2003年1月31日(金)

 ミラン・クンデラの「無知」を読んだ。チェコスロバキア(今はチェコ)からフランスに亡命した女性が20年ぶりにプラハに帰り、平行してデンマークに亡命していた獣医も帰ってきて、ふたりが出会うという話。作者、クンデラ自体がプラハの春以降にロシアが介入してきて、フランスに亡命しているため、祖国に帰るというのは彼にとって大きなテーマなのだと思う。
 前半は「オデュッセイア」を紐解いて、祖国から長い間に離れることで想い出も消えてしまい、亡命国の人間となってしまうことを書き綴っている。そして年をとると郷愁さえ消えてしまうのだ、と語る。このあたりの語り口はなかなかいい。だけど、祖国帰還の失望を綴った後半は辛さばかりが先行し、文章もかたい。

<<郷愁は記憶の活動を強めず、想い出を呼び覚まさず、ひたすらその苦しみだけに吸収され、それだけで、みずからの感動だけで、充足するから。>>
<<背後に残してきた時間が広大になればなるほど、私たちを帰還に誘う声は抗しがたいものになる。そのような所見は自明のように見えるけれども、うそだ。人間は老い、終焉が近づいてくる。すると各瞬間はだんだん大切になり、想い出などにかかずらって失う時間がなくなるのだ。(略)郷愁がもっとも強いのは、過去の人生の総量がまったく取るに足らない青春時代なのである。>>

***
 島田雅彦の「優しいサヨクのための嬉遊曲」を十年ぶりくらいに読み直す。おかげで大学一、二年生時分の感慨がぷつぷつ泡のように甦ってくる。島田氏は彼の言う「郊外」のベッドタウン族の二世として誕生して、それなりに良い教育を受けて純粋培養で育ったという感じがする。純粋培養によって、すべて言われたとおりに塾に通って、大学まで入って、そこで待てよ・・・となるのだ。ここらあたりで何か国家なり、体制なりに反抗しておかなければなるまい、と。そうでなければ純粋にサラリーマンになって人生をまっとうに生きていってしまうじゃないか、と。彼の父親世代は安保反対と叫んでいればよかった、だけどここには何にもない・・・、そうして島田青年の世界への倒錯的な破壊工作が行われるわけだ。しかし、彼はどんなに世界を破壊しようという姿勢を見せるけれど、これはあくまで見せかけの反抗なんだよ、という思惑をちらちら見せる。相変わらず、日本の「郊外」は広がって、純粋培養青年たちを生み出している。社会はバブル時期のようにもう堅牢でなくぐらぐらとしているけれど、それでもきっと青年たちは島田氏の作品を読んで、擬似的な破壊行為の心地よさを味わうことになるのだろう、と思う。


2003年1月29日(水)

『すべては仮想世界のことのように思えて』 

 「・・・仮想世界と現実世界との距離を縮めていくことが重要と考えられた。」僕の修論の結論の最後に書いてある(余分とも思える)一文。僕の研究はデータ作成からデータ解析まですべてコンピュータ上でやって、一度も実地調査をしなかった。僕は半分、机上の空論ということも知っていてこの文句を入れたに違いない。
 実家で未整理のダンボールを開けたら修論やら高校のときの微積の問題集などが出てきた。すべてそっくり僕の頭の中にあったものなのに今は全く関係のなくなってしまったものばかり。そうして修論ぱらぱらめくって、どこかで見知っているそんな文章を読んでいる。そうして今の僕はその言葉から小説の新しいプロットを思いついたりしている。システム化されて全てが身体から離れていく感覚を綴るような小説を。いつか書くのだろうか。
 
 塾で生徒が訊く。「先生って何か教師の資格とかあるの?」「いや、なんにもないな」「ふーん、単なるバイトなんだ」まぁ言ってみればそういうことだ。
 そうして考えていて、一体僕がこれまで熱中していたことってどこにいったのだろうと思ったりする。有機化学やら世界史やら微積・・・、山旅に川旅、それからランドスケープ・エコロジーにGIS。それぞれ極めていったように思えたのに、それは当たり前だけど、僕の顔には書いていない。
 僕はこのHPのabout meのところに日常もまた旅なのだ、ということを書いているけれど、よく考えれば、僕はこのところずっと僕の個人的な過去に興味をもったりしない世界――旅先的な世界――にいるような気がしてならない。例えば、塾の生徒にとって、僕はただのバイトの先生という意識しかない。彼らはそれ以上を知ろうともしない。僕はまるではじめての土地に来たかのように、過去をどこかに置き去って、人と触れ合っている。

 一方で僕がつくっていく仮想世界。それはワンゲルでつくった誰も思いつかないような魅惑的な山旅の計画であったり、コンピュータ上の空間解析で仮想的に行った緑地評価であり、役所や警察の地図システムであり、このHPであり、小説であったり・・・。そうして僕が頭の片隅で考えていることは不思議なことにいつも変わらない。仮想→現実へのベクトルなのだ。今は現実すら仮想(虚構)のような気もしているわけなのだけど。


2003年1月28日(火)

『ある作家の世界観』 

 以前Rが見せてくれた建築雑誌か何かで、島田雅彦が凝った新居を建てるということで、設計した建築家と対談していて、その中で「島田さんはどうして家を作ろうと思ったのですか?」という質問に、「作家だから(笑)」という彼らしい返答を用意していた。これはまぁ言葉のあやなんだけど、実際作家というものは自分の「家」をつくるような存在なのではないかと思う。この場合の家とは世界(あるいは世界観)ということになる。作家は自分の世界観に基づいて、それを創作の中に表現していくのだと思う。
 保坂和志の「世界を肯定する哲学」(ちくま新書)では、この作家の世界観を説明している。保坂氏はことあるごとに自分の世界観に触れることが多く、それに僕は好感をもっている。(ただ作品自体から彼の世界観が逆向きに感覚としてわかったためしがまだない。彼の世界観を知っているからああなるほどこう書くのね、と思っているに過ぎない。)彼の世界観とは、自分が世界に触れるとき、そこには言葉で示される思考よりも先に感覚があるはずだ、というところに帰結していると思う。その感覚を上手く言葉として表そうというところに彼の試みがある。
 この本の冒頭で保坂氏は前半より後半のほうが面白く再読三読に値します、と述べているのだけど、実際には面白いのは前半で、後半は煙にまかれてしまったような気がしてならなかった。それは保坂氏が言葉として完全に捉えているのが前半で、後半は彼の世界観のほうが先行してそれを言葉で組み敷いていくような進み方をしているせいではないかと思う。保坂氏にとって前半はもうわかりきっているから読んでもらわなくてもよく、むしろ後半自分の世界の中で格闘して結論まで導いた過程のほうに重みがあるということなんだろうと思う。
 前半の引用ではカフカについて述べていて、彼が難解なのはメタファーのようなもののせいではなくて、俯瞰しない文章を書くからだというところが非常に面白く感じた。
 後半は、結局のところ、二読の必要性を感じた。もう少し、読解力がつけば保坂氏の展開にもくっついていくことができるかもしれない。


2003年1月27日(月)

 「ガラテイア2.2」ようやく読了。なかなか読み応えがあった。人工知能が意識をもち、やがて心らしきもの(いや、心なのだろう)をもちはじめていくのには主人公と同じくらい驚いた。たとえ、肉体がなくても意識から繫がっていく心というものがあれば、人はそれを愛することができるのかもしれない。もし心のあるものを殺してしまえば、それは殺人になるんだろうか。人工知能が発達し、あるいは遺伝子操作などで「ブレードランナー」に出てきたようなレプリカたちのように心をもつような非人間が現れたとき、人間はいったいどうするのだろう、とそんなことまで考えてしまった。
 それにしても、作者パワーズの人工知能から文学にかけるこの広範囲の知力には参ってしまった。この人はほんとうに人なんだろうか。温かい心をもったコンピューターのような気がしてならない。


2003年1月26日(日)

 何を書こうかとキーボードを叩いている。誰に書こうかとキーボードを叩いている。
 友人に山に行こうよと誘われたから、もしかしたら今頃シュラフの中で息を凍らせながら夢を見ていたかもしれないのに、それを笑いながら「無理です」と断って(余りにブランクが長すぎて心の準備すらできないのだ。)今は暖かい部屋の中にいてウォッカをトニックウォータで割ってオレンジジュースをたしてかけた氷で飲んでいる。
 一日中、本のページをめくるか、文章を打つかしかしていない。その割には、何かが一メモリでも進んだというような充足感がない。この本「ガラテイア2.2」の中では心なきもの(コンピューター)に文学表現を、さらには擬似的な心に近いものを植えつけようとしている。それはこの上なく知的な作業に違いないのだが、やればやるほど、それが絶対的に心をもちえないものだと知っているから寂しさを感じてしまう。主人公はその痛さを知っているし、むしろその痛みを受けるがためにこの試みに向かっているかのような気がする。主人公の作家は本を既に数冊出したというのに、真の幸せというものを、一番好きだった人との生活を、どこかに失くしてしまっている。じゃなかったら、こんな人工知能なる擬似的なものに向かっていったりしていないだろう。
 しかし、この僕もたいしてそれと変わらないのではないか、と思ってしまう。家に閉じこもって、キーボードを打って創作をするか、あるいはその人工知能についての小説を読んでいるだけじゃないか。時折、雪もないようなところにいる好きな人にただ携帯メールで言葉のかけらをやりとりして、一瞬だけでも心が通じたように錯覚を繰り返しているだけじゃないか。擬似的な心の集合体をつくろうとしているに過ぎないのかもしれない。だからこそ、文章が胸を打ったりするのかもしれない。


2003年1月25日(土)

 研究室の先輩(助手)と会ってきた。最近は学生の卒論の面倒などもあって、3時間睡眠が続いていたなんてこと言ってた。驚嘆。中華食べて、ファクトリーで映画「ボーン・アイデンティティ」など観てたり。ほとんどデートみたいなものだ。

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 妙木浩之「フロイト入門」(ちくま新書)。よく書けている本だし、非常にわかりやすかった。精神分析というものは被験者の生き方や世界というものと密接につながっていて、フロイト自身が自己分析によって自論を証明してきたところもあって、この本では彼の生涯を追ってそれにまつわる理論を紹介していくというかたちをとっている。そのために、どうしてフロイトが理論を提唱したのかが、彼の生き方と世界からわかる仕組みになっている。
 エディプス理論も彼が自分の父親などに対して感じただけではなく、彼自身が他の弟子ともいうべき後進の精神学者たちの父親ともなっていたことが説明され、フロイトにとって終生切って切ることのできない理論だったようだ。また、そこに執着するあまり、目をかけていた弟子たちが考え方の違いから離反していったのも皮肉だった。
 僕自身には、夢分析などの深層心理の追求が物語の創作とも連係しているような気がすることもあって、心理学への興味も湧いたし(あんまり深くは立ち入るつもりはないけど)、他にユダヤ人であるフロイトが苦しめられた(姉妹4人を収容所で失ったらしい)ナチズムの思想について、また心理分析に度々使われるギリシア神話についても興味が広がりつつある。少しずつ読みませう。

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 リチャード・パワーズの「ガラテイア2.2」を読んでいる。人工知能(AI)についての話なのに、無機的な対象に対して、感情が抑えきれなくなったように彼はかつて愛していた人について語り出す。「三人の農夫」の話が、彼女の話から構想を練って、ただ彼女を楽しませるために書いたのだ、と告白する。理系から文系に転進して、ただ衝動に駆られて作家を目指した彼の姿が赤裸々なまでにここには描かれている。心のあるものとないもの、有機的な繋がりと無機的な繋がり、その対照があまりに素晴らしい。こんな本にめぐり合えただけで感謝。ただ僕は言葉を噛み締めて、こんな夜中にページを操っている。


2003年1月24日(金)

『浮かび上がっては消え』 

 昼と夜の間にあるはずの夕暮れはなくて、すぐに薄闇がやってきた。闇に沈んでいく雪の街路を見下ろしながら、部屋と世界の間にカーテンをおろす。身体の内も闇で満たそうと思って、やかんに火をかける。
 それから、珈琲が落ちるのを待っている。あるいは誰かが話しかけるのを待っている。
 こんな時間を大切にしようと思うから、静かに息をととのえてみる。過去、どれだけの人たちと珈琲を飲んだことだろう。そんな忘却された瞬間や忘却された人たちが記憶の底から浮かび上がってくる。浮かび上がって、ふたたび向こうに消えていく。

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 木田元「偶然性と運命」(岩波新書)。あとがきにもあるように、纏まらないことがわかりながらも運命について(70歳も過ぎたし)書いておきたいという気持ちから著された本。偶然性についてはハイデガー、あるいはプルーストのマドレーヌの記述などを取り上げ、運命についてはドイツ形而上学(ショーペンハウアーやニーチェなどへの流れ)の思想をひとつひとつ確かめて、結論を導き出そうとする。最後にはドストエフスキーの「悪霊」と「カラ兄」をもちだして、得られた考え方を証明してみる。僕が思うに、思想家たちの小難しい哲学的用語をもちいた説明よりも小説の中の表現のほうがわかりやすい。多分、小説というものの性格がそういうものだからなのだけど。
 木田氏が導き出した偶然性とはこういうこと。
<<現在の偶発事が機縁となって将来への企投が行われ、それとともに過去の経験の組み替えが起こり、そこにこの現在の偶発事がいわば必然的なものとして組み込まれるという事態>>
 経験そのものの捉え方が変わってくるというところが面白い。
 現在の偶発事には、(ハイデガーは触れなかったが)出逢いというものが考えられるという位置づけ。
<<出逢いとは、他者が激しい情動的体験によってこの自己閉鎖を打ち破り、<自己−自己>の構造を打ち壊して、同じ<自己−他者>の構造が、つまり<他者と共にある>本来的な存在が回復されることだ>>とする。
 そうした出逢いがあれば、例えば「罪罰」のラスコーリニコフもああはならなかったのだろうとする。
 この本はとりあえずどうにか読んだって感じ。理解あっての咀嚼と消化なのだけど、まだ咀嚼に入れていない。


2003年1月23日(木)

『3周年』 

 気付けば(途中休止もあったものの)サイト・オープン3周年。結局、こうやってインターネットで日々のことを書き綴って、自省を繰り返し、過去と未来を捉えようとした結果が今の自分を生み出したような気もする。HPをもたなければ、恐らく日常の波に慣らされて機械的に生きていたのではないかと思う。恐らく、今もあの会社かどの会社か知らないけれども、砂時計の砂のように落ちてくる仕事をこなしていたはずだ。どちらが幸せなのかという問題は、僕にはわからない。(実際のところ、例えばモノカキなどという肩書きを担えたとしてもそれが幸せかどうかなんてわからないんだ。)わかるのは、このサイトがあったから今があるということ。兎に角、与えられた今を大事にしよう、とただそう思う。

***

 久し振りに予定のない一日。カーテンを中途半端に開けた朝の布団の温もりの中で、「舞踏会へ向かう三人の農夫」を一挙に読了。この話、1914年と現在×2の計3つのストーリーが絡み合って構成されていて、最終的にはこれらが互いに結びついていく。自動車王フォードの逸話、写真の歴史などを紐解きながら、20世紀のテクノロジーの発展とそれがもたらした戦争や芸術の変化などを追っている。こうした大きな歴史の流れにストーリーを多重的に組み込んでいくというのは面白い方法だけど、情報量が多すぎて普通の作家には手に負えないんじゃないかと思う。パワーズの他には、ピンチョン、エリクソン、ドン・デリーロなどがそういうことをやっていると理解している。パワーズのすごいところは、「知」の底知れぬ深さだ。それでいて、実はこの作品、パワーズ24歳の処女作に過ぎない。パワーズ自身は、絶対誰も読まないという確信のもとに、自分のあらゆる知識を詰め込んでこの作品を書き上げたという。
 作品の中では、(パワーズの分身のような)主人公が美術館で農夫の写真を見て、そこから写真のすべてを明らかにしようと奮戦していくのだが、その行為について、写真そのものの意味を知ることよりも、むしろ自分と写真の繋がりをそこに見出していく過程こそが重要だったという見方をする。
<<ある物の商品価値は、その所有しやすさに反比例する。にもかかわらず、今世紀が明らかにしたのは、帳簿上の値段は、所有者が所有物と一体化する強度とはほとんど無関係だという事実である。自伝への欲求、それこそが真の価値の尺度であり、その欲求ゆえに見る者は物におのれの印を刻みつけずにはいられない。293p>>
 このように何度も言及されることが、人は写真(芸術)を見てそこに自分のストーリーを見出そうということだ。パワーズもまた20世紀という大きな枠組みの中に自分のストーリー(意味)を見出すために、この作品を書いたのだと思う。ただ彼は最後になって、この作品が自分だけに留まらず、(他の芸術作品と同様に)読み手それぞれのストーリーを喚起させるものだということを悟る。

 パワーズは二十六章ある各章のはじめに引用をもってきている。
<<(24章):世界像は何ら観察可能な大きさを含んでいない。そこにあるのは記号だけだ……byマックス・ブランク『物理学の哲学』>>
 この言葉は面白い。記号というものがあるということは、つまりそこに意味というものがあるということだ。人間は全体の観察を通してではなくて、その対象に宿る自分への意味(メッセージ)を探そうとするというわけだ。僕らが写真、映画、絵画などを見て感動するのは、その全体の美というものよりも、むしろそこに何らかの自分にとっての意味性を認めたときなんじゃないだろうか。

<<(12章):まず、大きな心理的消費が長期間つづいているか、長い習慣の力で定まっているという事態が必ずある。やがてそれに対して何らかの影響が介入し、そうした消費が必要なくなった結果、一定量のエネルギーが、ほかのさまざまな用途や支出に使えるようになる。 byジークムント・フロイト『悲哀とメランコリー』>>
 これなど確かに確かに、と激しく頷いてしまった。

<<何でもいいから書くんだ。真実かどうかは問題じゃない。語るんだ、ただし優しさを持って。それだけが唯一君にできる、少しは役に立つかもしれないことなのだから。byジョン・バージャー『G.』>>
 なんて優しい言葉。
 僕もまたパワーズの本から自分への意味を探してみるというわけ。

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『啓蒙、ふたたび』

 大澤真幸の「戦後思想空間」(ちくま新書)読了。目かくしをとってもらったような感覚。大澤氏は社会学者だが、この調子で思想を語る人が他にも無数にいるならば、空恐ろしいような気もしてきた。
 これを読んでいて思ったのは、思想というものはある一つがたとえ良いもの(ベターあるいはベスト)であってもそれだけを鵜呑みしていてはいけないということ。この本では戦後、さらには20世紀の日本の思想体系を扱っている。そのうち80年代の消費社会的シニシズム(=嘘だと知った上で信じること。顕著な例はテレビCM)のところで、浅田彰「構造と力」と蓮實重彦「凡庸な芸術家の肖像」を紐解き、それぞれの作品が逆説的な結論を導き出そうとしているのに、人々はその逆(意図と逆のこと)を実践してしまったと嘆いている。結局、思想というものは一方向ではなくて、様々な方向(つまり様々な思想形態)から考えることが重要なようだ。
(以下、本の概略)
 この本は過去に行われた講演会を元にしたもので、文章は非常にわかりやすい。3章立てになっていて、1章は戦後、欠如の状態から理想を求めて、それが70年代に欠如のない時代がやってきたことを村上龍の「トパーズ」(女性(特に美の欠如の例)が劣等感をもたずに快楽に生きていくたとえ)から示し、さらに現代がエヴァンゲリオン(精神的欠如を前提)から欠如が舞い戻ってきたというところを示す。
 2章では明治・大正・昭和という時代を照らし合わせて、天皇、ファシズムに言及する。京都学派(西田幾太郎ら)の思想が僕にはやや理解するのが難儀だった。
 そして3章。ここは素晴らしかった。70年代以降を取り上げていて身近な問題として考えられたからかもしれない。小島信夫の「麗しき日々」を紐解き、この作品中で主人公の小説家の妻子が記憶喪失になることへの説明をつけようとする。
 自由主義が先験的な選択を必要とすることを示し、さらにその選択というものが、マクベス、オイディプス王、漱石の道草(by柄谷行人)から、超越的他者による予言を自己に固有のものとして引き受けるメカニズムであるということを示す。現在、超越的他者は不在であるために、そこから@過去、記憶の消失、A歴史への態度の崩壊、が引き起こされていると言及している。そうして、小島信夫の小説中の記憶喪失がそれを暗示しているのだというふうに結んでいく。この辺、僕としてはもっと咀嚼して理解度を上げておきたいところだ。
 この章では他にナチズムに進んでいったハイデッガーの「精神」の外在という思想と、オウムの空中浮揚→体外離脱、解脱との類似性を解き明かしている。ナチス、オウム、天皇制ファシズムとも上記の超越的他者の不在をアクロバティックに埋める試みだったとして、最終的には今に問題を投げかけていた。
 文章が簡単なおかげで、大澤氏の理論についてはいけたものの、それは受け止めただけのものであって、血や肉になるにはもっと脳を耕して、違う角度からの視点も身につける必要があるように思えた。


2003年1月22日(水)

 久し振りに小説を書いてみる。そして、この行為が実はとても気持ち悪いことだと知る。それでいて、書かずにいられなくなってくる。ここにその気持ちを書き出して、分析することで逃げようと思ったけれど、うまく書けない。自分の中に手をつっこむと、その闇から何かが伸びてきて引き摺りこまれるような感覚。それと、言葉で格闘しているといった感覚。


2003年1月21日(火)

『朝の思考』 

 インプット(読書)が多い一方で、アウトプット(書くこと)をほとんどしていないからだろうか、朝起きた瞬間から頭に布団を被った何時ともわからぬ暗闇の中で、僕は構造主義のことを考えている。平日の朝から構造主義!・・・村上春樹だったら彼の専売特許なる「やれやれ」などと言うんだろう。僕も小声で「やれやれ」
 そのとき考えていたのは、「構造主義」――ある一つのものを、中に含まれているパーツの繫がり(ストーリー、あるいは理論展開)を無視して、パーツ同士の関係性から解いていく思考。繫がりではなく、その関係性にこそ意味があるのだというやり方。――というものを、数学的に捉えた場合、数量化V類(数値をもたない名義的データを各個の結びつきの強さから座標上(2つの集団の各個の関係を調べるならばXYの二軸の平面座標。3つなら空間座標。)に示す分析手法。多分、日本独自のものだと思う。)を使って行えるのではないかということを考えた。なんてことはない、僕が修論で使った分析手法のひとつだ。あれを使えば、文学作品もばらばらにぶったぎって言葉の繫がりから作者の潜在意識まで分析できちゃうんじゃないかってこと。・・・こういう夢想的なことを考え出している時点で、脳の思考状態が学生のときとほとんど同じになってきているということを認めなければならない。
 しかし、構造主義というのは、ひとつの作品を作者の意図と関係なく解体することができてしまうために、聖書やらコーランやらその他多くの神話から神の潜在的意識まで勝手に抽出できると錯覚できるために、「それでも地球は回る」と小声(無声?)でしか言えなかったガリレオ・ガリレイのように神の代理者?であるローマ法王やら何やらに糾弾される可能性の高い学問と言われているらしい。だから、僕はそんなことを考えるだけ。神様から恨まれたくないものね。でも聖書だのを解体して、解体したパーツを相補的に入れ替えてしまえば、新しい宗教経典が作れるのかもしれないなんて・・・。
 馬鹿なことを考えるのはよして、起き上がって――「9時30分だ」――シャワー浴びて、珈琲淹れる。それから部屋の解約書にサインして、今やってる仕事の退任届を書く。便箋二枚と封筒一枚を反古にしてしまう。それから両方を出しに行く。片方は赤いポストに、片方は主が不在の机の上に。かくして僕は自由になるのだろう、なんて思うけれど、別にショーシャンク刑務所を脱出したティム・ロビンスみたいに手を広げてみせたりはしないけど。
 そうしてまた図書館の棚の前を行ったり来たり。行ったり来たり。

***
『人じゃなくて、きっとコンピューターだ』

 二年前に面白くなくて読めなかった本が、二年後に面白くて仕方がないという事実に、人が直面したらどうするのだろう。まぁ素直に喜べばいいのかな。
 リチャード・パワーズ(柴田元幸・訳)の「舞踏会に向かう三人の農夫」を読み進めている。掛け値なしに面白い。昔、どこかのインタビュー記事で読んだとおり、彼の作風はトマス・ピンチョン風の知識のごった煮的なところがある。それでいて、ピンチョンのように作品が(一作しか読んでないけど)SF小説のように美女やらアクションシーンに溢れていて、文章に訳もわからぬままに強引に引っ張られていくわけではない。パワーズの文体は慎ましく、賢くて、それでいてユーモアセンスに富んでいる。とてつもなく頭のいい人が、時折ぱっぱっと軽く言うような洒落たジョークのような味わいがある。素晴らしい。僕もパワーズみたいになれたらいいなと(多分なれないけど)本気で思う。
 パワーズについて思ったことを纏める。
@かなりこだわりの強い人である。何かが引っ掛かるとそれをとことんまで追求せずにはいられない人である。だからこそ、農夫の写真や、パレードで見かけた見知らぬ赤毛の女を追いかけてみたりする。
A脳に恐らく、世界歴史事典(全二十数巻はあるような厚いもの)、及び世界人名辞典のコンピューター・チップが入っている。
B多読である。凄まじい量の読書量がうかがい知れるような引用数。
C知識の量をストーリーとして裁くことができる。
D理系出身者であるせいか、科学分野にも強い。それなのに文系分野にも滅法強い。
Eコンピューターに興味の方向がいっているらしい。
F結論、@〜Eを鑑みて、リチャード・パワーズは人間ではない。恐らくコンピューターであると推測せざるえない。柴田元幸のインタビュー写真を見たことがあるけれど、恐らくあの身体の下はターミネーターかウォーズマンみたいになっているのに違いない。

 三分の一まで読んで印象的な一文。
<<かつて心理メカニズムの産物だった芸術も、いまではそれらのメカニズムについてのものになっているのであり、さらには――これが究極の引き金点だ――それらのメカニズムについてのものであることについてのものになっている。>>
 芸術が思想の理論を代表するためのものになっていたのが、さらに現在では理論に合わせて(あるいは理論を形成するために)芸術がなされている、ということを意味しているのだと思う。恐らく。


2003年1月20日(月)

『本ばかり読んでる』 

 筒井康隆の「文学部唯野教授」。砕けたおちゃらけストーリーの合間に、主人公(大学教授)の講義という形で文学理論の歴史と考え方をわかりやすく追っていくという展開。19世紀末にイギリスで始まった印象批評に始まって、ニュー・クリティシズム(新批評)、ロシア・フォルマリズム、現象学、解釈学、受容理論、記号論、構造主義、ポスト構造主義までを網羅する。これを読めば、表面的な理論の流れを捉えることができる。ただ深く突っ込んでいくには、やはり各分野の本を読むなり勉強しなければいけないという感じがする。そしてここに紹介されたものがすべてではない(講義は前期授業分で後期授業分(多分、最新理論)がここには書かれていない。もしかしたら続刊があるのかも)。理論がわかりやすく、とっつきやすいのはいいのだけれど、そうするために講義の合間につくったストーリーが笑えるものだけど、あまりにおちゃらけすぎてるような気もした。筒井康隆という人は、一度差別的な言葉を著作に使ったことの批判を受けて「それはおかしい、表現の自由の侵害だ」ということで断筆したこともあったと記憶しているけれど、批判を受けてもおかしくないような気もした。それが表現の一部だと言ってしまえば許容されてしまうものなのかもしれないけれど、エイズに対する偏った見方を助長させるような登場人物、ところどころの人をこけにした笑いというものは、あまり読んでいていい気分にはならない。ただそうは言っても、この本は文学理論の入門篇としては恰好だった。
 イタロ・カルヴィーノの「まっぷたつの子爵」。イタリア文学の第一人者というから難解なものを想像していたのだけど、この本に限って言えば、児童文学的な寓話物。寓話物はやや苦手かなーとつらつら読み。カルヴィーノは1923年生まれで、若い時期に第二次世界大戦を経験している。戦争後の文学事情の中で書くこともできなくなり、どうにか書いたのがこの本だったらしい。結局、彼は寓話という形でどうにかそれを書き上げたのだと思う。
<<時代は、まさに、冷たい戦争のさなかにあった。張り詰めた緊張感、耳に聞こえぬ呵責の声。それらは目に見える形こそとらなかったが、人びとの魂をしめつけていた。そういうときに、まったくの空想の物語を書きながら、知らず知らずに、自分はその特異な歴史的瞬間の苦しみを、またそこからの脱出の騒動を、描き出していた。>>
***
 さらにもう一冊。橋爪大三郎の「はじめての構造主義」(講談社現代新書)。ソシュール言語学やモースの贈与論から案を発したレヴィ・ストロースの親族・神話研究の手法(=構造主義)のわかりやすい解説書。
 ただ読んでいくことで、世界というものがはっきり見えてくるかと言えばその逆。むしろ、井から出てしまった蛙のように世界の広大さにおろおろという感じ。逆にわからないことが増えて、もっと勉強しないとどうにもならない気もしている。まるで片付けようと思って、箪笥の中のものを出したのはいいけれど、やたらめったら散らかってしまっている状態に近い。
 構造主義は、Aが存在するためにBがあるという思考でうまく解答を見出せないときに、BというものがあるためにAがある、というような逆転的思考で考えていく手法であるように個人的には思った。それはまたAの秩序を構成する各部分だけを取り出して、その関係性(構造性)を眺めていく手法であるようだ。(ようだ、というのは僕の理解が合っているかどうかいまひとつ自信がないという意味。)
 レヴィー・ストロースはもともと人類学者で親族の研究(インセスト(近親相姦)・タブーにおける女性の交換の理論)で構造主義の考え方を考案し、のちに神話研究に手をつけたそうだ。ここで「オイディプス王」の分析手法も紹介されているのだけれど、いまひとつ橋爪氏がまとめ切れていない感も強かった。(元本を読め、ということに尽きるのかも。)「オイディプス王」はかのフロイトも分析を試みて、家族関係の葛藤(性欲)のドラマの原型を見て、エディプス・コンプレックスを提唱したらしい。考えてみれば、村上春樹氏も「オイディプス王」の構成をそっくりそのまま「海辺のカフカ」に使ってるわけで、なんだかなとも思ってしまった。分析され尽くしたものをわざわざ再利用しているのはなぜなんだろう。(学がなさすぎて僕にはまだわからないけれど。)
 そこから真理の話にわたって、神の真理(宗教)と科学的真理のふたつを評していくのだけど、このへんの進め方がこの本はわかりにくい、というかよくわからない。構造主義は科学を制度(人間がつくったもの)にしてしまったというくだりがわかりにくい。科学の話では、ニュートンにクラインにアインシュタインまで出てきて華やかなのはいいけど、肝心の道筋がわからなくなってしまう。単に、僕がひよっこすぎて、ついていけないということに過ぎないのだろうけれど。
 面白かったのはこの一文。
<<人間の精神生活が豊かなのは、いま述べた言語の恣意性と深い関係がある。言葉が何を指し、何を意味するかは、言語のシステム内部で決まることであって、物質世界と直接に結びつかない。つまり、物質世界のあり方とは独立に、言語のシステム(ひいては文化のシステム)を複雑化し、洗練していく途が開かれている。人類はそうやって、感性や思考をどんどん高度なものにしてきたわけだ。(44p)>>


2003年1月17日(金)

『日常を異化せよ』 

 ドン・デリーロの「ボディ・アーティスト」を読んだ。帯に柴田元幸氏が「一行ごとに、世界の細部が、意識の襞が、立ち上がり、消え、また立ち上がる。その揺れ、ブレの絶妙さ」と評しているけれど、まさにそんな感じの文体、文章だった。
 文章は研ぎ澄まされていて、詩的だ。そして、理解されることを拒むかのように、わざと離れていこうとする。捉まえることができない。訳者の上岡氏によると、デリーロはこれまで大きな物語に支配された日常を異化し、ユニークな言語選択から敢えて人間の自律性を示そうとしてきた、そうだ。この小説では、言語そのものを崩し、時間感覚すらも崩してしまう。時間感覚が崩れることによって、現在と過去の境界が消え、記憶や過去の出来事も曖昧になっていってしまう。僕らが当たり前に思っているものはぐらぐらと揺らいでいき、最後に残るは結局肉体だけなのだ。不思議な小説だった。読んでいるうちに、僕の中で様々なイメージがあふれでてきてそれを抑えるのも大変だった。
 日常の異化、という書き方は僕にとっても非常に興味のある方向性だ。当たり前だと思っている感覚や物事の捉え方をひっくり返して、それを疑い、そこに新たな可能性や意味を探してみる。今、頭にあふれているイメージの氾濫を抑えるためにも、そろそろ何かを書こうと思う。今夜、何もなければこのまま、トリップしちゃったっていいんだけど。思うに日常を異化する作業と、単純で規則正しい日常を送ることって全く逆の行為のような気もする。脳の行う異化は日常の破壊と再構築であり、体の行う日常生活は日常の保守と安定化なのだから。


2003年1月16日(木)

『啓かれる読書』 

 山口昌男の「文化と両義性」を読んだ。啓蒙されるような本だった。出版されたのは1975年で、当時思想的にこわばってしまっていた日本(by中沢新一)では、大いなる知性の出現とみなされたらしい。実際、山口昌男は人類学専門だというのに、この中では「混沌−(周縁、境界)−秩序」という記号を使いまわって、古事記やインド古代詩に遡ったかと思えば、戻ってきてロシアフォルマリズムなどから詩、文学の世界までも縦断していく。すべてが彼の記号論を使って明快に説明されていく。(無論、門外漢の僕には、明快な言葉が理解不能だったりするわけだけど。)本当の知性とはこういうものを言うのかもしれない。
 彼の思想を読んでいくうち、僕はふたりの作家の作品が多少紐解けたような気がした。勿論、山口氏が説明したのではなくて、その思想の延長として僕が勝手に思い巡らせただけなのだけど。
 1.まず、平野啓一郎。彼の文学というものが、時代が変わる転換点を描き、価値観の変わる様子を追っているということを知りえていたけれど、この本の中での境界の概念に当てはめていくと、平野氏の作品(例えば、「日蝕」)を解き明かしていくことができる。
 混沌と秩序の間を境界と捉えるわけだけど、「日蝕」の中では確かパリから書物を求めた若い学僧(違ったかも)がある村に立ち寄って、そこで異教の布教する様子を垣間見、錬金術師などを知っていくというストーリーでまずパリに対しての周縁を舞台にしていた。舞台の村自体も森の境界にある。境界の中に住む者として、異教徒や錬金術師もここに当てはまる。さらに境界の両義性が、「日蝕」では両性具有者として認められる。主人公は旅人であることから、この境界に対しては外部からの闖入者ということになる。彼は村のもつエントロピー(エネルギーの総量)を増加させる働きをもつ。それによって、境界での変化は大きくなっていく。両性具有者は迫害され、巨人が現れ、日蝕となる。全てが、意味、意味、意味の世界だったのである。「日蝕」は実はある意味性(転換点、境界)に小説内のアイテムを埋め込んで綿密にストーリーを作った小説だと考えて差し支えないのだと思う。となれば彼の使う擬古文などもそのアイテムの一つとして考えてもいいのかもしれない。・・・ちょっと再読してみたくなった。
 2.それから島田雅彦。僕は学生時代、彼の本が(村上春樹などよりも前から)好きでかなり読み漁ったのだけど、そのときの魅力は、当たり前に見えていた閉塞している世界を彼がどんどん破壊していくことにあったような気がする。大学にもそれほど可能性が広がっているような気が当時しておらず、何か人生自体がひとつの箱の中で予め決まってしまっていて、その線路をただ歩いているような感覚がしていた僕にとっては、島田雅彦の鬱屈した世界の破壊が快かったのだ。
 この島田氏も、山口昌男の言うところのロシアフォルマリズムの考え方にただ沿って小説を量産しているのではないかと思えた。ロシアフォルマリズムは1920年代に出てきた思想で、「日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する”非日常化”の技法」といわれている。日常的に慣習化したものを打破してしまう手法と考えれば、これはそのまま島田氏の作品なのではないかと思った。島田氏がロシア語学科を出ていることを鑑みてもあながち間違った推測とは言えないような気がする。勿論、それを自分の力でできるというのが作家の力であり、それが否定されたり、貶められたりするわけではないわけだけど。
 ロシアフォルマリズムのシクロフスキーという人の考え方が面白かった。
<<芸術の目的は、我々に物事の表層を認知させるのではなく、その隠された意味を「見る」よう手助けすることにある。・・・日常生活は知覚の自動化=慣習化をもたらす。こうした慣習化は。我々と深層の現実との本源的な接触の機会を奪い、我々を単なる日常生活のレヴェルの因果関係にのみ支配される存在に還元してしまう。芸術は、人の視線を、自動的な反射作用と皮相な知覚作用から逸らす働きをする。>>
読んでそれこそ覚醒するような気もしたのだけど、今頃それを知っている僕という存在がこっぱずかしい。文系専攻だったら、こうした考え方にもっと親しめていたのだろうか。・・・まぁこれからがつがつと理論やら思想を食べていくつもり。
 この本は他にも、ムージル「特性のない男」やプルースト「スワン家の方へ」などを紐解いて、理論を展開していく。再読するときには、もっとすらすらと読めたらいいなと思う。


2003年1月15日(水)

『逃亡論』 

 冬の空は澄みきっているけれど宇宙と筒抜けで放射冷却もはなはだしい。宇宙の虚無はよっぽど冷たいところらしい。
 窓から光差込み、縞々模様のチャップリン服を着た囚人じゃなくっても、そこに広がる空に目を向けるに違いない。「逃亡」とは素敵な言葉だ。ぼくらは知らず知らずのうちに縞々模様の服着て生きている。この社会では縞々模様を着ていることが望まれる。
 昔どこかの民家で倒れて冷たくなったO君は「自由って一体なんだ」と肩を怒らせて歌ったものだ。盗んだバイクをとばしてどこかで自由を探し求めたものだ。しかし、それは酷なことだけど勘違いだ。自由はすぐそこにある。皆自由になるのが怖いから、それで不自由さの中にいて、自由に憧れたりしてみるんだ。不自由さの中で自由を叫べばカッコイイ。だけど、自由の中で俺は自由だと叫ぶとそれはカッコ悪い。
  この世界ってやつは妙ちくりんなんだ。不自由さの中でいることが責任を負っている証拠であり、自由になってしまえば責任放棄だって揶揄される仕組みになっているんだ。

 ネット空間はいわば現実とパラレルに進む仮想空間として個人は利用していることが多いと思う。それが人の覆面性を許容しているからだ。顔を隠しているから、現実と違う自己を語っていられることができる。現実世界での変な偏りを正すために利用するもよし、擬似コミュニケーションを楽しむもよし、という具合に。
 僕は一時期、現実の歪みに相当参っていたときがあって、自分の均衡を保つために言葉を形づくっていた。
 あるときとうとう現実が立ち行かなくなって、現実世界そのものを変えてしまった。そうすれば、僕はこの仮想空間でそれ以前の言葉を形づくる必要がなくなった。というのは、現実で自分というものが処理できるようになったからだ。それで僕は、現実世界=仮想空間、づくりを目指した。しかし、それも結局、あまりに裸過ぎて、撥ね返りが痛すぎて、それを外に出す意味を見出せなくなってやめてしまった。今は、だから≒の等記号程度で書いている。
 
 僕は創作をしている。それを発表する場所としてここを利用しはじめている。それは始め一方向(僕書く、誰か読む)のものだったけれど、トランスパレンスという空間を新たにつくってから双方向のものへと変わった。創作と批評という双方向の流れ。
 実はこれは自分に対して逃亡を許さないものであるのだろうなと僕は考えているのだ。僕はこんなの遊びだったんだよ、なんてもう逃げ口上を述べることができなくなった。さらには前文のような文章自体も安易には書けないような状況になった。人間というのは不思議なものだ。自由な存在でありながら、さらには自由な空間で自分を敢えて不自由なまでに拘束させようとしているのだから。
 今年に入って、僕の精神状態はすごくいい。まるで外に広がっている空と同じようなものだ。どうして精神状態がいいのか考えてみれば、実は単に小説を書いていないからだという結論を得た。そう、僕は年末鐘がなる30分前まで書くのにかかりっきりになった反動で、年明けから何も創作していないのだ。僕はそこから逃亡状態にあるといえる。それでこんなに精神状態がよくなるというのも不思議なことだけど。生活そのものを随分と楽しめている。
 実は僕にとって創作というものは自分を追い詰める作業なのだろう。僕は喜びと同時に苦痛を感じているに違いない。さすれば喜びというのもマゾ的な快楽に近いものなのかもしれない。僕は僕のために書き、マゾ的な喜びに浸っているのかもしれない。そうして書けば書くほど、それは現実の生活からはかけ離れたものとなり、それがさらに苦しみをもたらす。そうして調子にのって、欲しがりません勝つまでは、的に自分を追い込めてみたりする。何に勝とうっていうのか。精神論ははやらない、どんな努力も大いなる才能には打ち克てるはずもない。昔から僕はコツコツ積み上げるのが好きだ。テスト前に徹夜など間違ってもやらずに、早めにお布団に入ってみたりする。余裕主義といっても構わない。僕は余裕のある状態で、自分の力を100%出せるってわけだ。

 ああ、だったら逃げればいいじゃない、って人は言うだろう。楽に生きちゃえば楽しいじゃない、と思うだろう。僕もそう思う。逃げたらいいじゃないって。だけど、不思議なことに僕は再び創作に向かうことになるだろう。不安と焦燥と喜びがまぜこぜになった状態に、自ら向かうだろう。
 それはなぜなんだろう。僕は社会に対しての責任をもちたいと思っているわけじゃない。多分、僕は僕という存在に対して責任を負いたいと思っているんじゃないだろうか。
 かくして僕は逃亡できる窓を背にして、書き始める。心は乱れて、だけどいつかそれも治まって心地よくなっていく。

 ・・・その一方で、生活と相克させずに、余裕主義を掲げられたらと思う。長くやっていく(生きていく)ためにはそれが一番のような気がする。そのためには、プチ逃亡(解放)の水門をうまく調節できればよいのだと思う。貯めすぎず、流しすぎずって感じで。


2003年1月13日(月)

『田舎町の映画館の悲哀』 

 ロジェ・グルニエの「シネロマン」を読了。淡々とした語り口の中に生きることの哀愁が詰まっていていい作品だった。
 少年フランソワは両親が田舎町にあった落ちぶれたマジック・パレスという映画館を買い取って、その経営に乗り出したことから、否応なく映画漬けの生活に入ることになる。しかし、決してそれは楽なものではなく、始めの夢や希望の大きさにも関わらず、結局はすべてなくなってしまうのだ。
 人は昔観た映画を、年をとってから観直したとき、その映画を以前観たときの自分の状況に思い馳せ、一瞬の間でもその思い出に浸ろうとする。自分も周りの人たちも年をとり、いくつもの夢や希望というものが生まれては消えていっても、映画の中は全く変わることがない。映画に出ていた俳優ですら、必ずしも幸せであり続けるわけではなく、往年のスターですら転落していくこともあるのに。
 また人は、様々な人生においての苦しみですら売り物として生きていかなければいけないことがある。フランソワはそれを目の当たりにしていく。

<<・・・人の生のなかで、もっとも大切な意味をもったものごとや、もっとも悲痛な傷跡を残した事件が、ある日、こんなにも甘ったるく、こんなにもふざけたかたちで、万人の前、観客の前に、興味半分にさらけ出されるなどということが、あってよいものだろうか?どうしてまた、そんなことがありうるのだろうか?答えは、ただひとつだ。誰だって、生きることを続けなければならないからなのだ。そして、そうするために、お金を稼がなければならないからなのだ。・・・
 だが、ぼくたちに与えられる不幸だとか苦悩だとかいったものも、後日、面白おかしい見世物を他の人々に提供するということ以外に、本来、なんの意味も価値もないものなのではなかろうか。人々は、この見世物を眺めて、自分自身のみじめな宿命を忘れようとし、生きることとそれにともなうもろもろの悲哀を正面から直視することに耐えきれずに、ただその戯画だけを眺めたがっているのだ。>>

* * * * * *

 村上春樹氏の「海辺のカフカ」の人の批評などをネット上で読んでみる。なんか僕の理解を超えているような気がする。悔しいことに一つ一つの用語やら引用の妥当性を検討できるほどに僕の学がない。それが正論なのか詭弁(のわけないけど)なのかの判断もつかなかったりする。書いている人の年齢が僕とたいして違わなかったりすると更に失望が大きい。あああ、もっと頭良くなりたい。

* * * * * *

 ジャネット・ウィンターソンの「さくらんぼの性は」を読了。17世紀清教徒革命の最中のロンドンで、犬女と拾い子ジョーダンの物語が始まる。ストーリー展開は空想的で寓話的、とくれば僕は少し苦手なんだよな、なんて思って気も進まず兎に角ページだけ進めていく。特に面白くもない。他に読む本があれば、もう止めてもいいやとまで思ったりする。それが中盤から、突如話の様相が変わり始めてくる。話は現在と過去を行ったり来たりし始め、箴言やら哲学的考察やらが混じり始めてくる。僕は慌てて、襟を正して読み始める。
 例えば、旅に関するこんな考察。
<<奇妙なことに、僕が自分の旅を追えば追うほど、旅は僕から遠ざかっていく。(略)心の旅には、それがどんなに小さなものであっても、決して終わりがないということを、僕は旅立つと同時に思い知った。>>
 あるいは思わせぶりなこんな言葉。
<<嘘1:あるのは現在だけで、記憶することなど何もない
  嘘2:時間はまっすぐな一本の線である。
  嘘3:未来と過去の違いは、片方がすでに起こったことで、もう一方がまだ起こっていないことだ、という点である。
  嘘4:我々は一度に一つの場所にしか存在できない。
  嘘5:”有限な”という語を含むあらゆる命題(世界、宇宙、経験、人間……)。
  嘘6:誰もが認めるような現実。
  嘘7:現実はすなわち真実である。>>
 一読だけでは、意味が深すぎて、僕の器では水が溢れてしまった感があった。いずれ再読すべし。 


2003年1月12日(日)

『海辺のカフカ、について思ったことA  ナカタさんとは』 

 こほりさんのBBSの書き込みを読んで考えたこと。

T「殺したものは、権力なのか、悪なのか?」
 僕は権力というより悪という見方をしていた。悪は自分に害を与えてくるものだから倒す必要性を感じるけれど、権力は単に生きている上での障壁であり、それを倒さずに回避すれば済むような気もする。だから、回避するためにカフカ少年は家出したのだという考え方もできるけれど、結局その対象は殺されたのだ。
 例えば、イラクやイランといった中東のイスラム国は一つの権力である。アメリカの言うことを聞かず、美味しい石油の上であぐらをかいてキリストを信じない権力だ。だけど権力を攻めることはできない。だからアメリカは奴らは悪なのだとまず宣言してから、首根っこを抑えようとしているのではないか。

U「話の中心は一つ(+補完的な話)なのか、二つなのか?」
 「海辺のカフカ」はパラレルな2つの話のようであって、話の中心はあくまでカフカ君だと僕は考えていた。カフカ君のストーリーを補完するために、ナカタさんや星野君が活躍するのだというように。
 もし、カフカ君主体の話ということではなくて、カフカ君とナカタさんの話というふうに捉えるとしたら場合、まずわからないことは、
@ナカタさんは、カフカ君が対峙したように絶対的権力(僕が考える絶対的悪)に対して、老いてから、それも違う形で(明らかに彼とは利害関係にない存在であったジョニーウォーカーと)対決し、殺さなければいけなかったか?。
Aナカタさんにとって、そもそも彼を覆い尽くしてしまうような絶対的な権力が存在しているのか。彼は禁忌的(タブー)な性を垣間見てしまったというショックによって中身の無くなった人間になってしまったが、それは因果応報的ともいえる。ナカタさんにとっての権力は先生ではないように思う。なぜなら彼には別に先生に押し潰されたような経験を持ち合わせていないから。ナカタさんにとっての脅威となっていたものは、この話の中では、少年→大人になる過程における性的目覚めへの恐れ、あるいは禁忌的行為を目撃したことの恐れ、くらいしかないように思う。しかし、目撃そのものは一時的なものだし、性的なものもそれほど触れられているわけではない。

 ナカタさんにとって仮に絶対的権力というものが他にあったとして話を進めると、それによって自分の半分を壊された(消された)という過去があって、もはや取り返しのつかないほどに人生が進んだ時点で、権力と対決する必要があったのだろうか?実際、彼は全ての仕事が終わった瞬間に死ぬことになる。権力に打ち克った瞬間に覚醒してその上で生に立ち向かうこともない。これでは何かを打ち壊す意味がないような気がする。
 そして彼が性のタブーを見たということに対する解決も結局なされていないように思う。彼はずっと性というものを理解できないまま死ぬことになるわけだから。
 カフカ少年の絶対的権力を壊すことで、老人の生を輪廻転生のように次に受け渡すという考え方もあるけれど、それでは意味をなさないような気がする。
 そのため、ナカタさんはあくまでナカタさん個人のために働いたわけではなくて、カフカ少年の実行犯として動いたという考え方のほうが僕には馴染めるように思った。

 確かにカフカ少年は殺しから逃れようとして父のもとを離れたのかもしれないけれど、結局ナカタさんが殺したものはカフカ君にとっての絶対的権力である。一番、殺しによって利を得たのは、生きることへの困難がなくなったカフカ君なのだ。
 カフカ君の憎しみが、温厚なナカタさんに怒りを与えたのだ。

 結局、ナカタさんは、この小説で人の強力な意志に敏感に反応する人間としてしか描かれていないのではないだろうか?女の先生は自分の性の陰的行為を目撃されたために、彼が全てを忘れてしまえばいいと強烈に願ったに違いない。そうして実際にナカタさんは記憶を全て消されてしまい、思考能力や性的理解すらも奪われてしまっている。さらにカフカ君の憎しみの対象を、手を下せなかった彼の代わりに実行することになる。そうしてそれらの代償行為は結局ナカタさん個人にとって意味のあるものではない。

 うまく纏まっているとは言いがたいけど、とりあえずこんなところ。・・・書いていて、殺されることを望んでいたジョニーウォカーについてもきちんと考えておかないといけないような気がしてきた。なぜ殺されることを望み、殺されるように仕組んだのだろう?


2003年1月11日(土)

「享楽と背中合わせにあるもの」 

 アルフォンソ・キュアロン監督、メキシコ映画「天国の口、終りの楽園」を観た。 冒頭からセックスに始まる享楽的な映画。何も考えず、ただ欲望に忠実で、開放的なドライブ。悪くない映画ではあった。ただ一方でどうやら脚色がうまくできていないようなところも散見された。事実はどうか知らないけれど、先に本があって、それを映像化してみました、という感じの作品のような感じもした。説明が多く、時折、風景に意味を与えていくという面白い効果を生み出していたけれど、不要に感じる部分も多かった。ストーリーの展開の仕方も舟に乗って楽園の浜辺に着くのではなくて、車で見つけたところがそのまま楽園ということでよかったと思う。もっとストーリーは整理ができたはず。
 享楽的な部分が実は、その裏の部分と背中合わせであるということはいいと思った。ストーリーの結末だけでなく、ドライブ中に窓の外に見える人生の喜びやら悲劇を意味する人々たちの効果もよかった。ただ、女性の悲哀のようなものが完全に描かれていたようには思えない。悲哀がすぐ背後に迫っているからこそ、享楽的に身を委ねようというところはわかるにしても、脚本か女性の演技そのものなのかわからないけれど物足りなさも感じた。

 映画みてから友達とカフェ2つ回っておしゃべり。街がまた好きになったのに、なんだか残念。


2003年1月10日(金)

「海辺のカフカ、について思ったこと」 

 朝起きたときに書こうと思っていたことを書くことにする。思考の時制をより戻して思い返してみる。
 書こうと思っているのは村上春樹の「海辺のカフカ」について。弟に本を貸していたのだけど、ちょうど彼が読み終ったときにそばにいたら、一言「よくわかんないな」
 確かに僕も読後、思考回路が混乱をきたしていて、意味をうまく繋いでいくのに、本の意図をつかむのに四苦八苦した。そして全ては解決せずにもどかしい思いがしたものだ。弟もつまりそういう気持ちを味わっていたに違いない。「カーネルさんダースってあれは一体何。ジョニー・ウォーカーって?」等々。そうして僕は僕なりの思うところを言った。

「少年カフカ君は巨大な悪(ジョニーウォカーにして父)と対決するのに、自己の意志をもたないナカタさんやそこに何も考えずほいほいくっついていく星野くんを使っているんだよ。さらにナカタさんたちは、カフカ君が世界の終りに行くための道を開き、悪がそこに彷徨い込むのを防ごうとするわけで、身体を張った汚れ役であり実行犯というわけになるんだ」

 結局、カフカ君は自主的な思考回路をもっていないナカタさんたちを使って悪を殺したことになる。これまでの小説の中では、主人公は自分の手で悪に向かっていたような気がする。「羊をめぐる冒険」ではそれを追い込むこともできずにただ鼠が消えていくのを見ていたけれど、「ダンスダンスダンス」では友人の死という形で一応痛みをもちながら決着をつけようとしている。「ねじまき鳥」では確かバットで叩いたのではなかったか。・・・そこまではいい。人は何かと決着をつけるときに、自分の手を汚して、それゆえに痛みを知らなければいけない。
 しかしよく考えてみれば、「海辺のカフカ」では少年は父親を殺したはずなのに、自分の手を汚していない。確かにシャツは汚れるけれどそれはあくまで象徴的なものであって自覚はない。これは実は怖いことなのではないかと僕は突然思った。
 この小説の中では、カフカ君は主人公であるから、彼を中心に世界が回っていることになる。彼から見て、父親は悪の象徴のわけだけど、それは完全に一方的な見方に過ぎない。それは個人的な見方とも言える。世界全体を俯瞰したとき果たして個人的悪=普遍的悪になりえるのだろうか?それは例えば、グローバリゼーションの波に乗っかって一意的な見方からイスラム世界を悪としてしまう今のアメリカと同じなのではないか。悪の枢軸は、アメリカ側から見た見方であって、例えばイスラム世界ではアメリカこそ悪だという見方がされているのだ。同じように、カフカ君の父親はカフカ君から見ての悪であって、世界を広げたときに果たして本当に彼は絶対的な悪ではないような気がする。そもそも絶対的悪というのはほとんど存在不可能ではないだろうか。「心」がそこに完全にないロボットのような対象物であって始めて絶対的悪というものが存在できるような気がする。
 個人的悪に対して、もし対決するならば、本当は人の手など借りてはいけなかったのではないだろうか。ナイフなりバットなりで父親を殺したいのであれば、それはカフカ君自身が行うべきことだったのではないだろうか。
 もしカフカ君が某宗教団体のA氏であったら、この本の論理は成り立たないのではないか。実行犯は結局操られてサリンを撒いた。同じようにナカタ氏はわけもわからず、強大な怒りに後押しされて人を殺したことになる。痛みを知るのは実行犯であり、それを操った人は痛くも痒くもないでは意味がないのではないか?

 個人から世界へのコミットの取り方を書いてきた春樹さんだけど、個人悪を世界の普遍悪にまで高めてしまったのは失敗だったような気もする。少なくとも悪と対決するならば、自らの手を汚さなければいけなかったのではないんじゃないだろうか。あるいはそれを見越して、カフカ君もまた違った見方をすれば、<悪そのもの>だということを書いているんだろうか。しかし、それにしてはこの小説のエンディングは明るすぎるような気がする。

 ・・・今のところ書けるのはこんなところ。また考えが整理できたら書きたいと思う。


2003年1月9日(木)

 アゴタ・クリストフの「ふたりの証拠」「第三の嘘」を読了。
 両作品は彼女の1作目「悪童日記」からの続編となる。「悪童日記」のスタイルで感情を表面に出さないでタフに生きていく双子を追っていくかと思えば、「ふたりの証拠」ではひとりとなった双子の片割れが体験する生きることや愛というもののやるせなさを描いていた。登場人物たちは生きる上で様々な困難をもち、打ち克つことができずにそこに飲み込まれていった。一つ一つが解くことのできない問題であり、読者に委ねられるけれども、僕はそういう解なしの問題を考えていくことも読書の喜びのような気がする。個人的には、この二作目は一作目を越える傑作だと思った。終り方も読者を突き放すような緊張があってよい。
 三作目の「第三の嘘」はやや構成に凝り過ぎている感もあった。折角のそこまでのストーリーを敢えて断ち切ってしまうような書き方をしていたのは少しもったいない気もした。
 この人の書き方はまるでナタで薪を割っていくような感じがする。まず文章そのものに無駄がなく、シンプルで、それゆえに厳しい。描写についても常に距離を置いているような気がする。そして話自体も人の死や不幸に対して救いのようなものを用意していない。人は死ぬときは呆気なく死ぬのであって、そこに躊躇のようなものはない。実際、彼女の東欧での体験はそういうものだったのだろう。
 彼女は語る。<<(作品を書き終えると)気分が悪くなります。でき上がった本は、もう私のものではありません。私は、読み返すことさえできません。虚脱感の中に、ひとりぽつねんと取り残されます。(略)書けば書くほど、病は深くなるのです。書くというのは、自殺行為です。それでいて、避けることのできない、必然的な行為なのです。書くことにしか、私は興味がありません。>>


2003年1月8日(水)

 あっちいったり、こっちいったりでこの部屋には30分だけの滞在。
「あなたはもっと腰を落ち着けてじっくり書いたほうがいい」とは母の言。「あんまり30歳だのとリミットを決めて追い詰めてもよくないと思う。慌てて書くんじゃなくてじっくり熟成させたほうがいいと思う」
 それはそうかもしれない。
「だから何か仕事、前みたいに負担になるものではなくてもっと楽なもの、を探したらいいんじゃない?」
 それもそうかもしれない。だけど。だけど?
 実際のところ、たとえ文章でうまくいっても結局多くの若手は副業をもたざるえないのも事実。<本はもう昔のようには売れないのです。>
 僕は考えてる。どうしようかね、と。
 アゴタ・クリストフの「悪童日記」みたいにタフでなければいけない。タフであれば生きていける。弱さは誰かのためにとっておけばいい。今は必要ない。
「タフになる、タフであり続ける」これが今年の目標かもしれない。


2003年1月7日(火)

『日常の絡まり、非日常という解放者』 

 日々が始まる。鞭打つ警吏の面持ちで。
 だから僕らは非日常を求めている。
 旅に出て、いつもと違う空気を吸って、知らない景色を見てみたいと思う。知らない人たちの暮らしぶりを眺めてみたいと思う。
 ささやかに本の中だけでも旅したいと思ってしまう。一瞬の非日常。
 今日も図書館の本棚の前で行ったり来たり。
 どこかの女性が僕の肩にぶつかる。それは非日常。
 振り返らなければ、それは日常。


2003年1月6日(月)

『ポップ・カルチャーを呑み込み吐き出すパックマン』 

 トマス・ピンチョンの「ヴァインランド」を読了。かなり読み応えがあった。ピンチョンという人は、どうやら様々な学問分野を縦横にわたりながら、その意味を小説の中に過剰なほどにばらまいていき、かつストーリーにまとめるという手法で書いているようだ。知識欲のある人にとってはその読書体験というのは身も震わせるようなものになるのだと思う。解読しがいもあるから、研究者にも人気があるのだと思う。
 「ヴァインランド」はピンチョンが1988年に17年ぶり!に刊行した4冊目の長編だということだった。他の作品を読んでいないから比較ができないのだけど、この作品で取り上げられた学問分野というのはお堅いものではなくて、テレビやラジオ、音楽といったポップ・カルチャーそのものだった。パックマンのように目の前に散らかっているものを無造作に呑みこんで、それをストーリー中に吐き出したというような印象も受けた。ストーリーそのものはアメリカの20世紀途中からの歴史背景を携えながら、現在過去を自由に飛び回っていく。登場人物も次々に増えていき、ストーリーの中心人物すらスケートのショートトラック・リレーを見ているかのように入れ替わっていく。目まぐるしいし、意味がなかなか繫がらなくって訳がわからなくなるくらいだ。全部読んで、別にたいして感動を覚えたわけでもないのだけれど、パックマンになったような気分にはなる。ポップ・カルチャーをそのまま呑み込んで、胃からその意味が氾濫していくような感覚に。
 日本人作家だとこの「ヴァインラインド」のピンチョンの作風に近いのが高橋源一郎であると思う。彼もまた消費文化をどんどん取り入れて、それを作品中にねじり出しているから。ただ僕が思ったのは、ポップ・カルチャーというといかにも今風で軽く、恰好いいような気がするけれど、実は時代の流れの中で古びてしまうスピードも速いのではないかということ。消費文化の中に小説を沈めてしまうと、小説そのものも消費文化の一つにしかならないんじゃないかなっていうこと。とは言っても、日々テレビからは新しいお茶の間俳優が現れ、流行語やら音楽が怒涛のようにあふれている。結局、今という時代を捉えるには、それごと括り込むのも一つのやり方ではあるのだろうなと思う。だからと言って、パックマンになりたいかと言われたら、僕は否だけど。

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 高橋源一郎の「一億三千万人のための小説教室」を読んだ。読み終った瞬間に前後不覚に眠っていた。本の最後にまるで催眠効果があるかのように。
 さてホットミルクを飲みながら文字通り気を取り直して感想。
 なぜこれを読んだかと言えば、本屋でぱらぱらめくっていたら村上春樹「羊をめぐる冒険」とレイモンド・チャンドラー「長いお別れ」(昔読んだ)との文章的な類似箇所を解説しているところがあったからだ。朝日新聞(ネット)では高橋氏は、これを棚に残りやすい(*高橋氏の本は前述のようにポップカルチャーを扱っているから廃刊などになりやすいのだと僕は推測している。)岩波新書で、しかも小説として書いたとしていた。蛇足だけど、この本に影響を与えたという斎藤美奈子の「文章読本さん江」も要チェック(図書館で借りるには結構待つみたい)。
 この小説?を読むと、彼がいかに小説を愛しているか、そうしてどうやって書いてきたのかがわかる仕組みになっている。彼は小説の書き方について書いている本が多数あることを前書きで挙げて、それらが小説を書くときに役立たないということを述べている。それはなぜかと言うと、@その人が小説の書き方をもともとわかってない。A書き方をわかっていても教え方がわからない。という二点を挙げている。教え方が分かる人は大抵自分の仕事に忙しくて、他人のことに手が回らないと付け足している。それを彼がやってみせようと言うわけだ。
 高橋氏は小説の書き方として、まず誰かの文章を受けとめて偏愛するくらいに好きになるということ、そしてそれを真似てみせること、というのを挙げている。彼はそうした例として、チャンドラー→村上春樹などを例として取り上げたわけだ。彼自身も自分の小説の中でそうした例を挙げている。太宰治の「駆け込み訴え」やら「女生徒」の文章体が見事なまでに彼の小説に取り入れられている。作家にとってこの辺りは自分の小説の構造の種明かしにもなるのだから、普通はあまり気が進まないはずなのだけど、彼は恐らく小説が本当に好きだからこそ、そうしたことも厭わないのだろうと思う。

「わたしは、小説は、あらゆることばと同じく、そうやって、受け継がれ、組み合わされ、そのことによって、絶えず変化してゆく遺伝子の連なりのようなものだ、と考えています。
 しかし、なぜ、人は、いや小説家は、他の小説家をまねようとするのでしょうか。
 その答は、なぜ、ことばを覚えるのか、という問いへの答と同じです。
 人はひとりではいられず、そのため、人は他のだれかと好きにならずにはいられない。そして、だれかを好きになる時、生きものは、そのものと同じものになろうとし、そのためにおこないをまね、ことばをまねようとするからです。」

 そうした行為はほとんど恋愛とも変わるところがない。そして彼は本当に小説を愛しているのだと思う。そうした愛情というものをひしひしと感じ取ることのできるいい本(小説)だった。そうして不思議なことに読み終えると小説を書きたいという意欲が(催眠術的に?)湧いてくる。


2003年1月5日(日)

「端末の向こうに集積する山のごとき知」 

 今読んでる本の著者についてネットで検索してみる。当たり前だけど、途方もないくらい引っ掛かってくる。翻訳者に、批評家に、大学のゼミに・・・。この小さな部屋の小さな机の端末から、膨大な知の世界を垣間見る。なんともすごい時代。一昔前だったら、ひとりで読んで、ひとりで考えてそれでおしまいだっただろう。まるで宇宙に他に生物体などいることを知らない地球人のように。
 たった一つの本についてだけでも、このような知の集積を目の当たりにすると、果たしてこの海の中に漕ぎ出していることが心許なく思えてくる。まったく外洋というものを知らずに、盥に乗って港を出て行く呑気な人間としか思えなくなってくる。
 しかし一方ではじめもの凄い広がりをもっているように思える世界でも、実際に漕ぎ出せば、そこには生身のそして具象性をもった個々の人間しか存在しないわけで、僕ですらその中で認知される可能性があるということを経験で知っている。僕が大学でやっていたことも結局そんなところがあったから(気付けばいつの間にか見晴らしのいいところまで来て、周りの山の高さを見当つけることができる)、きっとこの世界もそうなんじゃないのかな。兎に角、藪を漕いで、わけもわからず下草つかんで稜線に登っていけば、視界も広がってくるでしょう。そうして自分という山の可能性についてもわかってくるでしょう。それは周りを圧倒するほどの高さをもつものかもしれないし、あるいは単なる埋もれるしかない山なのかを判断できるでしょう。きっと到達できる山の高さが才能なのかもしれないとも思う。もしかしたら才能自体も植物のように伸びていくものなのかもしれないけれど。頂上などなく、ずっと伸びていく山だというのもまた怖い想像ではあるけれど。
 兎に角今は登って登って登る。兎に角高みへ高みへ高みへ。


2003年1月4日(土)

 弟がちょこっと家(my room)に遊びに来た。「海辺のカフカ」をゲットできて至極嬉しそうだった。(多分、今頃夢中で読んでいることでしょう。)
 なんでもオーストラリアで「ダンスダンスダンス」を読んでいる欧米人と出会って、その人に本を紹介されたそうだ。「なんとかジュニアって名前だったよ」と言うから、「じゃあ、カート・ヴォネガット・ジュニアじゃないの?」って「スローターハウス5」も貸してあげたら、実際に弟の旅行用のメモ帳にも英語でカート・ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」って書き込まれていて笑ってしまった。「あっという間に手に入っちゃったよ!」と弟は驚きの弁。

 実は今住んでるこの部屋。もう二月ほどで退去しようと思っている。とても気に入りだしているだけにとっても残念でならない。この街も本当に好きだし。”今は小説書くことだけを考える”と元旦のダイアリに書いたけれど、結局僕はそう選択するしかないのだと思う。快適な生活はたまらなく良い。だけど、今はやらなければいけないことがあるのだ。
 小説を書くことはたまらなく楽しい。はじめ(一年前)は書くことだけで満足していた。枚数が増えるだけで満足していた。だけど今はそうじゃない。すべてに意味が行き渡っていないと満足できない。描写がきちんとできていないと満足できない。僕は今年2003年を小説に当てることができるということを幸せに思う。(勿論、紆余曲折はあるだろうけど。)一年後にはとんでもなく凄いものが書けていたらいいと思うし、そうでなくてはいけないと思う。


2003年1月3日(金)

 のんびり本読んだりして過ごす。時間が少しでも空くとすぐソファで本を広げ出すから(そしてなかなか飽きないものだから)驚かれる。確かに変わっているかも。家族五人のいる正月はすごい久し振り。母親の誕生日には花束贈った。夜、家族で回り将棋などという懐かしいものをやってみる。お腹がよじれるほど笑う。
 明日はバイトはじめ。また地道にやってこうっと。


2003年1月2日(木)

 吉田修一の「パーク・ライフ」を読んだ。日比谷公園を舞台にした安穏とした小説。まるで現代人の希薄な交流をそのまま小説にしたという印象を受けた。主人公の男はふとしたことから若い女性と出会って会社のお昼休みに公園で話をするようになるのだけれども、最後まで女性の仕事も名前も知ることがない。決して相手を深くまで知ろうとすることがない。周囲の人たちとも常にそんな調子で、誰ともぶつかったりすることがなく日々を過ごしていく。当たらず触らずの毎日。エンディングで女性が写真展を見終えたとき、「よし決めた」と突然何かを決意して、その決意の中身はおろか女性のすべてを知らないことに気付いて、始めて主人公は女性の存在というものが絶対ではないということを悟る。そうしてもっと人を深く知ろうとするかのようなエンディングとなる。だけど、本当にそうなるかはわからない。何かを強烈に伝えようとする作品ではないけれど、読んだ後に「はて?」と思ってもう一度ひとつひとつの意味を照らし合わせながら読み返したくなる。悪い作品ではないし、小説とはこういうものなのだと思う。だけど芥川賞とするにはどうなのかな、とも思ってしまう。審査員の選評を読んだ限りでは、テーマよりも正当な純文学らしさというところが決め手だったようにも思えた。


2003年1月1日(水)

「抱負」 

 新しい一年のスタート。2002年はぎりぎりまで小説を書いていたので今もまだその残り火がくすぶっている。今回の作品は、前作「栞」で未消化だった過去というものを掘り下げた作品になったわけなのだけど、ここにUPするのは見合わせようと思う。今回の作品は、自分の中で完全に納得できていないのだ。ここ最近、小説に対する理想というものが高くなって(それはおおいに良いことだと思うのだけど)、どうしても細部などが気になってしまう。その状態で応募してしまったのは単に自分の中でのけじめなのだ。(この作品は年末に応募するために頑張っていたものだった。)ただこれまでの小説よりは出来がいいので、次回はもっといいものが書けると思う。それが書けたらUPしようと思う。
   *
 今年は小説を書くための一年にする。昨年も小説を書くための一年だったのだけど、やり始めたばかりで暗中模索しているところもあって、準備体操くらいで終わってしまったような気がする。ただ準備体操といっても、小説を書く技量は一年間でかなり上がってきたと思う。
 昨夏からはバイトを始めて細々とした生活を成り立たせながらやっていたわけだけど、結局その中で小説を書くことは思っていた以上に大変で、書くスピードが落ち、納得したものを書き上げることもできなかった。まるでスピードの遅い車に乗ってどこか遠い目的地に向かっているような感覚が常にあった。特に僕の挑戦の場合、30歳という時間制限もあるから今ののろのろ運転ではいけないような気がする。今年はそのスピードを一挙に上げてしまおうと思う。そのために今の生活もあと2,3ヶ月で一旦打ち切って、もう少し効率的に生活できる方法を考えていくつもり。スピードの出る車が使えそうならばそちらで挑戦していかないと、到達できるところも到達できないから。
 そして一挙に到達するべきところへ向かおうと思う。勿論、細かい問題はたくさんある。ひとつひとつ克服して、血になり肉になるよう努力するつもり。やるからには、とことんやる。車が故障したり、相変わらず道に迷ったりということもあるかもしれない。それは長い目でみれば僕の人生に役立つだろう。しかし、今考えているのはそんな長いタームのことではない。目的地に到達する、これがすべて。