2003年5月31日(土) 

「皐月もおしまい」
 
 雨音聴きながら家でじっとしていた。本当は洗濯機回してから、どこかに出かけたかったんだけど、天気ばかりはどうしようもない。せめて近くにぼんやりできる喫茶店でもあるといいんだけどなぁ。
 夕方びしょぬれの郵便配達のおじさんが速達をもってやってきた。あさって提出する書類がごっそり入っている。たくさんサインしてハンコを押す。扶養者関係の書類を全てパスできる分だけ楽だけど、いつかそんなものを書いたりする日もくるんだろうか。

 
 サリー・ポッター監督の「耳に残るは君の歌声」。ロシア、イギリス、フランス、アメリカと故郷をなくして、舞台俳優をしながらさすらう女性(クリスティーナ・リッチ)を追った映画。ナチスの影などが見られるものの、物語の繋がりや意味は弱い。どうもサリー・ポッターという人は昔観た「オルランド」という一風変わった映画からも思うことだけど、衣装や時代考証を含めた舞台演出のほうにより才能のある人のような気がする。この映画でもオペラの美声に包まれた壮麗な舞台が楽しめるし、映画自体も半ば舞台的な仕掛けになっている。ただし、ストーリーに深み(主題のようなもの)があるわけじゃないから、どこか物足りなさを感じてしまったりもする。


2003年5月30日(金) 

「働くんです」
 
 一週間が終わった。バイトも最終日。GIS関係の仕事が結局なくて、最後の数時間軽くアドバイス的な話でおしまいになってしまった。今週出張中だったワンゲルの先輩にも、社長にも挨拶できずじまい。「えっもういなくなっちゃったの?」そんな感じだろう。
 今回の就職の勝因を今一度自分なりに分析すると、恐らく事前に送った経歴書と二次試験前に送った志望理由書の2つがよかったのではないかと思う。話すのは得意でないので、書くほうで好印象を与えるようにしっかり推敲したからね。志望理由書だけは誰にも負けないつもりで書いたもの。きっとあれで決まったんじゃないかなと思う。実際、最後の面接はほとんど形合わせって感じだった。それともう一点あげれば、僕のアピールしたこと(経歴が変わっているけど、その分、他の人には出せないアイディアを出せるはず。)と、大学側の求めているものがうまいこと合致したのだろうと思う。全体的に運がよかったということは言うまでもない。
 来週からいよいよ働くわけだけど、非常に楽しみだ。きっと嫌なこともおいおい出てくるんだろうけど、そういうハードルもひとつひとつぴょんぴょんと跳んでいくなり、跨ぐなり潜るなりしていけたらって思う。兎に角、楽しもうという心構えがあれば、全て楽しくなるんじゃないかなって思う。誰かさんは甘っちょろい!なんてきっと言うんだろうけど。


2003年5月29日(木) 

「旅先の繋がり」
 
 去年、旅先のタイ北部でお会いしたEさんからメールを頂いた。去年と同じような日程で今度はベトナムをハノイからホーチミンまで縦断したということだった。一年前のタイから、スコットランド、中央アジア、そして今回のベトナムと旅に行くごとにメールを下さって、その丁寧さにも驚くけれど、やはり普通の社会人として働かれていながらここまで旅を重ねられているとことに驚嘆せずにはいられない。就職が決まったことをメールすると、すぐに返事を返して下さって、東京にいるのなら遊びにきませんか?(確か麻生のあたりに住んでらしたはず)ということだった。・・・ということで近いうちに遊びに行こうかなぁなんて思ってる。多分、それでSARSよりも罹患性の高いSATS(SevereAcuteTravelSyndrome;重症急性旅行症候群)に罹ってしまうことは間違いなさそうだけど。

 
 池内了の「物理学と神」(集英社新書)。コペルニクスやニュートンといった近代自然科学から、ホーキングらの活躍するビックバンなどの最新の宇宙学までを網羅しながら、物理学の歩みを追った本。どうして、どのように物理学が発展していったのかということがよくわかる仕組みになっている。こうした本を高校くらいのときに読んでおくと、その先の科学への見方も変わっていくのだろうと思う。(実はこの本はりりかさんという高校を卒業したばかり?の女の子のWEB上の日記に触発されて読んだわけだ。)
 それにしても池内氏の凄まじい知識には舌を巻かざるえない。こういう人の脳ってすごいんだろうなぁ。物理学と神という互いに反目したり接近していったりする関係性もまた面白みがある。一流の科学者としての脳をもつ池内氏の考えでは、科学者は自分を神様に代わるものだと奢り高ぶってはいけない、どうせ私たちは仏様の手の平の上でわかったようなつもりでいるのに違いないのだから、という極めて控え目なところに落ち着いていくのでした。


2003年5月28日(水) 

 バイトの仕事とてもうまくいってる。雰囲気もいいし、残り二日というのがちょっと勿体ないくらい。小さな会社の割にはワールドワイドで、(フィリピン出張中の)社長の机の後ろにはでかでかと南米の地図がはってあり、休憩室には地球の歩き方がかなり揃っている。来週からの新しい仕事が始まれば、また旅にいく資金もできるだろう、夢は広がっていく。


2003年5月27日(火) 

 バイト先の会社は7階にあるのだけど、そのベランダ先に鳩が巣をつくって二羽の子を育てていた。鳩は今日どうにか巣立っていったのだが、その後これ以上鳩の巣になるのはまかりならんということでベランダの大掃除でどた・ばた。人間と鳩との攻防は滑稽な感じがした。そういうのがまぁ日常ってものなのかもしれないけれど。

 
 ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」。うまく人に伝えにくい面白さが映画の中に漂っている。主人公は一貫して、まったく自分本位な人間で、それは最後の最後まで変わらない。それでいて、自分を置いたまま何かが立ち去ってしまうことを怖れている節がある。それなのに人に対して率直な感情でいることができないから擦れ違いが起ってしまう。そうした主人公を取り巻く人間関係が乾いて空虚さのあるモノクロ映像として描かれている。ニューヨークの彼の部屋も、雪のエリー湖も、マイアミですら、風景は理解を拒むようにそこに転がっている。そうしたやるせなさは、確かにヴェンダースの「パリテキサス」とか、あるいはコーエン兄弟の「ファーゴ」や「シンプルスリラー」なんかを思い出させる。
 恐らくこの主人公だけしか出てこなかったらこの映画は退屈の極みだったろう。それを緩める役割をしているのが彼の親友だ。四人で入った映画館で一人悦に入って満足してスクリーンを眺めているシーンなんか最高だと思う。
 最終的には従兄の女性を交えた三人の人間関係を追っていくのだけど、擦れ違いはどんどん大きくなっていき、最後にはすべてが空中分解する。相互の理解など全くありえないかのように。移民の集まりであるアメリカという国での個人同士の結びつきを示唆でもするかのように。


2003年5月26日(月) 

「最終面接」 

 27→9まで絞られていた。二次で同じグループだった人は皆ダメだったみたいだ。厳しいね。
 七人くらいの面接官から質問というボールが飛んでくる。それを打ち返す、できるだけ、きちんと正確に。
「あなたの性格テストの結果から、オーバーワーキングになりやすいという結果が出ましたが、どう考えますか」
「筆記テストの結果から、理数系に強い一方で、完遂力がないという結果が出ていますがどう考えますか」
「あなたの話ではサポートという言葉が度々繰返されて、それがキーワードなんだと思いますが、今一度サポートという言葉について説明して頂けますか」
「前の仕事をやめてから何をされていましたか、そしてどうしてこの職業を選びましたか」
「年齢差のある人と仕事をすることについてどう考えますか」
「これまでやってきた仕事で何を得ましたか」
「修士論文のテーマは何ですか」

 難しい球には小考してゆっくりとボールを打ち返す。まっすぐのボールには何も考えず打ち返す。

 連絡がこないところをみると落ちたかな。

 ・・・・・・20:25 運命の電話。採用されましたーーーー!嬉しい。
 来週から女子大で働きます。


2003年5月25日(日) 

「誰も言わなかったこと」 

 友達と電話していて、「君はスポイルされて育ったんだよ、甘ったれなんだよ」って言われて思わず笑ってしまった。そんなこと言われたの初めてだったけど、自分でもよくわかっていたことなんだ。「きっとみーんなそう思っているんだよ、でも言ってないだけなんだよ」って、そうなんだろうなぁ。「理想ばかり言ってないで、馬車馬のように働く必要が絶対あるよ、そして絶対に逃げないことが大事なんだよ」
 とりあえず、明日の面接を突破しよう。

 
 恋愛というものが人を高めることは間違いない。結果的に何かしらの良い影響を受けるということだけでなく、相手の心情を理解していくという能動的な過程においても。恋愛を洗練するには、より意識的に計算せよというのが、福田和也「悪の恋愛術」(講談社現代新書)。なかなか面白いし、いろいろ省みらざるえないところも多かった。<<多くの人は、物事を単純に見ることを好みます。複雑さをときほぐす興味も面白さも理解しようとしないのです。むしろ、複雑な文脈を投げ出して、白か黒かをすぐに決めたがる。純粋か、不純か。善意か、打算か。物事を単純に見るということは、同時に自分をも単純にしてしまうことに気がつかない。(略)行為自体が持つ意味と、その動機を区別して考えることができないのですね。>>

 
 河瀬直美の「火垂」。どうかなぁ。主人公の周りで次々と起こる親しい人の死、そのどうしようもない喪失感のある世界がぼんやりと描かれているのと対照的に、主人公がストリッパーとして踊るお立ち台はぎらぎらと光ってどぎつい。消えそうなぼんやりした死のイメージとどきつい生のイメージが、徐々に融合していくことによって主人公は再生していこうとするわけだ。しかし、あまりにイメージの差が大きすぎて、それを埋めるにはこちらの器の大きさも要求されるような気がした。
 それから強い喪失感の度に、主人公は壊すとか燃やすという行為や現象からそれを埋めていこうとする。確かにその意図はわかるのだけど映画の中ではちょっとわかりにくいような気もした。僕の器が小さいからかもしれないが、どうもこの主人公と一体になりきれないという感覚が最後に残った。


2003年5月24日(土) 

「宇宙語で話せるということ」 

 Kさんと吉祥寺で遊ぶ。自然体で接することができるので一緒にいても楽しい。これを僕らは宇宙語で話をすると表現してるわけだ。まるで同じ星から来た仲間と語っているような気楽さ。初めて会ったとき、まさかこういう友達になれるなんてお互い思ってなかったと思う。不思議な繋がり。
 甘いもの食べながら空想癖の話をしたのだけど、彼女のそれがかなり細部にこだわりをもって独立していることに驚いた。僕にとっての空想は常に現実世界との繋がりや意味を考えていくものであり、結局のところそれが純文学だというふうに捉えている。彼女がエンターテイナーでありえているのは、現実世界と全く別個の世界を構築できるところにあるのかもしれないなどと思ってみたり。

 夜、新宿で大学の研究室の仲間と飲む。卒業して初めて教授にもお会いした。僕は、就職してから専門とかけ離れたことばかりやっていて、もはや軌道修正不可能なところまで飛んでいってしまったから、ずっとお世話になった教授に会いづらかったのだが、今日はなんだか素直に話すことができた。僕も少しエゴとか顕示欲がなくなったのかもしれない。実際のところ、最近は就職難で、専門分野からかけ離れたところで働いている人も多いということだった。森ビル、スタバ、バーニーズ(アパレル)・・・なんかに勤めている後輩がいたくらい。専門をやるのなら民間に口がないため必然的に公務員になるしかないそうなのだが、霞ヶ関で働くのも家に帰れないほどの激務激務で大変らしい。そうやって聞いていくと、僕ってかなり恵まれているんじゃないかな、なんて思っちゃった。やりたいこと、全てやっているものね。ストレスも今はゼロだし。


2003年5月23日(金) 

「ディベート初体験」 

 面接試験を受けに行った。そうしたら、「今日はディベート試験に変更しました」なんて言うからびっくり。お題は「株式会社の学校参入について」、面接官の前で肯定側否定側五人ずつに別れて討議し合うという内容。僕はくじで肯定側に回った。ディベート初体験で、始めの打ち合わせもおっかなびっくり意見を聞いたり言ったり。帰り道知ったことだが、現役の他大学(←この大学の嘱託職員急募に実は今朝速達で履歴書を出したばかり。)職員も転職で受けに来ていて知識量も全然敵わなくて気が焦るばかり。それから一人一人立論していくわけだけど、僕の順番が最後だったから助かった。皆の意見をまとめて、そこに新しい考えを混ぜこんで言うことができるわけだから。他の肯定側の人たちがコスト面の話を中心にしていたので、僕は地域社会との関係性をそこに加えてしゃべるつもりだった。が・・・、どうも口述というものが昔から得意ではなく、自分で話していても論理性に欠けているところが多いことがわかるし、慌てると語彙も出てこない。(これが筆記論述なら多少自信はあったのだけど。)
 他の人の論述を聞いていて思ったのは、彼らが一様に局地的なところを気にするのに対して、僕は「まとめたがり屋」だということ。(そういえば前の会社の研修時にもそんなこと言われたな。)「先ほど出てきた反論は三つにまとめられます。一つは・・・」とか「企業、地域、全体という三つの観点から述べます。企業の観点からは・・・」という調子でやっていくのがどうも好きなようだ。もしかしたら理系教育がそうさせているのかもしれない。ただ、まとめているようで実際には論理的に説明できなくて、反省ばかり。そこで終了のホイッスル。
 これは落ちたと思った。・・・そうしたら、さっき電話がかかってきて、何をどう判断したのか知らないけれど、今日の二次試験は通過だって。次がいよいよ最終なのかな。こうなったら最後まで残りたいよね。自由の女神まで行っちゃいたいよね。

 
 シャミッソーの「影をなくした男」。表紙の挿絵の面白さと、題名に惹かれて読んだ。悪魔との取引の末、金貨の袋と自分の影を交換してしまったシュレミール。ドイツ文学だから、カフカばりに話が展開するのかと思いきや、最後は意外な展開を見せる。作者シャミッソーの家は元々フランスの貴族だったのだけど、フランス革命によって国を捨てドイツに渡り、そこでドイツ士官となって祖国フランスとのナポレオン戦争を戦ったのだという。彼の経歴から、影=祖国、を意味すると後世の人は考えたらしいのだけど、訳者・池内紀氏はそれは深読みだと言う。作者は恐らく潜在的には影のイメージをもっていたとは思うけれど、ただ何気なく物語を書き上げて、それが世間に受け容れられたに過ぎないのではないかと思う。むしろ、受け止める側の世界こそ、影と向き合わなければいけないものだったのかもしれない。


2003年5月22日(木)

 少しずつこの生活パターンにも慣れてきた。通勤電車は込み込みだけど、行きはずっと(一時間も!)座ることができるから案外大変でもない。あの微妙な揺れの中で本を読むのにも慣れてきた。何にでも人間は慣れていくみたいだ。習慣は第二の天性なんて言葉もあった。
 明日は面接。訊かれそうなことはすらすら口をついて出てくるようにしておくつもり。だけど、こういうときに限ってお腹の調子が下り坂。敵は露西亜じゃないけど、とりあえず征露丸でも飲んでおくかな。

 
 加藤典洋の初期評論を集めた「日本風景論」(講談社文芸文庫)。様々な太刀さばきで、村上春樹や今の天皇の1959年の御成婚などを論じていく。切り口の斬新さに思わず膝を打ちたくなるところもある。一方で、そこまで言い切れるものなのかと首をかしげてしまうところもある。
 僕が一番面白く思ったのは、カメラの登場によって風景というものが認知されるようになったということと吉本ばななと少女漫画の類似性を論じた「風景の影」という最終章。とりわけ川本三郎氏の「感覚の変容」より引用した文章がいい。(つまりこれは川本氏の文章がいいということなんだけど。)
<< それにしても、荒野にまっすぐに伸びた一本の道とか、草原にぽつんと立っている電信柱といった風景が、どうしてこんなにもひとをひきつけるのだろう。おそらくそれは、風景の極大とそれを見ている個の極小という極端なアンバランスゆえにちがいない。風景がからっぽであればあるほどひとは世界の広大さを思い知らされる。同時に極小単位としての自己の明確な姿を鮮明に意識する。からっぽの風景は、世界の大きさと、それに対峙する個の小ささ、それゆえの個の強さを明快にする。広大な世界にひとりで立ちつくしていることの不安と恍惚を呼びさましてくれる。>>
これに補足として、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(未見)、ヴィム・ベンダースの「パリ・テキサス」、ロバート・フランクの写真(これも未見)に言及していくあたりが面白いと思った。
 加藤氏はいろいろな切り口を見せてくれるし、彼自身の評論のスタイルというものもわが道(とっつきやすい田舎道)を行くという感じで悪くないから、それぞれについて書いてもいいところなのだけど、そうすると際限がないし、電車で読んだせいで何一つメモもとらなかったから今夜は割愛。また違う本を読んだときにでも、考えてみたい。 


2003年5月21日(水)

 お弁当をつくってみた。そういうのも悪くない。
 久し振りにエクセルで集計したりグラフつくったり。VBAは忘却の彼方で参っちゃう。
  
  
  ローランド・ズゾ・リヒターの「トンネル」を観た。ベルリンの壁の下に西ドイツ側からトンネルを掘って東ドイツ側に残された友人や恋人の脱走を企てようとする実話を描いた作品。数々のドラマを混ぜ込んで、暗いトンネルの映像が多いのにも関わらず、いい作品に仕上がっている。似た形式の映画として「大脱走」を思い出すけれど、こちらのほうが人間ドラマとして優れている。観ているうちにまるで自分が仲間の一員になって、哀しんだり喜んだりしていた。


2003年5月20日(火)

 雨だれの音、聴きながら夜。一日の間にいろいろなものが僕の上を通過していったのに、全てどこかに消えてしまったみたいだ。雨もやがてやむのでしょう。僕は眠り、夜のことも忘れて目覚めるのでしょう。


2003年5月19日(月)

「生活が変わる」 
 
 バイト始め。こじんまりした会社でアットホームなのがいい。どのくらいいるかわからないけど、気持ちよく働けそうだ。ただ家からはとっても遠い。うたた寝タイムが増え、読書タイムが多少確保されそうだ。まぁあくまでバイトなので楽しくやっていけるでしょう。
 帰り、知らない街をふらふら歩いたりするのも悪くない。思わぬところに坂道なんかがあったりして、好奇心旺盛な子犬のようにあっちの路地へこっちの路地へ。


2003年5月18日(日)

「パリなんて行ったことないけど」 

 「paris match」のMDをNさんから貰って以来、出かけるときはいつも鞄に忍ばせているんだけど(ちなみに聴くのはM-floとparis matchばかり)、オフィシャルサイト覗いてみたら、ボーカルのミズノマリさんの愛読書がカーヴァーと村上春樹になっていて、ちょこっと笑っちゃった。それから出歩いているのが中目黒周辺らしく、それもあの辺りのおしゃれなカフェが好きみたいで、なんかわかるなぁという感じ。一度、ライブ行ってみたいなぁ。

 
 橋口亮輔の「ハッシュ!」。これはいい。(以下、いくらかネタバレ)
 自らゲイであり、ゲイの世界を描いていくことで、自己を探求してきた橋口氏だったが、この映画では誰かと生きるという意味やそこから派生する絆をテーマに掲げている。彼のゲイの世界は、普通の人が漠然と考えるようなオカマ言葉のものではなくて、ごく当たり前の人たちが出てくるかなり日常的なものである。江國さんの「きらきらひかる」とも相通じる感覚があり、僕は多分そちらのほうが普通なのではないかと思う。彼が今回描いたものは、ゲイだけの問題ではなくて、誰もが感じることであり、非常に共感をもって迎えられたのではないかと思う。
 映画ではゲイの生き方というものが、夫婦と子供という家族の関係を一生もてないために、常に一時的な恋人関係の変遷の中で結局孤独になるしかないという未来への恐れを抱えもっていることが明らかになる。そう近代的な家族制度というものの中に、同性愛者は含まれていないのだ。そうした恐らく橋口氏も抱えているだろう恐れや不安を、じゃあどうしたらいいんだろう、と前向きに考えて見せたのがこの映画だったと思う。主人公である田辺誠一と高橋和也は最終的にひとりの女性(片岡礼子)を介して、人工受精という手段によって共同生活的な家族をつくりだすことを目指す。それがうまくいくかは実際のところわからない、でも常に未来に対して希望をもち楽観的であれば、もしかしたら血の繋がり以上の(実際には受精すれば血が繫がるわけだけど)関係を生み出すことができるのかもしれないという希望をもたせる。この非家族制度的な関係に対して、この映画の中では田辺君の兄との血の繋がりが対置されるのだけど、その絶対的だと思える関係ですら実はそうではない。死というものによって、すべてが灰燼、無に帰ってしまうことだってありえるのだ。田辺くんが最後、血の繋がりを絶たれて川辺で泣き、それを血の繫がっていない二人が見守るシーンは切々としたものを感じた。
 橋口監督の作品では、その昔、「二十歳の微熱」のセリフとは思えないような登場人物たちがぼそぼそしゃべりを使っていくという手法のリアルさに度肝を抜かれた。そのときはむしろそうしたセリフ然としない言葉のほうが、日常的な言葉として馴染んでくるような気がした。だからこそ、あの映画でいきずりのままに売春する少年たちの行動がショックであり、映画をうまく咀嚼することができなかった。しかし、ようやく彼の一連の映画づくりというものが見えてきたように思う。彼の世界への見方は、なげやりな登場人物たちにすら愛情を注ぐような、極めて真摯なものなのだ。手元にあるSWITCHの2001年11月号の是枝監督との対談の中でも、彼自身の生き方や映画づくりが商業的な妥協ではなくて、苦しい中から創作することに重きをおいていることが明かされている。ついでに、満ち足らなさや渇望というものが表現を生み出すというようなことも言っている。
 「二十歳の微熱」で主人公袴田君の彼女役をつとめた片岡礼子が、この「ハッシュ!」では素晴らしく冴えている。表面的には人生に対してかなり投げ槍なのに、内面ではまだ何かを掴もうとする思いが残っている女性を見事に演じている。他の役者もかなり上手く持ち味が出ている。田辺誠一の(人のやる気をなくさせるような)あのシャイな素っ気無さもこの映画では見事にマッチしているし、高橋和也の細やかさみたいなものまで上手く表出させている。橋口監督というのは役者の素の部分を見極めていくことにも長けているのかもしれない。今後も期待大です。


2003年5月17日(土)

「マス釣りに行きたい」 

 ニジマスを二匹買ってきて、昨晩ムニエルにしたので、今日はもう一匹を薄切りのオニオンなど挟んでトースターでホイル焼きにしてみた。なかなか美味しい。マスなんかを食べていると釣りに行きたくなる。お弁当を川岸に置いて、のんびりと透明な水の流れでも見ていることができたら素敵だろうに。そういうことを考え出すと、やっぱり北海道だよななんて思っちゃう。

 
 そろそろ古典も読んでいこうということで、まずギリシア悲劇の代表格ソポクレスの「オイディプス王」。この当時は悲劇物もたくさん書かれたらしいのだが、現在まで残らなかったものも数多いという。そうやって2000年以上の歳月の末に読むことのできるという不思議。そうして人の心の有様は変わらないという不思議。

 
 エルサレムのユダヤ人居住地とパレスチナ自治区、さらにユダヤ人入植区に住む子供たちへの取材を行ったドキュメンタリー映画「プロミス」を観た。映像や編集自体はNHKの海外製作版のドキュメンタリーを観ているのとさほど変わらないから映画としてどうのという話にはならないけれど、やはり扱っているテーマがテーマだけに考えさせられることもあった。ユダヤ人もパレスチナ人もお互い会ってしまえばフレンドリーになれるのに、どうしても歴史が背負ってきた敵対心や宗教の違いといった見えない壁がそこにある。この問題を解決するためにはやはりお互い理解し合っていくことが必要であり、そのためには平和に向けた政治的レベルでの歩み寄りがどうしても必要だというふうに思った。とりあえず目に見えている壁をとっぱらうことができれば、見えない壁だって消え去っていくものだと信じたい。


2003年5月16日(金)

「美術館巡り」 

 ワンゲルの先輩の働く四谷のコンサル会社に挨拶に行って来た。その場で来週からバイトすることに決まった。僕が二年前までやっていた技術をそこでは今後使っていきたいということで、やや複雑な気持ち。だって一度全て捨て去ったことだから。
 帰り、赤坂見附のニューオータニ美術館に寄ってみた。仙台にいるときに好きになったビュフェの絵があるからだ。だけど今ひとつ、響かず。さらに東京写真文化館の「バービー・山口写真展」も見てきた。雪がふったあとの路面の幾何学模様の写真なんかいいと思ったけれど、そのいいというレベルが雑誌をパラパラ見ていて「いいな、これ」という感覚で自分の感覚が洗い直されるわけではなかった。
 さらに東京駅まで足を伸ばして、「レオン・スピリアールト展」(ブリヂストン美術館)。意外だったのは常設のほうも結構見ごたえがあったこと。思いがけず、好きなクレー、それにセザンヌ、ルノワール、ルソー・・・有名どころ見れて得しちゃった。常設だけで帰ってきても満足できたと思う。スピリアールト展のほうもなかなかよかった。スピリアールトは20世紀始めに活躍したベルギーの画家。日常風景を、まず自分の孤独や不安といった心理状態の中に取り込み、それを心象風景としてキャンバスに移すといった描き方をしている。そのほとんどがムンクを彷彿とさせるような暗い絵ばかり。恐らくこれを買って家に飾ろうという人はよっぽどの変わり者だと思えるくらい。彼の作品の中で世間で認められているのは、彼が孤独に苛まれていた時期の絵で、結婚後の絵では感覚的な鋭さが鈍重になってしまって評価を今ひとつ得られなかったというのは面白い話だと思った。精神的な枯渇感、自己存在への苦しみ、そうしたものが彼の場合、素晴らしい作品を生み出したというわけ。

 
 エミール・クストリッツァの「SUPER8」。彼自身が参加するノー・スモーキング・オーケストラについての映画。ただちょっと中途半端。ライブならライブ、映画なら映画のどちらかで線引きしてくれたほうがよかったような気がする。どうしても音楽を取り上げたいのならカウリスマキのレニングラード・カウボーイズみたいな映画にすればよかったのにって思っちゃう。あるいはミュージカルとかね。ロマ音楽あるいはクストリッツァの映画が好きな人はついてこれるかもしれないけれど、それ以外の人はNOって突き返しちゃうんじゃない。「アリゾナ・ドリーム」「アンダーグラウンド」「黒猫・白猫」みたいな普通の(彼の場合は少し奇想天外なってことになるけど)ストーリー性のある映画が観たいです。これは彼への注文。


2003年5月15日(木)

「雨音の一日」 

 一日中、雨音や雨だれの音を聴きながら家の中にいた。学生時代はワンゲルで週末の9割は山に行ってたから家の中にじっとしているということはなかった。実際何の予定もない休日には「世間の人はこれだけの膨大な時間に何をして過ごしているんだろう」なんて思ったものだ。あれから数年がたって、僕はひとりで一日家の中にいることも多いわけだけど特に飽きることもないし、時間の流れも遅いわけではない。もっと本も読みたいし、映画も見たいし、勉強もしたいし、文章だって綴りたい・・・。それは外よりも内に求めるようになったということなのかもしれない。未知が外だけでなく、内にもあるということを悟ったからなのかもしれない。内で満ち足りることができれば人は幸せになれる。
 ・・・さっきまでバルトの本なんか背伸びして(ソファに座って)読んでたから、このダイアリの言い回しも彼のエクリチュール(使い方合ってます、バルトさん?)が移ってきたみたいだ。
 全然関係ないけど、雨で外に出る気が失せて、冷蔵庫のありあわせのもので夕食をつくった。鶏挽に、葱、生姜、ニンニク、シソをみじん切りしたものを混ぜて、酒・醤油・塩・胡椒で軽く味付けして、小麦粉で餅状にして胡麻油で焼いた。和風ハンバーグ。そこに(ノンオイルシソドレッシングをかけた)大根おろしを付け合せた。超適当だった割に美味しかった。これは、まぁレシピメモみたいなものだ。ドレッシングをかけた大根おろしは竜田揚げの香ばしさにも合いそうな気がする。今度試そうっと。

 
 ゴダールの「中国女」。主義思想宗教全てにすっからかんの平凡な僕にはちょっとって感じ。学生らしく真剣にマルクスや中国共産党について討議していっても、結局外に出てしまえば歯が立たないわけで。学生運動時代に青春した人が観るならまだしも、僕にはね。映像の中に意味を入れ込んでいくのは、本の場合と同じように好きだけど、テーマが政治的であるだけに今回はひとまずパス。
 出演していたジャン・ピエール・レオーの演技歴見てちょっとびっくり。トリュフォーの「大人は〜」のあの少年が、ここでブルジョワ坊ちゃん顔になったにも関わらず共産青年を演じ、その後人生に絶望する中年役でカウリスマキの「コントラクト・キラー」に出ているとは。

  
 ロラン・バルトの「文学の記号学」。難しい。手が届きそうで届かないといった感覚。何かが上から降り注いでいるのだけど、手を伸ばすとそれは透明でつかむことができない、そういう読書体験。こういうのは大学の授業で黒板で丁寧に教えてもらえると嬉しいけどな。本文は短く、代わりに訳者の解説が長いのだけど解説のほうがわかりにくかったりする。本文中では次の文がひっかかった。<<科学は粗雑であり、人生は微妙である。そしてこの両者の距離を埋めるからこそ、文学はわれわれにとって重要なのである。>>そのうち、透明なものが色や形をなしていけばいいかなと思う。


2003年5月14日(水)

 英語を少しずつ勉強することに決めた。今の英語力では今後の仕事探しも含めてお先真っ暗というか足元すら見えない状態なので。しかし勉強すること自体はさほど苦ではないらしく楽しかったりする。まぁ地道にコツコツとね。

 
 スーザン・ヴリーランドの「ヒヤシンス・ブルーの少女」を読了。フェルメールのある絵画について、描かれたときから現在に至るまでの所有者たちの物語を八つの短編として綴っていくという凝った構成。ナチスの一員としてユダヤ人迫害に加わった消えない罪の意識と絡めた最初の話なんかが好きかな。ただ、僕の心的な問題なのか知らないけれど、面白くて一挙に読んだというわけでもなかった。

 
 スコセッシの「タクシー・ドライバー」を観た。ベトナム帰還兵のタクシードライバー・トラビスが世間から疎外感を味わううちに、結局は暴力の発露によって世界を自分に近づけていこうというストーリー。これは、@ベトナム戦争従軍による世間との懸隔と疎外感、A殺人を犯してもなぜかヒーローに祭り上げられるアメリカという国へのアイロニー、B更には正義感・常識というものが恣意的に決まってしまう滑稽さ(未成年売春を断固として反対しているのに、人を殺すことに痛みを感じている様子がない。あるいはデートの誘いまで普通にこなしておきながらポルノ映画に平然と連れて行く非常識さとか)、を取り上げているのかな。


2003年5月13日(火)

 労働をしてみた。ちょっとやる分には社会勉強にもなって面白いかな。しかし、日記として書くことがないなぁ。古代のギリシア人も奴隷がいたからこそ数学や哲学、芸術に打ち込めたわけで、労働と学術・芸術は相反関係にあるようだ。


2003年5月12日(月)

「5と7でいってみる」

昨晩は雨が激しく降って地が揺らいだ。何か起きる予感。
レンレンとキモチ乱れるひとときは(本気モードか?)小説を書く。
17時郵便局へダッシュする僕を襲う自転車パンク。
大切な封筒裏に自転車油の汚れ、知らぬふりかな。
スペアリブ安かったから大根と甘く煮てみる(今夜の予定)。
久し振り肉体的な労働を明日するつもり多分疲れる。


2003年5月11日(日)

 天王洲アイルで友達とオペラ観てきた。初体験。声が熱情を帯びてくると、鳥肌が立った。また行きたい。

 今日思ったこと。「クールでなければいけないときに限って、人はクールにはなれないのではないか」
 All or Nothing(0か100)の用意しかない僕は中庸探しの旅にでる。


2003年5月10日(土)

 夕方ジンジャーエール飲んで、白ワインつかってボンゴレつくった。ボールに入れたアサリの命は僕にかかっているんだなーと猫みたいな気持ちで上から眺めてみたり。

 
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(長い名前)の「アモーレス・ペロス」を観た。(←こはくさんのお薦め映画でもある。)メキシコのある街を舞台に三つのストーリーが交錯するように埋め込まれている。その全てにおいて喪失や親しいものを傷づけずにはいられない人々(+犬)、人の愛情を得ることの難しさを描きだしている。主題の埋め込み方もいいし、静と動をたくみに入れ替える構成もいい。何よりも救いのないような喪失感を見事なまでに表現している。悪くないです。


2003年5月9日(金)

「コロッケのある風景」
 
 料理の本を見ながらコロッケを作る。油がもうひとつパチパチいわないのは、ミルクパンを使っているせいなのか。
 学生時代、共同生活をしていたときにもコロッケを作ったことがあった。そのときは衣が剥がれて(今考えると小麦粉か卵のどちらかの分量が少なかったからに違いない)、「味はコロッケなんだけど、見た目が・・・」という同居人の感想をもらったが、今回は普通のコロッケができた。
 村上春樹の短編「ファミリー・アフェア」では、妹の婚約者が(妹と主人公の二人暮らしの)家に遊びにやってくるときに、妹がいそいそとステーキを作ろうとする。主人公は思わず、「僕は女の子の家に呼ばれてあげたてのコロッケが出てきたら感動するけどね。細切りの白いキャベツが山盛りついてさ、しじみの味噌汁があって……生活というのはそういうものだよ」と口をはさまずにはいられない。
 これがまぁ僕の生活なのかも。でも、僕にはこの世界から一歩でも二歩でも出てみなっきゃいけないというあせりもある。あせっているのか?わからない。かといって、厚いステーキに歯だかナイフを当てているのも違うような気もするけど。とにかく、コロッケを食べることのできる喜びの中に今僕はいるみたいだ。

 
 山田詠美の「姫君」。響かなかった。大学のときは「120%クール」が僕を捉えたりしたのだけど。彼女は一人の大人としての恋愛というものをずっと描いてきたように思う。大人になれない歪みや、あるいは大人だからこそ味わう痛みみたいなものを。だから大人という平均台に足をのせて前に進もうとしている年齢で読むのがちょうどいいのかもしれない。そうして本当ならば、その平均台を優美に歩いている限りは面白いものなのかもしれない。だから、響かない、というのは平均台にきちんとのれていないのにも関わらず大人面しているためなのかもしれない。山田詠美だったら、そんな奴の顔に煙草の煙をふぅーっと吐き出してみせるに違いない。そうじゃないでしょ、って。

 
 チャン・イーモウの「初恋のきた道」。こちらは究極の純愛という感じ。間違えても現代の日本ではありえない恋愛の形だね。印象としては三段論法で愛の告白などする「野菊の墓」に比肩するものな。村で始めての自由恋愛というのもすごいし。
 しかし一方でこの映画はそれなりの人気があるみたいなんだよね。親以上の世代でお見合い結婚をせざるえなかったとかそういう人が見て感じ入るのはわかるんだけど・・・。やっぱり純愛に惹かれるからなんだろうなぁ。メディアの情報や擬似的な出会いが溢れすぎた非純愛的な世界というものがわかりきっているからこそ、そういうものに憧れるのかなぁ・・・。
 チャン・イーモウの狙いは一体なんだったのだろう。純愛のある古き時代への感傷?そのあたりも不思議。


2003年5月8日(木)

「雨の日はかたつむり」
 
 まるで小雨を降らせる今日の曇り空みたいに、かたつむり。殻の中に閉じ篭っていた。多分、自分の中でバランスとるためにそうしているのだろう、と理性のあるもうひとりの僕は言う。多分そういうことなんだよって殻の中から声が聞こえる。

 
 ヴィム・ヴェンダースの「ミリオンダラー・ホテル」。う〜ん、理解できません。傷ついた人たちが自分の幻想の中に逃げ込んだミリオンダラー・ホテルを舞台とした映画。逃げ込んで、そこで回復していく再生していくという過程が重要で、そのままそこで夢だけ見ていてはいけないのだと思う。ビルから飛び降りる瞬間に、世界がこの上もなく素敵だということがわかった、というようなことを主人公に言わせるけれどそれならば生きなければいけないよ。

 
 ジャン・ジャック・ベネックスの「青い夢の女」。精神分析医をつとめるジャン・ユーグ・アングラードは相変わらず恰好いいし、謎の美女役をつとめたエレーヌ・ド・フジュロールは妖しいまでに存在感がある。役者の選択が相変わらずいい。内容のほうは、デイヴィッド・リンチを思わせるような深層心理的・倒錯的な映像の数々。特に付言するなら、そこにベネックスらしいブルーが見事に調和している。(このブルーが僕はなんとも好きなのです!)8年ぶりの作品という割にはそこに、例えば常に間隔を開けて素晴らしい作品をつくってくるレオス・カラックスのような才気の迸りがあるわけではないけれど、やはり彼がこれまで作ってきた「ディーバ」「IP5」「ベティー・ブルー」のような作品からの延長線を感じることはできる。意識ではなくより無意識下で映像体験させようという試みを押し進めた作品だともいえる。(というのは、この作品を見てようやくそういうことなのかって気付いたわけなんだけどね。)面白いのは、そのために使ったのが、フロイト派の精神分析だということ。フロイトは被験者をソファなどに寝かせて横にいる医師に夢などについて話すという精神分析手法によって深層心理に潜む性的な因果を明らかにした人で、当時それなりの業績もあげたけれど、今や後に続いた彼の後継者たちによって手法は高められて彼自身は過去の存在になっている節がある。そのフロイトをわざわざ使って、作中でも今をときめく?ラカンの言葉を使ってみたりする。リンチが日常の裏に潜む世界に連れ込むことを狙いとしているために映画が陰湿なのに対し、ベネックスはあくまで意識や感覚の在り方を洗い直すのを目的にしているから映画は墓場や死体がでてきてもあくまでストーリーには可笑しみを挿入しエンディングも気持ちのいいものにしていく。アングラード演じる医師が墓穴に落ちたのに這い上がってそこで性倒錯者と遭遇するシーンもあくまでジョーク的なんだから。まぁそういうわけで相変わらずベネックスは好きだな。失敗を恐れず、映画を今後もどんどん撮って欲しいです。そしたら次はちゃんと劇場で観ますね。


2003年5月7日(水)

「腕試しじゃなくって、運試し」
 
 某女子大のペーパー試験受けてきた。ざっと見た感じ50倍くらいかな。やりがい、あり過ぎ。性格診断はやっていて昔より成長したなという感覚がある。なんとなくそういうのってわかるんだよ。世界を肯定的に受け止めることができているってことがね。それがどう評価されるのかはよくわからないわけだけど。
 数学はほぼできたけど、例のサイコロの空間把握とか国語の文章題まで手がまわらなかった。脳を使ったというよりは使われたっていう感覚。こんな夜は何も考えないで誰かとぐっすり眠ってしまいたいよ。


2003年5月6日(火)

「今、僕のいるところから」
 
 ひとついなかの坂道を、ふたつふたりで行きました、みっつみなとの蒸気船、よっつよそから着きました・・・。
 どんな風景も一緒に見れる人がいるってことは素晴らしいことなんだろうと思う。

 相変わらず宙ぶらりんの僕にも、春だから神様はいい予感をくれるんだ。
 
 いつも楽観的だと言われる。僕はどんな未来がやってくるとしてもそれを楽しむことができるんだ。
 だから今という時間も楽しまなっきゃ。
 不安の種が落ちてたらそのまま土に埋めとけば、きっと忘れた頃にきれいな花でも咲かせるんだよ。

 
 お勉強のために古沢由紀子「大学サバイバル ―再生への挑戦」(集英社新書)を読んだ。少子化の中で大学も企業と同様に競争力が必要とされているというお話。常に危機感をもって、現状に甘んじないことが何にも大切ということ。筆者の出身校W大の話に個人的感情で流れてしまうところや筆者自身の主張が弱いところなどが気になったけれど、現状を捉えるには手ごろな本だった。


2003年5月5日(月)

 庭の菖蒲が咲いた。つい昨日、サンダルはいて庭の梅になった青い実など写真におさめたついでに菖蒲のつぼみも撮ったのだ。いつ咲くんだろう、と思っていたらもう今日には紫色の花を日差しに掲げていたってわけ。

 
 サリンジャー(村上春樹・訳)の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだ。野崎訳のほうを高校三年のときに読んでいるから二度目のはずなのだが、驚くことに何も覚えていなかった。「ああ、これこれ」みたいな引っ掛かりが一つもなかった。それなのに、この本は面白かった。主人公ホールデンが、学校や寮生活の中で何かに組み敷かれて詰まらない人間になっていくのを避けようとしたり、外面だけで人を判断しようとする社会風潮に反抗したりする姿に親近感すら感じた。しかし結局のところ彼は理想を求めるあまり、周囲に不満だけを呟いているにしか過ぎない。周囲のましな大人は彼に向かって上手くドロップアウトしすぎないように助言を与えようとする。確かに理想を求めるのは大事なことだけど、ある時点で周りのものに対して迎合したり妥協しなっきゃいけないんだよと。社会に対して常に反目していてはこの先取り返しのつかないことになるんだよ、と。勿論、ホールデンにだって、それはわかっている。彼にはまだチャンスがあるのだから、結局うまく社会と折り合いをつけて生きていくことができるのだろう、そういう救いはきちんと残されている。
 ホールデンは確かにこの本の中では社会の爪弾き者になりそうなところにある。しかし、一方でホールデンのような疑問心をもつことは大事なことのようにも思える。ただ社会に用意されたレールに何も考えずに漫然と進んでいくと確かに(ホールデンの思うところの)中身のない詰まらない人間になってしまう可能性が高いような気もする。でも本人はそうは思わないからまあお節介という話もあるのだけど。兎に角、大事なのは、道を外れそうになったとき、もう一度道に乗れるように周りが理解を示していくことなのかもしれない。
 まぁ何だかんだ言っても実のところ、社会から半分ドロップアウトしている僕もひとごとではない話なのかもしれない。与えられた道に忠実だった高校生のときにこの本から何にも感じず、今になって感じ入ることができるのも案外そんな理由なのかもしれない。

ネット上の村上氏と柴田氏の対談 より抜粋▼  *なかなか興味深い対談です。
村上: (略)いろんな入り口があって、いろんなルートがあって、いろんな視座があって、その多様さがこの小説の存在を深めているんだというところが、いちばん大事なんですよね。でも、やっぱり世間の多くの読者は、読んだ本が心の中に意味もなくしっかり残っちゃったりすると、不安でしょうがないんです。それをそのまま自然に支えられる人って、現代社会ではむしろ少ないんです。だから、何とかそこのところを言葉で絡めとろうとするし、そうするとあっというまもなく制度化が始まっちゃうんですよね。じゃどうすればいいのか、と言われると、僕もまあ困っちゃうんですけどね。
柴田: 一定数読まれれば何らかの制度化は避けられないんでしょうけど、一言でうまく説明がついたと思えるときほど、その説明を絶対視しないよう気をつけるべきなんでしょうね。


2003年5月4日(日)

「何かが呼応しているんだ、うまく説明できないけど」

 友達から昨日花をもらった。ハマオトメというピンク色の花弁をもった可愛らしい花。お花貰うのなんて最近ずっとなかった。花瓶がなかったから戸棚からグラスを出してそこに挿している。網戸越しの風にあたる花びらを僕はじっとじっと眺めていたよ。
 友達から本を借りた。村上春樹翻訳の例の新刊だ。ぱらぱらめくって鼻を近づけると石鹸のようないい匂いがする。本の中に写真が数枚挟まっている。鉢植えストロベリーの写真、3月22日、3月28日、4月12日。それから、白黒の犬の写真87年6月19日。きっと愛犬の写真なんだろう。それを見ていたら、じぃーんとするんだ。じぃーんとね。
 わかってもらえるかな、こんな気持ち。

 
 山元大輔の「脳と記憶の謎 遺伝子は何を明かしたか」(講談社現代新書)を読んだ。顕在記憶と潜在記憶といった記憶の分類から始まり、脳の海馬で陳述記憶、扁桃核では情動記憶を保持しているという脳内の使い分けについて、さらには生理学、生化学分野を越えて遺伝学分野からの記憶についての知見を紹介していく。長期記憶と短期記憶については、脳のニューロン(神経細胞)のつなぎ目であるシナプス伝達においてリン酸化の仕組みが簡易的なもの(→短期)と、遺伝子を成しているDNAからメッセンジャーRNAに転写するための転写因子をリン酸化することで生じるもの(→長期)の違いがあるのだという・・・。
 一応、生物分野は不得意ながらもかつて勉強したはずで(実はその昔、化学と生物だけで大学・後期をパスしたのだった)、読んでいるとかつての記憶(長期記憶?)がところどころ蘇ってくるし、知的興奮も味わえるのだけど、もう少し読み込むなりしていかなければ覚束ない。しかしどう考えても科学については物理の理解がからっきしダメとあっては、この生物辺りを突破口として物の見方を広げるしかないのかもしれない。マニアックになる必要はなく、あくまで物の考え方に深みや広がりができたらいいなと思う。

 
 曽利文彦の話題作「ピンポン」を観た。うーん、ダメでしょう。ダメ。ダメ。ダメ。中途半端すぎだし、軽いエンターテイメントにしか仕上がってない。原作はちょこっとしか読んでないけど、もっとテーマとしては深いんじゃないのかな。映画が原作をつぶしてしまったような気がする。
 キャラクターを面白く脚色して(冒頭シーンの作り方が「GO」に似てると思ったら同じ脚本家なのですね。)、シーンの撮り方を工夫して(背景白で前景をくり貫くのは上手い)、音楽を電子音やビート(個人的にはこういう使い方好き)にのせればよいわけじゃない。もっと根底を突き詰めないと。ピンポンを超えてその先にある何かを見せつける映画にしないと、日本だけの興行でおしまいということになってしまう。再三出てくるピンポンのヒーローというのは一体何なのか、ペコとスマイルの関係についてはもっと掘り下げないといけなかったと思う。安易に映画をつくってしまったんじゃないかな。これだけのキャスト揃えてもったいない。少なくとも「キッズ・リターン」の北野武だったら、もっと面白くなるはずだ。画面にも展開にも緊張感が必要だし、緊張感を不安なまでに間延びさせる形でその間のシーンを挿入しなければいけない。竹中直人を加えた時点でアウトだったかもしれないけれど。この映画をつくるんなら、エンディングのペコとスマイルの対決は勝敗を決しさせてはいけないのだと思う。彼らの間に一体何があるのかそれを観客に考えさせなければいけないのだと思うよ。僕だったら、ピンポン中の音と音の響きの間に二人の対話を入れこんで、最後は画面を白く霞めて響きあう音だけ残してクレジットに移るね。がつかり。これは「しこふんじゃった」とか「Shall we dance?」みたいな娯楽作だからいいんですよ、と言われたらはいそうですかって答えるしかないけど。


2003年5月3日(土)

「未来型都市施設でのひととき」

 六本木ヒルズでサックス奏者・渡辺貞夫のライブを友達と観てきた。チケットは友達が当てたもので、僕はそのおこぼれにあずかったってわけ。しかし、素晴らしかったな。ただ演奏するんじゃなくって、音楽の喜びみたいなものを直に伝えようという意志がそこにあるんだから。演奏している人が喜びをもっているからこそ、こちらにも伝わってくるんだと思ったよ。まだまだ聴いていたいなってところで終り。また行きたい。
 六本木ヒルズ自体はGWということですごい混雑。巨大なビルの中に、屋上庭園を含めた様々な施設が入っているその様は、「マーティンドレスラーの夢」そのものじゃないかと思ったよ。

 
 朝、ビデオで河瀬直美の「かたつもり」。あまり響いてこなかった。あるいはこちらの感性が響かなくなっているのか。


2003年5月2日(金)

「未開拓地ばかりで」

 何かを観たり読んだり聞いたりしたときに、それが理解できたということはそれを自分の言葉で表せるということなのだろう。自分にとって新しいものが入ってくるとどうしても理解も覚束ないし、何より過去の自分の経験や思考と照らし合わせて表現することができない。下の本を読んでそんなことを思った。歴史については僕の中に累々とした蓄積がないこと、そして何も考えてこなかったことを痛感させられた。

 
 藤原帰一の「戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在」(講談社現代新書)を読んだ。日本人にとって広島といえば悪夢でしかなく反戦の象徴であるが、アメリカ人にとっての広島は戦争を終結させて更なる犠牲を抑えたという正戦のイメージがあるという。歴史を追ってその考え方の違いを追っていき、アメリカ映画(exキューブリック、スピルバーグ)や文学(exへミングウェイの理想としての一次大戦志願ときれいごとを許さない戦場での困惑→自己を取り戻すためのスペイン内戦参加)を紐解いて説明していく。アメリカは正しく戦争を終わらせるという意味合いの正戦の考え方から、98年のユーゴ空爆にしても(あるいは今回のイラク戦争にしても)世論をもって実行に移してきた。一方、日本は二次大戦で侵略したという事実をもっていながら、なぜかやられたというイメージに付きまとわれ、反戦を掲げ続けている。確かにそれは戦争の記憶の仕方の違いということなんだろう。作者は最後に自己のアイデンティティに捉われず加害者側と被害者側の双方の死を悼み、記憶していくことが理解していく上で重要なのだろうと結ぶ。


2003年5月1日(木)

「深夜一時に今後の生き方を考えてみた」

 別に公表する必要もないのだけど、これは日記だから、日記らしく今後のプランを考えてみることにする。
@.小説は書き続ける。年2回は確実に応募していく。これは僕にとっての芸術であり表現。6月末にはいいものを出す。
A.糧を稼ぐための仕事として、小説と両立できるものであり、かつ長く続けられてやりがいのあるものを探す。今考えているのは教育機関の職員orもともとの専門である自然環境分野の財団職員かコンサル業。当たり前だが簡単にはなれない、特に僕に足りないのは語学力。
B.Aで挙げた仕事は30歳になるまでに総力をあげて就くようにする。足りない力は底上げして、未経験のTOEICくらい受けておく。それまでの間はできるだけ近距離にある工場か企業で平日のバイトor派遣をやる。札幌の時給の1.5倍〜2倍くらいあるみたいだし。家賃がないから、生活費は事足りるはず。
 よし、これでいこうかな。

  
 恵比寿でアキ・カウリスマキの「過去のない男」を観てきた。ところどころにユーモアがあって、映画館の中はくすくす笑いで満ちていた。カウリスマキの世界が好きだっていうのはとても素敵なこと。

 
 空き時間を使って、東京都写真美術館の「川田喜久治展」。川田氏はグロテスクで異質なものを好んで撮っているようで、戦時中の写真、海外の庭園などのインパクトのある立像の類、それから自然界の不思議という三つから成り立っていた。僕としては日常の中に潜んでいる微細な感覚を拾い出す写真は好きだけど、彼のように異質なものをわざわざ探してきてそこに衝撃を求めようというやり口はあまり好みではないな。

 
 川上弘美の「パレード」。昨日読んだ「センセイの鞄」の番外篇みたいな小説。売れただろうが、あまり小説としては意味がないように思えた。自分のつくった世界の続きをもう少し見てみたいということだけど、赤鬼なんかを現実世界に登場させられても困ってしまう。僕はやっぱりこの人の現実世界はいいと思うけれど、架空世界の味付けは苦手みたいだ。