16.アルマティ

カザフスタン  2001.8.18〜8.22

 中国の伊寧(イーニン)からカザフスタンのアルマティへ寝台バスに乗って移動する。国境バスだけあって値段が30$もする。中に乗り込むと漢民族がいない、既にロシア語の世界だ。
 昨夜食べた火鍋のせいでほどなくしてお腹が下りだす。勿論バス内にトイレもないので脂汗にじませて我慢する。中国ボーダー手前の検査でバスが停まった瞬間にバスから駆け下りてトイレへ。トイレといっても藪の中にしきりがあるだけなのだが。間違えて女子便所に入ってしまって、後から来たでっぷり太ったおばさんに叱られるが背に腹は変えられない。その後もお腹の調子は一向に良くならず、中国ボーダーでも真っ先にトイレに行った。さらにそこから少し離れたところにあるカザフ・ボーダーでもまずトイレに行こうと思い、迷彩服に銃を持った若い警備兵にロシア語で聞くと、「トイレは税関の向こう側にあるのだ」と気の毒そうな顔をする。それから役人に交渉してくれて、僕だけ優先的に税関を通してもらう。カザフ・ボーダーは腐敗しているという話も聞いていただけに、こうした親切には正直言って驚いた。警備兵の若者は日本から来たということを知ると、大きく手を広げて「Welcome to Kazakstan!!」と歓迎の意まで示してくれた。それで僕もカザフスタンにすっかり友好的な気分になってしまった。
 お腹を下したおかげで近い距離にある2つの国のボーダーのトイレに入ったわけだが、それぞれお国柄を反映していた。中国は仕切りなしの溝トイレ(横の人とニイハオと挨拶できるので「ニイハオ・トイレ」と弟は呼んでいた。)であり、一方カザフスタンは個室で洋式ではあるのだが便座のないトイレだった。足腰を鍛えることができそうな中途半端な姿勢で事に当たらなければならなかった。ロシア圏のトイレに便座がないことは椎名誠の旅行記などで昔読んだことがあったが、その伝統?は未だに残っていたわけだ。ちなみにカザフスタンではその後も便座のあるトイレはほとんど見ることがなかった。
 バスの中で慌てて飲んだ漢方薬が効きだしたのか、カザフボーダーを最後にお腹の痛みは収束した。火鍋の威力を身をもって体験したバスの移動だった。僕のバス旅遍歴ではこの経験はワースト2位にランキングされた。(1位は天山山脈越えの雨漏りバス、3位はメキシコのティファナ〜ラパス間の炎熱バス)。今後このランキングに変動がないことをただひたすら祈る。
 閑話休題。カザフスタンに入ると地続きの中国と同じ気候、土地であるはずなのにガラリとその雰囲気が変わってしまう。まず煩わしい程に氾濫していた漢字の広告板等が全て一掃される。道路標識、地名の標識なども必要最小限のシンプルなものとなる。そして建物も地味なものから、白壁に水色の窓枠をつけたようなPOPなイメージのものに変わる。とても品がよくて感心してしまう。カザフ人は国旗の色である水色をこよなく愛する民族のようで、皆取り決めたかのように、水色と白を主体として建物や塀の色を塗っている。家々の庭には中国ではついぞ見かけることのなかったバラなどの色とりどりの花々が彩を成していた。
 車も水色やクリーム色のものが走っている。決して高級なものを使っているわけではなく、むしろおんぼろに近いものなのだが生活を楽しんでいるという印象を強く受けた。
 総じて、カザフスタンはアジアのヨーロッパとも言える程にセンスが良いと思った。農村は明るく車窓の風景も見飽きることがなかった。弟の「こんなところに住んでみたいね」という言葉にも素直に頷くことができた。
 アルマティに近づくと、左側の平原の向こうに白く雪の輝く山々なども見え、景色が素晴らしかった。山の手前にはミレーやクールベの絵のような農村風景が広がっていた。

 アルマティに到着後、一挙に辺りが暗くなる。この旅では弟が中国語担当、僕がロシア語担当ということで一応付け焼刃程度には日本でCDなど買って基本的な会話のフレーズを覚えたりしたのだが、いきなり放り出された暗いバスターミナルでトラムの乗り場等を聞き出して宿に直行できるレベルになく、当然そこでもたついてしまった。警官には良い噂を聞いていなかったので、ちょっと声をかけられそうになるだけでびくついてしまう。
 どうにかトラム乗り場を発見して、行き先もよくわからずにやってきたトラムに乗り込んだ。そこで偶然に日本人バックパッカーのH君と出会った。更に偶然にも、宿泊を予定していた宿に彼が泊まっていたため、宿まで一緒に行くことにした。宿はトラム停留所から近いもののどこにもホテルの看板も出ていなかったため、昼でも探すのが大変だったように思えた。医学学校の寮をホテルとしても利用しているもので、中のおばさんたちは白衣など着ていて不思議な雰囲気がある。
 H君は大学3年生で北京での1年間の中国留学を終え、今回は中央アジア3国を旅したそうだ。翌日には中国を経由して帰国するとのことだった。生まれも育ちも良さそうでバックパッカーなのに彼の仕草や話し振りに気品を感じた。彼は早くから国外(ロシア、極東、ケニアなど)を旅行し、視野の広さ、語学への探究心が強く、とても良い刺激になった。中国の抱える問題点や日本の多額の金銭的援助などについて話し合った。随分と刺激的な一夜だった。

 8月19日。朝早く、H君が慌しくたって行く。僕らはゆっくり起きて、バザールで朝食を済ませて、まず街を知ろうということで適当にトラムに乗ってみる。4番トラムに乗ると、前夜到着したバスターミナル方面に進んでいったので、バスターミナル横のサイラン貯水池に行ってみることにする。
 貯水池は恐らくこの街の水がめであり、同時に市民の憩いの場所でもあった。日曜のお昼をのんびり過ごす水着姿の人々がいた。池の上にはいくうtかのシンプルな足漕ぎボートが浮かんでいた。子供たちが派手なクロールを繰り返し飛沫をあげて水上を行ったりきたりするのをぼんやり眺めていた。のんびりとしていて、なかなか良い気分だった。
 この街にはロシア系の人種も多く、モデルのような綺麗な女性たちが行き交うのを見て、少々どぎまぎする。僕らの座っているそばにも、20歳くらいの綺麗な子が小さな子供たちを連れて水辺に遊びに来ていた。
 その後、トラムに乗って中央博物館へ向かった。疲れのせいか、脳の回路のスイッチがかなり緩んでいるようで、チケット切りのお姉さんにチケットの代わりに100テンゲ紙幣を手渡そうとして、失笑をかう。博物館は恐竜時代から現代までを体系的に展示してあって非常にわかりやすい。ただ全てロシア語で表記されているので解説を読むことができないのが難ではあった。動物の剥製コーナーには架空の動物のような不思議なものもいて、二人して笑うこと頻りだった。
 博物館を出た後、緑溢れるアルマティの街を散歩してチャイを飲んで宿に戻る。札幌に似ている街だが、札幌以上に歩道のスペースが広く、街路樹がたくさん植えられていて、町全体が公園のような錯覚を覚える。街路樹はソ連時代に植えられてから特に手入れされている様子もなく、大木で枝ぶりがいい。落枝の心配などはこの街ではしないようだ。街のどこにいても木々のざわめきが聞こえ、緑陰に休むことができる。緑が多いと心に余裕が生まれとても良い。

アルマティの街中。緑が多い。

 8月20日。日中は旅行代理店を回り、ビザ等について聞きまわる。代理店といっても看板を出していないところがほとんどで、住所がわかって店の前にいても入って尋ねるまで目当ての店かどうかがわからないので大変であった。
 夕刻、市街を一望することのできるキョクテベ山に夕陽を見に向かう。弟は疲労のために宿に戻りたそうにしていたが、無理を言って付き合ってもらう。
 夕暮れが加速度的に進んでいくので僕らの気も少しずつあせっていく。僕らが山麓のロープウェー駅まで来たときには既に西の空が桃色に染まり、東の白い山々は照らし出されていた。人の体重で傾いてしまう程の小さなロープウェーが少しずつ高みに上っていくと、街の向こうに夕陽に染まる地平線が見えてきた。果てしない平原だ。この星は緩やかな球体なのだ。
 キョクテベ山頂駅に着き、街を望めば、もう陽は落ちたところ。西の際は桃色に染まって、一日の仄かな余韻を残していた。やがて街に灯がつく。人々の暮らしがそこにある。
 僕はそんな光景を静かに眺めていたかったし、日本人なら皆そんなふうに感じると思うけれど、ここはカザフスタンである。山頂駅の周りにはカフェがいくつかあって、音楽が大音量で鳴り、歌手が渋い女声で夜空に歌い、人々はダンスに興じ、笑顔を絶やさない。確かに日本人の好きな寂寥感を愛するという概念はここにはないのだけど、僕はこれはこれでいいものだと思った。明るく陽気に音楽を愛する心、それが幸せの形だと言うのならば。
 だから展望台にいたカザフ男性に「Do you like it?」って聞かれたとき、笑顔で「ハラショー」(とても好き)と答えることができたのだと思う。
 沈んだばかりの空は地平線から橙、黄色、藍色のグラデーションの色合いを成していて、そのちょうど中間にこの上なく細い月が浮かんでいた。それが、星のひとつで太陽の光を帯びて光っているのだと言われても、俄かには信じがたいぐらい鮮麗で美しい月だった。もしこんな陽気な音楽が鳴り響いていなければ、思わず月の雫のような涙が一筋頬を伝ったかもしれない。
 「今夜は日本でもこんな繊細な月を眺めることができるのだろうか?」と顧みずにはいられなかった。日本の月。そしてカザフスタンの月。
 カザフスタンのアルマティという街を一体どのくらいの日本人が知っていることだろう。僕だって旅に出る前に始めて認識したくらいだ。1年前に僕がこの街にくることなどわかるはずもなかった。生きるということの、運命というものの不思議な糸がそこにあるのだ。僕は何かの引力に引かれてやってきて、心の中で線香花火のような火花が散っているのを驚きをもって見つめている。

 8月21日。朝目覚めたときにはキルギスのビシュケクに向かうつもりだったが、疲れが溜まっていることもあって、休養日ということで弟と一致する。建物の3階にある自室のベランダで風に泳ぐ洗濯物に囲まれながら、椅子に座ってMDを聴いたり、読書に興じたり。庭先には木々が密に植わっているので、緑の中に囲まれていて心地良い。時々シジュウカラの類の小鳥が枝を渡って遊びにやってくる。


17.ビシュケク

キルギス  2001.8.22〜8.26

 カザフスタンからキルギスへ。カザフスタンは世界でも十の指に入る面積の大きな国なのだが、主要都市アルマティがその広大な領土の端っこにあるため、キルギスの首都ビシュケクまではバスで5時間ほどの距離しかない。のどかな農地帯をミニバスはひた走って行く。途中小さな川の迸る国境でチェックを受けて、晴れて今回の旅3カ国目に入国した。
 事前の情報だと中央アジアの官憲は腐敗しているということだったから、ビシュケクのバスターミナルでも警官の姿がないか、注意深く行動する。後で聞いたところによると、昔はこのバスターミナルで外人旅行者がいると警官が追いかけてきて日常的にものを取られたそうである。警官を信用できないところというのは怖い。
 ビシュケクではいくつか目をつけていた条件のいい安ホテルがあったのだけど、うまく探すことができなくて結局バックパッカーが一番集まると思われるアクサイホテルに宿をとる。半分売春宿として使われているようで夕刻ともなると20代の女性が道端で声をかけはじめる、というそんなところなのだ。
 このアクサイホテルでちょうど1ヶ月前に北京で出会ったエルビス君とN嬢と再会する。彼らは長く北京に滞在した後、僕らを追い抜いてここまで来たらしい。それにしても北京とビシュケクという気の遠くなるような距離を1ヶ月という時を経て、再開できたことに不思議な感慨をもよおした。
 旅を始めて1ヶ月がたち、白いシャツが黄土のせいか薄汚れていくのに伴って、物も壊れ始めた。まず白皮のサンダル。イタリア製か何かわからないけれど、それなりに良いものと思われる一品なのだけど、足の腱を固定する部分がとれた。まず右足部分がアルマティでとれバザールで修理してもらったばかりだったのだけど、ここにきて左足部分もぷつり。
 さらにONKYOのMDプレーヤー。院生の時分に札幌で購入したものだったのだが、そろそろ動かなくなってきた。曲を読み取る際の移動具に当る部分が埃かゴミのせいでやられてしまったようだ。
 物が壊れるということは当たり前のことでありながら不思議なことだ。物たちがこうやって消耗を繰り返す間に一体この僕自身はどう変わっていくのだろう。どのように変わっていくのだろう。

 8月23日。街がアジアからヨーロッパに変わったのに伴って、食品も大きく様変わりした。パンやお菓子の類が店先に並ぶようになった。中国の菓子は、油ぽかったりして口に合わないものばかりだったが、ここの菓子はたちは日本のものと肩を並べられそうなものばかりだ。(と言ってもやはり日本の技術には敵わないのだけど。)アイスクリームがあちこちの出店で売られていて、これが6ソム(日本円で15円くらい)。道行くとき誰かが食べていると、これがかなり目の毒になって、思わず買ってしまうからこんな街にいると自然太ってしまいそうだ。
 インターネットをした帰り、メロンにウォッカ、ジュース、ピーナッツの袋を抱えた僕らはまたしてもアイスクリーム(マロージェナ)のピーチ味とチェリー味を買って、幸せな気分でホテルに戻るのだ。アイスクリームのコーンを片手に道を歩いているとなんであんなに幸せになれるのか少し不思議な気もする。
 この日は事務仕事に追われた。隣国ウズベキスタンのビザをここで取得することにしていたのだが、ビザの発行にはインビテーション(招待状)が必要なのだが、それをウズベキスタンの旅行代理店から貰ってくる必要があったのだ。まず地元の旅行代理店キルギス・コンセプトにFAX使用の打診。それから電話局でウズベキスタンの旅行代理店ヤスミナ・ツーリストにインビテーションの打診。再びキルギスコンセプトでヤスミナ宛にパスポートコピーをFAXしてもらう。
 その後、オヴィールで外人登録をしてもらおうとするも、「先に銀行で代金を支払って下さい」とのことで仕方なく銀行まで行ってキリル文字に悩みながら代金を払って、再びオヴィールへいって小さな登録判をパスポートに押してもらった。
 事務仕事はなかなか思うように進まなかったのだけど、地元の人や他の外人(ドイツ人、パキスタン人)に親切に助けてもらった。キルギスの人はこちらがちょっと恐縮してしまうほど、親切な人が多い。人の温かさは街の温かさだと思う次第。

 8月24日。生まれて始めてサーカスというものを見に行った。泊まっている安宿の前がサーカス場になっていたから前日チケットをとっておいたのだ。
 女性のダンスあり、ピエロあり、虎や蛇使い、体操に、帽子回し、猿使いなどがあった。見所はなんといっても鉄棒。元オリンピック選手といった感じの20〜30歳の筋骨逞しい若者8人くらいが連結された鉄棒をぐるぐると回転したり、鉄棒から鉄棒へと飛び移ったりするのだ。彼らの身体がテンポよく敏捷に次々と回転していくのを半分口を開けながら眺めていた。
 こうした曲芸を見ていると、人生における仕事の意味とか難しさについても考えてしまう。こうしたサーカスのように、肉体的な技術を用いて稼いでいる人たちはすごい。僕は裸一貫では到底こんな真似はできない。うまく生きるということはどういうことか。僕は曲芸師やピエロたちの裏の生活の姿にも思いを巡らさないわけにはいかなかった。

 8月25日。珍しく一人で街を歩く。二人でいた時には止まっていた外界への微細な感応力が僕を支配する。太陽は高く、日差しは否応なく照りつけているために、街は一種気だるい空気が流れている。僕の神経はますます鋭くなる。知らない異国の街の空気の襞が僕の身体を異分子のように区別する。
 街路脇のバラ園で上半身裸で仕事に励む少年たち。小さな汗の粒が身体の線に光って見える。大きな犂をかついだ一人の少年が突然僕に声をかける。神経の張った僕はもしかして背後から襲われるのではないかと背中の筋肉を硬直させて振り返る。そして一瞬の間に、犂の先が僕の身体を捉え、骨を砕くことを想像する。その少年はそんな気も知らずに手首を指して、時間を尋ねてきたのだった。「アジーン(1時だよ)」と僕は小さく答えて、左手首の腕時計を示す。そして再びバラ園の脇を歩き続ける。
 ムクドリが虫をついばみ、小さくて敏捷なツバメが宙をきっている。中年の夫婦がバラの手入れをしている。僕の座ろうとした木陰のベンチに恋人たちが先に腰掛けてしまう。小さなパンの出店の前で立ち止まり、ロシア語で話しかけて、菓子パンを2つ買う。パン売りのおばさんはお釣りを渡すときに、僕にロシア語で何かを尋ねる。理解されない言葉たちは宙に浮き、気泡のように消えていく。
 突如、大通りを走る車がクラクションを高らかに鳴らす。窓から顔を出して、一人の若者が何かを叫ぶ。彼の先にあるものを僕は目を向ける。白いウェディング姿の花嫁が芝生の上にたたずんでいた。他の車もクラクションを高らかに鳴らす。
 僕は太陽を見上げる。異国の街でも太陽は変わることなく僕を探し出して照射し続けている。

 8月25日、夕刻。ウズベキスタンのビザ用のインビテーションの発行地を旅行代理店が記載ミスしたことで、前日渋い顔をしていたエルビス君とN嬢が、「問題解決した。」と言って、笑顔で僕らの部屋にやってきた。昨日がじめじめとした雨天なら、今日はからっとした快晴といった表情の変わり具合だ。といってもビザ申請自体はこれからで、もう1週間ほどそのためにここに滞在しなければならないということだ。
 夜、部屋を訪ねて、ハミ瓜のような長細いメロンを食べ、ウォッカを飲みながら話をする。エルビス君の今回の旅程に仰天する。マレーシア、ミャンマー、インドネシア等を回って、南アフリカへ飛び、アフリカ諸国を3ヶ月、タイに戻って中国に入って中央アジア横断をしているという。それから東欧に抜けてブタペストから南米を目指すという。大体1年ちょっとの旅になるかななんて話していた。N嬢も既にチベット、カイラスを経由して、北京で会った時点で3ヶ月近くといっていたから長い旅になっている。(そうこれを書いている今(2002年元旦)もまだ現在進行形で二人は旅しているのだ!)旅というのは始めてしまうと長く続いていくものなのだ。前夜、弟は「旅の区切りとしては4ヶ月というのが一応の区切りになるのではないか」と言っていた。非日常の驚きが新鮮であり続けている期間ということになるだろうか。驚きが当たり前になってしまって感動できなくなったら矢張り帰国するべきなのだろう。
 その点、エルビス君たちは全く沈没する気配も見せずに動き続けているからたいしたものだ。「沈没したことはあるか?」という問いに、「ビシュケクがそうかもしれない」なんて話していた。
 始めエルビス君と北京で出会ったとき、その旅の猛者的な風貌に多少敬遠するきらいもあったけれど、話してみると取っ付きにくいということはなくて、むしろ身近に感じられたし、親近感を抱いた。
 ただ彼の旅行談はすごい。今回の旅でコンゴのゴーストタウンで夜、六人組に追いかけられてお金をばらまいて逃げたという話は、真実としてはちょっと怖すぎた。弟も含めた3人がしきりに押すアンコールワットには惹かれた。是非行ってみたくなった。


18.チョルポンアタ

キルギス  2001.8.26〜8.28

 ビシュケクからバスで3時間のところにあるイシク・クル湖に向かう。ビシュケクから河川沿いをどんどん上流に向かってバスが進んでいく。川では釣り糸を垂れる人たちがいてちょっとうらやましい。川がどんどん傾斜をもち流れる水が迸りだし、一挙に高みに登って行く。沿道では川魚か湖魚か知らないが、鱒の燻製のようなものを盛んに売っている。しばらくすると湖畔に出る。この湖、琵琶湖の9倍もあるというからなかなか大きなものだ。チチカカ湖に次いで世界第二位の湖面標高1600mをもち、周囲を4000m級の山々で囲まれている。湖中には古代の集落跡が沈んでいるという神秘の湖だ。
 僕ら神秘の湖に期待満々で湖が見えた瞬間「おおっ」という感じ。湖を右に見ながら、チョルポンアタという町まで向かう。
 バスを降りると標高の差が気温の差となって感じられる。半ズボンで歩いていると鳥肌が立ってしまう。エルビス君に教えてもらった宿を探しながら歩いていると、乳母車を押すおばあさんが突如現れて、うちにこいという合図。そのままおばあさんに連れられるまま、とある家に着く。ここで僕らは宿をとることにする。夫婦と10代半ばの娘さんと小さい男の子の4人家族。僕らが泊まる部屋はベッドを無理やり5つも押し込んだような納屋のようなところ。部屋の中心にパン焼き用と思われる小さなカマドがある。宿泊代は100ソム(日本円で250円程度)。
 天池以来の長袖長ズボンといった服装になって、夕刻間際の湖を散歩しにいく。夕陽が真っ赤になって落ちていった。夕陽が沈むとあたりは真っ暗。おとなしく部屋に戻って眠る。

 8月27日。ベッドの頼りないスプリングの軋みの上で起きる。外の離れにあるトイレに向かうと、鶏小屋から大小の鶏たちが歓迎してくれる。好奇心が強いのか、トイレの中まで何者かと覗きにくる。家の人たちは9時過ぎてようやく起き出してくる。ここの主人が一体何で生計を立てているのかわからないほど、いつものんびりしていた。
 ガイド本に載っていた湖に流れる小さな川の一つであるチョンアクスー渓谷に向かう。タクシーと値段交渉すれば50ドルという法外な値段を請求される。そんなに高いわけがない。仕方なくバスを探して乗り込むと50ソムだったが、帰りが23ソムだった(要するにぼられたということ)。日本円だったらたいしたことないのだけど、正規の値段以上を払うのはやはり腹ただしい。
 わけもわからぬまま言われたところで降車するもまわりに川が見当たらない。とにかく散歩気分で歩こうよということで、たったか山のほうに向かって歩く。道路周辺は農家の集落になっていて、干草をかき上げる作業をしていたり、馬にのって原っぱを優雅に駆け回る若者がいたりするのどかなところだった。1時間ほど歩いて、渓谷の入り口らしきゲートに着く。ゲートでは女の子がテントを立てて本など読みながら蜂蜜の瓶を売っていた(500mlで75ソムだから日本円で200円しないくらい)。一体人通りのほとんどない田舎道で誰を相手に商売しているのか理解不能だった。それこそ熊が山から下りてきて買いにきたりするんだろうか・・・、ありえるかも。兎に角のんびりしたところなのだ。この辺りで雲行きが怪しくなってきて、重い灰色雲から雨粒がぽつりぽつりと落ちてくる。地球の歩き方の言う「深山の趣」もわからないままに引き返すことにする。
 ゲートからそのまま戻るのも面白くないので小川沿いを歩く。小川のせせらぎの横で朝の市場で買っておいたピロシキを頬張っていると、天気が回復してくる。雲が飛んでいってその背後から白い雪を頂いた高山が見えた。一応それで満足することにする。
 更に川沿いの田舎道を下っていくと、キルギスの民族帽子を被った赤ら顔の人の良さそうなおじいさんと出会う。握手を求められたから記念撮影などする。おじいさんに一応「ここはチョンアクスーですか?」と聞くと、彼は「この川は○○アクスーで、チョンアクスーは丘を越えた向こうを流れている」などと教えてくれる。参ったね、一体ぼくら何しにきたんだ?


19.カラコル

キルギス  2001.8.28〜8.30

 イシククル湖の西に位置するカラコルの町へバスにて移動。相変わらずのオンボロバス。最後部座席で湖畔を眺めながらのんびり行くはずが、途中半分気の狂った男が乗り込んできて大変だった。訳のわからないロシア語を脅迫的に話してきて、首を切る真似などしてくる。こいつは関わりあわないほうが身のためだと思うけれど、座席に座ってるからどうしようもない。男は僕の耳元で大声で話し、詰まった座席に無理やり座り込もうとする。・・・すぐに降りて行ったから事なきをえた。その対応の仕方でホテル着いて弟と口論になる。弟はああいった男に対しては無視するに限ると言って、始めのうち男の質問に答えていた僕を非難するのだが、実際に懐からナイフか何かがいつ飛び出すような狂った男に対して無視などできるものか。弟は僕を防護壁にして寝ていられたから好き勝手なことを言えるのだ。
 日本にいてなかなか狂人と遭遇する機会はない。札幌では記憶にない、東京では二度三度くらいか。実際に自分が関わり合って、僕は狂人というものに対して普通に接することは不可能だと思った。僕の器ではすべてを愛することなどできない。ひどく聞こえるかもしれないが、「閉じ込めておかなければならない。」と思う。彼らは人間ではない、動物だからだ。なんなら動物的人間だと言い換えてもいい。もし、そんなことを言うのはひどいし、非道徳的だと言う人がいたら、もしあなたの愛する人がその狂人に危害を加えられても平気でいられますか?と問いかけたい。僕はこの問題については偏狭な意見をもたざるえない。僕はブッダにもキリストにもマザー・テレサにもなりえない。

 カラコルの町は人口九万人でありながら、市街地が広く、道路も無駄と思えるほど広く閑散としたところだ。実際のところ、町には中身がなく、非常に刺激の少ないところだ。レイモンド・カバーならこの町に住んで良質の小説を書くことができるだろう。だけど僕には長く住むことはできないと思った。つかみどころのないもどかしさが町に蔓延しているからだ。
 ホテルはインツーリスト(旧国営)系で、元々の設備はいいのに、それを保つのにお金をかけていないために居心地がいいとはいえない。電気は豆電球1つだし、お風呂は水しかでず、シャワーは使用不可。資本主義の中では当たり前のサービスというものがここにはないのだ。

 8月29日。朝、うたた寝のうちに雷鳴と雨音を聞く。遠出はせずにホテルの移動をしようということになる。2つ目のホテルは前のホテルよりも1ドルほど安い(116ソム、約2$強)。陸上競技場の客席の下にあるホテルで、その名もスタディオンという。競技場といっても、網の抜けたサッカーゴールがあるくらいで、特に大きな国際大会が開けるとはとても思えないようなところだ。ホテルの前は、ダートの並木道になっている。この町には、他の中央アジアの町と同様に並木がある。樹種はポプラもしくはカンバ。それがどれも見事な大木で、1つ1つの木に存在感がある。町の閑散さに比べ、並木の存在感は町そのものを飲み込む勢いがあるいっても過言ではない。この大木の下で手を広げ、樹冠を見上げたら心は平安の境地に至るだろう。
 ホテルのそばに動物園がある。夕刻、ものは試しということで行ってみた。平日ということもあるけれど客は僕ら以外に20代後半のカップルだけで、動物一匹一匹の個性が如実に垣間見れるおうな気がした。僕らが目を向けていることにとまどいながら、大きな目を見開くユーモラスなフクロウたち。堂々とした風格を兼ね備えた狼。おどおどした小さなキツネ系の動物。餌を食べることに夢中になっている愛嬌のある目をした熊。それにカモシカの類。不思議なことに猛獣のレーンにドーベルマンがいた。恐らくこの町の誰かが何かの都合からドーベルマンを飼えなくなって引きとってもらったのだろうけど、それは何だか奇異な光景だった。確かに犬も動物なのだが・・・。ドーベルマンが檻にいる一方で、野良犬のような犬が一匹、園内を散歩しているのも何かユーモラスだった。「ここで狂犬病になったら笑えないね」と弟が言う。ヤクが放し飼いになっていて、動物園の空き地の草をきれいに刈るように食べている。大きな芝刈り機みたいなものだ。始め、大きな黒い動物が園内をのそのそ歩いているときは「まさか熊?」と見間違いそうになった。
 動物園の規模は小さく、すぐに回ることができる。遠くに白い雪を頂く山々を望むことができる。切符売りのおばちゃんが編み物に専念できるほど時間のゆっくりと流れる動物園だった。この場所では時間的なものか空間的なものが何か決定的に抜け落ちているような気がした。それで「村上春樹的な」と形容したくなった。


20.ジュティオギュス

キルギス  2001.8.30〜8.31

 カラコルのホテルに荷物を半分デポジットして、ローカルバスとヒッチハイクと民間タクシーで、ジュティオギュス・サナトリウムまで行った。カラコルの町から西の山にはいくつかのサナトリウムがあって温泉が湧いていると聞いていて、温泉好きの弟としては是非行きたかったようだし、僕も依存はなかった。サナトリウムに泊まるつもりだったのだが、宿泊代が7$と言われて高いと渋っていたら、売店のおばちゃんの家を紹介された。始めDormでいいかと聞かれて、Dormitory Roomのことだと思って、それで結構!などと喜んでいたら、実はロシア語のDormは「家」という意味で民泊になったのだ。ここのおばさんはとても親切で、壁に絨毯を2つ飾り付けた広い部屋を僕らに提供してくれた。夕食でのやり取りも、他人ということを感じさせないほど楽しいものだった。ただ期待していたサナトリウムは、僕らの想像していた温泉ではなくて単なる保養施設だった。それにがっかりした上、サナトリウムの女性にシャワー代をちょろまかされて、ちょっと気分も斜めになった。(・・・さらに後日気付くのだが僕はここでキャッシュ300$、弟も相応額のトラベラーズチェックを盗まれた。弟のはあとで再発行できて事なきを得た。犯人は誰だかわかっているのだが、敢えて触れない。お金の用心はしすぎて悪いということはないということを身をもって知ったのでした。)
 お金の面倒を除けばなかなかいいところだった。高山の氷河の融水と思われる水量の多い川が水を迸って、民泊の家の裏側を流れている。丘に登れば、壮観な赤い岩山と高山植物の咲く広い草原が僕らを出迎えてくれる。地元のキルギス人がその草原ですれ違った際に陽気に話しかけてくれ、馬にものせてくれた。全くお金を要求しようとしない彼の悠々とした態度に、僕らのほうが恐縮しまったくらいだ。彼は猟師を生業としているとのことで、彼と一緒にいた人懐っこそうな白い犬を猟犬として、山々を巡り、狼や熊を撃つのだという。このあたりの土地は俺のものなんだと彼は自慢げに語っていた。最後に固い握手をして去っていった。キルギスの男たちは握手で力強く握ってくることが多い。

ここからヒッチ!

ジュティオギュスの赤い岩

 夜、「明暗」を読み終える。漱石の絶筆でかなり中途半端なところで終わっている。常に体面を保とうとする津田の生き方が何だか僕に似ているなぁなどと読後感に酔いしれながら、暗闇の中、離れにあるトイレに向かう。ヘッドランプの弱々しい光を頼りに進んでいこうとするも、狭い道の真ん中に牛が横たわっていて行く手を思い切り遮っている。仕方なく草原で、夜空見上げれば半月がひときわ輝き、星が何万光年の彼方から光を投げ打っている。宇宙の中に自分が存在しているのだと思った。キルギスの高地の冷たい外気の闇の中、、この心臓は音打っているのだ。


21.カラコル その2

キルギス  2001.8.31〜9.2

 。


22.ビシュケク その2

キルギス  2001.9.3〜9.10

 。


23.タシケント

ウズベキスタン  2001.9.10〜9.13

 狭いシートと時折灯されるバス内照明のせいで熟睡できず。仕方なく星空を眺めていた。
 朝の光が世界を包む頃、カザフスタン国境に到着。さらにウズベキスタン国境。国境の前で強制的にバスを降ろされ、モスクをイメージしたと思われる半円の球体が軽やかに光るイミグレの建物に入る。エックス検査で呼び止められて、ザックを開くように命じられるが、ザックの一番上に置いてあった洗面器と洗剤を出そうとすると、係員も仕事への遂行心がくじかれたのか「もう行っていいよ」とのこと。それ以外には特にチェックもなく通過。中央アジアの国境のイミグレによい話は聞いていなかったけれど、ここまでは特に問題もなく進んでこれた。
 先にタシケントに進んでいたE君より貰ったメールで紹介された安ホテル「タラホテル」を目指す。途中、タクシーの運ちゃんと料金の支払いでもめたが、まあとりあえず到着。1人あたり800スムと1ドルもしない料金でありながら、ホットシャワーもついていて快適。いいホテルを教えてもらったものだ。
 睡眠不足で極度に重いまぶたと、前々日のブラナの塔の超急階段で筋肉痛も甚だしい脚にムチをいれて、やらなければならない用事を済ませにいくことにする。
 まずウズベキスタン航空に行って、タシケント発バクー(アゼルバイジャン)行きのフライトの値段、日時をチャックして、一応予約だけいれておく。次に市の北にある旅行会社(ヤスミナツーリスト)にビシュケク(キルギス)から電話とファックスで取得したインビテーションの代金を支払いに行く。
 タシケントも他の中央アジアの都市と同じように緑が豊かだ。旧ソ連圏の街づくりは全て一様で面白みがないとガイド本では指摘されているけれど、なかなかどうして計画的にグリーンベルトを広く取るような緑地計画、都市計画がなされている。それでいて人口は札幌よりも多い200万人なのだから驚きだ。ポプラなどからなる高木のグリーンベルトを歩いていると、なんとも心静かな気分になることができる。中の小道に沿って置かれているベンチには市民が憩いのひとときを過ごしている。お金をかければいいものとばかり遊具コーナーを設置することに忙しい日本の人たちに是非見てもらいたい街づくりだと思う。
 中央アジアの都市に共通することは、交通手段としてトラム(路面電車)が多用されていることだ。なんとものんびりと街中を走っていて、一刻一秒を争うビジネスマンには心許ない乗り物だけど、実はこうしたゆっくりとした時間の流れこそが現代人には必要なんじゃないかなとも思う。札幌のような街でもせめて観光ポイントを繋ぐことができるレベルで、トラムのような公共の乗り物を整備すると面白いんじゃないかと思うのだがどうだろう。心の余裕やゆとりはこんなところからも生まれるのではないかと悟った次第。

 12日はビザ取りに専念。朝、ホテルの延長手続きをしようと1階の廊下を奥に行こうとしたところで、E君とNさんと再会。北京、ビシュケクに続き、3度目の邂逅。ちょうどヒヴァ、サマルカンドからの遠征から戻ってきたところだった。
 彼らもグルジア等のビザを取りに行くとのことだったので、一緒に宿を出て、タクシーを拾って大使館へ。グルジア大使館では4時間程待たされた末にすんなりゲット。なかなか幸先はよい。その後トラムで移動してアゼルバイジャン大使館へ。ブドウ棚から甘い香り漂う庭先でしばらく待たされた後、すんなりゲット。これまでビザ取得には苦労することが多かったから、ちょっと拍子抜けしてしまったくらい。
 それからE君らと別れて、ウズベキスタン航空に出向いて、昨日予約しておいたチケットを取得したばかりのアゼル・ビザを見せて購入。これも問題なし。138$/1人。これでイスタンブールまでの道程も確実に確保できたということになる。そういうときは、にっこり笑って、小さくガッツポーズでもしたらいい。

 13日。夕刻のブハラ行きの夜行バスに乗ることにして、昼間はタシケントの中心街通称ブロードウェイ周辺でネットでもすることにする。というのも、前夜E君からアメリカでのテロ事件について小耳に挟んだからだ。これからアフガニスタンを旅しようというE君にとってはかなり頭の痛い事件になったようだ。そしてこれから中東を目指そうとする僕らもその例外ではなかった。1時間くらい朝日新聞のHPなど読んで事件の概要を掴むことはできた。ちなみに1時間のネット代は僕らの宿代2人分/1日とほぼ同じ。アメリカ及びNATO軍の今後の対応次第で新たな国際紛争が起きる可能性があり、予断を許さない。日本にいる彼女からもメールが送られてきた。10月にイスタンブールで合流して、中東を一ヶ月ほど旅する予定でいたのだが、メールには「チケットを買うのをしばし控える」との旨が書いてあった。僕もこの旅に命をかけるつもりも、命を誰かの手に委ねることも考えていないから、中東行きが難しくなったことは否めないだろう。
 夕刻、ホテルに戻って、まだ乾ききってない洗濯物にドライヤーをあてて無理やり強制乾燥させてザックにしまいこんで、バスターミナルへ向かう。ホテル前のトラム乗り場でなかなかやってこないトラムを待っているうちに徐々に夕闇が迫ってくることが身をもってわかる。
 ウルゲンチ行きのバスに乗り、途中のブハラで下車させてもらうことにする。予定時刻を30分まわって19:30、闇に向かってバスは出発した。ウズベクの民俗音楽がバス内に賑やかに鳴り響いている。バスはこれまでの窮屈極まりないものに比べれば、割合余裕がある。少し深夜特急の趣になってきたかな。沢木耕太郎然となって過ぎ行く街の灯りを車窓より眺める。悪くない。
 途中の休憩タイムで食堂に入ってお茶など飲もうとすると、バスの最前列の補助席あたりに座っていた身なりのいいウズベク青年が同席してもいいかと訊いてくる。これまで現地人と気軽に付き合った結果のトラブルもあって多少躊躇するものの席を勧めてみる。警戒していたのに関わらず、最後には彼にそこで飲食したもののおごってもらってしまった。彼は全く英語を解さないので、片言ロシア語の会話となる。しかし込み入った話が全くできない。英語を解する大学院生と思われる他のインテリ青年の力を借りてわかったのは、この青年は父親の3年間の獄中生活が終わるため、これからサマルカンドまで迎えにいくということだった。僕は「それはよかったですね」と言いたかったのだけど、片言のロシア語では逆に誤解を招いてしまいそうなので遠慮して、表情だけで彼に気持ちを伝えた。バスが発車して、前方に座る彼の後姿をずっとみていた。するとこの純朴そうな青年の後姿がとても美しいもののように感じられた。彼の父への思いというものがそこに表れていたからに違いない。