2005年9月29日(木)

 「鍵のかかった部屋」の最後の最後で、(お風呂で読んでたせいで)本が指先から滑り落ちて、浴槽のお湯の中に沈んだ。これも消失のひとつなのかな。


2005年9月28日(水)

 クールビズは終了ということで久しぶりのネクタイ。仕事は定時過ぎに切り上げて習い事。この2ヶ月苦しんでいた咳も、肺の痛みもとれてきたみたいで健康体に戻ったようだ。


2005年9月27日(火)

 眠たげな休日明け。適当に仕事こなして、夕食食べてから、悠々と習い事。医学部の学生と知り合った。


2005年9月26日(月)

 札幌4泊5日。実家に寄って家族会議して、ワンゲル連中と十勝岳周辺を登山して温泉。札幌の空気はひんやりとして心地よく、空は碧く澄んでいて遠近感を失いそうになるほどだった。

市場です。 蟹ですね うちから車で20分くらいのところのダムです。アラスカみたい。 今回登った十勝連峰の三段山
山に登る途中の池です。 栗山町というところのイタリアン「CRESS」。ランチの前菜。 畑で採れたばかりの野菜を使ったパスタ。美味しいね。 ポニーはひたすら草を食むのでした。

2005年9月21日(水)

 まるで市庁舎の塔にあって、定刻になると出てきて人の目を楽しませるようなぜんまい仕掛けの人形のように、僕は起き、仕事へ出かけ、仕事を終え、夜を迎える。


2005年9月20日(火)

 とうとう整形外科へ。胸の骨にひびが入っている可能性が高そうだけど、どちらにせよ時間がたてば治るようなものなんだよ、なんて小さな診察室で体育系的な大きな声の医者はよく響く声でいった。胸に湿布をあてたら、ちょっと楽になったよ。


2005年9月19日(月)

 二泊三日の大阪。二軒のおうちを訪ねて、質の高い暮らしを垣間見て、話をしてきたのでした。そうして、きちんとデザインされた自分用の空間が欲しくなったわけ。
 
 ポール・オースターの「鍵のかかった部屋」を再読中。オースターという作家は日常の生活を取り囲むものに意味づけをすることに長けていることを痛感した。日常の中で僕らが当たり前だと思っている一つ一つについて、それがあたかも天から意味を与えられて自分のためにここにあるのだという視点。それによって、世界は多層的に意味づけをされ、意味どおしがリンクしあってストーリーを生み出すのだ。案外、小説世界のような生活をすることはそんなに難しいことじゃないのかもしれない。聞き耳をたてて、今ここにあるものの意味を突き詰めていって、決しておざなりにしなければ、世界はストーリーで満たされていくんじゃないのかな。


2005年9月16日(金)

 NHKでやっていた社長塾(名前違ったかも)という、業績の立ち行かなくなった中小会社の社長さんたちが集まってきて、そこで経営を立て直すという取り組みが面白かった。塾の先生は経営のスキルを教えるわけではない、ただ自分の頭を使って真剣に悩んで行動するためのヒントをわたしてあげるだけだ。始めはヒントに対して「そんなことなんかやったことないし、どうやったらいいかわからない」なんて言ってた社長がどうにかこうにか次から次へとやってくる難問を自分の力で打破しようとしたとき、明らかに何かが変わっていく。悩むからこそ行動に移るし、それは他の人にも影響していく。三ヶ月たったとき彼らの目の輝きが違っていた。困難を一つ一つクリアして結果を得られたことに喜びを感じていたのだと思う。その喜びを知ったのだと思った。僕も目をあんなふうに常にきらきらさせていたいな。
 *
 ほんとはお休みだったけれど給与関係の会議で出勤。その関係の仕事をこなして、休日出勤を理由に17時帰り。習い事行って、秋刀魚焼いて夕食にして、これまでずっとクリーニング屋頼りだったワイシャツに初めてアイロンかけたりしたよ。そして明日は大阪なのでした。


2005年9月15日(木)

 めちゃくちゃ久しぶりの習い事。うぃー。また積み上げていきましょう。
  *
 しかし、最近ダイアリで書いていることいったら、さらさらと手のひらを抜けていく砂みたい。多分リアルワールドでの生活に対して不満がないから、ネットでバランスをとる必要がないのだと思う。生活の中で社会から認められていないと思えば、ダイアリでは自分の考えを論理だって話そうとするだろう。荒んだ生活だったら、ダイアリでは美しいものを集めたいと思うだろう。もしすべてに満足していたら、何も追求しようとしないのかもしれないね。小説を書くという行為もそれに似ていた。渇望感が僕の指をキーボードに向わせていたように思う。すべての芸術活動はそうなのかもしれない。不安や不満や渇きが僕らに創作欲を湧き立たせるってわけだ。 一方で安定しているからといって、創作を生み出そうとせず、物を考えようとしないのも考え物だ。満ち足りることと満ち足りないこと、究極の選択なのかもしれない。


2005年9月14日(水)

 接待というのかな、業務を委託している会社の人と飲んだ。いい飲み屋なんですよ、って連れていかれたのは、うちから1分のところだったり。「これだったら酔っ払っても這って帰れますよ」なんて軽口叩いたり。どの食べ物も美味しくて幸せ。


2005年9月12日(月)

 ここのところ不健康な話題ばかりだけど、肺が痛くって今度は大きな病院へ。ひととおり検査を受けたけれど、やっぱり異常なし。先生もわからないって。こうなったら自然治癒力で治すしかないか。
 「やさしい経営学」(日経ビジネス文庫)。いつも読んでる新聞の延長という感じの平板な語り口のバトンが渡される。開眼もしないけど、何かが知らず知らず溜まっていく感覚もある。そろそろ小説が読みたくなってきたよ。


2005年9月11日(日)

 投票して、前の携帯を解約しておしまい。あとは家でのんびり。これから明太子パスタとアスパラのサラダでもつくって、選挙速報でもみようかな。


2005年9月10日(土)

 吉祥寺までてくてくとお散歩。散歩にちょうどいいくらいの距離で、ダンディゾンでパンを、cinqで台ふきん、loftでバーバララのハンドソープ、auで新しい携帯を買ってきた(ケータイメールはharukatabi@ですので変更お願いします)。夜はクリームパスタとアボカドとインゲンと海老のサラダ。家でも贅沢を味わえるね、なんてにっこり。
 ベランダにいくつか植物を置こうと思っているのだけど、日当たりがいいからオリーブがいいんじゃないかなって、ある園芸店を覗いて思ったよ。そこの園芸店のはちょっと高かったのだけど。(ネットに繋がったら探してみようっと)


2005年9月9日(金)

 ダッシュで帰って、飯田橋でハンス・ワインガルトナー「ベルリン、僕らの革命」。今のような革命などなき時代に本気で革命を謳った映画ではなくて、むしろ60年代の革命世代などにもう一度生きる意味を求めたところを狙いにしていた。60年代の革命家気取りの若者たちと、彼らにひょんなことから誘拐された元革命家世代の資本家が、山小屋で交流を重ねるという映画。しかし、僕らの世界の構造が資本主義と貨幣経済を基本としている以上、僕らはその中で生きていくしかないんだと思うよ。理想を追うのはよいことだけど、それは若者でいるうちの特権であって、僕らはどこかで転換していかなければならないとそんなことを思った。だからこそ、僕だって、今の生活があるわけじゃない。ただ、理想を求めていたことを忘れてはいけないと思うわけなんだ。意外にいい映画だった。


2005年9月8日(木)

 昨夜から肺が痛くて、職場の人たちに心配されたり、(肺炎か肺気腫じゃない?とか、呼吸困難になったりするよ、なんて)脅されたりして、病院にいってきた。結果、レントゲンとって特に異常なし!、ということで、炎症和らげる薬飲んで今はウィスキーなど飲んでるわけです。
 デジタルビデオカメラで収録したものからWEB配信用ファイルに変換する方法がよくわからなく、日々の仕事に忙殺されて半ば放っておいたら、デジタル系に強い後輩が説明書片手にやり方をマスター。これで自前でのちょっとした映像配信が可能になるので、いろいろとやりたいことも広がるね。広報面でも面白いことができそう。来年は授業のWEB配信元年になるけれど、それ自体が恐らく一挙に主力化していくような予感がある。

 

2005年9月7日(水)

 インターネットにまだ繋がらないというか繋がる見込みもなさそう。相対的に音楽を聴いたり、アルコールを飲んだりする時間が増えたように思う。


2005年9月6日(火)

 微妙に身体の中で眠気が漂っている感じ。最近、つとにエクササイズの必要性を感じる。歩いて3分のとこにあるスポーツクラブの門を叩く日も近いかも。


2005年9月5日(月)

 今ひとつ休んだ気がしなかったけれど、仕事はじめ。午後は研修で財務諸表の読み方など習う。
 定時ダッシュで帰ってきて、シチューを食べた後に、のんびりガーデニング。イチゴをプランターに植え替えて、モンステラを水耕栽培に切り替えたよ。


2005年9月4日(日)

 押入れの収納ボックスを通信販売雑誌でかなり真剣に選んで、近くのケーキ屋さんまで散歩しておしまい。


2005年9月3日(土)

 新しい部屋は駅の北口から5分。南口を探検して、「デイリーズ」(デニーズじゃないよ)でお茶した。
  
 ルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」。アラン・ドロンがクールでかっこよくて楽しめる。これが1960年に作られた映画だってことに単純に驚く。


2005年9月2日(金)

 書類手続きひととおり済まして、和菓子屋さんで生菓子買って、管理人さんと隣の部屋の人(表札に会社名が入ってるから何か事業をやっているみたいだ)に渡してきた。賞味期限が今日中というのが玉に瑕。


2005年9月1日(木)

 引越し。新しい部屋に入って、荷物も多少整えれば、我が家という感覚。部屋の広さが単純に2倍近くになった分、のびのびできて嬉しい。


2005年8月31日(水)

「八月の終わりのセンチメンタル」
 この部屋に住んで二年。明日はいよいよ引越し。ダンボールに囲まれてこれを書いている。それにしてもこの部屋に来てから荷物が増えたように思う。ベランダごしに見える百日紅のピンク色の花が夏に映えていて、そんな光景をずっと覚えていようと思った。物がダンボールに詰め込まれて、自分の生活の跡が少しずつこの部屋から消えていくのが少し寂しい。

 ・・・ということでしばらく更新できません。


2005年8月30日(火)

 長い八月の仕事も終わり。後輩と二人で打ち上げしてきて、閉店最後まで店に残って話し続けてきたよ。これやりたい、あれやりたいって感じで意気揚々。
 そして、明日から5日間だけど一応遅かれながらの夏休み。


2005年8月29日(月)

 司会も板についてきたみたいで、何度か笑いが起きた。リズミカルにテンポよく話すコツみたいなのをちょっと掴みかけてきたように思う。うまく話すには、自分の話調に、聞いてる人のキモチをうまくのせることが重要なのかもしれない。
 一ヶ月、失敗もなく、大きなクレームもなく、多くの学生(のべ4500人、実数で1500人!)に満足いただけたように思う。構内を歩いてると、あちこちから挨拶されたり声をかけられることが嬉しい。常に相手のキモチを高揚させられるような人間でありたい。もっともっと精進しなっきゃね。


2005年8月28日(日)

 焼肉を食べたせいか、体調がよくって、仕事中も愛想がよかったよ。あと2日・・・。
 *
 クルーグマンの本は半分まで。80年代のアメリカにおける日本の脅威について書かれていて、ドル安にして(プラザ合意のこと)それまでの輸出入の不均衡を是正しようとしたのに、他の国に対してはアメリカからの輸出が増えたのに、日本との関係はまったく変わらないというのが驚きをもって書かれていた。さらにソニーがコロンビア・ピクチャーズを買い叩いたのをはしりに日本が攻めてきた・・・というところが書かれていて(章名は「どうしよう」)、次の章のタイトルが「日本の自爆」ときたから笑ってしまった。海外から見たらほんとうに自爆という感じだったのだろうね。自爆していなかったらアメリカの覇権は今ほどは強くなかったのかもしれない。日本は今ここで構造改革(&財政改革&少子化対策)を断行して効率化をはかれるかどうかが勝負なんじゃないのかな。失敗したら中国の後塵を拝むことも可能性としてはありえるよね。なのに、”総務省:ブロードバンドを2010年までに過疎地域に”(地方への公共事業と同じだし。無駄!)とか、”文科省:ニート対策に大学でのキャリア教育用の予算を請求”(問題の根幹がすりかわって無駄!)とか・・・新聞をちょっと開くだけで効率化と逆行してることばっか。官僚制度のあり方を変えるには、やはり地方への財源移譲を進めてそれぞれ独立採算的にして、中央をスリムにするとともに、もっと政治の力でひとつひとつの課題の突破口を見つけてそこに資力を集中投入する仕組みをつくったほうがいいと思うよ。


2005年8月27日(土)

 ウルトラマンだったら胸の光が消える寸前というところ、焼肉屋に駆け込んで、どうにかエネルギーゲージが復活。帰りに花火大会の脇を通ったら、空から破片が落ちてきて危うくこの身体を夏の夜に焦がすところだった。火薬音と硝煙ばかりがすごくて、花火というより火事といった趣だった。


2005年8月26日(金)

 相当身体がお疲れみたいで、ひたすら充電ならぬ睡眠をとって一日を過ごしてしまったよ。充電ランプがすぐ切れてしまうくたびれた電化製品にでもなったような気分。仕事も残り4日で、夏休みです。今年の夏は未だ知らぬ遠い国には行かず、引越しで終わってしまいそうです。
 
 ポール・クルーグマン「クルーグマン教授の経済入門」を1/3まで。山形浩生氏のなれなれしい口語調訳に賛否両論あるみたいだけど、一般人にとっては経済はやっぱり硬い話だから僕には助かるかな。
<<だから、アメリカ経済についてのほとんどの本とはちがって、本書は何かを主張しようって本じゃない。むしろ、経済の風景のガイドブックってところだ。あるいは(略)、ぎくしゃくしたアメリカの経済エンジンの使用説明書とでも言うかな。p20>>
 生産性や雇用、貿易赤字など平易な言葉で、クルーグマン教授は既成の学説などもばっさばっさと斬り捨てて、単純に言えばこういうことなんだって教えてくれる。経済学部の大学1年生にでもなった気分。



2005年8月25日(木)

 恵比寿まで行って、出張で東京に出てきた父と沖縄料理屋で飲んできた。僕は泡盛のグラスあけてたけど、父はなぜか梅酒。僕の身辺のことと選挙の話題が中心。帰りに雨ふる恵比寿神社に案内したら、何か神妙に拝んでいた。よく考えてみたら、僕は拝むのが瞬間技なので(自分が神様だったら長く拝まれたら敵わないというただそれだけの理由)、いつも他人の拝む姿を眺める破目になっているような気がする。


2005年8月24日(水)

 村上春樹の小説を読んでいると早く秋にならないかなっていう気分になる。すべてが透きとおっていくような秋の日がやってこないかなってね。それで、久しぶりにビル・エバンスなんか聴いているわけだ。


2005年8月23日(火)

 吉祥寺で学生と飲む。と言っても年下はひとりだけだったけど。いつもながら、面白い繋がりだなって思う。来年も飲もうねっていうことでバイバイ。
 
 読書記録によれば、5年ぶり4回目の「1973年のピンボール」。デビュー間もない村上春樹の文章は日本語がベースにない上に、その文章の記憶のよりどころにまで日本臭さが消されている。
<<バス・ターミナルをとり囲む街灯が夕暮の中にポツリポツリと灯りはじめ、その間を何台ものバスがまるで渓流を上下する巨大な鱒のように往き来した。>>
いったい、当時の神戸に巨大な鱒が往き来できる川があっただろうか。この一節を読むと、村上氏によって訳されたカーヴァーの巨大な鱒を思い出さずにはいられない。この本は彼の読書体験の中での原風景をなぞっているようにも思える。つまり、リアルワールドではなくて、擬似世界に回帰していく形になっているように思える。彼は擬似世界(読書を通して知ったアメリカ)のメガネを通してリアルワールドを見ていたのではないだろうか。鼠はもはやリアルワールドには用はなく、擬似世界の中に閉じこもり、その過去形の思い出だけに浸る。
 そして重要な点は鼠が徹底的に「意味性」というものを嫌っているようにも見えることだ。彼が心酔するピンボールは意味のない繰り返しでしかない。鼠とほとんど裏表である<僕>も意味性というものを嫌い、意味が飛躍することのない(意味の勝手な飛躍を押さえ込むような)翻訳という作業に没頭するけれど、時代は彼を見逃すわけもない。80年代はおそらく広告業界などが台頭し、意味や記号だけが一人歩きしだした時代だったのではないのかな。そうしたものに対抗するには、恐らく自分だけの意味の限定された擬似世界の中で生きるしかなかったのであり、それはリアルワールドからの決別を意味していたのだと思う。初期作では渋谷や表参道や青山やらという記号的地名も徹底的に排除しているものね。初期2作はリアルワールドたる記号世界への飛び込み板のようなもので、「羊をめぐる冒険」で彼は擬似世界への痛みを伴った決別とリアルワールドへの迎合を果たすのではないのかな。・・・そういう糸口から3部作を読んでみるのもよいかもね。
 しかし、現代は記号論なんか飛び越えて、インターネットに乗じて、違った様相を示しているように思う。恐らく、80年代の記号世界への迎合/決別というものは、00年代のネットの大衆的(愚衆的)言論への迎合/決別くらいの勇気が必要だったのかもしれない。そういう意味で、この初期三部作を現代に立ち返らせて、現代版に翻訳したら面白い小説ができるかもしれない。00年代を時めく舞城氏や阿部和重氏はリアルワールドに迎合することによりそのギャップを浮き彫りにしているようにも思える。


2005年8月22日(月)

 モフセン・マフマルバフの「カンダハール」。地雷で片足をなくした人たちのいる荒野めがけて、落下傘が舞い落ちていくシーンから始まる。落下傘についているものをよくよく見ると、それが義足であることがわかって、一瞬度肝を抜かれる。絶対的な、文字どおりともいうべき「不足」。ストーリーはカナダ在住のアフガニスタン人の女性が国に残っている妹探しをするというもの。文明国からやってきた彼女は、自分の国だというのに、非文明国たるアフガニスタンにうまく溶け込みきれていない。危険性がうまく察知できず、ただ成り行き任せに人から人を頼り、そして最後に・・・。
 日本の感覚では思いもつかないような不足感と茫漠感。主人公が旅をして感じたような、どこにも行き着けないような徒労感を今この国は背負ってしまっているのだろうと思う。しかし、いったいこの国民たちのわからぬところで、神をも恐れぬアメリカは何をやってしまったのだろうか。


2005年8月21日(日)

 読書して、昼寝して、夕方になって沖縄居酒屋。夏の休みの過ごし方として僕的には悪くない。だって外は熱過ぎるものね。
 
 内田樹「死と身体 コミュニケーションの磁場」。この人は相当賢いと思う。自分の考えを理路整然と述べることができる人は、僕からみて賢いと思うけれど、この人の場合、話す内容が別に自分のメモリーの中に予め入っていなくても、それを自分の脳のプログラムに従って話す都度、構築できるというところが素晴らしい。話す内容を最初から決めていないほうが、自分の話に飽きなくて済むなんてことも言う。この本自体は、どこかのカルチャーセンターでの連続講演の寄せ集めであり、何かについて結論づけて話をしようというよりかは、適当に思いつくままに論を進めているところがあるから、むしろ結論よりも過程にこそおもしろみがある。思春期におけるシャイネスの重要性、ヨーロッパとアメリカにおける自然権についての歴史上の考え方の違い(公益追求か私利追求か)、ケータイはクロマニヨン人時代から存在していた沈黙のコミュニケーションの再来であること、ユダヤ人の思考方法(話を閉じることを嫌う)が民族的な優秀さをもたらしていること・・・等々を滔々と語り続けていき、彼独自の思考プログラムは止まるところを知らないし、むしろ話せば話すほど増強しているようにも思えてくる。


2005年8月19日(金)

 司会も7回目となれば緊張もしなくなる。もう少しやっていけば軽妙なジョークでも言えそうな気がする。


2005年8月18日(木)

 僕以降に採用された人たち10人を集めて飲み会。ここではたった二年の職歴なのに後輩から慕われているのをひしひしと感じることもできたし、楽しくって、おかげで飲みすぎた。明日起きれるか不安。


2005年8月17日(水)

 24時を過ぎたというのに外からは絶え間ない蝉の声。クーラーを消していたから、無機的な送風音の代わりにこんなにも虫の声がするのだろう。それでもまだノートPCの唸り声が部屋に残響している。小学生の頃、母が谷川俊太郎の「耳をすます」という詩を僕の机の脇に貼ってくれていた。谷川さんもこの詩を書かれたとき、こんなにも21世紀が無機的な音であふれていて、ますます僕らが耳をすまさなくなるなんてこと知ってたのかな。そうやって、下の詩の朗読ファイルを聴いてたら、嫌がらせのように網戸のすぐ脇に蝉がへばりついて鳴くというか喚きだして、詩を聴くどころじゃなくなったり。蝉にも、ゴーシュさんの家にやってくる動物みたいな殊勝な心があるのでしょうか。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 好きな人の言葉は、よく聞こえますか。http://www.1101.com/com_aid2002/2002-09-27.html (「耳をすます」の詩の朗読の音声ファイルがあります。この糸井さん?のコピーもよいですね。)


2005年8月16日(火)

 クリストファー・ノーランの「インソムニア」。白夜のアラスカを舞台にした警察物。背景の氷河や湖沼や森といったアラスカの雄大な自然にまず目を奪われる。
 主人公のアルパチーノ演じる警察官は派遣されたばかりのアラスカの白夜に眠ることもできず、そのせいで昼の明るさから決別して夜に身体を沈めることができない。そのために夜のような罪深き暗部を身体から簡単に放つことができなくなってしまう。一度、暗闇を身体に抱えてしまうと、それは倒れるトランプカードのように連鎖してしまう。全体として、見えること(明、白夜)と見えないこと(暗、夜、霧、坑道、海の中)の対比をうまく使っている。殺人犯を追い詰めようとする霧のシーンの臨場感が悪くない。ノーランは「メメント」より一歩前進。


2005年8月15日(月)

 ミロス・フォアマンの「アマデウス」、遅かれながら観た。冒頭から最後まで音楽が圧倒的。ふつうにCDで聴くより、お腹にずんと響いたような気がする。アマデウスとサリエリ役の演技も素晴らしかった。レクイエムをつくる最後の夜の共同作業が、そこでお互いに認め合い賞賛し合えることこそが、この映画のサリエリにとってほんとうに必要なものだっただろうに。天才を羨み、妬み、殺し、苦しまなければならない秀才ともいうべきサリエリのなんて孤独なことだろう。


2005年8月14日(日)

 猛暑が和らいできたのに伴って、身体も少しずつ回復してきて、ようやく頭がまわるようになってきた。この半月、脳細胞が死んでいたのが、3割くらい動くようになってきたという感じ。地球温暖化で東京が亜熱帯になったら多分僕は役立たずで即行クビだと思うよ。
 通学制へのWEBの学習システム導入について、家帰ってから考えてた。もともとは興味本位で札幌の新設公立大学のことネットで調べてて、そこからの連鎖だった。そうやって緒についてみて、なんかこれの途方もないことを悟る。まさに無知の知。もし自分があることをわかっている自信があったら、多分それはその1割がどうにかわかったと控えめに理解するほうがいいように思ったよ。


2005年8月13日(土)

 以前松本でお会いした学生さんの学習相談用に彼女の成績や過去の各科目の質問をWEBシステムで確認していたら、学習の質問ひとつひとつが深くて、僕のほうが感銘を受けてしまった。学問を学ぶって、ひとつひとつのものを書籍で確認して、教師に質問することで深めて、それを自分のものとしていく過程なのだって今頃悟ったってわけ。思わず隣の女性に”学生時代に教員に質問したことなんてありました?”なんて質問してみたり。少なくとも僕はなかったよ・・・。もっともっと学生の方が学習しやすい環境を整備しなっきゃなぁと、あるいは自分も勉強しなっきゃなぁと触発されたわけでした。


2005年8月12日(金)

 石井克人の「茶の味」。最初想像していたのよりかなりよかった。どうもこの監督には「鮫肌男と桃尻女」や「Party7」のイメージが強く、日本映画になかったようなタランティーノ的なカッコよさと我修院達也の演技のような突拍子なさが併存して面白いのだけれど、映画そのものは広告的で深い意味を有していないものしかつくれないんじゃないかなって思ってた。それがこの映画ではその先に一歩進んだようなものに仕上がっている。この映画に出てくる人たちはどの人も自分のペースで生きている。何かを貶めたり、何かと競争して打ち勝とうというところはなく、自分のもっているものがどのように周りと調和していくかを考えている人たちがいっぱいだ。映画全体のまなざしの優しさが素敵だと思う。浅野忠信と中島朋子の語らいのシーンとか、佐藤貴広と土屋アンナの地味な初恋とか、坂野真弥の逆上がりの成功シーンとか、見ていてほのぼのとしていて心が安らいだ。途中挿入される「山よ」の歌あたりは石井監督の本領発揮なんだろうね。いい映画だったな。


2005年8月11日(木)

 卒業研究の中間発表対応をひとりでこなす。先生も合わせて80名くらいやってきたのを我ながらうまく裁いたと思うけど、学生から個人情報やPPTについてのクレームがあって、体調が優れないせいもあるけど、久しぶりにげんなりした。人に敬意をもたずに自己主張しかしない人って苦手かもしれない。他人を慮ることって大事だと思うけど。
  *
 夜中に咳で起きること二回。その中の夢で、昔つきあった人が出てきた。夢の中で僕は彼女の作曲した曲をハミングして、夜道を散歩していた。そしたらそれに合わせて、路地の家から誰かがハミングをして、はっと窓越しに目が合った。そしてなぜか彼女は今の夫から僕と一緒に逃げることになって、でも彼女の身体が衰弱しきっていて、途中屋上のようなところで彼女は吐いたのだった。それが僕のジーンズを汚したのだけど、僕はまったく平気で「気にすることないんだよ」って声をかけていた。結局、彼女は途中から歩くこともできなくなって、僕は彼女をおぶって、どこかの建物から喧騒のすごい大通りへと出て行こうとする・・・。そこで目が覚めた。
 僕はどうもそのときの恋愛の終わりが何年もトラウマになっていて、その呪縛もいつしかなくなったのだと思っていた。なのに、突然こんな夢を見たことがものすごく驚きで、なんだか寝床で苦しかった。
 別に夢診断をするわけでもないけど、この夢は案外トラウマからの解放を意味しているのかもしれないなとも、通勤中、自転車こぎながら思った。たぶん、僕は日常の僕が思っている以上に、揺らぐことのない深い関係をもちたいと思っているのかもしれない。

  
 茂木健一郎の「脳内現象 <私>はいかに創られるか」(NHKブックス)が面白かった。この人の本を読んでいると、自分が普段何気なく感じている五感(色、匂い、肌触り・・・)といったものを、改めて脳を通して知覚しようとする。そうすると、驚いたことに感覚というものは微細になっていく。そのとき、感覚(たとえば、足裏にひんやりと床を感じている)といったものを、昔の記憶と照合させて、ただひとつの知覚ではなくて、無数の知覚として甦えらせようとするからだ。
 今ここで<私>が意識をもって何かを感じている、という単純なことが実は今の科学では説明がついていないという話から始まる。今の科学ではある感覚(たとえば色)が脳のどの部分で感じ取られているかはわかりつつあるのだけど、そこから何かを想起していくことについてはまったく説明がつかず、結局私たちはこれまでの脳科学とは違った考え方でこれを考えていく必要が出てくるということになる。<私>がいろいろなことを知覚して何かを意識することは(=心の働きだね。)、ガンダムの操縦士アムロのような、すべてを見渡す存在(ホムンクルスというそうだ)があるとしか考えられないわけだけど、人間の中に何か小人がいるわけもなく、人間の知覚は結局神経細胞の集合から成り立っているに過ぎないから、ホムンクルスというものはひとつの何かではなくて、感覚を司る後頭葉と自我を司る前頭葉の神経細胞間の関係性の中で生まれるのではないかと仮説する。今ここにいる<私>という存在は、そうした神経細胞間の伝達の無数のルートの中でつくられて維持しているということになるのかもしれない。
 ・・・こういう本を読んでいるから、僕は不思議な夢など見たりするのかもしれないなどとも思ってみたり。しかし、最先端の科学が哲学や文学のようなものを翳めだしていると感じるのは僕だけではあるまい。

  
 舞城王太郎の「阿修羅ガール」。一挙に読んでしまった。太宰治の「女生徒」の現代版といったノリで女子高生の淀みない語りが冒頭から続き、そこから村上春樹テイストの彼岸と此岸、善と悪といった構図をもってくる。特に村上春樹氏には世代的に難しい2chでの誹謗中傷や集団的な悪ノリ、薄っぺらなネットやケータイといった機器でのコミュニケーションといったものを持ち込んでいる故に、世代交代を嫌が上でも実感させる。若干、そうした現代的な薄っぺらさを持ち込みすぎて辟易しないこともないのだけど、僕の読んだ文庫本は、この長編(中篇?)の後ろに彼の短編を付け加えてうまく構成されている。舞城氏がこの小説を執筆していた際の(間違いなく仮想ではあるけれど)リアルワールドが短編では綴られている。リアルワールドは妻、母親、兄といった血のつながった人間関係というか、人間そのものが必ずしもうまくいっていないように描かれている。舞城氏はそうした人間関係とのやりとりの中で疲れている。舞城氏の分身で主人公たる新人作家が、飲んで帰って電車を乗り過ごしてしまっている妻を自転車で向かえに行く最中の橋で、アル中で無職の弟からかかってきた電話に粗暴に受け答えし、にっちもさっちもいかなくなっている。すべてを暗闇の中に放り込みたい心境にかられている。そして、もはや暗闇に対しては孤独な気持ちになりながらも<<見えないものは助けられない>>と諦観するに至る。それでも彼はどうにか前に向かって生きようとして短編は終わる。
 つまりは、この短編のリアルワールドから舞城氏がストーリー化して込み入った世界を反転させようという試みがこの「阿修羅ガール」という小説なのだろう。薄っぺらさをひたすら積み上げて、その中から何かを見つけ出すという作業は並大抵のことではない。それが成功したのかはわからない。それでもとにかくこの世界を生きようという決意表明みたいなものをこの小説から受けとめることができる。

 


2005年8月10日(水)

 昨日の薬が効いたのか少しずつ回復してきた。でも夕方に薬が若干切れた感あり。現状の仕事はどうにかこなしているけど、先の布石が打ててない気がする。


2005年8月9日(火)

 給与関係の小会議に出るも、風邪で熱っぽくて甲虫のように沈黙してたら、終わった後で先輩に「今日は切れ味がないねぇ」と言われてしまったよ。いたし方なく、病院で診察受けてきて、薬もらって帰って神妙にしているかと思えば、そうではなくって、焼肉会などに出かけたりして。


2005年8月8日(月)

 松尾スズキ「恋の門」。強烈な一撃ではあるけど、僕には若干濃すぎたかな。ぶっきらぼうな松田龍平がいい味を出してます。


2005年8月7日(日)

 あまり日曜という意識もなく、八時前から七時近くまでこまごまと。今のところは順調だね。
  *
 どうやら選挙がやってきそうな気配で、郵政民営化をあくまで支持するか、政局の混迷を恐れずに民主党へバトンを渡すかで迷うところ。(ちなみに、新党なるものは始めから無視というか、そのまま潰れたらいい)。民主党HPにアクセスして予算案というのにひととおり目を通してみた。高速道路無料化とか子ども手当、緑のダムなんていうのが面白いね。民主党から労組的要素(自民党の族議員と変わらないよね)を排除してくれたらいいのになぁ。


2005年8月6日(土)

 金曜の夜遅くにジェノベーゼを0からつくる。美味しくって、気づいたらぐっすり眠っていた。そのまま朝ごはんをはさんで16時半まで眠り、陽の落ちるころに新宿で大学のワンゲルの諸先輩と沖縄料理屋で飲み会。風邪は少しずつ回復に向かいつつある、と信じたい。

バジルの収穫 プロセッサーでオリーブオイルや松の実と攪拌します。 ジェノベーゼ。美味しい。 バジル・トースト

2005年8月4日(木)

 中島哲也の「下妻物語」。ロココ調に憧れるロリータな深田恭子と昔懐かしヤンキーな土屋アンナの茨城の下妻という田舎村を舞台にした友情物語、と聞いて面白いわけがないという気でずっといたのだけど、案外評判がいいので、観てみたというわけ。映画全体のテンポがよく、キャラクターづくりが巧みで、面白い。結局、個性(キャラクター性)というものをうまく一人一人に入れ込めたおかげで、力強くてパワフルな印象を与えている。中島哲也氏は山崎努と豊川悦司の黒ラベルの卓球CMを作った人だそうで、なるほどと納得。


2005年8月3日(水)

 体内のバロメーターを株価にたとえると、一年で一番下がっているところかな。(買時?)


2005年8月2日(火)

 かなり風邪が身体でがんばってるから、夕食は健康側の大援軍となるようにかなりの栄養と量を摂取。これで戦況は変わるかもしれない。


2005年8月1日(月)

 外と内の温度差が激しくて、冷涼な気候育ちのこの身体はついていかなくなってる。夏風邪は免疫力が落ちてなってしまうらしい。ソウルで買った柚子茶を季節錯誤のまま飲んでたり。


2005年7月31日(日)

 一日中クーラーの利いた部屋で、本読みしたり昼寝したり。夕方になって沖縄居酒屋でご飯食べて、家に戻ってサッカーなど見てたり。攻めあぐねていたね。

休日の朝ごはん


2005年7月30日(土)

 隅田川花火大会。一時間半前に行って場所をしっかり確保して、ビール飲みながら夜空眺めた。上空で破裂してから光の筋が四方八方に分かれていくものなどあって、楽しかった。帰りは彼女の家までてくてく。
 
 伊藤元重「はじめての経済学〔上〕」(日経文庫)。レーガノミックスやプラザ合意といったアメリカの経済政策の流れと日本経済との関係がつかみやすい。

花火の写真ってなんか不思議ですね。


2005年7月29日(金)

 8月の準備でキャンパスのあちこちに立て看板を用意。僕らの仕事の様子を、同僚が垣間見て言うには、あまりに楽しそうで声がかけられなかった。そりゃ、これが労役だったら炎天下にやってられないものね。肌がひりひり。


2005年7月28日(木)

 咳がとまらなくなってきた。誰も風邪をひかないような時期に風邪をひくなんてどういうことなのかな。外の照りつける強い日差しで、菌たちが消滅したらいいのにね。


2005年7月27日(水)

 チケットを急にもらって、レアルマドリード再び。今度はジュビロ磐田戦。二日前とは見違えるよう。滑らかなパス交換に、ここぞというところで鮮やかにゴールが決まる。溜めたものを一挙に放出するような快楽的なプレイにアドレナリンは駆け巡る。これまで観たゲームで一番楽しかったと思う。

ラウル&ロナウド×2で、レアル3−1!


2005年7月26日(火)

 新しい後輩のモチベーションが高く維持されている。うまく彼のやりたいことを引き出して、それはやらないとね、っていう感じで差し向けているのがいいのかも。
 雨だったからエントランスのソファでお弁当食べてオフィスに戻ると、「ボーイズ、今日は台風だから4時15分あがりね」って上司。小学生みたいな気分で家路をたどったのでした。


2005年7月25日(月)

 仕事を定時で切り上げて、味スタでヴェルディVSレアル・マドリードを観戦。ベッカム、ロナウド、ジダン、ラウル、フィーゴ、オーウェン、グティ、ロベカル・・・の名だたる集団も東京のhumidな気候には耐えられなかったのか精彩を欠いた。今シーズンはよいところなしのヴェルディの動きが逆によく見えるくらい、パスミスやシュートミスが多かった。しかし、スタジアムというのは独特の雰囲気がある。ほんとうに素晴らしいプレイはきっと美しい数式でその軌跡を描くことができるのだろうと思う。
 後半40分くらいから土砂降りでスタジアムの光線の中に雨筋がよく見えた。帰りも雨、びしょぬれになって家について、温かなお風呂につかるときの幸せ。

雨のふる前のスタジアム

土砂降り。雨煙がスタジアムを包んでいます。


2005年7月24日(日)

 銀座でエミール・クストリッツァの「ライフ・イズ・ミラクル」。いつもながらの軽快な東欧音楽に、犬・猫・ロバ・熊・鶏・アヒル・ガチョウ等動物たちがかもし出す面白さ。クストリッツァにしか作り出せない映画に感服。ボスニア内戦の悲劇がベースにあるのに、そこに生きていく人間たちの力強さときたら、プリミティブなものを感じさせる。主人公のほろ苦い恋愛もまたよし。

朝ごはん。パンはダンディゾン。

ライフ・イズ・ミラクルのちらしと、できたてのクッキー


2005年7月23日(土)

 家を決めたのでした。ベランダが広いから何育てるか楽しみ。未来を予想すれば、すべてはそのようになる。少なくとも、僕にとってこれまで未来と現実はそういう関係性をもっている。想像力をきちんと発揮することができるかどうかが問題なのだと思うよ。幸せになりたい、と言ったときにその幸せのイメージが貧弱だと、幸せはそれ以上のものにならないだろうし。まぁとにかく、イメージどおりの家になってほんとうによかった。そして、そこで始まる新しい生活のことも、僕にはきちんと想像できるわけなんだよ。


2005年7月22日(金)

 研修終了。オフィスに戻れば手ぐすね引いたように仕事が待っていた。さらに会議で沈。


2005年7月21日(木)

 久しぶりの通勤列車のサーディン化に辟易しながら研修二日目。債権関係を勉強した。金利が上がると債権が下がるという意味がようやくわかった。午後の最後には金融工学の博士が出てきて、微積・確率・行列の式がたくさん出てきて数学の授業って感じだった。マルコフ連鎖という言葉が出てきて、なんか聞いたことあるなと思ったら、大学のときに土地利用変化と植生変化の予測を立てるモデルとして勉強したことがあったのでした。地味に懐かしかったです。
 
 相沢幸悦「アメリカ依存経済からの脱却」(NHKブックス)。出だしの文章がかたくて、難儀するかなと思ったら、途中から面白くなって熟読という感じ。筆者はドイツ経済研究者であり、現在の日本のアメリカ依存経済に対して一貫して批判的である。これまでの戦後の経済の動きと現在のアメリカへの依存関係を述べた上(ここが非常にわかりやすかった)で、持論を展開しているから説得力もあった。
 アメリカの産業として強いのは、軍事・金融工学・農業・エネルギーといった分野で、そこを強くしていくことで冷戦時代を乗り切り、アメリカナイゼーションともいうべきグローバリゼーションを展開してきたという。アメリカ国内の消費者が購入する消費財の生産に関しては、そこに相対的に資金を投入できないため、主にドイツと日本に頼ってきたという。日本は自動車や電器機器などをアメリカに大量に輸出することで大幅な対米黒字によって発展してきて、あるところで人件費や施設投資にまわして内需拡大をはかるべきだったのに(ドイツはそこで内需拡大をはかったそうだ。だから賃金が高く、休暇が長い。)、企業はアメリカに進出して貿易摩擦の解消ばかりに目がいったという。そのような関係であるために、円高が進み、輸出業に打撃を与えることを嫌うがために、政府は市場に介入してドル債権を大量に購入して、それがまたアメリカの赤字を増やし、アメリカを支えていることに繋がっているということになるのだ。(最近の中国の対米の貿易黒字は、現地に展開する日本企業によるものだというのも面白い。)結局、膨大な赤字であるアメリカのドルが世界から見放されるときには、それに連動して日本も墜落するという仕組みになっているわけだ。
 ここ最近アメリカがやろうとしているのは、貿易赤字の解消で、そのために自国の得意とする産業を世界に蔓延させようとしているわけだ。エネルギー産業のために京都プロトコルで二酸化炭素排出規制に反対し、軍事産業のためにアフガン・イラクと戦争し(兵器の在庫放出?)、金融関係のためにアメリカ的な市場構造を世界に広げ(ex.日本の金融ビックバン)、農業のためにBSEの牛や遺伝子組み換え大豆などを日本に輸出しようとしているわけだ。
 ・・・どうもこういう構造がよくわかっていなかったから、目から鱗で、ちょっと賢くなった感じ。日本がアメリカから離れてどういう行動をとっていけばいいかということが後半に書かれているようだから、ちょっと楽しみ。


2005年7月20日(水)

 今日から三日連続の証券会社主催の資産運用関係の研修。経理でもなく、経済学部出でもない僕がこの研修に出るのは変といえば変だけど、まぁいいかな。資金運用の基本について体系的に学べるのが楽しい。脳をスポンジにして、たくさんのことを吸収したい。


2005年7月19日(火)

 給与関係の小会議。虫の予感で、説明役を任されるんじゃないかと思って一応用意して行ったら、着くなり先輩に「今日の説明頼んだよ」だって。つっかえつっかえ、みんなに説明して、その後で意見交換などして一体感が得られたのはよかったけど、脳細胞が疲れました。そのあと、習い事に久しぶりに行ってきたよ。脳細胞が疲れたら食べるに限るってことで、夜は鰻を食べたのでした。


2005年7月18日(月)

 電車とバスを乗り継いで九十九里浜。白波の冷たきこと、砂粒の熱きこと、夏の太陽の素晴らしきこと。

 
 鈴木謙介「カーニヴァル化する社会」(講談社現代新書)。イラク人質事件における人質と家族へのバッシング、北朝鮮拉致被害者家族会へのバッシング、ワールドカップサッカーでの熱狂・・・といったものが、政治や深い思索に裏打ちされて考えたための行動ではなく、刹那的なカーニヴァル(祝祭)として、単に若者が生活を一時的に享楽するための行動であることを解き明かす。そうしたカーニヴァルを求めるということが、若者の雇用の困難性や雇用されてからのハードワークといった社会状況などに起因することを看破する。何度も再帰的にカーニヴァルに浸ることによって、つまりは全体的な視座を欠いてしまい、自己の分断化が生じていることにも言及する。(享楽ネタだけを追って、そこに総合的な自分というものがいない状態といえばいいのかな。) 鈴木氏の先を行く東氏や北田氏、山田氏など社会学系で今をときめく人たちの主張をうまく消化して、それを基に説明をしてくれるところもわかりやすかった。
 こうやって読んでみて、星野氏の小説のことも考えた。彼の小説では集団で何かをバッシングする問題を取り上げてはいたけれど、実はその原因には触れていない。できることなら小説に、若者の個人個人の主体性のなさといったものを包含させて、それが場合によって急進的な右翼にも左翼にも一時的に転じていく危険性みたいなものも取り上げてほしいなと思った。また、長期的には希望をもてない人が多い今の若い世代に、希望を見せてくれるような小説を書いてほしいなとも思ったよ。

九十九里浜


2005年7月17日(日)

 家探し。
 条件は、TVが見れる、駅近、2F以上、フローリング、ベランダ、窓が二つ以上、収納ありってところかな。
 5軒まわって2DKのベランダ付き・駅5分にくらくら。一週間後、結論が出るかなぁ。

nigiro Cafeのサンドイッチ


2005年7月16日(土)

 有楽町でショーナ・オーバックの「Dear フランキー」。裏の意味づけなどが全くない映画だけど、涙が一粒、いい映画だった。配役、音楽も悪くなかった。少年役の媚びないぶっきらぼうさもよかったし、母親が仮の父親が現れた瞬間から徐々に表情が美しくなっていくところもよかった。子供にとって二親の愛情の必要であることがひしひしと伝わったよ。

筍のたきこみご飯


2005年7月14日(木)

 星野智幸の「在日ヲロシヤ人の悲劇」。イラクへの自衛隊派遣から、人質事件での人質への悪意・中傷・・・そうしたものへの疑問と怒りを連綿と綴っていた星野さんのダイアリでの考え方が、ストーリーとして置換されたという印象を受けた。社会や組織から外れている強い人間を徹底的に集団でスケープゴートとして叩きのめし、集団での力の誇示によって自己を正当化させる方法、そうしたものがまかりとおっている現代の日本において、ここに出てくる家族はそれぞれのやり方において、これに処していこうとする。
 父親憲三は団塊からその下あたりの世代であり、特に思想をもつ力をもてず、思想をもつ人の影を追うことによって、アイデンティティをもっている。一方で憲三はその名前のとおり、どうとでも解釈されて、ある意味ではスマートにも思える日本国憲法の象徴なのかもしれない。娘の好美はアメリカナイズされた思想家で、あるものへの反対なり賛成という「行為」によって自己のアイデンティティを保っている。集団の一部でありながらそれを個人の活動と位置づける。息子の純は、これとはまったくの逆で、集団を徹底的に嫌って、誰もが到達できない土着的な右翼的思想をもつ。この家族ははじめから空中分解していて、最終的には自分の思想をもちえない、人のコピーをして喜んでいるような憲三が残る。憲三は最後、娘と息子の両極の思想をいったりきたりしようとして見捨てられてしまうという格好をとっている。あるいはそれは日本国憲法とか、日本そのものの行く末を暗示しているともみることができるのかもしれない。(・・・もう一度くらい読み直さないと、全体の意味づけがわからないような気がするよ。)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062129515/harukatabi0d-22


2005年7月13日(水)

 給与関係の話し合いで上位職の方とみっちり二時間。大学全体のことを考えるのも重要だけど、自分の業務がその分進まないのはどんなものかなぁ。
 松本出張のときのお礼の長文メールもらった。ちょっと感激。自分ではなく相手のことを先に考えられるようになって初めてサービスという言葉の意味がわかってくる。


2005年7月12日(火)

 ある時点で札幌に帰りたいなって考えてみる。そのときの条件をよくするには何が必要なのか、考えておかないと。漫然と日々を過ごさないようにしよう。将来を描くとき、細部を突き詰めていくと、その未来の点に直線を引っ張るには何が必要なのか見えてくるよね。

 独り身ならば東京はよいけど、もしこの先、自分が家族をもつのならば、住環境のよいところがいいと思う。自分にとって、のびのびと暮らせるところのほうがいいと思う。


2005年7月11日(月)

 ドライカレー食べてから、西瓜切ってみる。夏っぽいね。


2005年7月10日(日)

 飯田橋でキム・ギドクの「サマリア」。全然期待していなかったのに、結構よかった。映画館を出た後の太陽がとても眩しくて、何か非日常世界を通り抜けて、細胞の何かが変わってから現実に戻ってきたような気分になったくらいだった。内容は女子高生の援助交際なのだけど、ただ興味本位で取り上げたわけでなく、かなり深層のほうも掬おうとしているところがいい。特に後半の父親の葛藤―残酷で冷血的な暴力と娘を見守る温かさの同居―を、心象風景を使いながら、それでいて寡黙なままに伝えてきたところはインパクトが強かった。


2005年7月9日(土)

 帝国劇場で「モーツァルト!」観劇。出だしのメリハリがなかなかよく、アマデウス役の中川晃教が伸び伸びした演技をして思わず身を乗り出したが、序盤のみで中盤から終盤一挙に失速。俳優陣は市村正親、高橋由美子、山口祐一郎、西田ひかる・・と豪華で演技も悪くないのだけど、残念ながら肝心の脚本がどうにもこうにも。まずインスピレーションの豊かさ、溢れる音楽的才能、それでいて反逆児的なモーツァルトの姿を捉えきれていない。せめて、モーツァルトの曲をもっと効果的に使えたような気がする。そして、父親や姉の苦悩、恋人の苦悩といってものが中途半端でよくわからない。道化の入れ方がその一方で中途半端で、感動させるところと笑わせるところが乱れてしまっている。なんだか勿体無いとしかいいようがなかった。辛口になるのは、この前観た「nine」の芸術のインスピレーションの強さや生活との苦悩がよくできていて、それと比較してしまっているからというのもあるからかもしれないけど・・・。中川君はギリシア悲劇なんかにも合いそうですね。またいずれ演技を見てみたいです。


2005年7月8日(金

 仕事も順調、新人君にはパワーアップしてもらおうと、いろいろ外の研修会に出てもらうことにした。人的投資だね。こうやって力を付けさせると必然的に僕の異動時期が早くなりそう。
 さて週末だ☆


2005年7月7日(木

 七夕の夜というのに気づいたら突っ伏して二時間も眠っていた。宇宙船から放り出されて、虚無の中に吸い込まれた宇宙飛行士のように意識がなかったよ。


2005年7月6日(水

 教授陣の会議に出てデモ。ちょっぴり緊張しながらしゃべったよ。
 連打で提案書二つ上げた。渡したときの感触は割とよかったような。
 門衛さんの帰る20時をリミットにして仕事してるけどTOEICの終了時刻みたいにあっという間。
 Sお薦めの哲学者・内田樹さんの今日の日記に考えるとこあり。確かにそうかもしれない。 http://blog.tatsuru.com/


2005年7月5日(火

 頭の中が煙霧にまかれて、眠いようだ。
 *
 新人君が意外にも書類作成系の仕事をてきぱきこなすので、自分の仕事と並行して指示してたら、なんかこっちが疲れた。もう少し難しいことをやらせようなんて思った次第。


2005年7月4日(月

 むしゃさんに招待されて(ありがとう!)mixi初体験。ネット上のコミュニティって感じですね。本名まで出しちゃうというのに逆に安心感があるんでしょうね。趣味のお仲間を探すのにはよさそうです。
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 後輩(♀)が異動して、代わりに新人君(♂)がはいってきた。挨拶の威勢のいいこと、ちょっとびっくり(君は噂に聞く体育会系か?)。年下のはずなのに、女性社会でY染色体が傾いている僕より年上に見えたり。「楽しく仕事しましょう」って挨拶。その30分後には、カード会社との打ち合わせに参加させたり。(きっと緊張しただろうなぁ)


2005年7月3日(日

 アニエス・ジャウイの「みんな誰かの愛しい人」。有名人たる父に対する周囲の羨望と身体のコンプレックスをもつ女性が自己中心的なところから精神的に独立しようとするところまでを描き出した。ジャウイは「ムッシュ・カステラの恋」の初監督で名を成したそうだが、「ムッシュ〜」のほうが若干出来がよいかな。この人の映画は難しい人間関係の絡みを扱っていて、最後までその絡みがほどけなかったりするから、終わったときに観た人はそのこんがらがった人間関係を持ち帰らなくてはならなくなる。最後に何か光明のようなものをそこに見出すが、果たしてそれがうまくいくのかどうかはわからないのだ。
 人間関係は難しい、言葉だけで愛しているということはできても、ほんとうにそうでなければそれは言葉や行動、態度の端々に滲み出る。だけど、その表面だけの態度で相手が悪いということができるだろうか。結局、相互に深くいつくしむことで、互いに愛し合うことができる。少しでも相手の愛の深さに不満をもつとき、それはうまくいくことはない。もし不満をもつならばもっと深く愛さなければいけないということなのだろう。だからといって、見返りが期待できないのも確かなのだが・・・。そうやって考えていくと、この映画の邦題はどうかなぁ。原題も同じなのかな。
 「ムッシュ〜」の社長役だったジャン=ピエール・バクリがまったく違った演技をみせていて興味深い。顔が同じなのに同じ人だってわからなかったよ。
 *
 久しぶりに買い物。スーツとYシャツを買った。男の人って計画的に買い物が進むことに満足を覚えるらしい。女の人はいろいろ見て回ること自体を楽しむらしいよ。


2005年7月2日(土

 カン・ジェギュの 「ブラザーフッド」。戦争の醜さというものがよくわかる作品になっている。朝鮮戦争というものはずっと歴史上の史実にしか過ぎなかったけれど、同じ人種で憎み殺し合った様子を描いたこの映画で、歴史の記号の中に多量の血が流れたことを思い知らされた。戦争というものに正義というのはありえないし、ただ醜い殺戮に過ぎないということを、ハリウッド並みの銃撃戦や涙ものの兄弟愛の中に挿入したのはよかったと思う。出演者ではウォン・ビンの演技がなかなかよかった。しかし、なぜ日本はこういう映画を作れないのでしょうね。
 
 マイケル・ムーアの「華氏911」。出てくる人たちが自分のご都合主義ばかりで観てると気分が暗くなる。石油戦略は全世界の安定化が重要なので、一地域の石油にこだわっても意味がないといったことが以前読んだ本に書かれていて、確かにイラクのオイルマネーごときで戦争をするものだろうかといぶかしんでいたし、もっと計算高いのかと思ったら、真相は案外単純なのですね。単に、ブッシュ氏が潤い、政権が維持するための戦争というところをこの映画は突いていた。ブッシュは徹底的にばか者として描かれていて、まぁある程度はムーアがうまく脚色したとしても、火のないところに煙はたたないし、結局のところそういう人なのだろう。どうしてアメリカはブッシュを大統領に選んでいるのかが不思議。日本がこれまでの力関係でアメリカの従順な家畜になってアメリカのイラク戦略に加担しているのが哀しい。自分のことしか考えられなくなったらおしまいだね。


2005年7月1日(金

 七月になった。今週末は久しぶりに何も予定なしで、彼女も実家に帰っちゃったからほんとうに何をしようか?の休日になりそう。
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 小笹芳央の「モチベーション・マネジメント」。金銭報酬や地位報酬が難しくなっているなかで、組織の生産性をあげるには、個人個人のモチベーションをあげることが重要であるとの考えに則って書かれている。確かに、人は誰かに認められたいとか、やりがいを求めて働いているわけだから、そこにうまく応えていくことで満足感も高くなるし、全体の生産効率もあがるという仕組みになるわけなんだ。全体的にポイントがまとまっていて、面白かったし、勉強になったよ。