2004年2月29日(日)

 2月はたった3冊しか本を読みきれなかった。映画はたったの2本。展覧会が1に、観劇1。多分、物をあまり考えなかったと思うし、想像力というものを自分の中で働かせる機会が少なかったかもしれない。その分、もちろん仕事もしていたわけなんだけど、どうも仕事って忙しいと想像力がなくなってしまうことが多いように思う。ほとんどルーチンワーク的なものをこなしているだけで、新しいものを作り出そうとする意欲(というか原動力)が落ちてしまう。確かに事務処理をきちんとこなすことも現状を回転させるためには必要なんだけど、そこにプラスをして新しいものをつくっていかないと、組織全体としても現状維持でしかない。まぁここに入って一年も経ってないから、初めての繁忙期をどうにか乗り越えたということである程度は満足してもいいのだろうけど。そういうところを僕の上司はどのように捉えているのかわからないんだけど、「人を増やしてもいいと思ってる」って言うところを見ると、まぁ全体の状況をつかんでくれているような気がする。
 今朝は起きた時から一ヶ月分の疲労がきたみたいで、骨という骨の接合部がぎしぎしと痛んだ。まるで昨日どこかの廃棄場から部品を拾ってきて造られたロボットのような気分だった。しばらくしたら、今度は内臓が痛くなって(ああ、ロボットじゃなかった)、猫のように丸くなって眠っていた。
 
 紺野登の「創造経営の戦略」(ちくま新書)。初めての経営関係の本。てっきり資本主義的なシステマティックな物事の動かし方について書かれているかと思ったら、意外に人間的なことが書かれていた。まぁそれが今の時代の要請ってことなんでしょう。
 二十世紀的価値観では、「消費=快楽」が基本となって、その事前の代償として「労働(生産)=苦」を受け容れていたのだけど、社会の成熟化と生活者の変化によって、自分の内面を覗き込むようにしながら、創造的に、社会性を意識した消費を行う生活に移ってきたという。例えば、それは環境問題への参加であり、地域社会への貢献であり、自分の生き方の見直しということを意味している。よってもちろん経営戦略もそれを見据えたものでなければいけない。
 またデザインにも多くのページを割いていて、原体験(記憶)を追体験するようなデザインや、高級旅館やエルメスのように時間や場の経験を提供するデザインが必要だと説いている。
<<「・・・よいデザイナーはわたしたちの潜在意識の表層を掬う。彼らは美学的言語を使って、すでに埋もれてしまったり失われたものを結びつけ、表現する」>> 確かにそうだよね。


2004年2月28日(土)

 恵比寿でヴォルフガング・ベッカーの「グッバイ・レーニン!」。この映画、悪くなかった。
 ここに出てくる主人公の東ベルリンの青年は、昏睡状態にあったためにベルリンの壁崩壊を知らず、また知ってしまえばショックで寿命を縮めると宣告された母親のためにある物語(壁崩壊はなく社会主義が存続しているという物語)を紡ぎ出す。世界を母親のために変えてしまう。映画は終盤までこの物語を保つための難しさを面白おかしく描いていくわけだが、母親が物語が物語でしかなく現実が別にあると気付いたときに、この映画は違う意味を持ち始める。それは、ある人のために物語を紡ぐということの美しさのようなものだ。最後の最後、母親は語られる物語を見てはいない、見ているのは主人公であって、もはや母親は物語の紡ぎ手を見ている。そこにこの映画の意味がある。物語はその物語に意味があるのではなく、なぜ語られるかに意味があるってことだ。僕はけなげな青年をみつめる母親の視線に涙がちょちょぎれそうになったことだよ。ああ素晴らしい。
 一方でもう少しこの映画の解釈を深めるとしたら、それは青年が母親のためとして紡いでいる物語が実は自分のためだというところにある。ベルリンの壁の崩壊とともに、コカコーラやらバーガーキングやらスーパーマーケットに象徴される西側の資本主義がどっと雪崩こんできたときに、青年はそれによって変わっていく自分の心の変容が怖かったはずだ。保守的な社会主義の中で築かれていた父不在の家族の繋がりがなくなっていくことを怖れていたわけだ。結局彼はその恐れから逃れるために母親のためとして物語を作っていた節が強い。ずっと自分たちを捨てたと思い込んでいた父親がそうではなく自分たちのことを思っていてくれてことを知ったとき、また東ドイツの英雄であり理想としていた宇宙飛行士が新しい資本主義世界の中で単なる労働者として生きていくのを見ているうちに、彼は彼自身の物語を変えていったわけだ。それは母を納得させるのではなく、自分を納得させるためのものだったはずだ。だからこそ、最後の物語は、既に事実を知った母親ではなく、彼自身のために語られているのだ。母親の視線はだから、息子のそうしたすべてを包含している視線だったのかもしれない。


2004年2月27日(金)

 ぱったりとふとんのなかに落ちてみる。


2004年2月26日(木)

 少しはゆっくり立ち止まって、ぼぉっと空でも見ていたほうがいいような気もする。暇って文字が辞書をめくっても見つからないんだよね。何をしたらいいかわからない気分っていうのが確かにあったような気がするんだけど。


2004年2月25日(水)

 他社の仕事相手のレベルが低い、って嘆くのはきっと自分のレベルが低いということの裏返しなのかも。


2004年2月24日(火)

「梅と不思議な噂とそうめん」

 M駅の駅前に何にも使われていない土地がある。誰でも欲しがりそうなところだから、何か因縁づいた土地で持ち主が手放さないのだろうけれど、ここの梅の花がとても見事だ。周囲は柵で囲われていて、入るのは時間を持て余した猫と奇特な人くらいしかいないようなところで、僕なんかはこの前、天気のいい日に職場のお姉さまたちとランチに出かけたとき、「誰かひとりくらい埋まってそうだよね」なんて無駄口を叩いたくらいなのだけど、この前バスに乗ってたら前にいたおばさんたちが「あそこの梅は少しずつ増えているよねぇ」なんて言うからますますその空き地が不思議に思えてきたってわけだ。都市といっても、絶対、何かに守られていて、現代の都市の論理で割り切れない不可思議なところがきっとあるものだ。そういう空間の歪から物語が始まる予感がする。少なくとも梅の花とともに春はそこから始まったようだ。(ってお風呂の中で保坂和志の本を読んでたから、文がそうめんのようにつらつらと続いているってわけだ。)


2004年2月23日(月)

「夜のひととき、なにげない思考の流れ」

 何かに依存することが多いと、その分僕らは不安定になる。たとえば岩崖に咲いた高山植物みたいなものだ。
 不安定な多感期をいくらか過ごした後で、多くの人は何かに依存することをやめる。すなわち自分で完全に立って、不確定要素を消してしまう。
 僕らを苦しめるものの多くは僕らが依存するものから生まれる。つまり、愛情であり、名誉であり、お金といったところだ。
 もし解放されて生きたいのなら、何かに依存することをやめるべきなのかもしれない。
 しかし依存しなくなれば、苦しみが消えるのとともに、繋がりが消えていくような気もする。それは求めるということと同義だからだ。求めるー求められるといった関係性の希薄化。
 例えばよくある問いかけ。「もし彼氏(彼女)が不貞(古めかしい言葉だ。)をはたらいたらどうしますか?」 許す、許さないに関らず、そこにあるのは苦しみだ。だけど、この質問がぴんと来なくなったらいったいどういうことだろう。
 結局、依存するということは実は生きるということとも極めて同義なのではないか。生きるということは、ある繋がりの中で依存しあうことで、苦しんだり、喜んだりして不安定な状態にあることなのではないだろうか。(なぁんてまとめたけれど、よくはわからないわけなんだ。)


2004年2月22日(日)

 今いる自分の座標があって、そこに繫がる軌跡がある。僕の今いる座標だけではその軌跡は見ることができない。そうした軌跡を説明できないことに人は皆、他人に対してもどかしい思いがするのだろう。例えば、恋愛の終りではその軌跡を知るもうひとりの人を失ってしまう苦しみを味わうことになる。軌跡がぷつんと切れて、そこからたった一人でまたどこかへ座標を伸ばしていかなければならないことへの漠然とした恐れを感じるのだろう。そうやって日々を生きているうちに、少しずつ自分の軌跡を知ってもらうということに途方もない徒労を感じるようになる。あるいはたとえ知ってもらったとしても、その人もやがては消えてしまうのだろうという諦めのような気持ちが生まれてくる。
 そうした諦めにあるときに、自分の軌跡のかけらを知る人と話せるってとても安心できることなんだ、と僕は思った。再び、昔打った座標がどこにいったのだろうと彼方を探す。そうして自分の次の一歩を半ば意識的に感じてみようとする。
 
 名古屋市美術館で「シャガール傑作版画展」。初期の「死せる魂」の挿画は、線に面白さのある作品群。観ているうちに、この挿画のある本を読みたくなってくる。「寓話」のシリーズはシャガールらしさがよく出ている作品。前景の動物と背景の丸い月というように構図のいい作品が多かった。「聖書」の挿画群はさほど馴染みがなかったけれど、過去に戻っていくストーリー(逆から観てた)からところどころ知っている聖書の話がひとつになっていくのが純粋に面白かった。「サーカス」はこれもシャガールらしく、喜びと哀しみが同時に込められていてなかなかよい。美術館を出て、春の雨をしみこんだ土の匂いをかぎながら、ああ夢のようだって思ったんだ。


2004年2月20日(金)

 このところアウトソーシングのミスが多い。先週末はシステム会社だったけど、今度はカード会社。まぁミスは誰にでもあるとして、そのフォローができなかったり、次に活かすことのできないところならやっぱり・・・、乗り換えたほうがいいってことかしら。
 前のセクションのときから信頼関係にあった別の会社と他業務での打ち合わせ。これまで下手で出てきた相手が突然言説を変えて立場を転じてきて、思わず切れそうになったよ。別にこことも絶対じゃないなって思ったわけ。
 ビジネスパートナーと信頼関係を築くって難しいってここにきて痛感。新しいパートナー探してくるのもけっこう骨が折れそうだし。

 明日は仕事ちょこっとやってから(ミスのフォロー)、新幹線乗って南下する予定。


2004年2月18日(水)

 仕事もピークを越えた。19時前にケータイがぶるぶるいって、「サッカー始まりますよぉ」と近くに住んでる別セクションの人からお誘い。自転車かっとばしていって、彼の部屋でピルスナーと宅配ピザ片手にサッカー観戦。連係プレーがよくなくて、日本の強さがいまひとつわからないゲームだったけれど、まぁ勝ちは勝ちってことでよかったね。その後、初めて話題のトリビアの泉観た。そのことにすごく驚かれた。テレビって時たま観ると面白いですよね。若手芸人の話芸なんかも脚本とかあるんですよね、とかいう話になって、これ見ながら、あっうけてる、とか喜んでいるライターがいるとかいう、極めてメタ的な話をしていたわけです。


2004年2月17日(火)

 相変わらず駈けずり回ってる。目の前に書類の山があって適当に引っこ抜くと、おっとこれは重要だぁってな感じです。カフカの城とか審判の世界だったら、それでも定時とかに帰っちゃうんだろうけど、ここは動物的欲求によって資本主義経済が高速回転している国なのでそうもいかないのです。
 僕らはこういった、欲求と充足が直結しているような動物的な世界がヨーロッパでも当たり前なんだろ?とか思うんだけど、実はチューリッヒもアテネもそうだったけど、週末になると市街地のお店が全部閉まったりするんだよね。本屋もCD屋も服屋も・・・。そういうことにびっくりしちゃうんだけど、実はびっくりしているほうがおかしいのかななんて最近思うわけで。全てが24時間、全てがカード一枚、誰でもどこでも瞬時に呼び出せるケータイ、口を開けたらすぐに誰かが食べ物を放り込んでくれる、なんていう世界で生きることが凄い幸せなことなんだよ、なんて真顔で言われても困るわけで。すごい不便なことが案外楽しかったりするわけで。足ることのない世界のほうが、人は何かを生み出すことができるかもしれないよ。思考も、想像力も、物語も、幸せも。


2004年2月16日(月)

 駆けずり回っている間に一日が終わってしまった。


2004年2月15日(日)

 まず昨日のダイアリの訂正。主観と客観の使い方が逆なような気がする。「変身」のザムザ氏を見ていて変身しても変わらないことに面白みを感じているのが客観で、自分は変わらないのに変わっていると感じている人たちを見るというのが(ザムザの)主観なはずだ。読み方としては客観じゃなくってザムザの主観で捉えるべきってことかな。(なんか言葉がそれでもしっくりこないけど。)要するにユダヤ人がある日を境に毒虫と見られてしまうことを奇異に思わない人たちのことをユダヤ人側から見るってことだ。・・・と言っても高校生くらいのときに読んだ記憶で書いているのでいずれ再読したい。
 
 新宿で青島レコード「bogy」を観劇。これまでで一番小さな劇場で、客席との近さに驚いた。ストーリーは壁に囲まれた王国に住むある若者が、王国の崩壊に繫がることを知りえながら、壁の門を開けてしまうといった展開。中盤から後半にかけて、壁の外にいて一人ぼっちの女(周りに何もなく満たされるという概念自体を理解しえない)と壁の中にいて物質的に恵まれながら満たされることのない男との会話シーンが面白い。壁に囲まれた世界というのはどうしても村上春樹のイメージの形而学的な継承と思えてしまうのだが、この壁を壊す(門を開く)という意味合いをもう少し突き詰めてもよかったように思う。そうしてストーリーをできるだけシンプルにしたほうが面白かったんじゃないかなとも思った。壁の向こうと行き交うようにするというのはどうしてもグローバリゼーションのようなものを思い浮かべてしまって、例えば固有の文化的なものをもちえない(東氏の言うところの)動物的なアメリカ文化がグローバリゼーションで、イスラムなり違う文化圏に流れていくといった、そうした意味合いを期待したのだけど、きっとそういうことではなくって、ここでは単にイメージの羅列だったようにも思う。主人公の扇田拓也氏が内気な感じの二枚目でよかった(それこそ村上作品に使うのには面白そうな役者)。あと諌山幸治氏の男奴隷もいい味を出していた。演劇はこれから月1くらいで観続けていく予定。
 
 仲正氏の本が結構面白い。アーレントの人間性についての考え方(の読解の仕方)が書かれていて、人間性というものは古代ギリシアで奴隷制や女性差別という非人道的な犠牲の上で公私を分けて活動することができたがゆえに、その条件が整ったのだそうだ。逆に、自由や平等によって(=市民社会の成立)、公私を分けていた線が曖昧になることで個人利害が絡むがゆえに、人間性を追求する場所がなくなったという矛盾が起きたと指摘する。・・・なるほどねぇ。
 *
 実は朝起きて、すぐシステムのエラーが発覚して呼び出されて、夕方まで仕事してたんだよね。結局、皆勤賞。今夜もぐっっっすりだね、きっと。


2004年2月14日(土)

 出勤したら既にシステム会社のお偉いさんたちが出揃っていて恐縮。
 仕事をやっていても脳の回転にきれがない。脳神経のニューロンが完全に張りすぎて弾力がなくなっている感じがする。シナプスから出ている神経伝達物質の量も少なくなっていたと思う。まぁ今週が業務の山だったのであとは楽になれるかなぁ。今週みたいな感じでずっと仕事やってたら、超人になるか、廃人になるかのどっちかだと思うよ。
 
 仲正昌樹「「不自由」論」(ちくま新書)読み始め。のっけから「中心的なもの=善」と「逸脱するもの=悪」との二項対立によって、一方を排除することの難しさを昨今の国際政治やナチやマルクスを紐解きながら語っていて面白い。二項対立を崩そうとしたのがデリダの脱構築だったなんて話もわかりやすい。 
 それでナチスのところまで読んで、ユダヤ人を害虫として排除しようとしたというくだりで、ふとカフカの「変身」に思い至った。「変身」って、主人公が朝、甲虫に変身していてもいつもと変わらぬ行動をとろうとしてしまうことの人間的な性のおかしみ(哀しみ)を描いた作品だとずっと思っていたけれど、実はあれは主人公の目から主観的に外を見るのではなく、むしろ周囲から客観的に主人公を眺めるべき作品なのではないか。主観が変わらないことの偏狭さではなくて、客観的視点が変わってしまうことの怖さが主題なのではないだろうか。ユダヤ人であるカフカが、自分はいつもと変わらぬ人間であるはずなのに、ある日突然甲虫(害虫)と見られてしまう違和感を描いた作品だったのかもしれない。つまり、既にナチスの迫害を予見したような作品になっているのかもしれない。そしてラストはどうなるんだっけ?、「審判」のように、犬のように殺されてしまうんだったけ?ちょっと気になる。(・・・まぁ、よく考えれば、「変身」の話は誰もが思い至るもので、今頃になってその視点をもてた僕の成長の遅さがここに暴露されるわけなんだけど。)


2004年2月13日(金)

  お昼ごはんを食べるのを忘れるくらいに(いやモスでチリドック食べたけれど)ここのところ忙しい。朝、何気にある学生の成績確認してたら偶然(数万件に3件しかなかったみたいだから相当偶然)システムエラーを発見。それでシステム会社は休日返上で人員総出の対応になってしまったからびっくり。といっても僕はそんなこと半分忘れて入試業務に没頭してたわけだけど。
 今いるとこが業務の大部分をアウトソーシングに頼る機能的なセクションであるってこともあるけど、随分外部の会社の人と仕事をやる機会があって、学ぶことも多い。優れている会社(個人よりも社風のほうが大きいような気がするよ)は決して受身ではない。常に先を見据えて手をうっていく。まず大局を押さえ、細部をつぶしていく。これは僕の仕事にも言えて、常に学生が何を求めてくるか読んでいき、先手先手をうっていくことがかなり重要。棋士と同じようなものだ。すべてが起こる前に、その首根っこを押さえ込んでしまえってわけ。これまでずーっと、全てが起こった後に分析を施して原因を見極めて対策を立てることこそが重要だと思っていたのだけれど、実はそもそも起こる前を想定することができれば何の問題もいらないわけなんだな、と思い始めてるってわけなんだ。
 *
 隈研吾の本、最終章(←再読するならこれだけ読めばいいかも。)読んで、建築家って結構すごいのだなと感嘆。プラトンにアリストテレス、カントにヘーゲル、さらにマルクス、こんな思想の先を行こうとする建築家の作品って一体どういうものなんだろう。


2004年2月11日(水)

  マイケル・アルメレイダの「ハムレット」。あの古典を現代のNYを舞台にスタイリッシュに作り直した作品、だそうだけどどうかな。映画を観ているというよりかは演劇を観てる気分だった。形式が真似られているんだけど、そこに新しい広がり(面白み)がないという感覚。イーサン・ホークにカイル・マクラクラン、サム・シェパードまで揃えているし、実際演技もいいんだけど、ああやっぱり演出がなぁ。「ロミオとジュリエット」観てないけれど、想像するにその位きらびやかでもよかったよ。勿体ない。この「ハムレット」より、陰鬱な感じのカウリスマキの「ハムレット」のほうがよいと思う。
 
 隈研吾の「新・建築入門」(ちくま新書)。建築の歴史を、思想・社会・物質といったファクターから紐解いて解説する。別に建築に詳しいわけでもないので、まだそうなのかーレベル。でもこのそうなのかーレベルを積み重ねることで、新たな世界は広がるだろうし、例えば小説やアートといったものへの理解にもつながるような気がしている。
 *
 今日は実は出勤で帰宅して21:30から京都に住んでる学生さんのために臨時のWEB試験対応なんかやってたり。試験の機能を一時的に開いて、学生さんが試験受けてる間に、お風呂洗ってお湯を入れてなんてことをやってるわけ。これぞ在宅勤務? 


2004年2月10日(火)

  たまに以前のダイアリを読んでみる。小気味よい文章や、感性の迸る文章に出会って、それが自分であることが不思議になる。まるで見る方向が違えば、見えてくるものが違ってくるような透明なグラスのようなものなのかもしれない。そうして屈折した光の見せる違う姿に、僕のことを知る人はときどき戸惑ったりするのかもしれない。


2004年2月9日(月) 29th Birthday

  誕生日。29年前にこの世界に僕が誕生したということ。ただそのことだけが奇跡で今僕がここにいること。
 妹がメールを打ってきて、「お兄ちゃんは楽しくて生まれてきてよかったなと思っているんだろうな。いいな、羨ましい・・・」なんてあって、さらに「私は生きるのが大変で何をしていいものか、だから生まれてきて何か意味があるのかなーって思ってたりしてるよ」って。そんなこと言われたら、ちょっと涙ぐんじゃうよ。
 きっとみんな始めはそうで、やがて世界が広がってくると自分の存在がとっても小さくなって、他と比較するのがバカらしくなっちゃって、だったら好き勝手に生きてるほうが楽しいじゃない、って思った瞬間にすべてが楽になるんじゃないの?つまりさ、上手く言えないけれど、自分をできあいの世界にはめこめるんじゃなくって、自分のまわりから新しい世界が広がっていくような感覚でいればいいんじゃないのかな。


2004年2月8日(日)

  昨日観た映画、実は同時間くらいに地上波で放送してたらしい。わざわざビデオ屋から借りてくるのは君くらいのものだよ、だって。ちなみに今住んでる家ではアンテナの穴の形が特殊で未だにTVが見れないのです。TVが見れるのなら僕は間違いなくサッカー観てるんだろうけど。インターネットでサッカー中継とかやってくれないものかなぁ。僕だったらお金払っても見ますけど。
 一日早く誕生会をやってもらった。ケーキの上に線香花火(棒状の家の中用花火ね)を立ててパチパチと火花とばすなんていう趣向まで凝らしてくれて、楽しかった。ハート型のベル?と枕カバーをもらった。


2004年2月7日(土)

  視察は結構刺激的だった。アメリカと双方向で授業ができるっていいかもしれない。ある人にとってはそれが既に当たり前でこうやって休日の朝、アメリカにいる先生と問答を繰り広げていて、ある人にとってはそんなことは思いつかない。
 *
 頭使いたくなくて観た「ロード・オブ・ザ・リング」。娯楽作は観て楽しめばいいのだろうけど、あまりのストーリー展開の破綻や意味の希薄さというものに思わず突っ込み入れたくなってしまう。娯楽は娯楽でいいから、せめて「きっと観ている人にはわからんだろうなぁ」くらいの意気込みでいいから、一貫した意味というものをきちんと付してストーリーを練ってもらいたいものだよ。あるいは僕にはわからないだけなのかもしれないけれど。


2004年2月6日(金)

  学生からの苦情が今日は多かった。朝5時からWEB試験受けてる人とかいるんだから驚いてしまう。個別対応を多くしてしまったのは反省。数日先回りしていればなんてことはなかったのに。
 さて明日はH大に遠隔授業の様子を視察にいくので、そのせいか脳が休息を求めてもうネムネム。
 早くも(早すぎ)メビウスがやってきて今は仲良くバイオ黒とメビウス白が並んでいる。まるで黒山羊さんと白山羊さんみたいな感じ。あるいはオセロとか碁石とか。今夜は速攻で無線LANの設定までやっておいたからもうほとんど問題もない。USB接続だけで外付けのHDみたいになってくれて、バイオ→メビウスにデータや設定をもっていけるところがとっても楽。メビウスの設定していたらPC名を訊かれたからsnowflakeにした。・・・って明日には忘れてそうだな。


2004年2月5日(木)

「ネットショッピング依存症かもしれない」 

 今使ってるバイオの調子が悪くってとうとう買い替えを決意。ネットでいろいろ見て、結局シャープのメビウスノートで決着。
 夏休みの旅行のエアチケットをとるのだ!と思ってネットに向かったらそんな先のものはまだあるわけがなく、ようやくGWが出回ったばかり。そうかGWかということで、これまたアトラスの青背表紙の地図と睨めっこして、さてどこに決めたでしょう。
 実際こうやってインターネット使ってお買い物ばかりしているわけで、今日も家帰ってきたら緑のドアの隙間にアマゾンとイープラスの不在連絡票なんか入っていて、なんだかなって感じ。


2004年2月2日(月)

 お風呂あがり。少し湿ったバスタオルをパジャマの肩越しにかけ、オレンジジュースをごくんごくん。今考えてること、それは文章をもう少し愛情を込めて書かなくてはいけないなということ。どんな行為にも愛情を込めなければ、自ずと生活は荒廃する、そうは思わない?逆に言えば、身の回りに愛情がもてるならば、それは豊かな生活ってことなんだ。


2004年2月1日(日)

 卒研の口頭試問のアレンジ。司会やって、うちの学校で対外的に一番有名な先生の意見をきけたりするのも楽しかったり。しかし、10分おきにしゃべって、ストップウォッチ見ながらチンとベル鳴らして、録音してということしかやってないのに妙につかれたであるよ。学生にも先生にも好評だったようでひとまずよかった。
 
 保坂和志の「カンバセイション・ピース」読み始め。彼らしく五感が何かを感じる瞬間をみごとに描き出す。そうして五感が感じるものは過去の記憶の肌触り(茂木さんの言うクオリア)であるってわけだ。プルーストのマドレーヌを食べた瞬間に過去の扉が開け放たれるっていうのにも近い、ただ保坂氏の過去の扉はそんなに重厚なものではなくて、障子戸の隙間から光が漏れてくる程度のものだ。物語の舞台である古い家自体も、そこに現在進行形の時間が進行しながらも、さらに言えば主人公の妻(シンクタンク勤め)や学生時代の後輩である浩介の会社(WEB関係)の面々のような現在を生きている人も抱えているのに、そこに過去からの記憶をためこんでいるということだけで、時間の流れが緩慢になっている。それには保坂氏の小説に必ず登場する猫も一役二役かっているように思う。保坂氏のつくりだしたい小説の速度はつまりは猫の時間の流れに近いもので、わざと猫の描写を行って物語を猫時間で経過させていくために、感覚器までもがまるで猫のように音や光や匂いというものに敏感になっていくってわけなんだ。そうした五感の感覚に満ちた時、人というのは幸せになれるんだと思うよ。隠遁暮らしの主人公(作家らしい、つまりは保坂氏の分身)が書こうと構想中の小説が恋愛で感じる世界の新鮮な肌触りというのも面白いところだ。つまりそれは(言葉の使い方があってるかわからないけど)メタ構造になっていて、この小説全体の中で描きたいこともつまりそういう類の感覚というわけなんだ。
 五感のことを抜きにしても、読んでいると自分までもがスローな時間(猫時間)の流れに入り込んでいて悪くないんです。


2004年1月31日(土)

 一日のんびり過ごした。
 大澤真幸「文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える」(NHKブックス)読了。やはり対談に比べると言葉が難解。言葉が堅くて噛み砕く(読み解く)のに骨が折れる。そうして噛み砕くのに集中しすぎて、それがどんな味だったか、よくわからないままに飲み込んでいた。そんな読後感。まぁ多少なりとも栄養になるには違いないけれど。だから感想はなし、ってことで。

 *
「サイダー考」

 ボリス・ヴィアンに「日々の泡」なんていう素晴らしいタイトルの本(水道管から確かウナギを釣っちゃたりするような詩的で不思議な話)があって、あの泡というのは恐らくぷつぷつと湧いてくる感情の萌芽のことを意味するんだろうけど、僕も今ちょっと泡だなって思ったんだよ。僕の泡は内向きの感情の泡じゃなくて(感性に委ねるような生活してないですから)、外向きの衝動の泡みたいなもの。何かをやらなっきゃっていう意識の泡みたいなもの。今日みたいな一人の休日何をやっていたかというと、春先のクラシックのチケットと舞台のチケットを衝動的にとって、TOEIC申し込んで、本を読んで(これは別にいいんだけど)、本屋で統計分析の本を漁って(買わなかったが)、マーケティングとか経営学の本を立ち読みして(多分近いうちに本当に読み出すのだろう)、北欧とポルトガルの地球の歩き方立ち読みして(どっちか行きたいみたい)、ひとり喫茶店で珈琲飲んでるわけ。まるで僕の興味の方向は懐かしきオクトパス・ゲームの蛸足みたいなものなのさ。ときどき、そういうのが嫌になって、鬱になりそーと思うけれどそうなるわけもなく(なるわけないじゃん)、すべて資本主義と消費社会のせいにしている。泡の出てこないサイダーは今生きてる世界では許されないんだもの。
 

「餃子考」

 夜、ひとり餃子をつくった。フライパンに餃子の肩くらいまで水を先にひいてまずぐつぐつ肉汁を出す。水が引いてきたら、胡麻油を垂らす。ちょと強火にして皮をカリカリにする。そうすると美味しい餃子ができる、って以前母親に教えてもらって、今夜は始めて満足のいく餃子が完成した。(前回は皮を買うのを忘れてたからどうしようもない。)そうやって皿にてんこ盛りにした餃子を食べていて、なんだか無性に旅に出たくなる。具体的に言うと、弟と再び中国へ行きたくなる。中華を死ぬほど食べて、安ホテルへ戻るときの夜風のなんて気持ちよかったこと。それを共有できることの嬉しさ。


2004年1月30日(金)

 サム・メンデス監督「アメリカン・ビューティー」。アメリカの現代の家族を風刺的に描いた作品。空虚な内面を見せかけの外面を押し出すことで埋めようとする親世代(健康であり、若さであり、お金である)。逆にその中身の無さに辟易して内面に閉じ篭ろうとする子世代(ビデオカメラがそれを象徴)。互いは互いを理解することができないままに、ただ崩壊してゆくという映画。これがアカデミーということは、アメリカ人にとっては等身大の映画だったという裏返しなのかもね。サム・メンデスはかなり物によって意味を際立たせていくのが上手い監督なのかもしれない。赤い薔薇にビデオカメラ・・・、しかし隣人の父親と母親の設定の仕方が中途半端だったような気もするかな。


2004年1月29日(木)

 昨夜は大学のときの部活の飲み会。新宿に終電時刻までいて、結局3学年下の後輩がうちに泊まりに来て4時まで話をしてた。当たり前だけど、今日の仕事は頭がいつもの半分くらいしか動かなかった。


2004年1月27日(火)

 小田亮の「ヒトは環境を壊す動物である」(ちくま新書)。題名からてっきり経済学・資本主義・欲望と環境破壊の関係でも論じるのかと思ったら、サルが進化して人間になりましたよ的な進化心理学から攻めていって、攻めていくのはいいのだけど結局環境破壊(の解決策)という攻めるべき城を見失ったという感じ。要旨はもともと人間が認知できる集団というのは150人かそれくらいで、その規模の集団ならば認知心理学的に協力して資源なりを温存していくことができるのに対し、現代の世界規模の環境破壊というレベルではおサルさんから進化した僕らにはそれをうまく想像したり、戦略立てることができないというわけ。しかし、この題名では内容とシンクロしてこないのではないか?結局、コマーシャリズムに乗っ取られたのかなぁ。どうせつけるのなら、「サルから進化したゆえに僕らは・・・」とかそういうのが妥当だったんじゃないの?環境(生物や生態系の多様性、種や遺伝子の保存とかそういうことだよ。)のことを格段書いているわけでもないしねぇ。


2004年1月26日(月)

 仕事を効率的に進めてさっさと帰りたいなら、個別対応はするなかれ、というのを肝に銘じているのだけど、さすがに学生の学習も終盤にはいってきたの(「成績がWEB上できちんと反映・表示されてない」etc)と、入学金の納入関係で(そりゃ1000人以上合格にしたわけだもんなぁ。)やれ「間違えて振り込んだ」、やれ「合格通知が届かない」とか結局そんなのも対応せざるえない。それから先生の個別対応。○○先生が辞めるとか、○○先生からのお願いだとか、そういうの。結局家に帰る時間が遅いと、本読む時間もなくなっちゃうんだもんなぁ・・・ということでもう少しやり方を考えたいところだけど。昨日買ったカモミールティー飲みながら、既に半分どうでもいい気分。
 堀江敏幸と保坂和志の新しい小説、買ってからなかなか読めない日々がつづいてたり。そうこうするうちに、オースターの新刊の足音が。トン、トン、トン!


2004年1月25日(日)

 神経を弛緩させたせいで何だかぼんやりとした一日だった。一緒にいてくれた人には悪いことをしたかもしれない。
 始めての目黒駅→庭園美術館→自然教育園→白金台→恵比寿と散歩して最後は新宿。東京もまだ知らないところがたくさんあることだよ。


2004年1月24日(土)

 入試対応だったのだけど結局たいした仕事もなかった。Jリーガーみたいなダウンジャケットきてさほど緊張もしていなそうな男子高校生に笑顔で案内して最後はなぜか女子高生に纏わりつかれておしまいっと。


2004年1月23日(金)

 「自由を考える」読了。結局ランチタイムとお風呂で読みきったような気がする。この本、かなりのヒットだったと思う。僕のレベルではすべてが血や肉にはならないけれど、それでも何か一段昇った、あるいは昇る糸口が見つかったような本だったと思う。
 大澤真幸のあとがきは特に圧巻。立ち読みするなら多分ここを読めばいいかもしれない。
 あとがきでは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」で取り上げられたコロンバイン高校での銃乱射事件と、コソボ紛争におけるアメリカ軍(≒NATO軍)の最大規模の爆撃が数時間の時差で起こったことに触れ、当時アメリカにいた大澤氏はCNN等で、変わりばんこに映し出される二つの映像に何か関係があるような錯覚に陥ったのだという。僕はこれを読んでそれはすごく小説的(物語的)だなと思ったのだ。物語の力というものはまったく時空の違うイベントを近づけ、リンクさせるような作用をもっていると思っているからだ。それがリンクしたとき、ものごとの意味合いは重層的になり、そうしてそこに意味が発生するために、それは互いに関係し合うことになるからだ。
 コロンバインとコソボの関係は、また9・11テロとイラクでの戦争と置き換えてもよい。内在する敵への恐怖が敵が偏在するかのような像を生み出していると大澤氏は語る。
 あるいは9・11テロと11・9のベルリンの壁の崩壊。壁のなくなった世界と壁のある世界。
 あるいは自由と民主主義に対する原理主義の対立。原理主義をつぶそうとすることによってむしろ原理主義が完成していくという奇妙な逆説。そこで自由が死ぬ可能性のあるということ。その自由とは一体何なのか、そうしたことを解き明かすための対談だったのだと語る。
 こうした関係性が一挙にここで語られる。この本の対談は、何か二つの関係というものがあって、その重なる部分を模索していく過程だったような気もする。それは本当は物語が担っていく役割だったはずだ。小説を復権させるにはこの本の中で語られた構造を含有し、それを超えるようなものでなければいけない。より巨視的に物事を捉え、それらを飲み込み、その関係を再構築し、意味を見出すものでなければいけないような気がする。現代において意味をもつ学問形態が社会学や心理学といった現場的(直接的)なものであり、哲学や文学が弱くなってしまっているというのは確かにうなずける。(現代の文学をいくら読んだとしても、それが多分野の思考や経験のようなものを取り込まないで閉鎖的な限り、文学から世界を読み解くことは難しいのではないか。いったい今が生み出すどの文学を読んで現代の問題に立ち向かえるだろうか?)かといって、社会学や心理学が狭い範囲で動き結局大きな思考に至らない場合、結局現代のもつ様々な問題を読み解くことはできないのかもしれない。だから文学はむしろ社会学や心理学がつくりだすレールの上に乗っかり(つまり論理を物語に転換してしまうということだ)、最後に接着剤的な物語の力とやらを見せつければよいのではないか。僕はそうした文学の強さというものを信じたいと思うし、そうした力が例えば自由&民主主義と原理主義が対立軸になって硬直しかねない現代の行き先を解き明かす鍵になるのではないかと思っている。
 ・・・以上ばたばたと思ったまま、推敲ゼロで書いてみました。(多分明日読み返したら訳わかんないんだろうなぁ。)とにかく、明日は入試会場の(どうでもよい)案内係をおおせつかったので、眠りヤナギの眠り蝿となりますです。


2004年1月22日(木)

 細胞が休息したがってる。とりあえず日曜は解放されたので、そこで息がつけるかも。今夜はウイスキーでもころんころん(氷の音ね)。


2004年1月20日(火)

 どうも今週は週末がないみたいでそれを聞いたら胃が痛くなっちゃったんだよ。まぁ適当にやってくよ。
 このPC、挙動がかなりあやしい。一瞬もう復活しないかと思ったよ。本気で買い替えを検討したほうがいいみたい。たった二年で消耗していてバイオとはよく言ったものだよなぁ。NEC(simplem)→SONY(vaio)ときて次、第三世代は何にしようか考えはじめよう。
  *
 本日の読書備忘録。
 p140<<この十年間、日本では文学や思想の言葉はどんどん影響力をなくしていっているわけです。そしてその凋落を埋め合わすように、心理学や社会学のレトリックが急速に整備されている。この現象の背景にあるのが、まさに「動物化」なわけです。>>


2004年1月19日(月)

「肯定してみせよう」
 
 仕事のほうはほとんど休みなしのフル回転だったけれど、とっても楽しい。
 大学出て壁にもぶつかったし、そこから逃れて好き勝手したし、塩辛いものも少し舐めてみたし、そういう体験の中で自分は少しずつ成長できたんだって思うわけなんだ。受身だったのが能動に切り替わったし、自虐的なところがなくなってむしろ前に切り拓けるようになってきたように思うしね。
 そうして自分の姿勢が変わると、多分周りへの見方も変わるし、周りからの見方も変わる。とってもいい感じなんです、今は。いろいろなものに感謝してます。


2004年1月18日(日)

 久し振りにお昼とれないくらいに、耳の上の骨が痛くなるくらいに、目一杯仕事したであるよ。今はマイルスデイビスのkind of blueを聴いて、くつろいでるってわけ。
 
 段々日課になりつつあるお風呂読書。汗だか蒸気だかわからないものが頬を滑るくらいまで読んでるわけで、すごい身体的な読書と言える。
  そうしてこんな文を読んでいる。<<一方においてきわめて具体的な身体というか、直接性への回帰があって、他方にはきわめて記号的なヴァーチャル化した身体がある。この両者が乖離したまま共存しているのが現代社会の特徴だ・・・>>
 そうしてこんなことを考えている。もしかして、村上春樹氏が書く上で身体バランスを重視してマラソンだのトライアスロンだのをやっているのも、つまりはヴァーチャルである仮想の物語の世界への没入化を防ぐためのものなのかもしれないと。オウムもヴァーチャルな物語と修行による身体バランスに重きを置いたという。仮想の物語を紡ぐという作業では、物語が大きければ大きいほど、身体を必要とするものなのかもしれない。村上春樹氏とオウムというのは実はすごく近いところにあるのかもしれない。だからこそ、村上春樹氏はまるで人が変わってしまったように、現実世界に近づきオウムへの取材を行ったのかもしれない。彼自身が、自分とオウムとの違いを知る必要があったってことなのかもしれないとも思う。
 しかし、この本「自由を考える」は非常に面白い。昔、山登りなんてことを年間100日以上やってたわけなんだけれど、この読書はそれに似てまるで標高(コンタ)を稼いでいくように、これまで見えなかった地平がずんずんと現れて物事の関係性がわかってくる実感がある。標高をこれだけ稼げるのも、この本の両著者が相手を尊重して尊敬して話を進めることができているからだ。多分、東氏ってめちゃくちゃ素直な人なのかもしれないって思う。胸襟を完全に開いているし、大澤氏のほうもそれを許容できるし全然偉ぶったりしないところが共感できる。


2004年1月17日(土)

「喪失を埋めるために」

 池袋まで行く電車の中で、読みかけだった村上春樹の「レキシントンの幽霊」の「トニー滝谷」なんか読んでいた。この短編集、ひとつひとつがまるで密度の大きい鉱物のようにずしりと重くて、読み応えがある。トニー滝谷は、読み解くのがとても難しい。戦時中、中国で留置されて、一度人生をすべて諦めた経験をもつトロンボーン奏者である父親と、服代にお金を湯水のように使ってそれでも買うことのやめられない妻の話が交差している。トニー自身はイラストレーターだがそこに深い意味を読み込むことのない人物だ。彼らが逝った後に残された膨大な服とレコードを処分したとき、トニーは途方もない喪失感を抱えたまま孤独になるという話なのだが、この服が何なのかが難しい。ここをきちんと自分で考えないと小説として読んだ意味に欠けてしまう。服は「生きるための意味」を象徴し・・・、と考えながら近代的なガラス屋根をあしらった東京芸術劇場のエスカレーターを昇っていたわけだ。
 話は変わるが、哲学者ヴィトゲンシュタインは男5人女3人という兄弟姉妹の五男として裕福なユダヤ人実業家の家庭に育ったという。当時、家庭は音楽関係の名士の集うサロンという環境で育っている。しかし、兄三人は自殺したという。さらに四男パウル・ヴィトゲンシュタインは名声のあるピアニストでありながら第一次世界大戦に出兵し、あろうことか右腕を喪失して帰国したという。東京交響楽団の演目が始まる前に僕はわたされた小冊子でそんなことを読みながら、ヴィトゲンシュタインの哲学にも恐らくそうした喪失が抱える何かが秘められているのではないかと思いをめぐらせた。
 右腕のないピアニストのためにラヴェルが作曲した「左手のためのピアノ協奏曲」。これを小川典子さんがもちろん左手だけで演奏したのだけど、素晴らしかった。序盤は特にこの右腕の喪失を感じさせるような曲想(左手の強さが強調されるがための相対的な効果)で、その喪失はただの右腕だけでなく、ユダヤ人たちが抱えてきた喪失であり、戦争で誰もが体験した喪失なのだろうと感じいった。気付いたら、涙がぽろぽろ流れていて、自分でも驚いたくらいだ。僕はそれを頭で考えていたはずなのだけど、気付いたら感情の波がそれをおおっていたというわけなんだ。後半はその喪失に少しずつ何かが水位をあげて満たそうとしていくイメージ。他の演目にさほど高揚しなかった分、このピアノはよかった。
  *
 「トニー滝谷」追記。これって人物を個別に見ていくのではなくて、父世代と、子トニー世代という二つの構図で眺めた方がいいのかもしれない。ひとつは戦争を超えていくことにおいて、どんなに自分の世界を強固にもとうとも外からの力には敵わないということ(多分、トニーの母のあっけない死もそれを象徴)、もうひとつは深層に降りることなく表層を消費するだけで生きていく(あるいは意味のない表層に意味を付加するしかない)戦後世代の生きる意味の模索ってところなのかなぁ。ついでに父世代ですらも最後は商業ベースにのってしまっている違和感をトニーは後に直観的に知りぬいたんじゃないのかなぁ。うーむ。


2004年1月16日(金)

「ドメイン取得」

 blogって何だ?の二回目。MT(Movable Type)を使うのにレンタルサーバを借りる必要があって、安いサーバ借りるついでに(さほど高くなかったので)自分のドメインまで取得しちゃいました。DNSの設定(24hかかる)が終わり次第、サイトそのものもそっちに移行しちゃうかも。MTのほうも一応使える状態にまでもっていけそうでほっ。(*ちなみに全部ここ見ながらやりました。)ってこんなこと22時くらいに帰ってきてやることかね。お風呂はいってさっさと寝ようっと。


2004年1月15日(木)

 「動物化するポストモダン」読了。だが、最後にきてうーむという感じ。大澤真幸の理論で進む90年代中盤くらいの虚構の時代まではよくわかるし、そこでオウムというものが失われた大きな物語を求めている人を呼び込んだこともわかる。だけどその後、シミュラークルによる小さな物語の欲求(=動物化)という東氏自身の論の展開がよくわからないのだ。それは現在という流動的で無定形なものを扱っているからかもしれないし、あるいは東氏の論議が先に行き過ぎているためなのかもしれないし、もしかしたら自分が一応平面世界をデジタルで扱う地理情報のSEであったため、思考法が違うせいなのかもしれない。大きな非物語への欲望と小さな物語への欲求が並行しているというところは、対象とするスケールの違いによってそれは大きくも小さくもなるのではとも思えて、なんだかうまく理解ができない。それをデジタルやWEBで説明しようとしているせいなのかもしれない。WEBやデジタル画は見えなかったものをHTMLやアドビの言語、16進法などで過視化したというけれど、それを言うと数学という学問は既に空間や時間というものを数字で捉えているから、ある程度そうした理系的な思考法があれば既視していたとも言えるのではないか?ある程度慣れた人なら楽譜から曲想がわかる音楽家のように、数式を見た瞬間にその形、動きといったものまで見通せてしまうような気がする。それは現実には見えない天体の動きや時間の流れや多次元空間のようなものまであるいは見通せてしまうものかもしれないわけだし。また、各要素をプログラミングしていくことを物語とだって捉えることだってできるだろうに。もっと押し進めていってしまえば、言葉や文節をプログラミングしていけば、それは小説ということにはならないか。そうやって逆から話を進めていくと、東氏の話の展開が僕の頭では理解不能になってしまうのだ。
 この人は他説を換骨奪胎するのに優れているけれど、新しい地平に自分で種をまくことには向いていない可能性もなきにしもあらず。東氏自体がシミュラークルとなるものを探し出してきて、違うシミュラークルをつくっているのかもしれないなんていう気までしてきた。もう少し、他の本も読んでそのへんを探ってみなければ。

 
 お風呂の中で、「自由を考える 9・11以降の現代思想」東浩紀・大澤真幸(NHKブックス)読んでたら、東氏の動物化の意味がすんなりわかった。あるいはお風呂だと血液の循環がよくなって理解力が上がるのかもしれない。
 マクドナルド化という言葉が冒頭出てきて、ここではグローバリズムを意味する空間的な普遍化のことではなくて、例えば店の椅子を硬くしておくと30分で人は席をたつとか、人が増えたら音楽を大きくするとか、そういう意味合いで使われている。人間の欲求の方向性にすべてを合わせるっていうことだ。建物のつくりとか、道の動線とかそういうものは周りを見渡せばいくらでもあるんだけれど、これが東氏の行っている動物化なんだよ。あ〜なぁんだってな感じ。動物的欲求に合わせるってことよね。マクドナルド化=動物化って書いてあったからわかりやすい。
 それを頭にいれて、コジューヴによるヘーゲル読解を考えれば、ヘーゲルの歴史のあとに@アメリカみたいな動物化(マクドナルド化)社会か、A実質の意味のない様式を賛美するスノビズム、のどちらかがやってくる、の意味合いもすんなりわかるってものだ。9・11も@に対する脅威にAがぶつかったものなんじゃないのかな。またアメリカ映画でタランティーノやジム・ジャームッシュが好きな武士道は@を忌み嫌う人たちのAへの道ってわけじゃない。アメリカに比べると、日本にはAがいっぱいあるよね。踏み石だとか灯篭だとか茶道に華道、座禅に能・・・。イスラム社会ってAがあったのに、それにグローバリズムに伴って@が増えてくることが我慢できない文化なのかもしれないね。日本は明治維新以降はずっと猿真似文化だから尊王攘夷がなくなってそんなkとありえないし。イスラムって尊王攘夷的世界なのかしら。まぁ読み進めよう。・・・しかし眠る時間だぁ。入試シーズンで仕事フルだったりするし。


2004年1月14日(水)

 ふと気付くと、いつ間にか世の中ではblogというものが流行り出しているらしい。これが一体なんなのか実はさっぱりわかってない。movable typeが日本では先駆けてアメリカからやってきたとか、別立てでサーバが必要だとか、もうよくわからないぃ。別に竜宮城いってたわけじゃないのに・・・、WEBの進化って早いのね。
 明らかにblogを駆使しているページってデザインがいいし、カッコいい。そのうち乗り換えたいものだけど、それにまわす時間がないんだよねぇ。ほんとに。
 *
 とりあえず、わからんちんのとんちめちん(by一休さん♪)だけど、movable type2.65をDLしてみた。で、やっぱりdionのサーバはダメヲ君みたいで行き詰まり。次回は「レンタル・サーバですか?」です、なんだろうなぁ。
 こんなことしてたから本読む時間がなくなったよ・・・。
 
 オレンジジュースごくごく飲みながらお布団にダイブする前にちょこっと昨日の本のメモ。
 コジェーヴ「ヘーゲル読解入門」では、ヘーゲル的な歴史(*人間は自己意識をもち、自己意識をもつ他者との闘争によって、絶対知や自由や市民社会に向かっていく存在。その闘争の過程=歴史)のあとに@アメリカ的な生活様式の追及(=動物への回帰、つまり与えられるとおりに消費すること)か、A日本的スノビズム(与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、形式された価値に基づいてそれを否定する行動様式。ex切腹、オタク系文化、cfシニシズム)、がやってくるとしている。そして現在はAによって大きな物語が崩壊し、虚構の時代(by大澤真幸氏)となっている。
 佐伯氏もよくコジェーブのヘーゲル読解をもちだして、生きる意味とは自分が自分として承認されることなのだ、と語っていたように思う。それが上の話の流れとどこで交差するのかはよくわからないし、もう寝る時間だから考えるのもやめときましょう。


2004年1月13日(火)

 出願関係の書類がどさっとやってくる。一つ一つは日本の津々浦々あるいは異国からやってくるわけだけど、それが塊になってしまうところが不思議。書類を分けるついでに志望動機など読んでいると・・・、ああ感心。僕なんかよりずっと人生経験を積んだ様々な人がいろいろな問題を抱え、それを克服するために、この学校に入りたいと思うなんて書いてくる。選ぶのもほんとうに大変だ。僕の役割は学習環境を少しでもよいものにして、ひいてはビジネスとして役立てること。金曜日に新年の訓示のようなものをきいたけれど、国際化と少子化というキーワードを話されていて、それが意味するところはもしかして生涯教育の可能性?なんて思ったわけで。実際、人(上司)づてに聞いたところによると、そういう意図だったみたい。
 
 
 東浩紀の「動物化するポストモダン」(講談社現代新書)。この本は自分にとってかなりのヒットといえそう。新書によくありがちなのが、ちょっと歳をとって脳も硬化気味の学者様が自分の学説を振り回してみせるもの。そういうのってある一面からみると確かに真なのだけど、実際にはいろいろな切り口があるわけで、本当はそうした切り口をいろいろ眺めて考えてみることこそが重要だから、速読もできず限られた本を読むしかない場合はそういうのは不適。むしろ様々な切り口を見せて、ああでもないこうでもないとやってくれるほうが有り難い。そういう意味で若手の書いたものって、自説と他説を混ぜ合わせてくれるからいいと思う。それに頭も柔らかいし。
 東氏はそういった意味から考えて気鋭といっていい。頭が硬くなく、自論の展開の仕方にも他論をきちんと踏まえて説明してくれて無駄がない。それで肝心の彼の自論というわけだが・・・。
 彼の扱っているところは、70年代以降のポストモダンというところだ。オタク系文化(サブカルチャー)が大量に生み出された時代をさしている。となんだか遠巻きに言っているけれど、ガンダムがありエヴァがありといった現代そのものがポストモダンというわけだ。
 大塚英志の物語消費という言葉を踏まえて、70年代と90年代の違いは大きな物語(例えばガンダム)がありそこに同じ世界観の小さな物語がばらまかれる図式(物語消費)と、物語が欠如し無限に作り出されるシミュラークル(類似品のようなもの、例えばエヴァンゲリオンのキャラクター)が増産される図式(データベース消費)にあるという。つまり70〜80年代にかけて僕らは例えばガンダムであればその宇宙歴といった大きな物語を求めていたのに対し、90年代では物語ではなく個々のキャラクターやさらにはキャラクターを構成する要素(髪の色、髪のはねかた、衣装といったもの)が重視されるようになったというのである。(ちなみにオウムについては、大澤真幸の「虚構の時代の果て」を引用し、80年代に物語が凋落していく移行期に、失われた物語を補う形で人々を引き込んでいったのだという。)
 大きな物語が凋落し、個々の部位が分解・大量生産され、まるでデータベースを引っ張ってくるようにその組み合わせで決まるキャラクターがもてはやされる時代であるという言説には、身震いを覚える。物語がなくなるってことは、個々の意味が繋がらなくなり、それぞれが意味さえ分割され独立して存在することを意味するのではないのかな。
 東氏が言うには、こうした徴候はアニメといったものだけではなく、活字文化にも表れているという。そうやって考えると、物語の復権を訴えはじめた最近の小説の動向(例えば阿部和重であり村上春樹)は消える物語への抵抗とも考えることができる。しかし阿部氏については、実は物語の流れと同様に細かなツール(銃、ドラッグ、ネット・・・)に重点がおかれ、シャッフルされたときにも再生してしまえるような気がするし、つまりは物語の断片化というところに限りなく近いところにいるような気もする。まぁこれについてはもうちょっと考えて見なければ、書くにはまだ早計なのかもしれない。とりあえず、残り半分を読みながら、物語が在ることの意味について考えてみたいと思う。
 ・・・なんとなく最後に思ったけれど、実はインターネットの進化型ダイアリblogも実は結構これに近いんじゃないかな。個々の言葉が勝手にあちこちにリンクして、意味があるうちはいいけど、意味がないものにまで意味が付されて増殖していくなんてところに。ミイラ捕りがミイラくらいに、まぁいろいろ考えてみましょ。


2004年1月12日(月)

 阿部和重「シンセミア」読了。最後は一挙に読んでしまった。
 読み終えて、今、物語の面白さは感じ取ることができたが、実は何らかのカタルシスを得るには至っていない。あるいは物語の意味というものがこちらに語りかけてくるわけでもない。この長編を読んだ自分の中で何かが大きく違ったような感覚もない。しかし、これは単なるエンタメで終わらないような気はしている。大きな物語を読んだという実感は地面に滲みこまない血痕か油汚れのようにそこにあるからだ。そう、これはある意味、血痕であり油汚れのような物語ともいえる。暴力というものが物語の表面を覆いつくしていて、その暴力のイメージがなにやら脳裏から簡単に消えていかないのだ。
 この大きな物語は中上健次やあるいはその先にあるフォークナーを想起させる。閉塞した一つの地域社会があり、そこに起きる出来事を掬い出してみることで大きな物語のうねりを作り出していったところに。そしてそれが暴力や血筋といったものに深く繫がっているところに。人々の根源的に宿っている止むことのない欲望を扱っているところに。
 文学は決して良薬だとは思っていない。だけど、この本は読んだからといって、前向きになろうだとか、自己を見つめ直すといったプラスの因子を与えるものではない。嫌気がするほどの人の欲望の汚さのようなものを見せ付けられてしまったような気もする。他人の欲望のおぞましさ、そしてそれを読む自分に移ってきかねない怖さ。まるで誰かがコカインでいってしまったような光景を見たときのような気分。その気分を味わうためのsinsemilla(高純度のマリファナ)なのではないか。
 
 *
 あらためて「シンセミア」を違う切り口で考えてみたい。この小説の意味といったところから。
 阿部氏の作品は今まで二作読んだ。「インディビジュアル・プロジェクション」と「ニッポニア・ニッポン」。ともに情報過多社会が描かれ、前者は氾濫した情報の中でアイデンティティのようなものまで不確かな世界で正しい情報を取捨選択する難しさを、後者は情報化によって何もかもが規定されるがためにむしろ内的になってしまった世界の打破を、テーマとして取り上げていたように思う。だから、この力作「シンセミア」でも勿論、情報化社会と現代人の生き方といったところを模索していると考えることができるし、内容もそのとおりなのだと思う。
 僕が読んだ前二作でも感じられたとおり、デジタル化やインターネットの普及といったものは、個々人の世界を広げているのではなく、むしろ狭めている印象があり、現代人はその中で生き方を模索しなければいけないということになる。この小説の中でもマルチメディア型のデジタル機器を手にした若者は、世界に外向きに発信することを選ばず、哀しいことに自分の地域社会の中だけにむしろ閉鎖していく。すべて(快楽や欲望まで)をデジタルの視覚情報などで説明しようとし、その代わりにもともとそこにあったはずの想像力が消失しまっている。若者は日常社会をただデジタルだけで説明させようとし、それ以上の広がりがそこにあることを考えなくなっている。再三取り上げられる欲望の装置も表面的なものに過ぎず、本当に僕らが必要としている内面への洞察がまったくない。この小説の中では特に主人公?たるパン屋の息子とその妻の夫婦関係にそれを強く感じる。
 だからこの小説のつくりとしては、@デジタル化・インターネット化にも関らず閉鎖化していく人間関係をとりあげた上で、Aその打開策を提示する、ということでなければ意味に欠けるような気がする。
 閉鎖的地域社会を扱っているという点でこの小説に似ているとされる中上健次、フォークナー、マルケス、大江健三郎との比較も考えてみよう。閉鎖化した地域社会を彼らが選んだのは、そこに打破すべきものがあるから選んだわけで、もしその閉鎖化をただ淡々と描いておしまいならば単なる状況著述ということになり、物語の生み出す力というものをうまく利用できていないということになると思う。中上健次の場合は自分自身の閉鎖性と地域社会の閉鎖性をリンクさせ、その地域の濃い血の繋がりを打破しようともがいてみせるということを前面に押し出していた。マルケスも閉鎖社会の中に魔法や超常現象を取り入れることにより(マジックリアリズム?)それを打破しようとした。(フォークナーと大江健三郎はあまり読んでないからわからない。)
 そうして阿部和重のこの作品を見返すとどうなるだろう。彼の地域社会の描き方(横糸)は見事であった。よって上記にあげた@はクリア。それで、Aは?ということになるのだけど、実はこれが最後うまく着地できなかったのではないか、と僕自身は思っている。世間の評では、随分の誉めようだけど、それは@についてのことであり、よくここまで横糸を紡いだということに過ぎないのではないかと思う。誰も、現代人の閉鎖した心への打開策(縦糸)を示したとは言ってないのではないか?
 ではどうしたらよかったのか、ということを僕なりに考えてみれば、やはり主人公のパン屋の息子とその妻の歩み寄りをもっと強く描くべきだったのではないかということになる。そのためにはデジタルや暴力や刹那的快楽(盗撮や無差別殺人やドラッグ)の蔓延る世界に浸って、お互いを顧みない彼らの関係を一掃させる力が欲しかった。もちろん、ここでは洪水といったものがその力として描かれてはいるのだけど、僕にいわせればそれが弱い。洪水は街に滞留してゴミや悪臭を残すものではなく、すべてを洗い流すものでなければならなかったはずだ。彼らの家を流して、ゼロに戻すくらいのほうがより説得力があったのではないか。僕はそういったところに期待していたのだけど、結局憎悪や欲望やそれを象徴するような悪臭の強くなった街の中で、彼らの歩み寄りといったものはドラッグをともに楽しむといった程度のものであり、最後は主人公の唐突な死によってすべてを無にしてしまっている。少なくとも、主人公を殺すべきではなかった。
 これでは単に、この世界は無常だ、ということを語っているだけの小説でしかならなくなってしまう。物語の麻薬的な回転力はすばらしく強くそれは誉められるが、それを止めることができなかったという点でそこまで築き上げようとした意味が壊れてしまったような気がする。

 
 サム・メンデス監督の「ロード・トゥ・パディション」。無駄のない画面構成に、程よい緊張感のあるストーリー展開が見事。特に、グレイ系の服を着た群集の行列との対比、コーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」ばりの銃弾跡から漏れる光、繰返される雨と寡黙な男たち。全体的に色彩の計算がよくされていて、画面に緊張感を与えていて素晴らしい。頼れる父という感じのトム・ハンクスや猫背の殺し屋ジュード・ロウといった演技も無論よい。サム・メンデスの一作目「アメリカン・ビューティー」は未見だし、楽しみが増えた。


2004年1月11日(日)

 吉祥寺パルコブックセンター→orange cafe→井の頭公園→鍋会という一日。外は寒かったけれど、心の温まる悪くない一日だった。


2004年1月10日(土)

 阿部和重の「シンセミア」上巻まで読み終えた。小説世界は山形のある田舎町すべてを内包して、様々な人間を登場させる。しかし彼の世界観とは随分暴力や犯罪に満ちているものだと思わずにはいられない。この作品がたまたまそうした作品なのではなくて、彼の世界自体がそういうものだと考えたほうがいいような節が過去の作品を振り返っても、あるように思う。彼の世界観はある一面から見れば正しいのだが、表面的なすべての物事がそのように成立していると考えるには少し苦しいのではないかと思う。もし、本当にこれが彼の生きている表面的な世界ならば、彼は彼自身の投影であろう登場人物、パン屋の息子のように、世界に対して孤独な思いを抱えていて、さもすれば厭世的な見方をせずにはいられないのではないかとも思う。あるいは彼にとっての小説とは、そうした暴力的な世界を破壊して再構築するための手段なのかもしれないとも思う。
 兎に角、彼のレンズは暴力的な部分だけを特に浮き彫りにさせて、小説の表面的な世界を構築している。これが小説の横糸ということになる。ここにどのような縦糸をいれこむかが、小説の優劣さを決めるものとなる。ここまで読んでみて、彼なりの横糸の面白さはよくわかるような仕組みになっている。後半ここからが勝負かな。どのようにして作者自身がこの暴力的な世界に救いを見ようとするのか、というところにも注目したい。
 
 梅香彰の「「恋する力」を哲学する」(PHP新書)。新書にしてはずいぶんと歯の浮くような軟派なタイトルだが、読んでいてほんとうに歯が浮く。作者にとって恋愛が大きな力になっていることもよくわかるし、過去の偉人もそうであったことを否定しない。しかし、話全般が論理性に欠け、自己体験によってそこを埋めようとするから、読んでいて感覚としてわかっても理解したという感じがない。しかし、恋愛というものに対して、斜に構えるのもバカなので頭の理解はおいておくことにしようかな。とりあえず村上春樹の「海辺のカフカ」の物語構造をユングの思想(人が無意識<エス>としてもっている異性への理想像(アニマ、アニムス))から説明してくれるところは面白かった。


2004年1月7日(水)

 仕事はじめ。明日からいよいよWEB出願がはじまるってことでいきなり慌しい毎日になりそう。
 *
 佐伯啓思の「「欲望」と資本主義」(講談社現代新書)。佐伯氏は頭が切れる上に、著述にも才能があるように思う。読んでいると知識欲が駆り立てられて、思わずページが進むんだもの。年末からこれで彼の著作3冊目の僕は、まさにこの本のタイトルを体現しているのかもしれない。
 もう眠らなっきゃいけない時間なのでとりあえず目についたところを抜き出すだけ抜け出しておく。

<<いつでも手にはいるものに人は「欲望」を感じない。手にいれがたいから「欲望」を感じるのであり、そこに「価値」が発生する。>>p87
<<モノはそのモノ自体をこえ、さらに個人をこえた何かを暗示したりシンボライズするからこそ、欲望の対象となるのである。>>p94
<<ヨーロッパの資本主義は、ヨーロッパの外にある文明(アジア文明)に対する、ある種の「欲望」につき動かされたとともに、もうひとつのヨーロッパの外にある文明(新大陸の金)によって可能になったと考えておきたい。>>p126
<<どうやら、資本主義はこの後進の意識、コンプレックスと無関係ではないようだ。>>p134
memo p150
 人生は神からあたえられたたえざる自己鍛錬の時間であるという19Cのプロテスタント的な倫理
                         ⇔
 「若さ」「変化」「挑戦」=アメリカを象徴する価値観 
  −ー→刹那的な快楽主義(コンサマトリズム) ≒ロストジェネレーション
<<今世紀のアメリカでは、消費は精神安定剤の代用になる。消費とサイコ・セラピーという、現代のもっともアメリカ的な活動は、本質的に同じものである。>>p155

 しかし羅列だけじゃ訳わからないなぁ。うー、とりあえず眠らなっきゃ。10年前にこの本既に出ていたのだから、大学1年だった当時読んで熟考していたらもっと今の僕は違っていたのに!


2004年1月6日(火)

 渋谷でジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌの「息子のまなざし」。手カメラで撮られた非常にシンプルな映画。主題(罪を許し、受容すること)にのみ集中し、観客を半分無視したかのようなつくりかた。斬新だ、とかシンプルでよいとかまぁそういう意見も言えるのかもしれないけれど、僕はこれを推せず。
 だけどこれは今日の一部であって全てではない。いろいろな時間を共有したあと、ひとりになったときのなんて寂しいこと。


2004年1月5日(月)

「現在を消失してしまうほどの過去」 

 W・G・ゼーバルトの「アウステルリッツ」。(以下、ネタバレ含みます。)
 主人公アウステルリッツは幼少の頃の記憶もないままにウェールズで育つ。やがて彼はひとりぼっちで世界に放り出されて、自分の過去を探りはじめる。過去を探れば探るほど、彼自身の時間体系は現在から未来に向かわず、過去の中に埋没していく。
<<けれども、私は、だんだんこう思うようになったのです。時間などというものはない、あるのはたださまざまな、高度の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、そのときどきの思いのありおうにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだ、と。そして考えれば考えるほど、いまだ生の側にいる私たちは、死者の目にとっては非現実的な、光と大気の加減によってたまさか見えるのみの存在なのではないか、という気がしてくるのです。>>
 彼は本当の父と母のいた温かな世界を求めて、自分の壊れてしまった心をもとに戻すために、過去のわずかばかりのかけらを拾い集めていく。しかし、そこにはナチズムの痛々しい痕跡が残っているばかりで、彼の望むものはない。未来なく、冷たい過去ばかりを背負ったアウステルリッツは、すなわちアウシュビッツへと消失していかざるえないのかもしれない。

 *
 今年は演劇(舞台)とクラシックを少し熱をいれて観たり聴いたりしようかなって考えている。
 正月に実家でクラシックをいくつか聴いているうちに、身体の中に音が流れていく快感のようなものを少し味わったからなのかもしれない。正月のウィーンフィルをテレビで観ていたのだけど、指揮者のムーティが音楽(シュトラウス)を聴いたときに感じる喜びといったものは、相互理解に困難を生じている現代の世界中の人たちにも共通のものなのだ、ということを述べていて、そんなメッセージの力強さに共感できたこともあるのかもしれない。
 今夜はラフマニノフのピアノ協奏曲二番の聴き比べ。ルービンシュタイン(p)&オーマンディと、ツィマーマン(p)&小澤征爾の二つ。第一楽章の始めの重厚さが好き。後者のほうが始まりから深みがあるような気もするけど、単なる気のせいかもしれない(笑)。

 
 上下巻に及ぶ阿部和重の長編「シンセミア」読み始め。彼らしく、テンポがよくて、読みやすい。序盤はエンタメまっしぐら。面白いことに、作中で女子高生に自作の「インディビジュアルプロジェクション」を評させている。
<<それとお話も何か、上辺を撫でただけで薄っぺらいという印象(って生意気かな?)。とにかく迫ってくるものがないんだよね。最後まで読めば何かあるのかな?>>
まぁ、これが自他認める?阿部評なのかもしれない。僕も<<最後まで読めば何かあるのかな?>>って感じで突き進むことにします。ある時点で、すべてが意味をもちだして、物語が大きく揺れる瞬間がありそうで楽しみ。


2004年1月4日(日)

 札幌から帰ってきました。
 増殖しつつある本の整理など始めて、ふとあるものを紛失していることに気付いてしまった。あちこち探していたら、棚の後ろから「我太平洋の架け橋とならん」の新渡戸氏を発見するオマケつき。もっと、しっかりしなっきゃ。反省モード。