2003年12月31日(水)

「その一瞬、その刹那」

 あの人がモノレールに消えてから、小沢健二の「刹那」というタイトルの昔のシングル集アルバムを買った。ほとんどよく知った曲ばかりなのだけど、聴いてると動揺してくる。過去が現在に色と形をもってコールバックされそうになるからだ。振り返ったら、そこで大好きだった誰かさんが笑っていそうで、思わず涙が出てきそうだよ。

 屋根を走る仔猫のように僕は奇跡を待っていた
 夜をブラつき歩いてた
 全てを開く鍵が見つかる そんな日を捜していたけど
 なんて単純でバカな俺
 ああ 街は深く僕らを抱く!
 強い気持ち 強い愛 心をギュッとつなぐ
 幾つの悲しみも残らず捧げあう
 今のこの気持ちほんとだよね

  このアルバム聴いてると小沢君は今も幸せなのかなって思っちゃう。幸せだったらいいなって思っちゃう。
 小沢くんが胸を痛めて愛しのエリーを聴いていた♪のと同じように、僕は胸を痛めて彼の歌を聴いてたんだから。

 長い階段をのぼり 生きる日々が続く
 大きく深い川 君と僕は渡る
 涙がこぼれては ずっと頬を伝う
 冷たく強い風 君と僕は笑う
 今のこの気持ちほんとだよね

 たぶん、ぜんぶ、ほんとだったって思うよ、心から。

 *

「2003年をふりかえって」

 今年の小説ベスト
今年以上に本を読めることは当分ないように思う。
1.「透明な対象」 ウラジーミル・ナボコフ  一日に二度読み。言葉の向こうから何かがゆっくりと浮かび上がってくるという読書の喜びを知ったかな。
2.「ガラテイア2.2」 リチャード・パワーズ  人工知能の話、考えた上に泣けた。相互理解への痛いくらいの思い。
3.「パレード」 吉田修一  若手ナンバーワン。表と裏をきっちり描いた。
4.「舞踏会へ向かう三人の農夫」 リチャード・パワーズ  時空を越えて並行するストーリー、やがて全ては自分に還ってくる。
5.「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 サリンジャー  春樹訳サリンジャー。
6.「ダマセーノ・モンティロの失われた首」 タブッキ  哲学的な思考を絡めたストーリー。
7.「浪漫的な行軍の記録」 奥泉光  戦争と平和ボケした現代日本を絡めた点がおもしろい
8.「宮殿泥棒」 イーサン・ケイニン  コントロールが絶妙な技巧派という感じ。
9.「マーティンドレスラーの夢」 スティーブン・ミルハウザー  全ては幻想の世界に消えていく。ミルハウザーワールド。
10.「東京湾景」 吉田修一  一挙に読める恋愛小説。

 新書ベスト
1.「文化と両義性」 山口昌男 (岩波現代文庫)  思考することの楽しさを教えてくれた本
2.「人間は進歩してきたのか 「西欧近代」再考 現代文明論・上」 佐伯啓思 (PHP新書)  この人は頭がきれる。思想家と歴史の流れをわかりやすく教えてくれる。
3.「意識とは何か <私>を生成する脳」 茂木健一郎 (ちくま新書)  心理学の先生にまで薦めた本。脳科学と哲学はクオリアにて融合する。
4.「メルロ=ポンティ入門」 船木亨 (ちくま新書)  メルロポンティというより作者自身に興味が持てる本
5.「ケータイをもったサル 人間らしさの崩壊」 正高信男 (中公新書)  論理展開が弱いが、考えていることは一理以上ある。
6.「物理学と神」 池内了 (集英社新書)  科学史を織り込んでて面白い。
7.「戦後の思想空間」 大澤真幸 (ちくま新書)  オウムの話がおもしろい 
8.「プルーストを読む」 鈴木道彦 (集英社新書)  プルーストはいいです。

 映画ベスト
今年は突出したのがないけど無理やり順位づけ。
1.「北京ヴァイオリン」 チェン・カイコー  力技にねじ伏せられたって感じ。
2.「ハッシュ!」 橋口亮輔  二十歳の微熱で驚かされて、再び。
3.「浮き雲」 アキ・カウリスマキ  カウリスマキはこれがベストかな。
4.「ボウリング・フォー・コロンバイン」 マイケル・ムーア  反米嫌米って感じだけど確かにその一面を見事に捉えている。
5.「ディナー・ラッシュ」 ボブ・ジラルディ  クールでかっこよすぎ。
6.「座頭市」 北野武  dollsより後退したけど、やりますね。
7.「フィラデルフィア」 ジョナサン・デミ  この映画は好き。
8.「バーバー」 コーエン兄弟  目立たないけど傑作。
9.「フリーダ」 ジュリー・テイモア  金粉が舞ってアートに覚醒するシーンとかいいです。
10.「息子の部屋」 ナンニ・モレッティ  エンディングの静かな浜辺が好き。
他に、「天国の口、終りの楽園」「戦場のピアニスト」「アモーレス・ペロス」「青い夢の女」「トンネル」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」「トーク・トゥー・ハー」「まぼろし」「コントラクト・キラー」etc・・・

 舞台・アート ベスト
たいして観なかったかな。来年はもう少し観たいね。
1.「outspoken glass」展 北海道近代美術館  同じ展示やったらもう一度行きたい。
2.「エレファント・バニッシュ」サイモン・マクバーニー  他人の小説への捉え方の断面を観るおもしろさ。
3.「レオン・スピリアールト」展 ブリヂストン美術館  不安が感覚器を鋭くする。
4.レオポルド美術館常設  現代アートみどころ多し。

 CDベスト
 「PM2」 paris match
 「When October Goes」 Chihiro Yamanaka Trio
 「dangerously in love」 Beyonce


2003年12月30日(火)

 恵比寿→青山→渋谷とくるりんと回ってお散歩。恵比寿は年末でclosedばかりで結局transit(こういう使い方でいいのかなぁ)。大坊珈琲のマスターとはじめて目が合ったから少しは記憶に残ったかもしれない。本を二冊とミニ観葉植物(モンステラ・タウエリー)を一つ購入。(どうでもいいけどmonstera deliciosaというクールなHPを発見)
 自分の女性の好みというのがようやくわかってきたような気がする。(もっと早く気づけよって感じなのだけど。)お互いのベクトルが合致しない限り、恋愛はうまくいかない。そういう相性って、音楽との相性にすごい似ているじゃないかなって僕は思う。お日様出ている時はparis matchみたいな音楽が好きで、夜になったらR&Bが好きなんだから、多分そういう人が僕のタイプなんだと思うんだ。音楽を聴いているときと同じようなキモチになれるとき、僕は恐らくその人とずっといられるって思うよ。
 僕、そういうキモチになれなくって今日はつらかった。結局、自分の身体って一番正直なんだと思うよ。セックスしたくないっていうのは既にダメなんだと思うもの。アメリを観たとき、恋愛感情が随分直截的なんだなと思ったけれど、結局そういうものなのかもしれない。

矢印と逆に進むキモチ

2003年12月29日(月)

 

横から撮るべきだったね。

 

2003年12月28日(日)

「幸せだから優しくなれるんだよ」

 仕事納め。最後の最後まで電話したりメールしてたよ。なんか、毛布でぐるぐる巻きにでもされたような倦怠感のようなものを身体の筋肉に感じる。数えてみたら明日から9連休。1つめの休みは待望の観覧車に使うつもり。ピチカート5の「東京の合唱」みたいにね。君といる限り 世界でいちばん 東京っていい街かも♪。確かに、東京ってハッピーになるための街であって、それ以下の街にしちゃいけないと思うんだよね。
 観覧車に乗って消えない思い出つくって、それはぜったい記憶に残るから、そして記憶の豊かさは心の豊かさだから、僕は観覧車に乗って優しくなれるってわけ。


2003年12月27日(土)

 懇親会の司会。声が上ずって心理学の先生たちに「緊張してるねぇ」なんて後ろから声掛けられて開き直ってみたり。場数を踏めばやがてうまくなるのでしょう。学生(年上)とお話していて「どちらからいらっしゃいましたか」なんて尋ねてみたら、「フランスです」。なんてインターナショナル。
 夜、入試のセクションの人たちにお呼ばれして飲み会。最近どんな飲み会も楽しい。お酒の許容量も上がってきたみたい。


2003年12月26日(金)

 お休みです。
 ダイアリをさらに公開するかどうかで迷ってる。
メリット
・友達が増える。
・知識に広がりが出てくる可能性がある。
デメリット
・不要な情報が入ってくる。
・書いたものへの責任が生まれてくる。一休さんみたいな問答をやる破目になりかねない。(やってもいいんだけどネットにそこまで求めるかどうか、自分でもよくわかってない。)
・WEBへの依存が高まってしまう。

 こうやって書き連ねるとデメリットのほうが大きいような気もするなぁ。

  *
 昼、年賀状書き。相変わらず干支は無視。自分でも気に入って去年の賀状と一緒に部屋の白壁に貼っておく。
 夜、30代前半の若手職員の飲み会に呼ばれる。うちの大学を将来背負うであろう次世代の面々。そこに誘われたことの嬉しさ、共通理解をもてる嬉しさ。といってもバカ話に終始してたけれど。

最近買った急須です。奥にいるのはネズミです、光ります。

2003年12月24日(水)

 吉祥寺パルコブックセンター→AB Cafe→井の頭公園→レモンドロップでケーキ買って・・・なんて一日。キャンドルライトもクリスマスソングも素敵で、良いイブでした。


2003年12月23日(火)

「触感の快楽」

 メンズ館のお買い物は楽しいってことを知った。どうも僕は縫い目フェチなのかよくわからないけど、お店回ってセーターやインナーの縫い目に指を這わせて喜んでいた。襟首のところとか、ボタンなんかも触っているとキモチがいい。「この縫い目がいいですね」とか店員さんとしゃべる人あんまりいないかもしれないな。次生まれ変わったら、デザイナーになろうかなぁ。僕は*マークが結構好きだから、ブランドの名前は「rain *drops」とか「snow *leaves」なんてのがいいかなぁ。ということで、来世でお会いしましょう(・・・って来世は絶対未来ってわけでもないんだろうなぁ。もしかして来世が過去だったら、既にここに在るってことになるのかなぁ。)
 
 *
 佐伯啓思の本のつづき。アメリカのグローバリズムに関して。
p149<<アメリカの「文化」は少し異質だということになる。まさに「独自性をなくすことがアメリカの独自性」だからだ。特定の地域や国の歴史的伝統や土着的習慣を中心におくというより、多様なものを多様なままで許容し、同時にその基底に、それらに共通するスタイルを生み出すこと、ここにこそ多民族、多文化国家アメリカの特質がある。だから均質の財貨を提供する消費文化は、アメリカにおいては、それ自体が社会統合の意味をもっていた。>>
 そうしたものの代表がマクドナルドだ。どんな文化圏にもそれは一つの様式として根付いてしまう。知らず知らずのうちにね。そうしたマクドナルド化ともいうべき、アメリカの文明的な波に、イスラムやアジア、あるいはフランスでもそこに既にある文化は飲み込まれないようにぐっと踏ん張っているってわけだ。テロもここにひとつの原因を見ることができると筆者は言う。
 そうしてマクドナルドといえば、「パン屋再襲撃」の村上春樹。グローバリズムの波がやってきて、すべてがオートマチック的に動いていくことへの警鐘ともとれる再襲撃の場面。しかし、そこにはあまり説得力はない。だって既に彼自身の出自は神戸であり、すでにグローバリズムの波頭にいたわけなんだから。だから彼には波に抗うイスラムの起こしたNYテロについて、その根底を描きだすことはできないのかもしれないとも思う。結局彼の切り口は暴力との対決でしか見ることはできないから。だから逆に言うと、直接的ではないNYのことなど彼は題材にしないんだろうなとも思う。
 それを書くとすれば、日本独自の文化性をもっていなければいけない。でもそんな人はいないかもしれないなどとも思う。大江健三郎は年だし、中上健次も安部公房もいないしなぁ。案外、島田雅彦あたりがそのテーマをついていけるとも思うのだけどどうだろう。彼自身の出自である郊外(多摩川あたりのこと)はもっともグローバリズムを受けた地域かもしれないものね。波がやってきたとき、もしそこに独自の文化があったら波に抗おうとするのではないか、という想定のもとに書けるのかもしれない。(でもちょっと無理があるかなぁ。)あるいは、山形育ちたる阿部和重あたりかなぁ。

 *ついでに最近読みたい小説
W・G・ゼーバルト「アウステルリッツ」
イアン・マキューアン「贖罪」
ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」 「青白い炎」 「セバスチャンナイト・真実の生涯」
阿部和重「シンセミア」
保坂和志「カンバセイション・ピース」
堀江敏幸「雪沼とその周辺」
多和田葉子「容疑者の電車」
舞城王太郎「熊の場所」


2003年12月22日(月)

 前のセクションの歓送迎会でお豆腐のコース食べてきた。おなかいっぱい。そうしてやっと休日。街はクリスマス一色。


2003年12月21日(日)

「こんなエンディング」 
 
 なんだかやる気のない一日だった。死語になってしまった中年窓際族みたいな心境で小部屋にこもってぼんやり仕事してた。大体ネットが繫がらないって時点で仕事やる気ないんだけど。お昼の懇親会でフルーツポンチ食べて、S先生にポンチがサンスクリット語で5を意味するのだということを教えてもらったあたりで今日の9割が終わっていたのかもしれない。でもなんでフルーツポンチとサンスクリット語が関係しているんですか?と思わず聞き返したわけだけど。Y先生がコカコーラはコカの葉からつくるのだとか、T先生がペプシはペプシンだから胃にいいのだとか、そんなこと聞いたから思わず小部屋でコーラなんて飲んでたわけだ。しかしなんで先生って雑学に詳しいんだろう。そういえばT先生は僕に向かって「いやー、フルーツポンチ5個も食べちゃいましたよ」って嬉しそうに言ってたらしいんだけど、僕は(聞こえなくって)半分無視したみたいになって、先生はしょげて席を立っていったらしいし。そんなわけで、先生たちって社会で揉まれていないせいなのか、子供がそのまま大人になった感じがするんだよね。ほらトムハンクスの映画にそんなのあったじゃない。女性を家に呼んだのに、じゃあ君は上ねなんて二段ベッド指していうやつ。(なんか今日のダイアリ、メルヘンな某shくんのと文章のリズムが似ている。)
 18時になって、公務員も負けるくらいのダッシュで事務室に鍵かけて帰ってきた。なぜかダイハードのブルース・ウイリスみたいにlet it snowを鼻歌で歌いながらさ。多分、あのシーンはちょっとした映画のエンディングになったと思うんだけどな。例えば、主人公が最後に希望を見つけて旅立っていったあとに、そのストーリー中の脇役が出てきてlet it snowの鼻歌歌いながら自転車漕いでいくわけ。その小さくなっていく後姿をカメラが追いながら、そのまま音楽に切り替えて、字幕が流れるっていうわけ。小雪なんかふってたら完璧なんだけどな。


2003年12月20日(土)

 さっさと帰ってクリーニング屋に滑り込むつもりが、臨時事務室に前の部署の上司がやってきて僕に話を吹っかけてくるわけ。3時間くらいそこで話した上に、さらに誘われて厚岸産のお刺身&お寿司屋というコース。二日連続で上の人(僕を雇いいれた人たち)と話す羽目になったよ。それなりに評価されているみたいで、当分クビにはならなそう。(クビになったら南米かヨーロッパにでも長い旅行に行って、それから英語圏に半年留学して、再就職なんてのがいいなぁ。)


2003年12月19日(金)

 明日からの準備で学校まで。たまには十代の女の子たちを見てるのも悪くない。自分に関係ないと思っているからこそ勝手にイマジネーションを膨らませることもできるけど、もしそこに関係性が生まれて、その先が見えてしまったら、きっと面白くなくなるのだろうと思う。プルースト的な考え方。しかし、未だに名前を覚えてくれている学生がいるのは嬉しい。よく覚えているものだよなぁ。
 夜は飲み会のダブルヘッダー。静かな飲み会のあとに、騒ぎ飲み会で順序が逆だったような気もしたよ。


2003年12月18日(木)

 佐伯啓思の「新「帝国」アメリカを解剖する」(ちくま新書)なんか読んでいる。世界のアメリカ化を意味するグローバリズム、国際間のルールによって力を強めていき国益を生み出そうとするネオリアリズム、競争のもとにある市場経済によって個人を重んじるネオリベラリズム(このあたりの用語の使い方間違ってるかも)という思想基軸によって90年代のアメリカの覇権化があると言う。それがテロによって崩れていこうとしている、と筆者は語る。
 しかし、このあたりの言葉の使い方であっぷあっぷしているようじゃ、自分の意見どころか、この人の意見自体を鵜呑みすることすらできないなぁ。ただこうした現代社会の力のあり方についてはその将来も含めて興味があるので、どうにか噛み砕いていきたい。がりがりとね。がりがり。


2003年12月17日(水)

「考えること、感じること、孤独と共有、artとloveだとか」

 本を読んで何かを考えてみる。何かを考えたくて本を読む。脳回路がまるで植木鉢の中で張り巡らされた植物の根のように伸びていくことを僕は望んでいるに違いない。根を伸ばすこと、それは植物が生長できるってこと。
 一方で考えることは感じることと違う位置にある。あるいは感覚器というのは葉のようなものなのかもしれない。雨粒を表面に感じてふるえてみる。震えた瞬間に呼応する微かな記憶や疼き。プルーストはそれを感じ取るためにそれを描写してそれについて考えたという。僕らは感じることを考えることのできる稀有な生き物なんだ。
 ただ感じるままで満足できればそれが幸せということなのだろう。だけど、僕らは感じることの意味を知りたかったり、感じることを再現したくなって、文章をつづったり、音符を連ねたり、写真をとってみたりする。そこで僕らは自分の感じたものを手にとってみて、それを誰かと共有しようとする。なぜ共有したがるのだろう。
 感じることを共有すること。肉体的に合致すればそれはセックスであり、あるいは僕がHと呼ぶもの。それが精神的に合致すればそれはアート。
 僕らはずっと孤独なままでは生きられない。人は孤独であるからこそ何かを求める。究極の孤独のなかにこそ、究極のアートは生まれるのかもしれない。そして人を愛する意味も見出せるのかもしれない。
 ・・・とつれづれなるままに文章を綴って何が僕は言いたいのだろう。


2003年12月16日(火)

 なんか無性に観覧車に乗りたくなってきた。なぜ観覧車がよいかというと、地球の自転のように引力を利用しながら?緩慢に回転するから。この星で生きることのように、幸せになれるから。そうして仮想の世界から現実の世界に舞い戻ってもまだ夢はつづくから。多分そんなところ。


2003年12月15日(月)

「♂の矢印がころんとひっくりかえったりして・・・(心配)」

  パートさんが二人増えた。もちろん女性。今日は先生と少しやりとりしただけで、残りは9割9分女性との会話。仕事の電話もすべて女性が相手。それが少し心配なんだ、と話している相手も女性だったりして。いったいどうなっちゃうんだろ。体内のホルモン生成とか変わっちゃうんじゃないかな。最近男の友達がいなくって、なんだか女子大のお嬢様みたいな感覚だよ。


2003年12月14日(日)

「直球勝負ってことなのかな」

  早稲田でダイ・シージエ監督の「小さな中国のお針子」。「山の郵便配達」を観た時もそう思ったが、この手の中国映画は表層だけをなぞっていて裏に計算というものがない。あれだ、ホームドラマを見ているのと同じ感覚なのだ。監督はあくまでも観客の感動のバロメーターを管理しているだけで、感覚に訴えかけてくるような計算を行っていない。僕が言っているのは例えばバルザックを扱うなら、映画のストーリーにバルザックの小説のストーリーを織り込むといった細工だ、あるいは風景の中に心情を織り込んでしまうことだ。それは見えなくてもいい。小説で言うところの隠喩。王家衛が「花様年華」で使ったようなトニーレオンの心情を代弁するような煙草の揺らいだ煙とか冷たい雨みたいなもののことだよ。あるいは「ヒマラヤ杉にふる雪」でイーサンホークの唇から漏れるやるせない吐息や暗い針葉樹林のようなものだよ。あるいはそうした感覚を集合させたようなカラックスの「ポーラX」だとか、ベルトリッチの深い「暗殺の森」だとか・・・。そうした表面に直截的に出てこない部分こそが、映画の深みを生み出すと思うのだけどなぁ。とはいえ、この映画、表面を追っかけるならば、美しい自然の中で清純な心の動き合いがあってまぁ悪くないということなのでしょう。
 それから映画館も悪くなかった。僕に「蠍座」があったように、早大生にはこの映画館があるということなんだね。高田馬場って東西線に乗り換えるとあっという間だから、また行こうと思うよ。


2003年12月13日(土)

「食べ物屋めぐり、いつものことだけど」

  恵比寿、代官山、中目黒をお散歩。恵比寿駅の東側は未開拓ゾーンで気になるお店いくつか。今日行ったベヴィトリーチェ(覚書)なるイタリアンも静かな住宅街にあって敷居も低くてランチとしてはいい感じ。そのそばに一度transitしたいcafe(そのままだ)もあった。僕がオーナーだったら飛行機のデザインあしらった機内食みたいなランチ出すなぁ。やっぱりカトラリに凝って欲しいなぁ。恵比寿神社の前の小さなイタリアンも気になる、いずれチェックだね。それからようやく行った猿楽珈琲はまたしてもおあずけ。似たような喫茶店が隣同士で並んでるなんてねぇ。中目は相変わらず店の入れ替わりが激しい。それらを無視して昔行きつけだった中華だいぐう司へ。炒め物の野菜の火の通し方が絶妙であっさりとした味付けが結構好きなんですよね。何でもご主人は四川で修行してきたらしいよ。・・・でも一番美味しかったのは手作りのクッキーだったかも、今も食べてたり。28歳の日々ってなんだかしっくりしていいよ。


2003年12月12日(金)

  寝坊して布団敷きっぱなし。それでもってきっちし遅くまで仕事しちゃったから畳むこともなし。なんだか一日をちゃんと過ごせなかったような気がして残念。まぁとにかく週末に向かいましょうか。


2003年12月11日(木)

「抽象画」

  ネット上のダイアリの中で堀江敏幸のことが書かれていて、そこから彼の小説に出てくる写真家の白黒写真に飛んで眺めているうちに、横にあった抽象画にひょいっと飛んでしまい、いい絵だなぁなんてしばらくそこで佇んでいた。画家の名前はマーク・ロスコ。Mさんに教えてもらったときは何も感じなかったのに、今頃になって何かを感じるなんて不思議。・・・どうやら千葉県まで行けば見れるらしい。


2003年12月10日(水)

「リングにあがってとりあえずは栗(石油)拾い?」

  イラクへの自衛隊派遣など決まった日。ランチに出た駅前では盛んに大学生風の団体がちらしなど配っている派兵だか派遣だか反対と声高に叫んでいるってわけだ。君は賛成なのか反対なのかなんてもし胸倉をつかまれたら賛成かもって小さな声で言うのかも。だってイラク=石油の恩恵に最もあずかれそうなのは日本なんだから、国益を考えたらそこの治安安定をはかるのは当然なんじゃない?って。しかし、これが過去に戻ってこれからイラク出兵ということであれば反対なのかな。結局、戦争を行うに足る根拠がなかったから。だいたい今思い返してもよくわからないもの。アフガン空爆よりもわからない。
 まぁそういうわけで、加藤尚武の「戦争倫理学」(ちくま新書)など読み始めたってわけ。この人が言うことには、第二次世界大戦後に戦争禁止へと向かいだした世界の風潮が、NYテロを契機として無差別主義(自国の正義に従って、戦争を行うという仕組み)に再び走り出しているということ。あのベストセラー本の言うところのバカの壁(相手の立場に立たない限り、相手のことを理解できるわけがない。)が立ちはだかって、誰も(特に某大統領殿は)相手のことなど考えず、自国の正義に燃えて戦っているわけだ。日本も結構微妙なところに入りつつある、口だけだったら既にその主義思想の中にはいっているし、あとは武器をもたない軍隊がどこまで武器をもつかというところかな。 自国の正義感に燃えることはよろしいが、相手が相手の正義感なり倫理観で立ち向かってきたとき、もうそれは完全な戦争になっちゃうわけなんだよね。相手の頬を叩いたら、そりゃ叩き返されるってものじゃない?
 本に話を戻すと、やはりここでも世界史を紐解いて、そこから戦争倫理に話を進めるわけなんだけど、ややこの分野は読むのが難儀かな。脳の中であまりそういうことを考えてこなかったから、脳神経に道がない。例えれば、四駆か何かで道のない蔦からまる森の中を走りぬけようという感覚。強引に脳の中に考える道筋を作り出しているってところ。前、藤原帰一氏の戦争に関る本を読んだときもそんな感じがした。兎に角、このあたりの脳神経を鍛えて、胸倉をつかまれる前に、僕はこう思うんです!というところがすぱっと言えるようになれなっきゃダメだな。空から爆弾がふってきた段階で考え出したらちょっと遅すぎもいいところだもの。

 ・・・ほんとうはプルーストのことを書くつもりだったのにー。変なところで寄り道しちゃった。プルースト君はまた今度。

 

2003年12月9日(火)

「退屈とは無縁のこの世界で」

 テーブルの上には逃げ場を失ったような唐辛子を載せた白い皿。バドワイザーの空の缶。それから魔術師が置き忘れていった義手のようなカーキ色の手袋。
 そこに物があり、ストーリーが始まるのを待っている。いろいろなものがもはや作家の制御もきかないままに動き出そうとしている。


2003年12月8日(月)

「告白と中性化」

 卵を割らないとオムレツはつくれない、っていう諺がフランスにあるんだって。どうしよう。 
 なんかこのところ一日ずっと女の人の中にいるせいで、性差の壁がなくなってしまっているような気がするよ。すべてがすぅーっと馴染んでしまって、女性にとってはいいんだろうけれど、ヒースクリフみたいな男っぽさのようなものがどこかに消えてしまうんじゃないかって。


2003年12月7日(日)

 急須と湯呑みを買ってきてお茶を飲む。こういう気分をなんていうんだったかな。ああ、思い出した!、まったりだ。まったりしてます。

 東西線に揺られて竹橋の東京国立近代美術館で「旅−「ここではないどこか」を生きるための10のレッスン」をみてきた。チケットがパスポートをイメージしたものであるところがいい。期待も高まったが、どうでしょう。結局、企画はいいのだけど、強烈なインスピレーションを与えてくれるような作品には出会えなかったなぁ。唯一、渡辺剛氏の暗い部屋に青く光る一連の海岸写真+潮の音という組み合わせは悪くないとは思ったけれど。潮の音を聴いていると、まるで自分が旅先で、ミネラルウォーターかオレンジを手に持って、突堤か何かに腰掛けて潮風浴びながら遠い島影を目にしているような気分になったもの。うまいなぁと思ったけれど、作者の意図は全然別のところにあったみたいで苦笑い。(あれを見て、国内にいながら国内を国外から見るという二つの視線だか位置づけに思い至る人なんていないよ、ふつう。)
 それでもし自分がこの企画展に招かれて何かを出展するとしたら何をつくるだろうって恐れ多くも考えてみた。(考えるのは自由なんだものね。)僕が思うに、旅というのは、非日常世界との出会いであり、それを受容していくことなんじゃないかと思う。だから、僕が考える作品はこんな感じ。
@国境を越えて違う言語・宗教・文化圏に入る時の高揚を表現する。貧乏パッカーの目線でビデオカメラを撮る。国境を越えた瞬間のあの両替屋やらタクシーの運ちゃんやら物乞いやら悪そうな役人やらといった群集をかいぐぐっていくシーンをとる。それを3分ずつA国→B国、B国→C国、C国→A国の国境のシーンという形で編集する。
A何処かの街並みの写真。訳のわからない外国語を流す。やがてそれが消えて、そこに誰もが知っている言語ともいえる自然の音(笑い声とかでもいい。)を入れ込む、そうして最後にそのシーンに合いそうな日本語の街の音を入れ込んでみる。ここで、人は街を一瞬受容したような変な気持ちになるのではないかなって思う。
 
 まぁそんなことを考えるのも楽しいものだ。他の展示は、イサムノグチのあかり展(今さら目新しくもない、なるほど彼がねぇって感じ)を見て、常設(東山魁夷の雪の降っている絵が素晴らしかった、身体の中に雪がふっていく感覚になった。あとは佐伯祐三が割とよかったかな。クレーはよいけど、ニ作品だけでは・・・。)眺めて帰ってきた。いつもながら美術館を出た時の、五感の働く感じが好き。入る時と出た時でこれほど感覚が変わるものって他にありえないよね。


2003年12月6日(土)

 一日を思い返す。山中千尋さんの「Taxi」のピアノの旋律を部屋に満たしながら、ウィスキーとカマンベールチーズなんか傍らにそっと一日を思い返す。
 新宿御苑の映える紅葉の妙、今までどんな映画でも見たことのないような一斉に散っていく銀杏の葉のダンス。夜の空気の色だとか、くちびる奪う一瞬だとか、12月に凛と咲くバラの花だとか。アボカドと鶏肉の絶妙なハーモニー。
 僕はこの一日をどこかで思い返すのだろうか。いつかこの日も過去の落ち葉の中に埋まっていき、それを幸せな過去として思い返すのだとしても、なんて素敵な日だったことだろう。

 
 イザベル・コヘットの「死ぬまでにしたい10のこと」。映画好きの友達に絶対観ろ!と言われた映画だったけれど、どうかな。これはその人の今ある状態によって受けとめ方も違くなるんじゃないかなって思ったよ。死を宣告されて、始めて自分の求めているものを味わいつくそう、と思い立つのはつまりは日常において自分を完全に出しきらないで生きているってことなんだよね。僕はその意味でそうした抑圧をしないで生きている感があるから、もっと死というものには違う感覚をもつような気がするな。ピチカート5の歌にあるように、神様がそっと死を宣告しても、悲観もせず世界は素晴らしいよね、って肯定する方向に動くと思う。自分を世界に刻み込んでおこうと思うのではなく、宇宙の塵のように消えていく自分が世界を愛するという構図になっていくんだと思うんだよね。
 しかし、原題は「my life without me」。実は、この映画、死ぬまでにやりたいことを実現しておこう、というものではなくて、自分のいなくなってしまう現在の世界を受け容れようというのが主題になっているんだよね。だから、映画のつくりとしては、もう少しヒロインの視線にカメラを合わせて、親しい人の視線が自分を越えて違うところに泳いでいくといったシーンを撮っていくとよかったように思うなぁ。それを苦しみながらも受け容れていくというシーンがとれたら僕は泣いたな。だけど結局、この映画は邦題のように自己の生きている証をたてたいというところが強すぎたきらいがあるかな。結局、監督も含めて、若いっていうことはそういうことなんだよね。
 あとで知ったことだけど、「トーク・トゥー・ハー」の昏睡状態にある美しいバレリーナが、ここでは生を引き渡す相手として出てくるのは面白い。でも全然わからないというか、本当に同人物なの?って感じではあるんだけど。


2003年12月5日(金)

 仕事は順調。昨日の夕方につくったアンケートを上司に許可もらって学生に送ってみた。一押しで2000人にもいくわけ。送って、しばらくたつと早速回答が次々と返ってくる。ネットのコミュニケーションって今さらながら不思議。週末にはメールボックスがいっぱいいっぱいになりそう。夜、吉祥寺のフレンチで忘年会。かさごが美味しかった。
 お風呂の中で、あるものから無意識に記憶が蘇るということについて思いをめぐらす。しかし、日々蓄積される感性(五感、歓喜、失望、痛み・・・)の記憶がなければ、それを思い返すこともないのだろう。強い感性こそが、記憶の豊かさにつながるのかもしれない。記憶の豊かさはすなわち心の豊かさだ。なぜこんなことを考えるかといえば、鈴木道彦の「プルーストを読む」(集英社新書)なんか読んでるからなんだ。


2003年12月4日(木)

 木と変換しようとして黙とでてくる、だから黙曜日なんちゃって。眠いのでまた明日。


2003年12月3日(水)

「記憶は波のように打ち寄せる」

 友人が亡くなって再び年が巡った。その夜、僕は吹雪の山のテントで寒冷じんましんに襲われたことをなぜか記憶している。翌朝、コンパスをきって、吹雪の雪原をラッセルしたことも。そうして下山連絡から戻ってきた先輩が悲報を耳にして言葉を失っていたことも。

 
「自分の問題として」

 昨日の本「ケータイを持ったサル」の感想のつづき。この本は昨日書いたように、論理的な展開力が弱い、だけど筆者・正高氏がもってこようとする結論はけっこう強力で考えさせられるものがある。彼の論旨は以下のようなもの。
 戦後、サラリーマンによる経済態勢から専業主婦が生まれ、女性が家庭にいて子供とつきっきりになることによって、子供の社会性が失われ、結果として社会に出ることができなくなっているのではないかということ。一方では愛情を過分に注がれている分、素直な人間が育っているのだが、そこに付随する社会性の欠陥が、引きこもりやパラサイトシングルや行動のサル化(低脳化)を生み出しているという仮定。
 僕にとって耳が痛かったのは、そうした子供たちが大人になって、「誰かについて全面的に責任を引き受けることの恐怖」のために、子供をつくりたがらないという話だ。僕がスナフキンのように自由でありたいと願うとき、それは他者への責任から逃れたいということと案外同意であったりする。自分が旅をしているとき、そこには何らかの責任が課されることがない。自分は半分旅をするような好き勝手な生活を二年も続けて、そうしてようやく自分に対して責任をもつということを覚えたばかりのような気がする。それでもまだ自分は他人に対して責任を負うことを厭っていることは間違いない。拘束されたくない、って公言するのも、つまりそういう意味なわけだから。・・・考えてみれば、僕とよく似た自由人である弟もまた母が常に家庭にいる状態で10代の始めまでを過ごして、母が仕事をもったときまだ10代にはいったばかりであった妹が逆に自由人であることを嫌う節があることも面白いことだ。そこには性差だけではなく、やはり育った環境も幾分影響しているのかもしれない。
 僕は結局この本に出てくる対象であり典型であると言い切れそうだ。・・・もう少し、この問題については他の視点も含めて、考えてみる必要がありそうだ。自分の問題としてね。


2003年12月2日(火)

 「晴れの日は晴れ!」

 スカイブルーといって差し支えないようなきもちのよい空。職場のある駅前まで小さな銀杏並木が続いていて、路面には重なりあうように黄色い葉々。それを踏みしめて僕はペダルを踏み込む。なんて素敵な朝なんだろう。
 仕事もだいたい順調。うまくスキルある派遣の方々のやる気を引き出せるように仕事していかないといけないなって思ったな。僕はたいしてスキルがあるわけじゃないし経験値もないのだけれど、やっぱりそうしたものに気を配っていかないと、モチベーションも下がるだろうし、不満が別のところに出てしまうからね。僕が思うに女性って結構仕事上で会う人の悪口を言うんだけれど、これって何か別の不満の吐け口のような気もするんだよね。これはじっくり考えなっきゃ。それにうまく対処することがマネージメントというものなんだろうなぁ。モチベーションが上がって面白ければ、生産性も結果としてついてくるわけだしね。
  
 
 もう眠るはずだったのだけど、お風呂の中で本を読んでいて考えたことちょっとメモっておく。
 正高信男の「ケータイを持ったサル 人間らしさの崩壊」(中公新書)。かなりセンセーショナルなタイトルをつけていて、それだけである程度の売り上げが狙える本だと思う。ゆえにこうした本には厳しく当たってもよいとは思う。さて、半分まで読んで考えたこと。この筆者の理論は弱いかもしれないということ。
 よくは知らないがそれなりに霊長類には詳しい方なのだろう。そうして霊長類を研究すれば、無論その先にある人間というものへアンテナが向いていくことも理解できる。が、やや語り口に思い込み的なところが強すぎるきらいがある。この筆者の言っていることは正しいとしても、それがすべてを解き明かすものにはならないということをもう少し悟るべきだ。例えば、秋になると葉が紅葉するという例でいこう。なぜ紅葉するのか?という問いに人はそれは寒くなるからだろうと答えるかもしれない。だけど、それだけで答えることはできないはずだ。そこには日照量、気温、植物ホルモン、水分量、気圧などなど、多様なファクターが絡んでいる可能性があるからだ。寒くなる→紅葉する、という理論展開だけ考えているとこの場合大きな落とし穴に落ちてしまう。特に思い込みが過ぎると、例えば、マフラーをまく人の数が多い→紅葉する、なんていう理論展開だって可能になってしまうわけだ。
 どの学問もそうだとは思うけど、常に様々なファクターを考えた上で、物事を遇していかなければいけない。そうしてこの本に戻ると、どうも霊長類の習性と現代人の特性の例(引き込もり、ケータイ利用)というものを一本線で引いて解決してしまおうというところが強すぎるきらいがあるかな。もう少し、社会背景、歴史、生理学とかなんでもいいけれど、違うファクターの可能性も示唆する必要がある。
 一方で、この本の見方はひとつの見方として捉えればいいじゃないか。読者が多様な視点をもてばいいのであって、それを筆者に求めるのは酷だ、とも言う人がいるだろう。でも、本当にそれでいいのかな。仮にこれだけのタイトルをつけた本なのだから、あらゆる分野の人が読むことを想定しているはずだ。その想定がありながら、選択肢を残しておかないのは科学者としてやや堅いのではないかとも思うけどどうだろう。
 まぁそんなことをお風呂の中で考えたわけなんだ。内容に関してはまた別の機会に書くかもしれない。とりあえず僕は寝ることにします。どうして眠くなるか→それは明日があるからだ。


2003年12月1日(月)

 「雨の日は、晴れのちやっぱり雨?」

 午前中は調子よかった。学生から提出されたレポートをWEB上で教員に割り振って<10日に一遍>、レポート添削手当てを計算して<一ヶ月に一遍>、教員からのメールに丁寧に答えて<随時>、他大学の職員の友達にもメールしたりね<珍しい>。ランチ前にシステム費用の稟議を上司に手渡して、すぐさま100万円間違えているよって指摘されたあたりから雲行きがあやしげ。
 午後、午前の教員から手厳しいメール。教員が添削したレポートの学生が少し精神を病んでいて、僕が学習を行うのには差し支えがないとストレートに書いたのが癪にさわった模様。それでお詫びメール書き。上司に確認とったら、「出すぎたことをしたと、反省しています」という一文をつけくわえられ、僕は「僕が反省している」はずなのだと気付く。最近、少し自信がありすぎたかなとそのまま反省の谷間へ落下傘なしで落下。そうして雨粒のごとく、散ったわけでした。