2001年6月30日(土)

PCを共有しているせいで僕のメールを彼女が読むことができてしまう。故意に特定のメールを読まれてしまい、そして傷ついたのと彼女は涙して言った。HPなら辞めることができる。メールも切ることができるだろう。だけどそこで全てを切ることが解決につながるのかどうかわからない。あらゆるものを切ったとしても僕という存在は残るから。僕が求めてきた繋がりを全てきり放つことが正しいかどうかもわからない。これだけ生きても僕自身のことにすら僕はきちんと整理をつけることもできない。

弟の彼女に教えてもらって早稲田大学でやっていた柄谷行人(批評家)と島田雅彦と西部忠(僕が通ってた大学の経済学者)の講演会を聴いてきた。もちろんお目当ては島田雅彦氏だ。彼はちょっと派手目の柄シャツを着ていた。そんな訳で内容については席について、もらった紙切れを読むまで知らなかった。内容は資本主義世界の枠組みを越えたコミュニティー形成について論じていた。と書くと如何にも大層な内容なように思うけれども、さほどたいしたことがない。円やドルではない、地域的な通貨を介して物と物との交換のあり方を考えるみたいなことなんだけど、実は目的そのものが不明確で最後までよくわからない。きっと目的よりも手段としてしか論じられいないのではないかとも思ったくらい。
批評家というものは既に貨幣によって価値基準をつけれらたものに対して、再度それを検証して価値性を見直すということを仕事としている。よって批評家の興味は現在の円なりドルではつけられない価値性を見直したいということにある。経済学者の興味は経済学のまな板の上で自己完結的に貨幣価値を考えているに過ぎない。そして文学者の興味は単に芸術としての自分の作品の価値基準のあり方にあるにすぎない。
はっきり言ってたいした議論内容ではない。裕福な人たちが勝手に自分の学問土俵の中で相撲の技を考えているくらいにすぎない。ただ聞いてみて、彼らのバックグラウンドとする学問体系によってこうも独善的ともいえる興味の守備範囲のすみわけみたいなものがわかって面白くもあった。そして僕は批評と経済学の分野に多少落胆も感ぜずにはいられなかった。(まぁ彼らの理論の根幹を全然知らないのだから僕がそんなこと言える立場でもないのだけどね。)島田雅彦はこういうところに出て、それは刺激としては役に立つのだろうけど、その分執筆活動ができないわけで、お金にでも困ってるのかななどと下世話をやきたくもなってしまう。
そして聴講している人も教祖の話を聴いてるのではないのだから、「あなたが今日話したことは○○という理論と合っているのかどうか」とかそんな質問をして何でもかんでも鵜呑みしないで、自分なりの考え方をはっきりともつべきじゃないかなと思ったよ。なんでもかんでも受身になって飲み込んとけばOKじゃ、学問の意味がないんじゃないの?なんて思った次第。


2001年6月29日(金)

サニーデイサービスの96粒の涙なんか聴きながら、キーボードを叩いている。
仕事はきっちし19時で切り上げて、裏口からグッバイ。家で豚肉とセロリなど炒めてる。強火を通した野菜たちにきっぱりとした食感があって悪くない。ピリッとした辛味がビールによく合う。ただしセロリはもっと薄く切るべし。
今月は今までに比べて随分と体調が良かった。そして残業時間が20数時間しかなくて、入社以来の少なさだった。数字が示す事実は単純明白。中学校の入試問題にだってならないだろう。


2001年6月28日(木)

弟の送別会をした。21時から弟と駅前まで買出しにいって、値切られた野菜を中心にどっさり買い込む。腕の太さが僕の1.3倍ほどある筋肉質の弟が難なく持ってくれる。なんだか従者を抱えた貴族のような気分で手ぶらで帰ってくる。彼女と弟の彼女(とても品がよい)と弟の友達の5人でお好み焼きやった。広島風のお好み焼きが上品に焼かれていく様をビール傾けながら見るのも悪くなかった。とてもくつろげた夜だった。クチナシの香りが静かに漂う石段を下りていきながら、弟は蛍の光など歌って帰っていった。


2001年6月27日(水)

僕が今いるこの空間には窓はいくつかついてるけれど、クーラーというものがない。時代的な扇風機すらない。6月の夜というのに風の吹くことのない夜。額に小さな汗粒が光る。友達が横からちょっかいばっかりかけてくる。僕はミックスナッツをテーブルにおいてウィスキーを飲んでる。東京の6月の夜ってこんなに暑かったけ。これじゃウェディングドレスも着る気が起こらないというものさ。
ダンスダンスダンスの厳冬期の札幌の描写も(といっても春樹さんの描写では本当の寒さがわからないと思うのだけど・・)全然実感できないそんな夜。こんな夜はモロッコ出身のバロウズの本でも読むべきなんだろうな、・・・一度も読んだことないけどさ。


2001年6月25日(月)

夜というのに身体が火照っている。梅雨明けのまっすぐな朝の太陽の光の下、駅までの急坂を登るときのように。季節のせいだけじゃないだろう、バーボンウィスキーをいくらか飲んだせいだけじゃないだろう。きっとちょっとした疲労のようなものだ。何かが僕の体内で勢いよく燃えている。うむっ、熱っぽいのかな。
久しぶりに「ダンス・ダンス・ダンス」を読む。しばし、僕は主人公と一緒に札幌の街へ向かい、ドルフィンホテルのバーでアルコールを身体の中に受け容れる。
社会の枠から一旦出るときに読むのにはうってつけの本と思うけれどどうだろう。


2001年6月24日(日)

ゆずの歌みたいに自転車二人乗りして近くの図書館にいった。17時閉館間際だったから慌てて海外文学の棚のほうに行って、2冊借りてきた。1冊はタブッキの「インド夜想曲」だ。イタリア文学なんだけれど、フランスで映画化されていて、映画のほうを2度ばかり観ているが本で読むのは初めてだ。早速、地図片手に壁にもたれつつ読み耽る。インド南部で失踪した友人を追いかける旅が自分探しになるという内容なのだけど、非常に哲学的示唆に富んでいるし、会話に機知があって面白い。バスの待合室での奇形の預言者との出会いが強烈に印象に残る。僕は先に映画を見ているせいでどうもそれぞれのシーンが映像を伴って想起される。いつかこんな旅をしてみたいものだし、こんな文章を書いてみたい。


2001年6月23日(土)

随分と電車に乗った一日だった。東急にJRに京王に都営に営団。お昼すぎに町田市の奥まったところにある祖父の家(空家)を弟と見に行く。退社した後、旅行中にどれだけ荷物を置けるのかとその後住めるかどうかを見きわめるためだ。家に行くのは初めてではないけれど彼これ10年振りくらいでほとんど記憶がないのと同然なのだ。駅は田舎の駅といったたたずまいだったけれども、大学がそばにあるせいか若い人も多く、それなりに活気はある。家は駅から坂を上るかたちで歩いて10分ほどのところ。ところどころに林や森があって環境はよさそうだ。家は古い一軒家。玄関を入るとまるで古い温泉旅館にきたかのような臭いがする。2階の窓を開ければ、遠くに山並みが見えた。一つの選択肢として住むのかもしれないけれど決して進んで住んでみたいとも思わなかったのもまた事実。

夜、春樹さんの「蛍・納屋を焼く・その他の短編」を読了。ピザ食べてビール飲みながら、EGO-WRAPPIN聴きながら最後のページめくった。


2001年6月22日(金)

人事部から退職手続きの書類がやってきた。ずっと望んでいたはずなのに、なぜだかショック受けたり寂しがったりする。ここ数日、何の変わりもなく普通のように仕事こなしていたし、成果もそれなりにあげていたから。
誰かが言っていたように会社を辞めるのは恋人と別れるのに似てちょっと心乱れる。
もうプログラミングをすることとも、山手通り沿いをランチ食べ歩くことももうないのかなんて思うとね。
2年3ヶ月続いた僕らの縁ももう終り。僕はまた違う道を歩くんだよ。


2001年6月21日(木)

クチナシの甘い香りがひときわにほいたつ夜に。
そんな夜にフライパンにごま油でイカとナスとシシトウを炒める。
そんな夜にEGO-WRAPPINを聴く。
そんな夜に窓開けて雨上がりの冷ややかな空気を吸い込む。

スウェン・ヘディンの「さまよえる湖」読了。探検熱に浮かされて中央アジアの厳しい自然の中を彷徨する探検家の話の面白いこと。湖の位置をダイナミックに変動させることで知られるロプノールへの旅への思いのなんと強いことか。


2001年6月20日(水)

午前中は数日でつくったシステムを納めに事故分析センターへ。四谷の橋の下にはのろのろとしたJRが走っていた。

最近、ご飯をしっかり食べているせいか、かなり体調がよくなってきた。こんな当たり前のことがどんなに大切なことか。


2001年6月19日(火)

夕食後、雨上がりの夜道を散歩した。庭先に咲く白い花から甘い香りが漂っている。1年前のダイアリを見れば、そこにクチナシの花とあるから多分そうなのかもしれない。1年前には知っていて今はもう記憶の糸からはずれてしまったものたち。

弟の彼女と会う。彼女が院で専門にとっている満州あたりの話する。ねじまき鳥を薦めてみたり。


2001年6月18日(月)

辞めるということが一部の人の中でしか知られていないせいか、転がり込んでくる仕事仕事。ただこなしていたら、いつの間にかフロアにも人がいなくなってる。もうこんな時間。
彼女んちに帰って、Cafe的な夕食ついばむ。「アンダーグラウンド」をこれから観ると意気上げてるけれど、僕は多分バタンキューだろう。


2001年6月17日(日)

渋谷のシネマライズで是枝監督の「Distace」を観てくる。ちょうど2年前にはこの映画館でこの監督の「ワンダフルライフ」を観ているから、ちょっと懐かしかったりもする。今回の映画では、オウム真理教をモチーフとして(固有の宗教名を映画の中では指していない)、事件後の信者の家族の思いをなぞった作品。この映画の中で是枝監督は出演者に大まかなストーリーのみを提示し、そこで起きうる会話等は全てアドリブという撮り方をしている。出演者が自分の頭で考えたことがここでは映画の中の会話となるところが面白い。出演者は演じるという枠を一歩越えて、事件を一歩離れて見る立場(つまり観客側)とメッセージを発信する側(監督側、製作者側)の双方をいったりきたりできるのだ。
そのために話は出演者それぞれの色が出てきて、錯綜し出し、主題が不明確になってしまいかねない。そこを是枝監督がどのようにまとめることができるか、御することができるかということがこの映画では重要になってくるが・・・。結局、監督自身のメッセージというよりかは、全てを観客側にゆだねてしまったと思ったのだがどうだろう。観客側にこのテーマの内部を考えてもらうのには成功しているとは思うけれども、映画としては”試みとしては面白い”程度の批評になるんじゃないのかな。

渋谷で警察署から電話を貰う。昨夜バイト帰りに飲みに行ったまま帰ってこなかった弟が泥酔状態で道端に倒れていたそうだ。なんだか人騒がせなということで済んだけれど、電話がきた瞬間は事故とか殺傷事件とかが頭かすめて冷や汗をかいたよ。


2001年6月16日(土)

東京に戻って2週間がたった。毎日、灰色の空から思い出したように細かな雨が降る日が続いている。小さな折り畳み傘をさしては、スーツの裾を少し濡らしながら歩く日々だ。会社はもう一月のうちに辞めることがほぼ決定した。まだ覚束ない未来に対して、焦燥に駆られることはなく、むしろ元気でいると思う。

現在、小さな部屋で弟と同居している。ダンボール箱に囲まれた不思議な空間だ。銀河を彷徨う宇宙船の中のような小さな空間だ。7月20日に日本(確か神戸か大阪)を船で出て、中国に渡って、そのままシルクロードを辿って西を目指し、中央アジアの山々や乾燥地帯も抜けてトルコに出て、そこからエジプトに抜けるという旅程を弟と組んでいる。大体3ヶ月くらいの長旅になるはずだ。規則正しい都市的な生活の中ではそのことを蜻蛉のようにまだ掴むことができないでいるのだけれど、どのみち1ヶ月後には僕は放浪の旅の途上にあるわけだ。

パソコンを立ち上げるのも2週間振りだ。といってもここは自分の部屋ではなくて友達のキッチンテーブルだ。間接光的に光る頭上の照明が網膜に疼く。世界の終りで一角獣の頭骨を読む作業をしている感じと言えば、わかってもらえるだろうか。こうやってまたダイアリをつけていることに不思議な感覚を覚える。指先はキーボードの上を軽やかに叩いている。これが僕の思考なのか、指の思考なのかがわからなくなるくらいに。
インターネットに繋ぐことができるのは更に一週間後のことになるだろう。僕は今完全にネットの世界の外にある。ネットとは繋がっていない分、僕はむしろリアルワールドにしっかりと繋がれている。早く帰って早く寝て、脳の活動を昼間に集中させている。僕の脳は小気味よく、くるくると回転している。

今日は休日だったから遅く起きた。村上春樹の短編を淡い光包む布団の中で読み耽っていたせいか、マスタードの入ったサンドイッチがどうしても食べたくなってスーパーを巡ってきた。彼女が珈琲店で豆を買うのを待っている最中に雨が音無く振り出して、通りには傘が開いていき、紫陽花の茂みが発光したかのような色彩を帯びていった。買ったばかりの朝刊を傘にして家に辿り着いた。弟も呼んで、白ワインをグラスに開ければ、ちょっとしたピクニック気分だった。こんなぐずついた雨模様の日にだって人は豊かに生きていくことはできるのだ。窓辺には高木の白い花が揺れていた。弟が「ナツツバキ」だよなんて言っているけれど、誰も本当のところは分からない。

サッカーを弟とテレビで観た後、ひとりで散歩。
しっかりと空気の襞を指先に感じて生きようと思った。
しっかりと地面の感触を足の裏に感じて生きようと思った。

僕は全てをいったん零に戻して生きていくだから、全ての先入観を綺麗に流して、生まれたての目で鼻で口で肌で物事を感じ、受け容れていくのだ。


2001年6月3日(日)

最後の最後まで遊んでしまった。さらば仙台。帰京します。


2001年5月31日(木)

流石に眠気が脳の螺旋階段をぐるりぐるり廻って思考力もいつもの半分以下。それでもどうにか納品。お客様にも満足頂けたしホントよかった。今日はぐっすり眠れそう。


2001年5月30日(水)

プログラムの検証にぎりぎりまでかかって結局2時。プログラマだけの問題じゃないだろ。自分の甘さを痛感。明日は納品、しっかりねしっかり。


2001年5月29日(火)

プログラムはどうにか一段落してきたけど、納品準備が・・・。あと一日がんばろっ。


2001年5月28日(月)

プログラマに依頼しているプログラムの出来が今ひとつで結局こんな時間。
もう少しきちっと仕事こなしてくれてもいいけど、むしろそれを頼んでいる僕の迫力不足なのかもしれないな。もし相手が閻魔大王でちゃんと出来ていなかったら舌をもらうからな!なんて言われたら、ぶるぶる震えながら細心の注意払って頑張るでしょ。先輩に「明日はプログラマに、こんなんじゃ話にならないってきつく言っておいてね。」って言われたものの、さてさて参ったな。きっと礼儀正しく頼んだりするんだろうなぁ。


2001年5月27日(日)

土曜は朝早くから何故か目覚めて、近くのミニシアターに相米監督、小泉今日子と浅野忠信主演の「風花」見てくる。東京と北海道が舞台で見ていると山の名前までわかってしまうのだけど、逆にわかりすぎるが故になんでこっちの方向に車を走らせているのにこの街がでてくるんだとか細部が目について困った。映画自体も今一。帰る場所のない二人という設定だけど、一体彼らがどこに帰ったのかがはっきりとせず曖昧にしてしまえば、結論も何も曖昧じゃないんだろうか。生きることの困難さを説いているとしか思えないし、一体それを説いて何になるというのか。
その後、仕事こなして、夜は同期と国分町へ。

日曜は睡眠足らずとアルコールが中和しきれていない脳のまま、会社で朝から仕事こなした。というのも昼から先輩と山形に遊びに行く約束してたから。ドライブしながら温泉などまわって帰ってきた。温泉だけが目的というのは実は初めてかもしれない。お湯の中で筋肉が弛緩してしまって今夜はぐっすり眠れそう。
仙台もラスト一週間なわけです。


2001年5月25日(金)

映画館のタイムスケジュールの紙の上にナッツを並べてみて、それを一つずつ人差し指でつまんで口の中に落す。それからウイスキーの冷たいグラスを手にとって、その強い液体を唇に当てる。あたたかな談笑のある夜のひとときを考えてみる。30近くのまだ若い青年が人々の間で話しをしている。「それが滑稽なことに・・・」と話の効果をあげるためにそこで区切って、まわりの人々の顔を見回している。そして彼が何かを口に出した瞬間、笑いの渦になる。中年すぎのよく太った女がひときわよく通った声で笑っている。そう、そんな夏の宵のことを。
なんでこんなことを連想してるかといえば、サリンジャーの短編を一つ読んだからだ。なぜだか心にひっかかって不思議な気持ちで僕は井戸の中を覗き込んでみた。そしたらそこに人の顔が写っていた。
ポケットの奥からナッツを一つつまんで井戸に向かって落としてみた。ゆっくりゆっくりと落ちていったそれは鏡のような水面に幾重もの波紋を生み出した。夜の闇のその向こうから人々の笑い声が聞こえてきた。


2001年5月24日(木)

ナオさんとのメールのやりとりの中で、GWの喜びにあふれた日々のこと書いたら、「文章を読んでて何となく、パキラさんのサイトの初期のダイアリの雰囲気を思い浮かべました。世界すべてが愛せるような、一瞬にしてすごく素敵な気持、文章の間から溢れ出ていましたよ」 とメールに書かれていて、何だか嬉しいようなそうでないような気持ちになったり。確かに僕のダイアリはある時期から「なんだか暗くなってきたね」と友達に言われるくらい毛並みが変わってきたのかもしれない。
初めの頃は純粋なものを信じていたのだと思う。だけどそれが日々を過ごしていく中でそうなくなっていったのなら、それは少し寂しいことだよな。
この先もきっといろんな風に変わっていくのだろう。
きめ細やかな優しさと春の太陽のような歓びに満ちたものになっていけたらいいな。

言葉は嘘をつかない。
僕の感性の鈍りは言葉の鈍りなのだろう。感性の迸りは言葉の迸りにつながっている。


2001年5月23日(水)

未来のために、今を耐えるのではなく、
未来のために、今を楽しく生きるのだ。
by 「ラブ&フリー」高橋歩

なんと明快な言葉だろう。
結果にいきつくためには、過程こそ大事なのだ。
そしてもしかしたら結果よりも過程こそが大事なのかもしれない。

遥かな旅はどんな旅?


2001年5月22日(火)

少しずつ仙台の日々が少なくなってきた。仙台を去りがたしというより、本社で息詰まって働かされるのに何だか気が重かったりして。
これまで手のつけなかった出張費のほうの通帳に長旅に耐えれるくらいのお金が入りそう。いい感じだ。
家に帰って何故か文章と向き合っていたりする。こうした文章を生み出す力、展開する力もある程度の数をこなして続ければある程度の力はつくのだろう。


2001年5月21日(月)

日曜、仙台の駅から新幹線に乗り込もうとした瞬間に電話。なんと盛岡から東京に戻ろうとした彼女と同じ客車で鉢合わせ。おかげで絶対座れまいと思っていた座席にちょっと罪悪感を感じながら座ることできた。「運命かな?」「いや、宿命だよ」って。

夜の渋谷で弟と会って(というより弟は川崎の僕の家に居候してるんだけど)、久しぶりに(もしかして初めて?)二人きりで飲む。シルクロードの話や海外の話で盛り上がる。中国から中央アジア抜けてトルコまで行って、そこから地中海沿いを南下してシリア、ヨルダン、イスラエル、エジプトなんて面白そうだね。まったく血とは争えないものだ。

物事は対比されることによって、より鮮明になる。と多摩川越える朝の通勤電車の中で思った。窮屈で拘束されると自由や解放感を望むのだろう。逆に完全に自由になってどこにも属すことなくなると、むしろ社会性を身につけたくなるんだろう。
山にいれば街恋し、街にいれば山恋し。みたいな言葉があったと思う。実際、学生時代には街中の雑踏の中にいると無性に山旅をしたくなったものだし、山でテントの中の生活が続くと好きな音楽を聞いたり映画を観にいったりしたくなったものだ。常に僕らはその繰り返しの中で生きていて、完全にどちらかに振り切れることはなかった。
むしろそのどっちつかずというものは重要なのかもしれない。

東京の部署で、僕は実は警察の仕事とかそういうものにはホント魅力感じられないんだなとそう思った。それでいて緊張感が背中に張り込めていて、またここで仕事始めたら頬がこけてきそうだなんてそう思った。

物事の対比に話を戻すと、僕は痛めつけ牢の床にはいつくばっているときこそ、恐ろしいことに僕の言葉は美しいものを凝縮させるために輝きだすのではないかとそう思った。
言葉があまりに透明すぎるということは実は危険な兆候なのではないかと。

春樹さんも身体を健全に保つことで心の闇を探ることもできる、というようなことを言っていたような気もするが、これも同じことだと思う。


2001年5月20日(日)

彼女が早々と盛岡に出掛けていったあと、プールで一泳ぎ。いまだに肺活量が小さく、何往復かしているだけで息が上がる。もし船に乗ることがあって、それが沈没して、木切れで漂流することになっても、いちかばちかで遠き岸を目指して泳ぐのは命を捨てる行為にしかならないレベルだ。そうなったら観念して木切れに乗って、人魚の島にでも流れ着くのを夢見ながら果てようと思う。
さて月曜は東京なのでサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」もって今夕中にでも移動することにします。


2001年5月19日(土)

木曜の反動なのかどうかわからないけれど、血の通いの悪い朝。
青山真治の「Helpless」。昔、外人の映画評でまさにHelplessと酷評されていたけれども、ぼくにとってもよくわからない映画だった。これを見て、心底感動する人はまぁいないだろう、きっと。
彼女を仙台駅まで迎えにいって、そこから買い物しながら家まで歩いているうちにようやく僕の血のめぐりもよくなる。
夜、東北大学の構内に立ち入って、羊たちが草食むのを眺める。休日の遅くまで研究にいそしんでいる研究者たちのいる窓からもれる光が目の前の草地に漏れて羊たちをうっすらと映し出していた。まるでそれが月光に映し出された草原のようなイメージを僕に抱かせた。そうした薄明かりの中では一見すると羊というよりは得たいの知れない古代の哺乳動物のような感覚さえ起きた。これが街中ではなくて、本当に人のいない草原だったら僕は少し怯えすら感じたかもしれない。


2001年5月18日(金)

早く切り上げて飲み会。普通の居酒屋だったから卸したお金も全然使わず仕舞。あと2週間ということで女の人が「一押しだったのに〜」なんてお世辞でも言ってくれるのは嬉しかったり。


2001年5月17日(木)

1時まで仕事やってた。久しぶりに遅いね。まぁ一日くらいならば僕の身体でも大丈夫だけど。仙台での最後の仕事の締めくくりにきっちしやっていかなっきゃ。きっちしね。


2001年5月16日(水)

会社では出張費の精算をあるソフトを使って行っているのだけど、僕がそのソフト導入後きちんと精算してなかったことが判明。未入金が数十万円に及びとんでもないことに。東京の課長にそのことでメールおくると、「おいおい。しっかりしてくれ。」と(僕に対してこれまでで最上級の)きつい言葉。流石にブルー(というよりブルーになるくらい自己反省すべきだと思う)。そちらの口座の通帳を引き出しにしまったまま、ほっておいたのが原因。今朝初めて記帳とはひどすぎる。不甲斐なくて自分に頭にくる。


2001年5月15日(火)

眠気のようなけだるさがお墓に戻れなかった幽霊のように脳の中を彷徨っていた一日。
こういう日は水車小屋で粉引きながら男がうつらうつら。
食事の時間だと呼びにきた頬赤き子供も子犬もその脇でうつらうつら。
しかし水車は廻り、粉は挽け、こんがりとパンが焼きあがるのだろう。

夜、彼女から非通知で2度電話をもらって、いろいろな人と理解することの難しさを考えたりする。
お湯入れながら、引き続いて水車小屋で考えていたら、サワランからの電話。
もうすっかり覚えてしまった声音が、きちんと並んだ楽譜の音符みたいに並べられた。
お湯につかりながら、その楽譜のことについて思い馳せた。


2001年5月14日(月)

ビル・エバンスの旋律を感じ取る夜。鍵盤を跳びまわる指先から僕の細胞に、空気は震え、心臓も草の上に放りあげられた川魚の心臓のように細かく震えるよ。

文章なぞ書いてみる夜。トニー・レオンのように煙草を加えたらカッコいいのかもしれないが、ぼくが喉をとおすことができるのはウイスキーのみ。でもロックアイスとグラスで揺れるその飲み物のなんと熱いことか。


2001年5月13日(日)

強くなってきた日差しを浴びながらプールまで歩く。家の前のテニスコートでは50代くらいの人たちが弾力のある音をたてながらラケットをふっている。

1時間後、家に戻ってきて、ベッドに座って、大江氏の「私という〜」を読了。彼は東大在学中に小説家としてデビューしたために小説家となるための助走期間があまりに短く、結局実生活での経験値の多くが小説家としてのものにならざるえないハンデ(こういう場合もハンデというのだろうか)があったそうだ。そして経験値を彼が読んだ本の中からも多く得ているのは面白いことだと思った。あと小説を書いているときに「あれ」がやってくる感覚というのがあるそうで、「あれ」というのは自動車のギアチェンジが自動的に上がって、物語が自分の中に完全に入り込んでいく様を言うようだ。谷川俊太郎と彼が話したときには、谷川氏は「あれ」をインスピレーションのように感じ取っているということだった。それが作家と詩人の違いということなのかな。

陽光が弱くなってきたところで、ウォン・カーウァイ(王家衛)の新作「花様年華」を観に行ってきた。これが期待を遥かに超える出来だった。カーウァイの作品の中で最も良いんじゃないかな。これまで何度か彼の作品を見るために足を運んだけれど、今回が一番閑散としていたのが、勿体無い気がした。クリストファー・ドイルのカメラの感覚はあまりにカッコよすぎて参ったし、マギー・チャンとトニー・レオン(これでカンヌ撮ったらしい)の演技が素晴らしかった。あそこまで演じられる女優ってそうはいないんじゃないかな。音楽もよかった(思わずサントラ買っちゃったくらい)。それにしてもウォン・カーウァイにこんな機微にわたった味わいのある大人の恋愛映画が撮れるとは思ってもいなかった。香港が舞台だったのだけど、エンディングはなんとカンボジア・アンコールワット。ちょっと蛇足気味ではあったけれど、あれだけいい映像撮っちゃうと「よし、入れちゃえ」ってことになるんだろうな。

夜、多和田葉子の「文字移植」読了。分裂気味の文章に(それがこの小説の狙いなわけだけど)ついていけなかった。


2001年5月12日(土)

サンドイッチ屋経由して、春の日差しをPOPなTシャツに浴びながら図書館に向かう。サンドイッチ屋では、スタンゲッツがかかっていた。コンポの前の椅子に座ったおかげでスタンゲッツのアルバムは一枚しかないことが判明。せっかくだからもっとボサノバ系を置いたらいいのにね。

図書館の前の欅並木はまるで静止というものを知らない。絶えず葉や枝がざわめいている。地上から3mくらいのところからいっせいに枝分かれして、建物の4階くらいのところ(図書館の窓の位置)まで梢が伸びている。下から見ると、やけに立体的に見えて、その視覚の感覚が斬新(変な表現)だった、
ナイジュリア出身の作家の「やし酒飲み」という小説を数十ページ読む。アフリカの土着民俗に根付いた摩訶不思議小説だ。やし酒飲みはやし酒つくりの職人を探すためにジャングルの中を旅していくのだ。ときに死神に会ったり、王や神に会ったり、強力な怪物のような息子を殺そうとしたりしながら。旅の中で展開する話に比べて、職人探しという動機が小さいことが不可思議さを呼ぶ。これを読んでいるとジャングルの広がりがやたら広く深く感じられて、簡単に地図として地球儀の中に大陸や国境を引いたりすることが、決してその土地を知ることではないことを教えてくれる。
世界の広さもそうだけど、図書館の蔵書量もすごいよね。英米文学の棚一つだって、一度きりの人生じゃ読みきれないよね。ひたすら本だけ一日中読んでいたら、一体どれくらいの棚の本を読むことができるのだろうか。でも世界は広いから、ひたすら図書館に半分住み着いて本の世界の中だけに生きている人もいるんだろうね。


2001年5月11日(金)

大江健三郎の「私という小説家のつくり方」読む。彼の本は、1,2冊しか読んだことなく、それも長編は未だに読んでいない(というか読めていない)。彼にとって、文章を書くということはなるべくしてなったというところがある。彼もまた春樹さんなどと同じように英語の原書を丹念に読んでいたようだ。そして彼の英語という位置付けが人との対話のためではなくて、むしろ自己との対話のためにあるという話が展開される。

最近、意識的に本を読もうと考えている。本の中の一節一節を丁寧に読むことで、彼らが僕に何かを語りかけてくれるのではないかと思うのだ。
いつか僕にも語りかけることができるだろうか。自分に語りかけ、もうひとりの自分の向こうにあるものに対して。

夜、彼女と電話している中で、弟の海外への旅のスタンスについて僕が思うことを話した。彼の旅は確固とした内面の中にあって、外界を見るのではない。外界への興味が先にあって、それが自分の内面に対してどのように働きかけるのかを楽しむところがある。
だから長期の長旅をしている人にありがちな、内面に閉じこもってしまうがために、外界に対してどんなものが現れようと感動できなかったりすることとは無縁なわけだ。虚ろな目で風景を画一的に見たりすることはないのだ。
そしてこのことは内面に壁をつくってその中で考える装置をつくっておいて、その壁を抱えたまま旅をする僕のスタイルとは逆なわけだ。僕の興味は外というよりもむしろ内なのだと思う。

あさってはサワラさんの試験日だ。頑張っている彼女にただただエールを送りつづけたい。
ときどき壁の割れ目から彼女の姿を探しているのだ。


2001年5月10日(木)

仕事をいまだに辞めさせてもらえない。ひどい話だ。いったい彼らに何の権限があって、僕の生き方まで規定できるのか。かなりうざったい。わかってるという振りをしている分だけ始末が悪い。こんなんだったら嘘でもついておくのだった。
溜息出そうな話はおしまい。

ヴォネガットの「母なる夜」読了。池澤夏樹の訳者あとがきに、ヴォネガットは日本でよく読まれている現代アメリカ人作家というように書かれていた。なんだか全然知らなかったよな。
この話はノンフィクションと思いきや、実は完全なフィクションなのだということだ。やるね、ヴォネガットさん。戦争で捕虜になったり、GEに勤めたりして、実際にこの道に入ったのは30才頃だったようだ。
最近、作家がどうして書くようになったかという経緯にすごく興味がある。

NHKのトップランナーは24歳の伊勢谷友介くん。モデルにして芸大を出たアーティストである。常に人にみられることに慣れているせいか、みられるという意識が自分を萎縮させる方向ではなくて、むしろ相手に何かを与える方向でありたいと考えているところに面白み感じた。


2001年5月9日(水)

柴田元幸という学者さんがいる。彼はポール・オースターの名翻訳家として知られている。
いまひとり、小沢健二というミュージシャンがいる。彼の音楽は軽い割に、詞は哲学的で深いものがある。
二人の共通点は何でしょう。
う〜ん、それは両方とも僕が好きだということかなぁ。
答えは、師弟関係でした。
こんなことお昼休みに東京の友達から教えてもらった。

くるりのアルバム「さよならストレンジャー」聴く。「虹」、それに「東京」もいい。
都会育ちの特に目立ちもしない外見の一方で、空が逆さまに落ちてくるような感覚を抱かせるような荒削りの内に秘めた強さとのギャップがなかなかよいのだ。


2001年5月8日(火)

脳の歯車がきれいにまわるのでいい仕事ができる。ほとんどお遊びみたいな感覚。

家帰って、「アクアリウムの鯨」を読了。谷村さんの処女作で、文章的には緊張感が微妙に抜けているし、ストーリーも自然に次の展開が果実のように落ちてくるというよりは落としている感覚に近いのだけれど、なんとなく惹かれるし、なんとなく進んでしまう。緩やかな坂道でボールを転がしているような感覚に近いものがある。

カート・ヴォネガットの「母なる夜」めくる。第二次世界大戦時にドイツでナチスの広報役を務めたアメリカ人の話。ナチスでありながら、またアメリカ側のスパイでもあるのだ。
章立てが細かく用意され、まるで細かく枝分かれした木のように話の節を巧みに散らしている。だらだらとせず、要約して描写しているので、読みすすめやすい。
これはやっぱり実話なんだろうか。
本の表紙に幼児の描いたような犬が笑っていて、裏を見たら、パブロ・ピカソとあった。


2001年5月7日(月)

スタン・ゲッツの小気味のよいサックスなんか聞いてたら、突然踊りだしたくなるね。「女と男のいる舗道」のアンナ・カリーナみたいにさ。リズミカルに身体揺らしてさ。

夜が長かったから、ミケランジェロ・アントニオーニ(大層なお名前)の「太陽はひとりぼっち」なんか観てた。アラン・ドロンにモニカ・ヴィッティーなんてこんな組合せってないよな。恋愛ものに関わらず全く浮かれることなくむしろ引き締まっていく画像。人を写さない場面の建物や木の存在感。巧いということなんだろうな結局。


2001年5月6日(日)

朝早く目が覚めてしまう。ベッド脇で本でも読みながら光が強くなるのを待つ。
珈琲でも飲みたくなって散歩ついでに街へ。
メディアテークの図書館に立ち寄って、ちょっとのつもりで読み出した本が2時間くらいにわたって赤いソファに僕をとどまらせる。NHKの「激動の河・メコン」。1980年代後半から90年代前半にかけてのカンボジアとベトナムの情勢や社会についてわかりやすく書かれている。こんなもの日曜のお昼に読んでるのはきっと僕くらいのものだ。結局、読み終えてしまう。

その後、ようやく喫茶店に立ち寄って、新緑の木々と陽光が織り成す緑のグラデーションを眺めていた。谷村志穂さんの「アクアリウムの鯨」など読み始める。この方は僕と同じ大学の同じ建物で応用動物学を専攻していたそうだ。とりあえずはこの方を目標にして頑張ろうかな。

夜、アトム・エゴイアンの「フェリシア」をビデオで観る。何が言いたいのか今一わからない。「スウィート・ヒアアフター」のときよりも更に頭をひねる結果に。


2001年5月5日(土)

1年4ヶ月ぶりに札幌に帰省してきた。
30日に帰札して、1日は大学周辺から楓庵(学生時代3年間住んだ共同生活体)を散歩、2日は円山公園の裏参道周辺を散歩、3日は尻別川への川下り、4日は楓庵で餃子Party、今日は札幌駅と大通りの間をぶらりして仙台に戻ってきた。
札幌での数日間で僕の体内のバロメータはおおよそ100%近くまであがった。栄養も気力も生命力もね。自分の身体に再び、自分が宿ったようなそんな感覚がするくらいだ。
3日の川下りはワンゲルの2つ下の後輩3人と行ってきた。尻別川は羊蹄山の山麓を囲むように流れていく川で、ゴムボートの上から富士のような羊蹄の姿を拝むことができる。雪解け水を湛えた川は水量がやや多く、部分的に高波になっていたりして、多少緊張の要する場面もあった。川岸の柳たちもようやく芽吹きを迎えようとしていた。マガモやサギが時折、ボートの前を横切っていった。忘れかけていた感情が川の水のように胸の中をほとばしり、ただただ雪解けの川渡る風を頬に当てた。素晴らしい気持だった。生き返るというのはこういうときに使う言葉だと思った。
その後、ニセコの温泉の露天風呂で、また翌日の楓庵での餃子Partyで、後輩達といろいろなことを話すことができた。みんないつの間にか大学院などに進み、就職などの問題に直面していた。何も包み隠さず、ありのままに話し、相手の言葉を注意深く聞き取り、相槌を打ち合う。そうしたことができる後輩達がいることをほんとにありがたく思った。4日はそのまま楓庵のソファでうたた寝したのだけど、朝起きてから住民達とぼぉっと外を眺めて静かな時間を過ごせたのもよかった。時間の流れ方がゆっくりと刻むようにすぎていき、ぼくはその流れの中からきちんと人の気持ちや自分の思いを取り出すことができると思ったくらいだ。

帰省中に春樹さんと柴田さんの「翻訳夜話」、ポール・オースターのニューヨーク3部作の一つ「鍵のかかった部屋」を読了。


2001年4月29日(日)

今日は天皇誕生日じゃなかった、えっと緑の日だったんだっけ。どこかで罪滅ぼし的に偽善的な植樹祭が行われているのだろう(皮肉屋だね)。まぁ植樹祭も環境教育的な面から見れば、わりばしを使うなというようなことと同じくらい重要なんだけどね。

夜、東北大(農学部)のまわりを散歩した。裏のほうから構内に勝手にはいりこんで、静かな温室棟の前を歩いた。どこかで以前かいだことのあるような牧草の蒸れた匂いが鼻先をかすめた。こんな夜には草たちも呼吸しているのだ、人や鳥たちのようにね。

朝、ビデオで「グッバイ・ジョー」みた。14才の少年がどうしようもなく不良となり少年鑑別所に入っていくまでを描いた作品だ。しかし不良ではあるけれど、借金ばかりの駄目父親(ヴァル・キルマー)にうんざりし歯向かいながらも、どこかで彼を愛し、また母親や兄を思いやっている普通の少年だ。うまく生きたいと思いながらもそれが受け容れられない世界。14歳にして早くも壁をみせつけられている少年を誰が責めることができようか。僕はこの映画のエンディングで教師役のイーサン・ホークあたりが少年の心を開いてあげて、きちんと正しい方向に進ませてやるものかと思っていた。が、現実は甘くない。少年は窃盗の罪で、鑑別所に送り込まれる。鑑別所の建物の中で、最後にそっとこちらを振り返る少年のまなざし。彼の将来は明るくない。誰かが彼を救ってあげることができればよいのだが。

夜、シネプレックスでジャン・ジャック・アノーの新作「スターリングラード」観てきた。第二次大戦のロシアとドイツの攻防を描いたスケールの大きな作品だ。この作品は戦争の愚かさとかナチや共産主義の意味を問い掛ける作品ではない、ひたすらスナイパーの息詰まるような戦いに焦点をあてている。そしてアメリカ製(監督はフランス人)にも関わらず主人公はロシア人なのである。ロシアのスナイパーといえば、いやが上でも冷酷な殺人鬼のイメージだけど、実際ジュード・ロウ演じる主人公は僕らが何も考えずに応援できるほどのヒーローではないのだ。銃口から敵の眉間を正確に狙って、頭蓋骨を貫通させるただの殺戮鬼といえばそれまでなのだ。恐ろしいことに人を殺すことの苦悩やためらいはここには描かれていない。銃の狙いが敵の額に定まれば、撃つ倒れる、打つ倒れるの繰り返しなのだ。湾岸戦争で米国がメディアに公開した敵陣に狙い定めて次々と爆弾をゲーム感覚的に落としていったのと変わりはない。祖国のための敵は殺してしかるべきというそれしかないのだ。実際にそういう戦争だったのだろう。恐らくこの脚本の原作はベストセラーか何かになったのではないかと推測するが、果たしてこの原作にはスナイパーの苦悩のようなものが描かれていたのかどうか。そうしたものを描かないで、スナイパーが生き残り、愛する人と再会するだけでは甘すぎるという気はするのだが、どうでしょう。
そういうところに疑問を残すものの、映画としては見応えはある。


2001年4月28日(土)

先週下北いったときにキューブリックの話になって、そういえば「時計仕掛けのオレンジ」しか見てないよな、なんて思って早速「2001年宇宙の旅」みてみた。ちなみにPCのDVDでみたから、ちょっといつもの映画の感覚と違うものあった。初めの猿人のシーンは面白いなと思ったけれど、舞台が宇宙になるとずっと会話が入ってこないシーンやストーリーそのものがぼやけているのでまぶた重くなってふらふらしてた。


2001年4月27日(金)

仕事もたいしてない一日。ほとんど趣味的にツールの整理なぞやっていた。

家帰って、「最後の物たちの国で」を一挙に読了。オースターは凄すぎる。小説というものが、言葉というものがここまで深く物事を表せることに畏怖すら感じる。オースター君、君には心底参ったよ!


2001年4月26日(木)

12時前に珍しく眠りの世界の門の前にいたら、電話の音。弟からだ。いよいよ松江引き上げて、上京してくるらしい。「お兄ちゃんHPどうかしたの。ヤフーから検索できなくてさ。」
彼の言うところによると、以前はヤフーで「パキラ」から検索したら4番目くらいに出てきてたんだよ、とのこと。それはすごいね。もしくはすごかったねぇ。
バイト漬けの彼はもう120万円貯めたなんて自慢気に話してた。カナダで暮らす資金にするみたいだ。
最後に一緒にシルクロード旅する約束してから、再び門の前に。
その後、もう1回、ベルが鳴ったりもしたのだけど。

早朝釣りに行く小学生並みにぱっと目覚めて、サッカーみました。守備的布陣を敷いてる分、ゲームの面白みは減るのだけど、さすがに世界の一流国と対戦するとなるとこれくらいしなきゃいけないのだろう。これくらいのゲームになると、勝機というものがビリヤードの球のようにあっちいったりこっちにきたり。日本もそうしたボールをきっちしつかむことがうまくなっていくのだろう。

自分の仕事は4時半に終わって、6時まで納品済みのシステムの改良など施して時間つぶし。さっさと帰ってくる。
小池昌代さんの「もっとも官能的な部屋」をとうとう買ってしまった。この方の言葉は豊かなインスピレーションを与えてくれるから好きなのです。片思いの人とようやく一緒になれたという感じ。いつかお会いしてみたいな。
家帰って、オースターの「最後の物たちの国で」を再び手にとる。これもかなり面白いです。
〜ひとたび物が消えると、その記憶も一緒に消えてしまうのです〜という一節が引っかかった。
確かに僕も学生時代、さんざん美しい心に残るような風景を見てきたし、そのときこの光景をしっかり心に刻んでおこうと思ったけれど、そうした風景は徐々に消えてしまうものなのです。心の井戸の中に溶解して細かい雪のように底に沈殿していくしかないのです。そしてそれは心象風景としてしか残すことはできないのです。それは記憶ではなくて夢のようなものなのだろうと僕は思う。
そんなことに頭よぎらせながら、マンションの前の通りを流れていく車の音の余韻を耳に感じていた。

夜、久しぶりにトップランナー(NHK)みた。いつの間にか司会が田辺誠一さんとはなさんに変わってた。今回は三池崇史監督。僕の好きな「中国の鳥人」つくった人だ。ただこの作品以外はあんまり観てみようと思えるものがないんだけどね。
それにしても何かを生み出している人の話ってなかなか刺激になるね。自分の好きなことを話すときの人の目ってホントにいいものだと思う。


2001年4月25日(水)

ウイスキーあれだけ飲めば、胃の重たき朝なり。でも目覚めはよし。飲んだ翌日の朝って、なんで覚醒気味になるのだろう。

明朝はサッカー(日本vsスペイン)みたいから、早めに寝よっと。


2001年4月24日(火)

あれれ、一日分飛んでる。おかしいなぁ。
しっかり遅くまで仕事やって、きっちし帰っていくサラリーマン的一日と思いきや、駅の地下道で飲み会帰りの先輩たちと偶然会って、そのまま国分町行き。10代の子、相手に一体何喋ってるんだか…。


2001年4月22日(日)

今月3回目の上京。第一の目的は従兄の結婚式。親族なのに、パーティー感覚で色シャツにスーツ着てったのはちとまずかった。だいたい礼服を着るべきかどうかで会場につくまで全く頭を回さなかったは反省。親父は、若いのはそれくらいのほうがカッコいい、とかなんとか好意的に見てくれてたけど。
良い結婚式だったけれど、僕はあれの主人公になるのは溜息でるくらい避けたいななんて相変わらず思ってる。誰かのスピーチで「結婚をしたら、ひとつだけ実行して欲しいことがあります。それは毎朝「おはよう」と言い合うことです」だってさ。思わず阿呆くさって思っちゃったよ。「おはよう」すら言い合わないで夫婦続ける意味なんて全く無いよ。そうなったら、即離婚すべきだと思う。大体、挨拶くらいできない夫婦なんているんだろうか?…いるんだろうなぁ。人に言う前に、あなたがやればって感じだよなぁ(冷笑)

行きの新幹線で金曜の夜に終わらなかった仕事してたくらいだったから、さすがに疲れちゃって、友達の家でぐっすりしてた。なんだか友達の家が自分の家以上に温もりを感じるよなぁと思ったのだけど、どうやらそれは明りのせいのようだ。淡い光というのは人の心を解放させてリラックスさせる効果があるみたいです。

日曜は三茶から下北沢まで歩いた。同じ大学出のライター志望の子とタルコフスキー好きでカメラを偏愛してやまない男の子の4人でいろいろ歩き回った。話は映画やライターの話なんかで、とても刺激的で楽しかった。もっと友達持とうって本気で思った。ということでサラリーマン辞めたら、学生のときのように交友関係を広げようかと思う。いいでしょ。
帰りの新幹線で、オースターの「幽霊たち」を読了。


2001年4月20日(金)

社会人になって3年目。とうとうコンビニ弁当生活に甘んじてしまっている。自炊する気がしないほど遅い日が多いのが原因でしょう。東京にいた頃のカロリーメイト的食生活と比べるといいのか悪いのかよくわからないけれど。
あまりに化学調味料に舌を慣らしてしまうと、微細な味覚を感じる力が失われてしまうのだろう。なんだか恐ろしいことだ。
もっと丁寧に生活おくらなきゃ。


2001年4月19日(木)

また一日また一日と日はたっていく。
ボトルのウィスキーが少しずつ減るけれど、抜け出たいと思うこの気持ちはグラスの中で溶けることもない。


2001年4月18日(水)

やりたいこといっぱいあるのに、あっけなく一日の幕はとじて、ベッドに潜りこむのみ。
「モーヴァン」読了。訳者などが褒めちぎるほどの作品ではないけれど、既に書くという行為に何かの意味を見出している時点で共感を覚える。
お昼休みに読んでた小池昌代さんの詩、素晴らしい。イメージが喚起され、言葉が土の中から生まれてくるようなそんな気になる。詩集が欲しくなってきた。


2001年4月17日(火)

東京のせいか、何だか身体のきれ悪い。
操りきれない操り人形の心持ち。


2001年4月16日(月)

週末、桜前線の到来した仙台から東京へ。
土日は随分とのんびり過ごした。
友達の家の窓から春の心地のよい日差しが等しく街に注がれているのが見えた。庭先ではネコが柔かなな黒土の上をそっと歩き回り、隣の家の庭先の犬が暇そうに外を眺めているのが見えた。

そして今日は午前中に課長と夕方に部長との面談。
課長はようやく納得してくれたみたい。だけど、部長がまたもや難関。
僕の自信のないところをしっかりつっこんでくる。確かに僕の言い返す言葉にも説得力の欠片もない。そして何よりはっきり言い切れるほどの自信だってないのだ。
当たり前だよ。いったい誰がやってもいないことをやれるなんて断言できたりするんだ。
僕は相手を説得する前に自分を説得するような材料がなければならないのだろう。
それにしても、入ることに比べて出ることがこんなに大変なんて。ふひひひふー。

///
日曜日、カンボジアへの興味尽きず、2度目の「キリング・フィールド」。涙が頬を伝って畳まで落ちていった。もっとこのあたりの歴史の経緯を知りたい欲望が強くなった。

ある雑誌への作者の紹介文から興味もった小説。アラン・ウォーナーの「モーヴァン」。ワーキングクラスから一念発起して作家になったという彼だが、情景描写が細かい上に単文の積み重ねでなかなか読みにくい。ただ女性主人公が最愛の人の身体を、最終的には物や部品としてしか見ていないというクールさにはちょっと驚いた。ただ終盤にきて、物語の熱を下ネタにすりかえてしまったのは勿体無い。それともこういうことが彼の中では普通なんだろうか。


2001年4月12日(木)

仙台の街もとうとう桜盛り。というのにひねもすPCと睨めっこ。
夜、いつもの喫茶店で読むのは「アキラ」。学生時代に読んだはずなのに、見事に記憶力が減退していて楽しめる。
来週月曜、いよいよ東京で部長と面談ってことになった。ようやくという感じだけど。


2001年4月11日(水)

ネムの木状態。葉っぱがパタンパタンと丁寧に閉じていって、僕のまぶたも閉じていく。


2001年4月10日(火)

山形という言葉からまず連想されるのは、おうとうよりも蕎麦なのかもしれない。
去年、東京のJRの山形県の観光ポスターに、色とりどりの蕎麦の写真がずらっと並んだものが僕の目を引いた。蕎麦でも食べに山形でもいってみるか、という気にさせるそのポスターは広告的な観点からいって秀逸であったし、なんといっても山形→蕎麦→山形という流れるベクトルが僕の脳の中では生まれた。
だから山形への出張となると、やっぱり昼ご飯は蕎麦?なんて期待してしまう。
そんなわけで今日の打ち合わせの用意をしながら先輩に「蕎麦が近づいてきましたね」などと軽口を叩いていたのだ。
行きと帰りにそれぞれ蕎麦すすって満足なりの山形への出張。
それにしても11:30OPEN、15:00CLOSEなんていう手打ち蕎麦の店(美味也)なんか水田地帯にぽつんとあったりするのだけど、これいかに。
・・・とにかく蕎麦へのあくなき欲求は続くのだ。


2001年4月9日(月)

終電逃がしてタクシー。そして勤労者の一日は終わった。


2001年4月8日(日)

夜、つくったパスタ食べながら「地雷をふんだらサヨウナラ」観た。実はたいしたことないんじゃないかってかなりくってかかったところがあったのだが、カンボジアの哀しい紛争が垣間見られたこの映画はそれなりに実りあるものだった。一ノ瀬カメラマンを浅野忠信が演じていた。彼が演じると妙な演技感というものが希薄なために逆にリアルだったりする。一ノ瀬カメラマンを命をかけたジャーナリストという尊大な見方をするのではなくて、単なる九州出身の一青年と捉えたのは正解だった。英雄物語ではなく、これはカンボジアの紛争を一日本人から同じ目の高さから垣間見た体験記となっている。それにしても、こうしたアジア(または世界)で起きている血の争いくらい、きちんと把握してからベトナムとかに行けばよかったとちょっと後悔した。無知はときに悪になる。そんな名言があっただろうか。
ただジャーナリズム映画としてはやはり「キリングフィールド」のほうが上かな。

 

本屋でまた本をまとめ買い。
今月の広告批評はテーマが「いま言葉を書く」ということで迷わずゲット。川上弘美さんや室井佑月さんや谷川俊太郎氏へのインタビューなど載ってて参考になる。
それに「ROOM+」。カッコいい椅子がたくさん紹介されてるし、ちょっと気になってるボニーピンクが喫茶店の紹介記事なぞ書いている、少し迷ってゲット。
それに小説と紀行文など。なんだか自分の興味が今一番何にあるかを如実に表している。人を知りたければその人の本棚を見るべし!

それからピチカート解散ということでベスト買ってきた。東京は夜の7時、なんだかとても懐かしい。これを聴いて、厳冬期の十勝岳思い出すのは僕くらいのものだろうか。


2001年4月7日(土)

休みの日はいいものさ。
朝から細い腕で水かいてプールの中をゆったりいったりきたり。
するんとした水着の女の子たちがぞろぞろやってきたとこでさっさと水泳帽子とって出てきた。

相変わらずサンドイッチ屋に入って、今度はオースターの「最後の物たちの国で」なんか読んでる。
それから家戻ってきて、ゆっくり過ごしてた。
マンションの玄関前から東北大の構内に羊たちが何やら頭を木に寄せ合って相談でもしている姿が見える。
内に何か秘めてそうな不思議な動物だな。
動物占いが僕は羊だからなんとなく気持ちがわかりそうな気もする。
マンションの裏には仙台の消防局(ちなみにここのシステムも仕事でちょっとかじってたりする)があるのだけど、消防士たちの訓練の威勢のいい声が響いてきたりする。

家でベルトリッチの「ラスト・タンゴ・イン・パリ」と彼の最高作ともいわれる「革命前夜」みる。
批評家のいうとおり、「革命前夜」には当時弱冠23才だった監督の早熟な才気にあふれているのがわかる。が、思想書など読まない現代の日本の26才にはそれに熱い思いなど抱けるわけもない。
「ラスト〜」はそれほどの作品じゃない。性描写が物議醸し出したそうだけど、僕は明治生まれの禁欲者でもないから何がセンセーショナルなのかよくわからなかった。


2001年4月6日(金)

深い木立が庭先にあって、その脇に古い木造の家がひっそりと佇んでいる。木立と家はずっと昔から寄り添って生きている。互いの存在なくして、自分の存在などありえないかのように。
夏の初め、空がいつの間にか暗くなり、地上すれすれに飛んでいく雨雲から驟雨がひとしきり降りそそいでいった。
木々たちは無数の滴たちをその梢に受け容れ、幹はしっとりと濡れた。家の屋根瓦の脇の雨どいを水たちはするするとおりていく。
家もまた雨にしっとりと濡れ、窓から仄かにさしこんでいる光だけが静かな光陰を宿している薄暗がりのその部屋に、木たちの呼吸する匂いがそっと立ち込める。あまりの生命力の強さにぼくは思わずむせてしまう。部屋の中の空間ですら既に木々や下草たちの濃厚な匂いに占め尽くされていて、もうあきらめて背椅子に深く腰掛けて小さく息するしかない。
そんな古い家に住んでみるのも悪くないと思った。そしたら四季の細かな移ろいや天候の微かな動きを知ることができるのだろう。

なぜそんなことを考えていたんだっけ。
お昼休みにネットで読んだ小池昌代の詩のせいか。
いつも五感が立ち働いて、微かな微温を感じ取ることのできるように。
そして言葉が言葉であるように。


2001年4月5日(木)

NHKで教育に関して著名人がもの申す的な番組やっていて、建築家の安藤氏や宇宙飛行士の毛利さんや心理学者の河合氏が現在の日本の教育について話されていた。
安藤氏は高校卒業後、世界中を放浪して有名な建築を見て廻ったという。彼は建築学を机上で学ばず、自分の体験から独学で学んでいったのだという。本当にやりたいと思ったことは自分からやりだす。学校というのはそうした契機を与える場だ的なこと言われていて、確かにと思った次第。メディアに出すぎとかそういう批判ももたれている安藤氏だけど、やっぱりある分野で自分というものをしっかり表現されている方の話というのは重みがあるなと思った。破天荒に自分の夢追いかけてきたBIGな人たちの話というものをもっと聞いてみたいななんて思ったよ。

「ラブ&フリー」、写真が言葉がしっかと胸に届いてくる。今日読んだとこでいいなって思った詩篇。
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「でっかい花」

ゆっくりやりてぇなら、胸張ってゆっくりやろうぜ。
ぶらぶらしたけりゃ、飽きるまでぶらぶらしようぜ。
ココロに引っかかることがあるなら、納得できるまで遠回りしようぜ。
「年相応の世間体」なんて気にしてたら、自分を小さくするばかり。
「人生」とは、生まれてから死ぬまでの全ての期間をさすんだ。

「人生、男子は一事を成せば足る」
いつか、死んでしまう日がくる前に、
一回でもいい、一瞬でもいい、
命を精一杯輝かせた、
でっかい花、咲かそうな
****************************

僕もでっかい花、咲かせたい。
それにしても「放浪しちゃえば?」はいいフレーズだよな。
投槍なんだけど、「・・・そしたら君らしく生きてけるよ」とかなんとかそんな言葉が後に続きそうだもの。
放浪しちゃおうかな。


2001年4月4日(水)

HPとしてアップしないことがわかっているとどうもダイアリつけることに熱意もてなかったりする。
結局、誰かに認めて欲しくて書いてたのかしら。
それでもやっぱり誰かに話すようなつもりで思考のねじをまいて書きつづけなきゃ。うん。

7時前に会社でて本屋(JUNKUDO)寄ってきて、買いたい本かたっぱしから買ってきた。オースターに、旅行人ノートのシルクロード篇に、「ラブ&フリー」という世界の放浪旅の記録。あと「Z-KAN」という雑誌(特集名はオザケン的言い回しの「僕らが旅に出る理由」、「東京ゴミ女」のヒロイン中村麻美さんのインタビュー記事も掲載されている)。
「ラブ&フリー」のカバーには”放浪しちゃえば?”という挑戦的でかつ魅惑的なメッセージが躍っている。この作者の高橋歩さんは僕より2つ年上で、ちょうど26才のときに思い立って、北極から南極まで2年間の放浪旅をしたんだ。デジカメで撮った写真も、そしてそのわきに添えた文章も素晴らしい。弟にも教えてあげたいよ。ちょうどいい時期にいい本にめぐり合えたものだ。
それにNHKのTV会話講座の中国語とフランス語。中国は多分旅行にいくはずだから。フランス語は単に興味があるから。まぁお遊び半分でちょろっと齧ってみるつもり。


2001年4月3日(火)

1年3ヶ月続いたHPを休止させた。
リアルワールドのほうをしっかり考えなければというのが大きい。
それにパキラ☆さんがぼくから離れて歩こうとしてたり、ぼくがそれを近くに引き寄せようとすると結局リアルワールドとの境界を踏み越えてしまう。
もう少し余裕が出てきたら、再開しよう。
…反面、僕が心を砕きたい人たちに会えないのは心苦しいのだけど。


2001年4月2日(月)

ここに僕が文字を書くたびにリアルワールドでは少しずつ自分のかけらが失われていくのだったら恐ろしいことだ。
一番わかってほしい人から僕の虚構がまるでビー玉のように安っぽくて、底も奥も感じられないような魅力のないものにしか見えないと言われたらどうだろう。
僕は僕の墓を暴き、そこに乾いた五臓六腑と歪んだ頭骨でも見つけるんだろう。
冷たいナイフの刃先さしこんで、肋骨の下に心があるかどうか確かめてみるがいい。
蛾の幼虫を潰したような青汁が汚く流れるだろう。
冷笑失笑嘲笑、泥の上に唾はいて、もう一度土の中にでも戻してやるがよい。
桜の樹の下に死体が埋まっているなんて呟いたのは誰だったか。

結局、僕が言葉で生み出そうとしてる美しいものも、あまりにそれとは相反する陰が呼び覚ますものでしかないのか。汚いものから目も耳もふさいで、まぶたの奥に微かな色使いを探して夢想してるんだろう。

東京は桜の花盛りだった。死体を感じることができないくらいの花盛りだった。
仙台帰って仕事した。脳がとち狂った。実はこれが正常の脳の状態と言うらしい。多分言うらしい。