ブルガリア

送信日時: 2001年11月13日 6:09

 ドーブリデン!!タイムリーではなくて申し訳ないんだけれど、ブルガリアで送るはずだったスナフキンの旅だより第二報を(ブルガリアで日本語入力の可能なコンピューターが見つからなくかったんで)ここ、マケドニアから。

 ブルガリアは季節の移行時期が日本と似ているようでやっぱりかなり冷え込んでます。セーターの上には薄いカッパしか持っていなかった僕はとうとう耐え切れなくなってソフィアの古着屋で中々上等のコートを約7$で購入しました。

 ブルガリアで回った所は、ベルコタルノボ&トリャブナ ー ソフィア ー リラの僧院 ー メルニック&ロージェンヌ。そしてソフィアへ戻っています。ソフィア以外はひどく田舎。街から街の間は超スーパーウルトラとか沢山の冠詞を付けたくなるくらい度田舎です。田舎暮らしに憧れる僕の心を擽るような光景がいっぱいありました。石造りの土台に木の骨組みが露な形の建物、軒先にぶら下がる葡萄やひょうたん、人懐っこい放し飼いの犬たち(この国では野良犬もあちこちに見ます。日本と違って捕らえられた野良犬は去勢されて再び放されるとか)、夕暮れに我が家へ帰るヤギとヤギ追いのおばあさん、そんな一つ一つの光景にシンミリ・・どこか日本と似た雰囲気があって懐かしい感情を想起させ、それでいてやはり始めてみる光景で不思議な心持ちになります。

 ブルガリアと言えばヨーグルトなんて短絡的なイメージしか沸かない人も多いのでは?なんてまずズル賢く同意を求めたりするんだけど。僕もその一人でした・
 だけど残念ながら店に並ぶ品はダ・ノ・ンばかり。ソフィアで買ってきて「やっぱりブルガリアはヨーグルトだね!」なんて言って頬張ってたらすぐさま「それはダ・ノ・ンだよ」って指摘されてショックでした。
 それでもヨーグルトをどんな料理にも使うというのは本当みたいです。プライベートルームで泊まったとき、そこのおばさんはチキンスープに有無も言わさずヨーグルトをたっぷり入れてかき回してくれて、それが案外いけました、うん。
 正確なところヨーグルトよりもチーズの方がよく使うかな。たくさんチーズを食べるせいでブルガリアの女の子はみんなスレンダーなんだそう?ですよ。

 さてさて今回はこの辺りで止めとこ。次はマケドニアーアルバニア編。実は今日アルバニアからマケドニアへ戻ってきたところなのです。はは、種明かし。
 この2ヶ国ではまだ東洋人の顔は鏡の中でしか拝めないほど希少な存在。特にアルバニアはヨーロッパの中でも異色な国のように思います。
 やばやば。。この続きは次回のお楽しみに。 それではチャオチャオ。


マケドニア・アルバニア

送信日時: 2001年12月1日 20:27

 チキェーミ!(これはアルバニア語)

 マケドニアとアルバニア。何と無く語呂が似ているから兄弟のような国かと勝手に思っていると、全然違いました。
 マケドニアが旧ユーゴに属するのに対して、アルバニアはすでに独立国。
 マケドニアがキリスト教(7割弱)であるのに対し、アルバニアはイスラム教(7割。面白いのだけどこの国は1990年まで20年程公式の無神論の国だったみたいです。)またマケドニアが周辺国同様スラブ語系の言語なのに対して、アルバニアは他の語系の言葉(何か全然違うんですよ)、マケドニアが太陽を見事に図案した国旗なら、アルバニアは赤のベースにゲジゲジ虫。

 さて僕の辿ったルートは、オフリドーティラナ(ヂューラス一日観光)ーオフリドースコーピエ。2ヶ国でたったの一週間という早足観光にもかなり充実。この間は車窓からの景色が眠気も忘れさせるほど飽かせないもので、肉体的な苦痛は何のその。逆に敢えて好んで移動を選択していたくらいでした。
 マケドニアでは、見渡す限りに見事な紅葉で埋め尽くされた山々の美しさにため息の連続。そしてアルバニアでは山々を跨ぐように走る道からのダイナミックな景観。遠くには青く幾重にも連なる山々が望めました。

 オフリドはマケドニア随一の見所。旧市街の町並みは歴史的な貫禄には欠けるけれど素朴な佇まいありました。赤茶色の瓦屋根に石畳の路地、庭先の葡萄棚やハーブのポット、そして薪の山。
 僕が好んだのは湖岸の石畳の道を、小さな半島の岸壁にかわいらしく建つカネオ教会まで散歩すること。打ち寄せる波の音に呼吸を合わせ、そこへ辿り着いたら、教会裏の枯れ草の上に腰を下ろして透き通った湖水を見下ろします。水草のせいなのかクジャクの羽の色を思わせる緑色で水面が光ります。
 周囲のあらゆる物質がこの透き通った湖水によって浄化されてしまうように思えました。岩礁を、空気を、空を、山々を。僕の心も少しは洗われたのかも。
 でもきっとこの湖で泳いでみれば、自分まで透明になったような心地がするんだろうな。

 オフリド湖はアルバニアとのボーダーラインの一部でもあるのですが、そちらへ入国して湖から少し離れただけでがらりと大地の様相が一転してしまったのは目を疑うようでした。全てを潤すように思われたオアシスから、地肌も目に付く乾いた大地へ。岩と赤土の痩せた土地に局所的に潅木の茂る荒涼とした光景。散在する灰色い小さなドーム状のシェルター。

 ティラナの印象を色にすればグレー。
 アルバニアはマケドニアと物価にはそれほど差はなくても経済状態は上手くいっていないことが一目瞭然でした。(5年前に起こったねずみ講に多くの国民がはまって失落したとか)排ガス規制の無いような埃っぽい市内、薄汚れた市内バス、穴の多い道路、泥泥の路地、屑篭から溢れて散乱するゴミ、工事の途中のまま取り残された瓦礫の山。日中は停電し、ファーストフードが高級嗜好となり、中心部では多くの個人両替商がヒッチハイクのように札をかざす。

 絶対住みたい街とは思わない国だけどヨーロッパの中で異質的な存在としてすごく面白くカルチャーショックを感じた国でした。


オーストラリア

送信日時: 2002年3月24日 11:07:24

 桃色の春風の中に一際暖かな感触を頬に感じたとしたら、きっとそれがオーストラリアからのスナフキン便りです。そう、赤道よりももっともっと南の異なる大陸に存在する国でスナフキンはまだ生き長らえていますよ。

「あれ、カナダじゃないの?’」 
そんな愚かな質問は控えましょう。
ロンドンで人差し指をなめてかざしたら風はカナダではなくオーストラリアの方へ流れていたのです。
飛行機はその確かな風に乗って時を9時間巻き戻す遥かなる空の旅。
アテネとバンコクを経由し、赤道を飛び超え(赤道って何かロマンを感じません?唾を呑み心臓を鳴らしてその瞬間を見守ったけれども、やはり何も起こりませんでしたね。)、睡眠と食事を家畜のごとく繰り返し、朝食なのか夕食なのか分からない5度の機内食をビールと共に胃に流し、ゲッソリなった翌々日の夕方無事シドニー空港へ着陸したのでした。(正確な日付はというと1.19でした)

ところで、新天地は暑かった
潮の香りがした
太陽と空いっぱいの青色がひどく眩しかった
そう、 ここは真夏だったのです

冬用のコートにセーター、そしてトレッキングブーツを放り投げ、僕はにわかに短パン、ランニング、サンダルといういでたちになり、頭もきれいにバリカンで1cmに刈り上げたのでした。
けれども坊主頭にしたのは何も涼しくなるためだけばかりじゃありませんよ。
当然解放感に浸るためだなんてそんな軟派な考えでもありません! 沸き立つ大きな志の顕われなのです。ふっふっふ。。。。(しかし誰にでも愛称を付けたがるオージー達にポーテートーと呼ばれるのは誇り高きスナフキンとしては許し難く、俺はそんな田舎小僧じゃないぞといきり立っていますがね。)

さて、現在のファームを見つけるまでの2週間を僕はシドニーのあるバックパッカーズホテルに滞在しました。シドニーは驚いてしまうくらい東洋人の多い街ですが、このホテルも韓国人がオーナーをしている訳もあって然り。残念ながら折角の英語圏に居ながらこの期間の成果と言えば、韓国訛りの英語を理解する事ぐらいでしょうか。

ところで僕はオーストラリアについてほとんど知らなくて幾度も他の日本人旅行者に笑われました。
コアラにカンガルーに羊毛用のヒツジ。大賛成(変換でうまく出てこないからこれでもいいかな)盆地にグレートバリアリーフ、そしてエアーズロック。原住民はアボリジニーで、パースは地中海性気候。列挙すればそんなもの。古今東西オーストラリアをしたら相当厳しいレベルです。

僕はオペラハウスを知らなかった。ハーバーブリッジもボンダイビーチも、チャイナタウンがある事さえ知らなかった。オージーハットも知らなかった。長笛?とブーメランがアボリジニーの文化だなんてことも知らなかった。列挙すればきりが無いのですが、当然オーストラリアデイがいつなのかなんて事も知らなかった。

そんでそんで最後にオーストラリアデイの日記をのせて終わろうという流れのはずだったのだけれど、ちょっと私的に都合が悪くなったので次回にします。