1.フェリーにて | 2001.7.20〜7.22 |
浮ついた気持ちを落ち着かせようとしながら、天津行きフェリーの出港手続きの放送が盛んにかかるだだっ広いロビーで弟を待ち続けていた。乗客はほとんど階下で手続きしているのか、ロビーには人の姿が少なかった。時折大きな荷物をもった人たちがロビーに入ってきては階下のほうへ流れていった。今回の旅は弟との二人旅なのだけど、僕は川崎、弟は札幌からこの神戸を目指し、出港直前にフェリー乗り場で合流しようということになっていたのだ。
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2.天津上陸 |
2泊3日の船旅の間、時折思い出したように甲板に上がってみた。瀬戸内海から日本海に出て行くこの船旅では常に名も知らぬ島影を遠くに見ることができた。上空に白く燦然と輝く太陽の日差しを浴びながら、そうした小さな島影を見るのはとても気持ちよいことだった。船の前方からは常に湿り気のある潮風が吹いてきて額をうち髪をなぜていった。甲板の上では大きな風車が勢いよく鈍重に回転し続けていた。辺りは絶え間ないエンジン音とそれを飲み込む潮の音に支配されていた。船が進む度に船体の脇から白波が生まれ、新緑色の海面を砕いていた。時折、その海面を跳ねていく飛び魚の群を見ることができた。
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3.北京 |
北京には都合4泊5日滞在した。カザフスタンビザの申請・受け取りに2日、故宮周辺に1日、買い物と食事会に1日費やした。弟は北京が2度目で既に万里の長城には行った事があり、今一乗り気のない聞き方で「どうする?行ってみたい?」などと聞いてくる訳で、僕の方もシルクロードの旅という腹積もりから万里の長城というものが意識からすっぽりと抜けていたから、遠回りの返事をしているうちに結局行くこともなかった。自分が初めてでも旅の連れが既に経験済みの場所に行くというのは余程の意志がそこに働かない限りなかなか実行に移されることがないと思う。同じような経験をこの3ヶ月後にトルコでもするのだった。食事会はもともとフェリーで出会った連中と「じゃぁご飯でも食べようや」という軽いノリから決まったものだった。それがカザフスタン大使館で出会ったNさんという女の子から芋づる式に、旅の猛者といった風格のE君といった他の旅行者も交えた大人数の食事会になった。もともとフェリー仲間の親密さの中でご飯を食べるつもりが、弟が安易に人を誘ったがために旅行者という繋がりだけの食事会になってしまった。始めは弟の先読みをしない余りの安易さにどうなることかと思ったけれど、旅行者というものはあっという間に打ち解けるものでそれなりに楽しいものだった。そしてこの偶然の縁がその後の各自の旅の中での偶然の再会などを呼び起こすのだから不思議なものだ。 中国留学中の人がいて道々で現地の人に尋ねてくれたおかげで、安価で豪勢で美味極まりない食事をとることができた。僕はこの旅の食事の中でこの食事がベストだと間違いなく言えるだろう。北京ダッグを含めた沢山の料理の皿がずらりと並んで、食べても食べても全くなくならないという状況だったのだ。
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4.洛陽 |
洛陽は僕らの旅の行程の中には最初入っていなかったし、持参していたガイドブックにも載っていなかった。しかし北京からシルクロードの起点たる西安までの直通の切符がとれなかったためにどうしても中継点を入れる必要があった。どうせ中継点を入れるのならば、昔の都(旧名:長安)にしようと相成ったわけだ。
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5.西安 |
洛陽からバスに乗って西安に移動。バスの中では何処で見つけてきたのかと思うような香港の駄作映画を3本も放映していた。こういうのを見て面白がっている中国人って一体何だろうと少し見下げたくもなってしまうほどの低レベルな映画だった。仕方なく弟と車窓を眺め、舗装状態の悪い道路のせいで首筋が不安定にゆれる中、睡眠をとった。途中のとある集落でバスが止まってトイレタイム。僕は中で待っていると、座席で身体を窮屈そうに縮めこんでいた弟が待っていたかのように外の空気吸いに出て、ついでにトイレに行った。戻ってきて、「ここのトイレはひどい。みんなトイレの前でしているし、中は蛆がわいてるよ。」なんてご丁寧にも教えてくれる。そんなこと言われて行く気が完全に失せて、「遠慮しておく。」などと返すと、何故か少し腹を立てたようで、「中国の現実をちゃんと見たほうがいいよ。見て見ないふりをするのはよくないよ。」となんて僕を脅す。よほど汚いのだろう、僕は中国での滞在が長くなるにつれてこの国に嫌悪感を抱き始めていた。
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6.武威 |
西安より鉄道に揺られて西へ向かう。硬臥(寝台)であったが、北京-洛陽間で乗ったものと比べると多少汚く感じた。しかしながら既に中国というものに慣れつつある自分にはこの程度なら特に問題もなくなってきた。鈍行列車のため、急行電車待ちなどで所々で停車を余儀なくされる。列車は西安からは渭水沿いの谷間を登っていく。乾いた土地ではあるが谷間には小さな村が点在し、果樹園やトウモロコシ畑が急峻な山の頂まで続いている。村はこじんまりとしていて、建物は土壁や煉瓦で覆われ、屋根には瓦をかぶせている。斜面の土を階層的に削り取って、そこに畑を作ったり、家を建てているのだが、裸の土壁には扉のようなものもあり、夏でも冷涼な土の中を食料庫として利用しているようにも思えた。あるいは住居としても利用するのかもしれない。子供たちは山羊を追い、女性たちが停車中の列車に桃などを篭に携えて売りに来たりしている。なんとものどかな風景だ。 弟は体調を明らかに悪くしていて鼻水が止まらないようだ。僕の向かいの席にいた親切そうなお婆さんから漢方薬をもらって飲んでいたのだが、この薬が身体の悪い部分を積極的に放出させて治療させる類のものだったようで、薬を飲んでからは完全に死んだように一番上のベッドで寝こんでいた。
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7.嘉峪関 |
武威からどうにか鈍行列車のチケットを買って乗ってみたものの、ひどい混雑ぶりで座席もなかなか空きそうにもなかった。仕方なく、漱石の「明暗」など読みつつ外を眺める。窓の外はいつの間にかステップから、石ころだらけの荒涼とした大地に変わっていた。山というものも存在するのだが、草木一つない裸の岩山という趣だった。平地部も必ずしも平坦なわけでなく、凹凸の極めて激しいところもあった。ラクダに荷を背負わせて、こんな干からびた凹凸の小山を越えていった旅人はさぞ難儀なことだったろうと思う。
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8.敦煌 |
相変わらずの曇天。外に出れば、半袖半ズボンでは肌寒いくらい。街を行き交う人たちは当たり前のように長袖長ズボンの装い。
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9.哈密(ハミ) |
敦煌から哈密へ向かう。バスは満員状態。運転手の脇に萩原聖人似の聾唖の若者が座っている。バスの後部には他の聾唖の若者がいるようで、しきりに手話で会話を続けている。その表情の豊かなことに驚く。言葉を口にできることは案外他のコミュニケーション技術を失わせる結果になっているのかもしれない。
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10.烏魯木斉(ウルムチ) |
哈密から硬座で烏魯木斉まで八時間の移動。硬座は予想通り込み合っていて席がない状態。更に中国人の態度に腹を立てたり、少しうんざりした気分になっていたが、若い中国人のグループの親切によって、そうした気分も恥ずかしいくらいに簡単に消えた。席が埋まっていたにも関わらず、席を詰めて空いているスペースに僕らを座らせてくれた。さらに食べ物を勧めてくれたり、話題を振ってくれたりと友達感覚で付き合ってくれた。一人英語の話せる18歳の女子大学生がいて、その子が台湾問題や日本の教科書問題から、日本のアニメまで話題を振ってきてくれて、勿論返答に窮するものもあったけれど、中国語をほとんど解さない僕にとっては楽しいひとときだった。うまく交流でき、心を通わせることができるのは本当にいいものだと実感した。そのためには矢張りお互いに一歩ずつ歩み寄らなければならないのだと思った。
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11.天池(テンチ) |
朝、バス乗り場でKさんと落ち合い、天池行きバスに乗り込む。渓流沿いに高度を稼いでいくと小さな湖に出て、そこでバスを降ろされる。その周辺は完全な観光地といった趣。着飾った中国人たちがわんさかいて、湖畔で脚漕ぎボートにのり、レストランだのお土産屋だのが並ぶ。日本の観光地とたいした違いはない。バスを降り場から宿泊用のユルトをもつというカザフ族の青年の後について湖畔沿いに歩くこと30分強、観光地の騒々しさが嘘だったように、辺りは静寂に包まれている。湖畔の一角に十数棟のユルト(パオ)が並んでいて、そこが僕らの宿泊場所となった。羊や山羊、民族衣装を着た子供たちのいる、のどかな集落だ。湖畔にはただ打ち寄せる波音が聞こえるだけ。自然のつくる音の耳骨になんとよく響くことだろう。湖畔の岩に一人座って静かに湖を眺めていた。後ろの茂みからは「チリリリ、チリリリ」という虫の音が聴こえていた。
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12.吐魯番(トルファン) |
烏魯木斉から吐魯番へ。烏魯木斉のバスターミナルがガイドブックの地図上でマークされているところから移転していて、それを探すのに炎天下の中、ザック担いで途方もない思いをした。結局タクシーに頼って新しいバスターミナルまで行き、そこからバスに乗る。
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13.庫車(クチャ) |
朝から曇天模様で普通ならば少しがっかりするものだけど、炎熱の吐魯番では火の球がうまい具合に雲の裏に隠れていて都合が良かった。「今日は天気がいいね。」などと朝から二人で軽口を叩く。列車までの時間、駅前で猛烈に遅いネットをしたり、屋外ビリヤードに興じる。ビリヤード台が屋外にあるというのも、雨の降らない土地ならではということなのかもしれない。ビリヤードは生まれてから十回程しかやったことのない万年初心者なのだが、二年前にある女の子から受けた手ほどきに従ってやってみたら案外うまい具合に球が転がってくれた。ビリヤード狂だと思っていた弟とも結構互角にやり合えて満足。結果一勝一敗。
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14.天山山脈越え |
伊寧行きのバスに乗るため、早朝宿を出る。チェックイン時にここの従業員を叩き起こしたのだが、またしても彼女を起こす破目になる。さぞ不可思議で迷惑な客だったことだろう。
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15.伊寧(イーニン) |
広々とした大地をひた走り、昼前に伊寧の街に到着。ウイグル人の人口割合が多いせいか、緑の多い美しい街だった。中国にきて始めて花屋さんも見る。漢人も花や緑のある生活を目指せばいいのにね。僕がこれまでみたところ漢人の生活には潤いというものが感じられなかった。そういうのも人種の違いなのだろうか、経済的理由ではないはずなのだから。
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