旅のはじまり!

旅日記 2002年5月6日(月) 

 前夜遅くまで準備していたせいか頭の中に眠気のシコリのようなものができてしまっていた。千歳(札幌)から成田への飛行機の離陸の瞬間にはまるで悪魔に魂を取られてしまったかのように前後不覚に眠り込んでしまった。身体が地を離れるというのは神に対する一種の背徳行為なのかもしれない。
 飛行機の窓から眼下に海が眩しいばかりにきらきらと輝いていた。液体というよりはむしろ軟らかな固体に見える。ババロアでも掬うようにスプーンをさしこむことができそうだ。
 成田からバンコクへの便に乗り換えて更に空の旅。ワインを何杯か飲んだら、体内のギアのようなものが1段階か2段階ほど上がって、思考回路が浮遊しだしそうになる。
 
 バンコクのドンムアン空港から最終24:30のエアポートバスで安宿街カオサンを目指す途中、日本人で同じ歳の男の子J君と知り合う。かなり異国的な風貌の上に民族的な衣装を身に纏っているため長期旅行者かと思えば、なんと日本から今到着したばかりだとのこと。アジアなどの雑貨商のような仕事をしていて、今回は一週間ほどタイに滞在して雑貨を買い求めるということだった。
 彼は同じ歳ながら、僕のこれまでの人生とまるで違う人生を歩いてきたようだった。十代は水商売をし、長旅に出るようになり、旅先で手作りの物を売り歩き、そのうちに物を買い付けて日本でも売りさばくようになったのだと言う。「俺は普通のサラリーマンなんかより稼いでいる。働くのは週2日くらいのものだよ。レイブや祭りで遊びながら物を売ってるんだ」「気持ちいいことを求めてやっていたら今に至ったんだよ」彼の表情には自分なりの生き方が確立していることへの誇りのようなものさえ感じ取れた。完全に日本の枠をはみ出して生きている日本人ってわけだ。
 川の流れにたとえると、彼の生き方はそこにのっかって下れるところまで下っちゃおうぜというやり方であり、僕の生き方は舵を操作して自分の流れを探していくやり方だな、と思った。どちらがいいというわけでもなく、そういうのを個性というのではないかとも思った。

 

5月7日(火) 

 午前中に雑踏のカオサン・ストリートを回って、明朝のカンボジアのシェムリアプ行きのバスを手配。ビザ別で100B。これは安いと思った。
 いったんゲストハウスに戻って昼寝などしてから、ベッドでジョン・アーヴィングの「ガープの世界」読む。描写がやや細かくくどいけれど面白い。むんずと腕を掴まれるような読書体験。
 涼しくなったのを見計らって散歩に出る。チャオプラヤ川に出るつもりが小道を歩いているうちに随分と迂回。夕刻とはいえ湿度の高い街を歩く。皮膚に吸盤をもった両生類のように水蒸気がくっついていくる。これがスーツにネクタイだったらかなりきついだろう。
 川沿いに出ると、エーゲ海からそのまま持ち出してきたような白亜の建物。ライトアップされていて雰囲気がよく、その周りで地元の人たちが大勢夕涼みをしていた。僕も川岸の縁石に座って、暮れなずんでいくチャオプラヤ川を眺めていた。この上もなくいい気分。すぐ隣に女の人が腰掛けたので何か話したほうがいいかなと思って、タイ語の「こんにちは」ってなんだっけ?なんて考えていたら、その人が鞄からおもむろに取り出したのは司馬遼太郎の「竜馬は行く」。なぁんだ、日本人だったのか。三十分程話していたら、彼女のタイ人の友達がやってくる。タイ人の恋人っていうわけ。二人にバイして夕食とりに出る。グリーンカレーにシンハービール。辛くて最高だった。満ち足りすぎてため息がでてしまったほど。

暮れなずんでいくバンコクの街。なぜかエーゲ海風の建物が川沿いにある。
幸せな夕食
 


タイとカンボジアのポイペットの国境。全てが変わる。

5月8日(水) 

 6:50にゲストハウスまでミニバスが迎えにやってくる。エアコンのバスに乗り換えてバンコクを出て国境に向かう。バンコクの街をやや高みの道路から眺めると、濃緑の熱帯樹木の生長力とビルの成長力が拮抗していて力強いエネルギーを感じることができた。街路に咲き乱れる赤い花をつけた高木が美しい。
 国境でミニバスに乗り換え。タイとカンボジアは国境をまたいだだけですっかり様変わりする。タイは全面舗装道路なのに対して、カンボジアはまだ敷設したばかりの舗装道路がところどころにあって残りはすべてメコン特有の赤土の凸凹道なのだ。パリ・ダカール・ラリーのタフな車に乗っているかのように、車は派手に上下に揺れ、泥水を大いに跳ね飛ばしている。「その調子だ、もっと土を跳ね飛ばせ!」そんな爽快な気分になる。ミニバスの窓はしばらくするうちに完全に泥の皮膜で覆われていく。
 途中の食堂で休憩をとっていると、イスラエル人の女の子が日本旅行のために覚えたという片言の日本語を使って僕の背後を指差す。ぶっきらぼうな「雨」という単語。雨は確かにぶっきらぼうなほどに木々の葉や赤茶けた土に激しく叩きはじめた。そして雨は全てのものを洗っていく。雨がやむと、世界の色彩は見違えるほどに冴え渡り始める。原色の花々はその色彩を空気の中にはっきりと残す。
 ミニバスで通り過ぎていく村の家々は高床式になっていて、建物の周囲をヤシやバナナの木々が覆っている。ヤシはまるで立体鏡をつけて見ているかと錯覚するほどに、幾重にも立体的に層を成している。その色合いはまさにルソーの絵のようだった。そうした村の風景を眺めていると本当に旅に出てよかったなと思った。
・・・しかし、移動十数時間は長すぎた。暗くなってシェムリアプの町につくと足取りもふらふら。脳が揺らされすぎて、言語野と思考野などが混ぜ合わされたような感覚で、夕食を食べるのにも話すのにも骨が折れる。さすがに参った。

 

5月9日(木) 

 朝十時半からアンコール・ワット観光。三時くらいまでまずバイロンなどアンコール・トム周辺を見て回る。バイロンにある顔をかたどった石像が素晴らしかった。アンコール・トムの周囲の遺跡群は結構広範囲にあって驚いた。端のほうの遺跡には、未修復のままの状態のものもあり、頭のとれた胸像がトカゲの這い回る瓦礫の山の中に転がっていたりもした。
 三時からアンコール・ワット。外側の回廊にあるマハーバラタやラーマーヤナといった古代インドの叙事詩を描いたレリーフ(浮き彫り)が精巧でよかった。それらを見ているとその昔栄華を極めたものも今は失われて遺跡に変わってしまうことに不思議を覚えた。そうして王家衛の「花様年華」のラストで蛇足的とも思われたアンコールワットのシーンでトニー・レオンが石にもたれて泣いていた意味が突然わかった。あれは取り返しのつかない喪失に対する涙だったのだ・・・。
 中央の搭状のところに登る階段がかなり急で、登ってしまったあとにその急勾配に唖然としている人(僕も含めて)が多かった。足を滑らせたら間違いなく骨折できるだろうし、多分年間でいくとかなりの数の人が何かしら怪我とかしてるんじゃないだろうか。
 そのまま高いところに陣取って夕陽など眺めることしばし。少し離れたところには池があり、そこと周囲の芝生への残光の当り方が優しくて美しかった。

バイヨンの観音菩薩
 


寝坊したけど間に合った。アンコール・ワットに陽は昇る。

5月10日(金) 

 朝日を見るために五時半起きのはずが、アラームが壊れてしまっているせいで寝坊。最初起きたときは暗い中確認したら三時半で「まだまだ寝れるね」ってよくある失敗パターンを忘れて寝入って、栗拾いをしている夢から覚めれば部屋はすっかり明るくなりだしている。しまったと思って時計見れば五時五十分。慌てて洗顔して寝癖をつけたままバイタクに乗る。そのために朝日が昇り始めるところは思い切り見逃してしまったのだが、朝日が昇っていくところは目にすることはできた。アンコール・ワットに着けば、入り口のところでゲストハウスで知り合ったO君とKさんのカップルが眠そうな顔でぼんやりと座っている。二人を誘って朝の散歩。地球の歩き方で仕入れたという知識をいろいろ披露してもらう。
 その後、少し離れたところにあるバンデアイスレイとその更に奥にある滝のある遺跡(名前忘れた)を見に行った。バンデアイ・スレイはレリーフが緻密で小さくコンパクトにまとまっている遺跡だったが、いかんせん炎天下ゆえ頭の中まで遺跡のように干上がってしまった。滝のある遺跡は自然のなかに遺跡が溶け込んでしまっているという点は面白かったが、ツアーのお年寄りの欧米人たちが滝で水浴びをし始めたりして何か納得できないものが残った。辺りの田園風景は美しかった。高床式住居に、道の両脇に鬱蒼と茂って木陰を投げ打っているヤシの木々。本当に心が休まる。
 最後にタ・プロームへ連れて行ってもらった。遺跡発見から修復などせずに保存しているため、樹々が押し茂り、その蛇のような根が狡猾なまでに遺跡を這いまわり、そして貫いている。遺跡は瓦礫のように崩れたままになっている。
 僕はこうした手の加わっていない遺跡というものが好きだ。まるで僕らは発見した科学者や探検家の目でその場に居合わすことができるから。崩れた石段や石仏の脇をうまいことくぐり抜けても、新たな瓦礫の山が進路を塞ぎ、木々の蔦は複雑に絡まりあっている。頭上の梢からは熱帯の鳥やサルや蝉の鳴き声がこだましている。僕は途方もない思いがして瓦礫の上に腰掛けてみる。汗が額から幾筋も流れ、ただ絶えることのない乾きに少なくなった飲料水を飲み干していく。

 

アンコール・ワット

タ・プロームの巨大ガジュマロ

小川脇の石に仏様がしがみついているのがわかりますか?
 

5月11日(土) 

 シェムリアプを出てブノンペンへ向かう。泊まっていたゲストハウスのカンボジア人スタッフの下ネタ(僕は偏屈なのか純粋培養されて育ったせいなのか知らないけれど下品な下ネタの強要が嫌い)や日本人女性に対する露骨な興味と主客転倒しそうな変なフレンドリー感にも多少辟易し出していたからちょうどいいタイミングだった。
 宿をまだ暗いうちに出て、ボート乗り場までは川原の中のでこぼこ道を行く。途中、栽培でもしているのかハスの咲き乱れる池があって美しかった。後ろの席にいた外人が「絵みたい」なんて大げさに驚いていた。
 ボート乗り場は物売りやら何やらがごった煮状態になっていて朝から妙な活気がある。始め小さなボートで深いところに停めてある大きめのボートに移動したのだが、水上集落の中を進むような形でちょっと興味深かった。雨季の始まりのせいか、どの家も半分浮かんだようになっていた。夜眠っているときに常に枕元から水音が聴こえるというのはどういうものだろうと思った。
 大きめのボートに乗り込むと、エンジンがかかり勢いよく茶色の波を巻き上げてスピードあげて進みだした。ほとんどの旅行者はボートの屋根に上っていたが、どう考えてもこの炎天下では火傷並みの日焼けになることは火を見るより明らかなような気がしたので遠慮して中に入る。僕は相変わらず肉体派のバックパッカーにはなれないらしい。
 ブノンペンに到着してボート降り場の客引きに捕まえられてやってきた宿は偶然にも日本人宿だった。けっこう居心地がよくてのんびり長いすに座って本など読んだりしていた。その日はなぜか宿に泊まっている人がほとんどいなかったおかげで、夕食は客引きをしていた宿の三男坊とその母親の三人で食べた。家族の一員になったような感覚が味わえてとてもよかった。

朝のトンレサップ湖
 

旅先で考えたこと 『動物的人間と植物的人間について』 

 シェムリアプのゲストハウスのカンボジア人スタッフを見て、動物的だと思ったこと、あるいは欲求が強いと思ったのは、きっとそこの環境によるものなのかもしれない。発展途上国にありがちだが、お金さえあれば全てのものが手に入ると思い込んでいる節があった。そして実際にお金さえあれば彼らが望むような欲求は満たされるのだと思う。
 彼らと比較すると僕は圧倒的に植物的人間であるような気がする。自分のHN名「パキラ」も適当につけた割には案外自分のことを的確に表しているのかもしれない。僕は彼らほど物質的肉体的金銭的欲求が高くない。それは僕があるレベルにおいて常に満ち足りた生活をおくれるような環境にあるせいなのかもしれない。満ちたりた衣食住、生活、愛情。全てにおいて渇望や飢えというものを知らないし、知りえない。切り株と兎の関係じゃないけれど、常に望んで待っていれば兎は向こうから跳んできたのかもしれない。僕は世界とのある境界線を越えてまで何かを強く求めることが少ないように思う。
 そのために僕は自分と対極のもの、つまり動物的なものを見ると強く嫌悪感を抱いてしまうようだ。

 


5月12日(日) 

「ツールスレーン」
 頭蓋骨の山と拷問道具の数々、それに殺された人たちの写真に圧倒された。政治が間違えた方向に進んでしまう恐ろしさ。
 過ちは繰り返してはならない。今の日本の民主主義に安寧していてはならない。これは当たり前のものではなくて、自分で守るべきものなのだ。

 人が人を殺すことの不可思議さ。
 拷問を受ける者と拷問をかける者。
 どちらも母の胎内から生まれでたものなのに、どうして。
 
 集団心理の恐怖。
 正しいことが正しくなくなることの恐怖。
 正しいことを正しいと言えないことの恐怖。
 一体そうなったときに、僕は拷問にかけられることを潔しとできるのか。
 あるいは罪なき人々の爪をはぎ、眼孔をくり貫き、腕を足を刻めるというのか。

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 ツールスレーンと国立博物館の2つを宿の自転車(空気が半分抜けていて、サドルが傾いていて、右ブレーキが利かない上に鍵がない)でまわったのだが、歩くときと街の見え方が違って楽しかった。
 炎天下のメコン川沿いをそれから走ってみたけれどさすがに暑くて途中で自転車停めて木陰に座っていたら、日本人の女の子が太陽に照らされながら歩いてきた。声をかけて一緒に昼ごはん食べる。旅先では、日本人であるということだけで簡単に友達になれるから楽しい。その後、宿に戻ってみたら、夕刻日本人女の子の二人連れがやってくる。またしても一緒にご飯食べに行く。日本でもこの位の身の軽さで遊べたら楽しいのにって思った。

 

5月13日(月) 

「キリング・フィールド」
 ただ沈黙だけが残っている草に覆われた穴。人々はこの穴に殺されて放り込まれたという。
 中央のストームに納められているのはいまだに人目に曝されている彼らの頭蓋骨。
 敷地の横には小学校があって、ボール遊びをする子ども達の歓声が絶えない。
 いつも死者はこの上もなく静かで、生きている者だけが喜びを享受できるのだ。
 ああ、そして僕は、僕らは生きている。
 生きていることの切実な喜び。

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 夜、宿で知り合ったK君とカンボジア鍋を食べに行く。ベースのだし汁には牛肉やミートボールや野菜が入っていて、それに肉やキノコや麺、地元の野菜を追加注文して食べる仕組み。日本では食べることのできない独特の風味があって美味しかった。旅先での鍋は格別だ。
 K君は江國香織とブルースハープの好きな中性的な男の子。食べ方もなんか女の子ぽくて笑っちゃった。「こんな風だと女の子といるほうが落ち着くし、実際友達も多いんですけど、恋愛対象にはならないんですよ」そんなものかなと思って聞いていた。僕も彼ほどではないけれど、中性に近くてそのことで本を読んだりして悩んだこともあった。もう昔の話だけれど。

キリング・フィールド。中央は無数の骸骨が積み重ねられている納骨堂。
 


5月14日(火) 

 朝のバスでブノンペンから3時間のところにある海岸沿いの町シアヌークビルに着いた。バスから降りて、ネットで良いという評判を聞いていたオーチディル・ビーチに宿をとった。
 宿に荷物を置いてすぐさま海岸に出てみる。白砂の海岸が細く続いているわけだが、モンスーンのせいなのか、近くの港湾開発のせいなのかわからないが、水がキレイとは言えない。海の中に入っても足元すらよくわからない。熱帯魚などいるかどうかもわからない。これではミコノスやラパス(バハカリフォルニア)の海の足元にも及ばないというか、比較の対象にすらなりえない。色とりどりの熱帯魚がたくさん泳ぎ回っていると思い込んでいたからさすがに落胆を覚えた。それでも海風は心地よいし、波音も耳に優しかった。海はいいものだ。
 夕暮れになって辺りを散歩して美しい夕陽を見た。美しい夕陽を見れるのは旅人の特権だ。美しい夕陽が、これからも僕とともにありますように。

シアヌークビルの夕暮れ
 

5月15日(水) 
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「未知の誘惑」

 地図を眺めていて思った。
 全てを行き尽くすのは不可能だ。
 行き尽くすことができないから世界は未知であり続けるのかもしれない。
 未知だからこそ、また旅に出たくなるのだろう。
 そうして再び地図を取り出してみる。
 あーこれじゃ堂々巡りじゃないか。
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 シアヌークビルの浜辺を最後に軽く散歩した後、バイタクで港へ向かう。港周辺では港湾開発が急ピッチで行われているようだった。この辺りは年々急速に変わりつつあるのだろう。港の桟橋から海の中を覗いてみたら、やたらと棘の長いウニがたくさんいた。取るのも大変そうだった。こちらの人はウニをやっぱり食べたりするんだろうか。
 国境近くの町ココンに向かう船は二階立ての船室をもっていた。上は主に外人で、下には地元の人というふうに別れて乗り込むような構図になっていた。料金が少し違うのだろうか?下調べした限りではひどく揺れて船酔いでほとんどの人が嘔吐することもあると書いてあったので、その昔二人乗りのシーカヤックですら船酔いを覚えた僕は無駄かもしれないとも思いながら酔い止め薬を服用しておく。しかし、悪い予感は当らず、海は極めて穏やかで快適な船旅に終わった。
 舟着き場からは小さなモーターボートとバイタクで国境へ。バイタクが「ミッション・インポッシブル」のスタントマンでもやったのかどうか知る由もないが、めちゃくちゃ飛ばして恐かった。ノーヘルだから滑った瞬間に首の骨が折れるか頭蓋骨が真っ二つになるかしてあの世行きだなと思った。そうやって国境を越えると、トラート行きのミニバスが目の前に待っている。トントン拍子に進んでいけることに少し拍子抜けしたくらいだった。
 トラートは人気の高いチャン島へのアクセス地点に当たる町でこじんまりしていて過ごしやすい。その上、泊まったゲストハウスの部屋が木造りのレトロ調で大変良かったし落ち着けた。川崎時代の友人たちが来たら間違いなく喜びそうな部屋のつくりだった。そして100B(300円程度)と宿代も安い。
 タイはカンボジアと比べると社会が熟成されていて人も欲望にギラギラしていないから日本にいるのと近い感覚になれる。そのためとても落ち着くことができる。

シアヌークビルの海岸。これだけ見ると水は澄んでいるように見えるんだけど・・・
 


5月16日(木) 

 お昼位にトラートからバンコク(モーチットバスステーション)行きのバスに乗る。五時間の行程の後に到着。
 モーチットののバスステーションは三年ぶりくらい。相変わらず、バス降り場からチケット売り場までの行き方がわかりずらい。チケット売り場で「ノンカイ」と言うと、「あと15分後だ」と言われ夕食もとらずに慌てて乗り込んだのに、結局出発は予定時刻の三十分後。タイはほとんど日本の感覚でいられる国だけど、時間の感覚だけはどうやら違うようだ。バスから見える街の風景は日本と近似している。7イレブンやファミリーマート、蔦屋に大きな映画館、ダンキンドーナツ・・・、海外にいるという意識が希薄になってくる。

 

5月17日(金) 

 朝四時、まだ日も昇らないうちに国境の町ノンカイに到着。夜行バス内で今ひとつ眠れなかったために頭の中が朦朧として敵わない。バスから降ろされたところで呆けたようになってザックに腰掛けていると、蟹江敬三似のトゥクトゥク・ドライバーが声をかけてくる。ボーダーまで50Bというのを40Bに下げて交渉成立。これくらいの金額の差だったら誤差のようなものだよなと、蟹江氏に待っているように言われた屋台の激甘珈琲を飲みながら考える。屋台は揚げ物専門で市場の端にあって野菜などを抱えた人たちが一包み、二包みと買っていく。まだ五時前で真っ暗というのに人の往来が多くて驚いてしまう。暗い中でこまめに立ち働いている人たちを見ていると、誠実さということの重要さについて思いを巡らしてしまう。
 五時になって蟹江氏が迎えに来てくれて、トゥクトゥクで彼の言うビザセンターに向かう。まだ朝は遠く、信号機や電灯には無数の蛾がたかっている。そしてここにも24時間のセブンイレブンが控えている。
 ビザセンターの前に来れば、ちょうどジャストタイムでシャッターのあがるところ。中がすごいことになっている。無数の蛾、蛾、蛾・・・。ヒッチコックも驚くほどの蛾が乱舞している。蟹江氏がほうきを取り出して掃除などし始める。
 ビザセンターの職員曰く、ラオスのイミグレが開くのは七時だからそれまでここにいなさい、とのこと。ありがたくベンチに座って、今払ったばかりのビザ代2000Bのこと考える。確か、ボーダーだと30ドルのはずじゃなかったっけ?2000Bといったらえっと6000円はするからこりゃ高いぞ。・・・そうして眠気も覚め始めたところで改めて表に出てよく確認してみるとそこはビザセンターなどではなくて単なる一旅行代理店であることが判明。払っていたお金を返してもらって、自分で国境に向かうことにする。蟹江氏はきっとこの旅行代理店からマージンのようなものをもらえるはずだったのだろう、至極残念な顔をする。危うく簡単な罠に引っ掛かるところだった。危ない、危ない。
 気を取り直して国境。ちゃんと到着ビザ31ドルの張り紙がはってある。やっぱりそうだよね。こうしてラオスに入国したのはいいけれど、夜の長距離移動がたたっていつもながらにお腹がダウン。入国数メートル歩いたところで早くもトイレに駆け込んだりしている。恥ずかしい。それにしても軟弱なバックパッカーだよ。どう考えても自分の身体はハードな旅にもハードな山登り仕様ではない。それなのに、どうしていつもからだを痛めるようなことばかりしているのだろう。自分のことながら全くもって謎だ。
 ラオスの首都ビエンチャンの町に入ってみれば聞きしにまさる田舎。高層建築など一つもない。首都でここまで何もないところって今では本当に少ないじゃないかと思う。
 国境からのトゥクトゥク・ドライバーが紹介してくれた(勿論彼はマージンを貰ってるはず)ゲストハウスは静かで感じのいいところ。シャワーを浴びて、街でも散策しようと思っていたのだけれど、気付くとベットで浅い眠りに引き込まれていた。吉本のコメディアンたちとTVの番組収録をしていて、そのエンディングで爆竹をならしている夢の途中ではっと目が覚めた。火花が散っているのは、夢の中の爆竹だけではなくて今の身体の状態そのものなのかもしれないなんて思ってしまった。ショートしているってわけだな、と思わず夢の意味に納得してしまった。
 目が覚めたところで市内を歩き回る。アヌサワリーという凱旋門のような慰霊塔と、ラオス最大の仏塔というタート・ルアンを見た。タート・ルアンまではトゥクトゥクに乗ろうと思ってたのだけど、あまりに値段をふっかけてくるので、結局かなりの距離を歩いてしまった。たまに変に意固地なところがある。タート・ルアンは金ぴかで眩しい。物欲にかられないはずの仏の世界が金色で表されて崇め奉られているのもどうだろうという気がした。無信教の身としてはわからないことがたくさんある。
 タート・ルアンを見てから再び歩いてメコン川のほとりに出た。メコンは空間こそ幅広いけれど、雨季の始まりで水量が少ないせいか大河という印象を受けない。川の水はとうとうと流れている。これらの水の源は中国の奥地だ。いったいここまで来るのに幾日を要し、さらにここから海に出るまでに幾日を要すことだろう。川の水に海まであと距離がどれだけあるか教えてあげたら途方もない気がすることだろう。
 川岸近くの溜り水で網を投げて魚を捕る人がいる。河川敷ではサッカーに興じる子ども達。そして僕のようにただ川を見つめる人たち・・・。
 あー、途方もない、途方もない。この先に何があるだろうっていつも考えている。まるで人生みたいじゃないか。どこまでも変わらずに続いていく風景。ずっとずっと何も変わらない。あー、途方もない、途方もない。一体、海まで幾日かかることか、君も僕も。

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「無題」

いつまで川を見てる気だい
いつまでだって見ていられるさ

いつから川を見てるんだい
ずっと前からここにいるさ
あまりに昔のことでそれがいつのことだったかわからないくらいさ

君はずっとあの人のことが好きなのかい
そりゃずっとね
ずっとこのままこうしているさ

君は今、嘘をついたね
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 いったんゲストハウス戻ってから再びメコンのほとりに出る。川沿いの屋台のビアラオはよく冷えていた。つまみは、半分鳥になりかけているゆで卵(初めて食べた)と焼き鳥(手羽先ならぬ足先もあった)。そうして嬉しそうに飲み食べる男ひとり。誰かが一緒にいたらもっと楽しいだろうに、なんて思ったりしただろうか。

ビエンチャンのタート・ルアン。金ぴかの仏塔。
アヌサワリー
 

まだ陽も高いのに・・・ビアラオ!

5月18日(土) 

 ビエンチャンからバスで山道を揺られること三時間半。ワンウィエンの村は、バスを降りても客引きすら来ないようなのどか極まりないところ。
 宿に荷物を置いてから、近くにあるという洞窟まで歩いてみることにする。観光用の小さな鍾乳洞でしきりに天井から滴が落ちていた。そこで写真を撮ってあげたことをきっかけに二十歳くらいのラオス人の女の子たちと仲良くなった。
 女の子たちと別れて、川沿いに出て昨日に引き続きビアラオなど飲む。メコンの流れは雨上がりの川のように速い。流れをずっと見ていると、自分の座っているところまで流れているような錯覚が起きてしまう。
 お金払ってまたぶらぶら歩いていると、脇のレストランから女の子の集団が僕に向かって声をかけてくる。一瞬???状態になったけれど、よくよく見れば洞窟であった子たちだった。一緒にシェークなど飲む。皆ビエンチャンから遊びに来た大学生ということだった。ビエンチャンではついぞ見なかったようなはっとするような綺麗な子も何人かいて、ちょっと驚いてしまった。・・・それにしても女の子たちの英語すごく上手。外人向けのバイトか何かやってるのかなぁ。なんだか僕は恥ずかしくなってしまったよ。

 

5月19日(日) 

 朝から雨が降っていたけれど折り畳み傘広げてレッツゴー。バスに乗り、カーブの多い山道を走ること六時間でルアンパバーンの町に到着。この行程、僕の軟弱な身体には少しきつく、途中で酔い止め薬を飲んでもそれでも胃の中がむかむかした。情けない。山道の途中、深い霧にすっかり閉ざされてしまって、いつ山賊か何かの輩が現れてもおかしくない雰囲気だった。
 宿をとって町中をぷらぷら歩いていると、向こうから日本人の女の子がザック背負ってやってくる。なんでもビエンチャンから十時間のバスで今着いたばかりで安宿を探しているとのこと。ラオスの地図をもっていないからどこがどこだかわからないなんて言うから、一緒に宿探しを手伝ってあげた。ドミトリーで蚊帳が吊ってあるような素朴なところで10000kip(1ドル=9000kip)だった。ちなみに僕のところはできたばかりの綺麗なゲストハウスで40000kipだった。彼女とその安宿にいた日本人の男の子(共に26歳)とごはん食べに行く。旅の話は尽きないし楽しかった。

ワンウィエンの早朝。ここからの移動も車酔いでしんどかった。
 

ルアンパバーン郊外の滝とNさん。

5月20日(月) 

 朝起きてから昨日の女の子(Nさん)の安宿に遊びに行く。ちょうど朝食をとろうとしていたところでタイミングがよかった。朝食後、一緒にルアンパバーンの町を散策。町の端のほうに行くと、寺院も多くなり古都の趣が強くなる。ビエンチャンのラーメン屋で会ったラオス人建築家が「ビエンチャンが東京なら、ルアンパバーンは京都だよ。是非行くといい」なんて言っていた理由が少しずつわかってきた。田舎町とはいえ、ルアンパバーンは世界遺産にも指定されているそうだ。小さな路地に入ったり、和紙づくりの店を見たりする。これはまるで鎌倉でデートでもしている感覚に近いなとも思う。これであと餡蜜屋か蕎麦屋でもあれば鎌倉にもなりえるってわけ。(でも京都にはなりえない気がする。)さすがに餡蜜などはないのでフルーツシェークを飲んだりする。ラオスのシェークはかなり美味しい。好みの果物と氷、さらに練乳を少々加えてミキサーでぐるぐる回せばラオス・シェークのできあがりだ。
 十二時からボート(5ドル/1人)に乗って市街から30km離れたクアンシーの滝を見にいく。ボートに一時間揺られてメコン川を遡り、さらにトゥクトゥク(1ドル強/1人)で十五分ほど。滝の手前のジャングルの中にフェンスがあって、この中になんとトラがいた。僕らの前にまるでモデルのお披露目のように悠然と現れ、さっと柔らかい跳躍をして藪の中に消えていった。あの大きな身体であれほどの軽い身のこなしをされては、人間は全く太刀打ちできないと思った。
 滝はいかにも熱帯といった趣。赤原色の花が手前に咲き、濃緑の木々が周りに生い茂っている。ジャングル風呂とかそういった雰囲気といえばそんな感じもするくらいで、つくりものっぽい感じがしてしまうのが不思議だった。しかしこれは正真正銘の自然の滝なわけだ。
 滝を見たあと、ボートに乗って帰路の途中に壷つくりの村に立ち寄った。ここには何にもなかった。やたらと鶏系の鳥が多く、同行のNさんはヒッチコックの「鳥」を見てから、大の鳥嫌いらしく村の入り口からほとんど動くこともできなかった。その恐れようと言ったら・・・。ヒッチコックも罪な人だなと思った。それにしてもそんなに恐かったけ、あの映画。
 ルアンパバーンの町に戻ってきてから、メコン川沿いで夕陽を見ながらNさんとシェークとビールを飲んでいたのだがここでハプニング。Nさんの飲んでいたシェークにどうやら悪い菌か何かが入っていたらしく、急性の腹痛にやられて結局全て吐いてしまったのだ。ちょうど陽もすっかり沈んだところで、流暢な大阪弁もすっかり鳴りを潜めて大人しくなってしまったNさんを彼女の安宿に送り届けておしまいとなった。あまりに痛々しくて僕の中での彼女に対する気持ちが少しわからなくなりそうだった。結局、それは引き出しにしまって鍵を閉めちゃったが・・・。

メコンの夕暮れ
 

5月21日(火) 

 スローボートでルアンパバーンの町からメコン川を遡ってパクベンに向かうことにする。スローボートは幅5メートルくらいで細長くなっていて屋根がついている。ずっと川上りの行程なのでエンジンを響かせて、緩やかな波間を進んでいくことになる。どこまで行っても赤茶色の濁り川。周囲の風景も熱帯の森がひたすら続く。時に岩山、時に焼畑で裸になった土の斜面なども見受けられる。川では水浴びをしたり、投げ網を打ったりする川沿いで生活する人たちの姿を見ることもできる。
 始め、夕刻までにはパクベンの町に着くものだろうとたかをくくっていたのだけど、行けども行けども着く気配がなく、太陽だけがどんどん落下していく。読書に興じることができなくなる程暗くなっても町は見えてこない。とうとう薄暗くなった空には、一番星、二番星が輝き出した。それを合図のようにしてボートのエンジンが止まった。一緒に乗り込んでいたオーストリア人に「今日はここでお泊りなのか?」と訊いてみる。「マイフレンド、今日はこれ以上行けないから云々(つまり聴き取れてない)」仕方なく覚悟を決めて、虫除けスプレーなどを塗布する。エンジン音が止まると、岸の藪から虫の音などが聴こえてくる。時折、岸の砂の層が崩れて、まるで氷山の崩壊音のようなもので空気を震わせている。その音は誰かが川に落ちたような音にも聞こえて、実際落ちていても砂の落ちる音としか思われないのだろうけれど、皆はっと驚いたりしていた。時折魚の跳ねる音のようなものも暗闇から聴こえてくる。すっかり暗くなったメコンの川面には空の星々が投影されていた。
 夕食は若い船頭さん(日本人の彼女がいると言っていた。ラオスでも日本人の女の子は人気が高い模様。でもほとんどが旅先の出来心でそんなこと当の女の子たちも忘れていくに違いないのだろうけど)がつくってくれた餅米とメコン魚のスープ。餅米は手でもって辛みそのようなものにつけて食べる。全て手を使うわけで、そんなことに不慣れと思える欧米人たちも割と平気で食べていた。案外今の若い日本人のほうがこういうことに抵抗があるかもしれない。日本はあまりに衛生的すぎるからね。
 夜には現地人は当たり前のように蚊帳を吊って寝具を敷き、欧米人たちは大きなザックの底から蚊帳やらシュラフを取り出したのだが、僕はあまりに軽装だったためそんな宿泊グッズなど持ってきてなかった。蚊対策に長袖長ズボン羽織って安眠枕ふくらませて、ベンチの上にごろりした。固い上に寝返りを打てる幅もなかったから結構きつかったのだが、それなりに疲れてもいたから眠ることはできた。ただ一時間おきに目が覚めてしまうような断片的な浅い眠りしかとれなかったけれど。

茶濁の川にいる魚。夕食に出てきた。
スローボートの操縦席
 

少数民族がレストランに売りにきたビーバーみたいな小動物。これをレストラン側でどうするかは謎・・・まさか?

5月22日(水) 

 空が白みだすと同時にボート内では人の動く気配がし始める。程なくしてエンジンがかかり、皆蚊帳を畳んで荷物をしまう。朝食はラオス人の金細工職人氏の家族に呼ばれてご相伴に与る。餅米と辛みそと小麦粉をカールのように揚げたもの。外国人をも迎え入れるラオス人の温かさに感謝する。
 朝食後、船の先端の甲板に出て、風を浴びる。とっても気持ちいい。岸辺の森からは蝉の声がこだまし、船のエンジン音が小気味よくうなりをあげている。
 メコンの水の流れは決して一方向ではなく、渦をまいたり、湧き出たり、横に広がったり、収束して縦波を起こしたりしている。船は水を跳ね上げたり、水を撫でつけたりしながら進んでいく。
 昨夜の時点で、もうあと二時間で着くといわれたパクベンに着いたのは結局おてんと様が中空にまで上がった後のことだった。
 パクベンはゲストハウスとレストランが数軒あるだけの小さな町というか村というか場所。レストランで欧米人たち(カナダ人、スウェーデン人、オーストリア人)と一緒に食事をとっていると、少数民族の装いの人たちが森で捕まえたと思われる鳥や小動物、他に手芸品などをレストランの女将相手に売りにきていた。女将は一昔前の悪代官という感じで、貧しくて正直そうな少数民族の人たちから意地悪そうな顔をして物を買い上げていた。きっと「こんなもの三文にもなりゃしないよ、おまえさん」「そこをどうか。うちには年老いた母もいるのです」「全く仕様がないね、あんたたちときたら」多分そんな会話が交わされているような気がした。(あるいは全然違うかもしれない。)
 カナダ人の女の子が今日中にラオスビザの期限が切れてしまうから、ここから高速のスピードボートで一挙に国境の町を目指したいが誰か一緒に行かないか?と訊かれ、僕もこんな田舎町にいるなら前に進んでもいいかななんて思って一緒にスピードボートに乗ることにする。スウェーデン人カップルも同行する。
 スピードボートは遊園地のちょっとした乗り物の一つといった趣。モータボートのように水の上を跳びはねていく。はじめはそのスピード感に肝をつぶしそうになったのだけれど、慣れてしまえばうたた寝などする始末。
 ただスローボートに乗っているときも思ったけれど、僕はメコンの風景をずっと眺めていても飽きるということを知らないようで、道中それなりに楽しめた。
 途中、雨が降ったり、日が照ったりと忙しかったが、首の骨を折ることもなく無事国境の町フェイサイに到着。一挙に川をわたってタイに入国するというほかの人たちと別れてこの田舎町に宿をとった。シャワー浴びてベットに倒れたらそのままぐっすり。この旅の中で一番疲れ果てた一日が終わった。

 

5月23日(木) 

 朝、フェイサイの町を軽く散策した後、ラオスを出国してメコンを渡る。一週間ぶりのタイは田舎町であっても物があふれている感じ。
 チェンセーンの博物館にメコンの大魚に感する展示があるとのガイドブックの文句に惹かれて、チェンセーンに向かうことにする。そこに向かうトゥクトゥクの中で三十代のサラリーマン・バックパッカーEさんと出会う。若い頃から世界中を旅していたせいで時たまこうやって出てきて息抜きしないとやりきれないのだと話していた。そこからはEさんとずっと行動を共にして、チェンセーン、ゴールデン・トライアングル、メーサイの町を回った。チェンセーンの博物館は全然期待外れだったものの、彼に連れられて行った形となったゴールデン・トライアングルにあった麻薬の展示はそこそこ面白かった。ほとんど拍子抜けするくらいに、とんとん拍子で一日の行動が終わった。Eさんのこれまでのアフリカや南米に行った話など聞くのも楽しかった。最後にメーサイの屋台でビール二本で二人ともすっかりいい気分になったのでした。

フェイサイの朝の散歩。寺院の階段に散っていた花。
 

川の向こうはミャンマー。

5月24日(金) 

 夜明けと共に目が覚めた。まだ闇夜の中から澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてきた。八時には用意を済ませてミャンマーとの国境へ向かう。この町からミャンマーのタチレクという町に一日入国することができるのだ。しかし国境の橋では人の行き来がゼロ。タイ側のボーダー・オフィスで「何時に開くのか」と訊いてみると、二日前にミャンマー側で閉じたっきりでいつ開くともわからないとのこと。何やら二日前ほどに銃撃戦もあったらしい。
 そんなわけで踏んでみたかったミャンマーの土はすぐ目と鼻の先なのに結局触れることもできないのだった。国境には小さな川が流れていて、ほとんど国境の意味をなしていないようなものだからジャブジャブ渡ることもできそうだった。(渡ったら国際問題になって外務省の役人の頭を悩ませる結果になる可能性が高かったから渡らなかったけれどね。)川の向こう(ミャンマー)とこちら(タイ)で川を挟んで話をしている男女などもいて、まるでベルリンとか朝鮮みたいだった。
 あきらめて宿に戻ると、Eさんがわざわざいらしていて(Eさんは高級ホテル、僕は安宿に泊まっていたのだ)「国境も開く気配がないからメーサロンに一緒に行かないか」という提案をもってきて、一も二もなくうなずいてみせる。チェンライ行きのバスに乗って、Basangというところで途中下車し、そこからトゥクトゥクで山道を一時間ほど登れば、そこがメーサロンだ。
 60年代には国民党軍が中国を追われてここに住み着き、ケシ栽培などが盛んに行われたそうだ。メーサロンの村には今でも中華系が多いのか、漢字表記のものが多かった。ケシの畑はすべて茶畑に変えられているようで、茶店も多かった。この町自体は茶畑を眺めているくらいしかすることもないような何の変哲もないところだった。ただ山から今下りてきましたといった出で立ちのアカ族ら少数民族の人たちが大きなカゴを背負って行ったり来たりしているのを目の当たりにすることができる。
 Eさんが首長族の村に行かないかと誘ってくれて、ちょっと高かったのだけど「えいままよ」というノリで、バイタクに乗って茶畑の間のアップダウンを走って村へ向かった。しかし残念ながら本当の首長族の村ではなくて、行った先にあったのは観光用の少数民族村だった。首長族や他の部族がお土産などを売り、それを観光客がパチパチと写真で撮るというようなところだった。割り切って写真でも撮っていればいいのだろうけれど、そういうのって動物園みたいで何か気がひけてしまってたいしてシャッターを押すことができなかった。なんでも首長族の人たちはミャンマーのロイコーという町からここに来て住んでいるとのことだった。Eさんは「きっと地元じゃ食うのも大変だからここにいればそれなりに生活が保障されて彼らにとっては楽なはずだ」と言っていたが、気がひけることに変わりはない。
 自分が逆の立場になって、例えば日本人が希少民族となって観光客が連日わんさか押し寄せてきてパチパチとフラッシュを焚きはじめたら僕だったらちょっとしたストレスに陥りそうだなと思う。
 なんと10kgもの重さがあるという首輪をつけた首長族の娘は「チェンマイとかにも行ってみたい」などと少し哀しげに話していたが、実際に行ったとしたら奇異の目で見られてカメラを向けられるのかもしれないなと思った。そういうわけでちょっと考えさせられて、この観光村に来た価値もあったなと思えた。
 首長族の村に立ち寄ったためにメーサロンの村に戻ってくるともう15:30だった。帰りのトゥクトゥクは全て出払ってしまったようでどこにもいなかった。しばらく茶屋などに寄って様子を伺っていたりしたのだけど、トゥクトゥクが山を登ってきそうな気配もない。Eさんはれっきとした日本のサラリーマンで翌日の飛行機で帰国しなければならないということだったからちょっと困惑気味。結局、ヒッチハイクにトライしてBasangまで乗せてもらうことに成功。まさか今回の旅でもヒッチハイクをするなんて思いもしなかった。

 Basangで降りて西日を浴びてバスを待っているとき、こんなことを唐突に思った。
「人はあきらめたとき、歳をとるのだ」と。「Never Give Up」僕はまだなんだってなすことができるはずだって。それはヒッチハイクで状況をいとも簡単に打開できたからだったのかもしれないし、強い西日を浴びたせいで学生時代の気分が蘇ったからかもしれなかった。
 Basangからチェンライ行きのバスに乗ってみれば、行きと同じ女性車掌。行きに飴玉をあげたこともあって、「あら楽しんできた?」ってな感じの笑顔を向けてくれた。勿論笑顔を返すわけだ。
 チェンライは日本人オーナーのゲストハウスに泊まる。五十歳くらいの脱サラ風のおじさんが切り盛りしている。Eさんは一番高い部屋、僕は一番安い部屋に泊まる。一緒にチェックインしてそういう要望を言う客も珍しいだろうなとちょっと苦笑い。夜はEさんと屋台で麺をすすって、ビールを飲む。目の前の市場で果物の王様ドリアンを買って初めて食べてみる。カスタードクリームとバナナを混ぜたような甘さ。食感はもちゃもちゃとして歯に絡んでくる感じ。感覚としては果物というより、生クリームたっぷりのケーキを食べているのに近いなと思った。

コマをまわす少数民族の女の子。
 

5月25日(土) 

 のんびりと起きて、歩いて少数民族博物館へ。英語ではhilltribe museum、直訳すると丘陵民族博物館ということになるのかな。雲ひとつない良い天気すぎて、通りを歩く僕には燦燦と太陽光線が降り注いでくる。日焼け止めクリームを途中で失くしてしまった僕に紫外線から身を隠す術はない。
 少数民族博物館は、タイ北部に住む少数民族の使用している道具や衣服といった展示物のほかに、大麻栽培や少数民族の抱えている問題についてNATUREのような科学雑誌の記事などを並べて説明してあって非常に興味深かった。ただ見るだけではなく、考えることのできる展示内容だった。特に首長族を見た昨日の今日だったこともあって、非常に理解が進むような気がした。
 博物館内で再び会えたEさんと、博物館の1階のカフェで珈琲を飲んだ。チケットの半券に珈琲券がついているのだ。こういうのってありそうでなかなかない。もっと色んなところでやったらいいと思った。・・・とはいえ珈琲は当たり前のようにインスタントだったが。
 空港に向かうというEさんと別れて、お寺を炎天下二つ見てゲストハウスに戻る。直射日光をかなり受けたのと、ここ数日の間隙の少ないスケジュールのせいで身体がさすがに重い。肌を焼くという行為も考えものだなと思った。肌に照りつけた紫外線から疲労物質が形成されて、それがどこかの体内組織を破壊するのだろう、きっと。なくなれば補え、っていうことで、夕食はバスターミナル横の広場で、海老天などを食べたのでした。はふう。

 
 


5月26日(日) 

 前夜なぜかすんなり眠れなくて、朝起きるとくっきり目の下に隈ができていた。パッキングしてチェックアウトしてバスステーションへ。宿のおじさんはにっこりともしないで訳のわからないことを呟いていた。異国暮らしが長くなると人間も変わっていくものなのかなぁ。
 チェンマイまでは三時間の行程。うたた寝していれば、あっという間。三年前に泊まった宿の印象がとてもよかったから本当はそこに泊まりたかったのだけど、当たり前だけど宿の名前も場所も全然思い出せない。仕方なくガイドブックで日本人に人気があるというゲストハウスに向かう。シングルルームが暗そうだったので、この旅始めてのドミトリーに泊まることにする。それなのに特に誰との交流もなかった。
 市内の有名な寺院は前回見ていたから、町外れにある山の上にあるドイ・ステープ寺院に行ってみた。後日知ることになるが、この日はブッダの生誕日だったらしく、ものすごい数の参拝客がいた。どこからこんなに人が集まったかと思えるほどの人の数で、事情を知らなかった僕はただ唖然とするしかなかった。皆、白い蓮の花を買ってお供えなどしていた。仏教徒でもなんでもない僕は何の感慨も湧かなくて、そのまま踵を返そうとしたところで突然の土砂降り。仕方なく雨宿りしながら雨に濡れる寺のたたずまいなどぼんやり眺めていた。
 夕食はナイトバザールのやっている通りに出た。どうせ安ドミ(60バーツ)なんだから食事はお金を使おうと思って、結局ステーキを食べた。しかしステーキを食べてもあんまり贅沢している気になれない。これはこれで普通のような気がしてしまうから不思議。

 

5月27日(月) 

 汚いドミだったせいでチェンマイに嫌気がさしてきて、早朝からさっさと移動を開始。エアコンバスでスコータイへ移動。前夜、慣れないものを食べたせいか、お腹が微妙に痛くなったが寝たふりをしてどうにか我慢。
 バスの後ろの席に座っていた日本人姉妹(全然似てない)と一緒にゲストハウス探し。去年できたばかりというキレイなゲストハウスを紹介された。チェンマイのドミとはまさに天国と地獄だ。
 洗濯を済ませたあと、早速スコータイの遺跡へ向かうことにする。乗り合いバスの運転手はOld Cityに行くよなどという面白い表現の仕方をしていた。遺跡であってもつい最近まで人が生活していたような気がして悪くないなと思った。
 スコータイの遺跡はよく整備が行き届いていて、公園のようなところだった。遺跡自体にあまりいい評価を聞いていなかったので期待していなかったのだが、仏像に美しいものも多く、以外に見ごたえがあった。アンコール・ワットのように物乞いや物売りがくっついてきたりしないので落ち着いてじっくりと見れるのもいいと思った。
 遺跡はレンタル自転車で回ったのだが、途中から自転車のりの方が気持ちよくなってしまって、遺跡そっちのけで、時折赤茶けた遺跡の現れる田園の中をサイクリングしていた。すれ違った外人の中年夫婦が往年のサイクリング関係の口笛を吹いているのを聴くにつけ、やっぱり皆気持ちいいんだろうなと思う。そうやってすれ違う人たちと笑顔で挨拶。牛使いやサッカーに興じる若者たちを眺めながらペダル踏む心地よさ。最高。
 夜は姉妹と屋台へ。スキヤキならぬsukiyakeと書かれたメニューを見てこれは頼むしかないなと思って注文。ビール小ビン2つ飲んですっかりいい気持ち。いい旅の終わり方かもしれない。

スコータイの遺跡にやってきた旅人。
なぜか耳の長い牛たち
 


5月28日(火) 

 連夜雨が降っていたのだが、この日は朝になってもまだ雨。お腹の調子が相変わらずよくなくて、この旅始めての正露丸に手を出す。ゲストハウスでミネラルウォーターを買って三錠ごくりと飲み込む。良薬は口に苦すぎて、舌は錆び付いた鉄片のようになってしまった。
 程なくして「食事行こうよ」と姉妹が誘いに来る。お腹が痛いのは僕だけで姉妹はとっても元気。「やっぱりスキヤケがよくなかったんじゃない?」とは姉の弁。雨上がりの水たまりだらけの道を歩いて近くのゲストハウスのレストランへ。川沿いの道は全面水たまりになっていたらから縁石の上を歩いていく。まるで岩井俊二の「Picnic」みたいだ。僕は実はあの映画のエンディングを見ていないから最後に彼らが何を見たのかは知らないが、僕らは朝食を得た。姉妹「アイスコーヒー」、僕「ホットコーヒー」。姉妹、僕のお腹のことに思い巡らし納得顔。ここのレストランにはすごい太った犬がいて、僕らの足元に怠惰、放縦に寝そべっている。妹「これは駄目犬だね」、僕「生まれ変わっても駄目犬にしかなれない駄目犬だね」、妹「くすくす」・・・そんな感じの楽しい朝食。この二人ともう少し旅行できたら楽しいだろうなぁとそんなこと考えた。
 のんびりレストランで過ごした後、再び水たまりをよけて縁石の上を歩いていると、あの駄目犬も後ろからのろのろとついてくる。僕「この犬も朝食のセットの一部なのかな」、妹「どうせだったら違う犬がよかったなぁ」。ごもっとも。駄目犬は何も考えていないような能天気そうな顔で僕らの後を不器用に歩いていた。
 ゲストハウスに戻り、パッキングして、姉妹にグッドバイ。本が欲しいと言うので、まだ読んでいなかった漱石の「彼岸過迄」をあげた。多分、読み切ることはできないような気もしたが、まぁいいじゃないか。
 スコータイからバンコクまでは七時間くらい。ずーっとMDを聴きまくっていた。一番気分にフィットしたのはフリッパーズ・ギターだった。広い空と黄緑色の美しい田園、空映す休閑田(池)など眺めながらの帰り道。あー、また旅に出ようと思った。次はアフリカか南米がいいなと思った。空が広くて、雲が大きくて、大地がどこまでも果てしなく続いているようなところ。土の匂いや草の匂いが風に運ばれてくるようなところ。

 

5月29日(水) 

「離陸」

君が不幸になることを願ったりはしない
だからといって幸福になることに手を貸すことは
もうできないのだと思っている
飛行機は加速をつけて滑走路をよぎり
重い機体を宙に浮かしていく
空気の抵抗と地球の重力に逆らって
意志の力は
この鉄の塊を空の高みに向かわせる
眼下に海が広がりだし
タンカーが白い水しぶきをあげて緩やかに波の軌跡を描いている
今もう僕には海と空の境さえわからない
自分の気持ちにも境などなく
ただ移ろっていくしかないのだろう
さようなら
そして
ありがとう

機内より夜明け
大気圏内突入・・・じゃなくて、機内からの眺め。
 


薄暮の庭先

いつも知らんぷりしている猫

*おまけ

「ただいまーっ」
「・・・」