ポール・オースター(1947年〜 )

 以下、彼の著作について、僕の読んだ順番にそのとき感じたことを綴ってます。あくまで感想であって作品内容の紹介ではありません。

「ムーン・パレス」
(1989)
大学院時代の共同生活体(楓庵)によく遊びにくるワンゲルの先輩がいた。
先輩といっても実際に山に一緒に行ったこともなく、僕が入部した頃には既にもっと山岳部的なことを目指していたがために辞めてしまっていたのだけど。
単独での岩登りや冬季単独縦走などを繰り返しているような人だったから、それほど山にストイックさを求めなかった僕にとっては、少し理解しがたい人というイメージが先行していた。
彼はパンとお茶をテーブルにおいて、楓庵の居間のソファを喫茶店か何かのようにすて、長時間、読書に高じていることが多かった。意外ではなかたといえば嘘になるだろう。ほどなくしてよく読書のことなんかも話すようになった。一番話してわかりあえたのは、やはり村上春樹氏についてだったと思う。進行形的に春樹さんの魅力にはまっていた僕にとっては、そして彼にとってもいい話相手だったのだと思う。
そして彼があるとき、この本は絶対に読んだほうがいいと薦めてくれたのが、「ムーン・パレス」だった。

実際に僕がその本に没頭したのは、M2(23才)の夏にメキシコを一人で旅したときのことだ。アメリカ国境近くの小さな町のバスの待合所で延々と読み続けたのだ。
「ムーン・パレス」の舞台自体が後半部から荒涼としたところになるので、ページから感じ取れるものと、自分が肌で感じているものがちょうど似通っているようなイメージも抱けた。
本の中では、主人公が自分というものを捜し求める過程が描かれている。それをあまりに強く探求しようとするがために、自分の大切なものが見えなくなったり、自由ではあるけれど社会から投げ出され孤独を味わってしまうこと、そんなこと考えさせられた。でも若いということはそれが許される時期だと思ったし、生きるということはそういうことではないかと思った。

「孤独の発明」(1982)
2001年1月(25才)に読んだ本。東京から仙台への長期出張の移動途中まで読んでいた。
前半はオースターの父親について書いている。そこに「心臓を貫かれて」のような血なまぐさい悲話があることが明らかになる。そして息子に対しあかの他人のように接してしまう父親像。オースターはいつも父親に認められたくてしょうがなかったのだろう。彼は父の死後にこの小説を書きあげてしまうことで、全てに決着をつけてしまうことをおそれていたようだ。いつまでも彼にとって父親は手の届かない存在でありつづけたのだが、それでも彼は父親を愛していたのだと僕は思った。
後半は彼自身について。彼は言葉を使い自分自身の奥にはいっていこうとする。
ここでは全てが詩篇のように構成され、それをつなぎ合わせて、彼は彼の像を切り取ろうとする。

「偶然の音楽」(1990)
2001年3月(26才)に読んだ。
会社への辞表をメールで出して、仙台から東京に呼ばれて課長と喫茶店で僕の夢見話を話したわけだった。その帰りの新幹線のなかでひたすら僕の中の解消できないものを抑えるために読みつづけた。
ぼくは心底、オースターのストーリーテラーたる才能と物語の奥に潜む人生経験から生まれる「ものを考える力」の差に歴然とした。
まるでオースターは自分があたかも経験したかのようにこの物語をつむぎだしている。どうして彼は遺産の転がり込んだ人生の転機から話口を始めて、石を積みあげて壁をつくる男の話につなげていけるのだろう。ストーリー性の面白さと哲学的な思考の回転、まさにオースターの真骨頂たる作品に違いない。
相棒の失踪の謎などを詰めていくこともできるけれども、むしろこれは生き方についての本だ。
消防士としての生き方、大金を所持する旅人としての生き方、ただ単純な石積みの肉体労働に明け暮れる生き方。果たしてそうした生きるということへの疑問の反芻を主人公と共に考えていくことのできる作品だ。

「ルル・オン・ザ・ブリッジ」  (映画)
「偶然の音楽」を読み終えた日の晩に珈琲片手に一人で観た映画。
ポール・オースターは作家としてだけではなく、「スモーク」などの映画の脚本でも非常に稀有な才能を発揮している。この映画は脚本家を抜け出して、さらに監督まで行ったという、オースターファンならば垂涎物の映画なのである。僕はオースターが好き言いながら、実はその興味の炎が上がりだしたのもつい最近で、結局気になりながらも映画館に行かなかった。…しかし観て思った。これは映画館で観てもよかったと。できればナイトショーがいい。そして観終わった後に、映画の中の縁の広がった素敵なグラスなんか手にして、そっと瞑想にふけることのできる作品だ。
ハーヴェイ・カイテルとミラ・ソルヴィーノの歳の差には若干気にはなるけれども、やはり「スモーク」での好演とオースター自身の年齢的な投影を考えるとカイテルは外せないのだろう。というか他の役者では多少映画そのものが浮いてしまう可能性もあったし、やはりカイテルは巧かったから妥当というべきだろう。まぁそれに恋というものに年齢は関係ないものだから。ミラ・ソルヴィーノはウディ・アレンの「誘惑のアフロディーテ」(確かアカデミー助演とったはず)の肉体的なアピール性の強さではなくて、ここではむしろ知性的というか哲学的というか(巧い言葉が見つからないなぁ)そんな魅力があふれていた。
石が暗闇の中を青い光で浮かび上がらせるシーンはまるで「世界の終りと〜」の獣の頭骨が光るシーンを思わせた。
それにしてもNY的な洒落た映画だ。

「リヴァイアサン」(1992) 柴田元幸・訳 新潮社
2001年4月2日読了。仙台に梅が咲く季節に読んだ。
小説家たる主人公がその親友について書きつづった本というふうに一言では言えるが、中のストーリー運びは、主人公、親友、その妻、友人たちがまるで違う色をもった毛糸のように絡み合っている。この本の中では主人公がその誰だったとしても成り立つように、ひとりひとりの人物像がしっかり根を張って描かれている。相変わらず、オースターのストーリーテラーとしての筆致力は冴え渡り、彼がまるでそこにいてそれらを全て見て聞いて体験したかのように描かれている。この人は前世のことまで覚えているんじゃないかって思えるほどだ。
ただあまりに一人一人の人物像と彼らの持つ背景のようなものが丁寧に描かれているせいで、主人公がその親友についてシンプルに書き綴ったという形にはなりえていないというのも確かだ。ってそれくらいしか非のつけどころがないんだけどね。春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」は彼自身がそのストーリー展開をはじめの段階で読み取ってはいなかった。オースターのこのねじまき鳥的性格をもつ小説は、はじめからストーリー展開を予知し、それを巧妙に入れたり出したりしているわけだ。
春樹さんは小説の構築によって自分の思考を整理していく(外部→内部)が、オースターは自分の思考の中にある材料を(丁寧に時間をかけて)取り出し組み立てている(内部→外部)わけだ。

「幽霊たち」(1986) 柴田元幸・訳 新潮文庫
2001年4月22日読了。仙台⇔横浜(従兄の結婚式)の行き帰りを中心に読んだ。
オースターが世に知られるところとなったニューヨーク3部作の第2作目である。
僕自身は実はその昔、一度読みかけたことがあったのだけど、なんだか捉えどころのない退屈な小説にしか思えなくて敗退した経緯がある。
どうも最近小説に対する見方(読み方)が変わってきたのか、非常に面白く感じた。
確かに登場人物は少なく、ストーリーが大きく変わっていくことがない。これはストーリーに広がりが出てくる小説ではなくて、ストーリーの広がりを狭めていく小説だからだ。探偵の話とくれば、ホームズが解決したような事件のように複雑怪奇、難問とスリル・・・、なんていうものが言うまでもなく浮かんでくるのだけど、ここにでてくる探偵はむしろその可能性を少しずつ消されていくのだ。外部が広がっていくどころか、最終的には自分の存在意義そのものが問われていくのだから。
それにしてもオースターの小説の一文一文が彼の中で熟成されている。ストーリーとはそれほど関係もしない野球場のシーンのイメージなんかすごくよく書けていると思う。オースターも春樹氏と同じように足しげく球場に足運ぶ野球ファンらしい。ポップアートを想起させるような球場というものは何か人間のイメージの中に働きかけてくるものがあるのかもしれない。ぼくも去年、国立競技場でサッカー観戦したとき、現代美術館にいくような感覚をもてたもの。

「最後の物たちの国で」(1987) 柴田元幸・訳 白水社
2001年4月27日読了。面白さに引きずり込まれて、あっという間に読んでしまった。
オースターの本の中には、物が少しずつ失われていって最後に0になってしまうというものが度々表れる。それは自分の存在が世界から欠落していくものが多いと思う。特に「幽霊たち」なんかはその顕著なものだろう。
この本の中では自分の中のものの欠落と同時に、世界そのものが欠落していく姿を描いている。都市が崩壊していき、街は滅び、人の心もまた消えていく。物が消えていくと、初めからそんなものは存在しなかったような錯覚を人は覚えていく。希望も夢もね。
オースター自身はこれは想像ではなくて、20世紀に実際に起こったことを綴ったに過ぎないのだとこう言っているそうだ。
ぼくらは寝食が絶えず与えられていることを当たり前だと思って、そんなことにおよそ感謝したりなどしない。この100年の歴史や、外国で起きている紛争や悲劇すら気にもかけない。それはウォーバンハウスに招かれた、窮乏極まりない人たちが衣服と食事を与えられて数日もするとそれをさも当たり前のようにしか思わなくなるということと同じではないだろうか。失って初めてその有りがたみがわかるというのだ。これは恐ろしいことだと飽食の時代になんら不満ななく生きている僕は思うのだ。

「鍵のかかった部屋」(1986) 柴田元幸・訳 白水社
2001年5月4日読了。

友人の存在というものを追いかけていくうちに、最終的には自分そのものに行き着いてしまうというストーリー。まるでタブツキの「インド夜想曲」をも思わせるような展開ではあるが、それは最後に明らかになるというものではなくて、むしろわかってはいながらも前に進んでいかざるえない苦しみのようなものを描いている。ニューヨーク3部作を締めくくるにふさわしい本だ。相手を消し去っていくことで、生き残っていこうとするエンディングの部分の解釈が難しいかな。

「ミスターヴァーティゴ」(?) 柴田元幸・訳 白水社
2002
年1月3日読了。
会社を辞めて(2001年7月)、シルクロードの旅を終え(11月)、初めての小説を書いて送り(12月)、ようやくほっとしたところで読んだ本。
収入0の状態だったから大蔵省もびっくりの緊縮財政で、本は全て図書館と決めていた矢先にこの新刊を見つけてしまったときは本当にどうしようと思った。
結局、自分の気持ちには抗えなくて(そうやって感じて本を買うというのは大事なことのように思う。)、買ってきて読み耽った。
これまでの作品と比べると、大衆的であるという事実は拭えない。それは下町の少年が精神的に成長していく姿を描いていてるから仕方がないという側面もあるのだろう。そして「偶然の音楽」で積まれた石のようにここでも一見意味のない行為が積み重ねられて、ある意味のあるもの(ここでは飛翔)に変わっていくというのを丹念に描写しているが、この積み重ね行為がこのストーリーの中ではあまりに突飛で(土に埋めるまではいいけど、指を切るとか、火傷をするとか・・・)少しやりすぎなのではないかとも思った。
ただそうはいうものの、ある人間の人生を描くという点での筆の力は素晴らしく、特に「落下」後のストーリーはよかったと思う。読み終えた後、思わず人生って一体なんなんだと嘆息してしまったのも事実。