2004年2月29日(日) |
2月はたった3冊しか本を読みきれなかった。映画はたったの2本。展覧会が1に、観劇1。多分、物をあまり考えなかったと思うし、想像力というものを自分の中で働かせる機会が少なかったかもしれない。その分、もちろん仕事もしていたわけなんだけど、どうも仕事って忙しいと想像力がなくなってしまうことが多いように思う。ほとんどルーチンワーク的なものをこなしているだけで、新しいものを作り出そうとする意欲(というか原動力)が落ちてしまう。確かに事務処理をきちんとこなすことも現状を回転させるためには必要なんだけど、そこにプラスをして新しいものをつくっていかないと、組織全体としても現状維持でしかない。まぁここに入って一年も経ってないから、初めての繁忙期をどうにか乗り越えたということである程度は満足してもいいのだろうけど。そういうところを僕の上司はどのように捉えているのかわからないんだけど、「人を増やしてもいいと思ってる」って言うところを見ると、まぁ全体の状況をつかんでくれているような気がする。
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2004年2月28日(土) |
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恵比寿でヴォルフガング・ベッカーの「グッバイ・レーニン!」。この映画、悪くなかった。
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2004年2月27日(金) |
ぱったりとふとんのなかに落ちてみる。 |
2004年2月26日(木) |
少しはゆっくり立ち止まって、ぼぉっと空でも見ていたほうがいいような気もする。暇って文字が辞書をめくっても見つからないんだよね。何をしたらいいかわからない気分っていうのが確かにあったような気がするんだけど。 |
2004年2月25日(水) |
他社の仕事相手のレベルが低い、って嘆くのはきっと自分のレベルが低いということの裏返しなのかも。 |
2004年2月24日(火) |
「梅と不思議な噂とそうめん」
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2004年2月23日(月) |
「夜のひととき、なにげない思考の流れ」
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2004年2月22日(日) |
今いる自分の座標があって、そこに繫がる軌跡がある。僕の今いる座標だけではその軌跡は見ることができない。そうした軌跡を説明できないことに人は皆、他人に対してもどかしい思いがするのだろう。例えば、恋愛の終りではその軌跡を知るもうひとりの人を失ってしまう苦しみを味わうことになる。軌跡がぷつんと切れて、そこからたった一人でまたどこかへ座標を伸ばしていかなければならないことへの漠然とした恐れを感じるのだろう。そうやって日々を生きているうちに、少しずつ自分の軌跡を知ってもらうということに途方もない徒労を感じるようになる。あるいはたとえ知ってもらったとしても、その人もやがては消えてしまうのだろうという諦めのような気持ちが生まれてくる。
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2004年2月20日(金) |
このところアウトソーシングのミスが多い。先週末はシステム会社だったけど、今度はカード会社。まぁミスは誰にでもあるとして、そのフォローができなかったり、次に活かすことのできないところならやっぱり・・・、乗り換えたほうがいいってことかしら。
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2004年2月18日(水) |
仕事もピークを越えた。19時前にケータイがぶるぶるいって、「サッカー始まりますよぉ」と近くに住んでる別セクションの人からお誘い。自転車かっとばしていって、彼の部屋でピルスナーと宅配ピザ片手にサッカー観戦。連係プレーがよくなくて、日本の強さがいまひとつわからないゲームだったけれど、まぁ勝ちは勝ちってことでよかったね。その後、初めて話題のトリビアの泉観た。そのことにすごく驚かれた。テレビって時たま観ると面白いですよね。若手芸人の話芸なんかも脚本とかあるんですよね、とかいう話になって、これ見ながら、あっうけてる、とか喜んでいるライターがいるとかいう、極めてメタ的な話をしていたわけです。 |
2004年2月17日(火) |
相変わらず駈けずり回ってる。目の前に書類の山があって適当に引っこ抜くと、おっとこれは重要だぁってな感じです。カフカの城とか審判の世界だったら、それでも定時とかに帰っちゃうんだろうけど、ここは動物的欲求によって資本主義経済が高速回転している国なのでそうもいかないのです。
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2004年2月16日(月) |
駆けずり回っている間に一日が終わってしまった。 |
2004年2月15日(日) |
まず昨日のダイアリの訂正。主観と客観の使い方が逆なような気がする。「変身」のザムザ氏を見ていて変身しても変わらないことに面白みを感じているのが客観で、自分は変わらないのに変わっていると感じている人たちを見るというのが(ザムザの)主観なはずだ。読み方としては客観じゃなくってザムザの主観で捉えるべきってことかな。(なんか言葉がそれでもしっくりこないけど。)要するにユダヤ人がある日を境に毒虫と見られてしまうことを奇異に思わない人たちのことをユダヤ人側から見るってことだ。・・・と言っても高校生くらいのときに読んだ記憶で書いているのでいずれ再読したい。
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2004年2月14日(土) |
出勤したら既にシステム会社のお偉いさんたちが出揃っていて恐縮。
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2004年2月13日(金) |
お昼ごはんを食べるのを忘れるくらいに(いやモスでチリドック食べたけれど)ここのところ忙しい。朝、何気にある学生の成績確認してたら偶然(数万件に3件しかなかったみたいだから相当偶然)システムエラーを発見。それでシステム会社は休日返上で人員総出の対応になってしまったからびっくり。といっても僕はそんなこと半分忘れて入試業務に没頭してたわけだけど。
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2004年2月11日(水) |
マイケル・アルメレイダの「ハムレット」。あの古典を現代のNYを舞台にスタイリッシュに作り直した作品、だそうだけどどうかな。映画を観ているというよりかは演劇を観てる気分だった。形式が真似られているんだけど、そこに新しい広がり(面白み)がないという感覚。イーサン・ホークにカイル・マクラクラン、サム・シェパードまで揃えているし、実際演技もいいんだけど、ああやっぱり演出がなぁ。「ロミオとジュリエット」観てないけれど、想像するにその位きらびやかでもよかったよ。勿体ない。この「ハムレット」より、陰鬱な感じのカウリスマキの「ハムレット」のほうがよいと思う。
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2004年2月10日(火) |
たまに以前のダイアリを読んでみる。小気味よい文章や、感性の迸る文章に出会って、それが自分であることが不思議になる。まるで見る方向が違えば、見えてくるものが違ってくるような透明なグラスのようなものなのかもしれない。そうして屈折した光の見せる違う姿に、僕のことを知る人はときどき戸惑ったりするのかもしれない。 |
2004年2月9日(月) 29th Birthday |
誕生日。29年前にこの世界に僕が誕生したということ。ただそのことだけが奇跡で今僕がここにいること。
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2004年2月8日(日) |
昨日観た映画、実は同時間くらいに地上波で放送してたらしい。わざわざビデオ屋から借りてくるのは君くらいのものだよ、だって。ちなみに今住んでる家ではアンテナの穴の形が特殊で未だにTVが見れないのです。TVが見れるのなら僕は間違いなくサッカー観てるんだろうけど。インターネットでサッカー中継とかやってくれないものかなぁ。僕だったらお金払っても見ますけど。
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2004年2月7日(土) |
視察は結構刺激的だった。アメリカと双方向で授業ができるっていいかもしれない。ある人にとってはそれが既に当たり前でこうやって休日の朝、アメリカにいる先生と問答を繰り広げていて、ある人にとってはそんなことは思いつかない。
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2004年2月6日(金) |
学生からの苦情が今日は多かった。朝5時からWEB試験受けてる人とかいるんだから驚いてしまう。個別対応を多くしてしまったのは反省。数日先回りしていればなんてことはなかったのに。
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2004年2月5日(木) |
「ネットショッピング依存症かもしれない」
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2004年2月2日(月) |
お風呂あがり。少し湿ったバスタオルをパジャマの肩越しにかけ、オレンジジュースをごくんごくん。今考えてること、それは文章をもう少し愛情を込めて書かなくてはいけないなということ。どんな行為にも愛情を込めなければ、自ずと生活は荒廃する、そうは思わない?逆に言えば、身の回りに愛情がもてるならば、それは豊かな生活ってことなんだ。 |
2004年2月1日(日) |
卒研の口頭試問のアレンジ。司会やって、うちの学校で対外的に一番有名な先生の意見をきけたりするのも楽しかったり。しかし、10分おきにしゃべって、ストップウォッチ見ながらチンとベル鳴らして、録音してということしかやってないのに妙につかれたであるよ。学生にも先生にも好評だったようでひとまずよかった。
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2004年1月31日(土) |
一日のんびり過ごした。
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2004年1月30日(金) |
サム・メンデス監督「アメリカン・ビューティー」。アメリカの現代の家族を風刺的に描いた作品。空虚な内面を見せかけの外面を押し出すことで埋めようとする親世代(健康であり、若さであり、お金である)。逆にその中身の無さに辟易して内面に閉じ篭ろうとする子世代(ビデオカメラがそれを象徴)。互いは互いを理解することができないままに、ただ崩壊してゆくという映画。これがアカデミーということは、アメリカ人にとっては等身大の映画だったという裏返しなのかもね。サム・メンデスはかなり物によって意味を際立たせていくのが上手い監督なのかもしれない。赤い薔薇にビデオカメラ・・・、しかし隣人の父親と母親の設定の仕方が中途半端だったような気もするかな。 |
2004年1月29日(木) |
昨夜は大学のときの部活の飲み会。新宿に終電時刻までいて、結局3学年下の後輩がうちに泊まりに来て4時まで話をしてた。当たり前だけど、今日の仕事は頭がいつもの半分くらいしか動かなかった。 |
2004年1月27日(火) |
小田亮の「ヒトは環境を壊す動物である」(ちくま新書)。題名からてっきり経済学・資本主義・欲望と環境破壊の関係でも論じるのかと思ったら、サルが進化して人間になりましたよ的な進化心理学から攻めていって、攻めていくのはいいのだけど結局環境破壊(の解決策)という攻めるべき城を見失ったという感じ。要旨はもともと人間が認知できる集団というのは150人かそれくらいで、その規模の集団ならば認知心理学的に協力して資源なりを温存していくことができるのに対し、現代の世界規模の環境破壊というレベルではおサルさんから進化した僕らにはそれをうまく想像したり、戦略立てることができないというわけ。しかし、この題名では内容とシンクロしてこないのではないか?結局、コマーシャリズムに乗っ取られたのかなぁ。どうせつけるのなら、「サルから進化したゆえに僕らは・・・」とかそういうのが妥当だったんじゃないの?環境(生物や生態系の多様性、種や遺伝子の保存とかそういうことだよ。)のことを格段書いているわけでもないしねぇ。 |
2004年1月26日(月) |
仕事を効率的に進めてさっさと帰りたいなら、個別対応はするなかれ、というのを肝に銘じているのだけど、さすがに学生の学習も終盤にはいってきたの(「成績がWEB上できちんと反映・表示されてない」etc)と、入学金の納入関係で(そりゃ1000人以上合格にしたわけだもんなぁ。)やれ「間違えて振り込んだ」、やれ「合格通知が届かない」とか結局そんなのも対応せざるえない。それから先生の個別対応。○○先生が辞めるとか、○○先生からのお願いだとか、そういうの。結局家に帰る時間が遅いと、本読む時間もなくなっちゃうんだもんなぁ・・・ということでもう少しやり方を考えたいところだけど。昨日買ったカモミールティー飲みながら、既に半分どうでもいい気分。
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2004年1月25日(日) |
神経を弛緩させたせいで何だかぼんやりとした一日だった。一緒にいてくれた人には悪いことをしたかもしれない。
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2004年1月24日(土) |
入試対応だったのだけど結局たいした仕事もなかった。Jリーガーみたいなダウンジャケットきてさほど緊張もしていなそうな男子高校生に笑顔で案内して最後はなぜか女子高生に纏わりつかれておしまいっと。 |
2004年1月23日(金) |
「自由を考える」読了。結局ランチタイムとお風呂で読みきったような気がする。この本、かなりのヒットだったと思う。僕のレベルではすべてが血や肉にはならないけれど、それでも何か一段昇った、あるいは昇る糸口が見つかったような本だったと思う。
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2004年1月22日(木) |
細胞が休息したがってる。とりあえず日曜は解放されたので、そこで息がつけるかも。今夜はウイスキーでもころんころん(氷の音ね)。 |
2004年1月20日(火) |
どうも今週は週末がないみたいでそれを聞いたら胃が痛くなっちゃったんだよ。まぁ適当にやってくよ。
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2004年1月19日(月) |
「肯定してみせよう」
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2004年1月18日(日) |
久し振りにお昼とれないくらいに、耳の上の骨が痛くなるくらいに、目一杯仕事したであるよ。今はマイルスデイビスのkind
of blueを聴いて、くつろいでるってわけ。
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2004年1月17日(土) |
「喪失を埋めるために」
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2004年1月16日(金) |
「ドメイン取得」
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2004年1月15日(木) |
「動物化するポストモダン」読了。だが、最後にきてうーむという感じ。大澤真幸の理論で進む90年代中盤くらいの虚構の時代まではよくわかるし、そこでオウムというものが失われた大きな物語を求めている人を呼び込んだこともわかる。だけどその後、シミュラークルによる小さな物語の欲求(=動物化)という東氏自身の論の展開がよくわからないのだ。それは現在という流動的で無定形なものを扱っているからかもしれないし、あるいは東氏の論議が先に行き過ぎているためなのかもしれないし、もしかしたら自分が一応平面世界をデジタルで扱う地理情報のSEであったため、思考法が違うせいなのかもしれない。大きな非物語への欲望と小さな物語への欲求が並行しているというところは、対象とするスケールの違いによってそれは大きくも小さくもなるのではとも思えて、なんだかうまく理解ができない。それをデジタルやWEBで説明しようとしているせいなのかもしれない。WEBやデジタル画は見えなかったものをHTMLやアドビの言語、16進法などで過視化したというけれど、それを言うと数学という学問は既に空間や時間というものを数字で捉えているから、ある程度そうした理系的な思考法があれば既視していたとも言えるのではないか?ある程度慣れた人なら楽譜から曲想がわかる音楽家のように、数式を見た瞬間にその形、動きといったものまで見通せてしまうような気がする。それは現実には見えない天体の動きや時間の流れや多次元空間のようなものまであるいは見通せてしまうものかもしれないわけだし。また、各要素をプログラミングしていくことを物語とだって捉えることだってできるだろうに。もっと押し進めていってしまえば、言葉や文節をプログラミングしていけば、それは小説ということにはならないか。そうやって逆から話を進めていくと、東氏の話の展開が僕の頭では理解不能になってしまうのだ。
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2004年1月14日(水) |
ふと気付くと、いつ間にか世の中ではblogというものが流行り出しているらしい。これが一体なんなのか実はさっぱりわかってない。movable
typeが日本では先駆けてアメリカからやってきたとか、別立てでサーバが必要だとか、もうよくわからないぃ。別に竜宮城いってたわけじゃないのに・・・、WEBの進化って早いのね。
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2004年1月13日(火) |
出願関係の書類がどさっとやってくる。一つ一つは日本の津々浦々あるいは異国からやってくるわけだけど、それが塊になってしまうところが不思議。書類を分けるついでに志望動機など読んでいると・・・、ああ感心。僕なんかよりずっと人生経験を積んだ様々な人がいろいろな問題を抱え、それを克服するために、この学校に入りたいと思うなんて書いてくる。選ぶのもほんとうに大変だ。僕の役割は学習環境を少しでもよいものにして、ひいてはビジネスとして役立てること。金曜日に新年の訓示のようなものをきいたけれど、国際化と少子化というキーワードを話されていて、それが意味するところはもしかして生涯教育の可能性?なんて思ったわけで。実際、人(上司)づてに聞いたところによると、そういう意図だったみたい。
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2004年1月12日(月) |
阿部和重「シンセミア」読了。最後は一挙に読んでしまった。
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2004年1月11日(日) |
吉祥寺パルコブックセンター→orange cafe→井の頭公園→鍋会という一日。外は寒かったけれど、心の温まる悪くない一日だった。 |
2004年1月10日(土) |
阿部和重の「シンセミア」上巻まで読み終えた。小説世界は山形のある田舎町すべてを内包して、様々な人間を登場させる。しかし彼の世界観とは随分暴力や犯罪に満ちているものだと思わずにはいられない。この作品がたまたまそうした作品なのではなくて、彼の世界自体がそういうものだと考えたほうがいいような節が過去の作品を振り返っても、あるように思う。彼の世界観はある一面から見れば正しいのだが、表面的なすべての物事がそのように成立していると考えるには少し苦しいのではないかと思う。もし、本当にこれが彼の生きている表面的な世界ならば、彼は彼自身の投影であろう登場人物、パン屋の息子のように、世界に対して孤独な思いを抱えていて、さもすれば厭世的な見方をせずにはいられないのではないかとも思う。あるいは彼にとっての小説とは、そうした暴力的な世界を破壊して再構築するための手段なのかもしれないとも思う。
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2004年1月7日(水) |
仕事はじめ。明日からいよいよWEB出願がはじまるってことでいきなり慌しい毎日になりそう。
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2004年1月6日(火) |
渋谷でジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌの「息子のまなざし」。手カメラで撮られた非常にシンプルな映画。主題(罪を許し、受容すること)にのみ集中し、観客を半分無視したかのようなつくりかた。斬新だ、とかシンプルでよいとかまぁそういう意見も言えるのかもしれないけれど、僕はこれを推せず。
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2004年1月5日(月) |
「現在を消失してしまうほどの過去」
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2004年1月4日(日) |
札幌から帰ってきました。
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