1.フェリーにて

2001.7.20〜7.22

 浮ついた気持ちを落ち着かせようとしながら、天津行きフェリーの出港手続きの放送が盛んにかかるだだっ広いロビーで弟を待ち続けていた。乗客はほとんど階下で手続きしているのか、ロビーには人の姿が少なかった。時折大きな荷物をもった人たちがロビーに入ってきては階下のほうへ流れていった。今回の旅は弟との二人旅なのだけど、僕は川崎、弟は札幌からこの神戸を目指し、出港直前にフェリー乗り場で合流しようということになっていたのだ。
 前夜はひどく混雑した最終の新幹線で三ノ宮まで出て、貿易関係の大きなビルの下の目立たないところにシュラフカバーを広げ仮眠をとった。夜明けとともに警備の見回りをするおじさんに起こされたから3時間ほども眠れなかった。その後、駅前に場所を移して、しばらく三ノ宮の朝が蝉の大合唱から始まり、バスや車の排気音を伴ってヒートアップしていくのをぼんやりと眺めた後、モノレールに乗ってこのフェリー乗り場までやってきたのだ。
 睡眠不足ながらも期待に輝く眼を弟がやってくるであろう入り口のドアに向けて椅子に座っていると、60歳くらいの人の良さそうなおじさんが話し相手を求めて隣の座席にやってきた。彼は海の日向けに公開される日本の軍艦を見にやってきたということだった。お互いに相手の目的が自分のものと同じと信じて疑わなかった節があり、なかなか話の緒が開かなかったが、どうやら違うのだとわかるとお互いに驚いてみせ話は円滑に進んでいった。
 おじさんがかつて一度行ったときの中国の話などをなんとはなしに聞いているうちに、待ち人が現われた。中国がこれで3度目だという弟は初めからバックパッカーといったなりたちでやってきた。少し汚れたチノパンに僕があげた着古しのTシャツ、そして大きなザック。一方、僕といえば、まっさらな白いTシャツにきれいなジーンズ、ブランドものの白と黒のサンダル、間違えてそのままはめてきたシンプルなコンランショップの腕時計などしてたから、弟が「お金のある旅行者に見えるよ」と揶揄と羨望の入り混じったような表情して言うのだった。「そんな格好じゃ中国人に狙われるよ」なんて飄々と言ってのける一人旅に慣れた弟の姿に、頼もしさを感じたのは確かだ。

 フェリーは2泊3日の旅程で中国の天津という港町につく。2等船室は固い枕と毛布をあてがわれて、十数人と雑魚寝をするようなつくりになっている。船室には中国を起点として世界を回ろうと考えている若者が多く、あちこちで地球の歩き方やら中国語会話の本を広げている。
 旅に出ているときほど、全く見知らぬ他人に躊躇なく話し掛けることができるときはない。乗り込んでしばらくして、トランプを介してあっという間に同じ2等船室のバックパッカー仲間は打ち解けていったのだった。仲良くなったのは、チェーン店でシェフをやっていた快活な29歳のOさんに、就職までの空き時間を利用してアイルランドに短期留学するというM君。それに寡黙ながらも学問の徒になりそうな雰囲気を漂わせた大学生のF君。OさんとMくんはインターネットを通じて知り合い、目的は異なりながらも一緒にシベリア鉄道で東欧に抜けるのだという。素っ頓狂で会話の巧みなOさんと冷静な分析家のようなMくんの組み合わせは傍目から見ても不思議としかいいようがないものだった。弟を含め5人で船内レストランにて夕食をとったのだが、笑いの絶えない会話を引っ張っていったのはOさんと意外なことに我が弟だった。
 弟と一緒に旅をしたのは今回が初めてではない。同じ部屋で机や枕を並べて育ってきたから当然といえば当然なのかもしれないけれど、小さい頃から釣り、ちゃんばら、カードゲーム、キャッチボールなど全ての遊びにおいて僕等は一緒だった。その延長で僕が中学3年から高校2年までの3年間、夏になると、札幌の自宅から支笏湖、洞爺湖、最後の夏は函館まで泊りがけでサイクリング旅行をしたことがあったのだ。そのときの弟は何でも兄の見様見真似をする従順で素直な「弟的な弟」だった。サイクリング旅行ばかりでもなく、弟は常に僕の影を踏みながら歩きつづけてきた。高校も高校の部活も大学は違ったがその専門もサークルもほとんど同じだったのだから。ただ長らく離れて生活していたがために僕が弟にもっていた従順さや繊細さというイメージはその日までほとんど変わることがなかった。
 しかしそのイメージというものがこの会話を通して、崩れていく予感を僕に抱かせた。身振り手振り、そして表情豊かに、他の旅行者に対して自分の旅の体験談を面白おかしく話している筋骨の逞しい若者は、もはや僕の見知った弟の姿とは違っているようだった。環境の相違は同じ卵から全く異なる人間を生み出していたようだった。
 兎に角、中華料理を囲みながらの会食は楽しいものだった。僕は顔を上気させながら彼らの話を聞き、口を挟んでいたに違いない。世界には僕らの知らない奇想天外なものたちが待ち構えているのだと僕も思ったし、皆も思ったに違いない。


2.天津上陸

 2泊3日の船旅の間、時折思い出したように甲板に上がってみた。瀬戸内海から日本海に出て行くこの船旅では常に名も知らぬ島影を遠くに見ることができた。上空に白く燦然と輝く太陽の日差しを浴びながら、そうした小さな島影を見るのはとても気持ちよいことだった。船の前方からは常に湿り気のある潮風が吹いてきて額をうち髪をなぜていった。甲板の上では大きな風車が勢いよく鈍重に回転し続けていた。辺りは絶え間ないエンジン音とそれを飲み込む潮の音に支配されていた。船が進む度に船体の脇から白波が生まれ、新緑色の海面を砕いていた。時折、その海面を跳ねていく飛び魚の群を見ることができた。
 3日目、海の色が忽然と黄土色に変化していた。これが黄河の水の色なのだろうか。海上にはガスがかかって遠望することは全くかなわなかったが、そのガスの中に船が幽霊船のようにぼんやり浮かんでは消えていくのが見えた。そして行き交う船が多くなったことに気付いたとき、もう天津港は目と鼻の先だった。
 天津港は見たこともないような大きな港だった。船が進む水路に沿って大小沢山の船が停泊していて、無数のクレーンが林立していた。僕等は下船の用意を適当に済ませて甲板に出て、そんな光景を眺めたのだった。停泊中の船上には上半身裸の海の男たちが汗まみれになって重機を操っていた。力強さと活力をこの目に感じとることができた。

 船より岸に降り立ち、入国検査をして、建物を出ればもうそこは当たり前だけど日本ではなくて中国だった。フェリー客を天津や北京といった最寄の大都市に運ぶミニバスやタクシーを運転手たちが中国語で叫びながら僕等に向かってくるのだった。安全な小屋から黒い森に放り出された子羊のような気分だった。中国語を全く解さない僕は、旅の中国語会話程度を操ることのできる弟や、偶然フェリー内で出会った弟の中国人の友人の奥さんに任せて、人の流れるまま押されるまま引っ張られるままに北京行きのミニバスに乗り込んだのだった。
 バスの車窓から見える港とその周辺の町の様子は、日本の整備され尽くされた街を見慣れた僕の目には、まるで廃墟かバラックのように映った。建物も道も全く満足に作られたものはそこにはなかった。ただ掘り返されて泥水を湛えた凹凸状の広い土地の傍らに、居心地悪そうに近代的な新しいビルが立っていたりした。
 喘息を引き起こしそうな排気ガスが充満している高速道路に乗って、暮れなずむ光の中、一路北京へミニバスは向かった。隣の座席に座ったOさんと彼の結婚のこととか仕事のこと、将来のことなどについて、淡々と話合った。
 天津港から3時間半にして北京の街に着いた。ネオンの煌めくアジア的な街のように思えた。ミニバスを降りたところで、ホテルを既に予約してあるというOさんとM君と別れ、僕等は弟が前回宿泊したという京華飯店というバックパッカーご用達の宿に向かった。僕等というのは僕、弟、F君、それにフェリー内で知り合ったTさんという女の子。後で知ることになるのだが、F君、Tさんは京都大学の学生だった。僕は数日一緒に過ごした後で彼らの知的探究心の高さなどから鎌をかけてみたら肯定の返事をもらえたわけだ。

 旅を終えて言えることは、長い旅ではそれだけ克服しなければならない難儀なことも多く、それを超えて旅を出来ている人というのは、どの人も物事をきっちり考えることの出来るということだ。先天的にもそうした才覚は持ち合わせているのだろうが、旅で揉まれることによって後天的にも身につく能力のようにも思えた。学生よりも社会人経験者、20前後よりも30前後、そして長旅の経験の多い人ほど物事を総合的に分析し判断する力を有しているように思えた。


3.北京

 北京には都合4泊5日滞在した。カザフスタンビザの申請・受け取りに2日、故宮周辺に1日、買い物と食事会に1日費やした。弟は北京が2度目で既に万里の長城には行った事があり、今一乗り気のない聞き方で「どうする?行ってみたい?」などと聞いてくる訳で、僕の方もシルクロードの旅という腹積もりから万里の長城というものが意識からすっぽりと抜けていたから、遠回りの返事をしているうちに結局行くこともなかった。自分が初めてでも旅の連れが既に経験済みの場所に行くというのは余程の意志がそこに働かない限りなかなか実行に移されることがないと思う。同じような経験をこの3ヶ月後にトルコでもするのだった。

 食事会はもともとフェリーで出会った連中と「じゃぁご飯でも食べようや」という軽いノリから決まったものだった。それがカザフスタン大使館で出会ったNさんという女の子から芋づる式に、旅の猛者といった風格のE君といった他の旅行者も交えた大人数の食事会になった。もともとフェリー仲間の親密さの中でご飯を食べるつもりが、弟が安易に人を誘ったがために旅行者という繋がりだけの食事会になってしまった。始めは弟の先読みをしない余りの安易さにどうなることかと思ったけれど、旅行者というものはあっという間に打ち解けるものでそれなりに楽しいものだった。そしてこの偶然の縁がその後の各自の旅の中での偶然の再会などを呼び起こすのだから不思議なものだ。

 中国留学中の人がいて道々で現地の人に尋ねてくれたおかげで、安価で豪勢で美味極まりない食事をとることができた。僕はこの旅の食事の中でこの食事がベストだと間違いなく言えるだろう。北京ダッグを含めた沢山の料理の皿がずらりと並んで、食べても食べても全くなくならないという状況だったのだ。
 ただその食事会の夜は始めから雨だった。そして胃がはちきれんばかりに食べて料理屋を出れば土砂降りであった。軒からは雨水が絶え間なく落ち、狭くて汚い路は全面水溜りになっていた。暗闇の中では果たして足元に何が溜まり流れているかを確認できなかったが、恐らくひどく汚い水であることは想像に難くなかった。そんな水の中をジャブジャブとサンダルで歩く破目になった。足に傷口があったら喜んで雑菌たちが入ってきて病気になれそうな道だった。食事の絢爛さと帰り道の汚さのあまりのギャップに僕らは苦笑することしばしだった。そして僕が思うにこれはその日その場所だけのことではなくて、まさに中国の縮図であった。
 北京はもともと僕らのシルクロードの旅の構想では、単にカザフスタン・ビザを取得するためだけに立ち寄るという意味合いが強かった。大都市ならではの喧騒や混雑ぶりから僕らの間にはビザが取れ次第、すぐに出ようという不文の取り決めのようなものがあった。だから初日にビザを申請し、その3日後にビザを受け取って、そのままホテルに預けた荷物受け取ってタクシーで駅に向かったわけだ。しかしビザの発給が遅れたせいでこの旅立ちは非常に慌しいものになった。公共交通機関を使わずにタクシーを使ったのもそのせいだったし、実際駅の中でもプラットフォームまで走り遠しだった。昔から時間には余裕をもって最後まで走ったりしないことを信条とする僕にはこうやって走ることが自分の信条に傷をつけるような心地がしたのだが、高校生のときから常に全速力でバス停まで行って通学バスに飛び乗りつづけた弟にとっては、こんなのはさも普通だったようだ。
 「今度はもうちょっと早めに用意して余裕もっていこうな。慌てると碌なことないからさぁ。」という僕に対して、「乗れればいいじゃん。そんな神経質になることないよ。」と弟はそれこそ神経質に返してくるのだった。弟は相手の意見に簡単に賛同することをどうも嫌っている節があって、付け足すか並行させて自分の意見を言えばいいのを、わざわざ対立意見として正論を述べるから性質が悪かった。無論、ここで論を競ってもよかったし、競えば僕のほうが論法に優れるがためにやりこめることもできた。が、旅の始めでは僕は論争をする面倒くささから、対立意見に対して妙な同調と同歩をとってみせた。弟は始めそれを”相手にしてくれない。馬鹿にしている”と見ていた向きがある。
 すなわち兄は無駄なエネルギーを使うのを厭うがために妙に立ち回りや諦観が早いのに対して、弟は肉体を使うことを厭わず、むしろエネルギーの掃け口を探しているとさえ思えた。


4.洛陽

 洛陽は僕らの旅の行程の中には最初入っていなかったし、持参していたガイドブックにも載っていなかった。しかし北京からシルクロードの起点たる西安までの直通の切符がとれなかったためにどうしても中継点を入れる必要があった。どうせ中継点を入れるのならば、昔の都(旧名:長安)にしようと相成ったわけだ。
 北京から洛陽への硬臥(2段式の寝台)は海千山千の弟を驚かせるほど新しくきれいな車両だった。僕もこれまで中国の電車は汚いということを耳にタコができるくらい聞かされていたので多少驚きはしたが、そうは言っても日本のレベルを超えるわけではないから半分当たり前のような気もしていた。僕は3段ベットの一番上に寝たのだけど、一番下のベッドに身なり、顔、スタイルの全てがそろった綺麗な年頃の女の子が横になっていて、その子が度々身体をくねらせて艶かしく寝返りをうつところが僕のところから丸見えになっていて、なんだか心乱れる夜だった。中国の何でも開けっぴろげなところに少々うんざりし始めていたのだけど、たまにはいいことがあるものだなぁと妙な感心の仕方をしてしまった。
 レールの振動を感じるままに朝を迎えた。下の女の子はもう荷物を整理しだしている。車窓からは薄白くかかった朝靄の中に赤茶けた土と緑の調和した田園風景が広がっている。農家の建物は全てこの土地の赤茶けた土を利用した煉瓦で作られているようでそれが風景と見事に合っていた。古来から変わっていないであろう素朴な美しさのある風景を見ていると、これは何処か遠くに置き忘れた町、置き忘れた風景なのだという気がした。
 その美しい風景のまま、洛陽の街に着くことを望んだが、街に近づくにつれ中国らしい雑多な雰囲気になってしまい、駅を出れば車窓から見た朝の風景の面影は消え失せていた。

 駅に出ると小うるさい客引きのおばさんが早速寄って来て、連れて行かれるままに駅横の平屋建ての招待所に宿を求める。蛇口一つの渋い水場が廊下にあり、痰壷が各部屋のドアの前に置いてあるような普通の安宿。宿の前は地面が凸凹になっていて泥溜まりとも言い換えることのできる水溜まりが処々にあり、その先にミニバスが沢山停まっていた。その横には冷皮(リャンピ)のような安い屋台のような麺屋が並んでいる。冷皮は小麦粉を引き伸ばした生地をちぎったものを茹でたもので、そこに胡瓜などの野菜をさっとばら蒔きニンニクの利いた醤油ダレのようなものをかけて食べるものだ。厚いワンタンの簡易的冷やし中華といったらわかるだろうか。そこで簡単なお昼をとる。
 郊外に世界遺産にも登録される竜門石窟寺院というものがあるということを事前に聞いていたので、バスで向かう。郊外には他にカンフーで有名な少林寺があるようでバス停留所では客引きが「ショウリンスー、ショウリンスー」とうざったい位に声をかけてくる。それがしつこいのなんの…。仕舞には僕と弟の間で見知らぬ町に行く度に「ここにはショウリンスーがいないね」などという訳のわからないジョークが流行った。
 兎に角、バスに乗りこんで、恐ろしく遅いスピードに多少じれったさを感じるうちに目指す竜門に到着。川沿いの岩崖に蜂の巣のような穴が無数にくりぬかれていて、そこに大小の岩仏が待っていた。唐の高宗の時代などに作られたとのことだったが、仏教知識を持ち合わせない僕らにはありがたみが湧くものでもなかった。豚に真珠というわけである。僕はそこの地形が、学生時代によく岩登りをした小樽の赤岩の奥リスというところにそっくりだったがために、ヘルメットかぶって甘いパンを食べながら仲間が岩を登るところを見上げていた気だるい午後のことを思い出していた。


5.西安

 洛陽からバスに乗って西安に移動。バスの中では何処で見つけてきたのかと思うような香港の駄作映画を3本も放映していた。こういうのを見て面白がっている中国人って一体何だろうと少し見下げたくもなってしまうほどの低レベルな映画だった。仕方なく弟と車窓を眺め、舗装状態の悪い道路のせいで首筋が不安定にゆれる中、睡眠をとった。途中のとある集落でバスが止まってトイレタイム。僕は中で待っていると、座席で身体を窮屈そうに縮めこんでいた弟が待っていたかのように外の空気吸いに出て、ついでにトイレに行った。戻ってきて、「ここのトイレはひどい。みんなトイレの前でしているし、中は蛆がわいてるよ。」なんてご丁寧にも教えてくれる。そんなこと言われて行く気が完全に失せて、「遠慮しておく。」などと返すと、何故か少し腹を立てたようで、「中国の現実をちゃんと見たほうがいいよ。見て見ないふりをするのはよくないよ。」となんて僕を脅す。よほど汚いのだろう、僕は中国での滞在が長くなるにつれてこの国に嫌悪感を抱き始めていた。
 西安は大きな街ではあったが、洛陽と比べると、埃っぽくなく、緑が多いためか、美しく感じられた。宿は駅のそばの非常に安いところに取った。安いところを選んだだけあって、ベットにマットレスというものがない。弟はタフそうな外見のくせに、実は固いベッドと冷風を苦手としていて、この宿で二晩、扇風機の風を浴びたがために、この後急激な体調不良を起こすことになる。
 宿のまわりにたくさんの食堂が軒を連ねている。洛陽もそうだが西安の食事は味付けがやや薄めで日本人好みに仕上がっていて大変美味しかった。宿代は抑えて夕食は豪勢にとろうという弟との取り決めがあり、毎晩幾皿も並べて中華料理を堪能していたのだが、この地では特に満足できた。

 宿の前には夜になると若いお姉さんたちが戸口に立っているような美容院が数軒並んでいた。中を覗くと、赤や黄色のネオンが怪しげに灯っている。もちろん日本の美容院とは外見だけではなく、営業そのものも違うはずで、恐らく男性向けの何か(売春?)をしているはずだ。話によると、法に触れる営業を行っていて取り締まりがあると美容院を偽るとのことだったが、結局興味はあっても中に入らなかったから、それが何かはわからなかった。夜になるとそうしたネオンや食堂街に集まる人たちでちょっとした活気が出てくる。言ってみれば地方都市の歓楽街の雰囲気だ。
 着いた翌日は土砂降りの雨。傘さしてバス停まで行き、西安の一番の見所である始皇帝兵馬俑を見にいく。切符を買うところで同じ歳くらいの香港人の学生に声をかけられ、結局つかず離れずで一緒に見た。弟は日本の学生証で学生料金で入ろうとして失敗していた。というのも中国の観光地の入場料は物価と比較して異常に高い。ちなみにここの正規入場料は65元、一人一泊分の宿代が30元だと言えばわかってもらえるだろうか。
 兵馬俑には秦始皇帝を護るために、実物大の土で作られて人形がずらりと並んでいた。なかなか壮観なもので、始皇帝の権力の大きさがよくわかるものだった。これに加えて、万里の長城などを作るといった大公共事業を実施したがために、秦自体はわずか10数年で歴史から消えるのである。
 兵馬俑を見学してまだ日が暮れるまで時間があったので、街の西側にあったシルクロードの起点なる場所をバスで訪ねる。シルクロードの起点といっても、単にラクダを連れた隊商の石像が立っているだけの小さな公園があるだけであった。唐の時代には、ここに開遠門という名の城門があり、旅人は門を出て西を目指したそうだ。僕らもようやく旅のスタート地点にたどり着けた記念に石像の上に攀じ登って写真撮る。(本当に攀じ登っても全く問題のなさそうな石像なのだ。)


6.武威

 西安より鉄道に揺られて西へ向かう。硬臥(寝台)であったが、北京-洛陽間で乗ったものと比べると多少汚く感じた。しかしながら既に中国というものに慣れつつある自分にはこの程度なら特に問題もなくなってきた。鈍行列車のため、急行電車待ちなどで所々で停車を余儀なくされる。列車は西安からは渭水沿いの谷間を登っていく。乾いた土地ではあるが谷間には小さな村が点在し、果樹園やトウモロコシ畑が急峻な山の頂まで続いている。村はこじんまりとしていて、建物は土壁や煉瓦で覆われ、屋根には瓦をかぶせている。斜面の土を階層的に削り取って、そこに畑を作ったり、家を建てているのだが、裸の土壁には扉のようなものもあり、夏でも冷涼な土の中を食料庫として利用しているようにも思えた。あるいは住居としても利用するのかもしれない。子供たちは山羊を追い、女性たちが停車中の列車に桃などを篭に携えて売りに来たりしている。なんとものどかな風景だ。

 弟は体調を明らかに悪くしていて鼻水が止まらないようだ。僕の向かいの席にいた親切そうなお婆さんから漢方薬をもらって飲んでいたのだが、この薬が身体の悪い部分を積極的に放出させて治療させる類のものだったようで、薬を飲んでからは完全に死んだように一番上のベッドで寝こんでいた。

 夜の2時過ぎに200万以上の人口を抱える工業都市、蘭州を通過し、硬臥内の乗客も半数が入れ替わった。暗闇の中で目を凝らしていると、蘭州の街に並行して流れる黄河が見えた。川面がまるで重たい石油のようにぬめり光って見えた。眠る街を河は静かに流下している。そんな光景を見ていると、自分の中にも河は流れている、という錯覚に陥った。

 目が覚めると景色が一変していた。車窓からステップの丘陵が広がっているのが見えた。青い草を照らし出すように、朝日が昇ってきた。草原の冷涼な風を浴びながら馬が草を食んでいた。
 9時近くになって武威(ウーエイ)到着。田舎町といった様相で、これまで大都市ばかりだった僕らには心休まる気がする。街中で早速宿を探そうとするのだけれど、なんたることかこの町には外国人料金というものが存在する。外国人が泊まることのできる宿がたった2軒しかなく、双方ともビジネスマンが泊まるような宿で、とても予算に合わないような宿泊料を要求する。仕方がないので観光だけして、さらに先に進めようということになる。
 武威の町は本当に田舎町で特に見所といったものもない。町のはずれに雷台漢墓という昔の将軍をまつった墓があって、それだけ見たが実際のところ見ても見なくてもどうでもいいようなものだった。ただのんびりとした町であるせいか、田舎気質の人が多い。路頭で売っている安い瓜を買って、アイスクリームなど舐めながら、舗装もされていない土道歩いているのもなかなかいいものだった。安くて美味い麺やら肉まんを食べたりするのも案外楽しかった。

 とにかく泊まることのできない武威から隣町くらいまでバスで移動しようと思い、バスステーションまで来れば外国人はバス保険が必要だと言われ、切符を売ってくれない。中国語世界では交渉をほとんど一人でやっていた弟が体調の悪いこともあって、すっかりしょげている。「仕方がないから駅まで行って列車で進もう」と方針決めて弟の疲れた身体を奮い立たせる。「一人だったらどうしていいか全然わからなくなってたよ。」といつもなら何かと僕の意見に反対してみせる弟もここでは素直だった。二人旅ではどちらかがダウンしてももう一人の力でうまく前に進むことができるのだ。


7.嘉峪関

 武威からどうにか鈍行列車のチケットを買って乗ってみたものの、ひどい混雑ぶりで座席もなかなか空きそうにもなかった。仕方なく、漱石の「明暗」など読みつつ外を眺める。窓の外はいつの間にかステップから、石ころだらけの荒涼とした大地に変わっていた。山というものも存在するのだが、草木一つない裸の岩山という趣だった。平地部も必ずしも平坦なわけでなく、凹凸の極めて激しいところもあった。ラクダに荷を背負わせて、こんな干からびた凹凸の小山を越えていった旅人はさぞ難儀なことだったろうと思う。
 そんな乾燥地帯にも、祁連山脈から水を引いたというオアシス都市がいくつかあって、その一帯では穀物が豊かに実っている。そんなオアシス都市に何度か列車は停まった後、21:30嘉峪関(チアイーグアン)に到着した。安ホテルに宿をとるも、長距離移動が続いたせいで身体が完全に疲れきっていたせいで、抑えていた不満がどっと出てきて、ホテルの設備に難癖つける。しかし、最後にはまぶたが重くなって眠りに落ちていた。
 弟の調子がすっかりおかしくなったこともあり、翌日は休養日とする。ホテルから埃っぽい道を20分ほど歩いたところにある大きな公園に行った。中央に池があって、人々がのんびりと釣りに興じている。僕らは池のほとりにあった休憩所で、ロッキングチェアに寄りかかりサングラスかけてビール飲みつつ呆けていた。中国にはどこの都市にも必ず地ビールというものがあり、一瓶が二元そこらで買うことができる。瓶は全てリサイクルのためだと思うが、表面のラベルがはがれやすくなっている。弟はにわかラベルコレクターとなって、飲んだものの収集を始めだした。そのとき飲んでいた西涼姜啤はラベルによるとアルコール0.9%で生姜成分が含まれていて、ちょうどジンジャーエールを想起させるような飲み物だ。そんな飲み物飲みながら、しばし午睡を楽しむ。

 その日、バスステーションのそばに麺類の美味しい店を発見した。人の良さそうな細身のおばさんが店を一人で切り盛りしている。出てくる麺は日本で流行りのCafeにでも出したら良さそうな感じのさっぱりとした味の麺。美味しいことこの上もなかった。

 翌8月2日は市内観光にあてる。タクシーを使って、町のはずれにある嘉峪関と、長城の最西端にあたるという懸壁長城を見てきた。嘉峪関は荒涼とした大地にぽつんとある関所だった。強い風が大地の上を唸りを上げて気の向くままに吹き付けていた。関の上に上がると、今にも異民族の騎馬兵たちが蹄の音を響かせ、砂埃をあげながら、城下に迫ってくるようなそんな錯覚にとらわれた。関を守備兵たちは血の凍る思いでそんな光景を目にしたに違いない。
 懸壁長城は嘉峪関と比べるとマイナーなようで人も少なかった。草木一つない岩山にとりつけられた長城だ。10分ほど長城を上って行くと終端にでる。その先は凹凸の激しい裸の岩山が続いている。今来たところを振り返れば、小さなオアシスが下方にあり、その向こうに嘉峪関の町が望めた。しばし、そこで風に吹かれる。
 この辺りは暑熱のひどい場所だと覚悟していたのだが、この日は雨雲が一日中空を覆っていたために、涼しく過ごしやすかった。まるで札幌の夏のような感覚に近いものがあり、半袖から出した腕に鳥肌が立ってしまうくらいだった。夜にはぽつりぽつりと雨が降っていた。こんな乾燥地帯にも雨が降るのだ。


8.敦煌

 相変わらずの曇天。外に出れば、半袖半ズボンでは肌寒いくらい。街を行き交う人たちは当たり前のように長袖長ズボンの装い。
 嘉峪関から敦煌間のバスは4時間という話だったが、途中にある都市に停車するバスに乗ったために7時間を要した。景色は一貫して乾燥した砂漠地帯であり、所々にオアシスが点在する。一口に砂漠といっても多様である。ガレキの砂漠があれば、奇岩がニョキニョキと地上から顔出すもの、荒涼とした岩山、草が生えているもの、全く生えていないもの・・・。敦煌に入るところで、この旅初めての砂丘がお目見えした。大きな大きな砂丘にただ感動。
 バス内では中国人のマナーの悪さに相変わらず閉口。煙草を吸っても全く他人の存在というものに気を払うことがない。煙はもとより、灰を通路に落とし、最後には吸殻ごとそこに捨て去る。公共精神というものに著しく欠けている。いや、欠けているというよりは始めから存在しないといったほうが正しいのかもしれない。利己主義ここに極まれり。兎に角、嫌煙者には甚だ不愉快なバス旅なのだ。
 敦煌の宿は日本人バックパッカーご用達の宿。ロビーに入った瞬間に日本人の姿をちらほら見かける。広いドミトリーが空いてなかったので3人ドミに入る。そこでシンガポール人の何秋輝さんと同室になる。京都で英語教師の傍ら翻訳をされているそうで、日本語がぺらぺらだったから夕食の間中、互いの国のこと、中国のことを話し合う。もっと僕も英語力があれば、こうした話題をいろいろな国の人と屈託なく話せるのにね。

 8月4日。ホテルと提携した旅行会社の敦煌の見所を廻るツアーに参加するために早朝起床。8時にホテル前のマイクロバス乗ってみれば、日本人がたくさんいる。中の人たちと話してみたら、僕らと同じようなバックパッカーや中国留学の休みを利用して旅をしているという人ばかりだった。
 敦煌の町から離れると、ポプラ並木が両脇に続き、灌漑を利用した畑があり、その向こうに砂丘の広がる西域らしい風景。遠くから見ると砂丘に陰影があり、まるで学生時代によく慣れ親しんだ雪山のようだった。そして砂紋が美しい。空は青く、砂漠の空気は澄み渡り、気分は上々なのだ。
 まず敦煌郊外にある莫高窟に向かう。井上靖の小説「敦煌」で有名なところだ。僕は中学生の頃に通っていた図書館に井上靖の全集があったことから彼の西域物を割合読んでいたし、NHK特集「シルクロード」の取材記もかなり読み込んだ覚えがあるので、それなりに昔から思い入れのあった地である。ただ実際にはそうやって読んだこともほとんど記憶から消えてしまっているのだけど。
 莫高窟では懐中電灯の乏しい光を頼りに仏像や壁画を見学したのだけど、中国語ガイドであったため、肝心の説明がよくわからなかった。それを見て、何さんが説明してくれるのだけど、彼は仏教哲学を専攻していたそうで彼の使う仏教用語にもわからないものがたくさんあってちょっと済まない気がした。壁画などは本当に精巧で昔の人の苦労が偲ばれた。
 昼ごはんを他の日本人パッカーと一緒に済ませた後、再びバス乗って、映画「敦煌」の撮影セットの故城を見学した。中空の太陽はじりじりと砂を焦がしていて、直射日光を身体に浴びるとあっという間に脱水症状を招きそうだった。セットの家並みの軒下に陰を求めつつ見学した。映画のセットということで多少オマケ程度で訪ねたわけだが、ここが意外に良かった。昔の町の様子が手に取るようにわかり、人の息遣いも感じ取ることができそうだった。今の敦煌の町にはもう昔の面影というものが自然ぐらいからしか感じ取ることができないのだが、こうしたセットは当時の人々の暮らしを肌に教えてくれる。
 再びホテルに戻って軽く休息を取った後に、鳴沙山(ミンシャーシャン)へ。日中に浴びた日差しで体調を崩してしまったのか、既に弟はやる気を減退させて無気力状態になっている。無理やり引っ張っていく。
 ここの入場料が人の手の加わっていない自然のものであるにも関わらず、50元もする。弟はそれだけでかなり憤慨気味。鳴沙山へは更に50元を捻出して駱駝の背中に乗るか、もしくは自力で砂稜上を登るという選択肢があった。しかし既に弟の手持ちが全くなく、選択の余地なく我らが足を使って登ることにする。
 砂稜を登っていくのだが、まるで冬山で雪塵舞う雪稜を登っていくのに似ていた。前の人のつけた足跡をたどりながら一歩ずつ上がっていく。足元の砂はパウダースノーのように細かく、時折さらさらと細かい砂粒が表面を流れ落ちていった。夕刻が近いというのに頭上には鬱陶しいほどの熱もつ太陽が輝き続けていて、帽子にサングラスという完全防備だった。それにしても砂丘の美しいことこの上もない。思わず笑みがこぼれる。入場料が高いのにも関わらず人の入りは多い。まるで本州の夏山のごとくぞろぞろと人が登っていく。砂丘の最初のピークで夕陽が落ちるのを待つことにする。時差が西の北京時間のために日の入りはなんと21時近くだった。線香花火の最後の火の球のようになった太陽が地平に少しずつ沈んでいくのだが、それをじっと眺めているうちに、大地と空が広く果てしないためか、むしろ自分の座っている大地が動いているという感覚のほうが途中から強くなった。雲を飛ばし光から闇の方向へ、この星は回転していた。砂の地べたから地軸の軋む振動までが伝わってきそうだった。自分が地球の一部であることを悟ることができた瞬間だった。地球が自転していることをこれほどまでに実感したことはかつてなかったかもしれない。
 宿に戻って一緒に砂丘に登った日本人同士で夕食をとる。日本で食べたら火を見そうなほどに贅沢に料理を頼んだ。フルコースにビール飲んで、デザートにスイカとメロン食べて、一人10元程度だった。なんて安いんだろう。

 8月5日は休養日。広いドミトリーに部屋を代えてもらって、終日のんびりして、溜まっていた洗濯などをする。強い日差しの宿る窓際に手洗いした洗濯物を干す。光の粒子が洗濯物の繊維を透過する。さらさらと音がしそうだ。全てのものはこの土地のもののように乾ききるはずだ。
 僕はこの旅において「乾く」ということを求めていた。現代生活の中で溜め込んだ体内の余分な水分をなくせば、自分の核となるものだけが浮き上がってくる気がしていたからだ。この敦煌においては全てのものが乾いている。特に町の郊外にいくとそれを強く感じる。前日に行った故城では復元された民家も城壁も大地も全てが乾ききっていていた。そしてそこを歩く自分自身も。
 乾ききったものたちは、そのもの本来の形を顕示する。僕はきれいな白骨となって、窓際の光にさらされるのだ。 


9.哈密(ハミ)

 敦煌から哈密へ向かう。バスは満員状態。運転手の脇に萩原聖人似の聾唖の若者が座っている。バスの後部には他の聾唖の若者がいるようで、しきりに手話で会話を続けている。その表情の豊かなことに驚く。言葉を口にできることは案外他のコミュニケーション技術を失わせる結果になっているのかもしれない。
 哈密への道程もひたすら乾燥地帯。大地も空気も地平線の向こうまで完全に乾ききっている。途中から土壌の成分が変わったのか、赤みのある大地に変貌した。
 哈密は炎熱下の町。日なたを歩き続けていると、体内水分が簡単に失われて、最後には原爆ドームの人影のように消滅してしまいそうだ。歩くときは日陰から日陰へと移動する。それでも消耗してしまう。
 ガイド本に載っていた博物館を訪ねるが、まるで小学校の理科準備室のようなところだった。隻眼の男が三つの展示室の鍵を開けて電気をつけてくれるので、それでようやく中を見ることができるのだ。小さな部屋に置いてある展示物のどれに価値があるのか全くわからない仕組みになっている。薄いガラスケースの向こう側で、何年前のものともわからぬミイラが虚ろな眼孔を僕らに向けていた。
 一番の見所とされる哈密王墓は17世紀から200年間、このあたりを治めていた王族の墓だ。町からウイグル族の居住街区を越えたところにある。この居住街区は驢馬の荷車などが行き交い、楽しそうなところだった。そうここから西は新疆ウイグル自治区なのだ。王墓はたいして期待もしていなかったのだが、青タイルを用いたイスラム建築のドームなどがおり、静かな落ち着いた雰囲気のあるところだった。案内してくれたウイグルの女性によると、イスラムでは神を人の形などで表さず、全て花として表現しているということで、ドームの内側の壁には美しい花模様の絵が描かれていた。
 夜、旅に出て初めてのシシカバブ。胡椒味なのかと思えば、意外なことにカレーのような香辛料がたっぷりと利いていた。冷たいビール片手にこんな夜も悪くない。哈密といえば哈密瓜ということで、浮かない顔して瓜をいっぱい積んだ荷車を引いていくウイグルのおじさんを呼び止めて、一つもらう。クリームと黄色の中間色で長細く、縦に薄く線が入っている。この瓜が1.5元と激安だった。弟と嬉しくなってホテルの階段登りつつ、瓜をボールにラグビーの真似事をしているのだった。瓜の果肉をナイフで口に運びつつ、あのおじさんは計算を間違えたのか、もう今夜は商売する気がなくなっていたかどっちかだろうなんて話していたが、実際それが定価だということを後日知ることになった。


10.烏魯木斉(ウルムチ)

 哈密から硬座で烏魯木斉まで八時間の移動。硬座は予想通り込み合っていて席がない状態。更に中国人の態度に腹を立てたり、少しうんざりした気分になっていたが、若い中国人のグループの親切によって、そうした気分も恥ずかしいくらいに簡単に消えた。席が埋まっていたにも関わらず、席を詰めて空いているスペースに僕らを座らせてくれた。さらに食べ物を勧めてくれたり、話題を振ってくれたりと友達感覚で付き合ってくれた。一人英語の話せる18歳の女子大学生がいて、その子が台湾問題や日本の教科書問題から、日本のアニメまで話題を振ってきてくれて、勿論返答に窮するものもあったけれど、中国語をほとんど解さない僕にとっては楽しいひとときだった。うまく交流でき、心を通わせることができるのは本当にいいものだと実感した。そのためには矢張りお互いに一歩ずつ歩み寄らなければならないのだと思った。
 烏魯木斉は新疆省の省都ということもあって、大都市であり、駅前の交通状態がひどい。車の排気ガスがもくもくと上がっている。列車で会った子もメタンガスが問題になっていると話してくれた。あまり身体に良くなさそうな街だ。喧騒の中、ホテルに着いて一眠りしたら、どっと疲れが出てきてしまった。少し逆上せたのか鼻血まで出てきた。鼻血なんて随分久しぶりで、体調不良気味の弟のことを馬鹿にできなくなった。

 8月8日。朝が来るとまた灼熱の太陽が戻ってくる。日なたに出ると、頭がくらくらするような強烈な日差しを容赦なく浴びせられる。
 烏魯木斉郊外にある東洋のスイスとも言われる天池行きのバスを調べるために、人民公園の北側に行く。天池で一泊すると、バス代が二倍になるという訳のわからない話に困惑することしきり、弟はいつものように憤慨することしきり。バス代はバス一台分のお金で、宿泊することによってバスを2台利用することになるという変な論理である。仕方なく購入する。
 バスチケットの購入場所で、旅行関係の出版会社に勤めていた(今後は韓国に渡ってフリーの旅行ライターになるということだった)29歳の日本人Kさんと出会う。風貌はあまり日本人ぽくなく、よく日焼けした方だった。一緒に博物館に向かう。博物館は本体が改築中で、裏側に臨時の展示が行われていた。入場料がまたしても高く、入るのが少々躊躇われたけれど、見応えはあった。10体もあるミイラがリアルでとても3000〜4000年も前のものとは思えなかった。その時代の壷や木櫛なども展示されていた。日本では湿潤な気候の中で腐り朽ちて土に還っていくものが、この乾燥した土地では現存を留めることができるのだ。絵や織物の類も色彩に至るまできちんと残っていた。
 その後、バスでウイグルバザールへ向かう。狭い通路に小さな店がずらっと並び、金物、織物、香辛料などを売っていた。完全に中国の街の雰囲気とは異なっていて、ウイグル族の民族色が豊かだった。漢方薬に使うための乾燥した蛇とか蝙蝠の売っている香辛料のお店でサフランを購入した。


11.天池(テンチ)

 朝、バス乗り場でKさんと落ち合い、天池行きバスに乗り込む。渓流沿いに高度を稼いでいくと小さな湖に出て、そこでバスを降ろされる。その周辺は完全な観光地といった趣。着飾った中国人たちがわんさかいて、湖畔で脚漕ぎボートにのり、レストランだのお土産屋だのが並ぶ。日本の観光地とたいした違いはない。バスを降り場から宿泊用のユルトをもつというカザフ族の青年の後について湖畔沿いに歩くこと30分強、観光地の騒々しさが嘘だったように、辺りは静寂に包まれている。湖畔の一角に十数棟のユルト(パオ)が並んでいて、そこが僕らの宿泊場所となった。羊や山羊、民族衣装を着た子供たちのいる、のどかな集落だ。湖畔にはただ打ち寄せる波音が聞こえるだけ。自然のつくる音の耳骨になんとよく響くことだろう。湖畔の岩に一人座って静かに湖を眺めていた。後ろの茂みからは「チリリリ、チリリリ」という虫の音が聴こえていた。
 晴れていれば、乳緑色の小じんまりとした湖の向こう側に白く雪を被ったボゴダ峰が望めるはずだが、この日は薄く白雲がかかっていてぼんやりとしかその姿を見ることができなかった。
 中国に入ってから、喧騒と雑踏に少々うんざりしていたこともあって、それと対称をなすこの場所は本当に気持ちがいい。自分の五感が清浄していくような心持ちがする。
 夜はユルトに泊まりにきた韓国人の教員グループと一緒にキャンプファイアーを囲む。南こうせつのようにギターを弾く男の人がいて、それに合わせて皆で韓国語の歌を歌っていた。僕らに対しても非常に友好的で頭の下がる思いがした。これが逆ならば日本人というものは韓国人を心から迎え入れることができるかと考えれば甚だ疑問で、少し頭の下がる思いがした。僕らも歌を披露しろということで「燃えろよ燃えろ」を歌ってみたが今一ぴんときていないようだった。「上を向いて歩こう」あたりがよかったかもしれない。

 翌朝、朝六時過ぎにユルトの中で目覚める。中は真っ暗で、懐中電灯がなければ何も見えない。全くの無の状態だ。外にでれば厚雲が空前面を覆い尽くす冴えない空模様。なぜそんな早く起きたかといえば、ユルトのボスの弟にボゴダ峰までの10時間ホーストレッキングを約束していて、その出発時間が六時だったからだ。既にデポジットとして一人40元も納めていた。しかし、肌寒い朝の空気の中、待てど暮らせど、彼も馬も現れない。僕らは小雨すら降り出した曇天の下、湖の水のそばで昨夜のキャンプファイアーの燃えかすで寂しく焚き火などをしていた。韓国人グループが残したとうもろこしを焦がしつつ焼きながら、恨めしそうに空を眺めていた。結局、彼は約束を破って最後まで現れず、その後の展開に影を投げ打つことになった。最後の最後にボスと交渉して、損額を取り返しはしたのだが。
 代わりにボスの手配してくれた馬と馬使いを使って、天池の端から川沿いを登るコースのトレッキングに向かう。僕は馬というものの気性が激しいものだと思っていたのだけど、意外に従順でおとなしいので驚いてしまった。始め、湖畔沿いの土埃の舞うような崖沿いの道を歩いたのだが、馬はなぜか崖とすれすれのところを歩きたがり、彼の蹄が土を捉えきれず軽く横滑りする度に生きた心地がしなかった。それから渡渉を二度ばかりして今度は湖畔を離れて、針葉樹林がポツポツ生えている川沿いの馬道をゆっくりゆっくり登った。とてもいい気分だった。
 朝方悪かった天気も歩くにつれて徐々に回復し、最後には白雲が完全に吹き飛んで、真っ青な空が広がりだし、眩しいばかりの雪を頂いたボゴダ峰を望むことができた。80元払えば氷河まで行けるということだったが、前日支払ったお金がその時点で有効ではなかったことと、時間がなくなっていたこともあり、引き返すことにする。妥当な判断だったと思う。
 帰りのバスからは、前景に砂丘、後景に雪山(恐らくボゴダ峰)という、一風変わった素晴らしい取り合わせの景色を眺めることができた。


12.吐魯番(トルファン)

 烏魯木斉から吐魯番へ。烏魯木斉のバスターミナルがガイドブックの地図上でマークされているところから移転していて、それを探すのに炎天下の中、ザック担いで途方もない思いをした。結局タクシーに頼って新しいバスターミナルまで行き、そこからバスに乗る。
 吐魯番は40℃の世界。バスを降りた瞬間、あまりの熱のこもり方に頭がくらくらする。歩く気も失せて、バスターミナルからタクシーで吐魯番賓館というバックパッカーの集まる宿に向かう。白いイスラム風の建物でその四階にある五人ドミトリー部屋をとる。部屋は普通のドミトリーと変わらず、質素だが、窓は半円形をしていてよく光が差し込んでくる。空調もよく利いていて涼しく過ごしやすい。暗くなると、民族舞踊ショーと思しき太鼓の音が小気味よく響いてくる。窓からは隣接する建物の上端が見え、そこに一列に色とりどりの電球が並んでいて、不思議な感覚にさせる。まるでポール・オースターの「ムーンパレス」の中華料理屋のネオンのような気分。
 ドミトリーには既に二人の日本人の先客がいる。それぞれ20日間と16日間ここに連泊しているとのことだ。連泊しているのに、吐魯番の見所はどこも廻っていないと言う。ちょっとした沈没ということになるのだろう。この部屋の快適さを思えばなるほどとも思えるが、ちょっと勿体ない気もした。弟に言わせると、沈没する人は何かをしてるのではなくて、何もしなくなるということだ。結局日本にいるのと変わるところがなくなってしまうらしい。
 
 8月12日。日本はお盆に入って高校野球もたけなわだろう。
 吐魯番の日中の最高気温は40℃を超えた。身体が焼けてしまいそうだ。全てのものをねじ伏せようとする強力な太陽が燦燦と輝いている。眩暈を覚えながら、町の中心に作られた葡萄棚の緑陰から緑陰へと飛び動く。
 将来、地球が過度に熱くなり、地上が50℃となってしまうSFまで思わず考えてしまった。地底には裕福な人たちが住み、地下水で住居を涼しく保っているのだ。目は暗闇の中の生活のために、極度の視力低下を招き不用の長物と成り代わり、皆眼帯でも巻いているのに違いない。極熱地と変貌した地上にはバラックが立ち並び、その中で貧しき人々は夜が来るのを待つ。夜が来れば気温は急激に下がりだし、人々は活動を始めるのだ。地底人が地上にやってくると、地上の人々がこれに襲い掛かり殺してしまうのだ。…なんてね。
 吐魯番では人は昼の間通りを歩かない。広場には人っ子一人いない。夜が来ると人々は外へ向かう。通りや広場は人々で溢れ、露店が出て活気が出てくる。夜12時になっても子供たちはサッカーボールを蹴り、人々は葡萄棚の下を散歩する。全くもって不思議な世界だ。僕のSFもあながち全くありえないということもないのではないか。
 吐魯番は郊外に数多くの遺跡があるが、弟と相談した結果、交河故城という都市遺跡だけに絞ることにした。もう一人日本人バックパッカーを誘い、夕暮れせまる19時にタクシーをチャーターして向かう。郊外には土埃の立つポプラ並木の道が続き、その脇に畑が広がっている。町中は観光整備されているため、西域らしい感慨にふけることができるのはむしろこうした田舎道である。
 出発した頃はまだ熱を帯びていた町も、観光を始めた20:00頃には陰りを見せ、歩き回るのにちょうどよくなった。交河故城は1km×300mの広さがあり、現存するものは唐の西域経営時の都市遺跡らしい。地上から掘り下げて煉瓦等を加えて作り上げられた、世界でも珍しい彫刻都市ということだった。都市跡はちょうど二つの切り立った河の間にあり、自然要塞のような趣がある。門は南と東にあり、観光客は南門の方から入れるような仕組みになっている。 
 遺跡の奥には井戸もあった。空に円い口を開いているけれど、もはや言葉を口にすることはできず無言を決め込んでいた。無言の口に小石を放り込んでみると、側壁に当たる音が数度して、最後に鈍い砂の音が聞こえた。井戸の漆黒の中には目に見える時間がないようにも思えた。石がゆっくり落下したのか、強力な引力に従って落下したのか僕にはわからなかった。途中で浮遊を繰り返していたとしても僕は驚かなかっただろう。
 まだこの井戸に水があふれていたとき、ここで人々は釣瓶を引いて水を汲んでいたのだ。水は豊かに桶から溢れ、筋肉の美しい褐色の裸足を濡らしたのに違いない。水は太陽の光に弾け散り、生命のように輝きを放ったことだろう。井戸の周りで人々は祈り、歌い、愛し合い、嘆き、笑い、哀しみ続けたのだ。
 折りしも夕陽は遺跡に柔らかな光を惜しみなく与え、古き人々の喜びや哀しみを思い出したかのように輝きだした。素晴らしく美しい光景をだった。僕らはその光景を目に焼き付けて遺跡を後にした。やがて再び闇がやってくると、亡者の町は冷たい夜に召還されるのだろう。

 8月13日。沈没している同部屋の二人に別れを告げる。吐魯番の町から次の予定地庫車(クチャ)まではバスも出ていたが列車を利用することを以前より決めていたので、敢えてクーラーなしのいわば保熱バスに乗りこみ一時間強のところにある鉄道駅に向かう。ローカルバスらしく運転手ものんびりしたもので途中の水路でバスを停めて水を飲んだりしている。乗客たちも狭いバスからわっと出てきて、冷たい水の迸る水路に水筒などをあてがっている。
 駅では当日の切符は全て売り切れだと言われる。相変わらず窓口の人の対応は悪く、なかなか要領をえない僕ら外人を頭ごなしに怒鳴りつけてくる。勿論弟は反撃するからほとんど喧嘩しているのと変わらない。
 結局翌日の切符を購入したのだけど、予算をオーバーしてしまい、手持ちのお金がほとんどなくなりホテル代ですら怪しい。駅前の中国銀行ではなんと外貨両替ができず、クレジットカードを使えるホテルもない。カードを差し出すと、物珍しそうに手に取っている始末。こんなちょっとした危機を救ったのは、ホリデイ・インにいたお金をもっていそうな中国人だった。ドル両替に応じてくれ、どうにか一夜のベッドを確保した。
 しかし僕らが入った安宿にはクーラーがなく、炎熱吐魯番の地では暑くて寝苦しいことこの上ない。弟は「暑い、暑い」と寝言を繰り返していた。


13.庫車(クチャ)

 朝から曇天模様で普通ならば少しがっかりするものだけど、炎熱の吐魯番では火の球がうまい具合に雲の裏に隠れていて都合が良かった。「今日は天気がいいね。」などと朝から二人で軽口を叩く。列車までの時間、駅前で猛烈に遅いネットをしたり、屋外ビリヤードに興じる。ビリヤード台が屋外にあるというのも、雨の降らない土地ならではということなのかもしれない。ビリヤードは生まれてから十回程しかやったことのない万年初心者なのだが、二年前にある女の子から受けた手ほどきに従ってやってみたら案外うまい具合に球が転がってくれた。ビリヤード狂だと思っていた弟とも結構互角にやり合えて満足。結果一勝一敗。
 それから列車に飛び乗る。前日とは打って変わって快調である。吐魯番、庫車間をバスを使わずに敢えて面倒な列車を選んだのにも一応訳があった。ガイドブックに鉄道マニアらしき人の投稿文があって、鉄道賛歌に加えてこの区間の景色は見逃せないと書いてあったからだ。この区間は天山を越えるため、海抜0mの吐魯番からS字カーブで高度を一挙に稼いで1000m以上登る。高度が上がるにつれて、これまでの乾燥した砂漠帯から草原帯に変わり、草を食む羊や馬の姿を見ることができた。ただそれに伴って天候も悪くなり、途中から小雨がちらつき、最も景色の素晴らしいとされているところでは完全に雨となる。辺りに靄がかかって山々を見渡すことができなかった。
 天山を越えると今度は下り。濡れたレールの上を滑りおりながら、今度は高度を下げていく。それに伴って草原から元の乾燥帯に戻っていく。いつの間にやら草木一つない裸の岩山の間を縫って列車は進んでいった。
 庫車到着は午前三時。駅前に待機していたタクシーに言い値で乗って、勧められたホテルに宿をとり、早速ベッドに潜り込む。

 一夜明けて町を散歩してみる。庫車は車道を車やバイクと共に驢馬が走っているようなのんびりとした町だ。町の表通りは漢人の作った何の変哲もない建物群が並んでいるが、裏手にはウイグル人の居住区がある。ウイグル人の住居は煉瓦作りで地味ではあるけれど、どことなく趣がある。門の中を除くと中庭に花畑をもつ住宅も多い。また緑が多いのも特徴だ。衣服も青や赤など華やかなものを組み合わせて普段から着ているようだった。
 この旅の間、僕も弟も中国人(漢人)に対して再三失望を繰り返してきた。同様に中国の街に対しても失望を隠せなかった。どこも無味乾燥で一様な街づくりがなされていて、地域の特色というものが皆無に近い。日本についても同様のことは言えるのかもしれないが、まだ日本のほうが随分と美しいと思う。もっとウイグル色や西域色というものを大切にすれば、自ずから魅力的な街になると思うのだが。
 亀茲国の城壁跡を見に行く。なんと遺跡にも関わらずゴミ捨て場になっていた。ひどい。結局、庫車の観光はこのゴミ捨て場を見ておしまいにして、その後は青空ビリヤードに興じていた。


14.天山山脈越え

 伊寧行きのバスに乗るため、早朝宿を出る。チェックイン時にここの従業員を叩き起こしたのだが、またしても彼女を起こす破目になる。さぞ不可思議で迷惑な客だったことだろう。
 バス・ターミナルに行ったのだが、8時のはずの出発は何の理由もなく12時にまで延びる。ようやく出発と思いきや、いきなり停車して食事タイムになったりとなかなか前に進まない。お腹がすいたら食べるというのはわかりやすいと言えばわかりやすいのだが。この国では客ではなくて運転手本位で物事が進行する。
 (運転手の)食事が済んでどうにかこうにか出発。バスはものすごい奇岩地帯を超え、天山を流れる濁流沿いに上流へと向かう。相変わらず休憩が多く、全く急ぐことはない。太陽は上空で厚い雲に覆われて霞んでいる。白い光が渓谷の両脇に聳える岩山を照らし出している。川はこの辺りの砂を伴っているため白泥色をして、まるで生き物さながらに、水を迸りながら流れている。乾燥した土地ではあるが、渓谷沿いには二十mくらいの淡緑色の葉を茂らせた樹々や小さな実をつけた潅木が点在している。
 途中、検問所を通過。バスの最後部で窮屈そうに座っていたオランダ人女性二人組はチェックを受けていたが、僕らは顔を隠していたら中国人だと思われてノーチェック。
 それから徐々に天山山脈を登り始める。標高が上がるにつれて例の如く乾燥地帯から草原帯に移行して、風景も柔らかいものに変わっていく。ユルトが点在し、羊や馬が放牧されているような気持ちのいい草原が広がっていたりする。また滝や湖沼もあり、サクラソウのような可憐な高山植物が道端にちらほら咲いている。この頃から少しずつ天候が悪くなって、小雨がちらつき始める。
 さらに標高をあげていく。急峻な沢沿いの細道を進み、途中から岩肌にかじりつくように蛇行を繰り返しながら登っていく。かなりの急勾配で、道路端が崩れているところや落石の跡などが随分とある。対向車が来ると崖の縁すれすれに車体をもっていくのでかなり心臓に悪い。横光利一の「蝿」を思い起こさせるような山道だ。道から落ちればまっすぐあの世に行けそうなのであまりいい気分はしないが、景色は素晴らしい。
 山をかなり登ったところで突然ストップ。小雨の中、バスから降りてみれば、車が数珠繋ぎに止まっている。前のほうを見に行ってみると、石炭を積んだトレーラーがエンジントラブルか何かで狭い道を完全に塞ぐようにして立ち往生している。完全に故障しているようでうんともすんとも動かないようだ。そうこうするうちに対向車のパジェロは器用にトレーラーの脇を通過していったが、僕らが乗ってきたおんぼろバスや他の大型車はさすがにそんな芸当もできない。
 このままここで一泊かなと諦め始めた頃、トレーラーの撤去作業が成功したようでようやく前に進める。時間的にはかなり遅くなり始め、夜が近づいていた。さらに岩山を登りつめ、最後はトンネルを使って、天山の裏側に抜ける。確認できたのはそこまでであとは完全な闇に包まれる。恐らく生きた心地のしないような峠道を下っているのだろうが、全く見えないのでまぁ呑気なものだ。
 漆黒の闇とともに、今度は冷気がやってくる。ひどく老朽化したバスであちこちに隙間があり、そこから意地の悪い冷気が入り込んでくる。前の席のリクライニングが壊れていて急角度で僕の席の方に倒れこんでいるのに、自分の席は逆に全く後ろに倒れない。おかげで無理な体勢と冷気のために、腸がねじれたように痛くなった。

 そして極めつけは雨漏りだった。雨が激しくなるにつけ、バスの中央部が雨の日の軒下のように樋を伝うがごとく水が威勢よく噴射しだしたのだ。更にバス内のあちらこちらでも雨漏りが落ち始めている。僕の頬にも容赦なく冷たい雨滴が弾け、首筋を伝い始める。人間こういう状況になると開き直って笑うしかない。これまでの人生の中で最も過酷なバス旅だった。

 半分死んだようになって朝を迎える。バスは広い草原の一本道を走っていた。前方を見るとどこまでも道がまっすぐに伸びていた。谷川俊太郎の旅の詩の一節を思い出した。
 

   - - - - - - - - - - - - - - - - -  
  地平線へ一筋に道はのびている
  何も感じないことは苦しい
  ふり返ると
  地平線から一筋に道は来ていた
   - - - - - - - - - - - - - - - - - 


 ずっと何かを感じ取って生きていたい、ただそう思った。


15.伊寧(イーニン)

 広々とした大地をひた走り、昼前に伊寧の街に到着。ウイグル人の人口割合が多いせいか、緑の多い美しい街だった。中国にきて始めて花屋さんも見る。漢人も花や緑のある生活を目指せばいいのにね。僕がこれまでみたところ漢人の生活には潤いというものが感じられなかった。そういうのも人種の違いなのだろうか、経済的理由ではないはずなのだから。
 翌日のカザフスタンへ抜ける国際バスのチケットを買ったあとは身体を休めるべくのんびりする。夜は中華の食べおさめということで前から気になっていた火鍋を食べに行った。火鍋の存在自体は島田雅彦の本や他の旅行記などで前々から知っていた。飛び上がるほど辛いが病み付きになるというのが、その多くにおける記述であったと記憶している。
 今回食べた火鍋は鍋の真ん中にしきりがあって、片一方が唐辛子が利いた真っ赤な汁、もう片方は豚骨か鶏骨でとっただし汁が煮立っている。そこに頼んだ肉やら野菜やら豆腐を入れてしゃぶしゃぶのように食べる仕組みだ。弟が危険を顧みず躊躇することなく赤いほうに箸を突っ込んで味をみる。早速、下をべろんと出して「これは辛い」なんて言ってる。だから辛いぞって最初から言ってるだろ。
 この旅のはじめのとき、辛いものについて話をする機会があって、僕が「辛いものは好きじゃない」に対して、弟は「少し辛いのが好きだ」であった。実際に何度か辛いものを食べる機会があって、やめておけというのに弟が「少し辛くして下さい。」などと店の人に頼んだりする。そして唐辛子のかかったような料理が運ばれてくると、弟は常に「辛くて食べれないよ」などとほとんど箸もつけない。食べるのは結局この僕だ。僕は辛いものが好きではないけれど辛いのものが食べられる。弟は少し辛いのが好きだけど辛いものが食べられないのだ、全く意味がない。
 今回の火鍋は鍋の中にしきりがあったおかげで特に問題なく最後まで食べることができた。時折思い出したように赤いほうにも箸をつけてみて、「辛っ」と声を発しながら鍋をつつくのが案外楽しい。辛いというのはその刺激が快感なのだということをこのとき始めてわかったような気がした。辛いもの食べて冷たいビール飲んで楽しき夕食を食べる僕であったが、翌日この火鍋のためにまさに火をみることになろうとは想像だにしていなかった。