2003年3月31日(月)

「ロスト・ウェイ 自分の短編小説をなぞるような体験」

 隣の駅まで歩いてみた。空は澄み、春風はこの上なくさわやか、桜や木蓮などがちらほらと咲き、散歩には恰好の日だった。隣の駅は田園都市線の溝の口駅を少しレベルアップさせたようなところだった。駅とそこに直結するショッピングセンターが機能的に結合していて使い勝手がよさそうだった。駅前のビルは無印の入った雑貨系のフロアがあって、レストラン・フロアを挟んで、最上階に図書館という変わった建物だ。公共系の施設と商業系をくっつけるのは面白い。新しい駅開発だからこそできたものなのだろう。昨日友達と行った奥沢の古い図書館は恐らく場所がないために、1階商業施設で、2、3階が図書館だった。「こち亀」の世界でそれはそれで笑ってしまった。
 散歩の帰り、行きと違う道歩いたら迷った迷った。二つの違うブックオフを見てしまうくらいに迷った。どうにかこうにか家までたどりつけばすっかり暮れて、庭の梅の花も闇の中に溶け込んでしまっていた。


2003年3月30日(日)

「再び上京」

 雪の札幌から桜の東京へ、ふたたび!
 飛行場に友達が迎えに来てくれる。僕にはちょっと勿体なさすぎる。そうやって一日過ごして君の本意を探している。君が何を求めているかを考えている。
 夜、十時を過ぎて家に着く。東京のはずれにある一軒家。まるで幽霊屋敷みたいに古さだけが染み付いている家。僕がこれから格闘する舞台になる家。静か、静か。文章がたくさん綴れそうだ。


2003年3月29日(土)

「がびぃ〜ん」

 塾が潰れたのは他人事じゃなかった。嫌な予感がして銀行で確かめたら最終月の給料が振り込まれてなかった。がびぃ〜ん。同僚によると、月曜か火曜に一応入るはずになっているとのこと。な〜んかあやしい。東京新生活のスタートで、スターターのばねの調子がおかしくなってるぞ、と直前になって気付いたって感じだな。あるいはスタートラインに立って下を見ると靴紐がなぜか解けてしまっているとかね。ん〜もうっ。
 前途多難ながらも兎に角用意は完了。部屋の最後の片付けをしていたら昔の手紙の束を発見。全部捨てようと思って、一応中を確認したら、昔亡くなった祖父のものあり、親交のなくなった友達の温かい手紙あり、でとても捨てることなどできないということに気付いた。そうした手紙のひとつひとつに対して、いったいこの僕はどういう返事を書いたのだろうとしばし手紙の束の中で佇んでいた。


2003年3月28日(金)

 もう残り二晩。荷物も送り出して、そろそろという気がしてきた。向こうに行ったら仕事探しなんかもしなくちゃいけないけれど、僕ときたら相変わらず楽観的だ。心配しても仕方ないからね。力を使うべき時点がきたら力を使う。それまではリラックスして楽しんでいこう。まぁむしろ心配よりも楽しみにしているくらいなんだけどね。新しい環境というものが好きみたいなんだ。
 半年以上お世話になった塾の会社が突如潰れた、ということを昨夜遅く同僚の教師から電話で教えてもらった。経営に何か問題があったのかもしれない。「先生はいいタイミングでやめましたよ」と僕のクラスを引き継いだ同僚は言う。家族もちの方たちは大変なはずで心が痛む。

 
「すれ違い」

 リチャード・ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」読了。かなり期待して読んだ本だったが、残念ながら僕の心には響いてくるものがなかった。どうもケルアックといったビートニクやその後にみられる軽いタッチの文学がやや苦手かもしれない。それが胸に届いてこないのは、おそらく僕と彼らの間に何か決定的な懸隔があるせいなのかもしれない。それはいったい何なのだろう。


2003年3月27日(木)

「好きな映画」 

 再び引越しの準備にてんてこまい。
 夜、BSでジョナサン・デミ監督の「フィラデルフィア」を観た。この映画、大学1年のときにクラスで話題になっていた映画だった。ビデオで観て感動してサントラを買ったくらいの映画だ。今回、久し振りだったけれど、やっぱり感動した。エイズによる差別を問題にしているようで、実は家族愛というもののほうに重視されているように思う。外の世界があれだけ偏見で満ちているのに、トム・ハンクスの親戚家族みんなが驚くほど温かい。人があんなふうに互いに愛し合うことができれば、世界はどんなにハッピーなことだろう。もし将来家庭をもつならば、あんな家庭がいいなと思う。演技は、庶民派でかつ人権を尊ぶ弁護士役をやったデンゼル・ワシントンが上手い。エイズの偏見から徐々にそれを受け入れ、変わっていく姿と、もともと備わっている気さくな性格というものをきちんと演じていた。僕がアカデミーの選考委員だったら彼のこの演技にあげたいところだ。


2003年3月26日(水)

「春霞」 

 気温が上がって、コートからジャケットに変えて身軽になって外へ出る。春霞。ぼんやりと物憂げで、何度も繰返される春。その度に過去に戻され、霞の向こうの未来をぼんやりと眺める。まるで、砂浜に打ち寄せる白波に弄ばれるプラスチックボトルのような気持ち。
 図書館に行く。借りてももう読みきる時間がないから、ただ本棚を目で追うだけ。海外文学のところだけでも、読みたい本だらけ。しかし、実際には図書館に居を求めたとしても、読みきれないのは確か。それでも、この身体の中には止むに止まれぬ熱がある。炎熱の砂漠が水を求めるように、読むことに渇いているのだ。それが今という時間において無為なのか有為なのか全くもってわからない。それは人生が無為なのか有為なのかと尋ねられるのに似ている。だとしたら、有為なのだろう、と僕は控え目に答えるだろう。


 イーサン・ケイニンの「宮殿泥棒」を読む。4つの中篇が収められているが、どれも素晴らしい。淡々と綴っておきながら、微妙な読後感を残してみせる。訳者の柴田氏に言わせれば、<<イーサン・ケイニンという作家の珍しいところは、(略)優等生の引け目を、いじけた卑下にも、その裏返しの開き直りにも陥らせることなく、そのまま小説の核に使って、それでいい作品を書いてしまうことである>>ということだが、優等生という言葉づかいに多少反感のようなものをもちたくもなるけれど、確かに言い当てているとは思う。世間的に認められている人たちの微妙な心理の揺れをうまく描いているし、読ませる。話の設定や運びもよく考えられていて、こりゃ参ったねって舌を巻かざるえない。1960年生まれというこの作家の作品、他にも読んでみたい。


2003年3月25日(火)

「春のきざし」 

 春の陽射しがさんさんと降り注いだ一日。雪は身を震わせながら消えていく。その下から湿った土の匂いがしてくるのもあと僅かだ。

 
 アゴタ・クリストフの第四作「昨日」を読んだ。過去の三連作とは別個の話だが、基本的なところは同じ。前三作が他国の統治を受ける祖国での暮らしや亡命先の国から帰ってきた男の話だったが、これは祖国を出て違う言葉の異国の地で暮らしていくことになった男の話だ。土地の言語に溶け込むこともできず、かといって祖国に戻ることもできずに、日々を工場の単純労働に費やしていく姿は、そのままアゴタ本人の青春時代への回想となる。ここでは、書くという行為を、祖国と亡命先の国の狭間でアイデンティティを失いそうな自分を確かめるためのものとして描かれている。しかし、実際には、その行為はむしろ自分を分裂させているのだとも作中で語らせる。相変わらず文章に気骨のある印象を受けるものの、残念ながら前三作ほどのパンチ力はなかったように思った。
 アゴタはもともとハンガリー人であり、同じ東欧のチェコ人であったクンデラも似たバックグラウンドを有しているために、読んでいて二人の作品が混じっていくような変な錯覚を覚えた。


2003年3月24日(月)

「たとえば、夜中に呪詛を吐いてみたくなること」 

 24時をゆうに過ぎたところで妹から変な数学の問題をやらされる破目になった。安請け合いするんじゃなかった。職場(確か内科の事務)からもってきたということだけど、陸上トラックを三人のランナーが抜きつ抜かれつする問題なんて一体どこの学校の入試に出てくるのやら。頭のトレーニングというより、これはまさにトラックでの消耗戦てな感じだった。あるいは僕が四人目のランナーだったのかもしれない。おかげで、すっかりネムネムになっちゃったよ。(一応、解いたけど)
 
 
 阿部和重の「ニッポニアニッポン」を読んだ。さすがにナボコフの文章の緻密さに卒倒させられた昨日の今日ということで、日本の純文学のエースではなくともジャックくらいの位置にいると思われる阿部氏の作品もなんだか今ひとつだった。ナボコフの後に読まれると、まぁどんな作家もそうなってしまうかもしれないけれど、と一応フォロー。
 作品では、地元でストーカーだのをやってほとんど追放されて上京してきた青年(鴇田)が佐渡のトキに強烈な思い入れをするあまり、最後は殺そう(逃がそう)とするという話。青年は周囲の人たちから半ば生き方を強要され、それ自体がシナリオ化されてしまっているために、同じようにシナリオ化された国家的保護を受けているトキと自分を同一化してしまい、それを打破することで、自分の生きる道を探そうとするわけだ。一方で、トキは昭和天皇、あるいは天皇中心主義を隠喩しているようにも見受けられる。戦後、絶滅の危機に瀕し、最終的には野性を失って骨抜きとなってしまい、中国から譲り受けたトキの二世誕生でかろうじて対面を保っている姿。
 また、「インディビジュアルプロジェクション」と同様に、背景として情報社会を置いている。「インディ〜」では情報過多の世界をどう生き抜くかという問題提起だったような気がしたが、ここでは主人公がその過多の情報をうまくネットを通じて、選択し噛み砕くという作業を行っている。(まぁ僕らが毎日やっていることだ、と書くと身も蓋もないけれど。)その一方で、ネットの情報の正しさを証明することの難しさを伝えて、この小説は終わっている。主人公も、ネットを有為に利用したようで、それに踊らされたのだということを暗に示しているのかもしれない。
 テーマとしては、不可侵不可触の天皇というものを意図的にかすらせるというところが面白くはあるけれど、全般的に雑という気もした。裏の意味を捉えることに夢中で、表面的なストーリーの流れが逆にぎこちなくなってしまっているようにも思った。さらに表で起こした殺人などの犯罪の意味が軽く捉えられすぎるのもやや問題かなぁ。作者の意図はもっと深いところにあると言われても、一番始めに目につくのはやっぱり表面だからねぇ。これ普通の中学生や高校生に読ませたら、多分表面的なスタンガンとかピッキングとか盗聴といった語句で思考が止まってしまうんじゃないかと思うけれど、阿部さんそこのところどうですか?


2003年3月23日(日)

「ナボコフへの傾倒」 

 ウラジーミル・ナボコフの「透明な対象」を読んだ。今年のベスト3に入れていいくらいの本だ。一読してすっかり虜になってしまって、そのままもう一度読み返してみた。一日に同じ本を二回読むなんて、生まれて始めての体験だったかもしれない。ただ、本自体は読み出して、ノンストップで終りまでハラハラドキドキ突き進むという類のものではない。回り道に、先回り、細道に迷い道といった具合で、進もうと思ってもなかなか前に進めない感じだ。進んでいるのではなくて、どこかに連れ出されて終いには何かに撒かれているのではないかと思えるくらいだ。「ガラテイア2.2」の訳者でもある若島氏はあとがきでこう綴る。<<ナボコフを読むおもしろさのひとつは、読者が謎を見つけ、そして答えを発見する、その喜びにある>>と。本そのものが迷宮であって、僕らは少しずつ謎を解きながらしか、その全体像なり部分なりを把握することはできない。迷宮は、恐ろしく巧緻にできている。一文、一文がよく練り上げられていて、妥協という文字が見当たらない。
 原題は、「transparent things」という何やらこの僕にも愛着のあった単語が使われている。T.Tという頭文字、さらには本文中でも言及のあるヴィトゲンシュタインとの関係性から、タイトルの邦訳からして訳者・原島氏は迷いに迷ったそうだ。原島氏の翻訳は冴えに冴えていた。<<翻訳というのは、翻訳者がそのテクストをどれほど丹念に読んだかというその証である。>>とはあとがきの言葉である。実際、この本は、去年邦訳された優れた翻訳のベスト3に入っていたくらいだ。(他に、紙葉の家、アンダーワールド)
 この本について、少し書き綴っておきたいのだが、今、書こうとして何を書けばいいのかわからない。二回も読んだのに!どうやら僕はナボコフのつくった迷宮でいまだ迷っているようなのだ。いったい、この迷宮はすべてが解き明かされて、それこそ透明な対象として浮かびあがることがあるのか?いや、透明であれば、それは透き通って結局は見えないものなのかもしれないが。・・・ああ、もう少し、読みこむ力が欲しい。


2003年3月22日(土)

「陽だまりを追って」 

 気温が8℃まで上がるという予報のとおり、一日中空は青く、太陽は光を投げかけていた。僕と犬は陽だまりを追いかけながらソファの座る位置を変えて日光浴。本を読んだり、うつらうつらと眠ったり。なんて贅沢なことだったろう。

 
「チューニング失敗」

 スチュアート・ダイベックの「シカゴ育ち」を読んだ。訳者・柴田元幸氏のこの作家への愛着、あるいはダイベック自身のシカゴへの愛着というものが伝わってくる本だったが、僕にはもうひとつ親和しきれなかった。チューニングがうまくできないうちに終わってしまったという感じもした。しかし、一つの都市を舞台にいくつかの話を展開させるのは面白いと思った。場所は固定されていたのだけど、登場人物は皆、そこを通っていつかは消えてしまう風のような存在として描かれていた。


2003年3月21日(金)

『遠慮のないガラスから受けたインスピレーション』

 春分の日だというのに朝から雪模様。玄関から新聞配達のもう半分埋もれかけの足跡をたどって道路へ飛び出る。春の訪れはいつになるのやら。
 塾は今日をいれてラスト2。終わってからもずっと女の子ふたりとしゃべってた。これまで恥ずかしがってか大して自分の話をしようとしてこなかった子が、ここにきて何かを伝えようとしてしゃべっている。それをうんうん聞いている。
 終わってから美術館へ寄って、「Outspoken Glass」展を見てきた。遠慮のないガラス、というわけ。常識を覆すような現代ガラスの展示ということでこのタイトルがついたようだ。実際、プラスチック製品のようなカラフルでポップなイメージのガラスの器(by高橋禎彦)から、版画的ともいえそうなガラス表面に傷をつけたもの(by伊藤孚)や、異なった反射率のガラスを組み合わせた鏡のようなガラス(by家住利男)、曇った感じの美しいガラスの器(by扇田克也)、月や橋や開いた扉などの物語性を感じさせる素晴らしいガラス造形(by塩谷直美)、部屋の側面を全て覆うコカコーラの瓶を模したガラス(by三宅道子)が特によかった。
 一番、インスピレーションが湧いたのは、ガラス壷の周りに不思議な動物の物語性のある絵を描いた作品(by池本一三)。ガラス壷を一周しても、物語が元に戻るというところが、単純なことではあるけれど僕には閃くものがあった。勿論、それは小説の技法としての閃きだ。始まりと終りがないような、あるいは始まりと終りが繫がれていているような作品形態に。それはマンチェフスキーの「ビフォア・ザ・レイン」と同じようなもので、全てが輪廻的にまわっているような形式。もう三月〆切にさじを投げて、腰を据えての長期作成に変えた今書いてる作品も、そんな感じにしようと今思っている。「始まりは終りであり、終りは始まりである」A氏は恐らく笑うだろうが、どうも僕はそういうものが好きみたいだ。江國さんは朝日新聞のネット版で、物語の一回性というものを重視していると語っていたが、僕は「時間や空間は絶対的なものでなく物語は多重構造をなしていて、現在の人生という物語もその選択性によって成り立っているのではないか」と思っているのかもしれない。(自分が思っているかもしれないなんて変な表現だけど。)そしてそれは一回限りのものではないということを考えているのかもしれない。もしかしたら、今日という日はもう一度やってくるか、あるいは違う世界の中で今日という時間が存在していて、僕は美術館に行くのに女の子を誘うかもしれないし、手をつないでみるかもしれないし、寝てみるかもしれないし、あるいは美術館に行かないかもしれない、というような選択によって大きく変わってくるような多重的な物語的な世界が広がっているのかもしれない。これについては今始めて文章に書いてみて、頭の中でまとめているので上手く書けないのだけど、そうした手法や考え方によって、ひとりひとりの世界を広げていくことができ、あるいは多選択的である世界を再認識することで一つの価値観に縛られずに人が上手く生きていく手助けができるのかもしれない、とも思う。これについては小説でも書きながら考えることにしよう。うん、楽しみ。兎に角、今回の作品展は非常に面白かった。ガラスのアートともいうべき展示、まだまだ創造に限りない地平線を感じた。


2003年3月20日(木)

『この犬の悩み』

 海の向こう、砂漠の国で戦争がはじまった。化学兵器と生物兵器を応酬しあい、無人機をとばすハイテク戦争。国連を無視した国同士のエゴとエゴの戦争。そして犠牲になるのは関係のない人たち。
 日本は安全保障という首輪につながれていて、飼い主に噛むことはおろか、踏みとどまることすらできない。あーだったらフランスやドイツのように、自国の軍事力・防衛力を高めればいいのだという話もあるけれど、今度は平和憲法という破棄できないものがある。そうして僕らの人種は既に過ちを犯しているだけに、平和憲法に身を縛っておかないと、むしろこの血の汚れから再び過ちを犯しかねない。ガンジーのように無抵抗を口にするのも一考だが、難しいよね、というか無理。
 だから、僕らはうーんと腕組みして考えている。アメリカという横暴な飼い主にこのままついていくのも嫌だけど、それに代わる飼い主がいないとやっていけないんだ。北朝鮮から?発射してくるミサイルも潜水艦も撥ね退けるようなバリアみたいなものが領海・領空に張り巡らせることができたら、それが一番いいんだけどね。
 ああ、でもやっぱりダメなものにはダメっていわなっきゃ。飼い主を説得するくらいじゃなっきゃ。


 江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」を読んだ。たんたんとした短編小説が十篇。読んでいるとなぜかしらん指を噛みたくなる。話の中にひそむ女性たちの生きることへの強さ、ちょうど指を噛むくらいのね。それは少し痛いけれど、だからこそ揺ぎない意志がある。江國さんはあとがきでこう書いています。<<瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、私はやっぱり瞬間を信じたい。>>


2003年3月19日(水)

『眠い日』

 朝起きたときから眠くって、本を読んでいても、昼ごはんをつくっていても眠気がとれない。仕方なく午睡。それでも眠気は続き、結局一日中僕はそれを背中にしょって過していたみたいだ。こうやってこれを打っている今、僕のベッドの枕に犬!が丸くなって眠っている。いったいどういうつもりなんだか。やがて眠気はより強い眠気に吸い取られていく。

 チェーホフの「桜の園・三人姉妹」を読んだ。太宰の「斜陽」に続き、没落する貴族を描いてあったのだけど、何のことはない、「斜陽」にチェーホフが引用されている繋がりから読んだのだ。戯曲を読むのは恐らく記憶の限りにはなく、セリフを読む前にいちいち誰が言っているのかチェックしなければならなくてやや鬱陶しかった。内容のほうはそこそこ。感動もせず、たんたん。


2003年3月18日(火)

『大きな月の昇る夕べに』

 大きな月が東の空に輝いていた。地球と月で「達磨さんが転んだ」でもやっているのか?ああ、なんて大きい月なんだ。月を見ているせいで、この瞳孔もオレンジ色に肥大しているのだろう。僕は冷えていく夕刻の雪道を犬と歩いている。空は一面藍色。一番星がきらり。西の空は落陽の余韻を残して白く透き通っている。やがてそれも徐々に藍色に染まっていく。並ぶ電柱や家の屋根は西の空をスクリーンにして影絵のように輪郭を映す。遠くの街灯が静かにオレンジ色に黄色に仄かに光を発している。その静かなこと、雪に映えること。どうして冬の街灯はこんなにも心を打つのだろう。その寡黙さや他と混じることを欲しない孤独な光のせいか、あるいは儚げな自己の存在を知らせるために光っているせいなのか。


『許されない銃乱射と許される銃乱射』 

 マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」を観た。東京ではなんでも恵比寿のみの上映で予約しなければ観ることができないそうだけど、さすが札幌、上映時間間際に行っても当たり前のように空いている。
 この映画を最初に知ったのは作家・星野智幸氏のHPのダイアリだった。とは言っても、どういう映画か始めは全然知らなかった。それが多少の情報を得て、是非とも見なくっちゃということになった。そして実際、映画館に足を運んでよかったと思う。
 アメリカのコロンバイン高校で起きた二人の高校生による銃乱射事件を、ドキュメンタリー形式で事件の概要、原因、社会構造などに迫っていく。アニメやニュース映像を絡めた映像的効果、インタビューアを務めたマイケル・ムーアの軽妙な語りと行動力などがよかった。そして映画からなぜアメリカでは銃による事件が多いのかを推察させる過程もうまいと思った。映画では、大まかにいって二点を挙げていたと思う。
 一つは、同じ銃社会であるにも関わらず銃による事件のほとんど発生しないカナダと比較して、アメリカの社会保障が貧者に行き渡っていないということ。貧しさによる困窮が犯罪を生み出すということ。そして貧しさそのものは、政治によっていくらでも後ろ盾することができるはずだということ。
 もう一つは、アメリカ政府自体が近年、他国の民主主義政権に口だけでなく手を出し、様々な軍事政権をただ自国の利益のために打ち立ててきたこと。南アメリカ諸国の民主的活動を阻害したり、アルカイダに援助してきたり、あるいはそれを叩いたり、コソボの爆撃に関わったり・・・と芋蔓式に出てくるは出てくるは・・・。アメリカという国は結局自国の都合だけで動いている国のような見方ができた。(どこの国も自国の利益を優先するけれど、アメリカという国はそのエゴが強すぎるような気がした。)政府が暴力的手段で他国人を殺しているのに、どうして事件を起こした高校生たちを個人的な問題として片付けられようか?というところをこの映画は力説していた。
 そうして最後通告を出して開戦間近になったアメリカの対イラク戦のことを考えずにはいられない。この映画を見るタイミングとしては非常によかったし、戦争の無意味さについて改めて考えることができたのはよかった。一体誰のための戦争なのか。ブッシュがフセイン政権を打倒するためにそれと関係のない人びとの命を奪おうとすることと、高校生が銃を乱射することの違いはいったい何なのか。イラクに化学兵器や生物兵器を捨てることを指示しながら、これまで過剰な他国への侵略ともいえる干渉を続けてきたアメリカはどうして大量の殺戮兵器を保有することができるのか。あなたたちこそ自分たちの兵器を月にでも送ってしまうべきなのじゃないだろうか。だってあなたたちこそが悪を育て、悪の根源だとも言えるわけでしょ。
 それから我が日本について。映画の中では、あまり見たことがなかった大戦中の日本兵による中国人の銃殺シーンなどが出てきた。無抵抗の人の頭に銃を突きつけてバン・バンやったのはナチスの専売特許じゃないみたいなんですよね。僕らの忘れている過去。拉致は忘れないけど、戦争のときの非道は忘れてましたってね。拉致は現在の問題ですが、慰安婦も南京大虐殺も強制労働も昔の過ぎた話ですってね。国益を守るためには自国の非は棚にあげて他国の非を責めておくというのはまぁどこの国でもやっていることだけど。
 だけど平和憲法をもっている日本が、ただ北朝鮮から向けられているミサイルの脅威があるとはいえ、アメリカの武力行使を認めていいもののか。安全保障の問題は確かに重要だけど、だからと言って一方的な戦争を起こそうとするエゴイストたちを支持するのが本当に正しいのか。内閣のお偉いさんたちはもう一度平和憲法の意味を考えたほうがいいのだと思う。もっと僕らの国にはやれる方法があるはずだ。神様仏様アメリカ様という態度はおかしいよ。そうだ、どうせだったら、銃乱射していた高校生をイラクに連れて行ってあげて、思う存分バクダッドの高校生でも銃殺させてみたらいいのかもしれない。いくら殺してもいいんですよ、どんどん殺して下さいってね。銃殺が残酷だったら、爆弾投下のボタンでもいい。ほらゲームセンターと同じですよ。これなら人殺しもゲーム感覚でしょってね。極論だけど、実際そうなっても国際平和のために(あるいは安全保障のために)致し方ないのです、とブッシュも日本政府も言うんだろう。こういうときこそ、国民投票。世論の七割は戦争反対という事実。内閣の人はそれにかこつけてこう言えばいい、「うちのおバカな国民は戦争が嫌いなもので、残念ながらアメリカ様のご意向には副えないようでして・・・。それから、戦争反対であります」ってね。


2003年3月17日(月)

『重力と午睡』

 ささやかな午後の光が入ってくる。お役目御免も近いストーブの排気音に、パソコンの真空管のうなり声、外から聴こえる小鳥の囀り。静かな昼下がりだ。昼下がりは、太陽が西の地平に向かって落ちていくように、何か仮想的な重力をそこに感じさせる。昼ごはんは消化されて胃から身体に落ちていく。脳も瞼の重みを信号のように示して眠りへいざなおうとする。あとは決断。それは決断とはいえないか。ただ午睡のために目をつぶるという決断。まるで疲弊しきった戦場のただ中にいる兵士のように、静かに目をつぶって、そして眠りがやってくる。

 太宰治「斜陽」を読んだ。彼の作品読むのはすごい久し振りだ。文章のテンポがよく考えられていて悪くない。二次大戦中やその後、他の作家が沈黙したりその傷跡に躊躇したりしたのだけれど、彼だけは無傷で筆のペースを滞らせることなく書いていたという。彼の「晩年」という自殺のために書いたという初期作のタイトルからもわかるとおり、彼にとって戦争というのは自分の抱える問題(社会主義思想と地主である家郷との齟齬)に比べれば、その背景にあるスクリーンのようなものに過ぎなかったのかもしれない。しかし背景としての戦争も農地改革などで身分の差の崩壊を誘発して、まったく関係しないわけではなかったのかもしれない。本当の晩年作「斜陽」では、戦争を含めた時代的な変遷によって変わった彼自身の問題の総決算が描かれているのだろう。


2003年3月16日(日)

『ストロベリー』

 日曜日、電話で君の声を聞く。声が心地よい。あるいは君の声だからなのかもしれない。君にあげたイチゴの苗みたいに少しずつ赤い実が育っていけばいい。太陽の光に、コップ少しばかりの水、それから優しさだとか愛情だとか。
 

『情報過多世界の小説化』

 阿部和重「インディビジュアル・プロジェクション」を読んだ。常盤響のやたらと挑発的な装丁が目を引く本で、ずっと手元にあったにも関わらず読んでいなかった本。昨日の日経の文芸評論(昨今、テクスト論(作家とテキストを分離させてテキストだけで作品を解読、批評を試みる手法)で説明のつかない作品が現れているという記事)でこの阿部氏の「ニッポニアニッポン」という作品も紹介されていたので、「そういえば・・・」という具合で手にとったというわけ。予想していたとおり、渋谷を舞台にして乱雑さ、暴力、過多な情報・・・といったものが錯綜するような小説に仕上がっていた。出てくるアイテムも、スパイにプルトニウム・・・と荒唐無稽的であるのだけれど、舞台が渋谷の〇〇通りやら〇〇店など細かく設定されていて、さらに銃器などについてもかなり細かく下調べをしているのだろう、違う世界(仮構)のように見えながらそれは現実世界なのだという実感も起こさせる。
 読む前に予想できていなかったのはその面白さ。謎を常に先延ばしにしてストーリーが進んでいくため、ページをめくらずにはいられないところがある。主人公は始めから終りまで、あの渋谷の雑踏が醸し出すような無数の情報というものに囲まれている。その情報、あるいは他人といったものひとつひとつの真偽がどこまでも曖昧なままで、結局読者は主人公とともに情報の選別や分析をしなくてはいけなくなる。そこがこの小説の面白みのひとつなのかもしれない。情報過多社会をそのままどさりと本の中に詰め込んでしまうこの手腕はただものじゃないような気がする。ただ、他の作品も読んでいかなければちょっとまだ評価を定めることができないのも確か。単に情報氾濫を問題化、あるいは揶揄化?している作家なのか、あるいはそれから先に何かを提示しようとしているのか、ぜひ他の作品も読んでみたい。


2003年3月15日(土)

『夕刻の散歩者』
 
 夕刻の空気の色合いが好きだ。北欧絵画展で観たような冬の世界を歩く。西の山際からオレンジ色の陽光が凍った路面をところどころ輝かせる。画家だったら目を細めてそこに僅かな光をもたらすために絵筆をおくことだろう。軒下の楽器のようなつららに、雪の間から覗く枯れた紫陽花の花、雪に埋没した青い車、そうした不思議が目を楽しませる。犬を連れた散歩者は夕陽の方角に向かって帰路につく。


 ヘンリー・ジェイムズの「嘘つき」を読む。彼の作品は高校のときに「ねじの回転」と「デイジーミラー」を割と面白く読んだだけで本当に久し振りだった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、心理分析的な小説を発表し、後のプルーストやジョイス(どちらも未読)の出現の礎となったようなことが書かれてあった。
 表題作の他「五十男の日記」と「モード・イブリン」という短編を含んでいたのだけど、読んで思ったのが、主人公は主体ではありながら、常に読者の目から客体としてさらされているといるということ。主人公の思っていることが必ずしも正しいわけではなく、一方的な思い込みに加え、人間的な歪みまで認められる。そうなると、僕らは主人公の目そのものを疑って、主体を客体化せざるえない。そうして、彼の血統を引いているはずのイギリスの現代作家カズオ・イシグロの語り口との類似性に思い巡らさざるえない。「日の名残り」で執事の物の見方が必ずしも正しくないところや、「わたしたちが孤児だったころ」で探偵が親への美しい思い出を壊したがらないところなどを。


2003年3月14日(金)

『池澤作品について』
 
 池澤夏樹作品について思ったこと、を軽くメモ。
 彼の作品は、経歴を見てというわけではないけれど、やはりサイエンス(特に物理学)と詩を化学結合させてつくった結晶のように思える。言葉はその分子構造を想像できそうなくらいに鮮やかだし、息を吹きかけたときに残るものは詩のように余韻がある。その一方で彼の作品にも、僕から見た限りで弱点もある。それはその結晶構造があまりにシンプルで、それを削ったり砕いたりしないという点だ。ストーリー展開は、始め予想のしていなかったところにぽんぽんと飛び石がごとく跳んでいって、「おお、そうくるか」という意外性をもっているのだけれど、逆に言えば面白そうなところに跳んでいるだけで、ひとつひとつの飛び石を深く掘った跡がないように思う。確かに、そこにスコップを当ててみても、あるいは結晶を砕いたところで、その中にはわかりきったものしかないのかもしれない。どうせそれはつまらないものなのかもしれない。でもそこを掘ったり砕いたりしなければ、物事に深みは生れないような気もする。どうも彼の物の志向というものは外面に向いていて、あまり内面を掘り当てていくということにないような気もする。芥川賞の選評でも、世界を広げるような視点を彼は求めていたけれど、それは裏を返せば目新しさということもいえるわけで、日常的なものを苦労して掘り下げて何かを得ようととする力に乏しいような気もさせる。まぁそれは作家のやり方であって、批判されることではないのかもしれないけれど。・・・なんてことを生意気ながら考えた。ただし、僕も全作品を読んだわけでもないし、各作品についても読んだのは昔のことなので、これを言い切るにはちょっと読み足りないという感じなんだけど。

 
『芸術と生活、あるいは美への希求』

 トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す」を再読。
 「トニオ・クレーゲル」では芸術と生活の相克をテーマにしているが、主人公はこんなことを途中で言う。<<すぐれた作品というものはただ苦しい生活の圧迫のもとにおいてのみ生れる。>>などと。確かにそうなのかもしれないと最近ぬるま湯的な生活をおくっている僕は思う。主人公は結局どちらにもよりすぎず、芸術と生活の双方を愛し、その中道をいこうとする。
 「ヴェニスに死す」のほうは美少年への賛美を綴ったもの。同性愛的なところがよく取りざたされるし、実際にこの小説のようにストーカー的になれば確かに怪しい人でしかないのだが、ここでの少年への愛というのは芸術家にとっての美に対する強い憧憬なのだ。もともと主人公がヴェニスに旅したのも美への希求によるものなのだけど、はじまりの水路のゴンドラの場面もすでにその反対にあるはずの死が色濃く表れている。そうして彼が惹かれる少年も薄命そうな感じでしかない。街もペストの不安に苛まれ始めている。死と生、汚れと美、暗鬱と解放というような対立軸をおくことで小説は緊張感をもったものになっているのだ。


2003年3月13日(木)

『20億光年の孤独』

 一階の居間の窓がとうとう9割かた雪に埋没してしまった。日中の春を告げようとする日差しによって屋根から落雪があるのに加えて、春らしい湿った雪が次々とふるからだ。太陽は、窓の上部に残ったわずかばかりの隙間から光を部屋に放っている。僕はその隙間を眩しく見上げる。残りの窓の9割にはまるで氷河の断層のような氷の層が見える。まるで穴蔵にいるような気分にもなる。
 池澤夏樹の「スティル・ライフ」を再読。すばらしい。久し振りに感性のレンズが透き通っていくような印象をもった。読んだ前と後では世界の見え方が違ってくるのだ。
 スティル・ライフでの登場人物は題名のとおり、きわめて静謐な生活を追っている。ここには、宇宙(あるいは自然)と自分の間にある社会的な要素が省かれている。20億光年の孤独にくしゃみをした谷川俊太郎の詩を思わせるような小説ともいえる。ふたりの登場人物は、雑多な介入者(テレビやラジオや近代科学がつくりだしたもの)を無視して、直接的に宇宙と交信している。(勿論、交信というのは言葉のあや。)谷川氏について、誰かが「宇宙を感じて生きている」と形容していたのだけど、それに共通するものがある。自分の中にある世界と、外側にある世界である宇宙、その<<二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過すのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。>>という言葉どおりに、登場人物は自然に身体を委ねようとする。
 その一方で、谷川氏が20億光年の孤独にくしゃみするように、そこには「孤独」が関わってくる。結局、他者を排することで、自分と宇宙との対話というものが成り立つからだ。おそろしいほどの孤独にあるからこそ、人は宇宙の中に自分の身体を感じることができる。ものごとを純粋に考えることもできる。そうして宇宙と自分の内部世界との交信が可能になる。
 実は芸術に向かい合うということは、この孤独と向き合って、内部世界と外部世界を呼応させることにあるような気がする。結局のところ、20億光年の孤独にくしゃみするしかないのだろう、とも思う。


2003年3月12日(水)

『春眠はやってくるけれど、春はまだ氷の中』

 何か眠気の付き纏うような一日。PCに向かって小説を書こうとしても、ストーリーにたどり着く前に、眠気を放つ植物に絡め取られてしまう。花粉でいっぱいの重たげなおしべを上に見ながら花弁の中に包まれて、僕は夢見ている。
 カポーティの「ティファニーで朝食を」を読んだ。僕にとって相変わらずカポーティの評価は上皿天秤の針のように定まらない。この本には表題作のほかに、「わが家は花ざかり」、「ダイヤのギター」、「クリスマスの思い出」が収録されている。それぞれ作風が微妙に違っている。ティファニーはニューヨークを舞台にして、自由で奔放な女の子を描きながら洗練されているし、わが家〜は南米文学風の味付け、ダイヤとクリスマスは古き良きアメリカ南部のお話といった趣だ。カポーティの作品は僕を唐突に感動に突き動かしたり、読まずにはいられないほどに熱中させるという類のものではない。ただ、何かがまるで陳列ケースの中で忘れられた宝石のようにあって、ときどき輝いてみせるといった感覚がある。そしてそれを認めた後に寂しさや静けさのようなものを残る。もう少し、彼の作品は読まないとその良さがわからないような気もする。ということで、読みませう。


2003年3月11日(火)

『なんでもない一日』

 確定申告でもしようと思ってバスと地下鉄乗りついで税務署に行ったのだけど、結局「申告の必要なし」と言われその場でUターンしてとぼとぼ。税務署の周りはなぜか冷たい風が吹き荒れていて少し身体を冷やしてしまった。帰りの地下鉄で姉妹のような綺麗な母娘を見れたのがせめてもの慰み。
 家庭教師は高校の内容を教える。アボガドロ数とかmolとか、久し振りすぎて懐かしい。そうしてどうせやるなら多少高度なほうが面白いような気もした。
 「彼岸過迄」読了。新聞小説ということもあって、プロット(特にストーリー展開)なしに書き出したのだろうけれど、全体としての構成が弱い気もした。前半あれだけ敬太郎の探偵話などを持ち込んでおきながら、後半の話の主題はその友人の須永の結婚や出生も絡めた強い理性(脳)と弱い感情(身体)の揺れ動きにあり、敬太郎は話の萱の外だし、彼が何か良くも悪くも影響を受けたということが感じられない。主題の展開の仕方も、やや弱いかな。理性が純粋な感情の発露を抑えてしまうという当時の(今もだろうけど)知識人の悩みを書き綴っているはずだけど、そこに出生の秘密を混ぜてしまったことで今一焦点がぼけてしまったような印象も受けた。とは言え、心理的機微に富んだこれだけの小説を書ける人は漱石以外にいないこともまた確か。


2003年3月10日(月)

『昔の人が羨ましい』

 漱石の「彼岸過迄」読んでる。手元にあって読んだような気がしていたのだけど、実は読んでいなかったという本。このタイトルは新聞連載を元日から始めて彼岸過迄つづける予定だという意味なのだそうだ。タイトルからしてユーモア?に富んでいるわけだけど、中身も期待を裏切らない。大学を出たばかりの、堅実と冒険の両方に振り子時計のようになっている青年がはじめ出てくるのだけど、占い婆さんは出てくるは、就職を頼みにいけば探偵をやらされるはで、軽妙にして意外な手を序盤戦から打ってくる。新聞連載もこんな小説があったら毎日が楽しみだろう。ちょと羨ましくなった。
 話を横道に逸らせてみるが、僕は思いつく限り新聞の連載小説を読み通したことがないような気がする。なんとなく覚えているのは椎名誠の「銀座のカラス」と筒井康隆の「朝のガスパール」くらいのものだ。ただ覚えているからといって、何か面白かったとかそういう記憶もないわけで、始めからあまり期待していないという感じすらする。例えば、新しい新聞連載が始まるとして、どんな作家のものだったら嬉しいだろう。ポール・オースター(たまらないだろうなぁ・・・そのためにその新聞をとってもいい)、村上春樹(なんか違うような気もする)、ジョン・アーヴィング(案外、読みきれなかったりしそうだな)、平野啓一郎(10年後くらいに実際書いてそうだけど、どんなものかしら)、江國香織(いいかも)、島田雅彦(多分読まない)、堀江敏幸(いいね)・・・、そう考えているとやっぱり昔の作家のものが読みたいな。漱石、鴎外、志賀直哉・・・。お休みのところ申し訳ないですけど、どなたか復活して頂けませんか?


2003年3月9日(日)

『抵抗することすら必要ない。足ることの喜びを知っていれば』

 朱雀氏のHPのリチャード・ブローティガンについての文章を読んで、久し振りに彼の作品「愛のゆくえ」に手がのびた。かれこれ十年ぶりで、その頃はまだ村上春樹に特別の思いいれをもつことになるなんて夢にも思ってなかった。この本にはその春樹氏の文章の匂いがする。というのは春樹氏がこの当時若いアメリカ人に支持されていたブローティガンやヴォネガットの影響を受けた作家だからだ。
 巻頭言にある献辞がいい。
<<フランク
 なかに入って――  小説を読んでくれ――  それは居間の  テーブルの上にある
 ぼくは二時間  ほどで  戻ってくる   リチャード>>
 こうした親密感のある言葉でいいなと思う。ただ小説自体は、前半結構感心したのだけど、後半のサンディエゴからティファナにかけての文章がやや冗長気味かな。
 彼はケルアックなどのビート・ジェネレーションの終りに現れた作家なのだという。あとがきがわかりやすい。
<<ブローティガンの作品に一貫して流れているものは、物質文明の拒否とその文明社会からの逃避である。逃避というよりは絶縁といったほうが適当かもしれない。>>
<<ビート・ジェネレーションの作家たちは現代の物質文明に強烈な抵抗を試み、自分たちこそ祝福された人間であると積極であるのに対して、ブローティガンは抵抗もしなければ、自己主張することもなく、むしろ、ソローやホイットマンの時代の、はたして存在したかしないか定かでない自由なアメリカを憧れ、ファンタジーの世界に生きている>>
 ここまで引用して思ったけれど、このブローティガンの考え方って今の僕の生活のあり方とそんなに違いはないような気もする。かくいう僕も、ブローティガンの影響を受けた春樹氏の影響を受けているわけだから。物質文明の装置に付いているツマミをさほど上げずとも、あるレベルで満足できるし、むしろそのレベルだからこそ満足し幸せになれるのだ、ということを知りえているような気がする。


『物を書くこととは』

 オースターの「幽霊たち」を再読。すばらしい。
 読んでいると、読んでいる自分がここにいるということを意識せざるえなくなる、そういう作品。
 探偵ブルーはホワイトの依頼によりブラックを見張るように頼まれる。しかし、見張ってみて、待てど暮らせど進展がない。ブラックが部屋の中でカキモノをしている、ということまではわかるのだが、自分が彼を見張っている意味を見出せなくなる。ブラックはここでは物を書く人であり、探偵ブルーの出口のないような推理や思考はまさに物を書くという行為そのものなのだ。意味を類推し、筋道を立てようとし、何度もそれを白紙に戻して考え直し、先の見えない行為に嫌気までさしてくる・・・。
 本文中ではこう書かれている。<<書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないとも言える。そこにいるときでも、本当はそこにいないんだ。>>
 さらには、本を前にして読み方までもソローの「ウォールデン」と読む破目になったブルーの口から言わせなければならない。<<書物はそれが書かれたときと同じ慎重さと冷静さをもって読まなければならない。>>と。


2003年3月8日(土)

『抑制された演技』

 休みの日は街へ出よう。
 ポランスキーの「戦場のピアニスト」。二次大戦のポーランドを舞台にして、ユダヤ人ピアニストの運命を描いた作品。ピアニスト役をやった主演のエイドリアン・ブロディの抑制された演技が見事だった。どんな悲劇にも激することなく、哀しげな表情だけでとどめているのがよかった。演技というものは、外にうちでていくものと、内に秘めるものと二種類あるのだと思うけれど、演技者ならば外への感情の発露は上手くても当然、むしろ内に秘めたものが視線や表情などからにじみ出てくる演技を僕は評価する。彼の他の演技も見てみたい。映画はポランスキーらしく良くできているなぁという感じ。ゲットー内のドイツ兵に強いられた投げ槍的な喜劇とも言えるダンスシーンに不釣合いなカップルを組ませるところなんてほとんどあざといといってもいいくらいだけど、やっぱり上手いんだろうな。彼自身、幼少時ゲットーに入れられ、母をアウシュビッツで亡くしているそうだ。映画の中でピアニストに起こる家族や親友たちの悲劇を淡々と描いたのはそうした原体験の哀しみがあるからなのかもしれない。本当に哀しみを知っている人は、哀しみをむしろ抑えてみせるものなのかもしれない。
 映画を見て、友達とイタリアンを食べたり。ようやく美味しい店に巡りあったかも。でも、まだ頑張れば作れる範囲かな。食事の楽しみはやはりお金をけちってはできないのかもしれない。だけど、今はね。
 友達といるときの優しい時間の流れ。そのきれいな黒髪を触りたくなるのだけど、踏みとどまって手をコートのポケットに入れている。これ以上、視線のやりとりとかやっていると我慢できなくなっちゃうじゃないかなとも思ってしまう。発露を許さない演技というものは難しい。今は優しくしたい人がほかにいるから。


2003年3月7日(金)

『怒りとその無力感を湛えた小説群』

 ネムネムだから、簡単に。
 「フォークナー短編集」を読んだ。フォークナーにはなぜかしらんずっと苦手意識があって初めて読んだわけだけど、結論を言えば、もっと早く読めばよかった、という感じ。8つある短編のうち、「乾燥の九月」という作品がよかった。白人のオールドミスが黒人男性から暴力を受けたということから真相をはっきりさせないままにリンチに向かう白人男性の集団。その中に、黒人青年の誠実さからそれは白人女性の妄想に過ぎないと信じる者もいたわけだが、結局集団の勢いをとめることもできない、という話。文章力には舌を巻くところがあった。月光に砂埃が舞うところなんか上手いと思った。それに怒りを湛えた抜き差しならない情況やそれへの無力感の描き方なんかも。今後は長編にも手をつけていきたい。


2003年3月6日(木)

『はじめてのビートニク』

 ジャック・ケルアックの「地下街の人びと」を読んだ。ドラッグやセックスという若者の奔放な生活を書いた小説だけど、彼がここで書きたかったのは失恋の痛みでしかないような気がする。黒人女性マードゥとの出逢いから別れまでを一挙に書き綴った小説。彼は実際、3日間でドラッグの力も借りて書き上げたらしい。となると、文体はビートにのるように一息に読ませるはずなのだけど、その文体が案外読みずらく引っ掛かる。これはもしかしたら翻訳の問題なのかもしれないとも思う。もう一度読みたいかと訊かれたらどうだろうと思うだろう。その一方でこの小説のように身体を欲望のおもむくままの享楽に委ねて、ときに愛の喜びと痛みを知り、それでいて仕事をこまめにこなしてささやかな夢を見ているのも生活スタイルとして悪くないな、と思う。


2003年3月5日(水)

『ジャズ的な小説』

 ボリス・ヴィアンの「日々の泡」を読んでいる。なかなか面白い。
 その前まで読んでいた19世紀の誇るドストエフスキーのきちんとした文体から、突然20世紀フランスの砕けた文体に変わって、最初読みずらいったらなかった。主人公とその友人の食事のときの会話で、ウナギのパイのウナギをどこから捕って来たのかという話になって、それが洗面台の水道管からやってきたのだというあたりでは「なんだこれは?」って感じだったのが、さらにその後で友達が水道管に夜通し釣り糸を垂れていたのにマスしか釣れなかったというあたりで文章の心地よさがわかってきたという感じだった。文章は、破調気味であり、詩的。恋愛の場面では、文体の崩れが妙に舞いあがる心情を伝えて見事だ。
 そうして、ふとヴィアンの経歴を見ると、彼はパリのジャズ・トランペット奏者だというじゃないか。ああ、なるほどねって思った。ドストエフスキーが形式を重んじて重厚な感動をもたらすクラシック音楽ならば、ヴィアンの作品はジャズというわけだ。音のリズムや音の調子を変えていくように、言葉を変えていくのだ。彼の生活を染めている音楽の形態が、そうして恐らくそれが彼の生き方そのものだと思うのだけど、小説の中にも如実に表れているのだ。パリの夜に響くジャズの軽快でときに胸が痛くなるようなトランペットの音が、この小説の中に入っている。


2003年3月4日(火)

『読書に耽る火曜日』

 また一日中、読書してしまった。おかげでカラマーゾフも読了。(以下ネタバレ)
 おとといのダイアリで、殺人事件の今後の展開で、容疑者となっている長兄ミーチャを次兄イワン、あるいは三男アリョーシャが助けられるのか、ということを書いた。しかし、話は違う形をとっていく、次兄イワンは真犯人であるスメルジャコフが自分の思想の悪魔的手先として暗躍することに苦しむ。殺人は自分が考え出し、スメルジャコフにそれを吹き込んで実行させてしまったことに考え悩む。そのため長兄ミーチャを救うというよりはむしろ自己との葛藤となっていき、半狂乱状態になってしまう。三男アリョーシャは前半あれだけ長老の教えのもとにいたのだから、無神論者の行き詰まりに対して、キリスト(ロシア正教)思想 で全てを包む力を発揮するのかと思いきや、案外それが弱い。アリョーシャは主人公でありながら、物語を動かしているわけではない、むしろ脇役に甘んじている感すらする。
 後半で読み応えがあるのは、ミーチャを裁く法廷での判事と弁護士のやりとりだ。特に弁護士の論には力がある。粗暴や残忍なものほど実は美しいものと高尚なものに飢えているのだ、という弁護士の言葉は心に残った。
 小説として残念だったのは、
@キリスト思想と無神論の対立軸を前半にそれぞれ長老とイワンの意見として出しておき、その実例として殺人事件をそれぞれの思想がどう解決するのかというところに着目していたのだけど、結局その事件を起こしたのが無神論者陣営で最後は勝手に自滅してしまったところ。アリョーシャの思想的な成熟を認めることができなかったところ。
Aスメルジャコフという悪魔的な人間を出しておきながら、彼の最期が呆気ないこと。
B貧乏人の子供イリューシャや天才的少年コーチャを物語の途中で無理やり登場させておきながら、全体の話の流れとは独立してしまっていること。(恐らくドストエフスキーの構想では書かれたかった第二部の中で彼らの話を続けるはずだったのだと思う。)同様に、カラマーゾフ家三兄弟の今後がクエスチョンマークのままで終わってしまっていること。漱石の「明暗」とまではいかないけれど、続きがあるような期待をもってしまう。というか、続きが読みたい。


2003年3月3日(月)

 雛祭りだったけれど忘れていた。こうやってダイアリをつけていて思い出す。
 小説を少しずつ進めていく。ようやく大まかなストーリー展開が立ってきた。妥協のないようないい小説を書きたいと思う。   


2003年3月2日(日)

『読書に耽る日曜日』

 カラマーゾフ、三分の二くらいまで進んだ。
 この話、ちょうど折り返しにある殺人事件の展開からぐっと面白くなる。そこまで長い導入と考えてもいい。前半は、イワンの無神論、それとゾシマ長老のロシア正教の思想の相違が面白い。両者の思想を読んでいってわかるのは、神の愛について能動的に働きかけるように努力するか、受動的に待つものでしかないとして捉えるかという違いが大きいのだと思う。ほとんどの人は受動的に神に対する。神の愛は与えられるものだと考えている。だからこそ、キリストのような生ける聖人であったゾシマ長老が死んだとき、彼から死臭が漂ったことに対して人々は(教会の僧たちですら)何か裏切られたもののように感じてしまうわけだ。彼らは愛されることばかりを求めているがゆえに、失望する。結局、長老の言うところの<<人間はただしき人の堕落と汚辱を好むものだからである。>>という行為を人々はとっていく。愛された過去を忘れ、長老が肉体的に聖人でなかったことに失望を隠せないし、それを貶めようとすらする。対立する思想をもつイワンはそうした人々の愚かなふるまいに対して諦めの境地に立っているように思える。結局、多くの人々は求めることしかしない。何かの庇護に入ろうとしているだけなのだ。神はその庇護を与えてくれる存在でしかないのだ。というふうに彼の理論は発展していくわけだ。イワンは彼自身が言うように、神を否定したいわけではない、逆におおいに肯定したいくらいなのだ。実際、ゾシマ長老との会談においても彼は長老の話に耳を傾けている。長老もイワンも恐らくお互いの言いたいことがわかっている。それでも、人を愛し、たとえ悪人であってもその悪を制することができなかったということでその悪の罪深さまでも自分に引き受けようと究極的に我が身をも与えるのが長老の姿であり、一方、神の愛を解せない人々の内面を見捨てて、むしろ外から彼らが欲しいものだけを与えてあげよう(どうせ彼らはそれで満足できるのだ)というのがイワンの姿に違いない。長老はすべての人の罪深さを引き受け、まるで母のように全ての人々を同じ目線で愛する。イワンは罪深さを嫌い、それを裁くために人々の上に立とうとする。
 殺人事件は、カラマーゾフの血が起こしたものと考えるならば、次男イワンも物語上、関わらないで済むことはないだろう。イワンは容疑者として挙げられた長兄を救おうとするのだろうか。彼には自分の思想が足枷になって救えないのではないだろうか。彼の思想では悪を許したり受け容れることができず、裁くほうばかりに目がいってしまうのではないか。むしろ救えるとしたら、長老の思想を受け継いでいる三男アリョーシャではないだろうか。恐らく後半でドストエフスキーはそれを語っていくに違いない。結局、神の愛、それも与えられる愛ではなく、与える愛をもつことの重要さ、正しさを彼は強調していくのだろうと思う。