メキシコのバス旅


1998年の夏、ぼくは初めて日本を出て、アメリカとメキシコを旅した。
当時修士2年でそろそろ論文の追い込みかけなけらばいけないときに1ヶ月も・・。
話はお世話になっていた研究所の課長さんから舞い込んできた。
「旅費はここでバイトしていいから、一緒にサンディエゴ(某ユーザ会)に行かないか。」と。
身の軽さと安易さが幸い(災い?)して、7月僕はLAに向かうことになる。
レンタカー借りて、グランドキャニオンから砂漠まで走り回った。
サンディエゴで数日、発表会など見学して、いざメキシコ国境の街ティファナへ。

ティファナにて課長ともお別れして、いよいよ一人旅の始まり。
まずはティファナから1時間半のエンセナーダという町に向かう。
だけど日曜のせいでツーリストインフォメーションばかりか、両替所も開いてない。
ドルからペソ替えしていなかったためホテルさえ入れない。
仕方ないから、一挙にバハ・カリフォルニアの先端の町、ラパスを目指すことにする。
待合所でオースターの「ムーン・パレス」読みながら(それもやがて読み終わり)バス発車まで5時間も待つ。
可愛い子が話し掛けてきて、わざわざ写真撮ろうよ。なんてことにもなる。
そんなこんなで発車。
バス内は9割メキシコ人。外人はイングランドの若僧2人とカナダの女の子と僕。
夕刻に走り出したバスは猛スピードで走る走る。
信号なんてものは存在しないから、暗闇の中、トトロのネコバスのように跳ねていく。
イングランド人は早速テキーラ飲み出し、かなりご機嫌。
片言の英語使って彼らと話す一方、慌てて取り出したのはスペイン語会話集。

まるで夜の地から朝の地にむかっているかのごとく朝がやってくる。
そして車窓からは驚くかな、一面のサボテンの荒野。
地平線までただただ巨大で不恰好なサボテンが生えている。
壮観すぎて唖然といった感じだ。
朝の8:30にちょうど半島の中間点の町につく。
休憩ということでバスからでると、かつて経験したことのないような日差しが襲い掛かる。
おいおいまだ朝だぜ。Take it easy!!
覚えたてのセルビシオという言葉を連発し、トイレで用足し。
メキシコではどこのトイレでもトイレ番がいて、その人にコインを渡す仕組みになっている。
にこやかにグラシアスってコイン渡す。
ちなみにビールはセルベーサであるがために、店先で思わず、セルビシオ下さいなんて言って、メキシコ人の目を点にさせたりもする。やれやれ。
再びバスに乗るも、この炎天下に関わらず、エアコンなしときた。
身体の水分が干し上がり、サハラ砂漠でさまよってる旅人なみに枯渇する。
(ちなみにこれほどの脱水状態になったのは後にも先にもない。)
そして夕刻ようやくバスはバハカリフォルニアの南端、ラパスに着いた。
カリフォルニアという語感から抱くイメージと全くもって正反対をいくような大地だ。

バスを降りて、旅は道連れ世は情けという諺がイングランドやカナダにあるのかどうか知らないけど、外人チームで宿とることにする。
宿は海辺のなかなか静かなところ。緑色のパロットが「オーラッ」と我々を迎える。
みんなで海辺のレストランへお食事。
「Cheers!」。日本じゃ全部開けること(乾杯)意味するんだって教えてあげる。
やがて夕陽は水平線に沈みゆく。

翌日、彼らとバス乗ってビーチいく。
エメラルド・グリーンの海に白い砂浜。
like heaven!であります。
可愛いメキシコの女の子と一緒にバナナボートのったり、ドリンク飲んでのんびり過ごす。
夕食は宿のそばでピザ食べる。
そしてマルガリータ。
イングランド人がご丁寧に全員に3種類のマルガリータ全てのグラスを頼んでくれる。
「Cheers!」
そして食後にまたマルガリータ×3。
欧米人の胃袋が日本人のものとは違うことをここで確信。
どれくらい酔うかはメキシコ料理屋で頼んでみればわかるでしょう(笑)。
その後、ディスコ&玉突き。
その間にビアを一人小瓶のコロナをなんと8本平らげる。
どれくらい酔うかはメキシコ料理屋で「コロナ8本」といって試してみてください(笑)。
さすがに異国の地で酩酊するわけにもいかないから、アルコール漬け神経をどうにかこうにか使いまわす。

翌朝、彼らは半島の先の町に旅立ち、ぼくはラパスに残る。
一人でラパスの町歩き回り、レストランで魚料理に舌鼓(めちゃくちゃ安い)

また日がのぼり、より安いホテルに泊まり場所を変える。
ホテルはいってしばらくたつと、空模様が怪しくなり、このサボテンの乾くことしか知らない大地がなんたることか土砂降りに襲われる。
道路には排水溝なんてものがないから、あっという間に雨水は溜り、やがて道路は川になった。
ホテルのベランダでそんな光景を眺めていた。
濁流になった道路に色々なものが流れていく。
看板やら靴やら・・。
そして人まで・・・、「おいおい」。

東京No1ソウルセットじゃないけど、そろそろこの町を離れるときがきたということでフェリーのチケット買いにいく。
そこでお父さんのためにチケット買いにきたというメキシコ人の女の子と出会う。
最初中学生か高校生くらいだと思ったら、なんと大学生ということでびっくり。
「彼女はいるの〜?ディスコは好き〜」などと興味しんしん聞いてくる。
今日パーティーにこない?なんて誘われたのでもちろん是非いきますと答える。
(ここまでスペイン語のやりとり。ちなみに会話の大方は何度も聞きなおしてこういうことがわかる。(苦笑))
夜、一応きれいめのシャツ着て待ってると、その子から電話。
彼女は何かしゃべってて、どうやら今日は中止とのこと。
それ以外はスペイン語勉強歴5日未満のぼくにわかるはずもない。
もっと勉強しとくんだったと流石に思いましたね。

翌日フェリーの乗船時刻まで時間があったので近くの海で泳ぐ。
たいしたビーチでもないし、天気も不良ということで、泳いでたのは物好きとぼくくらい。
そしたら日本人の女の子2人組がやってきてびっくり。
話はずむけど、フェリー乗るのでバーイ。
フェリー乗り場で昨日の電話の子が来るかなと思ったけど、やっぱりこない。
代わりにその子の父親と仲良く乗船する。
「なかなかいい娘さんですね〜」
と言ったら、顔をほころばせていたけど、
「ぼくのホテルまで遊びにきましたよ〜」
と言うと、流石に眉間にしわ寄せてた。何処の国でも親っておんなじ。

フェリーの硬い床の上で朝を迎える。
お父さんにすっかり意気投合したので途中の町まで一緒にいくことにする。
お父さんのおかげでタクシー拾え、バスにも無事のりこめる。
途中で椰子の実食べたことないと言うと買ってくれたんだけど、これが椰子の実にストローさして飲む仕組み(ちなみにベトナムにも同じものがあったよ)。
結構飽きるのだけど、買ってもらった分際、もう飲み干すしかなかったりする。
バス窓から見える景色はすっかり緑づいてる。
バハカリフォルニアとは大違いである。
途中の町で固い握手して別れ、一路メキシコ第二の都市グアダラハラへ。
グアダラハラついたのはもう全てとっぷり暮れてしまった後。
宿も決まってないぜ。やばいぜ。と楽天的なぼくも多少は焦ってくる。
タクシーつかまえて中心街へ。
流石に都会だけあって、タクシーの運ちゃんもジョニーデップみたいな二枚目。
「ジョニー・デップに似てますね」と言ったけど、どうやら知らないらしく怪訝な顔してる。
「できるだけ安いホテルにつれていってくれ!」と頼むと、やにわにハンドルから右手をはなし、
ぼくの心臓にピストル型に指を指し、「撃たれるぞ」とジェスチャー。
いつの間にか、雨がフロントガラスにたたき、まるで映画の一シーンみたいでした。
「いいんだ。撃たれたときはそれまでさ。デップ。」
でもデップは優しい人で、安くてかつ綺麗で安全なホテルを見つけてくれる。
ちょっと僕には勿体無いけど、疲れた体を伸ばしてシーツの海に沈。

朝ゆっくり起きて屋台で朝食とって中心街を歩き回る。
が特にみるべきものはない。
怪しい辛いソースつきのスナック菓子買って食べ、怪しいメキシコ人としゃべっておしまい。

翌日、ガイド本読んで良さそうだと思ってたグアナファトを目指す。
途中の町でお昼ご飯。
クラリネットかついだ西田敏行みたいなおじさんがレストランの前で歌ってるのをぼんやり眺める。
グアナファトついたらまた夕刻。
ここは中世都市を思わせる素敵な町。
車道がなんと地下にあり、地上には歴史的景観を残そうという努力がなされ、カンテラが石畳の道路に灯り、中央広場では楽団が音楽を奏でてる。
ってそんなもの見てるより宿探しだと思ってると、フェリー内で見かけた日本人の女性(一人旅)と出会う。
同じホテルを紹介してもらう。
ホテルはこじんまりしていて、階段の脇に、ロビンマスク(またはギャン)みたいな鉄鎧がいかめしくあったりしてなかなか楽しい。
その女性と夕食食べる。なんとイタリア語の通訳を仕事にしてて、よく長い海外旅にでてるそうだ。
羨ましい限り。

朝起きて、パパイヤを街頭の屋台で食べた後、町の高台に上る。
なかなか素敵な光景が眼下に広がる。
こんな町でスペイン語1ヶ月くらい勉強できたら楽しいだろう。

再びバスのって一路、LAへ。
バス内は国境の町の電気関係の日本企業(パナソニックなど)に出稼ぎに出る労働者さんたちで一杯。
バス内で唯一、アメリカに入れる権利を有していたのが僕しかいなかったから、途中の関門で何度かバスより下ろされてチェックされた。
暗闇の中で銃をもった軍人からの職務質問(スペイン語)に冷や汗かきながら答えてました。
「No Entiend!!NO hablo Espanol!!(スペイン語はわからないんです)」って。
荒野を延々厭々バスは走り、2回朝がきて、ようやく国境までたどりついてバスから降りる。
さすがのぼくの胃腸も一斉にダウン。
トイレ番を稼がせる羽目になる。とほほ。

その後LAまで一挙にバスで抜け3泊し、さらにハングル語のソウルで1泊し、帰国したのでした。
札幌は初夏から秋になっていて、ぼくはその後ひたすら修士論文に取り組むことになったのでした。