遥かなる知床の白い峰へ('94 Spring)


大学に入って初めての春休み。
ぼくは知床を目指した。遥かなる知床を。

ぼく以外は上級生というParty構成。
初めての長い白き山への旅に胸は躍った。

札幌から夜行「特急オホーツク」に乗って一路網走へ。さらに斜里へ。
里はそろそろ春がちかづいてきて、10代の女の子たちの表情は明るく、犬は湿った鼻を空に向けていた。
そんな光景眺めながらヒッチハイク。
一挙に羅臼らうすという町へ抜ける。
日本の地の果てというものがあるなら、その入り口的な漁村である。
海の匂いがして、ウミネコが冷たい空を飛び交うような町。
町の中心からどんどん山に向かって歩く。
一応道路なのだが、厳しい冬は閉鎖している。
荷はきわめて重いけど、ぼくの白い峰への想いはもっと鈍重なものだ。

やがて夕刻が近まり、標高は上がり、あたりは開け始める。
あ〜見える。
右手に大きな白い山が現れる。羅臼岳だ。
このあたりは全てが白い。
あまりに白いから遠近感がなくなってくる。
羅臼岳には手を伸ばせば届くような気がしてくる。
羅臼湖のほとりのタンネ(トドマツかエゾマツ)の下にテントを張り、入山ビールで喉をならす。
気象がよっぽど厳しいのかこのタンネ、完全に凍りつき、枝も葉も右往左往に曲がったままだ。
タンネの向こうに見える山は天頂山。
やがて冬の闇は足音なく辺りを包み、星たちが瞬くのみ。

朝、リーダーの一声で起きる。
朝ご飯食べて外に出る。
まだ星が瞬いてる。
ラテルネ(ヘッドランプ)をつけて出発。
今日は目の前の白い山をぐいぐいのぼる。
やがてモルゲンロートが白いパレットを染める。
もう何もいらない。
固くなってきたところでアイゼンをつける。*アイゼンとは靴の下につけるギザギザ刃のついたもの
あまりに地表が固く凍り付いてるので、荷をきちんと固定しとかないと、ずっと下まで流されそうだ。
きっと滑落したらどこまでもどこまでも滑落しそうだ。
そんなこと考えつつ、アイゼンはき、スキーをザックにくくりつけ、再び高みをめざす。
アイゼンは小気味よく氷に食い込む。
そして知西別岳ちんしべつだけのピーク。
凄い。知床が一望だ。
そしてこれから向かう遠音別岳おんねべつだけが女神のように現れた。
すばらしく先が尖り、宙空を刺し切っている。
ぼくらは白い稜線をたどり、女神の元にむかう。
右も左もずっと下のタンネの森まで何もないから、滑落したら天から落ちるがごときだろう。
慎重にアイゼンを氷に入れ込む。
ピーク直下にちょっとした壁。
上級生はひょいと超えていくが、岩登りなどほとんどやってなかった僕には恐怖物。
背中に重荷が僕を壁からはがそうと、不気味な感情を抱きだしてる。
「ちょっと堪忍ね。」
どうにかこうにかそれ超えれば、あとは女神に会うのみ。
でもやっぱり山も女神も気まぐれ。
あたりはいきなり白い冷気に包まれてしまう。
折角のピークなのにね。
リーダーは満足そうにタバコに火をつけた。かっこいい。
ぼくも満足そうにカリントウをかじり、そしてこぼす。かっこわるい。
ピークから樹林まで降りて、テント張る。
パーティー4人の気持ちも一つになり、酒を飲み交す。

翌日から天気は悪くなる。
樹林内の行動だから、横からくる雪もガスも気にせず歩く。
次の山(ラサウヌプリ)は沢から攻めるのでいったん沢沿いに下りる。
沢の口におりて、感覚のなくなるような冷たい水を汲み、テント張る。

翌日、風がゴウゴウと上空を吹き荒れてる。
停滞日。
寝袋の中でチョコレート食べて、本読んで、眠って、お茶飲んで、水汲みしておしまい。

まだ天気悪いが行くことになる。
雪崩の怖そうな斜面を一人一人上って稜線へ。
雪が横殴りに吹き抜けていく。
まるで戦場に来た気分だ。
敵の銃砲をかいくぐり、ぼくは敵陣深く入り、ピークをもぎとった。
うちのサークルでは冬季初登頂!ぼくが一番乗り。
(ちなみに誰も登ってないのは、地の果てにある無名的ピークだから。)

翌朝、最後の山、海別岳うなべつだけに向かう。
今日は暖かな春の光がさしこみ。のんびり。
まるで絵本的で、思わず雪山で兎猟をする親子の話をこさえてしまう(笑)
ぼーっと歩いてると、スキーがもつれて引っくり返る。
荷が重くて、亀状態。
みんな笑って追い抜いていく。
慌てて後追うと、森の中でみんなタバコすって一休止。
「今日はここまでだ」
テントを張って、乾燥野菜と乾燥米の夕食食べる。
これが毎日のメニュー。
絶対下界じゃお金もらっても食べたくないような料理である。
赤い唐辛子をかけたら美味しいかなと思って試すが、ただ辛いだけ。

翌日から3日間。天気は荒れた。
ず〜っとテントの中で本読む。
ヘッセの「知と愛」にカポーティーの「夜の樹」・・。
そしてず〜っと浅い眠りで夢をみる。
あらゆる夢を見る。そして見るべき夢もなくなった・・。

3日間のテント生活に別れを告げる日がやってきた。
テントを出るとまだ暗い。
寝袋の中でひん曲がった体を柔らかくしながらタンネの森をのぼる。
森を抜けたところで、徐々に白みはじめる。
アイゼンに切り替えてピークを目指す。
山々はただモルゲンロートに染まる。
海の向こうに国後島と択捉島が見えてくる。
異国とは思えないほど近い。
ピークに上がるとオホーツク海が目前に広がる。
流氷の海だ。ただ茫漠と広がっている。
固い氷の斜面をスキーですべりおりる。
氷ゆえに転ぶととてつもなく痛い。
そして氷ゆえにエッジがきかず転びやすい。
森に入ると雪はパウダーに切り替わり、一転して、綺麗なシュプール描くことができる。
胸のすく思いとはこういうものを言うのだ。
あとは森の中を歩き歩き、里へ向かう。
雪解けの沢の音が心地いい。
林道まで出れば、上級生も思い思いに歩き、先のほうにいってしまう。
いまだ春色の欠片もない北国の土も露な畑が静かに広がっている。
ぼくも彼らの背中を目で追いつつ、静かに歌を口ずさんだ。
まだ頬には冷たい春の風がぼくの歌を氷に閉ざされたオホーツクの海へと運ぶ。
先輩たちが先のほうからここで終わりだと振り返る。
彼らには畑の一本道を満ち足りた表情して下りてくる一年生の姿が目に映ったに違いない。

旅は終わった。