2005年3月31日(木

 システム処理にやたらと時間がかかって随分遅くなってしまった。ボタンの後ろでまわってるプログラムにきっと無駄が多いんだろうな、と思いつつ一人お弁当食べながら居残ってたり。しかし、去年はけっこう大変なように感じていた仕事が二サイクル目にはいってから本当に余裕かもしれない。
 最近気付いたのは、もし仲間や仕事相手に不満が出そうになったら、つまりは自分に余裕がなくなっているということ。余裕がある人は、周囲さえもうまく波に乗せることができるんだものね。ほんとうに才覚のある人には余裕が常に漂っているものだし、だからこそ人に慕われるんだと思うよ。


2005年3月30日(水

 先輩の家でピザを食べながらサッカー観戦。三都主のプレーをはじめていいと思った。ああいった嫌味な足技は相手をじらすのすごく有効だったんじゃないかな。今日みたいなゴール前にスキー滑降のポールみたいにDFが張り付いているゲームでは、FWに相手の裏を巧みにすり抜けていく人が必要なんじゃないかなとも思ったし。本山あたり、そろそろどうなんでしょう。高原はアンリみたいな足元の俊敏さを兼ね備えるといいFWになるんだけどなぁ。・・・なんてずっとサッカー談議してたわけ。
 
 吉田修一「パークライフ」再読。すべてのものがなべて同じような外面をもっていて、中身はたいしてないけれど、何かをもっているように見せて生活をしていること。そうした東京人たちの心理模様が様々な物に仮託されて語られていく。読むこむほどに面白みのある作品だと思う。一緒に収められている「flowers」はその三年前の作品のようだが、底層を流れる意味がおぼろげであり、またその意味を発見する行為(読書ですね)に意味があるのかもよくわからない。吉田氏は確実に進歩というか、進化を続けている作家ってわけですね。













2005年3月29日(火

 吉祥寺で飲み。花粉症の人の間に挟まれていたら、自分まで目がかゆくなってきたよ。


2005年3月28日(月

 「思いわずらうことなく愉しく生きよ」読了。江國香織の人間観察の鋭さとその描写、ストーリーへの乗せ方が絶妙。まるで色彩を操る画家のような感じだ。また時折文章に混ぜていく箴言も冴えている。割合長い本だったけど、まだこの三姉妹の物語を読んでいたかった。しかし、この小説のタイトルはかんたんにキャッチできるような言葉ではない、渾身の力で投げて触ることのできない剛速球のような言葉なのだ。愉しく生きるというのはきれいごとのような言葉であって、むしろ人というのは不器用でしょうがないし、生きるのはなかなか難しいものなのだなぁ、というのがこの小説から受ける印象なのだけど、そういう簡単な結末とフレーズを江國さんは用意しない。ずばり、剛速球ってわけだ。生きるのは難しいよ、(だからこそ)思いわずらうことなく愉しく生きよ、ってことなのかな。やるね。


2005年3月27日(日

 あっという間の週末だった。表参道やら吉祥寺やら歩き回ったね。

静かな朝に

木蓮と春の夕暮れ 千駄ヶ谷

おとなしい犬

千駄ヶ谷の駅前で、空をみあげた


2005年3月24日(木

 思いっきり寝坊。目覚ましに全く反応できずに鈍睡というような感じで、ちょっと怖くなる。


2005年3月23日(水

 オフィスの女性に僕みたいな体型だと肺気胸になると脅されちゃったよ。クロエみたいな詩的な病気だったらいいけど。


2005年3月22日(火

 休み明けは脳の回転が鈍る。だけどやることたくさんでずっとフル回転。そんなわけで早くも睡魔に襲われているのです。


2005年3月21日(月

 江國香織「思いわずらうことなく愉しく生きよ」読み始め。装丁や水色の紐栞(正式名はなんというのかな?)が好ましい。
 犬山家三姉妹の次女治子の同棲相手熊木が好きだというコルトレーンを僕もかけてみた。カーテンを閉じたばかりの部屋にぴったりあう。治子の熊木を形容した言葉がなかなか男というものの本質を突いていて面白い。
 <<ロマンティストだからこそ、三十代後半になって碌に収入のないことに耐えられるのだろうし、ロマンティストだからこそ、結婚しようと言い出したりするのだ>>

  *
 結局、三日間、電車でどこへもワープせずにこの町だけで過ごしてしまった。さすがに家にそんなに長くいると、料理欲も湧いてくるみたいで、ただ今、鮭とエリンギとアスパラとホウレンソウのグラタンをつくってるところ。白ワインも使ったので美味しくなりそうで楽しみ。
 キッチン立って、ステンレス(というのかな?)の壁面に映った、休日用の縁ありメガネと(Rが昔くれた)銀のピアスつけてる不思議系の男に、自分が女だったら恋愛してもいいなとちょっと思った。最近、街で男を見ると、自分が女だったらどうだろうとか考えてみたりするのだけど、そういうのって結構楽しいです。この人は優しそうだけど、拘束しそうだなとか、こりゃカッコつけかもしれんぞ、とかね。その一方で女の人に対してそういうこと考えるかというとそうでもなくなったような気がする。恋愛の機会って、やはりある程度は限られているから、その中で好みの人を見つけて、ある一瞬を逃さないのって難しいといえば難しいのかもしれないな。難しいから、恋愛というものは小説でも映画でもなりえるわけで。


2005年3月20日(日

 公開時に見逃したガス・ヴァン・サントの「エレファント」。コロンバイン高校での銃乱射事件からイメージを膨らませてつくった映画で、乱射事件のあった日の高校生たちの心模様を追いかけている。
 冒頭の空の映像がよい。何かがゆっくり始まる前の静けさ。乱射を起した生徒も、撃たれた生徒も、特に外の世界の人たちと変わっていたわけではない。誰もが体験してきた高校生活の楽しさや悩みを包含している。傷ついたり、挫折したりしながら、この世界の成り立ちをわかっていくことができ、自分というものをつかむことができる。
 なぜ乱射事件が起きたのか。結局、この事件ではいとも簡単に銃が手に入り、その結果、妄想(空想)と現実が相互通行化しすぎてしまったのが原因のような気がする。現実のいろいろなものに傷つくこと、そうしてその中でも自分の世界を築いていくことは本当は大事なことなのに、乱射を起した生徒はそれを怖れて、逆に人の痛みを理解することができなくなってしまっている。だけど、すべてはことを起せる武器があったことが彼らに空想と現実の境界をわからなくさせてしまった原因だろうと思う。
 戦場ではもし武器で人を殺してもそれに一々怖れることはないだろう。(もちろん悪夢としてフィードバックしてくるのだろうが。) 銃乱射して人を殺すときの映像は何かそれに似たものを感じさせた。彼らの心の中は煮えくり返ったりしていない、ものすごく穏やかで静かなままで、諦念的だとすらいえる。
  この映画に出演者たちのほとんどは、監督の活動拠点であり、撮影舞台となったポートランドで見い出したそうだ。演技が自然で、この映画に大変合っていた。また、少年たちの心の底を流れているようなベートベンの月光、空の映像、そうしたものが素晴らしかった。




HP

 
 アンドリュー・ニコル「シモーヌ」。現実と虚構との交錯。現代ではそれらが行ったり来たりしていて、何がリアルかということが判別しない。そうしたことをこの監督はテーマとしてもっているようだ。「ガタカ」ではATGCの遺伝子配列、今回は0、1のプログラムときた。全体的にコメディ仕掛けで、結構笑えるし面白いのだが(アル・パチーノはすごいなぁ)、ほろりと落とすところがなかったのがちょっと惜しいかな。この人のスタイリッシュな映像は、無機質ともいうけど、個人的に好きだから次回作に期待。また近未来映画が見たいなぁ。

 
 岩井俊二「花とアリス」。岩井俊二らしい映画。彼の一昔前の作品のように、登場人物がやたらと棒読みを続けて、現実感が果てしなくないような夢の世界を漂っていて、その上に最近の映像美が加わったような作品に仕上がっている。この表面だけをすぅーっとなぜていく春風のような感覚が持ち味ということなのだろう。棒読みとやたらと愛想の悪い男の子のためか、そこをどうにか何かで埋めるしかなく、結局は観ているものの記憶を掘り出さざるえない仕組みになっているようだ。高校生の時分の記憶が机のひきだしにしまいこんで意味もなくなりそうなトランプのハートのエースのように蘇ってくるわけだ。


2005年3月19日(土

 昼過ぎに、最近お気に入りの小さなパン屋ポリーヌでフランスパンを買って、さらにクリームチーズやらワインやら買い込んで、グラス傾けながらずっと本を読んでいた

 *
 ジュンパ・ラヒリ「その名にちなんで」。素晴らしい。こんな作品を長編第一作に書いてしまったら、もう何も書けなくなってしまうんじゃないかと心配してしまうくらいに。インドとアメリカと二つの文化の中に生きていく主人公とその家族たち。そして二つの名前をもつ主人公。中盤から終盤にかけての主人公ゴーゴリ(=ニキル)の恋愛遍歴が特におもしろい。そして、語り手が親とゴーゴリらに、バトンタッチされていき、そのことによって登場人物ひとりひとりに愛着が湧くところもよい。様々な文化をとりこんでいくNYの魅力あふれる描写も楽しめた。いい作品を読んだと思う。
 
 
 ポン・ジュノ「殺人の追憶」。実際にあったという韓国での猟奇殺人からヒントを得た刑事物。粗雑きわまりない捜査を続ける地方警察に、ソウルから大学出の若い刑事がやってきて・・・というストーリーだけど、迷宮入りになるにも関らず結構最後まで見せてくれます。














2005年3月18日(金

 久し振りにひとりの週末行き。映画をたくさんみるつもり。


2005年3月17日(木

 GWの旅行のタイムスケジュール考えてました。時間まで考えてみたのって、はじめてかも。気付けば二時でとにかく眠いのです。。


2005年3月16日(水)   

「スパイス日和」

 手羽鶏買ってきてカレーをぐつぐつ。冷蔵庫の上の調味料箱から手当たり次第、香辛料入れてみる。食後はロンドンで買ってきたチャイ。そうして読んでいる本も・・・。


2005年3月15日(火)   

 ひとりの夜の時間に、はっさくの厚い皮をむいている。記憶の断片をさがすように。


2005年3月14日(月)   

 <<ほんとうにふしぎなことです! ぼくは何かに深く心を動かされると、手と舌がまるでしばりつけられているような気持ちになるのです。>>
 電車の窓を誰かが開き、僕を映し出していたガラス窓にとってかわり、中央線沿線の街の明かりが目にはいってくる。僕は本をとじて鞄にしまって、吊革につかまったまま、そんな夜の風景をぼんやり眺めているのでした。ずっと優しくありたいとそんなことを思っているのでした。
 アンデルセンの「絵のない絵本」、十年ぶりくらいに再読。丁寧に丁寧に読む。孤独だった主人公の気持ちになって、優しく語りかける月の気持ちになって。
 *
 桃色のバラの花束とケーキを買って、電車に乗って君の部屋へ。ずっとこの気持ちを忘れないでいよう。


2005年3月13日(日)   

 代々木でフランスのミュージカル「十戒」。席がよくわからぬ理由で変わってA→Sの二列目へ。舞台全体を使っていて迫力があり、さらにライブを聴いているような臨場感もある。アクロバティックな動きも見せる役者陣も素晴らしいし、言うことなしと言いたいとこなのだけど、この十戒自体がだから何?的な話でなんかあまり感動しなかった。神がかり的な預言者の話を、この時代に神聖化しようとするのはどうもねぇ。もう一度足を運ぼうとは思わないなぁ、残念ながら。
 夜、吉祥寺。という雰囲気の素敵な居酒屋を発見。照明に温もりがあっていいんだよね。ここもお薦めかも。吉祥寺のお店を巡るのがちょっと趣味になってきたかも。
 
 横浜デート。横浜ってなんかロンドンかどこか異国の街に来た感覚がある。街が整然としていて、日本らしさともいうべき雑然さと庶民さ加減が極度に薄められているからなのだと思う。東横で旅先でいつもそうするようなお得な切符買って、みなとみらい、中華街、観覧車。王道って感じだね。これまで生きてきた中で最近の週末が一番幸せ、とかそんなこと言われた。僕ときたら、ずっとオペラ座の怪人のテーマ曲なんか耳元流れていて(時折それは喫茶店や駅でかかっているオペラ音楽やジャズに変わったりするけれど)ずっと甘美、ときに軽快、この世の喜びのすべて。
 横浜美術館でマルセル・デュシャン展。難解な現代美術もこうやってアーティストを絞って観ると理解しやすくなるようだ。既存のアートに対して、わざと既製品たる工業製品なんかをもってきてアートにしたてて、アートが特別なものではないとしたのがデュシャンという人の業績なのでしょう。ガラスの透明性を二次的に理解させようとした作品が面白かった。また、デュシャンに影響を受けた森村泰昌やリヒターの作品もよかったかな。・・・といっても現代美術と印象派どちらかしか選べなかったら迷わず印象派だけどね。

春の散歩道

クールなガーベラ


2005年3月10日(木)   

 トリュフォーみたいに日曜日ならぬ週末が待ち遠しくって、もし週末運行電車が平日も走るようになって、家に帰ってくると誰かが笑ってくれるようなそんな生活を想像してみたりするのは、春だからなのだろうか。
 もし旅というものが一人でするものでなくなって、肌寒い小雨の日でも異国のカフェにはいって、珈琲の湯気の向こうでぼんやりと外を眺めている君がいて、その瞬間をいとおしむことができるのならば、それも悪くはないかなって思ってしまうのは、30の魔法のせいなのかな。
 匂いと肌触りと声。お湯のシュポシュポ沸く音に包丁のトントントン、冷蔵庫の開けたり閉じたりパッタンバッタン、棚から物が落ちて、わっ驚いたぁって、そうして後ろから今何を考えている?って。そういう幸せの形があるんだよね、きっと。しかし、春とはいえ、僕はいったいなにを妄想しているのだろう。


2005年3月9日(水)   

 「記憶力を強くする」読了。脳科学からのアプローチで記憶力の仕組みを解き明かした優れた本だった。記憶するには継続、反復、睡眠、興味が必要であるという当たり前のことを見直したって感じ。むしろ、それが科学的にミクロの世界で解き明かされていくことに対する面白みがある。筆者池谷氏のような方に科学を習ったら、みんな科学好きになるでしょうね。


2005年3月8日(火)   

 春は刻一刻と色彩を強めている。生命の萌芽、命の躍動。丁寧に生きたいなと春風頬にあて、自転車乗りは思うのでした。


2005年3月7日(月)   

 GWの旅行に向けて、都市間を移動するためのフライトと船を予約して、(ふつうのホテルが高いから)YHも予約した。ネットを駆使できる二十一世紀ってやっぱりすごい時代だと思うよ。5月はもうひとつ旅行いく予定でそちらの探りも入れてみた。財布がすっからかんになりそう。それでも、キリギリスみたいに人生を謳歌したいよね。


2005年3月6日(日)   

 吉祥寺とそこらの居酒屋で三晩連続。好きな人と一緒にいると何を食べても美味しいわけだけど、実際出てきたものも美味しかった。特に吉祥寺の八百家はいい店ですよね。素材を引き出すことにかなり長けていてどれを食べても舌がうなるって感覚でした。
 劇団四季「エビータ」。オーケストラがないために、客席と役者の距離が近く、細かな表情まで読み取れてよかった。マガルディ役の佐野氏の演技が妙にはまっていて好きだった。(あの歌、カラオケで歌いたい。)田舎娘からアルゼンチン大統領夫人にまでのぼりつめるエビータの生涯を追っていくのだけど、わざとところどころでエビータへの人々の熱狂に冷や水をかけて(チェ役)舞台は進行していた。上がるところで何度も小刻みに貶めるやり方(脚本ですね)が僕にはいまひとつのような気がした。エビータが単なる偶像でしかないのであれば、一度あげるところまであげてから落したほうが面白かったのではないかと思う。オペラ座を前に観たせいもあるかもしれないけれど、全体的に迫力不足。個人的には佐野マガルディの歌をもう少し聴きたかったことであるよ。


2005年3月3日(木)   

 カボチャの煮物など食べて、ホットカーペットの上で猫のように丸くなってうつらうつら。春も、春眠の気持ちよさもまだ始まったばかり。。


2005年3月2日(水)   

 旅先に出たときはどんな単純な風景にも新鮮な驚きがあり、それを知覚しようとする。それに対して、毎朝自転車で通り過ぎる風景は特別に知覚を働かせることもなくただ忘却されていく。そんなことを、朝、信号待ちのときに考えた。
 お昼。臨床心理の若い女性の先生とランチをしにいく。どうでもいいけど、この先生は去年トリビアに出たのだけど、多分近い将来メディア受けする方だと思っている。まぁ一種のタレントっていうわけだ。先生と『思考方法』は先天的な遺伝によるものなのか、後天的な家庭環境や学習環境によるものなのか、という話をする。先生は「遺伝じゃないかって思うの!」なんて面白いことを言って、僕がそれに返すって感じ。そういう他愛のない話題でも脳に刺激を与えるような話って楽しい。先生も会議をすっぽかしてまで会話に夢中になっていて(というのは他の先生から後で聞いたのだけど)ご満悦だった。
 超単純作業で残業などして帰ってお風呂で、池谷裕二「記憶力を強くする」(ブルーバックス)など読みふける。糸井氏が勧めるだけあっておもしろい。記憶はエピソード記憶として記憶するほうが効率的だという話が最後にくるみたいだ。海馬の神経細胞は、孤独でいるよりも社会に出ていろいろな人とつきあっているほうが増えるなんてことも書いてあったよ。たとえば今の僕の生活は相当の刺激に満ちていて、恐らく日々、記憶を溜め込む作業をしているのだと思う。それに対して以前の孤独な生活は記憶を増殖させることもなく、ただ昔の記憶をよりどころに生きようとしていたのかもしれない。あの頃、僕は記憶について強く意識していて、まさに海馬(記憶)を銃でとばすような小説を書いたりもしていたのだ。そしてそこで失われる記憶というのが誰かを土の中に埋めるという忌々しい記憶だったはずだ。あの意味はいったいなんだったのだろう。ずっと前に封印してしまって、それこそ土に埋めてしまったが・・・。


2005年3月1日(火)   

 言葉を深く知ることのできない人には、人生の意味を知ることもまたできないのかもしれない。お風呂の中で、この詩集「ポルトガルの海 フェルナンド・ペソア詩選」を読み終えた後、そう思った。僕は多分何も考えていないだろう、自分の身体が浸かっているお湯が何であるかも、あるいはお湯の中で鼓動を繰返している身体や心臓のことさえも。
 言葉の前で立ち止まり、逡巡し、そしてその先にある人生を考えることなしに、ただ表層ばかりを追いかけていることで何かを得ることができるのだろうか。享楽的に毎日を過ぎて、思考を生み出さないことで何かを失ってはいやしないのか。
 
<<闇の中を風が吹き荒び  大きな音がいつまでも続く  ぼくにはできない 思考をやめることだけは>>

<<なにも読まずなにも考えず  しかし睡ることもしないで
 ただ川床を水が流れるごとく わたしのなかを生が流れてゆくのを感じ
 外は神が睡っているような深い静寂
 ああ わたしの日びがいつもこのようであって欲しい>>


2005年2月28日(月)   

 石井彰・藤和彦「世界を動かす石油戦略」(ちくま新書)。石油についての観方が変わる目から鱗の本。石油というものは我々が普段思っているような地政学的な囲い込みで成り立っているものではなく、世界的に流通が安定していて、どこかがアウトでも他のどこからから代替できるという代物であり、中東の石油欲しさにアメリカが戦争しているというのはある意味で間違っていてある意味で当たっているそうなのだ。世界的に安定しているという考え方を知り尽くしていない政治家や権力者によって、中東に口出すという構図ができあがっているらしい。小泉さんも得意な一種のアピール材料として石油が使われている傾向が強いそうだ。石油に地政学的要因がまったく関係ないということがわかっていない国(例えばオイルショックを経験していない中国を筆者は挙げる)や政策によって、世界の石油供給が乱されることがむしろ心配材料ということらしい。 またアメリカが自国と関係ないところで口を出すのは、石油を全世界で安定させることが結局まわりまわって自国の石油供給を安定させることにつながっていることから、既に世界戦略として取り組んでいるということらしい。例えば、石油で日本や韓国が混乱すれば、まわりまわって火種がアメリカに飛ぶという構図らしい。
 筆者は日本におけるエネルギー供給を安定化させるために、石油の供給口の多様化や備蓄の確保(特に中国に石油備蓄させることがまわりまわって日本の安定化につながるらしい。)が必要であり、次のエネルギーである天然ガスの供給確保をパイプラインで行うことが重要と説いている。日本は天然ガスの乗り換えが世界的に見て遅れていることから、筆者はサハリンからパイプラインをひいてくることを提案していた。経済的協力を行うよって東アジアの平和の維持にも期待がもてるということらしい。もし、サハリンからエネルギーがやってくるのならば、札幌周辺部はかなり面白い役割を果たせるのかもしれないね。


2005年2月27日(日)   

 恋愛の高揚感の中にいて、上昇していく感覚。化石の鳥のようになっていた自分のよい部分が古い地層から発掘されて、翼を羽ばたかせて、次々空へ飛び立っていく。ずっとずっと一緒だったらいいな。
 
 ミュージカルを観たから、今度は映画ということで、ジョエル・シュマッカー「オペラ座の怪人」。10代というヒロインの美声が素晴らしい。ミュージカルでは舞台全体に視点の対象が分散されているために、受け手によって違った解釈が生まれ物語が多重化していくのに対し、映画はあくまで視点の対象がひとつのために物語の作り手の解釈がストレートに伝わってくる。どちらがいいとは言えないが、例えば仮面舞踏会のような場面では圧倒的にミュージカルのほうがいいし、小さな小道具に意味をもたせる部分は映画のほうがよいように思う。今回の映画で、オルゴールと仮面舞踏会の音楽が同じであり、それが仮面をもたなければいけない宿命にある異形の者の哀しみが織り込められていることに気付かされた。そうやって考えるとあの華やかなマスカレード♪の音楽の場面は、孤独や哀しみと対照的に対置されているものであることに気付かされる。しかし、オペラ座の怪人は音楽がいいです。
 
 新国立劇場オペラ劇場で近松門左衛門原作の新作オペラ「おさん −「心中天網島」より」。舞台美術が素晴らしくて、いろいろなインスピレーションを受けた。それから、後半部分の殺人の場面の迫力がすごくて圧倒されました。CGや人形の扱い方なども面白かった。オペラは高いけど、機会を見てまた通いたいです。オペラという芸術形態は高尚で若干敷居が高いけれど、とりあえず端っこの席でもいいから、自分の目で見て、感じ取ることが大事だなって思ったよ。
 
 マーク・フォースター「ネバーランド」。さほど期待していなかったのだけど、よいほうにこれが裏切られた。今年の十指に入るかもしれない。物語の深みが素晴らしく(脚本がいいのでしょう)、さらに演出が効果的で(監督がいいのでしょう)、ジョニー・デップの演技が冴え渡っていた。途中から涙なしには観られないし、館内もすすり泣きに鼻かみに涙拭う人(ああ、それは僕か)が続出というか、みんなそういうキモチを共有できる素晴らしい映画だった。これ一緒に観て、涙流す意味がわからない人だったら僕は多分その人とうまくやっていけないような気がするよ。
 物語はただし単純ではない。ジョニーデップ演じる劇作家の家庭の夫婦関係が上手くいっていないところや、子どもたちの母親(ケイト・ウィンスレット)の母親との関係など、この映画は主人公たちのとる行為がすべて正しいのかどうかといったところを最後にこちらにふってくる感覚がある。そういえば、そんな映画が前あったなぁ・・・と思って、よく考えてみたら、フォースター監督の「チョコレート」でした。この監督の作品、まだ二作目?のようだけど、今後の上映される作品はすべて観ておきたいように思う。


2005年2月25日(金)   

 ミックスナッツ並べてグラスかちんと鳴らして、さぁ週末。


2005年2月24日(木)   

*
 すてきだ。雪がふりつもった。アイリッシュウィスキーにキースジャレット、そして村上春樹。まるで札幌にいるみたいな感覚だ。
 「レキシントンの幽霊」。トニー滝谷が読みたくて、結局すべて読んでしまった。トニー滝谷が、父親のトロンボーンの音が変化したように思ったのは、単にトニーが孤独から別れて幸せの形を知ったからなんじゃないか、とも思えた。変わったのは父親じゃなくってトニーだったんじゃないかって。そう思って、前読んだときのダイアリ読み返したら違うこと書いてあった。しかし、中身の濃い短編集という気がする。ずっと立ち止まって、ものを考えていたい気分。そう、雪が溶けないうちにね。



2005年2月23日(水)   

 さっさと家に帰ってきて久し振りにお手軽だけど料理したよ。めざせスローライフ。


2005年2月22日(火)   

 習い事先で知り合った友達と飲みに行った。旅好きな人でふつうの人が知らないような世界中のマイナーな地名をつまみに旅談議が尽きなかった。彼の旅先の写真の表情がやたらとリラックスして別人みたいに見えた。旅好きな人と話していると、旅に出たくなっていてもたってもいられなくなる。GWがとっても楽しみ。


2005年2月21日(月)   

 ブレイカーが落ちて家が真っ暗、ということは古いアパートに住む僕にとって日常茶飯事の出来事だ。ピラミッドに潜り込んだ探検家のように壁に沿いながら、ブレイカーのありかを探し出し、電器機器を再びONにして、コンポの時計の設定をしなおす。すべては元の世界に戻る。でも、たとえばそのときに、時計を一時間遅く設定してしまったらどうなるだろう。
 朝、アラーム代わりに7時5分に音楽がなる。少しうたた寝した後、7時15分目覚める。時間がたっぷりある。朝ごはんもきちんと食べていこう、そう思う。しかし、何かがいつもと違うような気がする。それは光の量だったり、外の物音だったり。そうして何やらこれはいつもの7時15分ではないのではないかと嫌な予感が湧いてくる。そうして時計を見やる。時計は8時15分。その瞬間、すべてが早回しの世界となるわけだ。とりあえず思考をオフにするくらいの早回し。(まぁそれでオンタイムにオフィスに着くわけだけど)
 まるで時差ぼけにでもなったかのようだが、朝は快調。みんなに笑顔ふりまく。仕事ももちろん快調。しかーし、やっぱり時差ぼけなのだ。少しずつ眠くなってくる。眠くて仕事ができないという眠たさを仕事をやらされている感覚で仕事をしていたときに感じていたものだけど、今は眠くなるというか脳が重くなるという感覚。重力のある星に脳の中身だけフリスビーと一緒に飛んでいってしまったような感覚だ。そんなわけで、僕は今眠いのだ。すべては時計を一時間ずらしたことにあるような気がする。ほんとうは僕は一時間後の世界で生きていたのに、多分あのブレークダウンのあとに、一時間前にタイムスリップしてしまったのだ。


2005年2月20日(日)   

 飯田橋ギンレイホール・デビュー。二本立てとか観てると学生に戻ったような感覚。
 ジュリー・ベルトゥチェリの「やさしい嘘」。グルジアが舞台の映画で、なんだか街の風景が懐かしかった。ああ、これはあの辺じゃないか?なんて推測したり。車のトランクにスイカを入れて売っている人とか、ふつうにゴミステーションから板切れ拾ってバスに飛び乗るとか、なんかこの国はよい意味で人の目を気にすることがない。それはこの世界自体が資本主義に遅れていて、そこから締め出されていることを社会全体が感覚として共有しているところにあるのかもしれない。いずれEUに加盟することもあるのだろうけど、また機会を見て行ってみたくなったよ。映画のほうは最後の姪っ子の決断に涙。ガラス越しで声が通らなくても全てが伝わるところがいいと思ったよ。家族愛の強さが感じられていい映画だった。
 ァディム・パールマンの「砂と霧の家」。ダメでしょう。脚本と脚色にまとまりがなく、深く考えた形跡がない。それとも、文化に固執するイラン系アメリカ人と、お気楽過ぎの上に短絡的なアメリカ人を風刺した映画なのかなとも深読みしてみたり。ベン・キングスレーはなぜこの映画に出たのでしょう。


2005年2月19日(土)   

 劇団四季の「オペラ座の怪人」。汐留のおしゃれな一角にある電通の横にできた新しい劇場だ。四季は経営がうまくいっているのか、各地に新しい劇場を次々つくっているようだ。それにしてもこの汐留、最寄駅はサラリーマンの街、新橋。新橋と汐留って同じところにありながら、180度くらいイメージが違う。汐留も一種のブランドであり、記号になっていくのだろうと思う。不思議なものだ。
 オペラ座の怪人は3回目で、四季のは初めて。歌唱力、音響、舞台、すべてよく、楽しめた。音楽が耳にこびりついて、テーマ曲のひとつを口ずさみながら家路をたどったくらいだ。・・・しかし、オペラ座の怪人って、(秀逸といわれる)脚本が実はいまひとつのような気がする。どうもテーマがぶれてしまっているような気がしてならない。怪人の悲劇なのか、恋愛劇なのか、どっちつかずだし、最後のシーンがいつもあっけないように感じる。舞台の荘厳さは言うことなしだけどね。
 *
 久し振りに女の子の部屋に行った。まるで借りてきた猫みたいにしていた、というかそれが今の僕そのものなんだろうけど。「トニー滝谷」みたいな気分で、僕は今目の前にある幸せをいとおしいと思う。
 家に帰って音楽聴こうと思ったら、コンポのMD部分が壊れてしまった。分解して中を見たけど、ちょっと簡単にはわからないような気がした。多分、MDを抜く時か差し込む時に力をかけてしまったのが原因なのだけど、物が壊れる瞬間ってとても寂しい。ちょっとした力の均衡が崩れるだけで壊れるものがあるのだから。
 僕は多分ある程度の幸せで満足できる人間で、それ以上の幸せを与えられてしまうと本当に怖くなってしまう。僕には過当な幸せなんじゃないんかなっていうふうに。あまりにそこに傾倒してしまって、突然奪い去られることが怖い。でも、でも、もういちど、いろんなものを信じてみたい。120%の幸せがあるのなら、それをしっかりつかまえてみたい。


2005年2月18日(金)   

 医学部の女子大生の理知性にびくり。家に帰った瞬間に飲みに誘われてふらり。店を出たらミゾレびっしょり。嬉し楽し週末に向かって自転車こぐ。


2005年2月17日(木)   

 学費の振替をやってるんだけど、今日は全体の3割処理して、総額1億円超。間違えたら洒落にならないよっていうか新聞沙汰だ。仕事はこれでピークも越えちゃったし、何か面白いことでも考えなっきゃなぁ。たぶん、全職員の中で一番余裕があるように思う。
 GWのエアチケットもとったから、今回はしっかりプランを考えようっと。そろそろ、行き当たりばったりも卒業かな。


2005年2月16日(水)   

  GWの旅行の計画考え始め。しかし行きたいところのチケットはとりにくい上に、高いこと、この上なかったり。別に月に行くわけでも南極に行くわけでもないのにね。旅行代理店のチケットの発売状況が読めなくって、なんか株の売買でもやってるような気になるよ。とりあえず、歩き方買ってきた。


2005年2月15日(火)   

  ちょっと大変な仕事のまとめ役を後輩に任せて、遠巻きに眺めてたり。僕自身ここで一年半程度しか働いていないのに、後輩の育成を考えているのってなんか不思議。


2005年2月14日(月)   

  ちょっと有頂天。心の中に花が咲いたよ。


2005年2月13日(日)   

 壁にもたれたマンボウ
 夜景、ビルの屋上の鼓動のような誘導灯
 キモチの磁針
 物言えぬ温かな指先

 

 


2005年2月12日(土)   

 たとえば、グラウンドを100週くらいもくもくと走る必要があって、それを月曜日に予定していたのを今日一挙にやったという。合否の判定書類を一挙につくったのでした。ランチ抜いてやったおかげで、夕方になってふらふら。下のフロアのお弁当屋さんに行ったら店長さんが「入試ですか?」って。(そう、去年、この店長さんと仕事をしたのです。)100週走り終わるところで、今回卒業が決まった人からの電話。「まだ勉強したいから卒業したくなかったのに、どうしてくれるんですか!」という前代未聞のクレーム。卒業を無理やりさせてあげることはあっても、その逆ってあまりきかないよね。なんか長期戦になりそう。


2005年2月11日(金)   

 たんたんたんと仕事。お昼は珍しく女性陣と一緒に食べました。うちが炊飯器とエアコン一緒につけるとヒューズとぶ話をしたら、バイトの子が「貧乏なんですかー?」って。それから、家で退屈なことってないなって話したら、「部屋が狭いんですか?」だって。ちょっとたじたじ。

 
 パオロ・マッツァリーノ「反社会学講座」。最近もっていた社会学に対する僕の不信と不満を代弁してくれるように、軽妙な言葉と駄洒落によってスマッシュヒットを繰返してくれる。冒頭では、少年犯罪は増えている、という社会認識がうそであることを簡単に明らかにする。若干、冗長的な章もあるけれど、文章が軽いので、くすくす笑いながら読めます。社会学を目指す10代の方は必読って感じかもしれない。
 巻頭のジョン・アーヴィング「未亡人の一年」から引用された言葉(アーヴィングも慧眼だね)がわかりやすい。<<わたしたちは、社会学のばかが言う、機能不全家族なの。>> アーヴィングってこういう世界の紋切り型の認識を切り返すような物語をつくっていたんだものね。









2005年2月10日(木)   

 なんか仕事が余裕かもしれない。なんでだろう。


2005年2月9日(水)   30th birthday.

 30になりました。たぶん、これまでのBDで一番おめでとうを言われたような気がします。

 一番感動したのは帯広に出張中という父からもらったケータイの留守電だった。それを聴いてたらふと、想い出したことがあったんだよね。それは中学生か高校生くらいのときに、家の中で古い録音テープを発見したことがあって、聴いてみたら僕がほんとうに小さい時(多分3歳とか4歳)のBDの録音で、そこで父がすごく若々しい声でしゃっべてるの。なぜか、それを想い出したんだよ。きっと、あのとき父は今の僕と同じくらいの歳で、そのときからずっと僕のことを気にかけてくれていたんだよなって。留守電を保存して、二回聴きなおしたら、なんか涙が出てきたんだよ。
 母からはメールがきて、僕が生まれたときにどんなに感動したかが綴ってあった。大恋愛をして、ただ一人の人とめぐり合ってくださいと結んであった。
 
 20歳のときはいつも不安定で苦しくて自己肯定と否定を忙しく繰返していた。早く30歳になりたいって思っていた。そして、今その歳になって僕はほんとうに幸せで満たされているみたいなんだ。みんなにありがとうって言いたい気分です。


2005年2月8日(火)

 増田悦佐「高度経済成長は復活できる」文春新書。高度経済成長が止まった原因は地方にお金をばらまいた田中角栄から連なる政治の仕組みだということを喝破していて、なるほど説得力がある。今は首相自らパフォーマンスとも言われるけど既得権益を壊していく方向に向かっているわけで、よく考えればそれを形作ってしまったことがすべての元凶だったということなんだよね。都市にお金を集中させて、下手に弱者を守ろうとせずに自由競争を促すことで、成長を取り戻すことができると筆者は言う。僕もそう思うし、より効率さと生産性をあげることが必要なんだろうと思う。特に東京の職住近接を進めたり、鉄道整備をはかっていくことが重要だよね。東京をより高性能化させることが必要なんだよ、きっと。これ以上、新幹線を整備する意味がわからないものね。しかし、政治の世界はどろどろしていて、あまり近寄りたくない。早く道州制をはかって、それぞれが企業のようにサービスと利潤を生み出せるようにしていくといいんじゃないかしら。
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 一年で一番の多忙期のはずなのに定時帰りなどしちゃったり。「忙しい」という言葉が僕の辞書から半分消えかかっているかも。ふあ。


2005年2月7日(月)

 今日は微妙に眠たげなままに一日が過ぎてしまった。ヤナギの葉がさらさらいって、耳元で蜂がぶぅーんとうなっているそんな感覚です。VDには関係あるのかよくわからないけどチョコレートをもらった。アーモンドをカカオのパウダーでコーティングしたようなので美味しい。


2005年2月6日(日)

 新宿でシルヴァン・ショメの「ベルヴィル・ランデブー」。不可思議なビートのフランス・アニメ。シュールさと呑気さが合い交じったような仕上がりになっている。こういうのがフランス人の気質ってことなのかな。犬の一挙一動にくすりとさせられるのだけど、自転車選手なのに何かうつろな息子さんや家の脇につくられてしまった電車の線路、笛の音のように何か短絡的なおばあさんと、何かを象徴させてつくっているような気もして、単に可愛かったねーで終わるアニメではない。宮崎アニメにあるような健全さがここにはどうしても見当たらない。

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 ひとりで一日を過ごして、そんなことにずっと慣れきっていたのに、昨日の親密な空気のことを考えていたら、突然寂しくなった。寂しくなるというか、微妙に苦しいというか、恋わずらいというか。ああ、おばかさんなのよね。
 
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 incognitoの「Positivity」。かっこいいです。新作の「Adventures in Black Sunshine」のほうをよく聴いてるけど。しかし、こういう音楽の合うオトナになりたいものだね。
















2005年2月5日(土)

 恵比寿、代官山、中目黒をお散歩。行こうと思ってたカフェをうまく発見できなかったけど、ケーキも食べたし、イタリアンで誕生日祝いしてもらったし、なんか言うことなしです。帰りの電車で、僕はなんて幸せなんだろう、ってしみじみと感じ入りました。神様ありがとう。


2005年2月4日(金)

 上司に頼まれていたこと<WEB試験の改善>、(熟考したくって、ほっぽっておいたら)話の流れであれどうなった?なんて訊かれて、ごめなんさいって。勿論、一時間後にはSEに話をつけて全て報告したのだけど。
 その一方で新たな提案<卒業生向けの生涯学習用サイト>を出して、フローチャートがみやすかったせいか、上司の興味を引いたのはわかったのだけど、最終的な結論が弱かったみたいで、もう一歩二歩構想を発展させてもよかったのだなぁと反省。
 時間をかければそれなりに良いものができるだけに、それを手放すタイミングも難しいように思う。
 最近、刺激を受けることのできるような競争相手がいないせいもあって、相対的な自分のレベルがわからない。もっともっと高いレベルがあるんじゃないかってちょっと心配にもなってくる。


2005年2月3日(木)

 節分だけど大豆がないので、その加工品ということで湯豆腐と、ミックスナッツという変則オーダーを組んでみた。ナッツで喉が渇いて、結局ウィスキーなぞグラスに注いでるわけだけど。多分、うちの鬼は安堵していることでしょう。
 大前氏が言うには、アイディアは直感で生むものではなくって、論理的思考の積み上げによって生み出すものだって。そして自分の足を使って仮説と検証を繰返すんだって。さすが自信家だけあって、時代を読む力があるみたいで単純に話が面白い。
 ・・・で、僕この本読むうちに、どうやら思考方法が少し変わったような気がしてる。ある程度の理系教育は受けているから論理構成力みたいなものはあると思うのだけど、それが最終的なアイディアの構築の仕方に活きていなかったように思う。これまでアイディアは突発的なものであり、それと論理構成は異なるものと考えていた節があった。この本を読んでそれを融合させるきっかけみたいなものがわかったような気がする。ある一つの事象について考えるとき、まずそれをセグメントに分けて、セグメントから論理的に答えを導き出していく。それを大前氏はピラミッド型に積んでいくと言うわけだけど。多分、セグメントからの論理展開の仮説としてイメージの喚起力を用いるのだと思う。多分そのとき、ピラミッドの上位に固定概念をもってこないようにする必要があるのだと思う。じゃなければ、セグメントに分ける意味がないものね。


2005年2月2日(水)

 たまには足踏み。


2005年2月1日(火)

 大前研一「考える技術」。こんなボスがいたら、圧倒的に伸びるか、潰れるかのどちらかなのだろうというくらい、論理力に富み、自信家であり、嫌味なくらい手厳しい(多分、女性にはもてないね、負け惜しみだけど)。この人、ぬるま湯につかったことなんかなくって、ずっと刺激的な薬品槽の中で生きてきたのだろうと思うよ。ぬるま湯の中にいる僕は辛いラムネでも飲み込んだみたいに舌を出して、外の空気になじませようとしてみるってわけだ。しかし、こんな人がいる世界が外に広がっているということを知っただけで価値は大きいよ。ちなみに、僕が目指すのは賢くって優しいって感じだね。
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 昨夜、夢を見た。冬山を歩いている夢だ。地図を見て、二つあるポコの中間にテントを張ろうとか考えてた。ジルブレッタ(スキー金具)かちかちいわせて、雪深き山をラッセルしていた。すごく懐かしい感覚だったのだけど、もしかしたら夢が現実で、現実と思っているのが夢だったりしそうだなと、小説みたいなこと考えていた。ちょっと思考が現実路線走っているのかしら。物語をつくることを生業にしていると夢を見ないっていうものね。


2005年1月31日(月)

 市川準の「トニー滝谷」。宮沢りえが魅力的でした。(詳しい感想はJsBarにカキコミしました。)

(↓カキコミした感想ね。)
 全体的に淡い映像で、野口理佳さんや川内倫子さんの写真を見ているときの印象に近いものがありました。
画面の構成が水平線となるものを常に下においているために、上方に広がりがあり、すべてが危うく消えていきそうな感覚に捉われました。
そして、それがこの原作のテーマとよく合っているように思いました。

市川さんの映画は「ざわざわ下北沢」くらいしか見たことがないのですが、日常生活の中でふと何かを感じ取るときの感覚に優れていて、それを愛おしむことのできる方だと思いました。
東京の日常ってWEBも雑誌も広告もコンビニも、そして人の会話すらもただ表面をさらってばかりのことが多くて(ロスト・イン・トランスレーションというそれをテーマにした映画<☆5つ>がありましたね。)、ときどきそういうことにいやになってしまうのですけど、この人はそれをしっかり底まで見つめることができるのだなと思いました。

また、この作品では言葉というものをかなり重視しているように思いました。小説の言葉をわざとはっきり登場人物に話させたりして、意図的に言葉を記憶にとどめようとしていました。演劇の感覚にも近いように思いました。(舞台化しないかな)

坂本龍一さんの音楽も余韻があり、宮沢りえさんが非常に魅力的で喪失感の大きさを高めていました。一人ニ役の演技も見事でした。
西島さんのナレーションも淡々としていて好きです。


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 フォルムのきれいな靴とメガネを買って(靴の接客の人が僕と雰囲気が似ていた。)、夕方、客のいないお店でひとりワイン飲んでました。なんか優雅な休日をおくってしまいました。


2005年1月30日(日)

 卒業研究の口頭試問のアレンジ。ノートPC3機を自転車でもっていたのはよいけれど、ストップウォッチを用意するのを忘れて、司会しながら秒針にらむことしきり。窓の向こうには梅の花が咲いていた。
 お風呂でいつものように本を読もうとしてそのままうつらうつら舟をこぐ。


2005年1月29日(土)

 岩田規久男「日本経済を学ぶ」(ちくま新書)。これまでの政策や日銀の施策などがどのように経済に関り、結果的に浮き沈みさせてしまったのかがよくわかる。おかげで、金利を上げ下げするといった意味も今頃になって理解できたわけでした。

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 カフカの城は城にたどりつけないお話だけど、城(演劇)を観にいこうとして会場を間違えてそこにたどりつけない人がいたものだ。やってしまったー。

 
 しかたなく、ギリシアのワインとフランスパン片手に帰ってきて、ルキノ・ヴィスコンティの「山猫」など観ていたり。バート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレのダンスシーンがよいですね。時代から消えていこうとする貴族の栄華と悲哀を描いていたのだけど、背筋のぴんとはったランカスターに存在感があって映画が締まります。


2005年1月28日(金)

 奥田碩「人間を幸福にする経済」(PHP新書)。トヨタ会長にして経団連会長が、今後の日本のビジョンを綴った本。前に読んだ松谷氏が経済縮小を前提にしているのに対して、こちらは経済発展を視野に入れている(ただし、松谷氏の論の根底にあった労働人口の減少に対してこの本が有効な回答をもちえているとは思えないけどね)。全体的に読みやすく、今後の経済界から見た理想論が淡々と述べられていくわけだけど、さほど目新しくもないけど現実味がある。ただしその現実も自分でつかみとらなければいけない類のものなわけで、理想で終わってしまう可能性もあるような気がする。よく考えてみれば、経済界のリーダーの仕事ってビジョンを誰もが想像できる言葉に置き換えることなのかもしれないなぁ。
 州制(道州制でないところにも意味があるのかな)を進めることで、中央から地方へと権限を委譲し、中央は小さな政府となって外交等に専念させるというのはいいアイディアだと思った。それをやったら自民党議員やそこに依存している旧態的な産業は困るのだろうけど、そうした輩を一掃できて、いろいろな改革を進めやすくなるし一石二鳥かもしれない。


2005年1月27日(木)

 朝カーテンを開けると、目の前の団地に朝日が差し込んで、東側と北側にくっきりとラインをつくっていて、エドワード・ホッパーの絵でも眺めているような気分になるのです。って今朝はそんな光景に感じ入ってるわけがなかったのだけど。
 昨夜のフレンチは楽しかったです。あまりに次々料理が出てきて、途中から笑いが止まらなくなったのでした。


2005年1月25日(火)

 昨夜誰かのダイエットのWEB日記読んでいて思ったのだけど、ダイエットと語学の修得って似てるよね。
 明日はお休みとって友達のBDお祝いする予定。フレンチ予約したんだものね。


2005年1月24日(月)

 淡々と月曜日。早く春にならないかなぁ。
 桜はなびら、水面ただよう、小径を手つないで歩いてく、靴紐ほどけて、しゃがみこむ、見上げれば青空、くすり笑い顔。みたいなイメージでお願いします、なーんて。幸せな予感なら、こんなに、手のひらいっぱいあるよ。


2005年1月23日(日)

 渋谷BunkamuraでNODA・MAPの「走れメルス」観劇。赤鬼と似たような世界の構図、赤鬼でこちら(日本)とあちら(外国)だったものが、ここではこちら岸と向こう岸という設定(深津絵里さん演じる芙蓉の現実と幻想の二重構造だったのかな?)になっていたのだけど、煙にまかれたというか、よくわかんなかったというか・・・。なんだったのでしょう。刑事役の古田新太氏の演技が軽妙でおもしろい。あと濱田マリさんも印象に残ったなぁ。・・・ここまで書いて、ネットの他の人の観劇感想読んでたら誉めてるのが多いみたいで、・・・僕ってもしかして理解力がないのかしら。ふむ。
  
 吉田修一の新刊「7月24日通り」。素晴らしい。まずページめくって目次に並んでいる章のタイトルが小説とは思えないようなもので、さらに小説の出だしも甘くてどうなることかと思っていたら、さすが吉田氏、すべて計算の上なのだからすごいですね。この人はストーリー全体を俯瞰するのに長けていて、ひとつひとつにきちんと意味づけできるのだから。 地味な主人公と憧れの先輩との対比を、同じように地味な弟の彼女とハンサムな弟でもってくるところもいい。それから、リスボン、リスボンの詩人ペソア、ペソアに興味をもつ若い画家、・・・このあたりの絡ませ方も上手いです。
小説の底を流れる「わたしたちはどんなことでも想像できる、なにも知らないことについては。」というペソアのフレーズはいいですね。一度読んでみたくなりました。
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 7年ぶり?に買ってしまったスピッツのアルバム。マサムネ君は全然変わらなくって驚いてしまった。僕も昔はすごくマイペースに自分の世界を大事にしていたのに、いつの間にか、世間のペースに合わせ過ぎていたみたいだ。そう、そんなこと昨日僕はわかったような気がする。
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 ホームページつくって5年がたってしまったことだよ。





 

 











2005年1月22日(土)

 池袋でマルセル・カルネの「天井桟敷の人々」のリバイバル上映を観てきた。映画史上に残る傑作ということだが、ほんとうに傑作。これ見逃して死んでしまったらもったいない。バチスト(ジャン・ルイ・バロー)のパントマイム等、役者の演技がすばらしい。そうして時代を経ても変わることのない愛の難しさ(純愛、嫉妬・・・)についての描き方がいいし、映画内舞台との複層化、喜劇と悲劇の紙一重さの表し方等の映画つくりも絶妙。文句なしです。さすが名画といわれるものは違うのだなと思った。
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 この前会ったときはお正月にケーキを連続で〇日間食べたとか言ってたくせに、ローカーボダイエットを始めたから炭水化物は食べられないという唐突な宣言にちょっと笑っちゃう。なんか思考回路がマイペースというかなんというか。耳かけ姿がふつうにかわいかった。まじめに恋愛がしたくなってきた。


2005年1月21日(金)

 昨日のこと自分の中で整理がつくわけなくって係長に相談したら、恋愛と同じで相手のことを強く思っているとそれだけショックが大きくなるんだよ、なんて形容された。ちょっとした師弟の叱咤くらいだと思ったほうがいいよ、と言われた。まぁそうなのかもしれない。しかし、バカとかボケとかそんな小学生言葉、師弟でも言うものなのかね?結局、今回もメールで言われたわけだし、相手と直接会わないと真意もわからない。僕のオフィスはキャンパスから離れているから当分会うこともないのだけど。今月は学校のトップと一時間話し込んだ以外、よく考えたら他部署の人とほとんど話もしてなかったりする。
 僕って、0か1かの傾向が強すぎるのかもしれない。1のときは全肯定できるのに、0になった瞬間、突然すべてを捨て去りたくなる。最近、それは弟とも共通なんだなって思ったけど。(弟も一瞬の決断で前の師匠さんと訣別して、あっという間に新しい居場所見つけたりしているわけだものね。)僕もこの調子だと、どこかで突然決断して、全然違うところに場所を変える可能性があるような気がしている。(3年間同じことをし続けていた例がないし。)
 ・・・仕事のことはとりあえず忘れよう。多分、この一週間遊べなかったせいで自分の中で余裕がなくなってしまってるのかもしれない。とりあえず、週末でいったん身体の組成を変えようっと。


2005年1月20日(木)

 出る杭は叩かれるということか。一番尊敬していた先輩の一言に失望した。すべて見越して僕を叱咤してくれた言葉ではなく、明らかに許容性の低さや視野の狭さ、余裕のなさによるもののような気がしている。結果的に自分の居場所がここでよいのか、この職場に入って初めて考える破目に陥っている。
 ここは確かに理想的な職場ではあるが、だからと言ってやはりそれに甘んじてはいけないのかもしれない。着実に力をつけて、ある段階でより高いレベルへの転身をはかっていくべきなのだろう。


2005年1月19日(水)

 今日はちょっとした出会いがあった。あ〜仲良くなれるといいなぁ。
 誰かと会ったときにぱっとその人について何かを話せるように訓練して、それを条件反射的に性格づけしたほうが得なような気がする。きっかけというものはたくさん転がっていて、必要なことはそれに注意深くなること、興味をもつこと、自分から話しかけること、楽しむこと。こんなところかな。自分がそうでなくって、どうして相手にそれを望むことができるだろう。


2005年1月18日(火)

 朝からランチとらずに仕事こなして1月の山も越えた。集中していると、話すテンポまで異常に早くなっていて、我ながらおかしかった。しかし、ずっと気付いていたことだけど、集中していると感情の起伏がほとんどなくなってしまう。人の話していることとか一応聞き取っているのだけど、それを感覚器で処理せずに、脳の中でデータ処理している感覚に近いんだよね。ホモサピエンスとしてそういうことは正しいことなのかな。ある程度、意識して感情表現を押し出していかないと、ほんとうに乾いた砂漠みたいになってしまうのかもしれないなぁ。


2005年1月17日(月)

 夜になってから仕事がばたばた。久し振りに20時過ぎまで残ってしまったし。(ちなみに僕の下半期の目標は繁忙期でも20時に帰る、だったはず。)去年のダイアリ見直したらどうやら今年よりも二時間は多く毎晩仕事していたみたいで、まぁそれでも進歩しているみたいだ。明日の午前に合否の会議資料をつくるのでそれが今月のピークだね。


2005年1月16日(日)

 今週末は両日出勤だったのだけど、僕がやるほどの仕事ではなくって、出願書類の開封とか数合わせとか、かなりの単純労働で逆に疲れてしまった。このままだと脳が不活性化しそうだったから、学校のHPにアマゾンのアフィリエイト導入という一石三鳥くらいの構想を練っていた。ここのページもアマゾンのアソシエエイト・プログラムというのを、単に画像を使いたいがために導入しているのだけど、これをうちのHPに大々的に導入すると結構面白いことができるかなって。学生サービスとアフィリエイト儲けというのもあるけれど、学生集めの方を主眼に置くというのがミソ。倫理的問題も絡んでくるので、儲けは全部還元というのが美しいんじゃないかなとも思ってる。あと少し練ったら上司に提案してみるつもりなのです。こういう構想をぽんぽんと練るのが僕は割と得意なような気がする。まぁ兎に角週末遊べなくてちょっと鬱屈してるから、今夜はステーキ肉なんぞ焼いてポン酢でソースをつくって食べていたのでした。辻仁成は女性と別れて肉を噛み、この僕は遊べなくってほぞならぬ肉を噛む。
 
 昨日の本。労働人口が減って経済成長が寸止まりになるからどうしたらよいかっていう話だったのだけど、なんと投資を縮小せよってことになるのでした。つまり将来の利益を見越して投資をするという時代は終わって(筆者によるとデフレ自体も実は投資過剰による在庫余剰が関係しているらしいのだけど)、将来の経済縮小を見越して全体を縮小させていく必要があるってことだ。なんだか企業を軸に考えると、そんなことありえるのかななんて疑問符がつくけれど、例えば行政を中心に考えると理解しやすいようにも思う。労働人口が減り、GDPが減り、納税額も減る、とすれば歳出を抑えざるえない。ならば始めから大規模なインフラ整備などするだけ無駄だという発想になっていく。多分、余計な道路も新幹線もダムも住宅開発もすべていらなくなる時代がもうすぐやってくるんじゃないかな。それを敷衍して企業に当てはめれば、輸入せずに輸出だけを行える企業(多分そんな業界はほとんどない)以外は、国内の需要が落ちていくのだから、生産量を落して生産効率で勝負していかなくてはいけなくなるのだろうね、きっと。多分、組織は大きな単位で考えずに、小さなブロックにしてその1つ1つの採算が合うようにしていく必要があるんだと思うよ。そしていらないブロックは潰して、将来性のあるブロックだけ生かすみたいな感じになると思う。
 そしてここで述べられる中央と地方の将来図もおもしろい。東京は高齢化社会の波をもろにかぶって(どんなに若者が流入しても高齢者の数が圧倒的に多い)、生産性(⇒所得⇒生活水準)が落ちるんだって。(計算は人口/労働人口みたいな式で多分算出される。)そうして地方が東京と肩を並べる時代がやってくるということだった。(地方は出生率が東京と比べて高く、東京ほど人口ピラミッドが歪ではないため)。それだったら、僕も北海道に帰るべか(なんて北海道弁はないけど)って思うけど、北海道はますます所得が低下して生活水準が低下するという予測なんだって。僕が北海道知事だったら、多分都市部と農村部みたいなブロックにすべてを分けて、ひとつひとつの役割を決めて、その一つ一つが独自に生産性をあげるような施策をうつけどなぁ。そして公共事業なんか維持費だけで赤になるわけだから、そうした無駄なコストを徹底的に省くというのが大事。(いつかは北海道のために尽くしたいなどという夢があるのです。)


2005年1月15日(土)

 松谷明彦「「人口減少経済」の新しい公式」を読んでいる。なかなか面白い。高齢化や少子化が叫ばれているが、ここで問題としているのは労働力の不足による経済の縮小、である。現在の日本の人口ピラミッドから現在保持している労働力が足りなくなるのは目に見えていて、そうすれば必然的に生産性は落ちるという考えによる。なるほどと思って、アマゾンの書評など見ると案外辛口なものもある。データが弱いために全体の推論が成り立っていないとするのだが、まぁ確かにそういうこともあるのだろうが著者の言っていることは全体としては合っていると思う。経済の見方は恐らくそのアプローチによって変わってくるはずで、だからこそ政策だって混迷するのではないだろうか。
 労働力が減少して経済が縮小していく中で、どのような対策を練るべきかがこれから述べられていくみたいで興味深い。経済学はデータの雑駁な感想で終わらないし、ある意味科学的だし好感がもてる。


2005年1月14日(金)

 新年会ということに午後になってふと気付いてでかける。カラオケでマツケンサンバ踊ったり、平井堅歌わさせられたりするけれど、うちテレビがないから、よくわからないんですよね。残念!(というネタも出張先のテレビで一回だけ見たのみ)。宇宙からやってきて、地球人とどうにか友好をとろうとする宇宙人みたいだよ。


2005年1月13日(木)

 山田昌弘「パラサイト社会のゆくえ」(ちくま新書)。社会学は生ものだから売り出すタイミングが難しい、とは著者の冒頭の言葉だが、だからと言って何でも出せばよいというものでもないと思うけど。この本は離婚率や人口等の統計データを使って、現代の日本の社会事情をあぶりだそうという試みの本で読んでいて面白いのだけど、その面白さというものがちょっとまじめを気取った週刊誌のレベルを脱していないように思う。現状があって、それを面白く揶揄したり嘆いてみたりするのはいいけれど、学者であるならば、もっと先を読んでその現状を打破するにはどうしたらよいかということを考えなければいけないのではないだろうか。この人の物の言い方も、うわさ話が嫌いな人はいない、に見られるような変な思い込みがあり、ある意味、データ分析においてもそうした恣意的な思考が混じってしまっているように思う。結局、変なところで学者さんなんだろうと思う。社会学という学問はいったい何なのだろう。今の社会事情をあぶりだせばそれで済む学問なんだろうか。そうして何か気の利いた言葉を使って、それを流行らせて、さらにある社会的現象を加速化させる学問なんだろうか。某社会学者の援助交際とか、山田氏のパラサイト社会といった言葉は、それを言い当てた本人はとっても得意げなんだろうけど、それが社会の流れを助長させてしまうということをわかっていないのだろうか。そうして、この本は、青少年に努力すれば報われますよという道を示すことが大事、なんて説くわけだものな。それならば、もっと努力して研究して、社会事象の向かう舵を正しい方向にいくような提言をこうした本でして欲しいものだよ。なぁんて、ちょっと当てこすり。

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 学校のトップと面談。授業のWEB配信について一時間話してきたけれど、僕の構想よりもトップの構想のテンポのほうが速くてちょっと驚いたし、嬉しくなった。上司に話したら「どうせ飽きるかもしれないから、ぬか喜びかもよ」だって。










2005年1月12日(水)

 実家の猫が天命をまっとうしたって母親から電話で聞いて涙ひとつぶ、ふたつぶ。最後に会いたかったなぁ。


2005年1月10日(月)

 冬眠中って手書きの表札を一日中出して家の中にいた。音楽聴いたり、珈琲飲んだり。我が家は楽し。こうやって書くと、今にもかえる君がやってきそうな感じだなぁ。


2005年1月9日(日)

 新宿でパク・チャヌクの「オールド・ボーイ」を観た。昨年のカンヌの審査員特別賞を取った韓国映画という程度の情報で観たのだけど、なかなか面白かったです。サスペンス映画なのだけど、ストーリーの運びがよく、音楽が効果的で、ハリウッドものと遜色がない。この手の映画は韓国映画のほうが日本映画よりずっと上のような気もした。さらに人間の深みを描くことができたら文句なしというところ。


2005年1月8日(土)

 東京ドームのムーミンカフェから小石川植物園(寒梅と牡丹だけ咲いてた)まわって、ふたたびドームまで。思った以上に突っ込んだ話ができる相手で楽しかった。


2005年1月7日(金)

 昨日の本読んでいて、ブランドとしてのストーリーや、顧客ひとりひとりのストーリーを考えることの重要性を説いていて、あぁこういうの得意かもなんて思ったり。そうやってぱっと思いついた妙案をメモしていたり。これも一種のワークホリック?。そんなことではいけないと週末はたっぷり遊ぶ予定で、電話で優しい声(ジュゴンみたいな鼻声とも言うけど)で待ち合わせ場所決めてたら少し胸騒ぎ。


2005年1月6日(木)

 オフィスのそばに使えるカフェを発見。樹木の陰のようなところにあったせいか、ノーマークだった。昼時なのに、僕のほかには、フランス語会話練習の女性とその先生しかいなくて、静かで広々していてキレイでちょっとありがたい。「最近できたんですか?」の質問に、「去年の7月オープンですね」でまたびっくり。

 
 河瀬誠「戦略思考のすすめ」(講談社現代新書)がおもしろい。僕の仕事、けっこう余裕がでてきて、やらなければいけないもの(現在)から解放されて、どうやっていくか(将来)を考えていくことにシフトしつつあるのだけど、その際にマーケティングやブランド構築を学ばなければいけないものだと思い込んでいたが、この本を読んでみて案外そうではないのかもしれないということに気付いた。例えば経営学を学んだ最後にMBAというものがあるけど、それって意外と自己満足の世界なのかもしれないなって。単に、ものを売りたいとか、もっと仕事を成功させたいと思ったら、身近なところから考えるべきで、この本では、市場、顧客、仲間、自分自身といった4つの視点からの戦略思考をわかりやすく説明してくれる。ハウツー本的ではあるけれど、意外に盲点をついていて、何か尊敬する先輩に何かにわかりやすく説明してもらっているような感覚がある。







2005年1月5日(水)

 帰ってきました。パリでもロンドンでも足が棒になるまで歩き回りました。いずれ旅日記は書くとして・・。
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくねんです。