2004年8月30日(月)

 スクーリング終了。夜は他の部署の係長クラスの人たちと飲みに行った。呼んでもらえるだけでありがたいのに、相変わらず好き勝手しゃべってきたよ。
 さて、一週間ほど旅に出ることにします。


2004年8月29日(日)

 大学のトップが僕のところまでふらりとやってきたので、一時間半くらいしゃべった。会社で言うと、取締役と話しているようなもので、以前話したときは知らず知らずのうちに緊張していたのか最後吐き気までしたのだけど、今回はリラックスしてしゃべれた。こうやってトップの考えていることがわかり、また僕も遠慮なく意見が言えるというのはいいことだと思う。トップも僕のやる気をかって、信頼しつつあるようだから、是非ともそれに応えていけたらと思う。


2004年8月28日(土)

 佐伯啓思の「20世紀とは何だったのか 「西欧近代」の帰結」(PHP新書)読み始め。この人の本は相変わらず、読みやすくて面白い。冬のときみたいに、お風呂場で読んでた。ただ、こうやって趣味的に読んでいることがどれほどの知の集積となり、使える知識となっているかは疑問。読んでいるときはふ〜んとか思うのだけど、僕は恐ろしいくらいに忘れやすい。日常でも路がわからなくなったり、人の名前をすぐ忘れたりする傾向が僕にはあって、それは不必要なものを簡単に忘れることで脳の負担を軽くしているんだ、とか人に(ジョークとして)説明しているんだけど、なんだか最近記憶の網の目自体がもしかしたら人より弱いんじゃないかって心配になってくる。そういう先天的なハンディキャップにも関らず、どうにか人並みに生きているのだ、と思えばそれはそれなりにすごいのかも!、というのはちと楽観的すぎか。

 *
 朝起きたら、大きなかまきりが網戸にくっついていた。ベランダのハーブに水をあげるときに、横を見たら、こちらをぎろり(本当に音がしそうだった、ぎろり)って見るからちょっと慌ててしまった。もしかしたら、神様の使いなんじゃないかって思ったよ。もしかしたら、近いうちに天国に召されたりするのかな。そうやって考えると最後に会っておきたい人がたくさんいるなぁ。







2004年8月26日(木)

 小川洋子の「博士の愛した数式」がいい。過去に起きた交通事故によって記憶を80分しか保持できない老数学者と若い家政婦とその息子(ルート)の交流をつづったお話なのだが、作者の一貫した優しいまなざしが素晴らしい。自分の中にも同じような人を慈しむような気持ちが起きてくる。文章の語り口は川上弘美にも似て、淡々と進んでいく。80分では記憶を保持できないために、人を愛することすらも、愛する対象を忘却してしまうがために難しいはずなのに、もともとの博士の心のありようが優しいものであるために、それが変わらないところが驚きだ。瞬時に新しい世界へと飛び移っていかなければいけなくても、その中で生きる希望や優しさを保っていくことは可能なのかもしれない。ましてや、正常体の僕らは博士のように数式でコミュニケーションをとる必要もなく、直接親愛の情を表すことができるはずだ。日々の生き方をもう一度見直すことのできる素晴らしい作品だと思う。まだ読みかけなので、終盤でどのような物語が展開されるか楽しみ。

 
 有楽町の東京国際フォーラムでブロードウェイ・ミュージカル「キャバレー」。僕はやっぱりミュージカル好きだな、って思ったよ。歌に踊りに身を任せているのがとても楽しい。全体的には映画のシカゴとか(シカゴもミュージカルだけど)に似た感じ。第二次大戦前のベルリンを舞台にしているので、ナチスも出てくるのだけど、せっかく描くならば、もっと深くまでつきつめてもよかったように思う。終わり方ももっと盛り上げられるような気がする。
 東京国際フォーラム(アメリカ人のラファエル・ヴィニオリ設計)は好きな建築かもしれない。磯崎新は酷評したらしいけど、ガラス窓や曲線を扱うことで、空間に広がりが感じられて落ち着ける。4つの棟の前に広がるpublic plazaと呼ばれる植栽された空間が特によいと思う。何にも干渉されることなく、都市の中で安心感を感じることができるから。NYにいるような気分で、ベーグル&ベーグルで、開演までカプチーノ飲んでた。






2004年8月25日(水)

 ジム・シェリダンの「イン・アメリカ 3つの願いごと」。ブロードウェイに役者の仕事を探しにきた父親とその家族の絆を描いている。ひとりひとりの支えあいがあって、家族が成り立っているところがよい。そうした愛情に溢れているならば、どんな境遇にあっても生きていく力を得ることができるということなのだろう。全体的に配役がよく、子役が印象的。


2004年8月24日(火)

 マイケル・ウィンターボトムの「イン・ディス・ワールド」。二人のパキスタン人のイギリスを目指した旅を描いたロードムービー。故郷を捨てて、新天地で富を得るために彼らは西へ西へと向かう。ビザなどないから、ひたすら身を隠しながら苦労を重ねて国境を越えていくってわけだ。すべては淡々と語られ、そこで起きる死までもが、ただその風景の中に消えていく。既に故郷と母国を捨てたがために、心を旅路のどこかにおいてくることはできないからだ。その死の中でも、少年はただ走って西を目指す。少年のなんとタフなことだろう。そうして旅路の最後に、希望というものがあったのだろうか。


2004年8月23日(月)

 吉田修一の「ランドマーク」。面白かったのだが、いまひとつ僕は読んでいる途中にすべてを把握しきれなくなっていて、そのために本当の面白みを味わっていないかもしれない。建築中の巨大なスパイラルビルを巡る、設計者と作業人との世界の行き来を描いた作品。吉田氏の小説のつくりかたは何となく理解できる。多分、僕も小説を書くとすれば、同じような形というか流れでつくりあげていくからだ。まず、大きなイメージをもつ、例えばこの小説でいえば巨大ビルの崩壊といったもの。そこから、イメージを他のものと交錯させる。何か少しずつ構築されていって、だけどちょっとした一つの計算違いから大きな崩壊をもたらしてしまうような人間関係、というように。
 イメージができれば、そこに具体的なものを埋め込んでいき、世界の細部を形づくっていくというように。吉田氏の場合はさらにここに対比の構造を使う。それによって互いを照射させていく。エリートで恵まれた設計者と、自分の存在さえおぼつかない現場作業者というように。
 設計者の生活はすべて何となくうまくいっているように見えるものの、何かひとつが壊れれば一挙にすべてがなくなってしまうような感覚の中にある。かろうじて、その際で生活している。
 作業者はボルトと同じ。まるで他のものといつでも交換がきいてしまい、自分の存在が非常に危うい。
 しかし、ボルトひとつが飛んでしまえば、すべての世界は連鎖的に崩壊してゆく。そうした人間関係のもろさを描いているようにも思うが、どうだろう。
  とにかく、吉田氏の作品はイメージが脳の中でふくらんでいき、とても楽しい。


2004年8月22日(日)

 仕事に対する野望が徐々に膨らみつつある。一ヶ月後に発表される補助金がうまく通っていれば本当にいいのだけど。すべてを圧倒するような仕事をしたいと思っている。


2004年8月21日(土)

 「経済敗走」(ちくま新書)はかなり面白い本だった。政治と経済という両面から、現在の日本の抱える状況が見えてきたし、自分の政治観のようなものも大きく変わったように思う。
 これまで日本という国はアメリカと協調してやっていかなければいけない国だと、他の人が思っているように考えてきたけど、アメリカが将来的に世界覇権を維持する力がない可能性が極めて高いということを考えると、早々にこのアメリカというタンカーからお金を引き上げたほうがいいんじゃないかって思えてきた。ドルは確かに世界通貨だけど、やっぱり絶対的なものではない。今の構造では、日本が我が身を削って絶対的なものにしているというところもある。日本は円ドルの操作のために、ずっとアメリカの国債を買い込んで、結果的にアメリカに潤沢な資金を提供してきた。アメリカが経済力を保っていられるのは、糟糠の妻的な日本の力を大きいってわけだ。早晩、アメリカの要請の中でできた親米政権である小泉内閣が円をドル化するというシナリオがあるらしい。ドルが流通すれば、アメリカとしては日本への借金のことを考えなくて済むようになり、それとともに通貨を越えて日本社会そのものがドル化されて、間違いなく属国というか同国というか、ハワイ州があるように、日本州が誕生することになる。通貨を握られてしまえば、国としての発言力が萎んでしまうのは間違いない。日本でふつうに英語がしゃべれて、アメリカ企業で働けていいじゃんというのも一つの考え方だけど、多分日本のアイデンティティが大きく失われてしまうだろう。
 一方でアメリカと日本で世界経済をドルで席捲しつづければよいという考え方もあるけれど、実際には21世紀に入って既にユーロが強くなりつつあり、その後に世界の人口を大きく占める中国、インドの時代がくると作者は予見している。確かにマーケットが大きければ、それによって経済は発展するのだろう。
 とりあえずは、アメリカから脱却して、次の時代を睨んで資金を移し変えておく必要があるということを作者は説いている。そのためには、政権交代だけでなく、アメリカに偏らずに世界的視野でことに当たれる政治的リーダーが必要なのではないかと思う。とにかく、自衛隊と同様に、現状では小泉さんがドル化するといえば、国民の意見(Noとも言わないだろうけど)など聞く耳ももたず、独断で決まってしまうような怖さがあると僕も思う。
 
 
 ク・ナウカの「友達」を観劇。安部公房原作とのことだが、なんのことやら。ただ首をひねるのみ。

 *
 恋愛ができるのならば、あと一回だけでいいと思う。帰り道、夜空を見上げたけど、三日月の姿はなかった。


2004年8月20日(金)

 行定勲の「Seventh Anniversary」。見た目のきれいなもの、かっこいいものばかりを並べてクールを気取った駄作。主役の小山田サユリが可愛いのに多少は救われる。
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 果物をたくさん買ってきた。ブドウに桃に梨。八百屋の威勢のいいおじさんになぜか果物好きとしてインプットされてるみたいで、いくつかおまけまで貰っちゃった。果物袋ぶらさげて、三日月の夜道歩けば、とっても幸せ。


2004年8月19日(木)

 6回目の懇親会の司会。人前でしゃべるのも少し慣れてきたかも。今日はホストにうまく徹せられたって思う。
 それから例の授業のWEB化の話、他の部署の人が興味をもって聞きにきた。それで熱っぽく話してたから、やっぱり相手にもうまく伝わったと思う。仕事をやる上でpassionって大事。もっともっと面白くしたい。


2004年8月18日(水)

 吉川元忠の「経済敗走」(ちくま新書)を半分まで。ドルと円の関係と、そのもつれ具合の危うさが、背筋を寒くする。はっきりいって、ホラー映画が現実になるような怖さがある。僕らはこの日本という国が、まるで大型タンカーのように安全なものだと思い込んでいるのだけど、そして政府がアメリカに追随することも仕方ないって考えているけれど、このタンカーがアメリカというもっと大きなタンカーに巻き込まれて沈没する可能性って考えたことがない。この本は、そうした怖さを耳元でささやかれる類のものだ。それがどこまで正しいのか、客観的に判断できるほど、経済的知識がない。とりあえずは、もう少し、この類の本を読みこなしておくことが大事なんだと思う。


2004年8月17日(火)

 スザンネ・ピエールの「しあわせな孤独」。思った以上によい映画だった。テーマは愛だけど、この愛は非常に複雑でシンプルではない。愛という言葉は、それがある特定の誰かに差し出されるために、他の誰かにとっては非常に残酷で痛みのあるものでしかない。しかし、それでもどうしようもないものであり、それは僕らを高みに上げたり、深みにはまらせたりしているものなのだ。原題は「Open Hearts」であり、僕らが心を誰かに委ねることを意味しているように思う。それに対して、邦題も上手い。愛に身を委ねることは、つまりは「しあわせな孤独」とも言えるかもしれないからだ。 それから、デンマーク映画ということで、灯りや部屋のつくりなどもセンスがよくて、ちょっと感心した。

 
 フルーツ・チャンの「ハリウッド★ホンコン」。フルーツなんて名前だから、ポップ調の映画かと思えば、このフルーツは毒々しいフルーツ。思い切り風刺をきかせた映画。香港と中国の関係が、香港のバラックで暮らす人たちと、そこに流れてくる中国人の女の子という図式で描かれる。中国人の女の子はキュートであっという間に彼らの中に割り込んでくるが、これがとんだ食わせ者。要求してくるものは、金、金、金。だけど、ここに描かれる香港人もある意味、ブタが意味するところの飽食と売春が意味するところの欲望の中に溺れていて、まるで力をもっていない。香港人の少年の腕は切り取られて、そこに植えつけられた腕はまったく違う他人の腕。中国と香港は似ていて、まったく異なるものという叫びがここに込められている。香港は恐らく中国に同化してしまうのだろう、しかしこの監督は最後に少年の腕を切り離させるという選択を選ぶ。

 *
 今日は休養日ってことで基本的に駅前を歩き回っておしまい。吉田修一の新刊買ってきて、駅前の込んだエクセルシオールで珈琲飲みながら読みふけっていた。(なんでこんなに込んでるのかしら。) この人の本、記号がすごい使われていて面白い。街中でデジカメをぱちりと映して、そこにあるものを並べて、街とそこに住んでる人のキャラクターを的確に描いてしまう。いつか、現代の日本の街を描写する際に、吉田修一の小説が引用されていくようになるんだろうと思う。この人にいずれ未来小説を書かせて読んでみたい気がする。少子化対策で、労働力として入ってきた外人でいっぱいになってしまう東京の街とかね。近いうちに、IT労働者としてインド系の人がどっと流れ込んでちょっとしたコミュニティ作ってたり、中国の経済的軍事的脅威の中で妥協を余儀なくされて、中国人が氾濫しちゃうんじゃないかと僕は睨んでるけど。・・・、それを記号の世界で是非!

 

2004年8月16日(月)

 中山元の「<ぼく>と世界をつなぐ哲学」。哲学体系のダイジェスト版みたいな本。4章の言語の起源と5章の他者と相互承認のところが面白かった。あとは、せせらぎをゆく笹舟みたいに字面だけを流した。
 4章。ラカンが言うには、欠如を認識できるのは言語の力があるから。動物にはなくなるといった感覚がなく、そこにあるものを捉えるだけということだ。とすると、例えば母犬が子犬が死んだことに気付いて哀しむのは、死んだ子犬がそこに死体としてあるから哀しめるので、もしそれを持ち去ってしまえば哀しむことはできないのだろうか。
 5章。カントが言うには、ぼくらの趣味というものは、他人のまなざしを条件としていて、もし孤島で一人暮らすことになったならすべてが意味を失ってしまうということだ。世界がぼく一人になったら、服装とかもあんまり気にしなくなってしまうということなのかな。
 5章。コジェーブはヘーゲルの考えを発展させて言うには、承認を求める欲望こそが、動物とは異なる人間の自己意識をつくりだすということだ。確か、前読んだ本にはそれこそが資本主義(経済活動)を発展させるものにつながっていたとか書いてあったような気がするけど。あるいは、渋谷パルコ周辺の広告戦術もそういう意味合いにのっとったものなんだろう、きっと。他者の求めるものを欲望とすること。人間って不思議な生きものだ。

 
 池袋サンシャインでキャラメルボックスの「BLACK FLAG BLUES」。客席は満員で、かなりひいき客というものが存在するみたいだ。面白く仕上がっているのだけど、どうかな、底にあるはずのテーマがいまひとつ浮かび上がってこないせいで、意味性というものに若干欠けるかな。もっと強力に面白いといえる演劇を観てみたいなぁ。


2004年8月15日(日)

 スクーリングもようやく折り返し。またしても咳がぶり返してきて、体調が日本の株価みたいに落ちだしてきている。学生(女性)から飲みに誘われたのに、わけのわかんない理由でことわってるくらい、ちょっと消耗。
 それでも明日明後日とお休みだから、そこでどうにか栄養とか英気を養って、また走りつづけるつもり。なんといってもアテネではみんながんばってるんだものね。(TVの観れない僕には、どうして東京オリンピックでカラーTVが普及したのかよくわかるって塩梅なのだけど。)


2004年8月14日(土)

 妙に疲れやすくって、周りの人に運動したほうがいいですよ、ってスポーツクラブ薦められた。東京の夏はそうでもしないと消耗しちゃうからな。
 いつの間にか、旅行が二週間後くらいに迫っていて、初日のホテルなどネットで予約してみる。ホテルを予約しだすと、ちょっとオトナになった気分。ふと、メロンを食べたくなって冷蔵庫を開けて、その前に夕食を食べてなかったことに気づいたり。


2004年8月13日(金)

 なんでお盆休みがあるのか、わかってきた今日この頃。灼熱の太陽がきっといけないのだ。身体がばらばらになっちゃいそうなほど、なぜか疲れている。虚弱体質もいいところ。
 *
 フリドリック・トール・フリドリクソンの「コールド・フィーバー」。永瀬正敏演じるサラリーマンが、父母の供養のために真冬のアイスランドを旅するというお話。せっかくの荒涼とした土地なのだから、もっと心象風景を多用してもいいように思うけれど、全体としてはかなりいい線はついているように思う。愛想笑いを浮かべない主人公の姿が悪くない。


2004年8月11日(水)

 東京都現代美術館で「花と緑の物語展」。平日ということもあってか、館内はすいていて、久し振りにのんびりと一つ一つの絵と対峙して、その余韻を楽しむことができた。絵も印象派がひととおり出揃っていて、観ていて幸せ度が増してしまうものが多かった。10作品くらいあったモネ、それにシャガール、セザンヌ、ピサロなんかがよかったかな。(9月までやってるからもう一回行ってもいいかなぁ。) 美術館を出て、夕暮れの木場公園を歩くのもまた気分がよかった。

美術館の前にいた動物


2004年8月9日(月)

 大学HPに使おうかなと思って、環境系の授業の写真撮影をして、ついでにしばらく拝聴していたら、ドイツの環境都市の話を先生がしていて、自分の専門とかなりリンクしていて、なんだか不思議な気分になった。どこかの時点で都市環境関係の仕事につけたらいいなって思えてきた。そうして、大学の教壇なんか立って楽しそうに授業やってみたいものだなぁ。


2004年8月8日(日)

 仕事のほうは一応軌道にのっていい感じ。解夏で出てきた百日紅があちらこちらに咲いていることに改めて気付いた。物を認識するってことは、普段風景の底に沈んでいたものが浮かび上がってくることなんだね。


2004年8月7日(土)

 授業収録。この前、選定した業者に依頼しているわけだけど、付き添いで授業を聴く。異文化理解という授業なんだけど、これがなかなか面白かった。授業コンテンツが順調にできあがれば、僕の構想するWEB配信も一挙に進められる。
 夜、東京ドームで野球観戦。職員の親睦会の役員なので企画者たる以上、最後まで観ようと思ったのだけど、あんまり面白くなくって、延長になった時点で帰ってきた。メジャーリーグは楽しめたのに、どうして日本の野球は面白くないんだろう。試合観戦もそこそこに、ビールの売り子さんなんかチェックしてた。売れる売り子と売れない売り子がいて、横の人に、あれは目の大きさと愛想の良さが関係してますよね、なんて声かけたら、「ちゃんと試合見ていなさい」なんて叱られちゃってるわけだけど。 


2004年8月6日(金)

 犬童一心の「ジョゼと虎と魚たち」。かなり等身大な映画にできあがっていた。演技も変なぎこちなさがない。なんとなく好きになって、なんとなくHして、なんとなく別れていくという日本の恋愛模様もよく描けていると思う。Hの部分とか、これまで観た映画の中でもっともリアルな感じがしたかな。身障者の描き方もくさくないし、あくまで一人格の人間として扱っている。ただし、それでもこの主人公には最後、何かがひっかかってしまっているのだけど。池脇千鶴(ってアイドルなんじゃなかったっけ)が、世界が狭いために性格的に偏ってしまっている身障者を好演している。佐内正史の写真とかくるりの音楽とか、しっかした構想にもとづいてこの世界がつくりあげられている。

  
 劇団四季の「ライオンキング」。ブロードウェイでミュージカルに発熱したのがそのまま海をわたってしまったかな。緊迫感があって、俳優の歌声が高まるところが好き。・・・なものの、ハイエナのシーンとかだらけてしまって勿体ない。物語にももう少し深みがあったらよいと思うけれど・・・。いつかブロードウェイでも観て比較してみたい。









2004年8月5日(木)

 磯村一路の「解夏」。全体としてまとまりすぎの印象があるけれど、役者の力がよく発揮されていていい映画にしあがっている。お母さん役の富司純子がさすが、感情の機微の表現がうまい。この監督、日本的な街の風景をスクリーンに投影することに長けているかもしれない。
 考えたことは、人間って不器用なものだっていうこと。あまり器用に生きようとすると、多分大事なものをなくしてしまうんだろうなって思ったよ。相手の気持ちを汲み取って、自分の気持ちをきちんと伝えることこそが必要なんだよね。自分の井戸の中に小石をぽーんと放ったような気分になった。


2004年8月4日(水)

 今日はお昼の懇親会。300人ものお弁当を手配して、司会やってたり。あと7回あるから、人前でしゃべるのも上手くなれるかも。次回の目標は、ほのぼのした笑いをひとつとる、ってところでいこう。


2004年8月2日(月)

 スクーリング・スタート。混乱もなく、とりあえずは長丁場、けんけんぱっ、に踏み出したって感じかな。これまで地方で知り合った学生の方と顔見知りになって話せることも楽しい。出来る限り、学生の方に満足いただけるものにしたいって思う。

 *
『読書、旅、忘却のくり返し、文章を書くこと』

 読書について考える。僕は明らかに他の人より本を読んでいると思うのだけど、ほとんどの本は読んだ内容はおろか、読んだという事実すら忘れていく。大事なのは、知識を蓄積することではなくて、何かを考えた、という事実なんだろうか。例えば、旅と同じようなものだ。旅において、それは残った写真や手記や紙幣でしか、その事実を確認する術はない。もし「もの」として残らなければ、行ったという記憶としてしか残らない。そしてそれもいつかは薄ぼんやりとした忘却の霧の中に消えていく。だけど、僕は確かにそこにいったことで、何かを感じ、何かが変わったと感じた。きっと本を読むのも、旅と似ていて、ある地点に到達し、僕らはやがてそこを離れて、そこのことをゆっくりと忘却の中に置き去っていかなくてはいけない。僕は少なくともその途方もないくり返しの中に生きていて、やがてはこの命ですらも、人や地球や宇宙の記憶から消えていくのだろう。
 文章を書くというのは、そうした大きなブラックホールのような忘却の力に対する、ささやかな抵抗なのかもしれない。


2004年8月1日(日)

 シンポジウムの裏方。夜は教員と飲み会。職員よりも教員のほうが迂回ありの人生を送ってるから、話を聞いていて面白い。


2004年7月31日(土)

 昨日、ぎらぎらと照りつける太陽の下で、8月からのスクーリングの準備をしていたせいで、朝から身体が重たかった。まるで試合翌日のスポーツ選手のように、身体を軽く動かしておしまい。ときどき東南アジア的なスコールあるいは驟雨。
 *
 クリント・イーストウッドの「ミスティック・リバー」。25年前の過去と現在が交錯し、過去の投げかける影が現在をゆっくりとおおっていくといったつくり。ショーン・ペン、ティム・ロス、ケビン・ベーコンと役者が揃って申し分ない。ただ、救いが提示されないことが寂しい。すべての思いが川の渦の中に消え、流されていく。


2004年7月29日(木)

 朝、オフィスで受信箱を開いたら20数通の仕事メールが。すべて業者と先生からなんだからすごいよね。ひたすらメール書いて、電話かけて、打ち合わせでしゃべり続けてって感じ。相当のカロリー消費。


2004年7月27日(火)

 6月こんこんと咳をしていて、お医者さんの「お風呂入ったらダメだよ」という謹言を忠実に守っていて、ずっと朝シャワで済ませてたせいもあるのかもしれないけれど、ここんとこ頭を使うような本を読んでない。別にそれを問題視しようなんて思ってないのだけど、あまりに自分の中で流行りというか潮流というかが変わりすぎるんじゃないかしら。エントロピーの量って決まってるのかな、やっぱり。(←って何気なく使ったエントロピーを調べたらどうも使い方を間違っていたかもしれない。)ここで言いたいのは物質的・エネルギー的な総和は常に変わらないってことだから、熱力学の第一法則のほうかな。あぁ頭がごっちゃまぜ。
 定義はそのうち復習するとして、ネットとか見るとその総和が圧倒的に大きい人がいて、ちょっと驚いてしまう。それとも、例えば、僕が日中やってる仕事の量と、家に帰ってからやってる諸々のことをたすと、それくらいになるものなのかなぁ。自分が、あるハード(脳・感覚器)とソフト(言語・思考の構造とフローについてのソフト、あるいは感性のソフト)でできているとしたら、やっぱりその総和をあげられるようなバージョンアップってありえるような気がする。CPUとメモリをどんと増やして、ソフトも二世代か三世代くらい進まないものかなぁ。そしたら、僕には負荷が重過ぎるかな。
 とにかく世界をもっと多層的に、多重的に眺められる目や頭や感覚をやしないたいよ。欲張りすぎかな。


2004年7月26日(月)

 住宅街にも関らず、うちの右隣には豆腐屋、蕎麦屋、郵便局、クリーニング屋、酒屋、八百屋、ケーキ屋、薬局というふうに連なっている。(小学生のお店屋さんごっこみたいだけど。ちなみに左隣は小学校、道路向かいは中学校のプールだったりする。)クリーニング屋に行くと、よく八百屋を覗く。何も考えずに果物を買ったりする。最近は桃が美味しくてお気に入り。冷蔵庫から桃ひとつ取り出して、薄く果皮をむいて、かぷりって。この果肉の甘さといったら・・・、至福也。


2004年7月25日(日)

 Paris MatchのアルバムはすべてタイトルにNoが反映されていてわかりやすい。volume1、PM2、typeV、QUATTROときて今回の「♭5」。期待を裏切らない出来でここのところ、ちょっとハッピーなのです。やや鬼束ちひろっぽくもあるけど、適当に抜いているDのETERNITYとか、テンポのいいJのOCEANSIDE LINERなんかが好き。Vocalのミズノさんの声は一番あがっていくべきところでふっと力を抜いてしまうところがあって、その匙加減が結構好き。手を伸ばして、だけど届かないって感じを如実に受ける。かなわなかった夢とか終わった恋とか夏の終りとか、そんなイメージをもってしまう。これも彼女が春樹さんとかカーヴァーなんかが好きなのと関係しているのかな。そして僕が好きなのも、案外そういったところなのかもしれない。
 歌詞は相変わらず、意味をもたせていないというか、意味をもつことをきらっている節があって、まるでさらさら手のひらからこぼれていく乾いた砂粒みたい。ジャケットもいつにもまして現実感を帯びていない。なんといっても模型だものなぁ。 ライブやらないかなぁ。

 *
 原美術館で野口理佳「飛ぶ夢を見た」写真展(最終日)。かんかん照りの品川駅から額に汗しながら歩いていったわけだけど、入ったところに、海の底の写真があって、それでもう来てよかったなぁという感じ。
 野口さんの写真の印象としては2つある。
 1つは、海の底から水面に昇っていく写真や、パンフの写真にある小さな手作りロケットが青い空を昇っていく写真に見られるような、現在(現実)からどこか高いところに昇っていこうとするのに、それが果てしなく遠くにあるような感覚を生み出すようなもの。これはこのダイアリの上にとりあげたparis matchの歌声なんかとも共通するところなのかもしれない。何か途方もない空虚さすらあるような広がりの中で、ただ昇っていくことのさびしさと苦しさのようなものがイメージできる。
 もう1つは、宇宙基地の写真に見られるような日常の中の整然とした非日常。あまりにも現実感がなくて、写真をみていると対象が模型のように思えてくる不思議さ。野口さんは明らかに現実とは一歩離れたところに立っているように思える。野口さんの写真には匂い(特に生きている人が発しているにおい)がまったくしないものばかりだ。現実から乖離して、背を向けて、自分ひとりでロケットに乗っていかなくてはいけないような(あるいは海の底にたたずんでいるような)孤独さと静謐さを感じる。
 結論をいえば、僕は彼女の写真が好きだ。結局、僕もそういった人間のひとりだからだ。

 *
 リチャード・リンクレーターの「テープ」。芝居の映画化ってことで、密室で三人(イーサン・ホーク、ユマ・サーマン、ロバート・ショーン・レナード)だけの小サスペンス。役者根性は燃えるのだろうけど、これは空振りですね。もう少し緊張感を出さないと、あるいは深いところに立ち回らないとダメだろうなぁ・・・。




2004年7月24日(土)

 クァク・ジェヨンの「ラブ・ストーリー」。これもべたな恋愛物。ストーリーを纏めすぎて、展開の仕方に疑問のあるところも多いけれど、まぁラブ・ストーリーということで許されるのかな。主役二人の見せる表情がなかなかよい。個人的には「猟奇的〜」のほうが好きかな。誰か一人に強烈に想いを寄せ、それを表現していくというストレートさはよいと思う。なんか、韓国物にはまり始めている予感。


2004年7月23日(金)

 作文、提出と。随分待たされて、仕方ないから、丸ビルで蕎麦など食べてた。なんかトレンディドラマみたいなことあそこでやってみたいな。作文のほうの結果は二ヶ月後ということで、これが通ると通らないのではかなりの違い。通れば、学内でもかなり認知されるかも。とりあえずは一つ終わったっていう充実感。
 夜、幹事のくせに大幅遅刻してニ、三十代の焼肉会。先輩と話すのは楽しい、後輩も数人できて、偉そうに学内構想など話してたり。まっ、たまにはいいでしょ。ということで、目の回るような一週間が終わった。


2004年7月22日(木)

 すさまじく忙しかった。気付いたら17時で慌ててランチしてたり。今日だけで何人と話したことか。・・・しかし、夜、大いに落ち込む。ああ、勉強しなっきゃ。イチローの今日の語録読んで、妙に感心。あぁ、すべてのレベルのゲージをあげたい。


2004年7月21日(水)

 3h睡眠だったのに脳はフル回転。学内に行く用があって、誰と話しても相手がスローに感じてまどろこしくって、あーそうなの、じゃーこうして、って機関銃連射してさっさとすべてを終わらせたくなっちゃうよ。仕事はフルスピードで進んだとしても、こういう状態ってよくない。なんか身体が無理している感じがするし、長く続かなくなっちゃうものね。そんなわけで、申請書類は9割8分くらいまでできて、あとちょっと。


2004年7月20日(火)

 いきなり山ということで、家でも仕事やってます。例の申請、明日、学内に上げる予定。計画立案部署の先輩に見せたら、資料を直接反映したほうがいい等、助言くれたのはいいんだけど、オフィスじゃ実務に追われちゃって・・・。がんば。


2004年7月19日(月)

 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの「21グラム」ようやく観てきた。「アモーレス・ペロス」もよい映画だったけれど、これも自分の深いところを揺さぶるような映画だった。生きることと死ぬことについての何度も繰返される問いかけ。その中で人を愛していくことの意味。映画館を出た後、世界が違ってみえた。この雑多な街の中でもいくつもの人生が動いていて、その中で自分もまた生きているのだとそんなことが肌身に伝わってきた。そして自分の内底に静かに魂が宿っているのを僅かに感じ取れたような気がした。


2004年7月18日(日)

 六本木ヒルズの森美術館で「MOMA展」。NYで観た仮設展示(現在建替え中)より作品数が多く、見ごたえがあったが、仮設展示のほうがインパクトが大きかったかな。それでも、オキーフがひとつ観れたのは嬉しかったし、モンドリアンやマレーヴィチあたりの幾何学的な抽象画も数があって楽しめた。森美術館はキュレーターの力量があるらしくって(雑誌で読んだんだけど)、今回は「モダンってなに?」っていうタイトルがつけられていて、テーマごとにわかりやすかった。ただ絵画が全部透明なガラスケースに入っていて、絵画によっては反射して作者の意図がわかりにくいものも多かった。イブ・クラインのブルーの絵とか鏡みたいになってしまっていてちょっと可哀想だったし、多分あれじゃ理解不可能。
 帰りは乗換えで恵比寿に立ち寄ってカフェでまったり。そうしていたら、前にMさんたちと行った池尻のタイ料理屋の上のカフェみたいな空間にまた行きたくなってきた。テキーラベースのカクテルが飲みたい。
 夜、ビデオでトム・フュクワー「トレーニング・デイ」。残念ながら監督の力不足というか、製作者の力不足というか何をつくりたいのか見えてこない作品だった。デンゼル・ワシントン(すばらしい演技)とイーサン・ホーク(前半の新人役ぶりはよいが、後半の正義感にかられる場面が今ひとつ。イーサン・ホークって外向きの演技より内向的な抑制する演技のほうが圧倒的に上手いと思う。僕が配役決めれるんだったらこれはエドワード・ノートンにやらせたかった。)の二人の演技が見所。


2004年7月17日(土)

 自転車乗って、ヘアカットして、そのまま吉祥寺へ。いつもと違う道をたどったら、蔦の絡まる建物のある敷地があって、植物の呼気がそこの塀を越えてきそうだった。次、住む時はこのあたりがよいかな。帰りにジャカランダの鉢植えを買って、前回のミニ鉢植はベランダの直射で枯らしてしまったので、今回は部屋の中においてあげた。ずっと前からそこにいたように、窓辺で細かな葉を広げている。紫色の花も咲いたらいいけど。
 ビデオ借りてきてイ・ヒョンスンの「イルマーレ」。ここまでべたな恋愛映画をよくつくるよと思いながら、最後まできっちり観ちゃってるし。ヒロインのチョン・ジヒョンは「猟奇的な彼女」のほうがよいかな。しかし、こんな恋愛映画、デートで観れることってそうはないんだろうなぁ。まぁ外す確率のほうが普通高いよね。
 韓国映画がこれだけ支持されているのは感情表現がストレートだからだと思う。日本ではどうしても感情を殺すことが美徳とされていて、感情が伝わらないもどかしさや微妙な痛みを伝えることも多い。たとえば、「萌の朱雀」とか「幻の光」とか「ハッシュ!」とかね。韓国映画はこれを越えて、感情が伝わり合い、その感情を消せないことをテーマにしたものが多いように思う。現代の日本にこれが受け容れられていくのはとても面白い現象だと思う。


2004年7月16日(金)

 ウイークデイが終わった。上司に早く帰りなさい、なんて言われてオフィス出て、駅前でぼんやり立ちすくんでたってわけだ。
 夜の12時からなぜか「ガタカ」を観ていて、コンタクトレンズ落して視力のままならないヴィンセント(イーサン・ホーク)がハイウェイを渡っていくのに胸が痛くなった。この映画は無駄を恐ろしく省いた映画だ。野暮なものを存在させず、すべてがスタイリッシュだ。でも考えれば、本当の人間味というのは必ず野暮ったいもののはずでスタイリッシュであるわけがない。ここでスタイリッシュであるためにそぎ落としているものは、実はヴィンセントそのものなのだ。スタイリッシュというのはある意味、自分を捨てて他人を演技することなのかもしれない。


2004年7月15日(木)

 ここんとこ20時くらいで仕事終わってたから、なんか久し振りに脳を使った感じ。作文の内容は・・・、大学の授業というものを根底から揺り動かすようなものになってしまった(苦笑)。なんたって、全授業映像をオンデマンドで(=いつでもどこでも)ネット無料公開なんてこと考えてるんだからね。小説じゃないんだから別に面白くする必要はないのにねぇ。多分、僕の構想が実現したら、e-Learningの中では放送大学も出し抜いて間違いなくトップに躍り出ると思うよ。


2004年7月14日(水)

 文科省の補助金申請の作文をやることになった。来週末にはもっていかなくてはいけないから、明日あたりがいきなり勝負かな。倍率5倍の数千万円、通ればそれなりのキャリアにつながりそう。
 DVDで買ってきた大好きな「ガタカ」。極度に飽きっぽい僕はこんなのでお勉強。


2004年7月12日(月)

 僕は明らかにコミュニケーションを求めている。奈良美智の作品集に「ふかいみずたまり」っていうのが確かあったけれど、感覚的にも、知識的にももっと深いところで誰かと話したい。そうして理解をしたい。僕は飢えたライオンのように草原で何かを待っている。

 
 

2004年7月11日(日)

 渋谷で二回目の「ロスト・イン・トランスレーション」。シネマライズの前には、看板があって、そこになぜか恐竜が浮かび上がっていて、何のことかと思えば、それは渋谷ハチ公前の巨大な電光掲示板に映し出された恐竜だった。意味がないのにインパクトがあり、かつ幻のようで・・・。この映画は、恐らく初来日の外人にとって、東京がどういう街かを如実に表していると思う。色とりどりのネオンと広告の氾濫、パチンコ・カラオケ・選挙カーの騒がしさ、その対照にある仏閣の不可思議さ・・・。ここまで意味というものが底に眠っている街も珍しいのかもしれない。眠っているというか、ある意味忘れられているということに近いのかもしれないのだけど。記号だけが表出して、それが意味するところがわからない。外人にとって記号は意味のかけらもないために、彼らはただ街の表層を上滑りしているに過ぎない。結局、主人公二人のコミュニケーションも触れ合いそうなところで触れ合えなくて、ただその触れ合いそうだったという思いだけを残して、この記号の街をあとにする。


2004年7月10日(土)

 遊びに来ている弟の寝息が聴こえる。弟と渋谷まで「トロイ」を観に行った。考えられる限り、それまで弟と映画を観に行ったことがないということに始まる前気付いた。映画はトロイの木馬を出して、史実に忠実すぎたために逆に話のまとまりに欠けたような気がした。まぁスペクタル映画というのはそういうものかもしれないけれど。
 一度壊れた城郭は元に戻らない。一度なくなった命には生命は吹き込まれることなどない。ただ歴史の中に名前を刻み込めるかそうでないかの違い。
 *
 村上龍「最後の家族」。家族4人がバトンタッチで話を進めるという形式をとっているが、村上龍の持ち味であるスピードが殺されてしまって、効果としてはどうかなぁ。ただ、これを読んで引きこもりへの理解というものが進んだのもまた事実。周囲が互いに独立できたとき、引きこもっていた人もまた独立できるということをこの本は強調していた。引きこもりの話だけでなく、家族というのは(あるいは集団というのは)互いが寄り合うのではなく、互いが独立して生きるということがきっと大事なんだね。


2004年7月7日(水)

 人事に呼び出されてすわなにごとかと思えば、昇給のお話。ふつうに嬉しい。学内歩いてれば未だに名前覚えてくれている女の子もいて、嬉しいを通り越して不思議な気になったり。


2004年7月5日(月)

 クアク・チェヨン「猟奇的な彼女」。恋愛での心的な痛みを身体的に昇華させたというかなんというか。心理学的には、暗闇にいるときに恋愛が生じやすいのと同じような効果をあげているんだと思う。まぁそういうことを抜きにしても楽しめる映画。これだけ性ばかりが転がっている世界の中で、そこに触れずに、(身体的にも関らず)純粋というところもまたすごい。「ラブストーリー」も観たいなぁ。


2004年7月4日(日)

 酷暑の広島出張も無事終了。観光は宮島滞在15分、鹿を見て、蜜柑のアイスクリーム食べてタイムリミットだった。


2004年7月2日(金)

 明日はお好み焼きの広島だぁってことで眠ろう。遊びじゃなくって仕事だよ。


2004年7月1日(木)

 上司が人事に手をつけだした。情に動かされずに的確な判断をしていくのはすごい。なるほどねぇ。思えば、僕も前のセクションからこうやってここに迎えられたわけだけど。
 余興編。レベルがひとつ上がったのはいいけれど細かなところが聞き取れないー。そういえば、ずっと村上春樹につられてcommitの用法を間違えてたような気がする。辞書の一番はじめにくるのは、commit a crimeとか、commit a suicideじゃない?悪いことをする、っていう意味。世界とか誰かにcommitするって言ったとき、それってどれくらい通じるのかしら。(誰か教えて)


2004年6月30日(水)

 久し振りにちゃんと料理つくったかなぁ。って単なる焼き魚だけど。
 6月は結局ずっと咳をごほごほしてたから、7月は全快するぞ。低レベルな目標。


2004年6月29日(火)

 オフィスのエアコンが効き過ぎで、腕のうぶ毛が全てぴんと張り立つような鳥肌になって悪寒と腹痛に悩まされて大変だった。神経がおかしくなっちゃうよ。外に出れば、待ってたとばかりに強烈な日差し。回転木馬のような日々。
 こんなことを前置きに書いておきながら、全く別のことを書いておく。
 コミュニケーションにおいて、あるものへの情熱passionを表現することは重要だということ。初対面の誰かと話していて、もしその人に魅かれるとしたら、その人の何かへの情熱とか奥深さに魅かれるのじゃないかな。そんなことを昨日ある人と話していて思ったんだ。それは一種の引力みたいなものなんだ。勿論、生まれながらに何もせずとも引力をもちあわせている人もいっぱいいるわけだけど。


2004年6月28日(月)

 今日のテスト、緊張してうまく話せなかった。なのに、なぜかレベルがあがってしまった。ハイレベルを目指すということが多分好きなのでまだまだがんばるつもり。冷蔵庫にビールがなくて代わりにワインを飲んだら今夜はふらふら。


2004年6月27日(日)

 奈良美智の「ちいさな星通信」はこうやって始まる。
<1959年12月5日早朝、僕はこのちいさな星にやって来た。>
 なんかこの一節いいなって思う。
 僕も、なんだかそんな気がするもの。
 すごく窮屈な小さな小さな宇宙船操縦して、ふらふらとこの星に不時着しちゃったような気が。
 島田雅彦の小説にもそんなのがあった。宇宙から地球に舞い降りて、その近くにいた人たちの顔を合わせたせいで、そこに犬まで混じっていたせいで、どこか柔和な顔つきの人のことがね。
 これまで見てきた風景だとか、人の優しさとか、そんなものを僕は自分の中に取り込みながら生きてるんだと思うよ。
 微妙な疎外感と、それでもここにつながっていきたいという気持ちがあいまじりながら。


2004年6月26日(土)

 池袋の東京芸術劇場でベルリン交響楽団。ベートベンの田園は曲調が緩慢すぎて、身体と脳が剥離してしましそうだった。その調子で運命に流れ、なぜかアンコールのブラームス、ドヴォルザーク?、エルガーあたりで指揮者が日本語で話しかけたせいか会場が和やかになって演奏がすーっと入ってきた。
 新宿で半袖Yシャツを買いこんで散財。ポールスミスの手縫いのシャツがとっても気になっているのだけど、なんであんなに高いんだろう。


2004年6月24日(木)

 もんじゃ焼きをはじめて食べた吉祥寺の夜。


2004年6月23日(水)

 今日はちょっといいことあった。やっぱり塵も積もれば山となるって感じなのかな。


2004年6月21日(月)

「バジルをちぎる」

 ベランダのバジルちぎってトマト煮てパスタつくるよ 風騒ぐ夜に
 指先にバジルの香り残しつつ、ベランダごしの夜は深くて
 嵐去る夜のひととき過ぎてゆく、草食む馬のような優しさ


2004年6月20日(日)

 生田緑地まで行ってプラネタリウムを見てきた。といっても、僕は半分夢うつつだったわけだけど。プラネタリウムを見た後、まるで一日進んだ未来でも見ているような気分になったよ。帰りは下北沢を散歩。南口を出た裏路地にmois cafe(モワカフェ)という古い民家に手を入れてつくったCafeを見つけたよ。まだオープンしたてってことで結構お薦め。といっても路が複雑でまた行けるかどうか・・・。


 
 家帰って、挽肉と小松菜とトマトと茗荷でCafe飯みたいなのをつくった。イメージどおりにつくれると嬉しい。
 食後、村上龍の「ヒュウガ・ウイルス 五分後の世界U」を読んだ。免疫学用語のオンパレードで、小説世界自体をレトロウイルスや細胞の各器官にみたてているところなど、すさまじい筆力。これを書けるのは村上龍しかいないよ。それも20日で書いたっていうし・・・。小説中のヒュウガ・ウイルスから助かることのできる条件(圧倒的な危機感をエネルギーに変える作業に従事していること)を、村上龍は満たしているんじゃないかと思った次第。若手作家にも村上氏に比較される人がいるけれど、全然器の大きさが違うよ、と段々思えてきた。





2004年6月19日(土)

 土曜日の朝遅く起きたら、ベランダのバジルが強烈な日光に照らし出されて干しあがっていた。注意深く、他の植物たちと一緒に上から水をたっぷりかけてあげる。それに応えるようにバジルの香りが放散されて、とても不思議な気がしてくる。
 日曜日の朝早く起きたら、バジルが生き返っていて、濃緑の葉を涼しい風に震わせていた。


2004年6月18日(金)

 なんでこれまで村上龍を読んでこなかったのだろうと、つくづく考えてしまう。一種の麻薬、禁断症状に犯されているような気がする。読書によってなんだか体内組成までが入れ替わってしまいそうな気がしてしまう。
 村上龍「五分後の世界」。この小説世界を想起するようなイマジネーションは誰にも真似することができない。二次大戦の後に終戦を迎えることができず、生と死の狭間で絶えず集中力を枯らすことなく、各自が優れた個として生きている世界と、生きる意味合いが薄れている現代の日本を対照的に語ってみせる。
 「希望の国のエクソダス」でも見た既視感のある桃源郷のような世界。個々が最大限自分の能力を活かして生きている世界。しかし、それはあまりに理想の世界であるがゆえに、完全すぎるという綻びをもつ。それはあまりに社会として純真すぎて、混沌や暴発的エネルギーといったものに対処する術を知らない。必要にかられているとはいえ、殺戮を繰返しているのに、全体に端正なたたずまいを感じてしまう不思議な世界。思わず、彼のデビュー作「限りなく〜」において過剰な暴力の中で不思議な静けさをもたらしていたことを思い出す。
 村上龍は小説世界の中で暴力とか力とか汚泥をこれでもかというほど見せつけるのだけど、彼が奥底に抱えているのは、むしろそれと正反対の醒めた静謐感であることに面白みを感じる。


2004年6月17日(木)

「混沌の中で悪意が増幅しだす恐怖」

 村上龍「イン ザ・ミソスープ」。既に本の名前からして生理的嫌悪感が生まれてくるのだけど、それはなぜかというと、それが混沌と曖昧によって濁っているからなのだろうと思う。村上龍はさらにここに「日本的」という意味も引っかけているはずだ。
 想像力の膨張といったものを和らげるためにホラー映画が存在するのだという小説中の興味深い言葉のように、村上龍もまた時代を予知してしまう想像力から逃れるためにそれを小説として吐き出しているのではないかと思う。そしてこの作品の想像力は、他者との関係性の中で強烈な悪意が生まれる瞬間を切り取っている。その悪意は他者への興味を前提とせず、ただ表面的なものであり、そこに相手をいたわるようなものが存在していない。相手の立場にたっていないから、相手の表面的な言動だけですべてを主観的に決め付けて悪意をもつことが可能になってしまっている。もし、悪意を生み出すこと、さらにそれによって何らかの行動に移すことに対して、抑制がきかなければ、この小説のような悲劇を生むのだろうと思う。

 ここでは行動と直結した個人心理を描いているから、ただ不気味に感じるのだろうけど、群集心理としての悪意というものは既に抑制のきかないものであるということは例えばイラクの人質問題からも肝に銘じなければならないような気がする。(きっと、この予知的な想像力に富んだこの作家はそうしたことをテーマに違う小説を既に書いているか、これから書くかするのだろうけど。)
 僕らは自分の顔を隠せぬ満員電車や雑踏の中では、周囲を無視してしまうことで悪意を生み出さないようにしているような気がする。しかしながら、僕らが一旦自分の素性を隠すことのできるWEBのような世界に入ったとき、悪意を生み出すことに無神経・無頓着になってしまうようにも思える。
 そうやって考えると、これはまったくの個人的で済まされるような他人事ではなくなってしまう。

 村上龍の根底には、コミュニケーションの決定的な欠如が秘められていて、あるいはそれに対する圧倒的な恐怖が潜んでいて、彼の筆を動かすのではないかとも考えることができる。そして、彼が特別なのは、それに対しての感覚器が誰よりも鋭敏だからなのだと思う。


2004年6月16日(水)

「穴の底、穴のむこう」 

 寝転がって日時計の曲聴いてたら、網戸にまあるい穴を見つけたんだ。
 立ってみたらそれは僕の肩と同じくらいの高さにあったんだ。
 前に住んでた誰かが指先で穴をあけて、外を眺めていたんだと思うよ。

 ときどき周りのことなんかすっかり忘れちゃってさ、穴から遠くでも眺めてみたくもなるものさ。
 夜汽車が空をよぎって迎えにくるかもしれないしさ。
 もしかしたら、こびとが蝸牛の背に乗って、ほらここに乗りなよって誘いにくるかもしれないよね。

 なんだってこんな縁もゆかりもないような土地に住んでたりするわけだろう。
 穴の向こうの世界は僕とはこれっぽちも関係なさそうでただ澄ましていたものさ。

 いったいここがどこかなんて、どうして考えついたものだろう。
 そうして穴を覗いてるこの僕がいったい誰なのかなんて、どうして考えつくものだろう。


2004年6月15日(火)

 自転車こぎこぎ、おうちについて、「ただいまぁっと」ってとりあえず、小声で言って、もちろん反応などあるわけなくて、ネクタイひゅるるっと解いて、冷蔵庫ぱっと開けて、ビールと完熟した真っ赤なトマトを出してきて、ああこれ至福也。

 
 村上龍「共生虫」。SF映画を観終えたような、それでいてそれがフィクションからノンフィクションの坂道を転げ落ちてきそうな不気味な気分。そんな読後感。ひきこもり、インターネットの増殖する悪意、そうした現在が抱えている問題をこの作家は的確に見抜いて、それをフィクションにしたてあげてしまう。ここでもコミュニケーションは不完全であり、どこを見渡しても信頼関係というものがない。村上氏の奥底にはもしかしたらそうした人間不信というものがあるのかもしれない。ベクトルは時代を志向しているようで、実はコミュニケーションを求めるものであり、むしろそこに行き着くことのできないことが、この作家の原動力になっているのではないかな。それにしてもすごい作家だと思うよ。




2004年6月14日(月)

 いくつかCDまとめ買いして気にいったのは、Travisの1st「Man Who」。ジャケットの空虚さの漂う雪景色がよいし、この写真自体が既にこの人たちの歌を表しているような気もする。

 
「ガラスのような実体とリリシズム」

 村上龍「限りなく透明に近いブルー」。以前、読もうとしたのは高3のときだ。受験勉強やってた図書館で、村上春樹の「回転木馬のデッドヒート」と一緒に借りてきて、お昼公園で読んでた覚えがある。初めての両村上作品だった。「回転木馬〜」はなんだか身体の中がざわめくばかりで、「限りなく〜」に至っては意味の繋がりのなさに途中で放棄してしまったわけだ。
 確かにこの作品、意味のつながりがわかりにくいことこの上ない。あとがきを読んで、なるほどと思ったのは、この作品が受動的でありかつ感覚的であるというところだ。主人公は周囲の風景と同じように、自分のそばで起こっているセックス・ドラッグ・暴力といったものを捉えている。人物関係の中では、恋人らしきリリーとのやりとりが面白い。主人公の口から、近いもの(友人や日常)も遠くのもの(風景や想像の世界)も同じ距離にして語られるからだ。
<<リュウ、あなた変な人よ、可愛そうな人だわ、目を閉じても浮かんでくるいろんな事を見ようってしてるんじゃないの?うまく言えないけど本当に心からさ楽しんでたら、その最中に何かを捜したり考えたりしないはずよ、違う?>>
 これって、まるで村上春樹の初期作品と同じ視点じゃないか。村上龍は常に能動的な人間でそこから何かをつかみとっていくのとばかり思っていたのだけど、この作品では確かに主人公の友人関係はもつれにもつれていているのだけど、結局のところ表面的な関係にしか過ぎない。唯一心を許しているリリーへも、その心を透過して違うものを見ているということを吐露しているに過ぎない。
 ということで村上龍の本をまとめて読みたくなってきた。


2004年6月13日(日)

 金沢まで行って、学生交流みたいのを実施したのだけど、回数を重ねるに従って(これで5回目かな)、少しずつコーディネイトや司会するのが上手くなってきたように思う。ただあくまで裏方なのに、先生と同じくらい目立っちゃいすぎているのは考えものかなぁ。上司から学生とあまり仲良くなり過ぎないように、とか釘をさされているのだけど、女性パワーに圧倒され気味。日曜は先生と二人で兼六園やお城やらを物見遊山。 


2004年6月11日(金)

 人を疑わなければならないのは辛い。人を信じるほうがずっと楽だよ。今日の仕事は精神的に疲れた。僕には警察官とか探偵とか絶対向いてないって思う。
 明日は金沢に出張なのです。飛行機で雲の上でも越えていけば気分が変わるかも。


2004年6月10日(木)

 涙は女の最大の武器、とは誰かの言葉だけど、よく言ったもので、電話かかってきて相変わらずクールに答えることもできずに曖昧なまま言葉をかけていたら、電話線の向こうで泣いているのだから、もうどうしたらいいのか。そうやってオフィス出てきたら、外の戸口で先生が煙をしんみりくゆらせていたものだ。そのままアイリッシュな飲み屋に行って、ビールを前になんだか語っていたりするのです。日々こうして過ぎゆく。


2004年6月9日(水)

 サッカーインド戦、すぐ近くの先輩ん家で。ビール片手におーっとか、えーっとか感嘆語の発声練習。
 おうち帰って、ミーハーなtlcかけてたら踊りたくなるわけで。こんな生活で十分ハッピー。


2004年6月8日(火)

ときどきこんな気分。

一番のお気に入り。

2004年6月7日(月)

 普段外部に求めることなんてないのに、いつもは全ては自分の中に帰結して満ちることができるのに、なぜか時々湧いてくる渇望。それがいったい何なのか僕にはわからない。昔書いた手紙とか、真夜中の電話のやりとりとか、そんなものを目覚めたときにふと想い出したりしたからなのだと思う。耳たぶ沈めた枕ごし伝わる外降る温かい春の雨がまるで心の襞をぬらしていくような、そんな気分。もどかしくって、手を伸ばしても届かなくって。CDの山に手を突っ込んでsupercarをかけて、どこかのブリキバケツに放り込んだまま忘れてしまったようなギターポップスを聴いている。そんなキモチが何だかわからない。ただ小さな喉のかわきのような、まるで旅人が砂漠の向こうのオアシスの幻影を求めてしまうような、そんな揺らぎと戸惑い。


2004年6月6日(日)

「過去と未来の交差するところ」

 小雨模様の新宿。南口をスタートに、パークタワー、都庁のトライアングルな散歩。パークタワーから見たガラス越しの都市景観がまるで東京ではなくて欧米のどこかの街にいるような気をさせたのを始めとして、雨に煙る欅並木、紫陽花、都庁の幾何学的な聳え方等々、なんだかまるで自分が旅行者になってTOKYOという街を初めて訪れたような錯覚を起こさせた。まるでロスト・イン・トランスレーションのように僕の立っている場所さえ危うくし、咳の微熱のままに過去と未来を行ったり来たりした。コンランショップの横では再び椅子の作品展が開かれていて、椅子に座っていると突然そのまま数年前に戻ってしまうのではないかという期待まで抱いてしまった。
 そうしてもらったプレゼントを開けてみたら一輪の紫陽花と青いロスコの絵のついたTシャツ。なんとも世界で一枚きりのTシャツということなんだ。僕の好みを突きすぎていて驚くやら嬉しいやら。

 
 ポール・トーマス・アンダーソン「パンチドランク・ラブ」。今まで見たことのないような映画。ダメダメな男と彼に惹かれていく女性の恋愛模様。僕には理解しがたし。不思議なものを観たという感覚だけが残った。
 フランソワ・オゾン「8人の女たち」。楽しんで作ったという感覚の映画。女優をしっかり揃えて、歌と踊りを織り交ぜてフランス的に仕上げたってところか。悪くないけど、僕は深みのある「まぼろし」のほうを推す。


2004年6月5日(土)

 さすがに病院に行って来たよ。それで久し振りに医者というものと話した。説明義務というものが定められたせいなのか、僕がお行儀よく耳を傾けていたせいなのかよくわからないけど、やたらと薬と症状の関係について教えてくれた。これでさすがに治るんじゃないかなぁ。

 
 イ・チャンドンの「ペパーミント・キャンディー」。自殺に向かうまでの二十歳頃から二十年間の経緯を現在から過去に向かって遡っていくという映画。そこには韓国の社会的背景が塗り込められていて興味深いし、恐らくここで暗い影を投げ打っている兵役に、思い馳せた韓国人男性は多かったのではないかと思う。惜しむらくは、映画のつくりが雑なこと。脇の演技にはちょっと見ていられないものもあった。

 
 星野智幸の「ロンリー・ハーツ・キラー」。なかなか読み応えのある小説だった。星野氏はダイアリを公開されていて、これまでもその言説に賛同できるところが多かった。(というかイラク問題等についてはほとんど受け売り状態かもしれない。)しかし、その一方で彼の言説と、彼の創作物である小説に微妙な溝を感じていたのも事実。ダイアリでの言説は理解されることを求めているのに対し、小説ではわざと難解にして簡単に理解されることを拒んでいたようにも思う。
 それでこの小説だけど、真意は相変わらずぼかされたままだけど、現代の日本がもついろいろな問題を包含してそこに対して物を考えさせるような小説の仕組みになっている。そういう意味合いでは村上龍にも近いのだけど、村上龍のような問題点と独自の解決の方向性への示唆というものがなく、それをボールか何かの中でぐるぐると攪拌したような小説であると思う。だから、ここではネット社会(言葉がコピーされて増幅し、誰もが気付かないうちに受け売りの言葉を自己意思として主張していく世界)や少子化、コミュニケーションの希薄化といったものが出てくるけれど、小説のプロット展開の中で、問題→解決といった道筋ではなく、問題A→問題B→問題C、といったすり替わりに成立している。考えてみれば、今生きているこの世界も全てはそのようにすり替わりによって成り立っているわけだ。ただ、やはり解決点を明快には見せないといったところはこの小説家なりの姿勢なのかもしれない。それは誰かが指図するものではなく、自分で見つけてもらわないといけないのだ、というような。また、一方で問題をバトンタッチさせ、複数の人の言葉を語ることはきつい作業だったのではないかとも思える。この小説、相当の(作者のダイアリの言葉を借りれば)瀬戸際の中で書かれたように思う。僕には問題に対してここまで格闘できる体力があるか果たしてわからない。その意味でもこの小説はすごいと思うし、また今の時代を切り取った小説として賞賛されるべきだと思う。


2004年6月4日(金)

 どうも咳が抜けない。オフィスの上のフロアには医院がはいっているのだからさっさと行けばよいのだけれど、今日はスケジュールが過密すぎで行けず仕舞い、・・・そんなこと考えていたら大事なメールをひとつ出すのを忘れていたのに気がついた、あぁ。
 咳をするたびに、まるで火の球にでも変わってしまいそうな彗星のようにこの身体は発熱を繰返している。早く治さないと、かたつむりのような週末になりかねない。


2004年6月3日(木)

 尋常じゃないくらい朝から咳が出てあえなくお休み。症状としてはここ数日とそんなに変わらないのだけど、休んでもさほど影響しなそうなのが今日だったからお休みにしたという変な理由。そういうわけで日中、魔法にでもかけられたかのようにずっと眠っていた。
 
 *
 阿部和重「無情の世界」。彼らしく、現代の消費や暴力を過剰なまでに押し込んで、それでいながらそこに別の枠組みを使っているといった手法。といっても、彼が何を意図しているのかまではわからなかったけれど。お休みの日はもっと世界が和らぐようなものを読んだ方がいいとも思ったね。

 
 ようやく読了、長かったぁ。Paul Auster「TIMBUKTU」。Mr.Bonesなる犬を主人公とした小説。長年、付き添った飼い主と死別した後の放浪を描いているのだけど、この放浪は行き着く先がない。期待と落胆のくり返しであり、自由を切望するがゆえに一つのところに留まることができないということもある。犬もまた目の前の死を予見し、その先にあるティンブクトゥー≒天国への道に思い巡らす。
 しかし、もう少しばりばりと英語を読む力がないと、この先、きついなぁ。ティンブクトゥーは遥か先。


2004年6月2日(水)

 調味料の中で使う瞬間、一番ためらうのって魚醤(ナンプラー、ニョクナム)だと思うよ。鍋にふりかけた瞬間、そこはもう東南ア・ジ・アって感じだものね。豚肉、ニンニク、胡瓜、トマト、中国野菜(名前忘れた)、ご飯を炒めて、ここで東南アジア化。ビールをごくごくと飲んで、ああ悪くない。そうそうmusic、ムジクと思って、こんなときこそエゴラッピンって思ったけれど先に見つけたのがUAだったから、UAでムジク・スタートってわけ。窓開けて網戸ごし、熱帯植物のように夜風浴びて、どこかへ。


2004年6月1日(火)

 あまりに咳が出て、仕方なくマスク男。99.9%のインフルエンザ菌を遮断するんだって、と薬局で買ってきたばかりのマスクの売り文句を得意気に言ったものなら、「その風邪ってインフルエンザ?」・・・うーん、違うかもしれない。