2006年3月15日(水)

 ブログに移行してみることにしました。状況をみて、こちらに戻すかもしれません。


2006年3月14日(火)

 今日は午後からWEBセミナーを浜松町と渋谷で受けてきた。そこそこ、刺激があって、いつか使えるかもしれない知識を得たように思う。そして世の中で働くということを垣間見たような気がしたかな。(僕は自転車通勤10分のせいもあって、東京人の暮らしと少しかけ離れてしまっているのです。)


2006年3月13日(

 梅田望夫の「ウェブ進化論」(ちくま新書)が面白い。本屋では平積みされていてずいぶんと売れているようだが、読んでみて内容の新しいWEBへの好感度さから、その理由もわかるような気がする。
 筆者はシリコンバレーでWEB関連の最先端の動向の渦の中にいるために、ふつうの日本人よりもWEBのこれからというものに強くアンテナを伸ばしている。筆者は<<一つ前の世代の原理原則で動く仕事において失うものが大きくなるにつれ、新しい「力の芽」を面白がることができなくなり、それらを過小評価し最後には否定するようになる p.31>>ということに気づき、名実ともにシリコンバレーの人間となるわけだ。前半に登場するWEB企業の雄ともいうべきグーグルについての記述はグーグルという企業の卓抜さがわかって面白い。まず人材は知的パワーをもつ博士号を多く採用する。内部の情報はすべて共有化をはかっているために、数々のアイディアは淘汰され、またアイディアも出せばよいのではなく実行して始めて認められる世界となっている。また、業務時間内に、ルーチンワーク8割、独創的なワークを2割することに予め決められている。これを読んでグーグルという企業がうらやましくなったし(かと言って自分がこうした企業に入って常に成果をあげられるのかというと大きなクエスチョンだけど)、おそらく日本の興隆しはじめたWEB業界の人もそう思うのだろうなと思った。知的興奮を常に与えられる世界って素敵だと思う。


2006年3月12日(

 リチャード・ケリー「ドニー・ダーコ」。以前から気になっていた映画を、「ジャーヘッド」、「ブロークバック・マウンテン」のジェイク・ギレンホールつながりで観てみた。不可思議な映画で、カルト的な観方をされるのだろうけど、もうひとつかな。ドニーが事故に遭わずに、数日を生き延びた必然性がどうしても感じられない。必然性があった上で、それでも彼は事故に遭うことを選び直したのだったら、そこに意味も感じることができたのに。


2006年3月11日(

 朝起きると、節々が妙に重く、血流の中に鉛でも混じっているような感覚。外に出れば、いつの間にか春が広がっている。そよ風浴びながら成蹊大前まで散歩して、イタリアン・IL RAMERINOでランチ。店は狭いけど、イタリアにある庶民レストランという趣。三色ニョッキを食べて、おなかいっぱいになって、危うくそれで休日に満足して家に帰ろうかと思ったくらい。

 
 渋谷のシネマライズでアン・リーの「ブロークバック・マウンテン」。雄大なワイオミングの自然を舞台に羊を追う若きカウボーイ、イニスとジャックの強い絆を描いた作品。原作は「シッピング・ニュース」のE・アニー・プルー。
 とてもよい映画だった。そしてとても苦しい映画だった。自分を本当にわかってくれる人を見つけて激しく相手を求めているのに、自分の抱える生活や他人の視線を気にするがために、最後の一歩を踏み出すことができない。さらに迷いの中で、うまくいくはずだった社会生活もうまくいかず、結局は孤独になってしまう。生活と本当の気持ちとその間で揺れる心を描いた機微に富んだ作品だった。最後に自分を支えていてくれた友がいなくなって、自分の空洞を埋めてくれる存在がなくなったと実感したときの寂しさといったらなかった。低い声音と荒々しいぶっきらぼうさが魅力のイニス役ヒース・レジャーがすばらしかった。強い思いが内在しているのに抑制させる演技が見事だった。だからこそ、感情の迸りに素直に感動できるのだと思う。

ブロークバック・マウンテン


2006年3月10日(

 週末までほんとに長かった。夜は久しぶりに22時まで仕事したよ。前の部署のときはいつもだったし、SEのときはもっと遅かったから、まぁまだ楽ってことなんだよな。週末で心身リフレッシュしたいです。


2006年3月9日(

 パフォーマンスが落ちていつもの30%くらいで仕事してる。もしこれがずっと僕ならちょっと耐えられない感じ。午後は若干戻って60%。まるで降水確率みたい。
 ワインの瓶が次々と空いていく。フランス人みたいに鼻がぴよーんと伸びたら面白いのにね。
 目覚まし時計代わりに、毎日スピッツのスーベニアのアルバム流してるけど、最近寝床でまじめに歌詞を聴いてたら、なんか核心をついてて、そんなことに僕はちょっとぐらりんとするわけで。僕はずっと世界でひとりだけの僕でいたいみたいだ。


2006年3月8日(水)

 夕方、突然気分が悪くなって、さっさと帰ることを決意。コート手に持って、よろよろとオフィス出たとこで鞄忘れたのに気づいて、皆に笑われたよ。
 帰るなり、お布団に潜って、三時間眠った。身体の中で、「ロード・オブ・ザ・リング」みたいな、ウイルスとの攻防が続いているって感じがするよ。ハッシュドビーフ(正確に言えばハッシュドポークか)つくって、この頼れる援軍で決着をつけたいところ。
 そういえば、夏に減らされたボーナス1ヶ月分が、財政状況が改善したとかで支払われることになった。彼女にMacのノートPCをプレゼントする予定。


2006年3月7日(火)

 システム会社を訪ねて西新宿へ。この駅をおりると、乗った駅との落差に驚いてしまう。テキサスの田舎者がNYに始めて出てきたような気分になる。WEB配信部分の開発の進捗具合を見せてもらったけれど、自分の脳で生み出して、少しずつ具体的に描いていた機能がすっかりリアルな動きをもっていることにある種の感動があった。感嘆詞をずいぶん発してしまった。学生にも喜んでもらえるといいなぁ。
 ・・・の一方で配信サーバの準備が悪くって、他のアウトソーシング先にメールと電話で苦言。この会社には始めてプレッシャーをかけたような気がする。一方で、昨週からの連続労働のせいで、明らかに自分の中に微妙なストレスがあるはずで、それを変な風に転化しちゃっているんじゃないかとも思って、そういうこと反省しながら家路をたどったんだよ。


2006年3月6日(月)

 係長が子育てに専念するために退職されるわけだけど、仕事が風呂敷からどさーっと広げられたようになって落ちてきて、それを拾って確認するだけでちょっと大変であるよ。
 念願のソファ選びでも始めようかと思って、モンステラを配したプールアニックのページ眺めてたり。


2006年3月5日(日)

 のんびりと仕事。最後のほうはネットでストリーミング動画配信について調べてたんだけど、配信技術が一挙に広まりつつあるようだ。dog yearというかなんというか、時代の進展が早いや。
 夕食は吉祥寺で買ってきたマスタードでつくった手羽鶏の煮込みにありつけたわけだった。彼女は飯田橋で映画を二本観てきたそうだ。いいなぁ。


2006年3月4日(土)

 週末出勤せよとのお達しがあったから、金曜の夜、手抜きをしてシステム処理をかけっぱなしにして帰ったら、それがエラー。お金が絡んでいて、結局その対応で一日を棒にふってしまった。能率が悪いというかなんというか・・・。
 日本の論点編集部による「10年後の日本」(文春新書)を読んだ。ほとんどよく言われていることをなぞっているに過ぎないのだけど、自分の知識の欠陥がわかって面白かった。
 たとえば姉歯建築士で揺れた耐震偽装だけど、基本となる耐震基準は1981年に改定されたものらしい。国交省の推計では総戸数の26%にあたる1400万戸もの住宅が耐震性に問題を抱えているそうだ。へぇー。
 あと、離婚者間の年金分割の制度が2007年4月に実施されて離婚率が増えるという予測があることとか、石油が有機物じゃなくって地球深部にある炭化水素からできているという「無機起源説」が支持され始めていて、もしかしたら石油は無尽蔵にあるかもしれないということ。あるいは北朝鮮が韓国と融和することで、米国が兵を引き上げることでプレゼンスが低下して中国の東シナへの力が強くなる可能性があること、京都議定書に署名してない米国と中国で世界のCO2の排出量の40%を占めていること、また日本は90年度比で6%減を目標にしながら現時点で8%増になってしまっていること、などなど。
 案外、自分が強くて然るべき、環境問題や食糧問題のことが自分の中で抜け落ちていたように思うよ。 


2006年3月3日(金)

 ひな祭りということで手巻き寿司と潮汁とシャンパン。週末は両日とも仕事なので体調管理に気をつけようっと。


2006年3月1日(水)

「仕事三題」
 あっという間に三月。給与関係の委員の業務は任期があと一年あって、なんだかモチベーションが異常に下がってしまっている。この一年間やったことって、みんなのためになっても、自分にはマイナスだったし、何せ真面目にやっても全く評価されないんですもの。
 後輩と今後有望なカリキュラムとして、2007年問題を睨んで、教養系がいいんじゃないかって話した。生涯学習をやりたい人の中には、おそらく現代のトピック的な学問をカバーしながら、学習していきたい人ってたくさんいるんじゃないかって。たくさん授業を(もちろんネット上で)開講して好きなものを受講してもらうというスタイル。放送大学のインターネット版という感じでね。そんなこと、食堂に最後まで居座って話しているわけです。
 今のセクションは社会人向けにもかかわらず、なんと入学説明会というものをやっていない。選挙で言えば、街頭に一度も立たないで(お金と時間を浮かして)当選しようっていう不思議な狙いなのだけど、なぜか今のところ当たってる。それを今年はネットでオンデマンド型でやろうと後輩と話しています。ちなみに、選挙も次回あたりからネット選挙になるんじゃないのかな。街頭はうるさいからやめてもらってさ。そうしたら動画配信の会社は伸びるかもね。

 *
 昨夜は彼女に冷たく当たってしまって深く反省。二人の関係はとてもいいし、生活も順調なのだけど、明治後期の文学作品の主題にでもなりそうな試練がいろいろとあるのです。漱石でも読み返したほうがいいのかもしれない。

 *
 こうやって日記を書きながら、ミートソースを煮込んでいるのだけど、水分がなくなる度に冷蔵庫の脇の飲みかけ赤ワインをいろいろミックスして入れてたら、味わいが深くなってきた。おなかすいたなー。

 
 多和田葉子の「容疑者の夜行列車」。とても面白かった。旅に出るときに感じる自分が何にも属していない自由な存在である感覚、唐突に何かが起きて自分が変わってしまう怖れと喜びの感覚、共通の相互理解が得られぬままに事が運んでしまう感覚・・・、そうした旅での不安定な感覚を集めたのがこの小説だ。すべては二人称から成り立っているが、最終話でその理由が語れるように、旅に出るという感覚は共通のものであり、一人称の作者は、二人称の読み手(旅人)に、永遠の乗車券を贈って、その感覚を共有させようとする。考えてみれば、読書という行為も贈られた乗車券を使って旅をすることではなかったか。堀江敏幸を想起させるような、直感だけで知らない町をさまようような話があれば、タブッキのような啓示をかけるような哲学的な旅の話もある。作家の力が充実した小説だと思うよ。


2006年2月28日(火)

 繁忙期だから無理しないためにさっさと家帰ってサッカー(VSボスニア戦)観てた。中田も中村もダイレクトで決定的なパスを出せてさすがだなという感じ。面白いゲームjだった。対戦相手が対戦相手だけに、思わずクストリッツァの映画を思い出したり。


2006年2月26日(日)

 免許更新して相変わらずのペーパー&ゴールド。それから雨の吉祥寺に出て、彼女の軽登山靴を買って(今年は山に登るのです)、お茶して帰ってきた。
 
 イム・ピルソンの「南極日誌」。スケールが大きく、南極の真っ青な空の下でのホラー要素を含んだ映画なんだけど、映像は迫力があるのに、意味がよくわからないのでした。何がやりたかったのでしょう。
 
 アンソニー・ミンゲラの「コールド・マウンテン」。南北戦争時代のアメリカを舞台に、南軍に出兵して苦しみ抜いた末、故郷に戻ってこようとする男(ジュード・ロウ)とそれを待つ女(二コール・キッドマン)を軸にした文芸大河。お嬢様で何もできなかった二コール・キッドマンが颯爽とした力強い女性になっていく姿もよいし、決して諦めず進み続けるジュード・ロウもいい。アンソニー・ミンゲラって、「イングリッシュ・ペイシェント」もそうだけど、こうした大河物を描かせたら右に出る人がいないって感じがするよ。



2006年2月25日(土)

 夕方に図書館行って、うろうろ。夜はイカスミパスタをはじめて作ってみた。
 *
 夜はドラマ「氷壁」の最終回。ひとりひとりが自分の世界を大事にして生きていて、妥協を許さないために、とても孤独。それぞれが自己の弱さを克服しようとして、各々の氷壁を攀じ登っていく。脚本、音楽もよかったし、配役もあっていた。社長の先妻の息子役を演じた武田真治もこれまで見た演技で一番よかった。恋愛も、誰かの世界に惹かれるからこそその人を好きになれるのであり、それは決して表面的なものではないとしていたことが、そのへんのトレンディドラマとの大きな違いだった。また、自分の信念や気持ちを曲げないで生きていくことこそが意味のあることであり、だからこそ周りの人たちが共感しえるのだと思った。

氷壁


2006年2月24日(金)

 彼女がお休みだったということで家に帰ったら料理ができあがってた。烏賊やアサリといったシーフードをトマトスープで煮込んでいて、なんでもブラジル風なんだそうだ。


2006年2月23日(木)

 彼女からイッタラのワイングラスをもらった。VDだそうだ。それでさっそくオーストラリアのワインなど飲んでいたらあっけなく沈。ワイングラスの包み込むような形って、香りを楽しむための機能的なものだったんだね。


2006年2月22日(水)

 GWの旅行と9月の挙式を考え始め。はじめ、札幌で挙げようかと思ったけれど、結局ふたりだけで海外に行くことにした。


2006年2月21日(火)

 棋士・羽生善治の「決断力」を読んだ。将棋の話ではなるが、ほとんど脳を駆使して思考していくことについての話になっているように思えた。将棋は思考を極限まで張り詰めて行うゲームであり、その思考の緊張感、集中力たるや、おそらく普通に生きていては味わえないもののようにも思った。非常に敬服したし、言葉のひとつひとつもすべて経験から語られており、なるほどと思える。

<<全体を判断する目とは、大局観である。一つの場面で、今はどういう状況で、これから先どうしたらいいのか、そういう状況判断ができる力だ。本質を見抜く力といってもいい。
 その思考の基盤になるのが、勘、つまり直観力だ。直観力の元になるのは感性である。p.62>>

 


2006年2月20日(月)

 冷蔵庫の横にワインの瓶がたくさんあって、次から次へと開けてるわけだけど、今夜はスペインワインの飲みかけを使って、牛肉とカブを煮込んでみた。見るからに濃そうな味だったから、アルゼンチンワインをあけてみる。チリのワインにも似て、なんか素朴な土を感じ取ることができそうな奥深さの感じられるワインだ。そうして、食後にまたチーズをかじっている。冷蔵庫はチーズが常備されてきて、なんかヨーロッパの人になったみたいな気分。といっても、すべてまだチープな領域で楽しめてるわけだけど。二、三日に一本くらいは飲んでるから、多分身体のポリフェノール濃度は相当高いと思うよ。


2006年2月19日(日)

 自転車乗って公園まで行ってバトミントンして夕方には帰ってきた。のんびりした日曜日。
  *
 原田武夫「騙すアメリカ騙される日本」(ちくま新書)。構造改革とはつまりはアメリカが利益を啄ばみやすくするための、日本的な構造の解体なのだと、元外務省官僚である原田氏は声高に叫ぶ。日本は80年代貿易摩擦でアメリカと争っていたのに、不況やアジア通貨危機という強風に見舞われたせいもあって、IT革命、金融改革、会計ビックバン、さらには小泉首相の進める郵政改革・特殊法人の解体などがすべて、アメリカが効率的に利益を得られるように裏から手を回したものだと言う。原田氏にとってはモルガンスタンレーのフェルドマンや大前研一みたいなマッキンゼーの面々などはにっくきアメリカのしもべという位置づけなのだろう。原田氏はおそらく日本の官僚のポジションにいて、すべてに通じていて高みから国民を見下ろしている気でいるのではないか。そうして、日本の以前の構造をアメリカ型にすりかえてはいけない、というがちがちの官僚型の頭でいる(そしてそれにあまりご自身では気づかれていない)。現在の日本で打破すべきなのはそうした勘違いした官僚の頭であって、決してアメリカ型のものではないはずだ。既にアメリカはアメリカ型の金融・経済・IT・エネルギー戦略などを世界中に広げていて、僕らはもはやそれに抗うことはできなくなっている。グローバリゼーションとはアメリカナイゼーションだと言う言葉があるけれど、僕らはそれがどんな国のものであろうと、とりあえずは追随するしかできなくなっている。白熱しているオリンピックのクロカンみたいに、自分より先行する選手がいたらそこから離されないように集団についていくしかないんだよと僕は思う。
 最後に原田氏の力説する、構造改革の代わりに行わなければならないという結論が笑える。その解決方法とは、旧来からの日本の「談合体質」「封建的」等々の構造を守ることなんだそうだ。そんな旧来体質が、失われたという10年間にいったい何を生み出してくれたか、僕はすっかり忘れてしまったよっ。
  けなしてばかりでは失礼なので、原田氏の意見として面白いと思ったところもあげると、日本の市場の時間帯に日本より優れた市場がないことに着目してアジア各国の優良企業を集めて日本で資金を調達させようという提案。(でもこれは大前氏だったかフェルドマンも同じようなことを言ってたように思うけど。)  それと今後、株式や債券といった「カネ」から、資源・商品といった「モノ」に、価値がシフトしていくということ。そしてそれは郵貯簡保マネー350兆円が「カネ」として株式市場に流れ込んでくるときに顕著になるだろうということ。そこでアメリカは儲けるだけ儲けて、日本の株式から手を引いて、他の国の株式なり「モノ」なりに動くということを警告する。だから郵政改革をするなと言うのだけど、そうじゃなくって、そこでアメリカの背後にぴったりくっついて同じように動くか、先回りすればいいじゃないって思うんだけど、そうでもないのかなぁ。
 まぁとにかく、この本は官僚の頭脳の優秀さと保守性をわかりやすく知ることのできる本だと思う。


2006年2月18日(土)

 お昼に起きてそのまま近くにできた新しいイタリアンとフレンチのあいのこみたいなカフェでごはん。それから自転車乗って吉祥寺。
 サム・メンデス「ジャーヘッド」を観に映画館入ったら、思いがけず、がらがら。若い海軍兵(ジェイク・ギレンホール)が湾岸戦争で体験する現代の戦争をテーマにしている。
 これまでの戦争映画にあったような、悲壮感とかプライドとか肉弾戦のイメージがこの映画ではない。映画の中で戦闘機の速さでたとえられるように、戦争の速さが現代ではスピードアップし過ぎていて、兵士がそれについていけなくなっている。彼らが赴く戦場は既に戦闘機が勝負を決めてしまった戦場の焦げて焼きただれた跡であり、そこに兵士が最初考えていたような血みどろの戦いというものは存在しない。兵士は戦場の恐怖によるストレスではなく、戦場にいながら戦争に関与していないことに大きなストレスを覚えている。最後にはそれは極限まで達し、人を殺さなければ、自分の存在価値まで危うくなるような錯覚を覚えている。
 それからメディアの情報力。昔のように、家族や国を守るために自分は戦っているんだという自覚がない。フセインに武器を与えた政治やオイルマネーで儲けている資本家が、戦争の裏側にあって、自分たちがそれに踊らされている戦争ゲームの兵士でしかないこともうすうす知っている。だから、彼らはあくまで馬鹿を通そうとする。ジャーヘッドで能天気で何も考えていないように見せるのは、考えることができないからでなく、考えてはいけないからなのだ。だから、自らの頭を使って意味を考えようとする仲間の兵士ピーター・サースガードには滲むような苦味しか与えられない。
 ベトナムから帰ってきた「ディアハンター」のデニーロも、「7月4日に生まれて」のトム・クルーズも、それまで生きてきた中でもっていたものを失い、大きな痛みを抱えてその後を生きていくのではなかったか。この映画の主人公ジェイク・ギレンホールの場合はどうか。彼は戦後を淡々と生きている。大体、はじめから兵士になる必要はなかったし、単に大学進学との選択肢に迷って兵士になったに過ぎない。でも、彼の中にももちろん戦争は残る。どんな戦争も、戦争は戦争だからだ。
 それにしても、この映画はアメリカン・ビューティーでアメリカ社会を嘲笑ったサム・メンデスらしい皮肉に満ちている。戦争だって、もはや僕らの先を越えてしまって、そこで味わうべきドラマが消えてしまっていて、味わうのは虚無感と既成感ばかり。気楽なジャーヘッドであることも、もはや簡単ではなくなってしまったんだね。

ジャーヘッド

2006年2月17日(金)

 後輩はミスをいくつかやってしょげてた。さすがに長い一週間だったのかな。
 仕事のほうは春から念願の授業WEB配信のめどが立って、次はいよいよクレジットカード決済に向かおうかなってところ。履修期間をもっと延ばして欲しいというリクエストをよくもらうけど、一番ネックになってるのは学費の収納にすごく時間のかかること。学費振替データを収納代行会社に送って、実際に処理と報告まで半月はゆうにかかるからね。それがクレジットカード決済だったらその場で収納OK。全部をそれに移行させるのはまだ無理だけど、時間の余裕ができるのは間違いないものね。こちらとしては効率的に学費を集められる。・・といっても、まだ前例があまりないというか全然ない。大きなことをやるのには事前の根回しも含めて助走がある程度必要になるから一年がかりでじっくり進める予定。
 他にやりたいのはあらゆる書類のペーパーレス化(誓約書とか願出書とか、もうそんなの要るのっていう書類がまだまだいっぱいあるんだよね。デジタルにした瞬間、郵送代も手間もなくなって皆ハッピーだよ)、学習支援部分の自動化、卒業研究手続のシステム化(今はやたらと紙の提出が多い。紙をすべて撤廃したいな。清書論文もデジタル提出でいいじゃん。)、資料請求者のデータ管理の効率化とネット広報へのリンクといったところをサブでやるって感じかなぁ。
 ペーパーレス化で、僕だけの力じゃ無理なんだけど、卒業証明書や成績証明書のようなものをデジタル化して欲しいなって思ってる。文部科学省で全面デジタル化って決めてくれたら、企業もビジネスチャンスが生まれて、一挙に電子認証なんかも普及するのになって思う(今の電子認証の仕組みは複雑で課金し過ぎだと思う)。そうしたら、出願する際も完全ペーパーレス。WEB出願でデジタル化した証明書を添付して、大学側はシステムで自動的に読み取ればいい。選考も選考書類をデータで先生に送って、評価ももちろんデジタル。自動的に合否が決まって、自動的にWEB上で合格発表して合格通知(これもデジタルでもいい)出して・・・。
 ってそういうことばかりやろうとしているせいか、「無駄嫌いな人」というレッテルを上司からも貼られているみたい。僕としては名誉なことかな。


2006年2月16日(木)

 午前中に億単位のお金の動く大きな処理が二つ。後輩にやってもらったらさすがに余裕がなくなってた。僕はずっとサポート役。少しずつ周囲を見ていく力が備わってきたようにも思う。


2006年2月13日(月)

 シューティングゲームみたいに目の前の敵を次々に打ち落とすのはいいけど、ボスキャラが見えなくなりそうになる。


2006年2月12日(日)

 小日向充の「私立大学のクライシス・マネジメント」を読んだ。私立大学の経営の組織面について重点的に書かれた本。前半は既知的な話の繰り返しで、企業と私立大学の組織性の違いを説く。後半の大学ならではのコンフリクト(衝突、葛藤)についてが目新しく、卓見に感じた。
<<コンフリクトが存在することは、組織の活性と健全性を示すものであり、動態としての組織はコンフリクトを解決する過程のなかで成長し、発展するものと考えられる。>>
として、まずコンフリクトそのものについては肯定的である。そうしてコンフリクト処理についても話が転じていく。彼が職員の資質として求めるもののひとつに、基礎的能力(「専門能力」等)や「大局観」「パートナーシップ」に加えて、<<第一近似を求め、漸進的で辛抱強く、目標に迫り、その過程で各部門の協力を得る「粘り強さ>>が必要とするとしているところが笑えたし、実感がもてたかな。
 また、今後、高等教育システムが大量の18才人口に支えられていた「マス型」から社会人など多様な人たちを迎え入れる「ユニバーサルアクセス型」への変化に伴って組織も変わっていくことを、先行するアメリカを引き合いにして説いている。その際には、旧来の規則や規程に縛られず、それを創造的に破壊していける人が必要なのだというところで、我が意を得たりって感じだったかな。

  *
 外の風があまりにピューピューと寒そうにうなっていたから、外に出ずに、一日中家でぬくぬくしてしまったよ。


2006年2月11日(土)

 休日出勤。成績締めの処理をさっさと済まして、春のような柔らかな日差しの中を帰ってきたのでした。

  *
 吉田修一の新刊「ひなた」を読んだ。茗荷谷の坂道の途中にあって、石段を二十段ものぼって辿りつく家。そこで生活して、交差していく、兄弟とその妻と彼女が、それぞれ一人称のバトンをまわして四つの季節をめぐっていく小説。JJに掲載されていたとのことで、出だしは何やら甘いものを感じさせる。春は四人とも「なんでこう嫌味なくらいに、○○は・・・なのだろう」といった切り出しから始めてみせる。吉田修一が得意とする「言葉」と「人物」の意識的なマッピング(座標落とし)をそこに感じる。物語は四つの「人物」の位置とその動きによって微妙に動いていく。それでいながら、この物語は「パレード」や「ランドマーク」といった小説のように、何かを破壊するような巨大な力に結びついていくわけでもない。これまでの小説は「人物」の関係がまるで極限まで引っ張られた糸のように張り詰めてプチンと切れるようなところが多かったのに対し、ここでは切れそうなところで緩和する。張り詰めたものが、坂道の上の家にあたる「ひなた」のように和らいでいく。心地よく、どうにか彼らを包み込んで、外への爆発的なエネルギーをうまく収めていく。
 この小説は爆発が起こりそうな日常生活を、爆発を起こらせないで、和らげてしまったところが秀逸なのではないのかな。爆発はショッキングであるが、自己を破壊するにせよ、他のものを破壊するにせよ、いったんそうなってしまってからでは原型を取り戻すことなどできないから。
 僕にとっては、何か当たり前のように流れている自分の日常生活を見直すきっかけにもなるような気がしている。結局、すべてはそれぞれのストーリーをもつ個人との相互作用によって生きているわけだし、そこをしっかり見ていかないと、自分のストーリー自体も見失ってしまうんじゃないかっていうふうに。


2006年2月10日(金)

 ポップで軽快な一日だった。いい雰囲気の中で仕事ができている。


2006年2月9日(木)

 仕事の合間を縫って後輩とつくった資料携えて会議へ。うまく説明できたし100点満点の結果。
 夜、31回目のBDを牡蠣のチャウダーと茄子のグラタンと赤ワインで祝ってもらった。


2006年2月8日(水)

 親からプレゼントが届いた。21時にも関わらず配達してくださった方にも思わず笑顔。


2006年2月7日(火)

 めまぐるしい一日だった。


2006年2月6日(月)

 ネットで購入するようになって、よくワインを飲むようになった。ローヌ川の赤ワインが飲みやすくって、食後にブルーチーズをつまみにして飲んでたら、そのまま居間で沈していた。


2006年2月5日(日)

 渋谷まで出かけて「ホテル・ルワンダ」を観ようと思いきや、二時間前でも立ち見ということで、急遽変更して、移転したばかりのユーロスペースで柳町光男の「カミュなんて知らない」を観てきた。映画オタクが撮ったという感じの、映画への愛着を感じさせる一品に仕上がっているが、一方で学生映画の延長線の範囲を超え切れなかったようにも思った、良くも悪くもね。大学の映画研究部を扱っているが、登場人物がそのやりとりの中でショットの長さなどにこだわっているのだけど、映画自体はそれを見事に会得したものに仕上がっている。初めからショットのつなぎ目が違和感なく、ダンスシーンの挿入などテンポがよく、飽きさせないし、最後まで息切れすることもない。その一方で映画製作の面で面白いことをふんだんに取り込みすぎて、主題がぼやけたかな。恐らく、殺人者が殺人を行うときの心理描写を浮き彫りにしようとしていたのだと思うけど、それがカミュの異邦人のようにある程度正常な意識で行った不条理な行為なのか、はたまた精神錯乱のような状態だったのかといったところかってことなのだろうけど、結局のところ、映画製作中の殺人というフィクションが現実の中に侵食することで、それはどっちともいいようがないというのが言いたいことなのかな。あるいはフィクションと現実の差は紙一重ということなのか。
 とはいえ、大学のサークルの集団的なパワーや何の利益関係も生み出さない中での仲間意識の楽しさを描き出していて、楽しめた。20才そこらの、そうした情熱というのは人生の中で一時的にしか味わうことのできないものだけど、人はそういう過程を経て大人になるのだなと観ていて妙に甘酸っぱい気持ちがしたよ。

 *
 夜は吉祥寺の北欧料理店「アルトゴット」で誕生日を祝ってもらった。北欧料理というのは長い冬を越えるための保存食の意味が強く、そこに北欧らしいサーモンなどの魚介、トナカイや小鹿といった肉、ベリーなどの果実を絡めたものということで、北欧の長き冬など想像しながら食べると楽しめるような気がした。静かで雰囲気がよく、盛り付けもお味もよかったのでまた行きたいね。最後はケーキにロウソクまで立ててもらった。ありがとう。

カミュなんて知らない


2006年2月4日(土)

 新宿で青山真治の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」を観てきた。ふつうの人の耳では雑音というか不協和音としか思えないような音楽を延々と聞かせるあたり、まったく観客に媚びないというか、観客の耳を不快にさせてまで、その耳の穴に青山真治は確かに何かを伝えようとしていた。
 正体不明のレミング病なる自殺欲求を起こすような病気で数百万人が命を落とすという近未来の日本の設定。その中で病に罹った娘をもつ資本家が、病を緩和する力をもつという音楽家に治療を頼むというストーリー。
 僕が思うには、ノイズのような音楽はカオス的であり恐らく人間社会や人間そのものの象徴なのではないかなということ。それに対して病に罹る人間は”きれい”に純粋でありすぎて、そのカオスに背を向けて生きているように思った。そこでこのカオス的音楽を聴くことにより、体現することにより、世界のカオスと融和を果たして、生きる力を得るということなのではないのかなと思った。純粋に生きている人間にとってはカオスを受け入れることで自分を社会の中に溶け込ませることができるのだけど、ほんとうにカオスしかもっていない人間にとってはカオス的音楽は自分の汚さを見せつけるような忌みのあるものでしかない。だから、戸田昌宏演じる資本家のしもべは、最後に死を選ばずにはいられない。また、中原昌也演じるレミング病に冒された音楽家は音楽は病気を治すものではなくて、病気を増殖させるものだと言うわけだ。ピュアでありすぎることに対してカオスは有効だけど、カオスに対してカオスは過剰であるということなのだろう。
 資本家の娘(宮崎あおい)が、自殺した中原の墓前で「忘れない、私とあなたは音楽のように幻であったから、忘れない」といったような台詞を言うのだけど、ここの意味が難しい。レミング病者=純粋でカオスに踏み込めない人間、としたとき、宮崎はそれを越えてカオスで生きようと決心したということなのかな。
 カオスは人の闇であり社会の闇だろう。カオスがないことは一見健全に見えるけれど、決してそれなしでは生きていけない。だから僕らはカオスを自分の中に飼って生きていかなくてはいけないし、生きていくしかない。たとえば、オウム真理教を信仰する若い信者たちが、一般の人間よりも純粋であったことを、「約束された場所で」や「アンダーグラウンド」の中で村上春樹が言っていたように思う。カオスがないのは、致死に至らせるほどに危険なのだ。僕らはカオスを受け入れて生きていくしかないというメッセージをそこに見たような気がした。
 宮崎あおいや中原昌也は、純粋な人間をうまく演じていてよかった。しかし、この長時間の不協和音では、映画の興行は芳しくなさそうな気がする。個人的にはユリイカのほうが好きだな。

 *
 土曜日のNHKドラマ「氷壁」が熱い。井上靖の小説(昔読んだ)を現代版にアレンジしたドラマ。山男の純粋さと計算ずくめの社会との対比が描かれていて、元山男としては胸が打たれる。テーマソングをDLして繰り返し聴いてみたり。(って書いてるけど、実はドラマの時間の半分は株式会社高校についてのNHKの番組を見てたり。最初からドラマのほうを見ればよかった!) 玉木宏がクライマーを好演、鶴田真由の揺れる社長夫人もいいです。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ


2006年2月3日(金)

 仕事も政治力まで考えなくちゃならなくなって、力学のテキストでも読むべきなんだろうけど、物理で不可を取ったことのある僕にはあまりそういう気もおきなくって。


2006年2月1日(水)

 自分の存在がよく知られているところではなくて、まったく自分が知られていないところでこそ、自分の真価はわかるのかもしれないなんて思ったり。そう、シルクロードの旅でもそんなことを考えていたのだった。


2006年1月31日(火)

 すべてインターネットを標榜するソフトバンクのサイバー大学が本格的にはじまったらどうなるのかとか、CMでよくやっているyoucanが株式会社大学をつくったら負けちゃうんじゃないかとか、そんなこと近頃ランチ時に後輩と話してる。他のところの参入を許すばかりでなく、打って出るとしたら何ができるかって話してて、ペット関連とか冠婚葬祭がいけるんじゃないかなんて。


2006年1月30日(月)

 久しぶりの習い事。予想どおり、ダメオ君だったけど、開き直ってやってたよ。生活はすべて順調だけど、自分の伸び率がこんなものでよいのか、ちょっと不安。仕事においても、物の考え方においても、もっともっとレベルの高い世界があるような気がしてならない。


2006年1月29日(日)

 光回線がやってきたのだけど、ADSLのときの無線LANを使っているので、PC2台に対応できていないのと、多分早さが実感できてない。いろいろとネットで調べて、ブロードバンドルーターというのを注文した。
 二晩続けてワインの栓を抜く。ネットでまとめ買いして、週1以上のペースで飲んでるおかげで、ワインの国くらいは当てずっぽうできるようになってきたかな。地方まで当てられるくらいの舌になったらすごいけど。


2006年1月28日(土)

 初台の新国立劇場でオペラ「魔笛」を鑑賞。初めての作品だったけど、二人の権力者の善悪がひっくり返るところ、女性やムーア人への差別的とも見える軽視、権力への従順と庶民的な気楽な生き方への肯定といったところで興味のひく作品だった。僕にはどうもこれを観て愛への賛歌などとは到底言えないような気がした。モーツァルトの奔放的な精神(パパゲーナ)とそれを押さえ込む絶対的権威(夜の女王、ザラストロ)との葛藤を垣間見たような気がした。崇高的な世界を目指しているように見えて、庶民的な欲望に寛容でもあって、結局これが彼のもっていたものだったかもしれないとも思ったり。舞台は階層的に使っているのと、宇宙をイメージさせたようなところがよかった。歌唱は席が悪かったせいと、芸術に触れる精神が足りないせいもあるけど、自分にパンチを与えたようなものではなかったかな。


2006年1月27日(金)

 一週間が終わって、ほっと一息。メリーゴーランドのように華々しくだけど同じところをまわっているようにも思える。


2006年1月26日(木)

 次から次へとやってくる球を打ち返しているうちに一日が過ぎた感じ。
 どうでもいいことだけど、最近、彼女に似てきたような気がする。しゃべり方とか動作とか・・・。正月に実家に帰ったとき、両親が開口一番、「似てきたわねー」なんて言ったくらい。このままずっと生活していると僕は僕じゃなくなるかもしれない・・・(漠然とした不安)。


2006年1月25日(水)

 渋谷のセルリアンタワーに入っているGMOというネット関連の会社に赴いて、検索エンジンの研修を受けてきた。どうやったらgoogleなどで上位に検索されるかというのを学んだよ。今年はアクセス解析やネット広告なんかもやりたいと思ってる。他にはクレカ決済導入とかコミュニケーション部分の充実とか公開科目増とか学習管理とか・・・(やりたいこと多すぎかな)。
 ちなみに、このページはあまり検索されないようにしてひっそりやっていくつもり。


2006年1月24日(火)

 他の部署の後輩から仕事の相談を受けた。僕もそんな存在になったんだね。


2006年1月23日(月)

 HPを開設して6年が経過しました。その6年の間にずいぶんと自分の興味もいろいろな方向にベクトルが向いてきたように思う。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば飽きっぽいってことなのかもしれない。
 今、自分の興味のベクトルが向いているものの一つが投資かもしれない。日本全体の経済活動の流れがわかって面白い。少しずつ勉強していきたいなって思ってる。今は藤巻健史という有名トレーダーの「藤巻流「私の個人資産」運用法」というのを珈琲屋さんのブログで興味をもって読んでる。この先、インフレ、円安ドル高といったところを予想されているが果たしていかに。


2006年1月22日(日)

 新宿でジョー・ライトの「プライドと偏見」。ジェーン・オースティンの原作は読んでないのだけど、恐らく細かな心理描写がここに付け加えられるような恋愛劇なのだろうと思う。ここでうまくいく恋愛の形とは似たもの同士が好いていく過程であって、それを阻むものはプライドであり、偏見であるということなのだろう。ヒロインのキーラ・ナイトレイがとても魅力ある女性に描かれている。
 この時代の女性というのは結婚というのが人生の中で、現代以上に大きな比重を占めていたようだ。相手が富をもてるかそうでないかによって、その先の生き方が大きく変わってしまう。結婚において相手を選ぶときに自分に合うかどうかということに加えて財産というものを重視せざるをえないし、だからこそ迷わざるを得なかったのだろう。(結局、この映画でヒロインが男性を見直すのも性格といううものを見直してのことだけど、それができるのも財産の力によるところが大きい。) 今の日本じゃ、格差がつき始めたといっても、この映画で出てくるような家柄というのはほとんどない。それでも、もはや戦後当たり前にあった中流階級というものが絶対ではなくなっているから、この映画にいろいろと考えさせられる人も多いのではないかと思う。

 

 

 
ティータイム。カップはスウェーデンで買ったもの。 イッタラのキャンドル入れ、夜に灯りを点すと温かみがあります。 今月購入したオリーブはベランダに君臨。

2006年1月21日(土)

 雪道を自転車とばしてオフィスまで。本日は受験の判定会議の資料づくり。後輩にほとんどやってもらったのでかなり楽だった。
 フェルドマンの本を読んで、株式投資というのは未来を予測していく知的な作業なのだということがよくわかった。イートレード証券に口座を開いたので来週からいよいよ取引をやってみようかと思ってる。


2006年1月20日(金)

 彼女が「チャングム」(NHKの宮廷料理人の韓国ドラマ)好きなのでいつもつきあって見ている。今夜はチャングムをイメージして韓国風の炒め物(ってただキムチとニンニクの芽を炒めただけ)にしたのだけど、彼女は仕事が延びて帰って来ず、ひとりでその料理を食べながらチャングムを見ていたのであった。


2006年1月18日(水)

 寒風が身に応えたからおでんにした。こういう夜は日本酒かなと思ったら、大晦日に飲み干していて、代わりに芋焼酎など飲んでいたり。


2006年1月17日(火)

 復活。スーツ着て自転車飛び乗って、駅に向う人たちの波に逆走してオフィスに向かう。病み上がりなので、意識的にスロー&シングルタスクを心がけた。おかげで指示を出す立場なのにそれを係長に委ねてしまっていたけれど、身体は一日もったから良しとしよう。


2006年1月16日(月)

 目覚めるとすごい量の汗でパジャマがびっしょり。仕方なくすべて着替えて再び眠るとまたびっしょり。身体の新陳代謝機能のレバーを誤ってもぎ取ってしまったかのような操作不能状態。朝日が入っても水分がなくなったからなのか、喉が渇き痛んでいて、敢え無くお休みにする。繁忙期につき、休みの電話を入れてもしばらく鳴った後、となりの島の女性が出て「(同じ部署の人は)全員電話中です」という普通ではありえない状況・・・。ということで罪悪感にかられながらもインフルエンザ・ウイルスが寄生した身体ゆえに、自堕落な一日を過ごしてしまったのでした。戦えない身の辛さ。明日はリングに戻るつもり。


2006年1月14日(土)

 金曜の夜から体調が悪くなって(熱は39.1℃)、病院に行ってきました。25歳くらいの女医さんに長い綿棒を鼻の奥に入れられて(少し涙目)、出てきた結果は「インフルエンザA型」。もらってきた薬を飲んだら熱も下がって体調もかなりよくなってきたけれど、数日は人と接しないでくださいとのこと。


2006年1月12日(木)

 後輩がインフルエンザでダウン。ということで気をつけなくては。心なしか喉にえへん虫がいるような気がする。


2006年1月11日(水)

 WEB出願がはじまって昨年を超える出だし。世の中に心理学に興味をもっている人がこんなにいることが不思議でもある。


2006年1月10日(火)

 学生の不正行為が発覚して調査結果をひたすらまとめてたら久しぶりに23時。それでもSEのとき(終電コンビニおにぎり生活)と比べると労働環境が雲泥の差なんだよね。


2006年1月9日(月)

 新宿までスーツを買いに行って、鰈の煮付けをつくって、TOEICの勉強しておしまいという感じ。来週末までは高校生みたいな生活をおくるつもり。


2006年1月8日(日)

 寒風の中、自転車をこいで、ベランダに置くためのオリーブを買いにいってきた。30cmくらいのイタリア産のオリーブの鉢植えを3000円にて購入。それからクリーニング屋に春からあずけっぱなしだったホットカーペットを取ってきた。というわけでぬくぬくと本読みに高じている冬の夜なのでした。
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 ロバート・アラン・フェルドマンの「構造改革の先を読む」を読み始め。IMFを経てモルガンスタンレーの主席エコノミストということだけど、この方は相当の慧眼。人よりもひとつもふたつも上にいて、周囲や将来を見渡すことができる人だ。現在20%いる65歳以上人口が2030年には30%になり、それと並行して労働力人口も減ってしまう。そうした中で生活水準(消費)を落とさないためには、結局生産性を上げる以外に方法はない。それにはどうしたらいいのか・・というところが起点となって話は進む。読んでいて知的好奇心を大いに喚起されるのって素晴らしいと思う。
 以前読んだ松谷明彦「「人口減少経済」の新しい公式」a bでは労働人口が減って生産性が落ちるのは致し方ないことで、そのために価値観自体を転換させるとともに(富を追いかけるだけが人生じゃない)、できる限り生産効率をあげて、希望の持てる未来図を描こうといった趣旨だったような気がする。また、ベストセラーになった三浦展「下流社会」ではそうした状況化で生活水準が二分化して、下流は夢だけ追い求めて単純労働に特化するのではないかと予測し、山田昌弘「希望格差社会」は夢(希望)すらもてない社会になることに警鐘を鳴らしていた。しかし生活水準が今のままで持続できるならば話は別なのかもしれない(ただし、生活水準の維持も、全体の平均の話であって、一部の個人投資熱など見るにつけても、やっぱり格差は広がるということなのかもしれないけれど)




2006年1月7日(土)

 正月の間、川原淳次「大学経営戦略」という本を読んでいた。大学を牛耳っているといってもさしつかえない上司の机の上に積んであった本だった。付箋がびっしりとついていた。内容は財務戦略の特に資金運用に関するもの。著者は証券会社の研究所勤めということで、事細かにひとつひとつの運用方法について記しているから、読み応えもあった。僕にとって今すぐ使えるものではないけれど、蓄積しておいたほうがよいものだった。資金運用以外にも、はじめの箇所にあったブランド戦略やバランス・スコアカードによる経営戦略の実行といった部分はなかなかおもしろかった。少子化により胡坐をかいているだけでは大学が傾く時代になった。逆を言えば、新しいことへのチャレンジが求められる時代だから、やりがいを感じる。


2006年1月6日(金)

 仕事はじめ。脳をしばらくOFFにしていたせいか、午後に入ると回転が鈍くなる。夜は若手職員の新年会。かなり突っ込んだ意見交換。今年はどんなふうになるのかな。


2006年1月5日(木)

 東京のおうちで、弟を迎え大晦日を過ごして、元旦に一緒に札幌まで帰った。札幌は大雪で毎日、ひたすら雪がふりつづいた。まるで三好達治の詩みたいに。それをいいことにひたすら家の中で読書したりテレビ観たり将棋したりして過ごした。弟と将棋は非常に奥の深い遊びだということで意見が一致した。力が拮抗していて、毎回1時間半以上に及ぶ熱戦になった。そして5日がたって、将棋盤を畳んで、弟は長野へ、僕は東京へ向う飛行機に乗り込んだのだった。

実家の庭です。

家の近くからの遠景

バス停への路

八剣山。低山ですが孤峰の岩山の趣。