2004年9月11日(土) 「アフターダーク」(村上春樹・著)を読んで

 夜の力に押されるように、二晩つづけて枕元で読んだ。
読み終わった後の印象は、特に衝撃だったわけでもなく、登場人物たちが迎えた朝のように何かぼんやりとして若干の希望を見出したに過ぎない。
つまり、夜から朝を迎えたときの誰もが感じる感情と同じものだったかもしれない。

 アフターダークのダークとは、人の心の闇であり、作者が間接的に直面した神戸の地震やサリン事件といったものを包含しているのだと思う。

 地震というファクターは登場人物たちの中で、トリガーとしての働きをもたせている。
それが直接的に自分に関係しなくても、いつの間にかそれによって変わっていくといった意味合いで。
数年前の短編集と同じ意味合いをもたせている。

 そして悪については、高橋が言うように、日常生活との境目が非常に曖昧であると定義している。こおろぎは、ある日床がすとんと落ちていくといったような絶妙な表現を使っていたように思う。

 だから悪とされるSEの白川もまったく普通の人間だ。ある意味で、この小説世界の中でまっとうな生産活動を行って家庭をもっているもっとも正常な人間ということができる。ただ普通の生活と極悪の部分の境目の認知度が極めて弱いだけだ。

 しかし、この小説は善VS悪といった構造をとっていない。例えば、ねじまき鳥クロニクルで、最後主人公がバットで立ち向かおうとした相手はここにはいない。正確に言えば、悪は善悪というツートンカラーで成り立っていないから。
お気楽なヒーロー映画のようなわかりやすい善悪などなく、大体その境目など特定はできないから。

 だから善と悪ではなくて、光と闇といった構造をもたせている。
闇はすべての人が多かれ少なかれ抱えているもので、まるで夜のように必ずめぐってくるものという考え方だ。闇は必ず僕らにめぐってくるもの、底流を静かに流れているものだから、そこに足を捉われないように生きていかなければならない。そう光には必ず陰があるし、朝と夜は絶えず入れ替わっていく。

 作者の考える闇からの抜け方は、愛情を伝える、というとてもシンプルなものだ。
誰かを理解して助けようとする親愛の心のみが闇から人を救うことができるし、どんな闇でも怖くはないのだというように。

 一方でもはや闇から救い出すことのできない人をこの小説は多く抱えてしまっている。
小説世界の中だけで、アフターダークを迎えられない人が何人いるだろう。
そして、闇より生み出される悪はもはやバットで叩いておしまいというものでもない。

 小説そのものについては、これまでの小説で見せた昼と夜(あるいは昼だけ)のような構造から、夜のみで構成しているために、春樹氏のもつ武器のひとつである軽快さやポップさのようなものが失われてしまっている。
武器をもたずに素手で闇夜に挑んだのだ、といえばカッコいい。
商業主義を計算しないで創作を行える作家であるゆえに、こうした思い切った作品も書けるわけなのかもしれない。