりに過ぎず、そこから新しい関係が生まれていく。何もなくなったところから萌芽していく芽を摘み取ることは誰にもできない。ただそれを受け入れ、自分の気持ちに素直になっていくことが大事なのかもしれない。そういう意味では「チョコレート」という作品とも近い印象を受ける。それにしても、この作品では看護士の青年の役割をどう捉えるかが難しい。彼の植物人間に対して献身的に語りかけていく姿勢ははじめ純粋に美しく見えるが、次第にそこには実はもっと大きな気持ちが介在していることが明らかになっていく。そうした気持ちをコントロールできない人間の浅はかさや苦しさ。彼は植物を蘇生させるきっかけをつくったにも関わらず、結局自身は自分の世界の中に永久に閉じ篭ってしまうわけだから。だから、この映画はふたつの主題を扱っているのかもしれない。喪失から再生という大きなテーマと、人を愛することの難しさということを。


2003年7月11日(金)

 数日前、5月にバイトしていた地質コンサルの方から、二年前にやっていた仕事の技術的なことをメールで訊かれて、睡眠時間圧縮して深夜の深夜にいろいろ調べて返したメールがかなりとんちんかんだったことに昨夜気付いて小さく落胆してたわけだ。相手が欲しいのはあるツールだったのだけど自分の手元にはとうの昔にない。そこではたと思いついて、学生時代に学外ゼミで仲良くなった先輩(今は某大学の教員)にツールを頂けませんか、と1年ぶりくらいにメールを送ったら、あっというまに送られてきたのだ。ありがたいというか、なんというか・・・。もつべきものは友人であり、人脈なのかもしれないななんて思った次第。

 さて週末へGO。働いた分、有意義な休日にしなくっちゃ。やりたいこといっぱい。


2003年7月10日(木)

 体育科から目の仇にされているらしい。元はと言えば、僕から打って出たわけだけど。鎮火するまで息潜め。
 C社のシステム説明聞く。なかなかSEとしての心構えがいいなぁなんて感心したわけ。
 かなり人に厳しい隣の席の先輩に少しずつ認められてきたみたいだ、ほっ。


2003年7月9日(水)

 ふわわわ、ねむねむです。


2003年7月8日(火)

 夢中でやってたら夜がきて、小雨まじり、おなかがちと痛い。お風呂入って寝よう。


2003年7月7日(月)

 終電ぎりぎりまで残っていて、ショートカットだと閉まった裏門を越えようとして、そこに並んでいる長い釘で危うく串刺しになりそうな夜。


2003年7月6日(日)

「休日の朝」

 朝から浴槽ぴかぴかに洗って、朝風呂。透明なお湯の中で伸びる足先。窓から入ってくる朝のおぼろげな光。自分が光の中に静かに溺れていくような感覚。窓の外から聴こえてくる他愛無い雀の鳴き声。これは江國香織の世界だな、って思ったよ。本当はこういう揺らぎの世界の中で、人を愛しんだり、時の流れを感じたりするほうが、僕には性に合っている。しかし、勿論それでは生きていけないからさ、うまくバランスとって時たま感覚器を解放してるんだよ。
 風呂上りにparis match聴いてる。この人の声のよさって、高音に達したときにどこか消えていきそうな寂しそうなところがいいのかもしれないなんて思ってみる。忘れていた夏の日のこととかさ、そういうのがぱっと浮かんで、やっぱり過去なんだって悟るときの感覚だよね。


2003年7月5日(土)

 三鷹で派遣さんと天麩羅食べて一週間ご苦労様って別れて、途中の駅で髪も切って、食糧品も買い込んで帰ってきて、ポケットにふと手を突っ込むと悲劇、なんたることか学校の鍵を発見。「返すの忘れてたぁぁぁーー」という無言の悲鳴をあげて、もう一往復する破目に。お陰で読書が随分進んで、私服で輪っこつけて構内に入ったからか学生から奇異の目で見られる破目になったわけ。
 それでものんびりする時間もあって、久し振りに夕食(餃子)をつくって、印象派のピサロを取り上げていた民放TVも見て、少し自分が回帰した感覚がある。
 プルーストは読了。といってもダイジェスト版の1/3のわけだけど。恋愛の描写や細かな駆け引きといったものがかなり洗練されている上に、卓越していて素晴らしい。残念なのは、全て電車の中で読んでしまったために、集中して読めなかったことかな。残りの2/3はまた時間を見つけて読んでいこうと思う。
 学校の図書館から借りてきた村上春樹・編訳の「バースデイ・ストーリーズ」。この本、普通の図書館だったら予約待ちだったろうが、なぜか(うちの女子学生は読まないのか?)誰も借りた形跡がなく、新品そのもの。ちょっとした小確幸。願わくは、神様、僕に本を読む時間をもっと与え給えだよ、ほんとに。本のほうは村上春樹本人を含めて11人の英米作家のバースデイ・ストーリーを収めているわけだけど、半分まで読んだ中では、ラッセル・バンクスの「ムーア人」がたまらなくいい。こうやって静かに本に向かって何かを感じ取ることができるというのは僕にとって本当に大切なことなんだ。


2003年7月4日(金)

 夕方、構内でちょっとしたイベントがあったようで、浴衣姿の女の子たちが噴水の周りに集まっている。浴衣の女の子を眺めることくらいいいことってちょっと思いつかないな。
 帰り電車を降りたところで入れ替わりに乗ろうとするMさんとばったり。僕らの生活は確かに交差しているようだ。


2003年7月3日(木) 

「夢とか愛とか美とか・・・」 

 帰りの電車で読んでいて、思わず読み返してしまった小説の一節。 
「夢にかりたてられる精神は、夢から遠ざけたり、夢を制限したりしてはならない。あなたがご自分の精神を夢から引き離そうとするかぎり、精神は夢を知ることができないでしょう。そしてあなたは夢の本性を理解できないために、数えきれないその外観にもてあそばれるでしょう。もしもいくらかの夢を持つことが危険なら、その状態から立ち直るためには夢を少なくするのではなく、多くすること、夢全体を自分のものにすることです。もはや夢に苦しまなくなるためには、自分の夢をすっかり知り尽くすことが大切なのです。(略)」
 この小説はプルーストの「失われた時を求めてT」(鈴木道彦・編訳の抄訳版)。砂浜で波に洗われるように、何度も味わいたくなるような文章の数々。ほんとに歳をとったら、僕はこの本をじっくりと読むような気がする。この本で度々出てくる芸術や美に対する言及にはまだ僕にはたどりつけないところがあり、歳をとったときにはそれがもっとわかるような気がするからだ。恋愛についての心理描写もすごくうまい。心理描写というよりは、風景描写に近い形で切り取っていく。


2003年7月2日(水) 

 新システム導入のためにN社と第一回目の打ち合わせ。自分が客側にいてシステムの技術について聞くという不思議。
 体育科とのやり取りの甘さで隣の先輩の怒りのゲージを数秒間上げてしまう。お灸を据えられて再び出直し、くったり。


2003年7月1日(水) 

 飽和。。。


2003年6月30日(月) 

 ここのところ補講のことで電話でやりとりしていた外人教員オコーノ先生がカウンターにやってきて「どこで英語を勉強したんだ?」なんて訊くから、「学校ですけど・・・、もっと上手になりたいんですが・・・」って答えたら、「どんどん練習したらいい」なんて言われちゃった。より質の高いサービスを外人教員たちに提供するためにも、やはり英語をがんばんなっきゃなんて改めて思った次第。


2003年6月29日(日) 

 初TOEIC、近くのH大へ。時間配分を考えていたにも関わらず時間が足りなくなる。英語ができるできないの前に集中力を二時間持続することができなかったりする。近いうちに再チャレンジの予定。
 帰り、ワイシャツ買って、久し振りにCD(paris match!)買って、これまた久し振りに本まで買う。

 ・・・最近のダイアリどうでしょう。明らかに世界を外から切り取ることができなくなってしまっているような気がする。日常の細事を綴ることしかできなくなっているもの。今はリアルワールドの渦中でぐるぐると回っているんだろう。それでイメージの喚起力や文章への転化力、文章への熱情といったものが相対的に弱くならざるえなくなっているのかもしれない。


2003年6月28日(土) 

 新宿、スタージュエリーにフレンチ。右肩あがりの約束。金色の☆が薬指に輝いて、夜空に橋が架かった。
 帰り、乗り継ぎ駅でMさんとばったり。静謐な作品と去り難く立ち話する夜の一瞬。


2003年6月27日(金) 

 補講時間割の最終調整のために講師の先生方に尊敬語と丁寧語のオンパレードで電話をかけまくっていた。さすがに終盤は息が切れてきて、放心状態。ジョークも返せれなくなっちゃう。そうしてはっと気付けば肩を叩かれて「さぁ帰るよ」と週末へ。


2003年6月26日(木) 

 コンビニおにぎり食べながら家路をたどってバタンQとはどこかで見た光景。


2003年6月25日(水) 

 補講の時間割組むのに四苦八苦。あちらをたてればこちらがたたないって感じ。like a puzzle。ふへへへへ。ここ来てから一度も舟を漕ぐ暇もない、だけど今が一番暇な時期らしい。そこらへん歩いてるサンダルかたかた鳴らす茶髪の女子学生なら「まじっ?」って言うんだろうな。・・・と呟きながらも職場の雰囲気も業務も僕に合っていると思う。


2003年6月24日(火) 

 授業中に先生を怒らせたといって慌ててやってきた女の子、感極まってか、涙をほろり。涙は女の最大の武器、とはよく言ったものだ。涙を前に無碍に扱うこともできずにおろおろ。


2003年6月23日(月) 

「ひよっこ」

「人を採用するときには大きく分けて二つの基準があるんです。一つはすぐ仕事のできる実力を兼ね備えているか、もう一つは将来性があるか。Tさんは間違いなく二つ目だね」そういうことを昼休みに先輩は言う。あんまり逆説的に考えないようにしておく。
「ただTさんが来てから、ここの雰囲気が明らかに明るくなったよ」と先輩が言えば、周りの派遣の人も頷く。そんなこと言われたのはじめてかも。確かに今のところは楽しんで仕事やっているものね。
「ここで働いている派遣の方々はみんな店長レベルの仕事を5年、10年やってきた方ばかりなのだけど、それに比べてTさんはたかだか2年働いた経験があるくらいのものなんだから、謙虚になるところはなり、さらに相当の努力をする必要があると思うよ」そう言って先輩は帰っていった。

 社会人の女性から電話があって、授業の聴講をしたいとのこと。話を聞いてみると、ある先生の仏教関係の本を読んで興味をもったとのこと。それは素晴らしいですね、なんて反射的に言えば、電話の向こうで嬉しそうな表情でいることが伝わってくる。確かに客観的に見て、面白そうな授業がたくさんあるんだよね。・・・なんてぼんやりする前に、手続き書類を揃えておかなくては。 


2003年6月22日(日) 

 オープンキャンパスで保育学科志望の高校生の相談係やってた。「わたし、面接になると、緊張して泣いちゃうんですよ、どうしたらいいですか?」なんて質問まであった。「私の友達には緊張すると笑い出す人がいますよ」とまじめ?に返してあげたら、隣にいた女性の先輩が思わず吹き出していた。


2003年6月21日(土) 

 朝起きてそのまま未明に録画したばかりサッカーコンフェデレーションカップの日本VSフランスを観た。攻撃のバリエーションが豊かで、観ていて面白かった。これがジーコさんの目指すサッカーなのね、と妙に納得した感じ。映画もいい俳優を揃えても監督がダメだとそこそこのものしかできない、サッカーもそういうことなのかもしれない。
 
 図書館へ行って、駅からの帰り道。最近、泣いてないなぁとふと思った。でもなんでそんなことを思いついたのだろう。

 
 ジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」。大学の卒業制作として作ったというのは凄いけれど、楽しめるかといえば否かな。色調が全体的に暗く、話の流れが最下流の淀んだ川みたいではっきりしていない。でも題名はなかなかいいです。終わらない夏、とかいった言葉と同じ意味合いがあるものね。休暇が永遠じゃないってことはほら、誰もが知っていることだし、知らないふりをしていてもいずれはっきりと気付くことなんだよ。


2003年6月20日(金) 

 今日は遅番で昼からの出勤で楽だった。職場の雰囲気にもすっかり慣れて、前の席の派遣の女性と軽口を叩き合えるようになってきた。どこのセクションにいっても十年ぶりに入った専任職員の僕のことは知られているようで「どうですか?」というように声をかけられる。学生からも少しずつ認知され始めているようで気安く身体に触れてきたりする。戸惑ったりしながら、少しずつ空気に仕事に馴染んでいく。


2003年6月19日(木) 

 近くの女子大職員と草野球をナイターでやった。久し振りに触る野球ボールに投げ方もぎこちなくて自分でも笑ってしまう。一応1ポテンヒット、1四球でダイアモンドを二周する破目になった。相手チームはユニフォームを揃えて、守備もいいのに、なぜか僕のようなジャージとTシャツの素人の混じっているうちのチームが勝利を収めた。身体を動かして、声も出して、なんだかとっても楽しかった。野球ってこんなに楽しいものだったけ?
 
  大学の図書館を始めて利用する。書庫が6階だか7階の階層構造になっていて、狭い階段でほとんど学生の姿もないから不思議な空間。文学部もあるせいか、文学関係の本もある程度は揃っている。3階の海外文学コーナーではこれまでお目にかかったことのないような本もあって、読書欲が思わず高まった。村上春樹・翻訳の「バースデイ・ストーリーズ」とカズオ・イシグロの本を借りてきた。貸し出し期間はなんと二ヶ月。15冊借りることができるそうだ。純粋に驚いた。といっても借りた本は机の引き出しにしまったまま。今、読んでる本がなかなか終わらなくって。・・・年間二百冊計画は既に崩れているかもしれない。

 野球を応援しにきた女子学生がなんと僕と同じ中学校出身だということが判明。世界は狭いなぁ。でも先輩なんて言わないで。

 仕事のほうは詰まっていた業務のほうがある程度打開できそうなメドがたってきた。派遣社員の方と一緒にやっているわけだけど、年齢差や経験差というものがここではあまり通用しない。あくまで全体を統括するのが年下で新米の自分だということを常に自覚していないといけないようだ。コンダクターとして、自分たちがやっていこうとしているものの結果がどういうふうに出てくるのか、それをどう結論づけていくのかという長期的視野をもっていないと務まらないものなのかもしれない。結局、それは最終的な責任をとるかとらないかの違いってことなのかもしれない。


2003年6月17日(火) 

 よかったこと:夏休みが固定だけど最低9日間あるということ。
 よくなかったこと:仕事のやり方が悪いと言われたこと。


2003年6月16日(月) 

「働くことの恩恵」
 
 働き始めて、これまでのように窮乏することはないと踏んでいるから、舞台とピアノコンサートのチケットをネットでとってみたりした。いいものいっぱいみなっきゃね。夏の旅行も、半年は有休がとれないから超小トリップになってしまうけど、どこか近場の国に行こうかなんて考えてる。今年いっぱいは貯金のこと考えずにとりあえず消費(自分への投資)に使いたいなぁなんて考えてる。引越しのことも念頭にあるし。


2003年6月15日(日) 

「週末」
 
 家の中でのーんびり。カレーをつくったり、本を読んだり、庭の草むしりをしたり。草むしりは、その先っちょに可愛らしい花なんかが咲いていて、むしってしまうのがかわいそうになってしまうのも多かった。

 
 クリストファー・ノーランの「メメント」。記憶というものが、一定の短期間ごとに消え去ってしまう男の話。脳科学者・酒井氏は心のはたらきの中心に記憶があると書いていたが、実際ここで出てくる記憶障害の主人公の心は記憶の代用としている記録によって左右されてしまっている。しかし記録は必ずしも正しくなかったりするわけだから、主人公の心情はサイコロ的な運命に弄ばれる。この記憶喪失で恐ろしいのは怒りや哀しみといった単純な心情だけでなく、自分がもっていた性格や背景といったアイデンティティも消え去ってしまうことだ。記憶が保持できない身体では、自分が連続的に存在できないために、常に他人の身体に突然自分というものが宿ったような状態になってしまうわけだ。
 映画のつくりとして、現在から過去に遡っていくという構成は斬新ではあるが、はっきり言って微妙な疲れを覚える。時間の流れに逆らうということは脳の働き方としても不自然なのかもしれない。映画を見た後、もしかしたら僕は今映画を見始めたところに戻ったのではないかと思ってしまったくらいだ。過去は記憶によって蓄積され、その蓄積によって心が成り立っていく。心の深みというのは、結局それまで記憶としてどれだけの過去を保持できたかということに繫がっているのだと思う。ここに出てくる主人公は記憶喪失と同時に心を喪失してしまっていて、つまるところ生きている感覚が喪失してしまっているというわけなんだ。


2003年6月14日(土) 

「年上の旅友達」
 
 一年前にタイ北部でお会いしたEさん宅にお邪魔した。六本木ヒルズと東京タワーの中間、麻布十番にマンションをもっていらした。ソファに座って、年間平均3回は行くという海外旅行のアルバムを見せてもらった。アフリカ、南米、欧州、・・・という具合にほとんどの地域を網羅している。もう行き尽くしたという感じじゃないですか?と聞けば、まだ行きたいところの三分の一です、と涼しい顔で返される。
 奥さんが途中から部屋にこもって眠ってしまわれたので、ふたりでスコールのような雨降りしきる六本木に出て、ビール飲みながら特大のピザを食べた。アメリカ人経営の店で、店内も外人ばかりで、一瞬入り口で足がとまりそうになったが、雰囲気に慣れるにつれ居心地もよくなった。旅に行こうという思いが湧いたのは勿論だけど、今の仕事が五つめで外資系の会社も経験してきたというEさんの仕事観には随分触発されるところがあった。仕事について甘えを許さず他にも自分にも厳しい一方で、自分の生き方を崩さない姿には敬服の思いがした。こんな方と旅を通して友達になれたなんて素晴らしいことだと思う。


2003年6月13日(金) 

 一週間が終われば、身体の中には泥が沈殿しているかのような疲れがある。頭はぼんやりとして、本のページをめくる気になれない。文章ですら、言葉を選んでくることがままならない。
 でも間違いなく、この仕事はやりがいがあると思う。かなり自分の思うようにやっていけるし、むしろやっていくことが求められているのだ。人とのコミュニケーションの中で刺激があるのもいいと思う。受けてみたいなぁという授業もたくさんある。今日は英語の授業でビデオの音声出力に問題があると呼び出されて、少し授業の雰囲気を味わった。学生さんは電子辞書を机に広げてすっかり勉強やる態勢なのに、修理している僕のほうをちらちら見てたり、窓の向こうを眺めていたりと、集中しているわけでもないところが可愛かったりする。おーい、ちゃんと勉強しようね、と声をかけたくなるのは塾の先生をやっていたからなのか。
 ああ、頭の混濁と同じくらい文章もまとまりがない・・・。


2003年6月12日(木) 

 生活パターンが変わるのと同時に、食生活も変わってきた。帰りが早いわけじゃないから、誰もいない家にようやく着いてから夕食をつくる気が起きない。時間も限られているしね。コンビニはこういう人間を掃除機みたいにビュンビュンビュンと吸いとっていくわけだ。


2003年6月11日(水) 

 横浜で進学説明会。デパートの9Fに各大学のブースがあって、まわってきた高校生と話をするという仕組み。たまにこういうのも楽しいです。


2003年6月10日(火) 

「こんな一日」 

 午前中、外人教員ファーン氏への対応。自分の教室に行ってみたら違う教員が教えているとのこと。メイヨーがいるんだとかなんとか、メイヨー?ってな具合でつっかえつっかえの英語で教室まで行ってみれば、違う外人教員が教壇に立っている。その教員スミス氏曰く、てっきりそこが自分の教室だと思ったとかなんとか。授業が指摘するまで成立しているところがおもしろい。
 午後、違う大学の問題のある男子生徒(恐喝とかしてるらしい)が紛れ込んできて警察がやってくる。なぜか僕がその男子生徒のいる部屋の前で待機したり・尾行する役をおおせつかる。一緒のエレベーター乗ろうとして中の女子学生に扉を閉められて「痛っ」なんて言ってるようじゃ、探偵失格かな。尾行したまま、外まで出たら、鳩山由紀夫似の部長がママチャリで追跡しようとしていてちょっと笑えた。陰に隠れている私服刑事も女子大だから思いっきり目立ってるし。結局、男子学生は門のところで私服刑事に捕まえられて一件落着。


2003年6月9日(月) 

 家に帰って日曜日に録画したサッカーの日本VSアルゼンチンの前半だけ観て、もうネムネム。次々と仕事をこなしていると、一日があっという間です。もう昼、もう夜ってな具合だもの。移動式の黒板の足を直しているときに、近くにいた女の子に手伝ってもらったりして、そんなときに見せてくれる笑顔とかいいななんて。そのうち学生の友達もできるといいなぁ。別にそういう意味からではないけど、この職業、僕に向いているような気がします。


2003年6月8日(日) 

 村上春樹の「象の消滅」をサイモン・マクバーニーが演出した「エレファント・バニッシュ」を三茶で観てきた。実は僕にとって舞台はほとんど初めての体験だった。そのためまず感じたのが、本の中で二次元でしかなかった世界が突然奥行きのある三次元になった驚きだった。そこには一つのストーリーの流れだけではなく、登場人物の分、違ったストーリーが同時進行しているのだということを感じさせた。ワーグナーの音楽が本ではあくまで想像することしかできないのに、それが音として耳に入ってくることにも新鮮な驚きがあった。本を読んでいて、例えばボタンをぽちっと押すことで出てくる音というものを感じられたりしたら、表現としても広がりがあるんじゃないかと夢想したくらい。
 演出のほうはかなりデジタル的なアレンジをしていた。冒頭から、テレビを並べてみせたりする。どちらかというと無機質でシャープな感覚を受けるような人物たちを登場させていた。それが、僕には(そして友達にも)多少違和感のあるものだった。というのは、村上春樹の世界というものはそれまでアナログなイメージがつきまとっていたからだ。0でなければ1みたいな考え方をしないような登場人物が僕の思い浮かべる世界にいた。だから、舞台には違和感、あるいは他者の村上ワールドに対する受け止め方の違いへの驚きがあった。それは、演出家が外人であるということにも一因するのかもしれない。
 今回は舞台を観るの自体が初めてに近いということもあって、舞台そのものの感想というよりは、舞台という表現スタイルへの驚きのほうが大きかったように思う。どちらにせよ、観れてよかったということは間違いない。これからどんどん行きませう。

 
 アイスキュロスの「アガメムノーン」を読んだ。この話自体はもともと元話があって、アイスキュロスが発表する前から人々は良く知っていたそうだ。だから観客がそこで驚くのはストーリーというよりは脚色の部分が大きかったというわけだ。そういうわけでこの本は一回だけ読めばいいわけじゃなくて、ニ回、三回と繰返して読んだり、他の人のアレンジした話と比較することによってより面白みが湧く類のものなのだろう。とは言え、一度ぱらぱらと読んでしまえば、またすぐに再読したいとも思わなかったかな。


2003年6月7日(土) 

 学校見学にやってきたセーラー服の女の子たちの後ろをぷらぷら歩いていたり。案内役の学生たちが緊張の面持ちでいるのがおかしかったり。一方で自分の席になかなかつけなくって(教室から呼び出されたり、カウンター対応したり・・・)やるべき仕事が全然はかどらない。
 今なお、脳の中がtempファイルでいっぱいで、ぼぉーっとしている。働くってすごいことだなぁ、今さらながら。


2003年6月6日(金) 

 今の職場、これまで見知ってきた職場と比べて、個々人のプロとしての意識が高いような気がする。妥協とか甘えを許さないし、求めてくるもののレベルが高いし、それを常に口に出してくる。「君の出来次第で業務の方向が大幅に変わってくる。プレッシャーをかけていると思ってくれていい」なんて言われるわけだ。一番年下のはずなのに誰からも「さん」づけで呼ばれるのもここの特徴。
 ・・・ってこんな感じでいけば僕の甘ったれも大幅改善しそう。まぁまだ余力はあると自分では思っているからレベルアップも少しずつできるでしょう。

 この生活の中でやっぱりプライベートな時間というものが圧倒的になくなるというのは間違いない。仕事がたとえできたとしても、生活に創造性がなくて平板じゃつまらないしなぁ。そこをトータルにうまくやっていくのが課題だね。うん、課題。本を読んだり、物を書いたり、人と話したりという時間をきちんともてなっきゃ、僕的には意味がない。
 そんなわけで一週間やったところで(明日も出勤だけど)、時間や体力セーブのために大学の近くに引っ越すことも念頭にいれはじめてたり。


2003年6月5日(木) 

 構内で擦れ違いざまに「さっきはありがとうございました」とか挨拶してくれる子がいたりして何だか嬉しい。それにしてもタイム・フライズ。


2003年6月4日(水) 

 地球が一回転して、僕のあっという間の一日も終わる。


2003年6月3日(火) 

「配属」
 
 配属された。一番学生との接点の多そうな課のまさに接点のような席を与えられた。このセクション、時間の流れ方のテンポが異常に早い。頭の回転を1.5倍か2倍くらいにあげる必要あり、です。かなーり忙しくなりそうです。ふひゃあ。

 
 忙しくなりそうとか言いながら、ジム・ジャームッシュの「ダウン・バイ・ロー」。面白いです。彼の作品、全て見たくなってきたよ。だけど、感想はまたいつかということで。もう、寝なっきゃ。


2003年6月2日(月) 

「女の園」
 
 どこを向いても歩いても女の子ばかりというのも不思議なものだ。エレベーター前で集団に思わずたじろいでしまう。目を合わせるべきなのか、そうでないのかさえもよくわからない。違う星に不時着したという感じすらある。
 といっても浮かれているわけではない。新入職員研修。厳しい私大の現状を踏まえ、今回採用された僕ら三人にひしひしと期待をかけられていることを感じる。70倍だかの倍率だったらしいし、そりゃそうなのだろうと思う。「普通の事務職なら派遣で十分なのです、皆さんにはそれ以上を期待しています」だそうだ。大丈夫、僕は僕の力を信じている。保守的にならないようにすれば、上手くこなしていくことができると思う。(この出所不明の自信も採用された一因だったのかもしれない。)それから専任職員では驚いたことに僕が最年少になってしまうらしい。若い人はこれまで全て派遣で賄っていたんだって。ふへえ。

 
 村上春樹の「パン屋再襲撃」を読み返し。週末、三茶に観にいく「エレファント・バニッシュ」の舞台にあわせて、友達から借りて読んでみた。人の本ってなんだか不思議。甘い香水のような匂いがして、ピンク色の象のバンソウコウが栞代わりに入っている。僕の前もっていたハードカバーと中身は同じなのに、何か違う本のような気がしてくるくらいだ。この短編集は殊に僕の好きな本だ。そして今回読んでみて、やっぱりたまらなくいいと思った。村上氏の書くための技量(展開の仕方、小道具、掴めそうで掴めない隠された主題のようなもの・・・)のすべてに感嘆してしまった。舞台も楽しみ。


2003年6月1日(日) 

「紫陽花と蝸牛の季節へ」
 
 さて急いで書きます。明朝は睡眠しっかりとって目覚めたいからね。
 今日は健康診断(聴覚診断は返事がいいからという理由なのか検査なしで異常なしだったよ、なんて適当。)して、映画(映画の日!)観て、白や水色系統の春・夏色のワイシャツとネクタイをまとめて買って、住民票とって、図書館寄って帰ってきました。途中の駅の藪にまるで原宿駅みたいな紫陽花が咲いていました。梅雨の季節も到来ですね。

 
 映画はスティーブン・ダルドリー監督の「めぐりあう時間たち」。ヴァージニア・ウルフをニコール・キッドマンが見事に演じていました。誰が演じているんだか最後までよくわかっていなかったから、結構驚いたよ。ヴァージニア・ウルフのダロウェイ夫人をモチーフとして、それを書くヴァージニア、そして現代に蘇らせたダロウェイ夫人(メリル・ストリープ)、そしてその中間の時代にあたる女性の読み手(ジュリアン・ムーア)という三構成で繋いでいる。大人にしかわからないようないい映画に仕上がっています。思わず「ダロウェイ夫人」を読みたくなってそのあと図書館で探したけど見当たらなかった。大体みんな考えることは同じなのかなぁ。そういえばさっきネットで知った限りだと、「ダロウェイ夫人」そのものの映画を、なんとナボコフの「ディフェンス」の映画作品「愛のエチュード(だったかな)」と同じ監督が作ってるんだって。