『非日常がもたらすもの』
旅に出ているときは日常の中で当たり前だと考えていたことをもう一度根底から考え直さずにはいられないことが多々ある。特に自分が何かを探し求めているときには。僕にとってそれが顕著だった旅はシルクロードの旅以外にない。僕は弟という鏡を通じて、自分という人間について考え、生き方について考えた。あるいは中国という国の教育や人々の思想から日本の教育や社会を考えた。キルギスに一番金を出しているのが日本だと知って、僕はODAの現状について考え、貧富について考え、貧富を越えた友情というものがありえるか弟と議論した。毎日毎日、そばに弟という話相手がいたせいなのかもしれないけれど、僕は様々なことを感じる度に様々なことを考えた。それは僕がある意味、まったくゼロの状態に近かったからだ。一旦自分のもっていた価値観をもう一度ゼロに戻した状態で旅に出ていたからだ。僕は何かを見るたびに感じるたびに考えざるえなかったのだと思う。
今、「モスキートコースト」(未読だが映画は観た)の作者ポール・セローの「古きアフガニスタンの思い出」を読んでいる。アフガニスタンのことも出てくるのだと思うが、これは作者の各国旅行記であり滞在記だ。セローは前書きで旅行記は小説と比較して全く金にならないような仕事だったと断っている。金にはならなかったけれど、彼が小説を書く上でなくてはならなかったものだとも書いている。
中を読めばその理由はわかる。最初、中央アフリカの話などが出てくる。彼は本当に非日常の積み重ねの中で(それは半分日常になりつつあるのだが異国人であることに変わりはない)色々なことを考えている。多分その積み重ねが彼の小説に繫がっていったのだと思う。
ウガンダでは内戦のために夜間外出禁止令の最中にある町を体験している。朝が来るたびに側溝に人が死んでいるのを発見するような日常なのである。夜の間、人々は家にこもってただ時間をつぶして、不安と孤独感を押しのけようとしている。そうした極限状態の中で、人々は(そして作者も)奇異な行動に走ってしまう。男友達と女を二人ひっかけて夜を共にする。彼らは互いに選んだ女とセックスしてから二人で誰もいない危険な闇夜を散歩する。そうして戻ってから女を取り替えて再びセックスする。女は男が上に乗っかった途中で気付く。しかし、笑う。二人の男は行為を終えた後、廊下でくすくす笑い合う。ああ、これわかるなぁと思った。押しつぶされそうな不安にあるとき、人はどうにか馬鹿げたことをして不安を解消しようとするものだ。考えることを止めて身体的なことに委ねようとする。
これは確かにかなり究極的な例だけど、彼はそうした非日常の連続の中を生きている。そうして思索を重ね、小説という形でそれを産み落とす。ある意味、旅と言葉の二軸を掲げる僕にとってはセローの方法は一つの理想のような気がする。
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