2003

中欧の旅


   中欧の旅

 知らない国、知らない街を見たい。きっと何かがそこにある。そうやって地図帳を開いていつも旅は始まる。
 どうしてチェコを選んだのだろう。カフカへの憧れからだろうか。彼が悩みながら物語を進め、行き詰った夜に彷徨っていたというプラハの街。そんな情景を思い浮かべるだけで、旅を始めるには十分だったのだと思う。
 仕事を再び始めて、口座にお金がちょこっとあって、うまいこと連続した休みがとれて、あとは航空チケットをとるために電話をかけるだけだった。さすがにお盆時期の格安チケットをとるのは難しくて、半ば諦め気味だったのだけど、最後はあっけなくとれた。あとはパスポートとクレジットカードもって、いつものように旅に出るとは思えないような小さなリュックに歯ブラシや文庫本を詰め込むだけ・・・。


2003年8月10日 東京→(機上)
 
『まずはジャブから』 
 マレーシア航空にて。
 夕食で何が欲しいかって訊かれたから「ビール!」と言えば、「後でもってきますけど、とりあえず何を飲みますか?」
 「じゃあ、白ワインを」
 ワイン飲みながら夕食を食べ、デザートも食べ、おなかいっぱいでコーヒーも飲んで満足していたところに、「お待たせしましたぁ・・・」

2003年8月11日 →アムス乗り継ぎ→ウィーン

『さすが?』
 アムステルダム空港で。
 トイレに普通にコンドームの自販機がある不思議。ううむ。掃除のおばちゃんの視線だけで写真も撮れない僕はノーマル・ジャパニーズ?


『灼熱の太陽とアート!アート!』
 強烈な夏の日差しがさんさんとウィーンに降り注ぐ。紫外線を身体いっぱいに受けている。
 予定していたYHへはバスで一緒だった韓国人の女の子(後日プラハで再会)と一緒にいたおかげですんなりたどりつけた。地球の歩き方ときたら、YHへの地図がなくて、建物写真しかないんだもの、こういうのって意味がない。YHはドミ。まぁ大都市はこんなものでしょう。

 早速街へ出て美術館へ。印象に残ったのはブリューゲルにルーベンス。
 ブリューゲルは楽しんで描いているというのが読み取れた。絵の中に多数の人間が同時進行で動いているのって安野光雅の「旅の絵本」とそっくり。安野さんはブリューゲルの影響を随分と受けているのかもしれない。
 ルーベンスは肉体的な力強さが目を引いた。レンブラントもあったのだが、ここの展示だけで比較するとルーベンスに分があったかな。
 他にラファエロの聖母子像がなぜかエロティックで驚いた。宗教画に隠れた官能美みたいなものが秘められていた。

 その後、灼熱の太陽の下、とりあえずはとオペラハウスへ。ここはなんといってもアーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」の舞台だからね。どうせなら「ホテル・ニューハンプシャー」でも敗退していた「熊を放つ」でも読み返しておくんだったな。
 しばらく辺りを歩いていたけれど紫外線で肌が早くも火照ってきたから美術館へ逃げ込む。入りたかった美術館のほうが月曜閉館だったので、横のレオポルド美術館へ入る。これが案外よかった。特に2F、3Fの現代画家たちのコーナー。名前を挙げると、Robin Christian Andersen(物を透視するような描写。描くうちにその向こうにあるものが目の前に現れてくるという印象を受ける。Still life on a white tableなんて作品が巧い。)、Wilfried Kirsh(白くぼやけた線に、自分の中で何かがかすかに残されていく感覚)、Fedinard Straristy(家族の団欒を描いた絵があってこれが印象に残った。左にいる二人の女性の表情が蒼く暗い。それを不安そうに見上げる少年、考え込む右端の画家らしき男・・・)

 
2003年8月12日 ウィーン→ターボル(チェコ)
 
『避暑に非ず、旧社会主義国へ』 
この旅はいつにも増して行き当たりばったりだ。ひとつには旅慣れしてきたということ、もうひとつには単に調べる時間がなかったためだ。今回はドイツ語圏なのに、ドイツ語を少しもやってきていない。10年前に大学の教養でやったドイツ語をちょろちょろ操っているだけ。少しでも練習してくればよかったよ。
 ウィーンの市営交通は皆どこでお金を払っているのかよくわからない仕組み。市電などはチェック機構がないから普通にただ乗りできそう。それともウィーン市民は無料なのかな。
 鉄道駅に着いて、前日に行くことを思いついたターボル行きの時刻を尋ねれば、5分後とのこと。タイミングよすぎ、走って飛び乗る。オーストリア内はきれいな電車だったのだけど、国境を越えればそこは旧社会主義国だった・・・。電車は突然ぼろくなる。窓からして満足に開かないし、シートのスプリングはきかなくなる。沿線の建物も手入れが明らかに行き届いていないものも露見される。・・・といってもここはヨーロッパ。町全体のセンスの良さはアジアと比ぶべくもないけれど。
 ターボルは単なる小さな田舎町といった雰囲気。メキシコのグアナファトを一段、二段落とした感じかな。町の趣もトルコのサフランボルなんかの方がいいかもしれない。こうやって比べる町があると辛いところだけど。
 ビールがすごく安い。お店で500mlが100円切っちゃうんだから。アルコールに決して強くないくせに、おかわりしちゃったり。しかし、ビール飲むときはお仲間がいたほうが絶対いいって思ったよ。
 前日に引き続き、この日も日差しが強いのなんの。湿気がない分、陽光が肌を直接的に貫いてくる。肌はひりひり。植生は北海道とそっくりだから、猛暑の北海道でも旅している気分は。本当は避暑旅行のつもりだったんだよ。

 
2003年8月13日 ターボル→チェスキー・クルムロフ
 
『Talk Talk Talk with me! 』 
 快晴。ターボルからチェスキークルムロフへバスで移動。相変わらず陽光は強烈に照り返していて、僕はサングラスごしに外界を見ているってわけ。この旅だけだとチェコが暑熱の国だと思い込んでしまうところだけど、実は10数年ぶりの酷暑だということを後に知ることになる。前年は大洪水に見舞われたっていう話だから、異常気象も通常希少みたいなものなのかもしれないけれど。
 チェスキー・クルムロフで600kc(日本円で\2,500〜\3,000)ほどの宿を探していたのだけど、INFOでどこも満員だと言われて、それより安いところを探すのならYHにしなさいと言われて、一番近くにあったYHに転がり込む。ドミで200kc。昼間は増築工事で金槌の音が響き渡り、夜は下のBarのロックミュージックが鳴り響き、騒々しいことこの上ない。まぁ寝るだけと割り切れば、別に不便でも何でもないんだけど。以前のような長旅をすると、安宿をさほど厭わなくなるものなんだ。
 太陽に干されながら町を歩いていて、日本人の女の子二人と知り合う。小川に足を浸しながら話をする。こういうのが楽しいんだよね。さらにそのお仲間の女の子一人、橋のたもとで知り合った男の子M君と合流して夕食へ。実はその前に女の子三人とスーパーへ行ったのだけど、彼女たちヨーグルト手にとって、これが今夜の夕食なんてぬかすので、そのときの夕食って実は僕のおごりだったわけだ。といってもここはチェコ、日本で一人の子と食事するよりずっと安い。
 ご飯食べてからみんなで散歩。さすがに涼しくなっていて、町の良さが堪能できた。ライトアップされたお城が僕らの後ろに浮かび上がっていた。
 マスだの鯉だのカツレツだの食べながら話をしていると、僕の大学時代の専門ランドスケープ・プランニングを目指している子がいて、研究内容まで似通っていて結構盛り上がる。UCLAまで留学したというのだから羨ましい。いい友達ができたかもしれない。
 夜は寝る寸前までドミの横のベッドにいた韓国人の金髪の女の子と話をする。日本の男はソフトでいいんだとかなんとかそんな他愛もない話。

 

2003年8月14日 チェスキー・クルムロフ→プラハ
 
『すりと炭酸水』 
 前日知り合ったMくんとプラハに向かう。3時間のバス移動も二人だから話ができていい。Mくんは結構有名な会社で設計の仕事をしているそうで、立教だかの新校舎だかの設計をひとりでやったのだという話をきいた。
 窓の外はポプラ並木がところどころにある、ロールの点在する牧歌的風景が広がっていて、本当に北海道と酷似している。
 プラハのINFOで紹介してもらったホテルは一人500kcだがとっても快適。部屋も広々している。Mくんは「歩き方」に紹介したい、そうだ。
 Mくんと夕刻のユダヤ人街を歩く。カフカの時代に思いを馳せ、彼の生誕地のプレートを写真に収める。

時間があるので、現代建築(キュビズム)を見に行こうと、トラムに乗るところで事件発生。乗ろうとして、前が随分込んでいるなと思って立ち往生していたら、中のほうに先に入っていたMくんが「そいつらすりだ!」の一声。Mくんはバックに鍵をかけていたので何もとられなかったとのことで、ほっとした様子。なんと、おばさんも含めた5、6人のすり集団が始めから僕らに狙いを定めていたようだった。とりあえず、僕のほうも財布、デジカメ、パスポートと全て問題なく、ほっとしたとき、突然ケータイ電話がなくなっていることに気がついた。当たり前だけど、国際電話をかける当てもなく(大体そういう機能もはじめからなく)、何となく成田から鞄に入れっぱなしにしてあったものだ。
 この後、J-phoneの連絡先を調べて、一応通話不可の状態にするまでが面倒だった。国際電話カード買ったのだけど、結局J-phoneに繫がらず、実家(まだ朝の4時)に電話して、なぜかそこにたまたまいた弟を起こして処理してもらったってわけだ。今回の一件、いろいろ勉強になった。ヨーロッパということで多少気が緩んでいたこともあり要反省。Mくんの時間をつぶしてしまったこともあり、夕食はおごった。すべてが済んだあとのビールが美味しかった。
 この日あたりから、それまでなかなか受け付けることのできなかった炭酸水に開眼。ほろ苦さが口に合うようになってきた。(それ以降、水を買う時は炭酸水を買うようになってしまった。)いろいろ経験値の上がっていくそんな夏の一日。
 
2003年8月15日 プラハStay
 
『響くこと』 
部屋をシェアしているMくんはブルノという町に往復4時間をかけて出かけたので、一人で王の道を歩くことにする。火薬塔から旧市街広場、カレル橋を抜けて、プラハ城までの行程だ。
 前日の雨のせいか、空気は清涼で半袖が気持ちよい。プラハ城は観光客でごった返し。そのとき読んでいた「プラハを歩く」(岩波新書)に書いてあった建築様式などをチェックして、あとはさっさと抜けてしまう。結局、カフカの執筆した家というのも人が多くて行く気にならなかった。
 それから「プラハを歩く」で興味をもったストラホフ修道院へ。ここに17、18世紀につくられた図書館がある。背表紙がフジツボのように白くなった本がずらりと並ぶ光景は壮観。ただ、本しかないところに、入場料を払うのも馬鹿らしいといえば馬鹿らしかった。
 図書館を出て、一人歩いていると鐘の音。心の隙間に突然、音が舞い込んできたような不思議な感覚がした。しばらく感傷的な気分が抜けなかった。見晴台で眼下の街を眺めていても胸が痛かった。ただひとり、僕はここにいるということが切実な現実としてあったわけだ。サングラスの下を少し涙目にして坂道を下った。
  --- 丘の上 教会の鐘 空洞のごとき心に響きゆく午後 
---
 夕方、小コンサートを聴きにいく。音ははじめ僕と距離をおいていたのだけど、徐々に壁を越えて心の中にはいってきた。何か姿勢を正して聴きこみたいそんな気分がした。
 夜はMくんのLastNightということで、待ち合わせて夕食を食べてにいく。互いに日本では仕事でafter5がない身で、こんあふうに普段の平日の夜も話せたらいいのにね、なんていう話をした。
 
 
2003年8月16日 プラハ→プルゼニュ
 
『何もなく、ビールの町』 
Mくんと別れて、ピルスナービールの発祥地プルゼニュへ。
 町の下に張り巡らされた地下道を見物したり、ビール博物館に行ったり、タイムトライアルの自転車競技を眺めたり、すべては平和で何も起こらない。
 何も起こらないというのは旅をするのには、やや退屈だっていうことだ。だからビールの町なのかもしれないなぁとも思ってみたり。
 
2003年8月17日 プルゼニュ→ローテンブルク(ドイツ)
 
『おまけにならない国、ドイツ』 
チェコからドイツへ。電車はクールなデザインになり、空調がしっかり入って、シートのスプリングがきき、車窓の農村風景も極めてセンスがよくなる。
 ただ経済レベルの違いだけではない。そこに優れた気質を感じる。ここはゲルマン人の国ってわけだ。
 この旅はチェコがメインで、ドイツはほとんどおまけ程度にしか考えていなかったのだけど、ここまでやってきて目から鱗が落ちる思い。自分の中でずっと保守的なイメージが先行しすぎていたみたいだ。この民族は、非常に調和を重んじて都市をつくるということに優れた民族といわざるをえない。
 ローテンブルクも中世の街並みがそっくりそのまま残った町。童話の中の世界がそっくりそのまま残っているという趣だ。電車で知り合った医大生の女性Nさんと一緒に宿をとり、ビールやらワインやらを飲みながら話をした。宿の部屋からはライトアップされた塔が見えた。 
 
2003年8月18日 ローテンブルク→ヴュルツベルク
 
『ただ歩くこと、そこに歴史のあること』 
ローテンブルクをひととおり散歩して、クリスマスショップでお土産を一挙に購入してからフランクフルトの中継点となるべくヴュルツベルクへ。
 今回の旅は何度も言うがドイツはおまけで、ルートもほとんど考えてこなかった。そのとき手にもっていたのも、ぺらぺらとしたガイドブックの一部コピーに過ぎなかった。だから列車の旅の仕方にもどうも不慣れ。この周辺はロマンチック街道の町々があって、旅行中の日本人女性が多い。彼女たちはしっかり時刻表も頭の中に入っているのか、すんなり乗換えをしていく。それに引き換え僕ときたら・・・。
 ヴュルツベルクでは駅前の安いペンションに部屋をとる。窓を開けると、車どおりの音がしてくるようなところだ。そこから町の外れにあるマリエンベルク要塞に向かって歩く。この要塞、高台にあるわけだけど、周りが二重、三重の高い石壁になっていて、その縁を歩いているとなかなか中心に到達できない。城壁は堅牢で難攻不落といった趣だが、三十年戦争時にはスウェーデン軍に陥落したというから驚きだ。一体どうやってこの城を落したのだろう。ちょっと想像もつかない。しかし、三十年戦争って何だったか、十年前に世界史を最も得意としていた(理系なのに、無駄が多い!)はずの脳には記憶がこれっぽちも残っちゃいない。もう少し、このあたりの史実が頭に入っていると、旅も楽しめるはずなんだけど。
 ローテンブルクの市庁舎の博物館においてあった中世の騎士の甲冑のなんと堅いこと。あんなものをつけて、どんな戦いがその昔あったのだろう。思わず、ミラ・ジョボビッチの凛々しい、ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」を思い出したけど、あれはフランスのことだね。
 まぁ兎に角、僕は歩き疲れ、城の内のベンチに腰掛けて目の前の石塔を眺めていたのだった。現在も未来も過去になっていく、やがて過去の記憶として忘却されていく、ということをぼんやりと感じていたのでした、痛んだ足首を投げ出したまま。
 この町は札幌とどこか似ている。北海道にももし中世のような騎士の活躍する時代があったら、こんな町が残っていたかもしれない、なんて夢想した。きっと旭山公園あたりに城砦が造られるはずだ。歴史の重みのあるなしは大きい。
 しかし、ここにいると、札幌に帰りたくなってしまうというのは、どういうものだろう。実際、大学植物園の休んでいるのと心境は同じなんだよ。
城砦の中央にある塔 こちらは街の中にあったラピュタチックな塔
 *
『例えば美味しいワインが人生にあること』 
ヴュルツベルクはブドウ園のある斜面で囲まれている町だから、夕食はワインを飲もうなんて決めていた。夜、Cafeで地元の美味しいワインを2杯頼んだら、すっかり酔ってしまった。ワインは僕の鬼門だからきっと3杯で幸せな昇天を迎えることになるだろう。
 (手記はまだ続いているんんだけど、カット。)
 しかし、こんなふうに手軽にワインが飲めたら生きることってもっと楽しくなるんだろうなって思ったよ。
 
2003年8月19日 ヴュルツベルク→フランクフルト
 
『猿の惑星』 
 とうとうlast destination、フランクフルトへ。大都市でSバーン、Uバーンといった地下鉄が縦横無尽に街を走っている。とりあえず、市営交通の二日券(11ユーロ)なるものを購入。
動くモニュメント
 やっぱり大都市のせいなのか、街に温かみを感じ取ることができない。シュテーデル美術館に行くも、セザンヌやルノワールといった印象派の展示されているはずの2Fが改装中か何かで入ることができない。結局、3Fの現代アートと、ルネッサンスあたりの宗教画を見たけれど、感覚に訴えてくるものもなく残念。
 特に見るものもないので次に向かうのは動物園。多分、二年前の旅でキルギスの片田舎で行ったとき以来の動物園のはずだ。(考えてみればその前はサンディエゴだから、僕は日本では動物園なんてずっと行ってないみたいだ。)動物園は見ごたえがあった。一番見ていて楽しかったのはカワウソかなぁ。あとマレー・クマがぬいぐるみみたいな動きをしていて笑えたし。動物園にいると、そこにいる人たちが人間というより動物に見えてくるから不思議。気分は猿の惑星なのだ。
 
2003年8月20、21日 フランクフルト→東京
 
『空の上の夢想、旅のおわり』 
 いよいよ帰国へ。フランクフルト空港では、picnicオフのときに渋谷で買ったお気に入りのはさみを取り上げられてしまった。返して欲しい場合は6週間後に来てくれなんて言われたし。どうやって行くんだよ!とひとりつっこみ。(*結局、帰国後に再び買いに行った。)
 フランクフルト→クアラルンプールは乱気流のせいか、揺れに揺れる。おかげで久し振りに小説の着想が湧いてくる。そうやって湧いてきた泉を前にして、自分の生き方についても考えてしまう。大学の専門、表現、夢、仕事、それらが混合せずに独立しているのって、一体どういうことなんだろう。あるいはねじを巻くように、車輪が廻るように、いつかすべては同じ歯車に舞い戻るのかもしれないけれど。そういう不思議、終わらないはるかな旅。