** 旅の始まり **

 2001年の夏、弟とシルクロードを3ヶ月半旅した。旅の途中何度も「兄弟でなぜ旅に出たのか」と問われた。もともとシルクロードの旅は弟がおぼろげに立てていた計画だった。彼は大学卒業後、バイトで金を貯め、カナダへのワーキングホリデーに行く予定があり、その前にユーラシア大陸を横断しようとしていたのだ。彼は既に俗に言うアジア横断ルート(タイ〜インド〜トルコ)とシベリア鉄道ルートを踏破していたため、消去法的にシルクロードを何気なく口に出したのだと思う。

 その計画が弟の口から漏れたとき、僕はまだサラリーマンを続けていて、仙台の長期出張中で年度末の多忙な時期を迎えていた。その頃、ちょうど僕は自分の進路変更に悩んでいる最中だった。とにかくやりたいことをやろうと思って、退職届けを出してみたもののなかなか受理されず、半分上司の信頼を裏切った形にもなり、暗中模索の日々だった。そのために会社を辞めた先に、明るい光のようなものがないと僕自身としても辛かった。そのとき弟のシルクロードの旅の計画をきいた。ほとんど、渡りに船だった。電話で「会社を今度辞めるから、時間もできるだろうし、そのシルクロードに一緒に行こうよ」と僕は強く弟を誘ったのだ。弟は口のはずみでシルクロードという言葉を出したに違いなかったのだが、既にそのときの僕にとってはそれは未来を意味する言葉、おまじないでもあったように思う。
 退職日は当初考えていた以上に大きく延びたが、その旅はどうしても僕にとって必要だった。フェリーチケットの関係などから、正式な退職日から1週間後には出発しなければならなかったために、引越しなど雑事が山積みになっている合間に慌ててシルクロードについても調べあげていった。学生時代にワンゲルで鍛え上げられたのか何か知らないが、知らない場所に対しては常に明確なイメージをもってから出かけるのが僕のやりかたになっていた。中国からトルコまでの行程、ビザの取得方法等を本とネットから綿密に調べ上げた。その頃になって僕はようやくシルクロードの旅というものがどういう旅なのかはっきりイメージすることができた。(一方、弟はといえば僕の準備を待つ間、中部の山々を一人で登ったりしていたから、彼はシルクロードにどんな都市があるのかもほとんど把握していなかったに違いない。世界史にも全く通じず、行くルートも僕任せになっていた弟の行き当たりばったりな旅のあり方は、僕のように綿密に調べ上げていくという半欧米人的な旅のスタイルと全く違っていて、それはそれであとあと面白くもあった。)

 こうして言いだしっぺながらシルクロードの知識を何も持たずいざとなれば身体で乗り切ればいいという肉体派の弟と、社会人から抜け出たばかりで細かいことまで調べておかなければ気が済まないという非肉体派の兄の旅が始まったのである。双方ともお互いにあきれるやら尊敬するやらしていたことと思う。まぁ言い換えれば持ちつ持たれつということなのかもしれない。


** 旅を振り返って **

 それは僕にとってはこれまで味わったことのないような長い旅であり、また随分と自分にとっては過酷な旅でもあった。楽しいことがたくさんあったし美しいものも限りなく見たけれど、その一方で汚いものや不快なものを身をもって体験した。

 日本にいたとき自分が纏っていた社会的地位などの価値性は旅の中では脆くも崩れ去り、常に裸の自分を人々は見るように思えた。すなわち笑顔や態度や会話術、物事の考え方などから彼らは僕という人間を捉えていった。一方、貧しい国々では衰退中といはいえ金満国日本から来た僕らを札束にしか見ていない人もいた。そうしたお金の有無とか肩書きのようなうわべしか見ようとしない目というものが実は僕が日本にいたときにもっていた目と同じ目だったことに途中で気づいた。

 そうした体験を通して、もっと物事の本質を見ていきたいと思い、その力が少しずつ養われていったのは自然なことだったと言える。

 その一方で自分の本質たるものが希薄であったことにも失望を覚えた。外人と話したときに彼らの聞いてもらいたいことをうまく聞くことができずにただ相手の質問だけで終わってしまうこと。交渉のときにはっきり物を言えないこと。旅の中で感じた喜びや哀しみをうまく言葉として表現できないこと。そういう失望の繰り返しが常にあったように思う。
 そして一緒に旅をした弟との対比によってより自分という人間の本質がわかったような気もする。弟はそれを「まるで鏡で写しだしたように」と形容した。

 以下、綴るのは旅日記だ。あまりに膨大であるが故、読み物としては適していないだろうし、僕自身も娯楽性のある旅行記として書いたつもりもない。これは総体として僕の心の変容を綴ったものなのだと思う。僕の心がシルクロードという果てしない昔の交易路をたどったときの・・・。