2004年12月28日(火)

 ふらふら頭で起き上がって、プリンタのインクジェット買いに出かけた。電器コーナーを眺めていたら、家庭用の生ゴミ処理機というものを初めて見かけた。一人暮らしだからそんなに生ゴミが出るわけではないけど、欲しくなったよ。その前に朝壊れてしまった炊飯器の代えを買わなくては。
 Esquireの2月号が「旅する写真家」と題して、ティルマンスの写真などを取り上げている。HIROMIXとティルマンスの対談なんてあるよ。早速買って珈琲飲みながらぱらぱら読んでいて、店を出るとあら不思議、感覚が明らかに研ぎ澄まされている。なにげなく見える街角の風景ですら、ひとつひとつの瞬間の集積から成り立っていることが、わかってしまうのだから。

 *
 明日から旅というか旅行に出かけてしまうので、賀状を書き終えた僕は2004年を振り返ることにしよう。本52、映画52、舞台15、展示14、コンサート5。来年は海外文学をもう少し読みたいのと、オペラ観たいのと、地方の美術館行きたいなぁ。

小説ベスト
01 「間宮兄弟」 江國香織
02 「ニシノユキヒコの恋と冒険」 川上弘美
03 「五分後の世界」 村上龍
04 「共生虫」 村上龍
05 「蹴りたい背中」 綿谷りさ

新書ベスト
01 「自由を考える 9.11以降の現代思想」 東浩紀/大沢真幸・
02 「世界経済入門 第三版」 西川潤
03 「経済敗走」 吉川元忠

映画ベスト
01 「ロスト・イン・トランスレーション」 ソフィア・コッポラ
02 「2046」 王家衛
03 「シティ・オブ・ゴット」 フェルナンド・メイレレス
04 「猟奇的な彼女」 クァク・ジェヨン
05 「しあわせな孤独」 スザンネ・ピエール
06 「スパニッシュ・アパートメント」 セドリック・クラピッシュ
07 「ラスト・サムライ」 エドワード・ズウィック
08 「グッバイ・レーニン!」 ヴォルフガング・ベッカー
09 「21グラム」 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
10 「秋刀魚の味」 小津安二郎

舞台ベスト
01 「Aida」 NY
02 「アイーダ」 劇団四季・大阪
03 「赤鬼 日本バージョン」 野田秀樹

展示ベスト
01 メトロポリタン美術館 (NY)
02 花と緑の物語展 フランス近代絵画 (東京現代美術館)
03 野口理佳「飛ぶ夢を見た」 (原美術館) 








2004年12月27日(月)

 仕事おさめ。解放感も手伝って、アイリッシュバーで飲みすぎたよ。


2004年12月26日(日)

 トラブルなく4日間おわり。暇な時間をつかってジェンダー論の教科書を読破。概論を読むと、掘りすすめたくなる。


2004年12月25日(土)

 ふつうによいイブだったかな。来年には忘れているンじゃないの、なんて言われてしまったけど。プレゼントにネクタイもらって今日はそれつけて仕事してました。


2004年12月23日(木)

 澄んで乾いた冬の空気。さぁて今日からスクーリング対応。若干のトラブルもあったけど、すべて予測内の出来事で初日突破。今回は上司は別のところにいるので、ひとりのおつかいという感じでリラックスじゃなかった、緊張しなっきゃね。


 *
 INCOGNITOの「Adventures In Black Sunshine」。かっこいい。それにしてもすごいメガネだな。僕もこの前見た999.9(なんと読むのやら)を買うか考え中。(そう、僕は0.1なドライアイなのだ。このブランドだったら足して1000パワーだ。)





2004年12月22日(水)

 ヘアカットして美容師さんと話すことしきり。はさみを使うとき、片方の指は動かさないということを教えてもらったぜよ。


2004年12月21日(火)

 20、30代の職員飲み会の幹事。上下の関係なく意見を言い合える土壌のあるところがいいと思う。あんなに飲み会嫌いだった自分がこうやって人と人を繋ぐ緩衝材になっているところは我ながら成長したなって思うよ。


2004年12月20日(月)

 弟と電話で話していたら、彼がアン・サリーのファンでCDを全部もっているということ、を始めて知った。もう少し、他人が何に興味をもっているか知ろうとするべきだね。


2004年12月19日(日)

 昨日もらったMD、アン・サリーの「ヴォヤージュ」繰り返し聴いてた。ボサノバなのだけど、すごい気持ちいい。メールで訊くまで、彼女が日本人だということが気づかなかった。職業はお医者さんなんだって。

 
 佐伯啓思の「自由とは何か」(講談社現代新書)。自由というものが現代では抑圧や抑制、あるいは規範のようなものが失われてその意味合いが揺らいでいるのではないかと論を展開する。リベラリズムの展開する論拠にしても、結局その前提(共同化された価値観)が必要であり、それが国といったレベルで必要なことから、すべての自由のかたちが保証されているわけでなく、結局のところ個人の自由に話を戻すしかないという。ハイデガーを紐解いて、誰もが迎える死(≒この生の偶然性)を引き受けることによって、共同体への責務として自分は何を引き受けなければならないか、そういうところから自由を、好き勝手にやるということではなくて使命や役割を自己に課すものとして考える必要があるのではないかという話になっていく。
 佐伯さんの本はいつもながら面白いが、どちらかというと、経済や政治のお話のほうが論が切れるかな。












2004年12月18日(土)

 宮崎駿の「ハウルの動く城」。宮崎アニメにしては全体を流れるテーマが弱く、キャラクターやシーン相互の意味の連関性が弱いようにも思えたけれど、ふつうに楽しめました。最高傑作とはいえないけれど、それでも観終わった後、温かい気持ちになる。誰かを大切にしたくなる映画って、そうはたくさんないものね。


2004年12月17日(金)

 吉田修一の「春、バーニーズにて」途中まで。この作家の描き出す世界観というのは、ソフィア・コッポラのロストイントランスレーションにも似ている。人間関係が非常に希薄で表層的であり、お互いに深いところまでいこうかなと思っても、やっぱりいけないよなといったような感覚。そうした人間と人間との微妙な距離を描いているように思う。彼らは、表層しか知らないのではなくって、深い関係というものを知っているのだけど、そこにはお互いを嫌なくらい知って(なんかオザケンの歌のフレーズにもあったね、こんなのが)、はじめて成り立つものだということを知っているから、なかなかそこまで踏み出すことができない。
 二つ目の短編「パパが電車をおりるころ」には途中で村上春樹の「羊たちの冒険」が出てくる。この使い方が絶妙で小説技法的にもちょっと感嘆しちゃうのだけど、ここでは誰かと深い関係をもった経験(=村上春樹の小説を読むような体験)をまったく忘却してしまっていることの比喩として使っているのだ。もちろん、その経験の意味合いはわかっているのだけど、経験の実体を消してしまっているってわけだ。僕らの東京ライフは、その実体をどこまでも心に留めてセンチメンタルに浸れるほど、余裕のあるものではないのだろう。満員電車の静けさの中で、叫びにも似た苦しい問答を続ける主人公ときっとそれぞれの問題を抱えている同じような乗客たちがいて、そこから亥の先に光の中に飛び出していけるのは、なんと一匹の蝿でしかない。(ここも横光利一をひっかけているんだろうね。)・・・


2004年12月16日(木)

 なぜか保健室の女性の送別会に呼ばれる。強風の中、自転車こぎこぎ裏路地のお店へ、すごく楽しかった。こんなふうにいつもリラックスしてなっきゃ。


2004年12月15日(水)

 後輩ができたおかげで仕事にすごく余裕がある、師走だというのにね。この分だと、多忙期も早く帰るという珍目標が案外楽に達成できるかも。


2004年12月14日(火)

 課の忘年会。いろいろ話して、しばし反芻。


2004年12月13日(月)

「かたつむりな耳から顔をだしてみて」

 この世界の大きさは僕だけで測れるものではないのだと思う。習い事で会う人たちの世界観の広がりにときどき驚いてしまう。かくいう僕は耳栓を耳のどこかに詰まらしたみたいに不調だったよ。


2004年12月12日(日)

 オープンキャンパス対応。高校生の進学相談してたけど、少女マンガみたいに希望で目がキラキラして、いいなぁって思ったり。そのまま、すべてがうまくいくといいんだけど。
 二晩、弟が上京して泊まっていって、いろんな話。厳しい修行時代という感じで、自分の二年前の生活を思わず振り返ってみたり。バスのエンジン音こぎざみに乗客は厚いコートの中で押し黙り、外降る雪眺めているうちに曇りガラス自分の顔が映って、お前はいったいどこにいってしまうんだろう、って何度も思ったこと。お金がなくって、髪のカットもバイトの給料が入らないと行けなくて、そして美容師さんに好意をもってたのに、自分の身の苦しさに誘うこともできなかったこと。
 今夜は豆乳鍋。友達がやってくるのを心穏やかに待つ。kings of 〜の優しげな声聴きながら。この部屋はなんてあたたかいのだろう。


2004年12月11日(土)

 8つ上の従兄の結婚式で横浜まで。ちょっぴり感動して、涙が出そうになった。


2004年12月10日(金)

 むしゃさんに教えてもらったLOHASってなんかいい言葉だな、と思って、この機会だからマジメに分別に取り組むことにした。プラスチックをペットボトルとその他プラスチックに分けて、燃えるごみからざら紙と牛乳パックを救出して・・・、ってやってたら何かゴミ袋の数が増大してしまった。しかし、ちょっと星の王子様に近づいたような、ちょっぴりお利口さんになったような気がする。あと、コンポストとかあれば、燃えるゴミはほとんどなくなるんだけどなぁ。
 景観法も制定されたし、将来は環境ビジネスでもやりたいものだなぁ。やりたいこと多すぎ?


2004年12月9日(木)

 このところ、すばらしく早い時間に帰宅できるようになってきた。今日なんか18時前には家のホットカーペットに坐臥していたわけだからすごいよね。蓮根・里芋・牛蒡・鶏肉で煮物をつくったり、音楽聴きながら本を読んだり、ポテトサラダつまみながらビール飲んだり、ということで12月の夜はゆっくり深くなっていく。


2004年12月8日(水)

 昨日のダイアリ、なんか他人事のように書いているけど、実は犬にはすごく会いたいって思ってる。今、一番会いたいものNO1かもしれない。犬は裏切ることを知らないから、すごく好きなんだ、と書いてみて、ちょっと僕はひねくれてるかもって思う。もし、この先、何かの拍子でシングルだったら、犬と一緒に暮らしたいなって思ってるくらい。
 猫はその点、なんかクールなところがあって、心底愛することができないのだけど、もし実家の猫の命が危ないのなら、最期にぜったい会っておきたいなって思う。本当に危ないなら、僕は明日仕事休んで札幌まで行くよ。
 *
 むしゃさんに薦められた、小川洋子さんの「まぶた」という短編集を読んでいるのだけど悪くない。シュールレアリスムのレメディオス・バロの絵の中に迷いこんだような不可思議さと、それでいて毛布でくるまれたような温かみがある。少し村上春樹の作風に似ているところがあって、多少影響を受けているようにも思う。って検索してみたら実際に読書歴について明かすこんなページがあった。冒頭の「飛行機で眠るのが難しい」が特に印象に残った。



2004年12月7日(火)

 母親からメールがあって、実家で買っている犬と猫のことが家族のように書いてあって、なんだかちょっと"しゅん"とした。犬は10歳になってこれまで病気知らずで親孝行だとか(完全に擬人化しているわけだなぁ)、猫は17歳になってテーブルに飛び上がれなくなって食べる量が減っていきなり100歳になってしまったようだとか。保坂和志の「カンバセイション・ピース」でも描かれていたけれど、飼っている動物たちと家族同様に触れ合っていると、彼らの年齢のとりかたが早いために死や生の局面に何度も立ち会わなくならざるえなくなり、そうしたことで一緒に住んでいるものたちへの愛おしさが高まり、生活を(あるいは家そのものを)こよなく愛することにつながっていくのだと思う。愛するものの死は、(意識的に)忘却することはできない過去を僕らの心の中に刻み込み、現在の生活に一体化していくのだと思う。人はそうしたことを繰返して場所や時間の流れそのものを受容していくのだと思う。


2004年12月6日(月)

 少し神経が高ぶっていたかも。カームダウン、カームダウン、カムホームダウン。


2004年12月5日(日)

 熊本行ってきました。
 羽田空港がリニューアルしていて、ますますトランジットで近未来的な浮遊感にあふれていた。21世紀とは未来ではなくて現在の世界のことなのです。


2004年12月3日(金)

 十年前、吹雪の無意根山、全く何も見えないホワイトアウトの中をラッセルしていた。夜、寒いテントの中で寒冷じんましんに悩まされ漠然とした不安に苛まれる
 十年後、吉祥寺のホテルで、○○番です、などとビンゴの番号札を読み上げている。夜、同じ年代の職員たちと飲んで自信ありげに語る。
 十年前の僕を探しに明日は熊本に出かけることにする。


2004年12月2日(木)

 仕事がいいイメージで動いている。アサインとスケジューリングがうまくいって、全体が信頼関係をもちながら、うまく機能しているような感じがする。昼休みに、みんなで歯磨きしながらもぐもぐ話していて、なんか楽しいなって思ったよ。
 ランチタイムとお風呂で堀江敏幸「熊の敷石」の中の短編「砂売りが通る」と「城址にて」を読む。文章が洗練されていて、それでいて中に潜む感情は過去と現在を去来し痛々しいほど。ただただ感嘆する。川上弘美さんのあとがきも的を得ている。文章を書くということはこういうことなのだろうと思う。


2004年12月1日(水)

「武器をまきちらす弱肉強食のグローバリゼーションと、平和と共生の市民社会・地域主義」

 「世界経済入門」お風呂の中で読了。学者さんらしく、世界経済に関わるトピックをひとつひとつ整理していった最後に、自論を展開するが、これがおもしろかった。
 現在のグローバリゼーションは軍需産業と結託したアメリカの対テロという名目による軍拡と密接に関係してしまっていて、それは平和を導くものになっていないと分析する。それに対抗しうるのは、市民社会や地域主義であり、つまりNGOやNPO、あるいは市民団体などによる、企業的な利益にとらわれない視点であり、地域的取組みである、とする。グローバリゼーションに対応するために、日本の企業文化や終身雇用、年金制度といったものが次々に半ば致し方なく崩壊したわけだけど、ばらばらになったものを束ねるために政府・内閣はナショナリズムを高揚させてみようと靖国参拝やら改憲などを唱えている。しかしながら、力のベクトルを国⇒国民ありきと思い込まないで、国民(市民社会・地域)⇒国といった形にして、平和主義や環境指向を貫くことが、対テロ戦争などに巻き込まれない方策となるのではないだろうか、と筆者は提言する。世界的な平和や環境に相容れないアメリカの政策は間違いなく歴史的に大きなミスを犯すものになるのだろうから(百年後の世界史の教科書には何と書かれるのだろう?)、そこに追随してナショナリズム強化をはかるのではなく、この筆者の言う方向性(地域が連携して共生をはかっていく社会の実現)は正しいと思う。


2004年11月30日(火)

 スピッツの猫になりたい♪より猫になりたいくらい眠い。


2004年11月29日(月)

 西川潤「世界経済入門 第三版」(岩波新書)。教科書的に現在の世界を経済という視点から解き明かしていくわけだが、意外にというのも変だけど面白い。巨視的な視点が身につくような本だと思う。経済学なんかも深く勉強すると面白いのだろうなぁ。


2004年11月28日(日)

 散歩日和。原宿のDUCAFEでランチして、外苑のイチョウ並木歩いて、青山墓地で志賀直哉君を探せ!(結局わからず)。キルフェ向かいのdragonfly cafeでお茶して、吉祥寺のつるかめでさっぱりおでん。なんか幸せ度の高い一日だった。

幾何学なイチョウ並木。人がいっぱいな、ここは東京。

dragonfly cafeのハート型な抹茶ミルク。


2004年11月27日(土)

 リストのハンガリー幻想曲、高音のピアノの連打に驚かされたり。大きな曲想の中にそれを取り込む妙がよいと思う。まるで心に水を張って、水面に細かな波紋をいくつも広げたような感覚。
  *
 江國香織の「間宮兄弟」。友達から借りたのだけど、この本、今年ここまで読んできてNO1かもしれない。とても引き込まれたし、この小説世界の中に触れたくなった。冴えない兄弟ということだけど、ほんとうに冴えないのかどうかはわからない。何をもって冴えないとするのか。単に他のものに迎合していないで自分たちの世界観をもっているということの裏返しなのではないか。少なくとも小説を読んでいる中では非常に魅力的な人たちとして感じたな。多かれ少なかれ恋愛というものは相互理解をする上で難しいものだと思うし、完全に成就するということはありえないと言わないまでも、それに近いと思う。この小説世界のように人は出会い別れ、近くなり遠くなりして生きていくものだと思う。それでも動かないのが兄弟の絆ということなのかもしれない。
 ページの途中に挿入されている白黒写真がよく、本の作り手の感覚もよいと思った。それにしても良い本を読んだ。


2004年11月26日(金)

 ランチタイムもとらないで、ぶっつづけに仕事をこなしていたら燃料切れでふらふら。飛行機創始時代に大西洋でもプロペラ機まわして飛んでいて、そのままパリの灯りはおろか陸さえ見ることなく、海に墜落したような心境。
 大学経営について学びたいな、と思い始めていたけど、大学に入るには過去の研究成果と今後の研究方法を練っておく必要があるみたいで(あぁそうだよね大学だものね。)、とりあえずは先延ばしというか、当面は意識レベルを高くおいて仕事をやっていこうと思う。現状のレベルで満足するものに進歩はない。と僕は思う。
 今後の僕の目標のひとつは「余力」だ。なんか学内を見渡すと現在の仕事にかまけて、そうしたものを有していない人が多いような気がする。余力がなければ、プラスを生み出すことはできないし、自分の世界を広げることもできない。忙しいというのは何も偉いことじゃないって思うよ。


2004年11月25日(木)

 カニとホタテの会に呼ばれてすごくたくさん食べた。女性陣にももててハッピー。


2004年11月24日(水)

 ベランダに二日干したライオン毛皮のようなふかふかホットカーペットに座って、気分はもうインド商人。


2004年11月23日(火)

 劇団四季の「南十字星」。リナ役の樋口麻美さんの声がよく通って美しかった。歌もとても印象的なものが使われていた。踊りのほうは、インドネシアのものがよかったけれど、もっとよくできるような気もしたかな。保科勲役の阿久津陽一郎さんはいかにも好青年という感じではまり役だったかもしれない。ルアット(内田圭さん)やニルワン(藤川和彦さん)役もけっこうはまっていたように思う。
 ただ脚本というか、テーマが・・・。日本は戦争において全面的に悪かったのだという教育を受けてきたものにとっては、それが侵略ではなくて、インドネシアの解放の一助となったとか、戦争犯罪人のすべてが悪かったわけではないとか言われてしまうと、そしてそこに感動の焦点を当てられてしまうと戸惑ってしまうことだよ。こうやって僕らは自分たちの歴史をいいように補正していくのだろうか。それとも僕らが受けた教育が単に自省すぎたものだったのだろうか。
 夕闇に富士山はうっすらとシルエットを投影し、ぼんやり眺めているうちに、やがて周囲は光の渦となる東京タワー。お台場の観覧車が花模様に光の彩をなす。
 最後は原宿でギリシャ料理。乳白色が青いグラスに映えていたけど、ギリシャの地酒ウゾーは少しペルノソーダぽくって、いきなり好きにはなれなさそう。一方であんまり得意でなかったオリーブに開眼しそうな予感。いろんな国の料理屋をまわるのも悪くないかも。これも東京生活を楽しむ技術也。


2004年11月22日(月)

 学会に顔を出す。株式会社大学がその経営戦略(顧客主義、コスト効率重視)にのっかって、これからの競争を激しくしていきそうな予感が事例発表からも伝わってきて楽しかった。それにしてもビジネスライクな人たちは熱いなと思った。
 *

 黒沢明の「生きる」。胃がんで余命半年とわかった男が、ほんとうに生きるために最期を真の仕事に捧げていくというストーリー。感動作なのだろうが、ちょっとこの男の人、まじめすぎで要領が悪い。人を動かすには、もっとテクニックというものがたくさんあるし、そうじゃないとうまくいかないことってたくさんあると思う。たとえ、組織が硬直していたとしてもね。まぁ志村喬演じる主人公に残された時間は限られていたから仕方ないんだろうけど。しかし、結局、生きるということの証をたてるのが、仕事でしかないというところは寂しいよね。古い映画を観ると、その時代の社会の価値観のようなものが見えてきて面白い。
 それから逆説的に、死ぬ気になれば何事もなしえるというのは正しいのだろう。真剣に真摯にものごとにあたれば、できないことなどないのに違いない。 
 映画としては、最期の霊前での酒盛りのシーンがやや冗長的過ぎるような気もする。


2004年11月21日(日)

 福岡出張。仕事はうまくいったのだけど、ちょっと食べすぎて食傷気味。それにしても女性陣の第二の胃の容積たるや・・・。
 帰り、羽田までクラシック聴いていて、ラフマニノフのヴォーカリーズという曲に合わせて、前方スクリーンに、薄暗くなってきた中を飛行機が誘導灯に従って海面の向こうのぼんやりとした滑走路に向かっていくシーンが映し出されていて、それがまるで映画のエンディングのようで素晴らしかった。そんなことで感動して、泣きそうになってたわけ。


2004年11月19日(金)

 納豆となめこと長葱のスパゲッティという妙ちきりんなものを作って食べておなかいっぱい。明日は福岡だー。遊びじゃなくって、仕事だよ。汝(何時)寝坊するなかれ<自分に呪文>。


2004年11月18日(木)

 目覚ましをOFFにして、何時かわからないままに目が覚めて、フトンから見える果てしのない空。まるで僕だけがこの星に取り残されたような寂しさがふと胸に起きる。
 くるりは歌う。広い野原でもどることもなげくこともないと。
 さぁ出かけよう。

 
 木場の東京都現代美術館で「ピカソ展 躰とエロス」を観てきた。今回の展示は、内に秘める感情を外に押し出すという芸術の流れであるシュルレアリスムの影響を受けた1925〜1937年にかけての作品群で、いわゆるピカソらしさにあふれていたけれど、僕にはあまり受け容れることができなかった。というのは表現が欲望に対してあまりに直截すぎて、どうも僕自身の趣向が合わなかったからに違いない。無論、ピカソは好きだけど、やっぱり僕にとっての作品はこれみよがしに全てを明らかにするものではなくて、その背後にある感情を潜めているもののほうが好感がもてるし、またそれがわかったときに感銘を受けることができるってわけだ。
 帰りは雨、暗いみずたまりと化した木場公園を抜けただけで、傘を差していたのに濡れてしまって、地下鉄に乗る前に思わず喫茶店に立ち寄る。そうしてカウンターで頬杖をつきながら珈琲を飲んでいて、果たして今見たばかりの絵は僕の外にあったものなのか、それとも中にあったものなのか、そんな単純なことに自信がもてなくなっていた。ときどき、世界が自分の中にある小説世界のように作り上げた世界のように思えてしまうんだ。

 
 堀江敏幸「熊の敷石」再読。途中で出てきたサンドイッチの描写があまりに空腹の胃にヒットして、パン屋に寄って堅い皮のパンを買ってきて、バター塗って、ポテトサラダとピクルスはさんで、ビールのつまみに食べてしまった。そのくらいに(というのも変だけど)、この人の文章は僕の感情や深層意識にやたらと触れてくる。まるで、記憶という湖で泳いでいて、足をつつきにくる小魚みたいな感覚だ。なんの変哲もない事象が次々と関連もなく重ねられていくようで、最後にきれいにまとまっていく、この文体の不可思議さ。
























2004年11月17日(水)

 ホットミルク飲みながら、はくしょんなんてやっている。


2004年11月16日(火)

 ティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」。エンディング、思わず、涙、涙。愛する人のためにストーリーを編むことのなんて美しいことだろう。


2004年11月15日(月)

 メリーゴーランドくるくる回って、乾いた落ち葉が舞っていく。星の王子様みたいにマフラーなびかせて、夢見心地。そんな気分。


2004年11月14日(日)

 新宿の厚生年金会館で「オペラ座の怪人・ケンヒル版」。コメディタッチでつくられているのはいいけど、なんか中途半端かなぁ。どうせ喜劇的にやるならオースティンパワーズ・レベルまで冒険してもよかったんじゃないのかな。歌とカンテラの演出はよかったけれど、やっぱり脚本と脚色がね。僕がミュージカルに求めているものって、基本的に胸の底を揺さぶられるようなストーリーであり、歌であり、それを飾る舞台効果と衣装だから、うーんって。


2004年11月13日(土)

 記念式典のお仕事。入り口の前に立ってて、次々とやってくる来賓に対応してた。人生で一番、頭を下げた日かも。・・・それにしても笑顔がきれいなのって素晴らしいなぁ、遠くからぼんやりと眺めて、近くでいつもよりたくさん言葉を交わす。本当に欲しいのかわからなくって、ちょっと迷ってしまうね。


2004年11月12日(金)

 小津安二郎の「秋刀魚の味」。思った以上によかった。ここで描かれているのは、戦後の家族の関係性であり、娘の結婚相手を父親、兄が気を使って、相手の真意を問いただすといったような親密度の高い家族が描かれている。 家族の中の結びつきが強いために、娘が嫁に出た後の父親のショックは非常に大きい。今の日本では、こうした旧家族体系は少なくとも東京のような都市部ではほとんど残っていないように思う。そして家族の他に、会社の中での個人間のつながりが非常に強く、それも面白く観ることができた。会社と家族の存在の強さ、そして敗戦から立ち上がる姿(笠智衆は「負けてよかった」などと口にする)がこの時代の底に流れているものなのだろう。社会全体が敗戦を共有できている一体感も感じ取れた。
 もはや今の時代では、個人の自由が進み、家族も会社も個人個人にとってそれほど大きなものではなくなったし、もはや国全体で共有できる感情もない。別に昔が全てよいとも思わないけれども、今と映画の中の時代がすごく対照的で興味深かった。そうして不思議なことに、この一昔前の人々の感情がスクリーンを通して僕の胸にしっかりと伝わってきた。他の作品も観たくなったよ。 


2004年11月11日(木)

 R&B聴きながら夜の時間。女の人の柔らかな肌に触れるように夜にゆっくり身をとかしてみる。  


2004年11月10日(水)

 頭の中がくしゃくしゃの毛糸玉になったみたいに眠いのです。今日は下のフロアの子と話をしました。ずっと僕の話をきいてにこにこしていて、話の終りが見つけれなくなって、思わず「今度遊びましょう」って言ったら「はいっ」て・・・。(つづく?)


2004年11月9日(火)

 経営のシミュレーションの説明会。黙っているつもりだったのに、またしても質問していたり。経営学とかさくっと学んでみたいな。そうやって家帰って、読んでなかった朝刊広げたら、大学経営について学べる大学院が新たに開設されるなんてあった。興味津々。

 Nさんから貰った川上弘美の本を友達に貸したら、この主人公のニシノユキヒコさんと僕が似てるなんて言われてしまった。不思議な人と思われてるみたい、・・・まぁ実際そうなんだけど。


2004年11月8日(月)

 気がつけば、あれから3年が経っているのだなぁ。いつの間にか、いろいろなものが遠く離れてしまったようだ。

 
 ジャン・ジャック・ベネックスの「ベティ・ブルー インテグラル」久し振りに観直し。前観たのは学生時代で、最初と最後の場面しか覚えていなかったようだ。ゾルグ(ジャン・ユーグ・アングラード)がベティ(ベアトリス・ダル)の愛の力で、彼の生き方を見直していくところはよい。そうした愛の力こそが人生というものを大きく変えていくのだ、という強いメッセージが有されている。エンディングには思わず涙がこぼれてしまった。静かなテーマ曲が余韻を残すね。

 *
 王家衛の「花様年華」観直し。素晴らしい。この映画、ますます好きになってしまった。言葉すらもう必要もないオトナの恋愛。トニーレオンもマギーチャンも最高の演技。ただただ陶酔。過去は見ることはできても、触れることはできない。恋愛における冷たさというものは、実はその逆の温かさを知り尽くしているからこそおこりえるものなのかもしれないと、少し思った。2046を観て、最後のアンコールワットの場面がよくわかったような気がした。「一緒に行かないか」ただそれだけの言葉が言えたなら、彼は現在を苦しまずにも済んだだろうに。ただ涙。




2004年11月7日(日)

 名古屋出張。完璧にこなせたと思うよ。
 日曜日、覚王山というところに遊びに行った。覚王山アパートという若手アーティストの絵本等の作品を売っている同潤会アパートみたいなお店がおもしろかった。コースターとバッチを買ったのだけど、そこにはアーティストの小さな名刺(cyke1jaaja)まで添えられていて、URLからアーティスト情報がわかる仕組みになっている。どうも、僕は昔からこういうのが結構好きみたいだ。
 覚王山のお寺でおみくじをひいたら、大吉。「する事なすこと幸いの種となって 心配事なく嬉しい運ですからわき目をふらず一心に自分の仕事大事とはげみなさい 少しでも我儘の気を起して色や酒に溺れるな」だって。

 
 漱石の「それから」。終盤、自らの感情に正直になっていく代助の行動に涙。明らかに以前よりいろいろなところで、思うところがあるのだけど、それは一瞬僕の前に立ち現れて消えていく類のもの。今はそれをひとつひとつ深く追究していくほど、脳に力と根気強さがない。それが今の僕の生活を象徴しているようにも思える。 


2004年11月5日(金)

 後輩ができた。一生懸命ぶりがなんか好感もてる。お互い高め合えるような関係になれたらいいなぁ。


2004年11月4日(木)

 マシンガンみたいな速さで説明される今後の経営シミュレーション。すごいにゃーと思わず、傍観的仔猫になりそうなところに、とんでくる質問。

 

2004年11月3日(木)

 ほんとうに逢いたい人は別にいて、コスモスの咲く公園で逢う。

 逢えばこの心、素直に委ねられ、仮面をかぶるわけでもないし

 はじまりと終りが結びついていて余計愛しいこともあるかも

 好きなのか、って真剣に訊かれたら、正直言って答えられない 


2004年11月2日(火)

 王家衛の「天使の涙」観直し。
 その昔、デートで観にいったような気がする。相手の名前も顔ももう覚えていない。確か、小樽に住んでいた短大生だったように思う。
 僕はそのとき確かに面白いと思ったのだけど、今の僕はその感覚が実はわからなかったりする。この映画は人と人との関係性をとりあげた映画だ。殺し屋のレオン・ライはあくまで、人との関係を拒み、意味づけを嫌う。一方、口のきけない金城武は人との距離間がわからずに、時に暴力的なまでに自分の感覚を赤の他人に押し付ける。それを許容できるのは父親しかいない。
 その頃の僕は、人とわかりあうことを拒んでいたのではなかったか。そして人と理解することの難しさにつきあたって、その作業をすることに半ば諦めを感じてはいなかったか。そのためにこの映画の感覚が、自分を解放してくれたような気がしたに違いない。あぁ、人と別に理解し合う必要はないし、ずっと拒んでいてもよいのだというふうに。そしてエンディング、父をなくして、行き場を失った金城武がひとりトンネルを走るシーンとして僕の記憶に残っていたが、それは後付けでつくられた記憶だったようだ。僕が今日見直した映画の中では、金城武はそれまで全く擦れ違うしかなかった女と一緒にバイクに乗っているのだ。そして、それは擦れ違うしかなかった二人がわかりあえた瞬間と始まりを表していたのだ。
 今の僕は当たり前だけど、人を拒むことはもうない。人との関係を構築することを諦めていたりしない。だからこそ、もはやこの映画を必要としていない。現実は生きにくい場所でもなんでもなくなってしまったからだ。
 しかし、この映画に共感した僕と一緒に見ていた誰かにとっては恐らく空気をつかむような思いだけが最後に残ったのではあるまいか。もう一度、映画館に戻れるのなら、何と言えばよかったのか、考えてみる。


2004年11月1日(月)

 夕方、ひさしぶりに恋わずらいみたいな変な感覚が胸に湧いてきた。枯れ井戸からゆっくり水が滲み出てきたような気分。そして、ちょっぴりくるしくなる。


2004年10月31日(日)

 王家衛の「2046」。期待を裏切らない出来ですばらしかった。
 話は「花様年華」で妻も愛人(マギー・チャン)も失ったトニー・レオンがマレーシアから香港に場所を移して展開していく。60年代の香港を舞台に、もはや真の愛をなくして、ただプレイボーイと化したトニー・レオンの恋愛遍歴を追って物語は進行する。花様年華ではあれほど、まじめで一途だった男が、まるで人が変わったようにクールで表面的な恋愛を重ねていくだけの人間になってしまう。ほんとうの愛がマギー・チャンに寄せたあの一瞬を最後に失われてしまって、香港の彼はもはや一種のもぬけの殻なのである。
 彼は失った愛に立ち返るために未来小説を書く。つまりその小説世界が2046だ。しかしながら、2046では、愛しい人に会えるのに心を通じ合うことができない。彼は小説世界の中にはまりこんで、もはや現実の目の前にいる女性たちに心を許すこともできない。
 過去をとりもどしたい。その思いが強すぎて現実に帰れない。そうした苦しみが連綿と続く。
 その一方で、小説世界の主人公(木村拓哉)=トニーレオンの分身は、その2046の世界から出てきたのだと語る。彼はようやく過去から現実に戻ってこようとするわけだ。そして小説世界を追い抜くように、アンドロイド(フェイ・ウォン)は主人公(木村拓哉)と結ばれる。
 トニー・レオンはフェイの幸せを喜ぶ一方で、小説世界を不完全にしてしまい、もはやそれを修正することができなくなる。トニー・レオンは迷う。リアルワールドと同じように小説を改変してしまえば、自分のなくした恋愛を諦めることもできなくなってしまうからだ。諦めたはずなのに、そこに諦めた相手が追いかけてくるという設定では自分が救われないためだ。そして彼の筆はとまる。どうしていいのか彼にはわからないのだ。もはや小説世界を変えるには、現実世界を変えなければいけない。だけど、現実世界に愛しい人はいない。・・・・(ストーリーが複雑で、王家衛自身も感覚的なところで逃げているというか、説明していない部分が多いので、じゃっかん読み違えている可能性はあるだろう。)
 役者はチャン・ツィイーがすばらしい。多分これまでの演技でぴか一だったんじゃないかな。この映画の役どころとしてはそれほど大きくなかったはずなのに、かなりの部分が彼女に割かれていたのは、彼女の演技がすばらしすぎたからに違いない。削りようがないのだ。
 そしてフェイ・ウォン。パーフェクトといってさしつかえない演技。60年代の香港での恋人の別れのシーンは存在感がありすぎて、木村拓哉が浮きすぎてしまったくらいだ。屋上の伸びのシーンなんかも美しい。どのショットをとっても無駄なものがない。そして感情をうまく表現できないアンドロイドの切ない演技。さすが。
 そのほかは当たり障りないといった感じだったが、残念ながら日本代表の木村拓哉がもう一つかな。トレンディドラマののりで軽くって、60年代の香港の感覚にあいそぐわない。一方で2046にももうひとつあっていない。もう少し、重量感のある、ジャニーズな顔でない役者を使うべきだったと思う。といっても、その後で誰がよかったか考えてみたのだけどいまひとつ思い浮かばなかった。キャスティングも難しいものだね。本来ならば2046の世界がもっと描かれていたはずなのだろう。最後の最後の編集で、この映画はかなり苦労した後が見受けられた。
 音楽のセンス、画面のつくりがすばらしい。屋上のシーンは本当にしびれる。
 あと、トニー・レオンの語る言葉「恋愛はタイミングが大事だ。遅くても早くてもいけない」というのが妙に残ったなぁ。もう一度、観たいなぁ。
 *
 初デート。新宿御苑。2046。中華料理。ゆっくりとした始まりの恋愛の予感。秋らしいかもね。


2004年10月30日(土)

 雨の日はかたつむり。紅茶など飲んで雨音とつぐみの哀しそうなさえずりを聴いていると、自分の意識の中に、この世界が在るような不思議な感覚に襲われたり。ポール・オースター的だ。


2004年10月29日(金)

 ワイングラスを空にして、週末にゆっくり落下していく気分。


2004年10月28日(木)

 すべて順調。この前、文科省に出してダメだった計画を学内申請に切り替えて提出。今度はぜったい通る。そうして、もうその次の展開を考え始めている。僕は多分、物語をつくる力、ここでは企画力にあたるようだが、それにすごい長けているような気がする。それもできるだけ大きなものが。


2004年10月27日(水)

 指先は冷たくなって、かけあしの秋、身すくめる冬はもうすぐ。


2004年10月26日(火)

 面倒な仕事、さーっと片付けて
 早いご帰宅
 かなり快感。
 
 雨雲がためらっている一瞬に
 自転車こいで
 帰るのがよい。
 
 創作のカボチャのペンネ美味しくて
 ひとりハロウィン
 楽しむ夜かな。 


2004年10月25日(月)

 週末遊びすぎた反動か、眠気の波がときたまやってきて、仕事の集中力がいまひとつ。それでも数字眺めつづけて脳が凝固しそうになる。夜はいつものとおりの気分転換。習い事っていうより、こりゃ遊びだなって思うよ。来年の8月のキャッツを取った。あまりに先過ぎて、その頃自分がどういう状態にあるか、とんと想像がつかなかったり。でもキャッツは観に行くのだ。


2004年10月24日(日)

 オペラシティでヴォルフガング・ティルマンス展。対象への直視が生み出す赤裸々な感覚、それをオブラートに包んでその下に隠されている対象を予感させる一連の写真群。この写真家は対象に生じる感覚の発現を捉えることに長けている。鮮明な写真の手前に引っかき傷のように現れる筋や墨絵のような渦、服の皺もそうした意味合いがあるように感じた。筋や渦や皺は僕らが対象にもちえる感覚であり、そのフィルターを通してその奥に潜む対象を見ているわけなのだ。鮮明な写真が多かったが、その鮮明度があがればあがるほど、僕らはその奥にあるものを透視しなければいけないのだ。・・と、そんな感想をもった。
 同時展示の野又穣の白昼夢のような人気のない架空建築の絵画群と、小西真奈の写真のような絵画群もすばらしかった。特に野又氏の浮遊感のある展示は、まるで夢の中の世界に迷ったように、不可思議な気分を起こさせた。あれを映像や小説にしたいものだと思った。
 代々木上原のイスラム建築・東京ジャーミー。瀟洒なデザイナー住宅が点在する中に、宙を指すモスクの尖塔。内部のステンドグラスや光の具合が美しい。なんとも甘美な時間。
 吉祥寺、ふたたび。店を教えてもらって、さらに好き度合いがあがった。
 帰り道、一日のすべてがピンボケ写真のように儚く消えてしまうような感覚に襲われて、それをとどめなければと手をさしだす。ときどき、瞬間の集積、そのすべてが過去の中に忘れられていくのではないかと怖くなる、まるでカメラを手放せない写真家のように。


2004年10月23日(土)

 隣の豆腐屋にデビュー、昆布でだしをとって、いつもの八百屋で買ってきた青葱といっしょに湯豆腐にしたらすばらしく美味しかった。
 近くを散歩していて、目立たない路地にパン屋を発見。中に入ったら、マイルス・デイビスの「kind of blue」をかけて、パンを練っているおじさんがいた。かっこいい。明日の朝ごはんが楽しみ。
 演劇とマンドリン(これは学内の先輩がチケットをくれた)結局両方行かずに、昼寝と散歩で終わってしまったけど、こういう休日の過ごし方も悪くないなと思ったよ。

 王家衛の「2046」は僕の好きな「花様年華」の続編的作品という位置づけで60年代の香港が舞台で、主人公のトニー・レオンの書いていた小説が2046を舞台にしているらしい。かなり期待度が高いよ。いつ観にいこうかなぁ。


2004年10月22日(金)

 吉祥寺で夜デート。シャツもタイもちょっとクールにしてね。東急の裏って結構お店があって、新たな発見が多かった。悪くないかも、吉祥寺。


2004年10月21日(木)

 まるで笹薮に覆われた山道で白いガスに包まれたように眠いでござる。


2004年10月20日(水)

 寝坊。10分で身支度して家を飛び出て、オンタイムでぎりぎりセーフ。いったい何をやってるんだか。それをある人に話すと、私もそうだった、ってもしかしたら台風には深い眠りを誘発させる作用があるのだろうか?(反語)


2004年10月19日(火)

 雨、雨、雨。
 ぽつっ、ぽつっ、ぽつっ、と庇から落ちる滴の音。
 雨のごとき思考は滴に掻き乱されていく。
 ああ、乱れるのなら、乱れるままに、ただこの夜に、どこまでも浸されてしまいたい。

   *
 お昼時、あれほど読みかけの本があるのに一冊ももってきていないことに気付いて、本屋さんで漱石の「それから」を買って、鶏のみぞれがけ定食を待つ間、読んでいた。家に帰って、ぬるいお湯の中でまた少し読む。
 主人公、代助は30にもなって親のお金で生きている遊民だが、彼の友人・平岡は早くして就職したにも関らず部下の失敗によって職を失う。
 代助の父親はそれを聞いて言う。「若い人がよくしくじるというが、全く誠実と熱心が足りないからだ。・・・」
 代助の返答はこうだ。「誠実と熱心があるために、却って遣り損うこともあるでしょう。」

 この歳になって、なんとなく代助の言う意味がわかるようになった。つまり、何かを希求することがあまりに強すぎると融通もきかなくなって、うまくいかないことがありえる、ということを。
 僕のことを言えば、過去において、それは大学で研究してたときからそうだったけど、希求しているときは苦しく、それが上手く達成できないとなおさら辛かった。今の仕事は偶然と適当の所産物がゆえに、はじめから何かを希求しているわけではない。平野啓一郎の「最後の変身」という短編にもでてきたが、今これをやっている自分は仮の姿でしかないという意識が強い。仮という意識が強いからこそ、大胆になることができるし、あまり失敗も恐れない。人との関係もうまくいかないことがない。
 多分、そういうことだろう、とお湯の中で僕ははたと思った。漱石はすごいや。


2004年10月18日(月)

 八月さぼったおかげで耳が中国の博物館でみた餃子の化石みたいになっていたけど、どうにか少しずつ解凍されてきたみたいだ。
 *
 ウィンターボトムのインタビュー記事をいくつかネット上で読んだ。作品とその意図を並べて考えるというのもなんだか面白い。
 CODE46をどうしたらもっとシンプルにできるか考えていたのだけど、きっとティム・ロビンスじゃなくってもっと若手の俳優を使って、独身という設定にしたほうがよかったんじゃないかな。そうじゃないと共有していた記憶の喪失というものが生きてこない。オイディプス王が最初下敷きにあったらしいから(あぁだから避妊しないのか。)、であれば、殺すべき父親の存在を何かつくってしまったほうがよかったんじゃないかな。
 そうやってぼんやりと近未来における孤独とかコミュニケーションとか考えていると、勝手に妄想列車が走り出す。まぁそれを書くという行為に落せば小説になるわけだけど。


2004年10月17日(日)

 帝国劇場で「ミス・サイゴン」を観劇。最後、周りの女性は涙ぐみ、筧利夫さんが囃したおかげもあってスタンディングオーベーションではあったのだけど、いまひとつ僕の胸には届かなかった。赤を多用した舞台効果や集団での鋭い動きのある踊りはよかったのだけど、どうも主役たる肝心の知念里奈さんがしっくりこなくって、歌手だけあって高音が存分に出るのだけど、うまく感情移入ができなかった。あるいはそれは、僕がベトナム戦争世代でもなく、子どもをもつ親心もわからないためなのかもしれない。
 エレン役の高橋由美子さん、トゥイ役のtekkanさんがよかったかな。坂元健児さん(クリス役)と石井一孝さん(ジョン役)は彼らの実力程度、平均点という感じ。


2004年10月16日(土)

 渋谷で、マイケル・ウィンターボトムの「CODE46」。類似した遺伝子同士の結婚を禁止した法律(CODE46)のある近未来の世界を舞台にして、行きずりの恋愛を描いたのだが・・・。ウィンターボトムらしい、氾濫した光の見事な効果と豊かな世界観、サマンサ・モートンとティム・ロビンスの演技、さらにスタイリッシュな未来都市とくれば面白いはずなのに、肝心の脚本がいまひとつ。まずCODE46なる法律は、近親相姦等などから生じる病気を予防する意味から、まともな法律であって、別におかしいものではない。そして恋愛自体を禁止するものでないし、単に避妊してセックスすればそれで済むのであって、なぜわざわざ普通の恋愛において子どもをつくらなければいけないのかがよくわからない。どうせ描くのならば、内と外で別れている世界に焦点をおいて、その壁を越えるかどうかを恋愛の試練としたほうが面白かったのに違いない。もったいないなぁ。それでも、映像感覚がすばらしいので、観終わった後、渋谷にもいるにも関らず、世界の速度がすごい遅くなって、僕の目は瞬間瞬間をとらえることができるようになっていて、気持ちよかった。道玄坂の間に見えるほんのり赤く染まった雲の流れが美しかった。


2004年10月15日(金)

 給与体系が大きく変わるというので給与委員会にはじめて出た。資料のサラリーのダウンの幅といったらすごくって、途中から僕もかなり発言したわけ。帰宅して、よくよく数字を見ると、昇格を早くしていけば、ダウンというものはないから、問題ないといえばないのかな。逆に減らした分で留学の制度までできるみたいだから、いいといえばいいのかもしれない。何はともあれ弱肉強食の原理がこういう世界にも入ってくるわけだなぁ。

 王家衛の「2046」の公開が迫ってきましたね。トニーレオン、キムタク、コンリー、フェイウォン、チャンツィイー、カリーナラウ、チャンチェン、マギーチャン・・・。このキャストすごすぎ。撮影はクリストファードイル。面白くないわけがないような気がする。


2004年10月14日(木)

 明るいのに有無を言わさず直帰。17時にはスーパーの野菜売り場にいた。フキが食べたくなって、厚揚げと牛蒡でぐつぐつ。アスパラが食べたくなって、豚肉と茄子とシメジとピーマンで炒めて、最後は酢なんか入れてたり。飯田橋のおしゃれなカフェのランチの百倍美味しかった。最近、幸せ度が高い。キリンジの肩の力抜きすぎのとぼけた歌声聴いて、ビール飲んでるってわけ。


2004年10月13日(水)

 今夜は山中千尋さんの「Madrigal」。軽快な感じの曲もあって、峠道の緩やかなカーブの連続をドライブするのに合いそう。ところどころで音の調子を狂わせているせいで、胸にざわめきを覚えてしまうのが難だけど。
 学生にEメールでアンケートとってるのだけど、事務サポートが非常に支持されているようでちょっと嬉しくなった。一度、キヤノンのカスタマーサービスを利用したことがあるのだけど、そのときの対応の迅速さと丁寧さに驚いたことがある。目指すは民間会社のレベル。ただ、同時に事務効率化(多分、うちのオフィスは大学事務の効率としては相当レベルが高いと思う。)を徹底化することも重要で、そのあたりのバランスとりもけっこう面白い。ここに来て、収益性ということにも少しずつ頭をめぐらせることができるようになってきたように思う。先生と話していると、先生のやりたいことというのが僕から見ると非効率なものばかりで、上司が言うように人種が違うのだなぁと感心する。効率化とその対照にある非効率な教育がかみ合ったとき、たぶん教育はビジネスとしても成功し、成長できると思う。


2004年10月12日(火)

 山中千尋さんの「When October Goes」なんか聴いてる秋の夜。ちょっとセンチメンタルにでもなれるといいけど。
 平野啓一郎の「滴り落ちる時計たちの波紋」ようやく読み始め。すごく面白くなさそうな感じで文章が始まり(・・・なんたって、初七日、なんてタイトルが短編についているのだから)、徐々に面白そうな雰囲気をもちはじめていく。平野君の文章って、彼自身ががこれは面白いと頑固に信じているがために、面白さが浮かび上がってくるようなそんな気がする。感想はいずれ。


2004年10月11日(月)

 大阪にひとり旅行してきました。台風が来てるということで、飛行機が飛ばなかったら新幹線に変えようかと思ったのだけど、飛行機は余裕で台風を飛び越えて大阪へ。夜のニュース見ていたら、動かなかったのは新幹線のほうだったらしく、自分の強運さにも少し驚いた。
 大阪は大都市のはずなのだけど、東京より人が少ないせいなのか、それとも親密感があるのか、なんだかすごくくつろげて、それが自分にとって意外だった。僕はどうやら東京より大阪のほうが水に合うような気もする。将来、東京と大阪選ぶことになったら、大阪に行くかもしれない。

*10月9日
 大阪MBS劇場で劇団四季の「アイーダ」。GWにNYで観たのが忘れられなくて、今回の訪阪を決めたのだけど、NY版と比べたら、きっと落胆しちゃうんだろうなぁ、と思っていたら、そんなことはなく十分楽しめたし、感動した。最後、三日月くらいの涙が目の端にたまったくらい。アイーダ役の濱田めぐみさんがかなりよかった。それに比べると、アムネリス役(森川美穂さん)が若干NY版と比べて落ちたかな。濱田さんの歌唱力はいいのだが、やはり他の役者さんの歌唱力が若干落ちるために、互いの声が響きそれらが合い組み合わさって盛り上がるというところまでいかなかった。ラダメスの福井さんは将軍役なのだからもう少し筋力をUPさせたほうがいいような気もする、まぁ良い役者という気はしたけど。召使メレブ役の山添功さんは好感はもてるのだけど、やっぱりNYの人のほうが役者としてはずっと上だったと思う。歌唱力がもう少しあったほうがいいし、もう少し躍動感のようなものも必要だと思う。
 まぁそうはいうものの、僕はかなりアイーダにはまってしまったような気がする。ちょっとやばいかもしれない。東京でも公開してくれたら、リピーターになるところなんだけど。
 好きなのは、ストーリーの始めと終りが時代を超えて連関するところ。凝った舞台装置。力強い踊りによって人の感情が変わっていくところ(ヌビア人の踊りは圧巻)。そして悲恋というところかなぁ。
 最近「アイーダ」=ミュージカルとして自分の脳に焼き付けれられているけれど、よく考えたらオペラのほうが有名なのだから、オペラも機会があったら行ってみたいと思う。
 ホテルから劇場まで大阪城の堀を散歩しながら行けていい感じだった。劇場があった周辺は東京でいうと日比谷周辺に似ていた。夜のライトアップされた天守閣の下を物想いにふけりながら独り静かに歩いていた。

*10月10日
 フェスティバル・ホールでオスカー・ピーターソンのライブ。ホテルからライブ会場まで電車で3駅ほどだったので散歩しながら行く。途中、大きなパレードをやっていて、まるで安野光雅の「旅の絵本」の青帽子の旅人のように見物。
 opening actでは上原ひろみさんが圧倒的とも言えるピアノ演奏をみせてくれた。電子ピアノを見たこともないような連打で弾かれていて(ちょうど指先の見える席でラッキーだった)、ジャズのジャンルを完全に凌駕してしまっていた。カンフーをテーマにしていた曲なんかは、会場の人たちの度肝を完全に抜いてしまっていた。それにしても低音と高音、ピアノと電子ピアノを駆使して、ビートにのる姿はかっこよかった。それで満足して帰ってしまってもいいくらいの演奏だったんじゃないかな。
 オスカー・ピーターソンは言わずもがな。かなり腰が悪そうで、よろよろと現れて、本当にこんなんで弾けるのかと思ったのだけど、ピアノの前に座れば別人。「レクイエム」と「ホエン・サマー・カムズ」が個人的にはよかったかな。僕の底に沈んでた感情がすくい出されて、涙、ひとつぶ。

*10月11日 
 東京に戻ってきて、そのまま原美術館へ。奈良美智「From the Depth of My Drawer」展。最終日ということで入り口では既に東京人たちが列を成していた。人が居過ぎて集中して見れないかなとも思ったけれど、案外簡単に彼の世界の中に入ることができた。人が抱える純粋さやその裏にある残酷さのようなものが、すっと入ってきた。さらさらっと書いたようなドローイング(いたずら書き?)の数々も写真も面白かった。彼の写真は子どもの大きくて澄んだ目を捉えているものが多い。それを見ていると、見る−見られるの関係が逆転して、もしかしたら、その目で透視されているのは僕なのではないかと思って少し動揺した。今後も作品展を繰返して見ていけば、もっといろいろなことがわかるような気がした。とりあえず、最終日、すべりこめてよかったよ。

  
 読書のほうは、村上春樹「国境の南、太陽の西」。読書ノートによれば、4年ぶり、5回目だそうだ。主人公のハジメ君に対して、今回は反感と同調といった矛盾する気持ちを抱かなかった。僕が思うに、彼がとった行動は、若干タイミングを外してしまったり周りを顧みることができないといった問題はあるけれど、ある程度は正しいのではないかとも思った。自分がほんとうに必要とする人を探していくことが人生であり、そういう姿勢をなくしてしまえば、それは半分自分の人生を捨ててしまうような気もするからだ。だから吸引力に従うということもそれはとても自分を大切にした行動と言えるんじゃないのかな。だけど、この本で繰返されるように、そうやって得た人との関係は、それをなくすときに、互いに恐ろしいほどの苦痛をもたらす。だけど、それが真剣に生きるということならば、それは仕方ないことなのかもしれない。それが嫌なら、もっと適当に人との関係を形作っていけばいいのだ。
 ただ、最後にハジメ君が人のために生きていこうと決心するように、あるところで転換をはかっていかなければいけないものではある。しかし、それはほんとうに難しいのだろうなと思う。果たして、この後、ハジメ君の前に再び島本さんが現れたら、彼は再びその吸引力に抗えないのではないだろうか。

 *
 それにしても三日間で好きなものをインプットしすぎて、ちょっとオーバーフローしそう。こんな日程を週末にこなしてしまった自分が少し怖い。渇水期のダムのように、溜め込むだけ溜め込む時期なのだろうけど。いつかそれが放水されるとき、いったいどんなものが出てくるのだろうか。

お堀の脇のイチョウ並木、のんびりと劇場まで。

アイーダ。最高。

透明な建物。

原美術館の奈良美智展です。

 

2004年10月8日(金)

 上司と面談。高評価いただきましたです。11月から専任職員として新しい人(年下女性)が入ってくるらしいのだけど、面倒みてあげて欲しいけど仲良くなりすぎて結婚してやめさせたりしないでね・・・、なんて言われたよ。思わずのけぞったり。


2004年10月7日(木)

 この週末に、うちのオフィスにいる色白のすごく綺麗な子が挙式を沖縄であげることになっていて、ウェディングドレスは送るの?、とかキスはするの?とかふつうに聞いてたら、まわりの女性陣から思いっきり笑われてるし。けっこうマジメに会話してたつもりなんだけど。
  夏のボーナス、換金できないように、すべて外貨やら投資信託やらにしていたのだけど、そのうちの不動産信託がいつの間にか7%くらいあがってたよ。すごーい。でも株式のほうが下がっていたので、あんまりプラスになっていない。まぁ分散投資ということで。


2004年10月6日(水)

 上司から後期の目標をたてるように言われて、トップにあげたのが「多忙期も20時で帰れるように仕事を分配してスケジューリングする」というもの。最近、仕事をふりわけるコツ(=自分でやれることは人に任せる)がわかってきて、うまく達成できるんじゃないかと思ってる。これができたら、どんな忙しい部署でも早く帰れる人間になれる!(もちろん、目標の意図は時間的余裕をつくって、+αを生み出すというところにあるんだけどね。)


2004年10月5日(火)

 文章は客観的に書いてください、ときたものだ。
 だけど、友達を失ったあとの僕らのことをどうやって客観的に書いたらいいのかわからない。
 僕はやっぱりそのときの痛みを書きたいし、そうじゃなかったら、それって嘘だ。

 そんなことに悩みながら、文章を推敲する秋の夜。


2004年10月4日(月)

 またしても定時帰り、雨に濡れて帰ってきて、ほんとうは行くところがあったのに、もう気が進まなくって、かたつむり。カレーをぐつぐつ煮ながら、考えている。煮るっていう行為は考えるっていう行為にとても似ているんだ。
 あまりにも動物化した世界(どんな欲求も簡単に満たされてしまうという世界)だから、僕はときどき自分の底にある渇望を忘れてしまっている。毎日、家に着いて、ただ冷蔵庫を開けて、ビールのプルタブを抜いているっていう生活には渇きがあるわけがない。その涸れ井戸に至る道を僕はアルコールで麻痺させて、その井戸があることを忘れてしまうだけなんだもの。そうして違うもので身体を満たしているだけなんだもの。
 ときどき鏡を覗くように、自分の中を覗いてみて、そこに何か形をなしえない焦燥があるのを発見する。焦燥ではないかもしれない、満たされていない欲求(物理的欲求ではなくって、満たされた精神状態を望む精神的な欲求)というようなものかな。そういうものを取り出してみて、雨の夜、それを眺めてみる。苦しくならない程度にね。

 
 ウォッカを飲もうとして、グラスに注いだのがジンと知る。でもちょうどいい感じ。アルコールがぐっと染み入っていく感覚。
 チャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」。まるで日々の生活における自分との殴り合い。生きるということと書くことがここまで繫がっている作家も珍しいように思った。


2004年10月3日(日)

 雨の中、代々木公園の横を抜けてNHKホールでN響。ネルロ・サンティという恰幅のいいおじさんが指揮をしていた。たいしていい席を買ったつもりもないのに一番前だった。ただ音の聴こえが微妙によくなかったからそれが安いということなのかな。正確無比な演奏という感じだったのだけど、前半のロッシーニ(シンデレラ、セミラーミデ、ウィリアム・テル)はいまひとつ心に染み入ってこなかった。それでも休憩を挟んだ後のブラームスの交響曲4番の2楽章と3楽章あたりのバイオリンの爪弾きのところなんかがよかった。帰りはシャツやらトレンチコートやら買って散財。僕って女性が趣味にショッピングって書くような、ちょこちょこ楽しむような買い物ってできないみたいだ。

 
 江國香織「号泣する準備はできていた」。直木賞受賞作ではあるが、読みやすい本ではないような気がする。あくまでこれは頭で読むのではなく、感性を拠りどころにして読まなければいけない本だからだ。そうして、僕の生活は何かに感応することで成り立っているわけでなく、逆に何かに感応させないことで成り立っている部分も大きいせいか(たとえば、仕事とかね)、文章がなかなか僕の中に飛び込んでこなかった。だけど、僕が心を開けば文章はすっと心の中に馴染んでくる。少しすっぱいドロップを舐めてみるように、言葉をひとつひとつ味わってみる。それはゆっくりと口の中で融けて、そして僕の心の中にすとんと落ちて、やがて生きるために必要な涙の源になるのかもしれない。


2004年10月2日(土)

 渋谷Bunkamuraで野田秀樹・作演出の「赤鬼」(日本バージョン)を観てきた。4人の出演者が狭い舞台の上を軽快に走り回り、そこに巧みなセリフがばらまかれ、笑いの絶えないつくりとなっていた。最後はきちんと盛り上げて、胸にじぃんと残るものがあった。さすがとしか、いいようのない舞台だったし、賞賛に値すると思った。今回はロンドンバージョン、タイバージョンも行われたそうだから、そちらも観るんだったとちょっと後悔すらしてしまった。野田さんの演技はうまく肩の力を抜いていて、あまり観たことがない類のもので驚き面白かったし、小西真奈美さんも細い手足で見事に演じきっていた。小西さんはこれまで写真くらいでしか観たことがなくって、正直あまり魅力も感じなかったのだけど、ちょっと評価が変わったように思うよ。

 
 庄野潤三「プールサイド小景・静物」。短編集、最初のほうのものは妻に罪悪感を抱きながらも小さな浮気をする男の話(「舞踏」)や中流階級の男の人生の踏みはずし(「プールサイド小景」)、最後のほうは淡々とした調子で家族とのふれあいを描いた話(「静物」)なんかがある。どちらかというと、少しずつ丁寧に頁を進めて、そこで感じる心の中のためらいとか優しさのようなものを感じ取っていくような読み方が適しているように思う。中では「イタリア風」の示唆的な情景描写とそこに表れる微妙な心理の妙が悪くないと思った。


2004年10月1日(金)

 定時でさっさと帰ってきてしまいました。エレベータで先生と会ったら、「もう帰るんですか」ってすごく驚かれた。おかげで夕方がすばらしく長くて、冷蔵庫からブドウを出して食べていた。このブドウがすごく甘くて美味しいの。ブドウってこんなに美味しかったっけ、って舌が驚くほどに。


2004年9月30日(木)

 あっという間に9月も終わったなと思ったのだけど、日記を眺めると案外いろいろなことがあったのね、って思っちゃう。最近、毎日がふつうに楽しい。ずっとこんな感じでパレードみたいに天国まで続いていたらいいなぁ。


2004年9月29日(水)

 学生時代の部誌に、文章を書くことになった。当時、主将を務めていたのだけど、その前に大きな事故があって、大きな喪失の中から始まったということがあって、それを振り返るのは楽しいというよりかは、幾分深い穴の中を覗きこむような作業みたいなんだ。


2004年9月28日(火)

 いつもの八百屋で大きな梨を買って来た。リンゴはどうだい?って訊かれて、いやリンゴはそんなに好きじゃないです、って答えたら、「そういう人には食べてもらわなきゃ」って食べさせられたよ。ここの八百屋さんは野菜と果物に妙に愛情があるように思う。行くたびに、この野菜はこういうふうに食べるとうまいんだよ、と説明してくれるんだもの。


2004年9月27日(月)

 世の中には自分よりずっとアグレッシブな人がいて単純に驚く。その彼は営業をやってるということで、仕事では多分あなたよりずっと苦労してると思いますよ、なんて言われた。その裏返しとしてアグレッシブさを生み出す自信があるということなのかな。まぁ兎に角いろんな人と関っていこうっと。


2004年9月26日(日)

 渋谷bunkamuraで「グッゲンハイム美術館展」。GWのとき行ったのだけど、あの蝸牛型の若干傾斜のある建物で観るよりかは観やすいような気がした。ボナール「庭に面した広いダイニング」、カンディンスキー「雨の風景」、ミロ「絵画」なんかがよかった。
 是枝裕和の「誰も知らない」。親が家を開けたまま帰ってこない状況にある4人兄弟の子どもたちを淡々と追った作品だが、特に社会派作品といった感じでもない。未成熟であるのに弟たちの面倒を見なければいけない少年(柳楽優弥)の戸惑いと成長を描いた作品のように思う。主題はそれでもある程度、最初は社会問題を主点においていたのだと思うのだけど、それが少年への監督の入れ込みによって多少変わってしまったのかもしれないし、実際少年は成長してカンヌまでとったわけだ。


2004年9月25日(土)

 空腹の朝を迎えて、気分もそんな感じ。昨日は午前中からなぜかすごく緊張していて、その理由が実は自分でよくわかってなかった。結果を知って、落胆した瞬間に、その緊張感のようなものが違うものに変質して、それであぁ僕は発表自体に対して緊張していたのだと知った。
 何かの選に漏れる、ということは日常的に起こりえることだけど、やっぱりそれが実際に起きるととても辛い。大学の入試で一度、小説で何度か、そんな憂き目に合ったけど、そうしたケースが案外僕はこれまで少なかったのではないかとも思う。
 ある人に、まるでオーストラリアかどこかの涸れ井戸に一度落されて引き上げられたような気分、とメールしたのだけど、やはりそんなところがある。多分、そこで諦めて、自分のレベル想定値を下げてしまう方法と、あるいは想定値を変えずに這い上がろうとする方法があるだろう。前者は後ろ向きだけどクールで、後者は前向きだけど泥臭い。泥臭くなることは意図に反するからしないけれど、それでも次こそ鼻を明かしたいという気持ちがある。このままでは引き下がれないって。取られた陣は取り返す、僕は塹壕から躍り出て、マシンガンで猛然と突っ込むつもり。退却とかそういうことができない性格なんだ、きっと。give me a chance again!

 
  チャン・イーモウの「LOVERS」。あくまでエンタ作品。今ひとつ脚本が弱いのだが、竹林などの戦闘シーンは面白い。しかし、漫画でもお目にかかれないような、最後の場面の脚色過多で映画の息の根を止めてしまっている。
 
 新宿御苑デート。プラタナス並木は「第3の男」のような映画の1シーンでも撮れそうなほど雰囲気がある。ベンチ座って脳とか記憶の話とか随分した。


2004年9月24日(金)

「落胆デイ」

 文科省に出した例の申請、ダメだった。風船は思いっきりしぼんだよ。他にも一日、空振り多し。自分の思うようにことが運ばなくって、こんなはずじゃないって・・・。

→これが結果  
敗因〜選定結果の一覧を頭に描いていなかった時点で失敗だった。学校全体の取組み(無理だったけど授業を全部ネット配信しちゃうとか)にするか、専門科目一つに絞って国際展開も視野に入れて九大あたりと競るべきだったのかもしれない。一方で、文科省とのコネクションもない僕一人の構想だった時点でアウトだったような気もする。


2004年9月23日(木)

 同年代の職員仲間を誘ってサッカー観戦。FC東京VS浦和レッズ、味の素スタジアム。初めてのJ1観戦で、どうやってチケットを購入したらよいのか等々、疑問がつきなかったが、とりあえず試合開始の3時間前にスタジアム前で待ち合わせ。既に安い席が売り切れてなかったので、一番高いSS席(6000円)を購入。味の素スタジアムは観客席とグラウンドが近く、結構臨場感がある上に、一番いい席だから試合全体を眺めることができた。FC東京のホームゲームにも関らず、浦和の応援が試合開始前から鳴り響く。始め連勝中の浦和を応援するつもりが、なんだか浦和サポーターの集団の迫力に押されたのと、昔コンサドーレにいた若手のホープFC東京の今野選手を応援しているうちに、試合の終りにはFC東京のほうに声援をおくっていた。ゲームもFC東京の勝ちということで、試合後妙に静かになった浦和席を横目に、拍手などおくってたわけ。味の素スタジアムは思った以上に近かったから、また行こうかななんて思っているのだけど、FC東京の欠点は華やかなスター選手がいないことかな。

臨場感あふれるスタジアム。サッカーいいかも。


2004年9月22日(水)

 またしても上司が人員整理をしそう。上司は上司なりの評価の基準をもって人を見ていることにも驚くし、それを行動にできるところが凄い。多分、僕が今の仕事で好き勝手に泳がせてもらえているのも、この上司があってこそと思ってる。今後も失敗を恐れず、ますますチャレンジしたい。守りに入ったらおしまいだから、浦和レッズも顔負けの攻撃布陣でいきたいね。そろそろ予算申請の時期に入るので、なんか斬新で将来を先取りするようなアイディアを出したいな、というか出さなっきゃ。


2004年9月21日(火)

 水戸出張。舞踏会でもできそうなシャンデリア輝くホテルのホールで高校生とお話してた。しかし、関東の北側ってずっと同じ風景が続くような気がするのは気のせい?久し振りに通勤電車乗って、サラリーマンしたよ。


2004年9月20日(月)

 侯孝賢の「珈琲時光」。東京で生きるということを淡々と撮った作品。小津安二郎に捧げた作品というだけあって、(僕は小津安二郎の作品を残念ながら観たことがないからわからないけれど)昔ながらの茶の間の風景とかがやけに懐かしく覚えるのは、恐らくそのあたりからくるものなのだろう。全体的にあまりに淡々すぎてインパクトがあるわけではないのだけど、何度も映し出される東京の街と僕らがいつも乗っている電車の音と乗客のぼんやりした顔のせいで、観終わった後に、映画の中にあったものが自分の現在形の世界に流れ込んでしまっていた。そうして新宿の街をもう一度見つめ直したとき、自分の中で何か見え方が違くなっているのに気付いた。
 ヒロインである一青窈の妊娠という問題にさえ深く悩むところを見せず何にも乱されないマイペースな生き方、それを友人として受けとめようとしながら一方で日々の電車の音を録音するという不思議な行動をとる浅野忠信、そして娘に何か言おうとしながら結局何も言えない小林稔侍・・・。そうした人々の生き方がすんなり僕の中に入ってくる。問題のない人はいない、だけどそれは家族や友人の絆の中で、うまく世界の中に受け容れられていくのだという絶対肯定。完全な人などいるわけがないし、不完全だからこそ人としての味があり、そうして凹凸をうまく、すりあわせながら僕らが生きているという事実。
 そう、僕は新宿のきらびやかな街の中にすら、同調できそうな気がした。あの退屈な電車の中にも何かを見出せそうな気がした。
 そうした気分のよさというのは、珈琲の香りが立ち昇って、そこで友人たちと話をしている気楽さに似ている。僕らは都会では他人でしかないけれど、多分珈琲の香りの心地よさがわかりあえるように、どんな人とでも互いを受け容れていくのも可能なのではないか、とそんなふうに思えた。 


2004年9月19日(日)

「冬に備えるために。」

 朝は小沢くんのLIFE聴いて、夜はサニーデイサービスのLOVE ALBUMなんか聴いてた。秋はしんみりと、少しずつ夏の余韻なんか感じさせながら、深くなっていく。
 知床ではヒグマが川に出て鮭ならぬカラフトマスをとっている。そんな写真に、ちょっと驚いたりする。たとえ人間が季節を忘れていたって、動物たちはしっかりと秋を知り、冬に備えるのだろうね。こうやって、僕がキーボードを叩きながら何かを考えているときも、動物は明日に備えて深い眠りの中にいるのだろう。

 ここのところ映画を観てなくて、さっきチェックしてたら、観たいのがいっぱいあった。そういう今という瞬間があるってことはいいことだと思う。同時進行で世界はまわっていて、僕ひとりが先にいったり、後を遅れて歩いているわけじゃないってことだ。だからこそ、こうやって僕はインターネットをしているんだと思うよ。今、僕はここにいるよってね。

 明日は二十歳の子とデート。デートというものも久し振りかもしれない。さすがにちょっとは緊張するのかな。・・・ということで、迷いもいっぱいあるけれど僕は新しい一歩を踏み出すことにするよ。過去から一歩、この先、どこに歩いていくのかわからないけれど。生き方にしても、恋愛にしても。


2004年9月18日(土)

「詐欺師の気分」

 一日中家にいて、ネットで年末の旅行の航空券とホテルをぜんぶ予約して(年越し海外って初めて!)、気付いたらもう夜になっていた。明日、証明写真が必要なことに気付いて、短パンサンダルTシャツの上に一応襟付きシャツをそのへんから一枚羽織って、写真機探し。駅前のファミマにそれを発見して撮影。そうして、今そこで買ってきたアイスクリームを食べながら写真を見ているのだけど、この写真ときたら、いかにも今まで集中して仕事をしていましたって顔で好感度の高そうな小さな笑みを浮かべてるわけ。この写真が履歴書ついてたら担当官はちょっと採用してみよっか、って思っちゃいそうだものな。写真というのは嘘つきだと思ったよ。もしかしたら、こんな顔して上司や学生と話してたりするのかな。ただ、4枚撮りの3枚目がフラッシュに耐えられなくって目をつぶっていて、まるで変身していたつもりのタヌキが虚をつかれたって感じで面白い。


2004年9月17日(金)

 NYで同じ宿だった方のダイアリを読むにつけ、なんだかバイタリティにあふれていて、うらやましくなったり。
 僕は仕事はおかげさまでとっても充実しているけれど、プライベートでは人との交流が少なくなってしまっているように思う。もう少しアンテナを伸ばして、いろいろな世界を渉り歩いていかなっきゃいけないよなぁ。自分の世界と可能性をもっと大きくしたいなぁ。


2004年9月16日(木)

 そろそろここに配属になって一年がたとうとしている。こういうポジションでの仕事のやり方が段々わかってきた。遠目から仕事を振り分ける役に専念すれば、かなり楽。脳は使っても、手を使わないことが大事みたい。
 それから、ここ数日、生理的欲求でちょこっと腕立て伏せしているおかげで集中力がうまく使える。人間の身体って案外単純。


2004年9月15日(水)

 仕事に余裕ができてきて、かなり先のスケジュール調整までやっていた。
 家にも早く帰れて、何をやっているかといえば、年末年始に再びヨーロッパでもいこうかとフライト予約。こういうのも旅慣れっていうのかな。


2004年9月14日(火)

 午前中はタイムリミットに追われながら仕事をしていたおかげで夕方の時点ももう十二分って感じ。家帰って、空心菜と豚肉を炒めて食べたらすごく元気になった。空心菜って名前も絶妙の歯ごたえも好き。


2004年9月13日(月)

 自転車の車輪がまわるように一日が過ぎてゆく。だから、自転車乗りは自分が高校生のとき、何になりたかったか考えていた。


2004年9月12日(日)

 オープンキャンパスの進学相談ということで高校生と随分話をした。身体の底から泉が湧いてくるように溌剌としていて、話していて楽しかった。少し元気もらったような気がする。


2004年9月11日(土)

 村上春樹の新作「アフターダーク」
 →感想はこちら


2004年9月10日(金)

 メルヘンもファンタジーも枯れちゃって疲れてる夜。こんな夜にはきっと不思議な夢を見るのだと思うよ。夢って現実と仮想の水位を調節するためにあるんだもの。水門を抜けて、夢の世界へ、スローモーションの影絵のようになった僕は駆けてゆく。


2004年9月9日(木)

 スタートダッシュというか、うまくストライドが伸びていくような感覚で仕事はじめ。その分、脳を使っていたのか、帰ってからソファに座ってたら誰かに押さえつけられるような暴力的な眠気に襲われた。


2004年9月8日(水)

 たっぷり睡眠をとって、明日からの仕事はじめも万全。また、いろいろなチャレンジをしてきたいと思うよ。


2004年9月7日(火)

 さて、ポルトガルから帰ってきました。暑いのかと思ったら、大体20℃〜25℃程度で涼しかった。いつものように、気の向くまま町から町へと歩きまわったけれど、日程が短くていくつか見るべき町を見れなくって残念。帰りの飛行機で(これもいつものように)お腹が痛くなったものの、太陽の日差し浴びて、大西洋も眺めて、元気、元気。今は洗濯機まわして、烏龍茶飲んでくつろいでるってわけ。