2003年2月28日(金)

『仮住まい』

 ダンボールに囲まれた部屋にいる。札幌とはいえ、山間なので雪が多く、一階の窓は屋根からの落雪で半分ほど埋まっている。足元に犬が丸くなってうずくまっている。
 
 カラマーゾフ、三分の一まで読んだ。これ以降は、父親の本棚で文学全集のほうに引き継いで読む予定。30年前の本だけど、よく考えればドストエフスキーが書いたのは百年以上も昔の話なんだ。
 上巻(原卓也訳)の最後の場面が圧巻。無神論者のカラマーゾフ家の次男イワンが、誠実な求道者たる三男アリョーシャに語るところ。自由である人間は常に皆でひれ伏すべき対象を探しているのだ、と語るところ。自由であるように語ったキリストは人類をかいかぶり過ぎたのだと彼は語る。人間は自由であることなど求めていない、ただ神がかりなまでに強力なものに隷属することを求めているというわけだ。これは、別にその時代に限らず今も同じ。人は生まれたときは自由なのに、結局のところ、何かに拘束されることを選んでいく。責任が自分に跳ね返ってくるほうよりも、組織のようなものにそれをなすりつけたほうが楽だからだ、と自由人にしてそれに時たま困難を感じている僕は思う。やや深読みだけど。さて、放蕩に身を沈めて堕落の中で魂を圧殺するというカラマーゾフの呪われた血をもつ三兄弟がどうなっていくのか?、まだ話はこれからだ。   


2003年2月27日(木)

『さて、ひっこし』

 ひっこしが恒例になりつつある。このHP始めて、7回目のひっこしみたいです。いやはや。
 さて今年の春のひっこし第一弾。まずいったん実家に引き上げます。今、27日0時52分。まわりはダンボールの山と化しています。冷蔵庫の電源も切っちゃたし、ガステーブルのチューブも抜きました。このPCもそろそろ片付けようかな。それでもbirdの「9月の想い」なんか聴いて、かってに切なくなっています。全然9月じゃないし。それから残っていたジンを飲みきろうとしています。(たぶんムリ。)こういうときは想い出に浸るのも悪くないのかもしれないけれど、この部屋ではそんなに想い出つくれなかったな。でも、楽しいこともあったよね。もう、ここに来ても僕はいないからね。次はどこで会えるかな。


2003年2月26日(水)

『二月のおわりの夢想者』

 二月の終り。窓の向こうでは雪がちらついている。部屋の窓はわりと広い。外に向かって筒抜けるような気分がして、この部屋に住み出したのだ。
 雪がふりだして、ストーブをつける季節になると必ず聴きたくなる音楽がある。カーディガンズの「LIFE」というアルバム。ジャケットには、白い帽子、水色のふわふわコートに白いスカート、白いスケート靴はいた白人の女性が笑っている。多分、ボーカルの女の人なのかな。僕にとっての冬のイメージに、すごいフィットしてくる。そして僕は何度か触れたけれど、自分の中に冬の街のイメージがある。僕の内面の世界では、決してぎらつく太陽がサボテンを焦げ付かせたりなどはしない。ただ白い太陽が空に浮かび街はひっそり雪に包まれている。そんなイメージ。ホームページだって、ほら何だか青い氷のイメージでしょ。明日、出て行くこの部屋だって、白と青のツートーン。何かしら青い空気がいつも漂っている。ああ、とってもクール、とってもブルー。
 この部屋も、そして最終的にはこの街からも出て行くわけだけど、またいつか僕は恐らくこの街かもしくはこれと似た街に住むんじゃないかなって思っている。寒さで車のエンジンがなかなかかからなくって、軒先から蒼いつららが下がっているような街。
 どうせならシンプルな生活がいい。それからセーターの合うような女の人。なんか想像してるだけでくらくらしてきそう。何を着ていても、どこで暮らしていても品とかセンスのあるような女の人。望みすぎかな?
 車とか家は古くっていいよ。日当たりがよくて、できたら緑に囲まれていて、センスが感じられればいいかな。犬はいてもいなくてもいい。犬を飼いたい人が散歩してちゃんと世話をするならね。僕は、ときどき隠れて食べ物をあげて犬のご機嫌とるの。(うちの実家のシーズーも母親の次になぜか僕になついている。)
 ときどき釣りにいく。万年初心者だから、大体において、魚より枝とかを釣ってしまう。まぁそんな感じでいい。途中から焚き火でもして昼寝したりね。
 あとは本読んだり、車で海までいったり、古い映画みたり・・・、これくらいでいい。これで十二分幸せ。書いていて思ったけれど、今の生活とそんなに変わらないといえば変わらないのかも。
 夢想というほどではないか。でも、夢想するとだいたい現実になるような気がしない?


2003年2月25日(火)

『帰納法の理系人間が、論理学の思考法=演繹法と出会う』

 野矢茂樹の「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」を読んだ。僕は、まずウィトゲンシュタインの著作も解説書を一冊たりとも読んだこともなかった。大体、彼の名前を知って、まだ一、二ヶ月もたっていないような気がする。著者の名前、及びウィトゲンシュタインを知ったのは、ひとえにネットのおかげかもしれない。
 ORIONさんの書評中では
<<これほどの書物はめったに出会うことがない。哲学書を読み終えたとき世界が根本的に変わってしまうことは、そう再々あることではない。世界の見え方や見方が変わったのではなくて、世界に対する態度が変わった結果、まったく別の世界が開かれていく「予感」に身震いする、とでも言えばいいのだろうか。・・・>>
などとある。そう書かれると、恐れを知らないこの「彼」(=僕)は、図書館の哲学コーナーから何の疑問もなく借りてくるわけである。そして読むわけである。はじめ、確かにこれを読みきれるかどうかというところに不安はあった。高度な哲学議論をされたら、もう¥#$%?の世界でわけがわからないだろうなと。しかし、この本は非常に読みやすかった。この前に読んでいたボルヘスの小説なんかよりずっとずっと読みやすかった。これはひとえに野矢氏の頭のよさなのだと思う。柴田元幸の下にいたオザケンは昔こんなことを言った。「難しいことを難しく言う人よりも、難しいことをわかりやすく言える人のほうが頭がいいのだ」と。この本において言えば、ウィトゲンシュタインの「論考」の基礎については大まかなところはわかるような仕組みになっている。ただし後半の「論考」の発展は頭が回ってしまうけれど。
 僕は哲学は完全なる門外漢である。だから哲学という分野がさらに細部に分かれているということもうまく了解していなかったように思う。ウィトゲンシュタインは論理哲学者だ。論理学というのは、思うに、自分から世界を見るときの一番核にある学問なのだろう。何かを認識する場合、何かを知覚してそれを言葉に表すわけだけど、そこの仕組みが論理学なのだと思う。例えば、ウィトゲンシュタインの「論考」の第一行目は「世界は成立していることがらの総体である」なんてところからはじめていく。世界がどのように存在して、それを私がどう表しているのか、そしてそもそも私って一体何なのか?というところを突き詰めていくっていうのがこの学問のやり方なんだ。そうした基本的なことを演繹法的に考えていくわけだけど、最終的に行き着くのが自分と世界との在り方であり、つまり生をどうとらえるか、幸福になるにはどうするかというところなのだから面白い。ウィトゲンシュタインの哲学についてはここでは省略する。まだ、門外漢だし、下手に書くと何か誤解を与えかねない。

 さてこの本を読んで考えたこと。それは哲学という思考法についてだ。さきほど、僕は演繹法という言葉をつかった。これは個々の事物の在り方から全てを支配する普遍的な法則のようなものを探し出す方法を言うのだけれど、なぜこれが新鮮だったかと言うと、僕の思考法が演繹法ではなくって、その逆の帰納法によるものだからだ。まさに理系教育が僕をそうさせたのだと思うけれど、まず法則があってそれをどんどん個々に適用してしまえという思考のやり方だ。数学の公式を習うと、なぜそれがそうなるかうんうん考えている人(うちの弟も確かはじめそうだった)がいるけれど、あれは演繹法的な思考法をよりどころにしている人なのだと思う。ふつう理系の受験勉強を積んでいくと、人はみんな帰納法的に物事を思考するようになると思う。すべてを法則化してしまって、それを個々の問題にぱしぱしと応用して問題を解くという方法を叩き込まれるわけだ。
 例えば、昨日、塾で期末テストの数学の問題の解法を訊かれて、僕は恥ずかしいことに即答できなかった問題があった。この問題は簡単に言うと、「直定規とコンパスで30度の角を作りなさい」というもの。僕の脳にはこれに答えうる法則のようなものが用意されていなかった。よってまず90度の角を三等分するという考え方(多分数学的にムリ)を最初考えてみて「うーん」などと言い、そのせいで「早く早く!」とせきたてられ、「ちょっと待ってね。この問題はね・・・えっと」などと口先で交わしながら、直角の呪縛から離れてまず60度の角をつくればいいのだという考え方に転向したところで、ぱっと閃いたわけだ。(ちなみに一番簡単な解法はコンパスで三辺が等しい正三角形を作図して、角を二等分すればOK。ああ、かんたん。)そうして思ったのだけど、僕がやってきた数学って全てこれじゃんって。つまり最初に大きな法則(例:30度の角は60度の角をもつ三角形をつくることから始める)があって、それから応用して15度なり、7.5度なり、37.5度なり・・・の角をつくるという帰納法的なやり方でしかないだろう、と。
 さて、僕はここから受験教育の弊害云々を言いたいわけじゃない。物事を考える際には帰納法が必要なことに異論はないからだ。ただ付け足すならば、新しいことを考えるとき、誰も考えていないことを考えていくときには、哲学の思考のような演繹法も必要だということを考えたわけだ。それは何か新しいことを始めるとき、すべてのことについて言えると思う。
 ここでは僕に一番身近な「小説を書くという行為」を取り上げてみる。恐らく小説において法則に当たるものが小説の主題なのではないかと思う。解法がそのプロットでありストーリー展開に当たってくるのだと思う。はじめから、主題が決まっていて、良くも悪くも模倣できるような小説があってそれに近づけるならば、その手法は有効なのだと思う。例えば、推理小説、エンターテイメント小説はそれに則って書けばいいのだと思う。これまで使われた法則をうまく散りばめて、書いていけばいいのだと思う。
 しかし、もし書くときにその小説中で何かを思考していくことを目的とするならば、そうした書き方はできない。つまり始めに主題はあっても、それが書き終えたときに同じ主題ではないからだ。書いている途中で主題の結論は変わるかもしれないし、あるいは主題自体を入れ替えなければいけないかもしれない。だから、小説を書く場合、一本の線で書けるということはありえない。(僕はトラパレでA氏にその点を注意されたことがあった。「・・・リニアに書いて作品を終わらせている。自由に連想していくのはいいですがその責任をとろうとしていない。」あるいは「ストーリーやプロットに沿って、人物や風景描写を再構成する。そしてストーリーを描写にあわせて、改編する。この作業を繰り返し続けることが作品創りなのではありませんか。作品の推敲は細部の見なおしに留まってはいけません。」と。)
 僕が思うに小説とは、演繹法的な思考過程なのではないか、ということ。それを究極まで追求したのが、プロットを組み立てなかったカフカという人なのだと思うけれど、まぁそこまでしなくても、小説は書いている途中において常にいろいろな方向に可能性をもっているものでなければいけないと思う。そして可能性ひとつひとつ吟味していき、少しずつ前進していき、最後の最後で法則、つまり真理、あるいは主題の結論にいきつくものなのではないかということ。そうして行き着いた後に(あるいは行き着く途中途中において)、今度は帰納法的に作品全体を眺め回してみること。すべて(プロット、人物、アイテム、ストーリー展開)が導き出した法則に則っているかどうか。それが効果的に配置されているかどうか、それが大事なのだろう。今の僕にとって、僕の小説はそうでなければならないと思う。
 

 図書館が2月いっぱい図書整理のためにお休みになってしまって、弟の名前も使って、簡単には読めなさそうなのも含めて8冊借りたわけだけど結局読んでしまったので、手持ちの本にあたることにした。
 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」。学生時代に読もうとして、上巻のはじめで放棄していた本だ。今回は一挙に読んでしまおうと思う。本の冒頭から、キリスト教の信仰についてページの多くを割いている。19世紀のロシア文学というのは、トルストイもそうだけど、宗教抜きでは語れないものなのかもしれない。農奴解放による社会の混乱と社会身分の不安定感、社会主義の台頭など、背景についても今回は多少調べたりして読んでいけたらなと思っている。


2003年2月24日(月)

『よいものに接してみるということ』

 ねむねむだから手短に。Aさんよりメールを頂いた。

>楽器の中でピアノがよかったということですが
>機会があればお金を払って
>一流の人の生演奏に接してみるといいと思います
>音色がまずぜんぜん違います
>これはすべての楽器にいえることなので
>そういう人の演奏を聴けば、たとえばトランペットに強く魅かれる
>(というより、その人の演奏に惹かれる)ということになる可能性があります
(略)
>生演奏に接して、感覚を磨いていくことは
>小説を書く上でも必ず何らかのプラスの作用があるような気がします

 
よい音楽を聴いたり絵画や写真をみること、そうやって感覚を研ぎ澄まし鋭敏にしておくこと。間違いなく重要だろう。そして感性だけでなく、思考力といった知性も中身のある本を読んだりして高めていかなければいけないだろう。今はひとつひとつ進んでいこう。・・・しかし、いい先輩をもてたことだなぁ。純粋に感謝です。


2003年2月23日(日)

『今、ここでJAZZを聴いているという不思議』

 お休みだから、JAZZを聴きにいく。「ビッグバンドフェスティバル・インさっぽろ」という市民会館で開かれた催し物。いくつかのバンドが演奏したわけだけど、このトップバッターにピアニストAさんのバンドが登場。知っている人の指が絶え間なく動いているのを観るのは不思議な気分だ。僕が大学三年生のとき、暇がてら一緒に行った学祭のジャズ研ルームでAさんは啓示を受けたわけだ。帰り道、「俺、ジャズやることにするわ」と言ったAさん。その人が公の場で、鍵盤を叩いている不思議。
 もし、あのときJAZZ研の演奏を聴かなかったら、あるいはここにAさんはいなかったのかもしれない。つまり、僕もここにいなかったかもしれない。すべては連鎖して今僕はここでJAZZを聴いているのだ。


2003年2月22日(土)

『休みの日には街へでよう』

 久し振りのお休みの週末。嬉しくって、朝から短歌つくって好きな人にケイタイで送ったりしている。そしたら「今、湯布院に遊びにきてます」なんてきたものだ。大昔の人が驚異をもって天体の動きを見たように、僕もまた彼女の行動力に驚いている。
 お休みだから、映画見に行く。友達を誘ってもよかったのだけど、その子の彼氏のことを考えて、いやそうじゃなくって単にひとりがいいかなって思って、家を出た。ひとりだから、かなり適当な選択で映画を選んでしまう。
 ギャスパー・ノエ監督の「アレックス」。近親相姦がテーマの「カルネ」の監督という時点で、僕は観るべきかよく考えるべきだったのに、モニカ・ベルッチ&ヴァンサン・カッセルという「アパートメント」の組み合わせでなんとなく選んでしまった。 さて結論から言えば、この映画は誰にも薦められない。大体、ダイアリに観たと書くのもはばかられるところだ。殺人にレイプに残酷シーンの応酬・・・。はっきり言って有害この上ない映画だと思う。しかし、その一方でどうでもいいハリウッド映画を観るくらいなら、僕自身はこちらを観れてよかったと思う。この前、「ボーン・アイデンティティ」という自分の存在性をテーマにした映画を観たけど、映画が浅すぎて、結局エンターテイメントでしかなかった。まぁエンターテイメントというのも映画の大事な要素なわけだけど。それに比べると、この映画は不快感の電気を身体に流して、そのせいで考えざるえないのだから意味がある。とりあえず、僕はこの映画の無意味性をまとめておきたいと思う。
 まず「時はすべてを破壊する」という映画全般に流れるテーマは陳腐。確かに、人間の本性がどうしようもないもので、ナチズムを生み出したり、サリンを撒いたりなんてことをやったりするいうことはいえる。だけど、そうじゃなくて、人の優しさ、愛情というものに包まれて生きていく人だってたくさんいるのだ。「時はすべてを破壊することもあるけれど、大事なものを生み出し守っている人がたくさんいる」はずだ。一歩引き下がっても、ほら人間の本性はこんなものさ、と見せることに意味があるのかわからない。たとえば、僕は宮台氏という社会学者?が嫌いなのだけど、なぜ嫌いかといえば、それは社会現象(彼の場合は援助交際など)を取り上げて論じているようで、実はそれが社会現象を後押ししているからだ。同じように、この映画では、面白半分としか言えない描写で人間の悪の部分を取り上げているという時点で、それを表面化させることに力を貸してしまっているように思える。この映画を咀嚼することのできない若い人にとっては、間違いなく逆効果ではないか?
 描写方法が感心しない。時間軸を逆に追って、一番最初に映画のクレジットから始めて逆回転させてタイトルで終わるというのはまぁ良いだろう。映画は明から暗に向かうわけだから、それも相当残酷な暗だからそこで終わらないというのは一種の配慮ですらある。しかし、暗部の描き方がひどすぎる。残虐シーンのおぞましさといったらひどすぎて言葉を失う。そしてそこにさほどの意味があるように思えない。スタイルとかそういった問題ではない。この監督は面白半分に残虐シーンをとっているとしか思えない。明と暗の対比など、いくらでもやり方はある。「ポーラX」でも観直して、せめて描写手法くらい考えるべきだ。ショッキングがよいわけではない。もし「時はすべてを破壊する」とかいうテーマを標榜するならば、残虐シーンで観客を慄かせることの意味をきちんと考えるべきだ。これじゃ、単なるホラー映画だ。はじめからホラー映画ということならば、始めから観る必要もない。
 僕がこの映画から得た収穫。たとえテーマというものがあったとしても映像として残虐シーンを克明に映すのは許されるものではない。作品が(結果的にでも)悪を助長するものであってはならない。悪い映画はその悪い点を考えることができるという点においてのみ逆説的に良い映画となりうる。兎に角、この映画は屑。しかし屑だからこそ自分の脳裏にイメージが残りそうな気がする。(同じような例としてダンサーインザダークのエンディングを思い出す。)それがこの映画の狙いならば、この監督はよっぽどひねくれている。
 

 映画を観てから、喫茶店でぼぉっとしたり、バージンや本屋を覗いたり。で、jerzee monet「love&war」買った。この人の声、かっこよくていい。相変わらず、R&Bづいてる。
 

 ボルヘスの「伝奇集」読んでる。ボルヘスは、ガルシア・マルケスと並ぶ南米文学の双頭であり、さらにはカフカ、ジョイスといった二十世紀文学の最前衛に位置づけられる作家だ(by訳者)。掌編の集まりなのだけど、読むのに結構苦労する。長編にしてもいいような史実的なストーリーを掌編にぎゅっと絞っているからだ。掌編ごとにチューニングを微妙に調整しなければならないから、それがうまく合わないと大変。それも数ページごとに話が変わって、場所(南米も欧州もアジアも)、時間(古代ギリシアから20世紀まで)を違えてシャッフル的に物語られる。集中力がなくなると、すぐさま、この語り部の世界から振り落とされる。それでもどうにかしがみついて物語を読んでいけば、なかなか面白いイメージに満ちている。中でも「不死の人」という話が興味深い。文字通り死なない人の話なのだけど、そうすると物の感じ方自体が違ってくる。僕らが当たり前に思っている感覚も死という終りを前提としているようだ。訳者はあとがきで、不死の人というのが死ぬことなく半永久的に残っている書物の比喩だとか書いていて、それも面白いなと思った。このボルヘスの掌編集は僕みたいに次々と息急いて読んでいってはいけないような気がする。本当は一つの話をじっくり読んでいくほうがいいように思う。実際、掌編というより、掌編の顔をした長編なのだから。一日に長編を十も二十もふつう読まないし、読めないものね。


2003年2月21日(金)

『ジントニック飲みながら、ぽつぽつと』

 昨日のことはすんなりわかってもらえて一件落着。桜吹雪をもちだすまでもないみたい。
 *
 言葉づかい。どうも僕がぽんと外に放つ言葉は、話し言葉にしても書き言葉にしても、人に対して時々棘があるような気がする。多分、自分のほうが高いところにいるように錯覚して口にしてしまうからのような気がする。討論でははっきり自分の意見を言うことが求められるけれど、大学時代の友達とはきわどい言葉のやりとりを楽しむこともあるけれど、それも時と場所による。謙虚にならなくっちゃね。
 
 大道珠貴さんの「しょっぱいドライブ」を読んだ。この小説に出てくる主人公の女性は、計算高く、したたかな一面があるのだけど、それを自分でそう悟って開き直っているところがあり、むしろそうした自分だからこそどういう幸せの形があるのだろう?と探っているようでもある。大道さんの小説は、焼き魚の身と骨を丁寧によりわけているようなところがある。普通、人って外面のきらきらした鱗を見せて、中の身や骨というところを見せたりしないし、それはどうしようもないものだから隠すべきものだと考えられている。それが大道さんの筆にかかると、「わたしはこんな尖った骨をもって、赤黒い内臓をもっているのか、そうなんだー、ふむふむ」的なよりわけ作業となる。小説は結果として、全体としては明るいわけがない。芥川賞審査で、俺が世界を変える的な石原氏や世界を変えたり対抗するために文学を必要とする村上龍氏に評価されないのは、当然といえば当然なのかもしれない。しかし、彼女の作品は、人の汚い部分まできれいに解体してしまうことで、自分の最低ラインを知ることができ、むしろそこから自分はどう生きていけばいいのだというところを考えさせる契機になるような気もする。面白い手法だと思うし、芥川賞作品としても文句はないんじゃないかな。ただ、他の審査員が言うように、ここ三回の芥川賞(長嶋氏、吉田氏、大道氏)の傾向がどんどん狭い世界に入ってしまっているのも事実。そうした世界を自分の中に戻して見つめる純文学もいいのだけど、世界に働きかけたり壊したりするような力強い作品も今後期待されているような気がする。って言う前に君書きなさい、だよね。


2003年2月20日(木)

『相互に理解していたという事実さえ過去になる』

 Rからメールがきたのはいいんだけど、ページ閉鎖について一から説明しないとわかってもらえないということがわかって、仕方なく気分が悪くなりながらも例の一件を思い返して、メールで説明した。わかってもらえたかな。
 一番わかって欲しかった人に説明しなくてはいけない、このもどかしさ。考えてみれば、もう一年近くも会って話したりしてもいないのだ。お互いがわからなくなってもおかしくないのかもしれない。そういうのって寂しい。物理的距離は仕方がない。しかし、それに付随するように、理解しあっていた心さえも離れていく。そうした寂しさ。
 そうして、それを一から再び構築する必要もないとという事実。

 君はこれから新しい人とひとつひとつなにかを積み上げていくのでしょう。僕もまた、君の知らない人となにかを積み上げていくのでしょう。


2003年2月19日(水)

『失われた過去を取り戻そうとする欲求』

 カズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」を読んだ。ロンドンと上海の二都市を舞台にした物語。若き主人公が上海で行方不明になった両親から離れてロンドンで少しずつ自分の生きるべき道を進んでいく様は、「日の名残り」で見せたような抑制のきいた語り口調が続いていく。僕はわりとこういうのが好き。語られていないところですらも、まるで「ヒマラヤ杉〜」や「ガタカ」でのイーサン・ホークの演技のように、何かを感じとることができるからだ。後半は、行方不明になった両親を探すべく探偵となった主人公が日中戦争最中の上海に乗り込むエンターテイメント調に変わっていく。やや物語の運びが戦闘シーンなどを含んでくるせいで粗くなり、現実味がなくなってしまうのだけど、主人公が二十数年たっても両親が監禁されながらも生存していると思い込んでいるところから現実味がないわけで、架空的世界の中に階層的に話を織り込ませるというような物語の構造を狙っているのかもしれない。ページのほうはすらすらと進むし、これがベストセラーになる理由もよく分かる。その一方で、やっぱりイシグロ氏の持ち味は前半のような抑制された感情を綴ることのできる文章にあると思うのだけど、どうだろうか。


2003年2月18日(火)

『最後に行き着くのは』

 身体に熱がたまっている。昨夜、いつもの倍、黒板に向かっていたのがいけなかったみたいだ。SE時代は土曜日の朝は身体がガンダムのモビルスーツになったような感じがして重くて起き上がることもままならなかった。アムロが操縦席で叫んでも動かないといった感覚。決してシャアの言うような、「ええい、連邦軍のモビルスーツは化け物か」ではないのだ。僕は結局生身の人間なのだ。今後、モノカキになることを本気で目指すのならば、やはり身体を鍛えておかなければいけないと思う。体力は、実は知力に勝るのだ。もし、優雅な貴族でないのなら。
 優雅ではない(あるいはプチ優雅な)平民は、物事をゼロから学ばなければいけない。誰も教えちゃくれない。僕はHPはやめてしまったが、ネットサーフィン(サーフィンというより閲覧って感じだけど)は続けている。昨年末あたりから、哲学書などをばりばり読みこなすような人のページを好んで覗いている。そういう人のページから窺い知ることができることは、読めば考えるし、考えれば必然的に知力のようなものがついてくるということだ。知力という言葉がおかしければ、思考力などと言い換えてもいい。とにかく、これは書く上でも、生きる上でも必要な力のような気がする。最近、思想の入門書などをがつがつ(正確に言えば、かつかつ)と読んでいるけれど、実際読んでいる間、僕からつまらない不安とか焦燥みたいなものは消え去っていく。不安や焦燥というのは、自分が目指しているものや欲しいものに対して自分の準備や能力が足りたいからこそ生まれてくるという一面があって、本を読む行為はそれを少しずつでも埋めていく行為だから、僕は安心感を手に入れることができるみたいだ。こうやって思考力を高めていけば、脳の力がついて、それは世界を生き抜く力になるような気がしている。弟は「身体で生きていく」などと豪語していたが、僕は今「脳で生きていく」という方向で走っている。この場合の脳とは、思考力+感性の力(心)のこと。そうして前述したとおり、脳を使うためには結局は身体を鍛えなければいけないみたいだ。・・・うむ、結局はそういうことなのか?


2003年2月17日(月)

『三段先を見て、手前でつまずく』

 このところずっと塾浸り(テスト対策)でさすがに疲れ気味。まぁお風呂入って夢でも見れば朝にはケロリ(そこがSEと違う)なんだけど。
 永井均の「転校生とブラック・ジャック」(岩波書店)。こういうポップな題をつけられると、哲学の書棚にあっても自然と手が伸びる。そして内容が記憶や存在論ともなれば、ちょっとは読んでみようかななんて欲も出てくる。しかし結果は無残。三段先の階段だけ見て昇ろうとして、手前の段でつまずいて、三段先なんかには及びもつかなかったという感覚。つまり、ちょっと背伸びしすぎた。僕はまだ入門書を読んでいたほうがいいのだ。だがその一方で、先を行く人はどれくらいのことを考えているかを捉える(いや、捉えていないんだけど・・・。)ことができてよかった。
 本の流れは先生と十人くらいの生徒たちとの対話形式になっていて、各自が独自の哲学(=思考形式)をもち、それらが交互にぶつかったり、影響を受けあったりすることで、より問題がわかりやすくなっていくという形をとっている。作者が狙っているのは、問題をわかりやすくすることで、究極的な結論を導き出そうとすることではない。<<複数の哲学が、相互に相手を含み込みつつ同時に生成していくさまを描きたかったんだよ>>とは先生の名を借りた作者の弁。
 さらには饒舌になって、哲学の意味まで語る。
<<学生K:哲学なんてやって、人生にとって役立つんですか。 
 先生:ふつうの生活や、そこで働いている常識からいったんは離脱できるから、そうしないでは生きていけない人にとっては、役に立つんじゃないかな。>>ふむふむ。
 難しくはあったし、時折そんな枝葉末節なことどうでもいいじゃんとも思いたくなったけれど、それでも「今」や「私」の意味を哲学的に考察していくことは知的な喜びがあった。僕も、ここで先生を取り巻く生徒のひとりくらいになれたらいいなと思うし、なれないと小説など書けないんじゃないかという気もしてきた。


2003年2月16日(日)

『表現者として生きるためには』

 この部屋にいるのも残り二週間だ。ホットカーペットに座って、珈琲カップ片手に本を読むのが板についてきて、惜しいキモチでいっぱいだ。ここが自分の空間であるからこそ、そこから出てしまうことがもったいなくてしょうがないのだ。人は、自分のいる空間をこよなく好きになる、そして好きになるからこそ空間を離れることを厭うようになる。人が故郷に、それがたとえ魯迅のように鉛色の空の下にあっても、そこを愛してやまないのは、そこが自分の空間だからだ。
 人はあるものが居心地がよいとそこに安住することを求め、それに拘泥し、保守的になっていく。自由ははじめ誰にでも備わっているものだけど、結局人は自分で選択して自由を捨てて、何かに拘束されることを選ぶ。なぜならそれが楽で居心地がよいからだ。
 しかし、ある新しいものをつくりだそうという人間は保守的になってはいけない。僕は去年、川崎のある美術館で、「芸術家がコンサバ(保守的)になってどうする?」とある人が舞台で叫んでいるビデオ映像を見た。なるほど、表現者というものは保守的になったが最後、そこに甘えて、新しいものを生み出せなくなるのか、と僕は思った。そのビデオで呼びかけている人とは、森村泰昌氏だった。
 森村泰昌の「踏みはずす美術史」(講談社現代新書)を読んだ。森村氏の作品手法はセルフポートレートというもので、過去の有名作品の作中人物に自分がなりかわったものを手がけている。森村氏は、モナリザになり、モンローになったりする。実際に展示を見ると、はっきり言って悪趣味という感想をもつに違いない。だけど、そこに込められているメッセージというものが、前にも書いたけれど、人は何にでもなれるのだ、という前向きのものであることを知って、僕らはその意味を理解する。自分がこれこれでしかないというのは勝手に自分がそう決めているだけで、実際には何にでもなれるのだ、という意味がそこに含有されているのだ。
 僕は川崎での展示を見て、心底感動した。しかし、実際には、人が自分に与えられている客観的見方や既にもっているものから離れて、新しい自分をつくりだすという行為というものが非常に苦しいものだということに気づいた。そして劣等意識をもつ人間にとっては(*誰もがその意識とやらをもちあわせている)、変わるということがその半分居心地すら良くなっている劣等感(どうせ自分は〇〇だから何にもできねえよ。)を捨てることに繫がっていくため、特に辛く痛みを伴うということを知った。
「どうせ僕には才能なんてないんだよ。小説家なんて目指していないよ、趣味なんだから。どうせ僕はたいした人間じゃないんだよ」とこうやって自分を卑下していたほうが人間って楽なのだ。波風は立たないし、馬鹿にされても既に自分が馬鹿だと思っていれば苦しくもない。それを敢えて、「自分には可能性がある、僕はいい小説を書けると思う」なんて宣言してしまうと本当にきついのだ。最近は結局僕自身としてはその中道くらいでコントロールして生きているわけだけど。一見たいしたことのない僕だって可能性を秘めている、という具合に。
 この本の中で、森村氏も常人と同様に劣等意識をもっていたことを認めている。アンディ・ウォホールや彼と同一手法を手がけるシンディ・シャーマン(いつか実物見てみたい)といったアーティストを引き合いに出して、彼らの解説をしていく中で、森村氏がどのように作品をつくっていったかということがわかる仕組みになっている。彼は自分に才能があるとは言っていない、むしろセルフポートレートという模倣的な作品手法が自分をどう高めていったのか、あるいは彼自身がどうやって物を捉えて生きてきたのか、どのように表現者として芸術と向かい合ってきたのかというところを言っているような気がしてならない。
<< 私が本書で試みたことの根底にあるのは、人間がどんなふうに、「自由であること」とつきあっていくことができるか、そのことを「美術」をテーマに考察することであったような気がする。
 私はやっぱり「自由でないこと」より「自由であること」のほうがいいと思う。それに、「自由でないこと」を「自由であること」に変革することが人生の最大の目的であるよりも、「自由であること」がすでに自明となった場で、ぞんぶんに「自由であること」を演出してゆくことに興味を持つことのほうが、人生の長丁場にはふさわしかろうとも思う。>>


2003年2月15日(土)

 スタン・ゲッツのカルテッツ聴きながら読書。ストーブは暖かく、珈琲は深く、夜は長い。
***
 トルーマン・カポーティの「叶えられた祈り」。カポーティ晩年のゴシップ小説。彼自身はプルーストのような上流階級を描いた作品にしたかったらしいのだが、あまりのゴシップに発表直後、彼らから総スカンをくらったという。ナオさんはこれを去年のベスト1に挙げられていたけど、僕にはうーん、これはどうかな。心に残ったのはこの「叶えられた祈り」自体を作中で評するところ。この本を「幻想としての真実」と言って、その説明としてこう付け加える。
<<真実というのはもともと存在していないのだから、あらゆるものは幻想だということができる>>
 人はみな幻想を仮面としてもっていて、それがあたかも真実としてまかり通っている。結局、彼の垣間見た上流社会というところはそういうところだったのだろう。彼もまたゴシップを明かしてしまうような嫌な奴としての仮面があてがわれていて、本当の彼の真実の部分は結局窺い知ってもらうこともできない。実際、そこまで嫌な奴に成り下がったときに、果たして自分が本当に純潔な心をもっていたのかどうかさえわからなくなる。彼は成功して上流社会に入ったがゆえに、自分の才能を過信してすべてを描けると思っていたがゆえに、真実としての自分を最後の最後で見失ってしまったような気がした。


2003年2月14日(金)

『Happy Valentine's Day!』

 猫のように丸くなってホットカーペットの上で眠っていた。カポーティ読んでたらすっかり眠くなったみたいなんだ。なんの夢を見ていたんだろう。ピンポンが鳴ってる。オートロック外して夢うつつドアをひらく。
 クロネコ氏が大きな箱を抱えている。

 贈り物?
 サインをしてもまだ夢うつつ。ちゃんと名前書いたのかさえ今覚えていない。

 箱から出てきたのは、ハート型のサボテン。
 雪景色見える窓辺にひんやりとした鉢をおいて、ハートをずっと見ていた。ずっと。
 そしたら涙が出てきそうになっちゃった。

 君のこと、ぜったい大事にするから。


2003年2月13日(木)

『捉え方ひとつで世界のあり方は変わっていく』

 今日も朝からparis matchと小野リサなんか聴いてる。こういう音楽聴いてると世界は楽しいことばかりのような気がしてくる。実際、そう思った瞬間に世界はそうやって存在するのだろうけど。そういえば、三島由紀夫も「金閣寺」の中でそんなことを書いていた。認識によって世界は変わるのだと。

***
 酒井邦嘉「言語の脳科学」(中公新書)。酒井氏は大学で物理、院で生理学と生物学を専攻し、さらに心理学、言語学に傾倒していくという幅広い学問体系に精通した研究者だ。現在の最先端の研究というのは、ひとつの学問に縛られることのない研究者が必要とされているのだと思う。僕ですら、学生時代、同じ研究テーマについての考え方が、専門分野の違いによって大きく変わってくるということを公開ゼミなどで実感したことがあった。ひとつの物事をより多角的に読み解く力は大事なのだ。ノーベル賞の田中氏だってそうだし。この本で酒井氏は、言語学がもともと文系の学問であったが現在は脳の科学的なはならきを抜きに語れない状況になってきていることを強調している。
 ここで科学的に明らかにされるのは、チョムスキーの言語生得説(言語は生まれる前からもっている自然法則に従って習得されるという説)だ。酒井氏は特に文法の規則のようなものが生まれる前から備わっているはずだという仮説を事例を交えながら明らかにしていく。
 この本から脳と言語の関係について現在どこまで研究が進んでいるかよくわかった。(まだ未解明な部分も多い。)個人的な興味としては脳と心の関係のほうにある。心は人間だけがもちうるものなのか、心は科学的に説明できるもののか、人工知能に心を植えつけることが可能なのか、そもそも心はどういう必要性から発達したのか・・・など。
***
 さっそく読む。酒井邦嘉「心にいどむ認知脳科学」(岩波科学ライブラリー)。さすがに脳や視覚の働きについての細かな実験例など読むのは疲れる。科学関係の本を読むこと自体、最近少なかったせいなのかもしれない。訳のわからない統計分析の教科書を読むのよりはきつくないけど、それでもやっぱり脳のどこかが過度に使われてそこに疲労を感じる。糖分補給だなんて、チョコレートクッキー食べながら読んでいた。この本によれば、僕は読むという行為をすることによって、脳のニューロンのシナプスで次々に刺激が伝達されていたわけだから、シナプスに負担がかかって疲れるんだろう。学習をすると、結果として脳のシナプスの量が増えたり、脳の海馬のシナプスの信号伝達が速くなって、それによって記憶されていくそうだ。それにしても脳が脳のことを知るために使われているというのは不思議な感覚だ。
 酒井氏が言いたいことは次の二点。
@<<心のはたらきの中心に記憶がある・・・(略)意識があっても、すべての記憶を失ってしまったら、以前と同じ心は存在しなくなる。心の同一性をささえているのは、意識でなく記憶であると考えられる。>>
A<<知覚・記憶・意識という心の現象が、脳のメカニズムとして統一的に理解できる>>(前書き)
 最後には@に関してこう結ぶ。
<<「心」は、ひとりひとりの「脳」を単位としておこる現象である。記憶とは、人生の歩みにおける心の歴史を、それぞれの脳に刻み込むはたらきである。われわれが、睡眠と覚醒を毎日くり返しながらも、心の連続性を保っていられるのは、ひとりひとりに「個」としての記憶があるからである。>>

 ・・・もし記憶がなくなったら、それは心をゼロにすることを意味するということなんだろうか。悪人が善人に代わってしまうということもありえるんだろうか。二重人格なども結局、一方の記憶がないために心が異なって、性格まで変わるということなんだろうか。人工知能にもし学習によって何らかの記憶を植えつければ、それは心があるということになるんだろうか。なんだか、疑問がさらに増えていってしまったみたいで・・・。 


2003年2月12日(水)

『気分はボサノバ』

 閉鎖後はじめての日記書き。やや寝不足気味だけど、心は完全復調。いい感じ。
 BDにナオさんから頂いたparis match(MD)がとってもいい。世界がずっと休日の午後みたいな安らぎの中に包まれていくよぉ・・・という印象。ひとりのときのBGMにもいいし、好きな人と一緒に聴きたくなるような曲。背中合わせになって、悪くないよねとかつぶやきながら。ほんとにいいもの貰ってしまった。感謝。
 すっかりボサノバの気分になったから、そのあと、久し振りに小野リサなんかも聴いちゃう。小野リサ聴いてると昔好きだった人と過ごした時間なんか思い出す。もう思い出しても痛くはない、流れる春の雲のようにただ遠くにある。ボサノバって幸せな過去を振り返る物憂い時間そのものを幸せに思おうよ、っていう音楽だと思う。

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 読書のほうは、ここ数日とまってた。読んでいるのに活字が意味をなさなくなったりして、詩画集見てたりしてたから。まぁ復活、たくさん読みましょう!
 カレル・チャペック「受難像」。チャペックは、20世紀はじめに生きたチェコ人。この時代のチェコは、西欧に比べると靄のかかっているような東欧の一国ではなくて、文化的な先進国だったようだ。彼は大学で哲学を専攻し、二十七歳でこの本を出版したそうだ。イメージ(たとえば雪の中の足跡)と哲学的考察が見事に合わさった物語を書く。僕的には非常に参考になる書き方だったし、面白みもある。だけど、僕の心理状態もよくなかったせいもあるけど、どうもこの本は全般的に暗すぎる気がするし、哲学理論が物語よりも強すぎる気もする。死や病気というものを扱っているせいもあるかな。チャペックにとってはこれが(理論を試すような)最も前衛的な作品になるそうだ。これ以降の作品は明るいということなので、いずれ読んでみるべし。

***
 サイト閉鎖の騒動で、今冷静に考えてみると、やや僕も感情的になっていたかもしれないなと思う。サイト閉鎖はしょうがないにしても、某BBSへの嫌悪感の裏返しで、ザクロさんをちょっと悪く言い過ぎたような気もする。せめてもう少し言葉を選んで書けばよかった。反省。しかし、共同サイト、それも批評をもらうようなサイトを、普段会うことのない二人が管理して、互いに同じ認識でいることって本当に難しいことだと思う。それにしては、僕らは割とうまくやっていたんじゃないかなと思う。結局、最後はそれがどうしようもないくらいまで破綻してしまったけれども、僕はあれをやれて本当によかったと思う。この騒動で友達づきあいも切ったけれど、今後もお互い頑張れたらなと思う。僕はこの一年で、RやSくんとどうしようもなく縁を切ってきたのだけど、もう話すことはないかあるいは少ないけれど、やっぱり元気でいて欲しいなと思っている。それと同じキモチだ。互いに含みをもったような中途半端な関係よりかは、むしろこうしたきっぱりとした関係も悪くないんじゃないかなと思う。


おしらせ  

 本日をもって、当ページ『パキラの遥かな旅』を休止します。
 長い間、本当にありがとう。
 またどこかでお会いしましょう。


2003年2月9日(日) My 28's Birthday 

「やわらかくてあたたかいものってなーんだ?」
 村上春樹氏が何かの本で書いていたそうだ。それを僕は今日友達からきいた。
 僕は答えた。
「人を愛するキモチかな?」
「ピンポン、ピンポーン!」
 僕はずっとそういうものだけをもって生きていきたい。


2003年2月8日(土)

 アレッサンドロ・バリッコの「絹」を読んだ。蚕の卵を売買するフランス商人のお話。蚕を探して、話は日本まで飛ぶ。時代考証はないに等しく、ここに出てくる日本はヨーロッパ人の感じる東洋の世界という趣。文章の息遣いはまるで絹を触っているように柔らか。しかし、ベストセラーになるほどの本でもないかな。バリッコはイタリア文学の注目株ということだ。


『transparenceの閉鎖について』 

 今回の閉鎖について皆様に説明します。
 閉鎖は、ザクロさんとはメールにて同意してもらったのですが、実際にはすべて僕パキラの意志から行いました。閉鎖に及んだ理由は、
@僕パキラの物理的な問題
Atransparenceの文章鍛錬の場としての限界
B派生BBSでのやり取り
C派生BBSより生じた管理者同士のサイト運営における志向の違い

 という4点が挙げられます。
 
□顛末
 まず閉鎖はなかったとしても、@の理由で一時的に休止ということは考えていました。物理的問題というのは、僕個人の引越しや環境替えのことです。
 またAについては、はじめただ文章鍛錬という目標をふたりで掲げてきたのですが、途中から僕は小説、ザクロさんはエッセイという分岐道に別れて進み出し、それでいてより高いレベルでやりたいという思いもあって、同一テーマというしばりが障害になってしまったり、批評において(特に僕がそうですが)自分の手に負えなくなり始めていたという点があります。それでも、二人で立ち上げたサイトだから少しずつ改良を加えて、どうにかやっていこうというところで今年の1回目、通算13回目の文章を公開したわけです。

□Bについて 今回の一件
 BBSからTさんが派生させたBBSについて、僕自身が快く思えなかったのは確かです。
・それが文章批評(者)の批評・批判を狙いにしていた点
・感情的な個人批判に発展しそうな雰囲気。
 「transparence」は文章を批評していただくことにより、僕パキラとザクロさんの文章鍛錬に役立てることを主目的としているサイトでした。ですから、批評に対する批評や個人的な立場に対する批判のようなものは、サイトの目的に馴染むものではありません。文章批評はすべてサイトを訪ねてくれる方の好意によって書かれたものだと僕は理解しています。ですからその好意を自分の趣向と違うということで批判したり、排除したりすることは意味のないことです。僕は管理者として、そういった意見をもっていました。
 勿論、批評の批評に意味がないなどということは言ってません。むしろ、僕自身もそれに興味がありますし、実際批評が高度化しだして、それが本当にあっているのかというところを個人的に(少しずつですが)本などから読み進めているところです。まずかったのは、やり方です。感情的な議論に発展してしまって結果的に好意で見ていただいた方たちを排除する方向にいってしまい、かつそうした流れが「ransparence」から延長しているものだと考えれてしまったのは僕自身として残念なことでした。
 「荒れたら右手の指先ひとつで全て消しちゃうことだってできるんだから」というダイアリの言葉は、ザクロさんからも直々に、またこちらのBBSにも批判を頂きましたが、これを引っ込めるつもりはありません。
 確かに物騒な言葉ではありますが、僕自身は感情的にヒートしそうな議論?に対して冷や水をかける程度のつもりでした。「transparence」とは全く違うところで、サイト管理者を差し置いて、サイトの文章についてではなく、違うことに議論(批判)がヒートアップすることへの僅かながらの抵抗でした。
 言葉は重いもの(ペンは剣より強し)だと常日頃考えていますし、だからこそ自分の意に反する言葉のやりとりがなされることは、サイト運営者の立場として心苦しかったのです。そして、言葉を仕事として扱う人たちの中での個人的な批判というものは気持ちよいものではありませんでした。一方で、あれらは連鎖的なやりとりであって、誰が悪い良いという問題でもないと思います。管理者たる僕も一因はあったと思います。
 一体、あのサイトを消去して一番損をする人は誰なのでしょうか。それは、文章鍛錬を目的としてサイトをつくり、運営し、文章を書き、UPしている僕(とザクロさん)なのです。ダイアリ中の言葉は軽々しく言ったつもりはありません。実際、警告は本気でしたし、残念ながら実行に移さざるえませんでした。

(なお、BBSについてはhttp://www3.rocketbbs.com/601/taiju.html  にログがあります。
 派生したBBSのアドレス・ログはわかりません。
 また作品については、 http://www.nona.dti.ne.jp/~taiju/transparent/writing.html  にログがあります。
 いずれも近日中に削除する予定です。)

□Cについて
 一時休止ではなくて、閉鎖にしたのは、主にCの理由です。
「荒れたら消すことができる」という僕の一言は、ザクロさんに対するものではなく、第三者に対して冷や水をかける程度に過ぎませんでした。僕として予想外だったのは、ザクロさんが感情的になって、個人的な見解から個人を攻撃してしまったことです。
 そのことから
・僕自身の見解とザクロさんの見解が全く異なるということについての認識。僕は広く色々な方の意見・批評を聞くことをtransparenceの目的としていたため、批評者のバックグラウンドは半分どうでもいいことでしたし、批評の手法というものを(たとえ違うと思っても)批判するつもりはありませんでした。(*ただし批評を受けたサイト管理者がその手法などを尋ねるのは間違ってはいないと思います。)一方でザクロさんは批評者に対して何らかの個人的な見解をもっていて、異なった見解をもつ人間はサイトに必要ないという考えをもっていたということが今回のBBSのやりとり、及び個人的なメールでわかりました。 
・ただ見解が異なるだけではここまで早く閉鎖ということは考えなかったでしょう。話し合ってそれをまとめていくこともできたでしょう。問題だったのは、その見解を誰にでもわかる形で公表し、それを前面に押し出したことです。派生したBBS中で批判を受けた方はもちろん、サイトにこれまで来て頂いた方々の中にも考え方の違いを感じてしまった方がいたかもしれません。最終的には、サイトの管理者のひとりとして、それにのるか、のらないか、どっちにするかというところに行き着いてしまったような気がしました。個人的に選んだのは、のらない、ということです。
 当たり前ながら以上は僕の見解であって、ザクロさんは逆の見解をもっていると思います。「それはおかしい考え方だ」と言うだろうと思うのですが、まさにそれが僕らの意見の決定的な相違だったのだと思います。ちなみに、こちらから歩み寄る余地は現時点ではありません。

 以上より、サイトを閉鎖することを考えました。完全閉鎖です。

 これまで来て頂いて、一読、さらにはコメントまで頂いたすべての方に感謝の念をもっています。僕はそれをすべて葬ったつもりはありません。これまでの二人の文章鍛錬は、また違う段階に進み始めたという考え方もできると思います。サイトに対して個人的な思い入れを頂いていた方には大変申し訳ない気がしますが、結局は個人サイトであり、運営者の考えによってサイトの変更・閉鎖などが行われるものだと考えています。突然の理由なき閉鎖についてはここでお詫びします。以上の説明で、僕個人の考えはある程度は納得頂けたものだと信じます。僕もザクロさんも書くことはやめないでしょうし、これくらいでやめるのであれば、はじめから「transparence」など立ち上げようなどと思っていません。これからも陰ながらでも応援していただければ嬉しいです。
 長い間、ありがとうございました。
 なおこちらの個人サイトは細々ながら続けて生きたいと現段階では考えています。


2003年2月7日(金)

『逆輸入』 

 J・アップダイクの「ブラジル」。「トリスタン・イズー物語」(学生のとき読んだ)の現代ブラジル版という作品。今ネットに繫がらないので(不便だなぁ)、アップダイクがどういう作家なのか調べようもないのだけど、(仮定的なのもなんだけど)恐らくアメリカ人のはずで、その彼が知らないはずの南米ブラジルについて、ラテンアメリカ小説の特質である魔術的リアリズム(by訳者)を試した作品だと位置づけることができる。ラテン・アメリカ小説の特質というのは、血の濃そうな閉鎖的コミュニティ(exマルケスのマコンド村)で戦争、伝承、歴史などがごったまぜになっている作品形態のことである。以前のダイアリで、中上健次「枯木灘」を読んだ際に、フォークナーの「アブサロム・アブサロム」(未読、そろそろ読むつもり)のような作品が南米と極東アジアで別々の形で作品を作り出したのだということを書いたわけだけど、言ってみれば、フォークナー→南米→この作品、ということで逆輸入ということも言えるのだと思う。種を飛ばして出てきた芽から花が咲き再び種を持ち帰ってみるというような感じ。アップダイクは、ブラジルについて、書物(レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」など)から情報を入れて、作品ができたあとに現地人の照合をとってもらって、書いたようだ。文学的な主題(白人と黒人の文化的、性的、社会的意味。客観的視点からのブラジルの社会、産業、歴史。)もうまくクリアされて、よくできた作品だと思う。ただ作品が書かれた必然性というものが、当たり前だけど弱いような気もした。それは例えば、平野啓一郎が「日蝕」や「葬送」などでヨーロッパを取り入れた必然性の弱さと同種のものだと思う。
*
 ネットが繫がった。根元がはずれてただけだった。
***
 ドイツ語と日本語で執筆活動を続ける多和田葉子の「球形時間」を読んだ。以前、「文字移植」を読んだことがあって、そのときの感想は???だった。今回は??!という感じ。しかし、小説の中での?が長すぎる。前半の五分の四はどうでもいいように感じた。最後の最後で面白くなる。例えば、サッカーの試合を見ていて、ずっと引き分け狙いのような覇気のない観客無視のゲームをしていて、後半35分くらいのところからゲームが突然動き出すといった印象。日の丸やら出したりして、明らかに何かを意味させているのだけど、ストーリーの流れがはっきり言って面白くない。かといって、後半35分のところからゲームを見るわけにもいかないし。僕は絶対こういうゲーム展開を組んだりしない。もっと楽しませようと思いたくなる。しかし、ドゥマゴ文学賞だとのこと。選考理由がよくわからないです、残念ながら。


2003年2月6日(木)

 ケッパーと高菜のお手軽スパゲッティー。ピチカート聴いてるお昼すぎのこんな時間。頬づえついて考えてる。みんな幸せになれたらいいのにって。 

 一日中考えていた、君のことを、考えていた、君のことを♪
 君に今度会う日のために 僕は新しい歌をつくろう♪

*
 小説は二度書き直して、プロットはゼロから組み直し。そして、今のところ、かなりいい感じ。脳の中が年末に第九を歌っている人たち並みに恍惚な状態になる。そうした瞬間がたまらなく好き。これまでで一番の作品になる予感(とは毎回思うこと)。

*
 TA(ADSLがここらへんは通ってない。光ならあるんですけど、とはNTTの作業員)が壊れたのか、プロバイダーが何かやっているのか、あるいは電話線がきれたのか、隠喩でもなんでもなく、突如ネットに繫がらなくなった。?。


2003年2月5日(水)

『transparence閉鎖』 

 一方的ですが共同運営者ザクロさんの了解の上で、上記サイトを閉鎖しました。


2003年2月4日(火)

『哲学から2chの悪意へ』 

 「メルロ・ポンティ入門」では作者の船木氏がなぜこの哲学者の思想を考えるようになったのかということが体験として示されている。彼は自分の住んでいたアパートの隣室で火事が起こり、咄嗟にベランダから消火活動にあたったのだが、結局部屋の中に踏み込む勇気がなかった。それは誰もいないと(願うように)思っていたからであり、自分の身を危険にさらすことを躊躇したからだ。しかし、彼は後で母子が灯油をかけて自殺していたことを知る。もし、自分があのとき踏み込んでいれば、・・・(自分の知る)娘さんの命だけでも助けられたのではないか?彼はそれを引き摺ったがゆえに実存主義のメルロ・ポンティを深く読むことになったのだと僕は思う。
 そうしてヒーローや歴史の意味、生きる意味などを彼なりの視点から解き明かした1章の結論はこうである。
<<したがって、状況の適切な瞬間にその状況に身を入れること、――これが、ひとが決断と呼んでいることなのだが――それしかない。そしてあなたが出来事によって祝福されるとき、あなたは出来事に一体化し、同時に出来事の意味も与えられているのだ。(83p)>>
 二章では人類普遍のテーマ「愛」について語る。
<<「相手に好かれるために背伸びした」とか、「相手から影響された」という程度のことではない。愛というものがあれば、それは相手を変え、自分を変貌させてしまう。そのあとでは、そのひとは、もはやそれまでとおなじようにして生きていくことができない。それほどの他者との出会いを愛と呼ぶべきなのである。(p119)>>
ここまで書かれると思わず人は笑っちゃたりするような気もするけれど、僕は最近こうしたものを真剣に考えていかないといけない、と思っている。ひとつひとつのことに誠実に向かい合う人のほうが、それを馬鹿にする人よりも一見愚鈍そうでも生きる上では強いんじゃないかって思う。
 僕は船木氏の火事の体験談に実は涙が落ちそうになって(こんな哲学入門の話に心うってるなんて)、それで昨日、彼の著作や評価についてネットで調べていたのだけど、調べているうちに<2ch>に入り込んでしまっていて、始めのうち頭のきれる人たちの哲学理論など楽しみながら読んでいたのだけど、途中でそこに明らかにそうとわかる自虐や揶揄、中傷を見せ付けられて気持ち悪くなってしまった。BBSというのは、インタラクティブなコミュニケーション・スペースである分、ただ読んでいるだけの者にとっても何かそこに自分が参加している一体感が出てきてしまって、「相手(書き込み)→自分」というベクトルが本などに比べて強いような気がする。(それともそれは僕が最近テレビというものをほとんど見ていないせいだろうか。この部屋のテレビは、除夜の鐘を聞くために一瞬つけられてからコンセントを引き抜かれたままだ。一方で実家は絶えずテレビがついているが。)Iさんが<2ch>は悪意に満ちている、と書いていたがまさにそのとおり。悪意であり、それは人間の本質なのだろう。それも哲学をやっているはずの(人生を上手く生きるための学問をやっている)人たちの汚い部分を見てしまうのは、それは全体ではなく、勿論部分なのだろうけど、十分僕を落胆させるに事足りた。そしてよせばいいのに<文学>関連の板も覗いて、さらに落胆は強くなった。見ないほうがいいものはシャットアウトすべきなのか、あるいは僕はそれを敢えて直視したほうがいいのか。
 <2ch>を覗いたあと、自分のHPに戻ってくると、ここだっていつ悪意がやってくるかわからないのだと僕は思った。あるいは悪意というものは外部ではなくて、(自分自身の)内部にだってあるのかもしれない。吉田修一の「パレード」ではそうした悪意が入ってきても皆それが存在しないようにBBSやチャットで振舞っていて、それが自分たちの共同生活と似ているというようなことを語っていた。見て見ないふりをすれば何の支障もなく彼らは生活を続けていけるわけだけど、結局<闇>は解決されない。吉田さんはどう思っているのだろう。やっぱり無力感というものがあるんだろうか。今後、吉田さんが(あるいは他の表現者たちが)どうやってその闇を克服させるために世界に働きかけるのか(働きかけてきたのか)に僕は注目するだろう。闇に対抗するには、やはり誠実である(誠実になる)しかない、と僕は今思っている。闇には光を。


2003年2月3日(月)

『アイデアから物語が生まれるまで』 

 新しい小説を書き始めた。一応、構想があって書き始めたのだが、やっぱりある程度のところまで来ると躓く。さて、ここからどうしよう、と考える。登りたい山のピークがあって、さあどの尾根に取り付こうかと地図無しで考えているのに近いものがある。変な尾根登って目の前に岩塔が聳えてたなんて経験もあるからね(at 斜里岳)。
 「ガラテイア2.2」でパワーズは言う。
<<こうしたアイデアの胎児たちは、どれも書くだけの値打ちがありそうだった。(略)・・・、ぴったりのプロットが目に飛び込んでくるのを期待した。ところがなにも出てこない。きっと肝心なのは、どれかを選んでとにかくそれに取り組んでみることなのだろう。結局のところ、物語というのは、その物語が何についての話なのか考えることについての話ではないか? 42p>>
 とにかく、ストーリーに齧りついてちょっとずつ進めていこう。

***
<< トレーニングしたりダイエットしたりして、未来の自分のために現在を犠牲にするというのは、現代の主要な徳目である。失われた過去を悔やんで、つねにそれを取り戻そうと似たような失敗を繰返すのは、現代人の病理である。それらはいずれも、ある時点の行動が未来のある時点の自分の状態を作りだすという想定に基づいている。
 その対極にあるのが、サルトルの主張したいことだ。――未来に何を生じさせるにせよ、いまのこの行動がわたしの行動なのであり、何かのため、だれかのための行動ではない。成功と失敗のあいだで評価されるようなものでなく、その評価をすることをも含め、結果を引受けつつみずからしていくこと、それが自分の行動なのだ。>>
 サルトルはなかなか素敵だ。たとえレヴィ・ストロースにやりこめられたとしても。これは船木亨「メルロ=ポンティ入門」(ちくま新書)より。巻頭言が面白い。「自分のことをマイナーだと思っているすべてのひとに」ときたもんだ。哲学入門の本って、作者の哲学者への愛情とか、作者自身のなんで俺はこれを書くに至ったのか的なところが偉そうぶらずにきちんと書かれていてよいと思う。特にちくま新書は編集者がいいのか、他の新書に比べて出来がいいように思う。 


2003年2月2日(日)

『日曜日の幸せ術』 

 お昼すぎまで珈琲飲みながら本読み。2月から突然有線放送がなくなってこれまでみたいにR&BやらJAZZやらがエンドレスに聴けなくなったので、しかたなくCDかけながら。
 雪がやんで太陽が出てきたところで図書館へ。冷たい空気が肺に入ってくるこの心地よさ。
 帰り、東急に寄って、ホワイトアスパラやらピクルスやら蛸やら好きなものを買って来た。こんなことで随分と僕は幸せになれる。あとは好きな人がそばにいれば文句のつけようもないなぁ。家帰ってストーブの前でビール飲んだりしたい。


『トラパレについて』 

 transparenceについて。何か僕の意図とは違う方向に流れそうな予感。あのサイトは好意で読んでもらって批評や感想をもらっているものだから、僕としてはそれ以上望むべくもない。大体、僕が一読者だとしたら、よっぽどのことがないと、人の小説を読んでそれに時間をかけて感想やら批評を書くということをしないような気がする。よっぽど、というのは、つまりそこに何か自分への意味がなければということだ。きっと本を読んだり、芸術を鑑賞したり、人を好きになったりするのは、その対象が自分にたいして意味があるように感じているからなのだと思う。同じようにあのサイトも何か自分にとって意味がありそうだ、と思って無償行為として書き込んでくれるわけだから、もうその時点で僕はそれ以上何かを引き摺りだそうとか、求めようとか思ったりしない。大体ネットは匿名性があるからこそ、気軽に書き込めるのであって、もしこれが本名を名乗りあってするならば、気が重いなぁなんておもってしまう。何か書き込んだら、突然電話がかかってきて、「いったい、あれはなに?」とか言われるんだったら、現実世界と同じだものね。
 ということでしばし静観。荒れたら右手の指先ひとつで全て消しちゃうことだってできるんだから。

 しかし、あのBBS、意図がよくわからないんだけど・・・。気持ちが悪くなって読めないし。別に僕知らなくてもいいんですけど。今のままで十分いいんだけど・・・。(ヒトリゴト)

***
 内田樹「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)、まさに寝っころびながら読んだ。本の帯に「な〜んだ、そんなことだったのか」というフレーズがついているのだけど、確かにわかりやすい。マルクス、フロイト、ニーチェ、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ・ストロース、ラカンと構造主義のもとになった思想家とまさに構造主義を進めた思想家たちの考え方を手にとるように教えてくれる。サルトルとカミュの論争なんかもわかりやすく紹介していた。しかし、わかりやすいせいなのか、どんどん読み進めてしまって、今こうやって名前を挙げた例えばフーコーってどんなことを考えた人なの?って訊かれると僕はうろたえてしまうだろう。「ええっと歴史にはたくさんの道筋があったのに、道を選んで行く過程で他の道を捨てちゃったんだよね。だから・・・」「だから?」「・・・(絶句)」みたいな感じ。結局、自分の血になるには(僕みたいな鈍なるものにとっては)何度も読み返して、自分の必要性を高めて、それを自分なりに咀嚼していくことで理解していくものなのかもしれない。その点、何度か他の本で出てきた思想についてはわりとすんなりわかるものもあった。「あーこれはわかってるんだよ」なんて偉そうに(そうして、きっとわかってない!)。この本は買った(買ってしまった?)本なので手元において、お風呂とかお布団の中なんかで傷むくらいまで読めたらと思う。


2003年2月1日(土)

『小説における決壊の意味』 

 吉田修一「パレード」を読んだ。そうして僕は今心乱れている。非常に他愛ない話といえば他愛ない。僕だってやった共同生活の変形バージョンがここで綴られているわけだから。十、二十代の若者たちの日常が、それぞれの一人称でバトンタッチ形式で話されていく。人というのは皆自己中心的で、全てが自分中心で回っていると錯覚する。例えば、このダイアリを書いている僕<パキラ>はこの世界の中心に僕を据えているのだろうし、これを読んでいる方もまた自分を世界の中心に据えていることだろう。その延長として小説中でもバトンタッチ形式に渡されるのは自己中心的世界だ。いい人に見える人もそうでなかったり、何も考えていなそうな人が考えていたり、人に見せない部分と見せている部分を使い分けている。そうした対比が次々に明かされていく。誰かの見方が究極的な世界の見方というわけではなく、それは五者五様、すべてが正しく、すべてが虚偽なのかもしれない。そうしてこの小説では大抵の若者がそうであるように(また僕自身もそうであるように)他人に対して過度に干渉しようとせず、とりあえずいい顔をしてみせる。それが生きる上でのルールなのだ。若者の世界の縮図のような部屋の中での彼らの言動は僕らのよく知っている世界。
 人は誰でも何かを抱えている。何かを抱えているからこそ、人は生きていくのだとも考えられる。この小説の共同生活体では互いが暗黙的に不干渉なために同居人の闇部まで意識的に行き着こうとしない。そこまでは他人のことを考えたくないし、考えるなら自分のことを考えたいという気持ち。人が肌身にまで迫ってうだうだ言ってこない安楽さは、結局は誰もわかってくれないのだという物足りなさに勝っている。琴美という同居人が言うように、ネットのチャットやBBSのように「善意に満ち溢れた場所」で「上辺だけの付き合い」をしているすぎないことを知っている。琴美は一方でこの部屋を一歩出た瞬間に、世界の中では善意というルールが簡単に崩れてしまうことを知っている。だからとりあえずは皆が善意の仮面をかぶってその下にあるものを見せようとしなくても、それが半分ちゃちなおままごとであってもいいんじゃないかと思ってみせる。共同生活者に対して恐ろしく見下しているサトルでさえ、その空間に心地よさを感じている。それは彼と琴美が練習するドラマ的なセリフ(他の同居人の彼女がやってくる際の台本)に端的に表れている。彼らは練習しながら、恐らくそれがたいして自分たちの現在の生活と違わないことに気付いていたのだと思う。ままごとの中でさらにままごとを演じるおかしみを二人は感じていたはずだ。そして面白いことに、そうした安楽な空間の表面的な繋がりの中でも、自己の闇を変えていく(調整する)こともできるようになっていく。おままごとをやっているうちに、その役どころに染まっていくという感じだろうか。サトルはやる気もなく半強制的にやる破目になった大検の勉強が案外面白くなったりし始めていたはずだ。他の人も同様。そうやって変われる人は変わっていく。しかし、それでも全く変われないとなると、深刻だ。
 抱えているものは放出させなければいけない。うまく放出する術を見つけなければいけない。愚痴ばっかり言う人、どうしようもないくらいに弱い人、実はそういう人こそ僕は抱えているものは放出できているのだと思う。危ないのは聖人くらいに崇められているような良い人だ。あまりに良い人と周りから思われすぎて、人の重荷をどんどんためこんで、聖人は捌け口もなくなって、どうしようもなくなって爆発させるしかない。鬱屈がたまっているのにそれを隠していると大変なことになる。ダムは決壊するのだ。
 僕はこの小説のエンディングを途中で大体読めた。僕が小説を書くならこうするという具合に。そこに行き着かなければ、単なるエンタメだ。そしてさすがこの作家は力量があるのだと思う。バトンタッチの巧妙さにも舌を巻いたけれど、最後の問題提起に落とすあたりも素晴らしかった。
 そうして僕は小説が書きたくなった、彼に負けないようなものを。僕もまた自分に溜まっていくものを決壊させるために書いているのだと思う。そうしてよい小説は読み手を擬似的に決壊させてあげることのできるものだと思う。

***
 菅原教夫「現代アートとは何か」(丸善ライブラリー)。マティス、ピカソ以降から(この本が出版された当時)1993年ベネチア・ビエンナーレまでのアートの流れを追っている。著者は読売新聞の美術担当記者だったらしく、文章の構成などよく考えられていて読みやすかった。3章に分けてあって、1章でまずベネチア・ビエンナーレで注目された作品とその理由(インスタレーションやメディア・アートへの流れ)を解説。2章ではピカソ以降のアート史を追っている。主にフォーマリズムの中心であったアメリカの批評家グリーンバーグを話の軸として話を進め、彼がユダヤ人の同胞カフカの作品に共感して、ミニマル・ペインティング(画布を一色などで塗っていくような極限まで単純化した技法)で行き着くところまで行ったモダニズムも自己破壊の受苦の後に救済を待っているのだという考え方を紹介している。3章では現代思想とアートの関わりについて。モダニズム批判から単純化の打破に走るポストモダンの流れや、第三世界のアートにも光を与えたレヴィ・ストロースの構造主義、メルロ・ポンティの思想を受けた前述のミニマル・ペインティング、ひょろひょろブロンズ像のジャコメッティとサルトルとの関係、ヴィトゲンシュタインの思想の内的言語の考え方などを説明する。「ガラテイア2.2」でリチャード・パワーズが語っていたように、アートもまた文学と同様に思想を体現するものになりつつあるようだ。アート史についての体系的な本を読んだのははじめてということもあり面白かった。春になったら美術館通いたいな。